アンセム・フォー・
ラムズ

ep.18 - Epilogue

「先に()らなければ、こちらが()られる。だから先に、こちらが殺る。なに、それだけのことじゃないですか。……それともあなたは他国の民の命のほうが、自国の民の命よりも尊いと仰りたいのですかね?」
 北米合衆国、首都オタワ某所。その国の大統領を務めている男の家には、邪悪な道へ、かの国を誘導しようと画策する、白髪の死神アルバが訊ねていた。
 アルストグラン時代は使っていた厳ついサングラスや、黒いスーツは捨てて。黒縁の丸眼鏡と、白に近いグレーのスーツに、黒いインバネスコートというスタイルに変更したアルバは、そのような装いに身を包んで、どこまでも人の好さそうな微笑みを浮かべている――人ではない異形の瞳を、頑なに閉ざした瞼で隠しながら、左手には使うつもりのない古風なショットガンを携えて。
 じわじわと、アルバの浮かべる穏やかで、それでいて不穏な笑みに、巨大な帝国を支配する男は追い詰められていく。アルバは立っているが、男はソファーに座っていた。男には立ち上がる隙も与えられず、その場から動くことも許されていなかった。
「そ、そんな、つもりは……ただ、私は、北米合衆国が制定されてから初めての、核のボタンを押した大統領にはなりたくないだけだ。それに今のこの状況で、核を使うのはあまりにも時期尚早では……」
「つまり、あなたは腰抜けということか。腰抜けに息を吸う価値はないだろう。ならば今ここで……」
「ミスター・アルバ! どうしてあなたは、そこまでして私に核を使わせたいのですか?!」
 目の前に居る死神への、恐怖。核爆弾、その破壊力への恐怖。それから核を使用したことにより、国民からも他国からも非難されて失脚するだろうという、恐怖。あらゆる恐怖が今、ひとりの男の肩に圧し掛かっていたが。しかし死神アルバにとって、そんなのはどうでもいい。
「何故だと思うかね?」
 怯える男から、投げかけられた問い。しかしアルバは答えを避けると、表情を変える。穏やか微笑みを捨てて、彼は目を閉じたまま、全てを見下すような冷たい微笑を浮かべるのだ。
 それからアルバは、怯える男との間にある距離を詰めて行く。だが逃げ場のない男は、息を呑むことしかできない。そうしてアルバの冷たく血色の悪い右手が、極度に緊張して動けなくなった男の首を掴んだ。
「――下らんことは考えず、貴様はただ保身だけを考えていれば良い。この私から身を護るための、保身をな。貴様がやらぬと言うならば、私は貴様を殺すだけだ」
「そのような、脅しには……ァッ!」
 男の首を掴んだ手の、握る力をアルバは少しずつ強めていた。それでも怯えた顔で、抵抗するようなことを言う男は、まだ折れる気配がない。
 そうなれば、アルバは最後の手段に出るだけ。
「どんな頑固者でさえも、一発で屈服させる方法を私は知っている。……貴様は、それを知っているか?」
 冷たい笑みを浮かべる口角を更に引き上げると、アルバは男の耳元で、それはそれは小さな声で囁く。男の首を掴む右手には継続して力を籠め続ける一方、左手に握るショットガンの銃口を、男の右大腿へと押し当てた。
 ショットガンに弾は入っていない。それでもアルバは撃鉄を起こす。ショットガンに弾が入っていないことなど知らない男は、撃鉄が立ち上がった音に肩を震わせていた。
「その答えは、ひとつ。プライベートな領域を踏み荒らすことだ。例えば、家族や愛人を傷付けること。だがもっと簡単で、確実な方法がある。それは最もプライベートな領域を犯すこと、つまりズボンを引き剥がして辱めることだ。これは効果てきめんだぞ? 屈強な軍人でさえも一発で下してみせる上に、生涯治らぬ後遺症まで残してくれるのだからなぁ。だが……生憎、私はそこまでの下衆になり下がる気はない。もっとスマートに行こうじゃないか。まぁ、貴様が希望するなら、このショットガンを貴様のケツにぶち込んでやってもいいが――」
 北米流の、軽い冗談。しかしそのジョークを笑う余裕など、死神を前にした男には無い。薄ら笑いを浮かべる死神から目を逸らすことで、男は精一杯になっていたのだ。
 と、そのとき。アルバは左手に持っていたショットガンを床に投げ捨てる。その代わりに、男の首を握る右手の握力を限界にまで強めた。そしてアルバは言う。
「見ろ、私の目を」
 男の首を掴んだ手をアルバは上へとスライドさせ、顎を上げさせた。そうして上を向いた男の顔の前に、自分の顔をアルバは持ってくる。そして彼は、瞼を開けた。その途端、男の顔は恐怖に歪み、年齢も顧みずに悲鳴を上げるのだ。
「――死後にこの穴へと放り込まれたくなければ、私の指示通りに動け。でなければ、貴様の家族もろともこの中へと放り込む」
 男がアルバの瞳の中に、何を見たのか。それは見せられた彼自身にしか、分からないことだろう。だが恐怖のあまりに失禁した姿から察するに、たった一瞬の間で相当にひどいものを見たようだ。
 そしてアルバは瞼を閉ざして、男の首から手を離す。それからアルバは再び、人のよさそうな笑みを浮かべるのだ。
「やってくれるよなぁ、当然。そうだろう?」
 憔悴しきった蒼い顔の男は、アルバのその問いかけに無言で頷く。
「それでいい。私は、運の尽きた仔羊たちの為に、適当な賛歌でも仕上げて待っている。だから、早くやることを済ませてこい。勿論、着替えてな」
 がくがくと震える男の足。その脛を、アルバは尖った革靴の先で軽く蹴る。すると怯える男は慌てて立ち上がり、替えの下着とスーツを求めてウォークインクローゼットへと走っていった。
 生まれたての小鹿のような走り方をする男の背を、満足げに微笑みながら見つめるアルバの足許で。海鳥の姿をした彼が、ゆらゆらと揺れる。すると影がアルバに囁くのだ。
「……私があなたの体を一年ほど借りて、交渉にあたった間よりも。あなた自身が人間たちを直接脅した一ヶ月のほうが、効果が挙がっています。悔しいですが、脅しの技術に関しては私の負けを認めましょう」
 海鳥の影は真剣な声色で、実に悔しそうに負けを認める。だがアルバは、ギルの敗北宣言などろくに聞いていなかった。
 彼は、とても楽しみにしていたし、同時にひどく困惑していたのだ。これから起こる惨劇と、もう完全に取り返しがつかなくなった自分自身の壊れっぷりに対して。そして彼は言う。
「北東の巨大帝国、東洋の超大国。アジアの魔窟や、中南米の独裁国家。混乱の東欧に、血みどろの西欧と、砂漠に蝕まれるアフリカ。さて、どこが先に竜神カリスの怒りを買うのか。一旦、アルストグランに戻って高みの見物と洒落込もうじゃないか。……となれば、エスタを迎えに戻らんとな」
 ――そして数時間後。どこかが悲劇を我先にと欲し、その気配を察知した竜神カリスが、どこかで怒りの咆哮を上げた。竜神の怒りは大気を震わせて、雷雲を興し、豪雨を齎し、海を荒らして河川を氾濫させた。
 誰かの悲鳴が、どこかで上がっただろう。誰かの最期の祈りが、どこかで途絶えただろう。
 だが、空の上にあるアルストグラン連邦共和国には何も届かない。
「ただの雨だろ。まあ、たしかにひどい豪雨だが。異常気象なんてしょっちゅうだ。だが、そのうち雨は止む。なのに、なんで泣いてんだよ、お前は。まさか、雨が怖いのか?」
 アルストグラン連邦共和国の至る所では、強く振りしきり、打ち付ける横殴りの雨に、誰もが立ち往生していた。エドガルド・ベッツィーニ特別捜査官も、そのひとり。そろそろ帰宅したい時間なのだが、駐車場に行くこともままならず、そして車も出せるような道路状況じゃない現在。彼は雨が止むことを願いながら、連邦捜査局シドニー支局の五階の窓越しに立っていた。そんな彼の横には、打ち付ける雨の音に追い詰められたような顔をして、延々と涙を流し続けるラドウィグの姿がある。
 肩を竦めて、俯くラドウィグには、いつものような調子はない。ラドウィグの様子はどこまでもおかしくて、異様だった。
「おい、ラドウィグ。どうしたんだよ、マジで。腹が減りすぎて、情緒不安定にでもなったか? といっても、今の俺のデスクにゃマシュマロのストックぐらいしかないんだがー……」
 そう言うとエドガルド・ベッツィーニ特別捜査官は動き、自分のデスクの棚を漁る。ある棚をひとつ引っ張って開けると、エドガルド・ベッツィーニ特別捜査官はそこから個包装のマシュマロを幾つかつかみ取った。そして彼はラドウィグの手に、うち一つのマシュマロを握らせるのだが……ラドウィグは動かない。
「おいラドウィグ。お前、生きてるのか? おーい、おい!」
 俯いて、無言で涙を零し続けるラドウィグの肩を、エドガルド・ベッツィーニ特別捜査官が軽く小突いた時。ラドウィグはがっくりと肩を落として、床に座り込む。それから床に座り込んだラドウィグは、困ったように額に手を当てて、そうして久しぶりに声を絞り出した。
「……オレのせいだ。カリスが怒ってる」
「誰だよ、カリスって。なあ、ラドウィグ。本当にお前、急にどうしちまったんだ?」
 エドガルド・ベッツィーニ特別捜査官が茶化すような調子で、ラドウィグにそう声を掛けたとき。ラドウィグは顔を上げて、エドガルド・ベッツィーニ特別捜査官を見ると、彼のことを睨みつけたのだ。その時に初めて、まじまじとラドウィグの顔を覗き込んだエドガルド・ベッツィーニ特別捜査官は、ふと異変に気付く。ラドウィグの目が、奇妙に思えたのだ。
「あっ……ラドウィグ。お前の目って、どうなってるんだ。まるでネコの目みたいに、見えてる気がするんだが……」
 ネコのように、盾に細長い瞳孔をもった目。その時に初めて気づいたラドウィグの身体的特徴に、エドガルド・ベッツィーニ特別捜査官は凍り付いていた。
 これは夢だ、俺は夢でも見てるんだ。エドガルド・ベッツィーニ特別捜査官は、自分にそう言い聞かせる。そして夢であるようなことを裏付けるような――しかし、現実に今起こっている――奇妙な現象が続いた。
「ニャァーァッ! 大変ニャ! コヨーテ野郎がついに、火を点けたニャァッ!!」
「地上の半分が、すっかり海の底に沈んじまってるんだ! 今すぐカリスの怒りを鎮めないと、全部が沈んじまうぞ!」
 猫の鳴き声が、後ろから聞こえてきたかと思えば。それに続いて、鼻にかかった少女のような声が聞こえ、更に聞き覚えのない若い男の声が聞こえてくる。だがエドガルド・ベッツィーニ特別捜査官が振り返ってみると、そこに居たのは人間の女の子でも、若い男でもない。
「えっ、あっ……えぇっ?!」
 それこそ白鳥のような、白く大きな鳥の翼を背中に生やした不思議な白猫が、パタパタと翼をはためかせながら宙に浮かんでいて。その下では、九本の尻尾を持った白い仔狐が歩いている。どれも幻想から飛び出してきた存在のように思えて、エドガルド・ベッツィーニ特別捜査官は確信した。これは夢だ、と。
 そんなこんなでエドガルド・ベッツィーニ特別捜査官がボーっとしていると、九尾の仔狐がトコトコとオフィスの床を駆けて行く。翼の生えた白猫は、我が物顔でオフィスを滑空する。そうして彼らヘンテコな動物たちが、床に座り込んで顔を俯かせるラドウィグの傍に駆け寄るのだ。
 調子の変なラドウィグに、人語を扱う変な動物。これは夢に違いない。エドガルド・ベッツィーニ特別捜査官は自分にそう言い聞かせて、夢ならば醒めろと自分の頬を自分で軽く叩いてみせる。……が、頬を叩いたところでただ痛いだけだ。ますます彼は混乱し、目の前にある光景が何なのかを考え込んでしまう。
 すると俯いているラドウィグが、ヘンテコな動物たちに向かって弱音を漏らした。
「……分かってたんだ、こうなることは。だから、彼を殺さなきゃいけなかったのに。それなのにオレには、できなかった。彼がどこに居るのかさえ、オレには分からなかったんだ。全部、オレのせいだ……」
 そんな情けないラドウィグの姿を見るなり、九尾の仔狐は牙を剥き出し、背中の毛を逆立てる。それから仔狐は、怒りに任せて吠えるのだ。「クヨクヨしてんじゃねぇぞ、ルドウィル! お前らしくないじゃないか、どうしたんだよ! あの時だってお前は、最後まで終わりに抗おうと立ち向かってただろ?! なのに、どうして動こうとしないんだ!」
「リシュも、知ってるだろ? 結局あの世界は終わって、だから今オレはここに居るんだ」
「あぁァッ! ゴチャゴチャうっせー!! お前は、お前の仕事をしろって言ってんだ! アリアンフロドからの命令を忘れたのかよ?! コヨーテ野郎を殺して、カリスが怒り狂う展開を防げって。でないとオレたちは任務失敗で、アリアンフロドに消され――」
「オレは彼に勝てない。煙みたいに消える亡霊が相手じゃ、どんなに先回りしても勝てないんだよ……」
 九尾の仔狐の名前は、リシュというらしい。……その程度の情報しか、エドガルド・ベッツィーニ特別捜査官の頭の中には入って来ない。けれども話は進んでいく。ラドウィグがまた、弱音を吐いたのだ。
「それにカリスの声が、聞こえるじゃないか。もう手の付けられないぐらい、怒ってる。今更オレに何を、どうしろっていうんだ……!」
 ラドウィグの膝の上に降り立つ白猫は、俯く彼を慰めるように、小さな体をラドウィグの胸にこすりつける。それから白猫は俯いたラドウィグの横顔をペロペロと舐めるが、一方で九尾の仔狐リシュは気が立ったまま。動こうとしないラドウィグに、唸り声を向けていた。
「あー……すまない。そこの皆さん。俺には状況が分からないんだが。ただの豪雨に、何をそんなに焦っているんだよ?」
 エドガルド・ベッツィーニ特別捜査官が、戸惑いから零した素朴な疑問。すると九尾の仔狐リシュが、エドガルド・ベッツィーニ特別捜査官のほうを向き、彼に対し牙を剥いたのだ。そして九尾の仔狐リシュは彼が投げかけた質問に対し、再び怒って吠えたてる。
「死ぬんだよ! 人間も、それ以外の陸上に居る動物の大半も! 捕まえ損ねたコヨーテ野郎が余計なことをしてくれたせいで、この星で一番怒らせちゃいけねぇ神さまの怒りに火を点けたんだ!! お前、分かるか? 竜神カリスは上位の神一〇柱の一柱で、あの中じゃ最強の神だ。水を操り、傷を癒すことも、殺戮の限りを尽くすことも、大得意な武神さま。そのカリスが初めて、我を忘れるほど怒り狂ったんだ! つまり水害により全てが死に耐えるってことだよ!!」
 しかし九尾の狐リシュが言うことは、全てエドガルド・ベッツィーニ特別捜査官の心には響いていないらしい。それ故に、エドガルド・ベッツィーニ特別捜査官はこう言って、鼻で笑う。
「審判は下された、ってか? なんだよこれ。俺、ひどい夢でも見てるのか……?」
「これが夢だったら良かったのにね」
 エドガルド・ベッツィーニ特別捜査官の言葉に、ラドウィグは冷たい言葉を返す。そのときエドガルド・ベッツィーニ特別捜査官は初めて、ことの重大さを思い知ったのだった。


次話へ