アンセム・フォー・
ラムズ

ep.01 - One can't put back the silver wheel

 黄金時代も世界大戦により焼失し、人類が凋落の節目を迎えていた、西暦四二八八年。『空中要塞アルストグラン』こと、アルストグラン連邦共和国。かつての名をオーストラリアといったその大陸は、今や高度一五〇〇メートルほどの空を漂う空中都市となっていた。
 海路からは侵入不可能で、空路からの侵入も難しい。そんな性質から、気付けば要塞とさえ呼ばれるようになったアルストグラン連邦共和国。この国を支えているのが大型で永久機関のエンジン……――だとされていた。そして永久機関の大型エンジンは、未知のエネルギー物質によって可能となったと伝えられている。
 大型エンジンを動かす動力源は、まだ未解明な部分が多く残されているエネルギー物質『アバロセレン』。ここ二、三〇年ほどの歴史しかないその物質であり、そもそも『物質なのか光子なのか、はたまた全く別の存在なのか』ということも明らかになっていないのだが。しかしそれは今やアルストグランのエネルギーの全てを賄っている状況だ。電力を生むタービンを動かしているのはアバロセレンであり、車や飛行機を動かすエンジンの動力源にもなっている。そしてアバロセレンは核爆弾以上の威力を持つ兵器にもなり得るとも言われていた。アバロセレンという存在の性質は全くと言っていいほど解明されていない状態ではあるのだが、それが何に使えるのかは分かっていたのだ。
 謎めいた恐ろしい存在であるアバロセレンは、しかし全ての夢を叶えてくれるであろう素晴らしい代物でもある。少なくとも、アルストグラン連邦共和国に住まう多くの者はそう考えていた。
 しかし、アバロセレンがもたらす恩恵はそれを使用することにより発生するリスクとはとても釣り合っていないらしい。原子力発電に用いられるウランよりもタチが悪いと、高名な学者であるペルモンド・バルロッツィ氏は過去に述べているとか、なんとか。
 事実、アバロセレンを用いた発電所は他国でとんでもない事故を引き起こしていた。たしか、あれは彼是一〇年ほど前の話。何らかの理由によって暴走したアバロセレンのエネルギーが、北米合衆国の州ひとつを丸ごと消し飛ばしている。
 とはいえあれは他国の話だし、過去のことだ。
 アルストグラン連邦共和国に住まう多くの国民は、こう信じている。今は技術も進歩して安全になっているに違いない、と。政府のプロパガンダが狙ったとおりに浸透した結果だろう。実際には当時と何も状況は変わっておらず、技術も進歩らしい進歩はしていないし。なんなら、なぜ北米合衆国であのような事故が発生したのか、その理由さえも解明されていないのだが。
「シンシア、頼む。本当に、やめてくれ……」
 そういうわけで、秩序の根幹をなすインフラストラクチャーの全てをすっかりアバロセレンに頼りきっているのが、現在のアルストグラン連邦共和国の様相である。その影響により生活水準は幾分か上昇したものの、貧富の格差は如実に開き、社会秩序のほうは年々不安定さが増してきている。収入を得ようにも働き口がない貧困層における犯罪率の上昇、富裕層の子息子女を狙う誘拐事件の発生など、目下の課題は山積みになっていた。
 しかし、そんな空中要塞アルストグランの闇から目を逸らし、あくまでも国民に忠誠を誓い、法に尽くす男が居た。
「なぁ、スカイ。お前もママに何か言ってやってくれ」
 空中要塞アルストグランに住まう国民に忠誠を誓い、法に尽くす男が居た。
 男の名前は、ニール・クーパー。警察機関アルストグラン連邦捜査局シドニー支局に勤務する特別捜査官で、支局の異常犯罪捜査ユニットを率いるユニットチーフである。
 しかし昇進した今なお、厄介な女アレクサンドラ・コールドウェルとのコンビは健在。ニールの昇進に伴い彼女は正式な相棒ではなくなったものの、彼女との協力関係は依然続いていた。
 そんなニールには、シンシアという名の美しく嫉妬深い妻と、スカイという名のもうじき十七歳になるひとり娘がいた。
「そうだよ、ママ。パパが浮気なんかするわけないじゃん。それも、よりによってアレックスおばさんとの関係を疑うだなんてさ。あんまりこういうこと言いたくないけど、バカげてると思うよ」
 一人娘スカイは父親がちゃちゃちゃっと手早く焼いたトーストを頬張りながら、不機嫌そうに頬を膨らませる母親シンシアに向かってそう言う。しかしシンシアは、娘の言葉に耳を貸さない。
「家族とのディナーに顔を出さず、女と一対一のディナーを外で楽しむだなんて。それもお代は全部、あなたが肩代わりしている。それって浮気以外の何があるっていうの? それしか考えられないじゃない!」
 東洋の海風が薫るストレートの長い黒髪を振り乱し、怒り狂うシンシアは顔を赤くしてそう叫ぶ。そして怒り狂うシンシアを前に、清廉潔白のニールはたじろぐばかり。トーストをもぐもぐと噛むスカイは、見慣れた光景に心底呆れていた。
 そして青い顔のニールは、シンシアにありのままの事実を訴え続ける。
「だから、シンシア。アレクサンドラ・コールドウェルとはそういう関係ではないと、何度も言っているだろ? 彼女はあくまで、仕事の協力者。それにあの女はああいうディナーの場で、行き詰っている事件を一気に解決してくれそうなとんでもない情報を意図的に、ポロッと零してくれるんだ。一言一句たりとも逃すわけにはいかないんだよ。その情報料と思えば、ディナー代なんて安いも――」
「私と彼女、どっちが大事なのよ!」
「君に決まってるだろ、シンシア!!」
「なら二度と、あの女とディナーに行かないで頂戴!!」
「シンシア、俺の話を聞いてたのか?!」
「なによ、ニール。この私に文句があるっての!?」
「なっ、そんな。文句なんて、何も……」
「なら、二度と行かないで。分かった?」
「……は、はい。行きません、今後は部下を、代わりに行かせますぅ……」
 人の話を聞かないヒステリックな母親と、押しに弱く母親には絶対に逆らえない父親。クーパー家の朝はいつもこの調子だ。
 大抵、やり玉に挙げられる女性の名前は『アレクサンドラ・コールドウェル』と相場は決まっている。彼女の職業はよく知らないが、彼女がニールと親しいことはスカイもシンシアも知っていた。あくまで、友人やビジネスパートナーとして、なのだが。
 それにスカイは、コールドウェルによくしてもらっていた。コールドウェルはいつ役に立つか分からないような雑学――プラスチック爆弾の有用な使い方など――をスカイに教えてくれるし、時に彼女は自衛のための格闘技をスカイに仕込んでくれたりした。それに彼女は毎年、スカイの誕生日になると、なんだかんだで役に立つスパイグッズをプレゼントしてくれる。バックミラー機能つきの腕時計、録音機能付きのボールペン、ソーラー充電可能な懐中電灯にもなる指輪、録画機能がついた伊達眼鏡などなど。スカイが保有する実用性のある玩具は、だいたい彼女から貰ったものだ。
 それはコールドウェルという女性が、父の友人であるからしてくれることなのだとスカイは理解している。だって友人の子供に誕生日プレゼントを送るのは至極普通のこと。でも不倫相手の子供に誕生日プレゼントを贈る人が居るだろうか? ……少なくともスカイは、そんな話を聞いたことがない。
 けれども、母シンシアはそうは思っていない。かれこれ一〇年以上、シンシアはニールの浮気を疑い続けている。シンシアは自分が生み出した疑念を、盲目的に信じているのだ。
「ねぇ、ママ。もうやめて。見苦しいよ。それにさ、パパが浮気するような度胸を持ってると思う? うちのパパに限って、浮気なんか絶対にありえないって。あと、ママの予想通りにもしアレックスおばさんがパパと浮気してたとしたら、どうしてアレックスおばさんがあそこまで堂々とママの前に現れられるの?」
「そうだよ、シンシア! スカイの言う通りだ。俺は絶対に、君を裏切ったりしないぞ!」
 毎朝、ニールは涙目でシンシアにこう言う。だがシンシアが彼の言葉を聞き入れたことは、一度もなかった。





「おはよーございまーす、クーパー特別捜査官。その様子じゃ、まだ奥さんに浮気を疑われてんだね?」
 連邦捜査局シドニー支局、異常犯罪捜査ユニットのオフィス。朝から満身創痍といった顔で現れたニールに、コールドウェルはそう声を掛ける。いつもならば、午後一時すぎぐらいに支局に顔を出すはずの彼女は、今日は珍しく朝の始業前にオフィスに来ていた。
 あぁ、おはよう。そんな適当な返事をコールドウェルに返すと、ニールはいそいそと自分のデスクに向かう。持ってきた私物を自分のデスクの上にドーンと投げつけるように置くと、彼は重たい溜息を吐いた。
「……アレックス。俺、どうしたらいいんだ? もうかれこれ一〇年ぐらい、お前との関係をシンシアに疑われているんだけど。事実無根だってのに、何を言っても彼女は耳を貸さなくて……」
「人間って、面倒な生き物だからねぇ。愛だの恋だのっていう感情は厄介だし、それに人は信じたいものを頑なに信じるんだ。シンシアはあんたの愛情を確かめたいが為に、わざと浮気を疑って怒って、アンタの気を引こうとしてんだろ? まぁ、最近のアンタといえば仕事ばっかりだし。仕方ないんじゃないのか?」
 慰めの言葉、または具体的な打開策の提案を彼女に期待して言葉を振ったニールであったが、コールドウェルから返ってきたのはまるで他人事のような反応。あまりの澆薄さに、ニールは驚いて目を見開いた。
 するとそんなニールの姿に、今度はコールドウェルが呆れかえる。彼女は苛立ったように舌打ちをし、くぐもった低い声で愚痴を零す。
「あのさ、アタシにこれ以上どうしろって? アタシはアンタの奥さんとタイマンで何度も話して、こうまでも言ったんだ。『アタシはレズビアンだから男に興味はない、ニールなんて恋愛対象になり得ない』って、何度も言ってんだよ? それでも疑いが晴れないなら、アタシが何やっても無駄さ」
「えっ、お前ってレズビアンなのか?」
「違うさ。そもそも他人に興味を抱いていない。だからある意味においちゃ、ニール。アンタはたしかに、アタシの恋愛対象にはなり得ない。だから、そこは安心してもらって構わないよ」
「お、おう。そうか。安心したというか、なんというか……」
「そもそも、アタシにゃ他人様の家庭をぶち壊す趣味はないよ。だから出来ることなら、アンタのとこの家庭に首を突っ込みたくなかったのさ。だがアンタがどうしてもって言うから、アンタの家族に会った。その結果が、これだ。アタシを責めないでくれ、そしてアタシに解決してもらおうと思うな。全部、アンタが蒔いた種だろ?」
 ブスッ、グサッ、ザシュッ。
 コールドウェルが発した言葉が、容赦なくニールの心を刺し、抉り、斬りつけていく。極めつけは、これだった。
「……四十四歳のオッサンなんだから、自分のケツぐらい自分で拭えよ。クソが」
 どうにも刺々しいコールドウェルの雰囲気に呑まれ、気が付けばニールのメンタルポイントは残り一〇パーセントにまで低下していた。あと三撃ぐらい喰らえば、立ち直れないぐらいに傷ついて泣いてしまうだろう。そんなところにまで、彼は追い詰められていた。
 ここ最近、コールドウェルはどうにも冷たいのだ。仕事に関しては最高のパートナーであることは間違いないのだが、私生活となると彼女はニールを突き放す。まるでノロウイルスに感染した病人に触れまいとしているかのように、ニールから離れて行くのだ。
 ニールは寂しかった。妻は、わけもなく怒り狂ってニールに当たり散らすし、そして相棒は、この通りドライな対応。唯一の味方は、ひとり娘のスカイぐらいだ。
 とはいえ、まだ味方が居るだけマシ。ニールはそう思うことにして、どうにか精神の均衡を保っている。だって、同期や先輩たちから聞かされる話はもっとヒドい。妻を始め娘や息子、果てはペットの犬や猫にさえも目の敵にされて、家に居場所がないだの。別居を突き付けられた挙句、自分がローンを支払っている家を追い出され、今は仕方なくモーテル暮らしをしているだの。今は離婚協議の真っ只中で、妻側の弁護士から掛かる電話のコールが鳴りやまないだの。……そんな話と比べれば、恐妻家だなんていうニールはまだまだ可愛いほうだ。
「あーっ、どいつもこいつもクソだ。いい年の大人が、愚痴ばっか零してろくに努力もしねぇ。アタシはなんだ、都合のいい雑用か? これでもアルストグラン中を毎日のように飛び回っていて、忙しいんだけど? 若い連中の指導もあって、それで寝る時間もないってのに。つまんねぇことばかりを零しやがって……」
 それにしてもだ。どうにも、今日のコールドウェルはピリピリしている。彼女から放たれる緊張感が、凄まじいのだ。
 堰を切ったように、いつもの彼女なら口にしない不平不満や愚痴をドバドバと放出しまくるコールドウェルの顔を、ニールは恐る恐る覗き込む。そして彼女に、ニールは尋ねるのだった。
「なぁ、アレックス。それよりだ。こんな朝早くに来たってことは、なにか大きな仕事でも持ってきたってことか?」
「あぁ、そうだ。影の特務機関にはできない、連邦捜査局じゃねぇとどうにもできねぇ案件だよ」
 ぎろり。コールドウェルの三白眼が光り、ニールを捉える。彼女の鋭い眼光はニールを睨んでいるようにも見えたが、彼女が本当に睨んでいるのはもっと目に見えないものようだ。
 するとコールドウェルは溜息を吐いて、顔を俯かせる。それから垂れてきた前髪を掻き上げると、彼女は顔を上げないまま、緊張感のある声色でこう告げるのだった。
「……実を言うと昨日、高位技師官僚が死んだ。連邦捜査局にはその事実を、大々的に取り扱ってもらいたい。彼の遺体は、フォスター支局長と話がつき次第ここの支局の解剖室に持って来させる。速やかに検死解剖を済ませた後、早急に火葬に回して灰にしてくれ」
「えっ。あっ、おっ、おい。ちょっと待ってくれ、アレックス。高位技師官僚って、あの人だよな? ペルモンド・バルロッツィのこと、だろ?」
「ああ、そうだ」
「死んだ、のか? あの人が」
「ああ、そうだ。死んだよ」
 先ほど掻き上げた前髪は、また彼女の顔を隠すようにだらりと垂れてくる。憂い気なコールドウェルの横顔を見つめながら、ニールは彼女の発した言葉をいまいち理解できずにいた。
「…………」
 あのペルモンド・バルロッツィが、死んだ? 不死身と言われていた、あの男が!?
「おい、ニール。聞こえてんのか、ニール?」
 ……そんなわけでボーッと、ニールがコールドウェルの顔を見つめていると。またコールドウェルが舌打ちをする。前髪から覗く横目でギロリとニールを睨みつけたコールドウェルは、何か物言いたげに真っ赤な口紅を塗られた唇をへの字に歪めた。と、そのとき。デスクの隅に置かれた固定電話が着信を知らせるベルを鳴らす。
「ニール。鳴ってんぞ、早く出ろ」
 コールドウェルはそう言うと、チッと舌打ちをした。しかしニールのデスクにある固定電話からは、音が鳴っていない。ニールには、コールドウェルのデスクから音が鳴っているように思えた。「アレックス、そりゃそっちのセリフだ。お前が早く出ろ」
「ん? ……あぁ、本当だ。アタシ宛てとは、珍しいね……」
 気だるげにぼやきながら、コールドウェルは受話器を取って耳に当てる。
「どーも、連邦捜査局内のコールドウェルのデスクです。どちらさん、何の用で……――」
 そして直後、彼女は受話器を耳から離した。受話器のスピーカーから女性の怒鳴り声が、大音量で伝えられたのだ。
『アレクサンドラ・コールドウェル!! どういうことよ、この状況は! ここに来て説明しなさい!! サンドラ、今すぐによ!』





『ジュディ……――じゃなかった。鑑識課のエイミー・バスカヴィルさんよ。なんだい、そんな怒鳴り散らして。天変地異でも起きたのかい?』
「なに暢気なこと言ってんのよ、このバカ! こんな、こんなこと……聞いてないわ!!」
 携帯電話を耳に当て、通話相手に怒鳴り散らすのはシドニー市警鑑識課主任のエイミー・バスカヴィル……――こと、シドニー市警に潜入捜査中であるASI(アルストグラン秘密情報局)工作員のジュディス・ミルズ。コードネームを“レムナント”という彼女は、市警の鑑識課で確固たるキャリアを築き上げ、退職したイライアス・イーモン・ハウエルズの後任者となり主任に昇格していた。
 そんなエイミー・バスカヴィルことジュディス・ミルズの部下たちは、どうにも様子がおかしい主任に首を捻っている。
「バスカヴィル主任は、誰と話してるんでしょう……?」
「さぁね、市警のスーツ組の誰かじゃないのかい?」
「でもさっき、主任が口にした名前は“アレクサンドラ・コールドウェル”でしたよ。そんな名前の人物、市警には居なかったような気が……」
「アレクサンドラ・コールドウェル? ……もしや、連邦捜査局のシドニー支局で死神とか呼ばれている女のことじゃないか?」
「死神?! そんな人と主任が、どうして」
「とりあえず、主任の様子を見守ってみましょうや。どう転ぶかね、この状況が。連邦捜査局が押しかけてくるのか、そうでないのかを。まあ十中八九、連邦捜査局シドニー支局のお偉方が来るんだろうけど……」
 部下たちが主任の背中を見つめ、そう小言を零す一方。旧シドニー港の今や使われていない倉庫、その裏手にある暗がりでじめじめとした現場に背を向ける主任、エイミー・バスカヴィルことジュディス・ミルズは携帯電話に怒鳴り散らし続けている。
「サンドラ、ねぇ、サンドラ? 聞いてるの?! ……えぇ、そう。今すぐ、ここに来て。そうよ、連邦捜査局の人間と、誰でもいいから検視官を連れてきて。今すぐによ! 十五分以内に来ないなら、このご遺体はうちに運び、そこで検視解剖させてもらうから。タイムリミットは十五分。もう今は残り十四分と四十二秒よ? ……だからサンドラ、そう言ってるでしょ。急ぎで来なさい」
 そんな主任の背中を見守りながら、彼女の部下である鑑識課のメンツは黙々と自分の仕事を続けていた。目の前の大きすぎる仕事に、少しだけ緊張しながらも。
「それにしてもだ。まさか、人生の中でこんな大物の遺体と(まみ)えることになるとは。予想もしていなかったなぁ」
「アルストグランを空に浮かせた男、そして不死身の怪物とも謳われた狂気の大天才、ペルモンド・バルロッツィ。彼の遺体を拝むことが出来るだなんて。同じく、僕も予想していませんでしたよ」
「問題は、これが他殺なのか、自殺なのか、はたまた自然死なのか、だ。……こりゃ見た目だけじゃ、判別がつかなさそうだ」
 腕を組み、その場にしゃがみこむ鑑識課のメンツは、薄暗がりに放置されている遺体を覗き込む。
 黒の中折れ帽を目深に被り、グレーのシャツに丈の長い黒のトレンチコートを着て、革手袋を両手に嵌めているその男性の遺体は、路地裏の壁に背を凭れるようにして座り込んでいる。今は十二月、アルストグラン連邦共和国は真夏だというのに。その遺体は随分と気候にそぐわぬ身なりをしていた。そして遺体には外傷らしいものは見当たらず、現場には争った形跡も荒らされた様子もない。
 現状、分かっていることは限られている。彼が死んでいること。彼が、この国で最も有名な男に酷似していること、というよりもその人物その人であるように思えること。しかし身分証らしきものを遺体が所持していないこと。通信機器も持っていないこと。
「聞いて、ラスティング警部! あと十五分かそこらで、連邦捜査局シドニー支局の連中がここに来るわ。一年近く行方不明になっていた要人が死んだってことで、彼らの管轄になった。引継ぎの準備をして。そこの第一発見者さまにも、よろしく伝えて頂戴」
 エイミー・バスカヴィルことジュディス・ミルズは、この遺体の発見者であるホームレスの老人に事情聴取を行っていたラスティング警部にそう告げる。続いて、彼女は部下にも同様の言葉を告げた。
「みんな、聞こえたでしょう? そういうわけだから、引継ぎの用意を進めて。連邦捜査局が来るから、さぁ早く!」





「この展開は、アタシも聞いていなかったんだ。何もかも、聞いていない。アタシが知らされた段取りと、まるで違っている。どうなってんだかねぇ、ったくよぉ……」
 シドニー市警からの現場の引継ぎを済ませ、問題の遺体は連邦捜査局シドニー支局の地下二階のモルグ兼解剖室に移されていた。そして相変わらず無表情だが声色は変幻自在な検視官バーンハード・“バーニー”・ヴィンソンは、いつも通りの無表情さでありながらも、マスクの下に隠れた口では金切り声を上げていた。
「本当に驚きよ、アレックスちゃん! あの高位技師官僚をこの目で、それも彼のご遺体を拝めるだけでも、そしてこれから彼のご遺体をこの私が解剖するっていうことだけでも、もう天地がひっくり返るくらい驚いているのに。それだけじゃなく第一発見者が、ワイルドネスでラフなように見えて、とてもミステリアスなあなたの、あのアレクサンドラ・コールドウェルのお父様だったなんて。本当に、本当に驚きだわ! あなたのお父様って探偵だったのね。どうりであなたからは、スパイっていうよりも探偵って雰囲気がしていたわけだわ」
「……いや、だからな。バーニー、あれは人違いなんだ。アタシの名前はアレクサンドラ・コールドウェルだ。アレクサンダー・コルトじゃない。アンタもよく知ってるだろ? それにアタシは、あんなホームレスの汚ぇジジィなんか知らねえよ」
「あのね、アレックスちゃん。私は、心理学の修士課程も終えた人間よ。あの時のお父様とあなたの反応。どう見ても、あれは久々に衝撃の再会を果たした父娘の表情よ。それと横に居たニール――」
「あー、アーッ! 分かったよ、バーニー。頼むから、黙っててくれ。いいかい、少しでもその事実を外に漏らしたら、そん時は死神がアンタの首を」
「勘弁してよね、アレックスちゃん。少しは私の固いクチを信用してもらいたいものだわ。私はおたくの死神さま、神出鬼没のサー・アーサーに殺されたくないもの。黙っているに決まってるわ。ご遺体の解剖をするのが私の仕事だけど、私はまだ遺体にはなりたくないし」
 エイミー・バスカヴィルことジュディス・ミルズからの連絡を受けたコールドウェルは、ニール・クーパー特別捜査官と検視官のバーニーを連れて、現場に乗り込んだ。そうしてそこで、うっかりコールドウェルは顔を合わせてしまったのだ。
 それは彼女が今までずっと避け続けてきた相手。遺体の第一発見者であるホームレスの老人は、彼女の実の父親。元探偵のダグラス・コルトだった。
「そうだ。ありゃ、アタシの親父さ。ダグラス・コルト、元刑事で元探偵で今はホームレス。落ちぶれたもんだよ」
「あなたの過去には深く首を突っ込まないことにするわ、ミズ・コールドウェル。でも、悪いことは言わない。積もる話もあるだろうし、お父さまと……――」
「バーニー、ありがとう。だが、これはアタシの問題なんだ。後でどうするかは、自分で考えるとするよ。それよりも、問題はこのご遺体だ」
 検死台の上に乗せられた遺体に、コールドウェルは視線を移す。まだこの部屋に運び込まれて五分も経っていない遺体は衣服を身に着けたままで、その姿はただ居眠りをしているだけのようにも見えていた。それからコールドウェルはひとつ咳払いをすると、検視官バーニーにこんなことを言う。
「高位技師官僚といえば、ロックスターよりもロックでクレイジーなことで有名だ。そして彼はネズミで動物実験をすることもなく、自分の身体に液化アバロセレンを打ったことで知られている。だから……」
「だから?」
「このご遺体、細心の注意を払うに越したこたぁねぇと思うんだ。例えば、開胸する前にアタシらは着替えたほうが良いんじゃないのかい? ちゃんとした防護服に。あと、ラテックス製のゴム手袋をしてさ」
「感染症で死んだわけでも、放射能汚染があるわけでもないのに、どうして?」
 まだ死因は特定されていないが、少なくとも感染症で死んだわけでも、放射能汚染されているわけでもない、この遺体。検視官バーニーは、コールドウェルの提案に顔を顰める。検視官である彼には、防護服まで着る必要性が感じられなかったのだ。
 けれどもコールドウェルの目は真剣そのもの。その目は彼を脅しているようですらある。いいからアタシに従え、と。するとコールドウェルは、続けてこう切り出してきた。「バーニー。アンタ、知ってるかい。最近、巷を騒がせている覚醒者(サイキック)のことを」
「あぁ、アバロセレン技師が次々と異能の力を獲得しているってアレでしょう? でも所詮、噂だし」
「……これを見ても、アンタは噂だと笑い飛ばせるかい?」
 そう言いながら、コールドウェルが手に取るのは彼女の私物。彼女がいつも着ているスーツの胸ポケットにいつも刺さっている、安物のボールペンだ。それから彼女は、遺体が両手に嵌めている革手袋をボールペンで指し示す。そしてコールドウェルは恐る恐る、遺体の右手に嵌められた革手袋の隙間にボールペンを挿し込んだのだ。
 すると、一瞬にしてボールペンが輪郭を失った。検視官バーニーは目を見開く。そして次の瞬間、コールドウェルがボールペンから手を離すと、輪郭を失くしたボールペンは透明な水になり、びしゃりと水は音を立てて床に飛び散った。遺体の素手に触れたボールペンは、一瞬で水に変化したのだ。
「何が起こったの、今。どういうことなの、アレックスちゃん?」
 珍しく、検視官バーニーの表情が声色とリンクしていた。彼は心底、驚いているようだ。それに対し、コールドウェルは少しだけ水が掛かった自分の手を、穿いていたスラックスの布で軽く拭うと、検視官バーニーに向けてこう言う。
「高位技師官僚。彼がたぶん、世界で初めての覚醒者(サイキック)。この通りだから、慎重にことを進めなきゃならないわけ。そしてアタシは、生前に本人から聞いたんだ。唯一、あの何でも水に変えてしまう素手に触れても水に変わらなかったのが、ラテックスだけだったって。だから、ほら。高位技師官僚は革手袋の下にラテックスのゴム手袋を嵌めてるんだ。……そういうわけで、つまりー?」
「分かったわ、アレックスちゃん。防護服に着替えてくる。それと、ラテックスの手袋ね? ……はぁ、十七年ぶりよ。パトリック・ラーナーにジェイコヴ・パテル、ケイト・ウェブ、それとビル・キッドマン、あの“レッドラム”による未解決連続殺人以来だわ。こんな奇妙なご遺体。季節感のない服装、真夏だっていうのに冬物のトレンチコートだなんて。信じられない……」
 リリー・リーケイジの時に感じた違和感と似ているわ、と検視官バーニーは呟く。コールドウェルは彼の言葉に賛同するように、溜息を吐いた。





 コールドウェルが地下二階で検視官バーニーと共に防護服に着替えている頃。シドニー支局、オフィスがある地上六階の会議室に居たニールは、汚らしい身なりのホームレスの老人の相手をしていた。
 件の遺体の第一発見者であるそのホームレスの名前は、ダグラス・コルト。元刑事で元探偵であったその男は、今では路上で夜を明かすような生活を送っていた。そしてその男は、ニールの知り合いでもあった。
「ダグラスさん。本当に、申し訳ありません。いつかは必ず伝えなければいけないとは、思っていたんですけど。延ばして、延ばし続けて。気が付けば十七年も経っていて……」
「いいんだ、ニールくん。君を責めるつもりはないよ。アレクサンダーを責めるつもりもない。私が恨んでいるのは、不可解な運命と今はこの支局の地下にある死体だよ。ペルモンド・バルロッツィ。あの男が、娘の前に現れなければ。アレクサンダーが今頃、あんな黒いスーツを着ることもなかっただろう……」
 伸ばしたまま長らく放置していたのか、ホームレスの老人の髪や髭といえば小汚いという表現が相応しい。真っ白なはずの毛は、埃や泥などがこびりついてどことなく茶色を帯びていた。そしてしわだらけで、シミの目立つ肌も、もう何日もシャワーを浴びていないように思えていた。異臭も、ひどいものだ。
 このホームレスの老人は、ニールの友人である女性の父親だ。かつての名をアレクサンダー・コルト、今の名をアレクサンドラ・コールドウェルというあの女の、父親なのだ。
「……ニールくん、教えてくれ。娘は今、何をしているんだ」
「アレックスなら今、地下で検死解剖に立ち会って……――」
「そういうことじゃない。娘は今、何の仕事をしているんだ。本当にアレクサンダーは、黒服の特務機関とやらに居るのか?」
 かれこれ二十七年前の、秋。まだニールも、彼女も十七歳かそこらの学生だった頃。ある事件が起きて、彼女は死んだことにされた。そしてニールは――当時の、考えなしな無鉄砲さが災いし――ASIに首根を引っ掴まれ、ASIに進路を決められたのだ。連邦捜査局の特別捜査官になれ、と。
 それから、もう三〇年近く経った。かつて死んだことにされた少女は、名前をアレクサンドラ・コールドウェルと改めて久しく、そして今や誰もが恐れるエージェントとなっている。そして流されるがまま、なんとなく連邦捜査局の特別捜査官になったニールも、今ではひとつのユニットを取りまとめる役に就いていた。
 時間は流れていたのだ。ニールもコールドウェルも、与えられた役割をひたすらに演じ、全うし、気が付けばそれが彼らにとっての天職であるようにさえ思えていた。だが、路上で夜を明かす生活を送っていた男の時間は、どうやら三〇年近く止まっていたようだ。
「答えてくれ、ニールくん。アレクサンダーは、何をしているんだ?」
 死んだことにされた一人娘、アレクサンダー。だが、きっと彼女はどこかでまだ生きている。ダグラス・コルトという男にとってこの三〇年は、そう信じ続け、答えを探し続けた三〇年だった。
 そして今朝、青天の霹靂のように降ってきたその答えは、どこかで分かっていたにも関わらず、到底受け入れられないものだった。
「ええ、その通りですよダグラスさん。アレックスは今、特務機関WACEのエージェントです。あの機関と、うちとを繋ぐ連絡官なんですよ。あと、俺が余計なことを漏らしたりしないよう見張る役です」
「……そうか。ははは、やっぱりな。あの子は、そうか。特務機関か……」
「そしてアレックスはうちだけじゃなく、ASIにもコネがある。軍のほうにも関わっているらしいと、そういう噂もあります。つまり彼女は、今やこの国を支える現場において欠かせない存在なんです」
「……ありがとう、ニールくん。もう十分だ。それさえ分かれば、良いんだ……」
 そう言うと、ホームレスの老人は項垂れて、黙り込んでしまった。手で目を覆い隠し、彼は口を堅く一文字に噤んでいる。その姿は涙をこらえているようにも、ニールには見えていた。
「あの、ダグラスさん……」
 とはいえ、これは捜査に一切関係のない話。ニールはまだ、本題を切り出せていなかった。
 ダグラス・コルトという名前のホームレスの老人が、アレクサンドラ・コールドウェルの父親だというのは、今は最もどうでもいい事柄である。本件において重要なのは、彼が『遺体の第一発見者である』こと。そしてニールは、コールドウェルの近況を父親に伝えるよりも前に、彼に訊かなければいけないことがあった。
「話は変わりますが。例の遺体を発見したときの状況を、詳しく教えていただけますでしょうか」
 他人行儀な言葉を使うニールに、ホームレスの老人は肩を落とす。それが君の仕事だから仕方ないよな、と彼は言うものの、顔を上げた彼がニールに返す視線は、ニールに落胆しているように思えた。そしてホームレスの老人は、遺体発見時の詳細を喋りはじめる。
「市警のラスティング警部に話した通りだ。私はいつも、あの倉庫の中で寝ている。上空一五〇〇メートルの場所に浮いている空中要塞アルストグランの夜は、夏だろうが凍えるように冷え込むからね。そしていつものように日が昇る前に目を覚まし、いつものように出稼ぎをしに行こうと倉庫の外に出たんだ。そうしたら、倉庫の裏から若い女性のむせび泣くような声が聞こえたんだ」
「……若い女性、ですか」
「知っての通り、旧シドニー港は最早ひとが寄り付かない場所だ。だから誰かが、それも若い女性が来るなんて変だと思って、倉庫の裏を見に行ったんだよ。そうして見つけたのが、あの男の死体だった。それと、高いヒールの靴で走って逃げて行くような足音を聞いた。それだけだ。だから持っていた使い捨て携帯で、警察に通報したんだ。旧シドニー港にある倉庫の裏で死体を発見した、ってね。それから通報に使った携帯は、ラスティング警部に渡したよ」
「若い女性というのは、声と足音を聞いただけで、目撃はしてないんですね?」
「ああ、そうだ。ラスティング警部にもそう言ったよ」
「それで高いヒール靴の若い女性というのの声に、聞き覚えは」
「もしやアレクサンダーを疑っているのか? それなら、違うと断言できるよ。あの声はもっと、優しい感じだった。アレクサンダーのような粗暴さは、あの声には無かったよ。それにもしあの子だったとしたら、すぐに分かる。これでも私は、あれの父親なのだからね」
 それは市警から引き継いだ内容通りの証言だった。そして市警から預かった例の携帯は、今は連邦捜査局が一時的に預かっていて、化学捜査課が通話等を解析中であるが……解析したところで、捜査に役に立つ情報が得られるとも思えない。彼はあくまで第一発見者で、通報者。彼は遺体から何かを盗んだわけでもないし、元刑事というだけあって諸々の作法を弁えており、遺体に触れてすらいない。彼は重要参考人ですらなく、捜査に協力的な善良な一市民でしかないのだ。
 とあればこれ以上、彼をここに引き留める理由はない。
「ご協力に感謝します、ダグラスさん」
 再びニールの口から飛び出た、他人行儀な言葉。ホームレスの老人はニールの態度に、どこか寂しげな表情を浮かべてみせた。
 どうにも居たたまれない。ニールはそう感じざるを得なかった。なにせこのホームレスの老人は、かつてニールによくしてくれた男。友人の父親で、ニールが学生時代にやらかした恥ずかしい出来事を知っていながらも、ニールの母親に今もなお黙ってくれている恩人なのだ。
 そんな恩人を、俺は何もせずに帰すのか? 帰る家も、彼には無いというのに。……そんなことをニールがぐるぐると考えている。と、ニール本人も気づかぬうちに、彼はこんなことを口走っていた。
「あの、ダグラスさん。もしこの後、特に事情もなければ、なんですけど」
「どうかしたのか、ニールくん。もう聴取は終わったんだろう?」
「まあ、そうなんですけど。この部屋で、待っていてもらえませんか? あとでアレックスを連れてきますんで。何時間後になるかは分かりませんが……」
「……あぁ、分かった。待ってるよ」


次話へ