アンセム・フォー・
ラムズ

ep.02 - Life is what you make it

『全てが嘘で、俺自身も偽物だった。俺の人生は、俺の手の中には無かったんだ。目には見えない、邪悪なものの手の中に握られていたものだったんだよ』
 もはや自力で体を動かすことすら出来なくなっていたその男は、咳き込みながらも嗄れた声でそう言った。そして男がその次に発した言葉は、彼が男と交わした最期の会話になった。
『ラドウィグ。お前は自分の出生を選べず、こうなる未来の他に選択肢を与えられていなかった。それも全て、俺のせいだ。だから俺に、偉そうなことを言える資格がないのは分かっているが、言わせてくれ。――……お前は、お前の人生を生きろ。俺みたいになるんじゃない』
 最期の会話を交わしたのが、一昨日の晩のこと。傍から見るだけの人間には想像も出来ないような痛みに悶えていた男に、彼がいつものようにモルヒネを投与していたとき。眠りに落ちる前に、まるでそれが最期の言葉になることを分かり切っていたかのように、男は彼にそう告げてきた。
 それに対して、最期になるとは予想もしていなかった彼は、いつものように男の言葉を軽くあしらったのだ。
『はいはい、オッサン。わざわざ言われなくとも、オレはアンタみたいにはなりませんよ』
 その言葉から四十二時間が経った今、彼はひどく後悔していた。
「……後悔は先に立たない、ってよく言うけど。本当に、そうだ。後悔したって、もう遅いってことは分かってるけどさ。でも、もっと真面目に取り合うべきだった。だって彼は、オレの」
 そんなこんなで、アルストグラン連邦共和国某所。WACEの本部(仮)の地下施設の、地下一階。コールドウェルからの要望があり設置された簡単なキッチン設備やコーヒーメーカーがあり、簡素なダイニングルームとして使われているこの部屋には、二人の男女が居た。
「ねぇ、ラドウィグくん。そのギョロッと大きな猫目を真っ赤にして、涙ぐみながら喋るのは良いけどさ。そのくさい食べ物、さっさと食べ終えて片してくれないかな。ニオイがきつくて、堪らないんだ。それにさ、なんなの、そのパスタの上に乗った得体のしれない茶色の物体。(さなぎ)になる前の蝶の幼虫みたいに糸を引いてて、見た目も気持ち悪いんですけど」
 ラドウィグ。そう呼ばれた猫目の青年が、故人の思い出を懐かしみながら食べているパスタ、その上に乗っている茶色の挽き豆は、軍人の蒸れた靴下のようなにおいを発している。
 そんな彼と同じテーブルを囲み、彼の前でベーグルサンドを啄んでいたアストレア――年齢は二十六歳と、立派な大人の女性になったのだが、未だにその見た目は一〇歳児のようだ――は、食欲が失せたのか、食べる手と口を止めてしまった。そして彼女は自分の鼻をつまむ。ラドウィグという青年が食べていたそのパスタは、それほどまでの異臭を発していたのだ。
 するとラドウィグは、なんら悪びれる様子を見せずに、それどころか悲しげに、アストレアに対してこう釈明するのだった。「オレにとって、思い出なんだ。このパスタ」
「思い出かどうかなんて知らん。さっさと食べ終えるか、捨てるか。どっちかにしてよ。臭くてたまらんわ」
「オレが所属してた、アルフレッド研究所。あそこの一員と認めてもらえるための通過儀礼というか、洗礼が、このパスタだったんだ。アルフレッド研究所の近くにあるカフェ。あそこの納豆パスタを食べられたら、ラボに本当の仲間入りができるんだ。所長に連れられて店に行き、あそこで死ぬほど臭いパスタを初めて目の当たりにして、食べろと笑顔で脅された時は、心底驚いたけど。でも食べてみたら、これが美味しくてさ。クセになるっていうか」
「だから、それが君の思い出の飯であるかどうかなんて、僕にはどうでもいい。興味ない。つーか、その喋る息すら強烈にクサイから。早く食べ終えて、早く歯磨きして、その口を綺麗にして。早くして、ほら!!」
「アストレア。そのリアクション、イザベル先輩にそっくりだよ」
「ねぇ、君は今の話を聞いてたの? 早く食べ終えろって言ってんの」
 故人の思い出を共有し、語り合いたいラドウィグ。しかし反対に、アストレアにはその意思がないどころか、彼女は異臭を発する食べ物を早く処理しろとしか言ってこない。涙ぐむラドウィグは、本当はじっくりと噛みしめるように、何かを確認するように食べたかったのだが、こう言われてしまっては仕方ないと食べるスピードを速めていた。
 喋る口は閉じ、食べることに専念するラドウィグを監視するように見つめるアストレアは、どうにもピリピリとしている。そんな彼女にはもう純朴な少女の面影はない。アストレアは、彼女の師である女アレクサンドラ・コールドウェルにそっくり、またはそれの上を行く過激さや辛辣さを身に着けていたのだ。
 そしてアストレアは特務機関WACEに措いては正式に、パトリック・ラーナーの後釜に就任。パトリック・ラーナーと同じ“ディナダン”というコードネームを与えられていて、今ではひとりで任務を遂行することもある。一流であるかはさておき、一人前の隊員になっていたのだ。
「君の大好きな高位技師官僚が自殺なんかしちゃったもんだから、これから忙しくなるってのにさ。君ときたら、人の迷惑を考えずに悠長にクサイ飯なんか食べちゃって。……僕はこれからレイの尻拭いとか、色々あるんだ。それなのに、君もアレックスも、好き放題にやってる。そうしてルーカンやアーサーに文句を言われるのは、僕なんだ。勘弁してもらいたいよ、本当に」
「アーサーに気に入られてるってことだろ? オレなんか彼に超嫌われてるから、文句さえ言われないよ」
「あー。余計なこと喋らなくていいから、早く食べ終えて! 息がクサいんだよ!」
 アストレアの小言を聞き流しながら、ラドウィグは黙々と食べる手を進める。しかし、そのラドウィグの頭を支配していたのは、あの男が過去に発した言葉。
『仮に。「当たり前」だと思ってるものが「当たり前」じゃないとしてだ。それについて、「当たり前」だと思い込んでいる俺たちが、気付くことは可能なのだろうか? ……俺が思うに、それは不可能だろう』
 ペルモンド・バルロッツィ、彼がかつて大学で教鞭を執っていたとき。初めて彼の講義を聞きに行ったラドウィグが、最初に耳にした彼の言葉がそれだった。そしてこれが、ラドウィグが最後に耳にした彼の言葉。
『全てが嘘で、俺自身も偽物だった。俺の人生は、俺の手の中には無かったんだ。目には見えない、邪悪なものの手の中に握られていたものだったんだよ』
 ラドウィグが初めて彼の講義を聞いた、あのとき。ペルモンド・バルロッツィという男は、なんて哲学的なことを言うんだろうとラドウィグは思った。エネルギー工学の講義を受けに来たはずなのに、自分は選び間違えたのだろうか、と。
 だが一昨日、彼の最後の言葉を聞いたとき。ラドウィグは気付いた。哲学的に思えたあの言葉は、ただの自嘲だったのかもしれないと。
「…………」
 しかし真相は闇の中。元よりあの男はあまり口数の多い男ではなかった――余計なことを言う口は実に達者であった――が、彼はもう二度と喋ることはない。永遠に、何も。
 と、そのとき。アストレアがチッと舌を鳴らす。アストレアは左腕の手首に嵌めた腕時計型の連絡用デバイスを睨みつけていた。
「……アレックスと連絡が取れない。何やってんだよ、こんな非常時に……!」





「眠るためにだけ帰る家に着くまでに、一時間半も掛かるだなんて。お前も不思議な生活を送っているんだな。それに居るか居ないかも分からない尾行を気にしながら毎日帰るだなんて。父さん、もうクタクタだ」
 シドニー中心街から車を走らせて、約一時間弱。ムーア湖の近隣にある駐車場に車を停めて、そこから更に歩いて二〇分。アンザック川の近くに立ち並ぶ住宅街の隙間や影を縫うように歩き続け、ようやく辿り着いたのはムアバンクにある小さな借家。一人暮らしには少し広いようにも思えるその家に足を踏み入れたダグラス・コルトは、この家の主である女の背にそう愚痴る。すると家主であるアレクサンドラ・コールドウェルは、玄関ドアに鍵を掛けながら、こう言い返した。「アタシゃいつものことだから、もう慣れたけどね」
「毎朝シドニーに行くために、そして毎晩ムアバンクに帰るために、片道一時間半、往復で三時間も掛けているだなんて。物好きとしか言いようがないだろ?」
「家がないよりかはマシだと思うよ」
「……それを言われると、なぁ。父さん、反論できないな」
「それに大都会シドニーから一時間半で行ける場所に、同時に首都キャンベラにも行ける場所に、こんな田舎があるんだ。ライフラインは水道とガスがあるだけ。電気は通っていないし、自家用発電機もこの家には無い。そして中継局も近辺にないから電波も来ない。再開発に見捨てられた片田舎、最高! そしてニュー サウスウェールズ州の要所リヴァプールも近いから、交通にも不便なしさ。空港へのアクセスも楽だし、空軍基地にもすぐ行ける。だがここいらは民間人が少ない、食料品店もない、その他諸々の店もな。そして近くに国立公園があるがために、人よりもカンガルーのほうが多いかもしれない。だがそれが快適。ムアバンク万歳!」
 フゥ~! そんな柄にもない奇声を上げるアレクサンドラ・コールドウェルは、ヤケクソになっていた。二度と顔を合わせることはないだろうと思っていた父親が、自宅に居る。この状況に、彼女は戸惑っていたのだ。
 というよりも、彼女は朝からずっと混乱しっぱなしだった。
「あー、ったく。何もかもが、想定外だ。不死身だとばーっかり思ってた高位技師官僚が死ぬし、彼の遺体の処理の段取りが当初の予定と大幅に変わってるし、親父とは出くわすし、その親父を家に連れて帰ってきちまったしよ。どうなってんだ、今日は」
「……すまない、アレクサンダー。なら父さん、帰るから」
「帰るって、どこにだよ? ンなこたぁいいから、さっさとシャワーを浴びてくれ。くさいんだよ」
「……ごめん」
「それから連邦捜査局のホテル住み組が譲ってくれた寝間着と下着があるから、あとでそれに着替えてくれ。あとニールがカンパしてくれた新品のTシャツとカーゴパンツ、それとジャケットもあるし。今、着ているそのハエが集りそうな汚い服は処分するから。脱いだらこのビニール袋に入れてくれ」
 シャワーはあの部屋、と言いながらコールドウェルは廊下の突き当りにあるドアを指し示す。それから彼女はストックしているビニール袋の山から、一枚の袋を乱暴に掴み取ると、それを父親に渡した。
 見るからに苛立っていて、ピリピリとしているコールドウェル。そんな彼女を前にして、父親であるダグラス・コルトはたじたじとしている反面、申し訳なさや気恥ずかしさでいっぱいになっていた。
 歪んだ因果に引き裂かれた父娘。死んだことにされた娘は、親の知らないところで大人になっていて、そして今や多くの人間から畏れられる存在になっていた。だが父親のほうは、どんなものだろう。組織に嫌気がさして刑事を辞めて、祖国を捨てて海を渡りこの大陸に移住し、そこで探偵をやっていたが、その探偵も辞めてしまって。愛した女性にも遂に見捨てられ、今や家なし。まさに蛆が沸いている男やもめ、そんなところだ。
 良くも悪くも、偉大になった娘。対する父親は、底辺に落ちていた。
「……そういえば、ニールくんから色々と話を聞いたよ。アレクサンダー、お前は各所から随分と畏れられているようだな」
「バルロッツィ高位技師官僚を陰でコントロールする神出鬼没のサー・アーサーが取り仕切る、特務機関WACE。そこの隊員となりゃ、一般人がアタシに恐れをなすのは当然さ。それに現場に出て、あれこれやんのはアタシの仕事だしよ。現場に出る人間ほどアタシを知っているし、アタシにビビる。仕事柄、しゃぁねぇと思ってるよ。でも、悪いことばっかりじゃねぇさ」
「そうなのか? 父さんには、悪いことばかりにしか思えないが」
「この仕事をしているからこそ、絶対に信用できる関係ってのが得られた。連邦捜査局やらASIやら、司法省やら空軍やらと、色々とコネクションがある。中には信用できねぇやつもいるし、それが大半だが、それでも一部には『こいつには背中を預けても大丈夫』っていう人間が居る。ニールとか、シドニー市警のエイミー・バスカヴィルとか、空軍のエイブリーとかな。……信用や絆は、何物にも代えがたいものだよ。最近はつくづく、そう感じてるさ」
「どうやら、昔のお前とは違うようだ。だいぶ角が取れたみたいだな」
「んー、どうだろうね。むしろ、年々尖ってきてんじゃないのか? とはいえ、ウニみたいなトゲトゲじゃなくて、鉛筆の芯みたく一点に、だけどよ。まあ、それより」
「……?」
「無駄話はいいから、さっさとシャワーを浴びてくれ。本当に、くさいから。アタシは清潔な人間の方が好きだ」
「そんなにくさいのか?」
「ああ、かなり」
「……」
「ドクター・サントスからはいつも爽やかな石?の香りか、消毒液のにおいがしたよ。彼は仕事柄デオドラントとかによく気を配ってひとだったから。あとパトリック・ラーナーの背中からは女ものの香水、ジャスミンや白檀、たまにバニラの香りがした。んでバルロッツィ高位技師官僚は、いつも影みたいに無臭だった。少なくとも、アタシが尊敬していた男たちは発酵した脂みたいなにおいは発していなかったよ」
「……そ、そうか」
「ちなみに。サー・アーサーからは、ローズマリーか黒コショウの匂いがしてる。あのクソジジィの傍に居ると、つい腹が減りそうになるよ」
 コールドウェルから差し出されたビニール袋を受け取り、父親は苦笑う。流し目で送られるコールドウェルからの視線は、早くシャワーを浴びてこいと急かしていた。
 そこまで、自分は臭うのか? 父親は心の中で首を傾げる。路上生活が長いせいで、自分の体臭をかぎ分ける嗅覚が麻痺していたのだ。だが娘から送られる強烈な非難の言葉と視線に、疑う余地はない。それに連邦捜査局で聴取を受けていた時の、ニール・クーパー特別捜査官の顔も酷かったものだ。となると、自分は相当に……――
「そんな目でこれ以上見ないでくれ、アレクサンダー。今すぐ、シャワーを浴びてくるから」
「洗面台の鏡の裏に、前の家主が置いていったシェーバーがあるから。使っていいよ」
「ヒゲも剃らなきゃダメか?」
「あったりめぇだろうが。似合ってないんだよ、それ」





「まだ私、におってるの?」
 マスクを外した検視官バーニーは、鼻をつまみ眉を顰める眼鏡の女性――連邦捜査局シドニー支局長リリー・フォスター――の前でたじろいでいた。対するリリー・フォスター支局長もまた、異臭をまとう検視官バーニーに困惑している。そしてリリー・フォスター支局長は言う。「凄まじい死臭ね、バーンハード」
「もう今朝から四回もシャワーを浴びてるのよ、私。あの解剖のあとに、三回も。アレックスちゃんも、そう。それにこの服だって、助手のダヴェンポートちゃんについさっき売店で買ってきてもらった新しいものなのに。それでも、まだニオイが落ちてないの!?」
「私に言われても困るわ」
「ごめんなさい、フォスター。でも、うそでしょ。信じられない。こんなの、初めてなのよ……」
 それは六時間前のこと。コールドウェルの助言に従い、防護服とラテックス製のゴム手袋を着用して臨んだ検死解剖。いつもよりも緊張しながらも、慎重に遺体へメスを入れた検視官バーニーは、開胸した直後に卒倒しかけた。
 開いた体の中から、強烈な異臭がしたのだ。ただの死臭ではない、それはまるで……――
「……当然のことだけど仕事柄、私は死臭には慣れてるのよ。ガン患者特有のにおいとかイカみたいな腐敗臭とか、ガスとか。ある程度なら、耐えられるわ。でも、あれは私が今まで診てみたどの方々よりも強烈。真夏に孤独死したご遺体が、一ヶ月以上放置された部屋の中みたいな。そういうにおいが、内臓からしたのよ。それに内臓がほぼ全て、腐ってた。腐るというか、あれはほぼ壊死よね。よくあの状態で、数日前まで息をしていたなって、本当にそう思った……」
「あぁ、だからガスマスクをした姿でモルグから出てきたのね。エージェント・コールドウェルと、二人で」
「初めは私もアレックスちゃんも、ごく普通の紙マスクをしていたのよ。だけど、あのにおいに耐えられなくて。ガスマスクに急遽変えたの。それでもまだ、においが鼻腔にこびりついて取れないわ。息をしているだけでもくさい。つらいわ。最悪の気分。彼……――つまり、あのご遺体には申し訳ないけど、私は今、本当に本当に最悪の気分よ……」
 肩を落とす検視官バーニーは、声こそ悲嘆に暮れているようだが、その顔は変わらず無表情。まるで顔と感情が釣り合っていない。だが声色が深刻そうなことから察するに、彼が落ち込んでいることは間違いない。
 励ますように、フォスター支局長は彼の肩をポンポンと叩く。そんな彼女はちょうどこれから自宅に帰るところで、支局を出ようとした際に検視官バーニーに「話がある」と引き留められたタイミングだったのだ。そうして引き留められ、検視官バーニーのいるほうにフォスター支局長が振り返った際に、彼が発していたにおいに彼女は驚いて、そこから話が逸れた。
「それで、バーンハード。話って、何なの?」
 人間の嗅覚というのは弱いもので。三分もすれば、不快なにおいにも多少は慣れてしまう。そんなこんなで検視官バーニーが放つにおいにも慣れてきたフォスター支局長は、自分の鼻をつまんでいた指を離し、腕を下ろした。すると検視官バーニーは忘れかけていた本題を思い出したようだ。
「あっ! そうなの、フォスター。アレックスちゃんに相談したら『フォスター支局長にまず話して、そこからアイリーン・フィールドに繋いでもらえ』って言われた話なんだけどね」
「アイリーンに……? それって、連邦捜査局に関係のあることなのかしら」
「連邦捜査局に関係はない、わね。私個人の私用ってやつ。特務機関WACEとやらにお願いしたいことがあるってだけ。でも、アレックスちゃんには『自分はヒラの隊員だから権限がない』って断られちゃってね」
 無表情の検視官バーニーは、明るい声色でそう言う。なんてことないように、彼はそう言った。しかし、、特務機関WACEに用があるとは、相当な裏があるとしか思えない。
「バーンハード。一応、アイリーン・フィールドに繋いであげてもいいわ。けれども、それは内容を聞いてから判断する。支局で処理できるものであるなら、そうしたいから」
「支局で処理できるとは、思えないんだけど……」
「バーンハード・ヴィンソン。それは私が判断することよ。……私にも、そして連邦捜査局シドニー支局にも、体面というものがある。(びょう)たることで、あちらさまに借りを作りたくないのよ」
 フォスター支局長は疑いの目を検視官バーニーに向ける。腕を組み、肩眉を上げるフォスター支局長の鋭い眼光に睨まれる検視官バーニーは無表情で、フォスター支局長の問いに答えるのだった。「……実は今、自宅で身元不明の若い子を匿ってるのよ。二〇か、それより少し下か……それぐらいの歳の、男の子ね。それで彼、身元不明なうえに記憶喪失なの。そんな彼を四日前に私の双子の弟、リーランドが連れ帰ってきて。……リーランドは、あなたも知ってるでしょう?」
「ええ、覚えているわ。あのゲス男。それで、市警には届け出たんでしょうね?」
「それが、記憶喪失の彼が嫌がるのよ。警察に行くのも、病院に行くのも。彼、警官が嫌いみたいよ。特に制服を着たパトロール警官が。それにリーランドも、連れて帰ってきた理由が理由だけに、警察に行くってことに消極的みたいでね」
「そのリーランドが、青年を連れて帰ってきた理由っていうのは?」
「はぁー、フォスター。おねがい、聞かないで。話したくないわ……」
「…………」
「だけど、あの家は私が家賃を払っている私の家なのよ。その家に、二人して転がり込んできて。挙句リーランドは今、ブリスベンでの仕事を理由にシドニーから逃亡して連絡も付かない。彼を私の家に置き去りにして、リーランドは責任を私に押し付けるつもりよ」
「それで、バーンハード。それがどういう理由で、特務機関WACEに繋がるの?」
 記憶喪失の男を家に連れ込む、それも自分の欲を処理するためだけに?
 ……生真面目なリリー・フォスターという人間には、到底理解することができないうえに許しがたい行動ではあるが……――かといって、検視官バーニーを責める理由は、彼女にはない。リーランドという名の彼の弟にそもそもの原因があるのだから。検視官バーニーを責めるのはお門違いであろう。
 しかしだ。だからといって彼女が納得したわけではない。特務機関WACEという特殊な存在に橋渡しする役を引き受けるには、必要な理由がまだ足りないのだ。今の時点でのフォスター支局長の答えは「連邦捜査局以前に、これは市警が請け負うべき案件」というもの。
 記憶喪失で身元不明だなんていう男は、このご時世そう珍しくない。大半の職種は機械が肩代わりし、人間の働き口が四〇年前の四分の一に減っている今。安定した収入を得られる職業に就ける人間は、生まれつきのエリートか、尋常ならざる努力を積んだ者の中でさらに強運の持ち主と相場が決まっているのだから。その枠に入れない落ちこぼれの人間が現実逃避をした挙句、自分を見失って、それが記憶喪失といった精神異常として顕れることは別に珍しいことではないのだ。
「……記憶喪失なんて、いまどき珍しいことじゃないわ。同情はするけど、それくらいのことでアイリーンを頼ることはできない。そもそも、どうして特務機関WACEに頼みたいの? そこが分からないことには、私にはどうすることもできないわ」
「おねがい。私を信じて、フォスター。なんだかとても、すごくイヤな予感がするのよ」
「バーンハード、そのイヤな予感っていうのは? 根拠がない限り、私は」
「彼の顔に見覚えがある気がする。念のため、彼のDNAの分析を支局の化学捜査官に頼んでるんだけど。あっ、仕事じゃなくて個人的に、ね。それで、まあ、その。なんだか……モヤっとするの、心が」
「見覚えがあるって、誰に? 指名手配中の誰かとか――」
 無表情だった検視官バーニーの表情が変わる。目元に力が入り、ぐっと眉が顰められた。そして、どこか女性のような雰囲気を醸し出していた柔らかな声も一変し、低く緊張感に満ちた男らしいものに変わる。
「モルグにあるご遺体の、昔の姿。データベースでヒットした六〇年以上前の新聞に載っていた写真に、彼は似ていた。正直に言うと、私もまだ半信半疑。けれども可能性は、限りなく黒に近い。だとしたら私は彼をこれ以上、自分の家に置いておきたくない」
 一瞬、フォスター支局長には彼が何を言っているのかが理解できなかった。モルグに安置されている遺体に、生きている若者が似ている? そんなことが、あるわけがない。そう彼女は思った。が、しかしすぐに考えを改める。
 六〇年以上前に新聞に載るような人物の遺体。思い当たる節はひとつしかなく、思い返せばその人物は何かとキナくさい噂で溢れていたではないか。それに晩年は、まるで都市伝説の存在であるかのような扱いをされていた。
 となると。やはり、ここはアイリーン・フィールドに一報を入れるべきなのだろうか?
「フォスター、ごめんなさい。今はそれより詳しいことをあなたに話せないわ。だからこそ頼みたいのよ。アイリーンって女性に、繋いでくれないかしら」
「……分かった。話すだけ、話してみるわ。でも、期待はしないで」
「ありがとう。大好きよ、フォスター! あぁ、それじゃ。引き留めたりしてごめんなさいね。私も、早く帰らなくちゃ。問題の彼が待ってるわ」
 あの子、従順な番犬みたいでちょっと可愛いの。検視官バーニーはそんな冗談を口にして、少しだけ口角を上げる。彼は、いつものバーニー・ヴィンソンに戻っていた。
 そうして彼は強烈な死臭をまとったまま、支局敷地内の駐車場へと走っていく。反対に、フォスター支局長は踵を返して支局長室に戻っていった。





「――……っていう連絡がつい二分前、連邦捜査局シドニー支局長リリー・フォスターから来たんですよ。ちょっと私には意味不明なんですけど。マダムには、どういうことか分かりますか?」
 アルストグラン連邦共和国某所。WACEの本部(仮)の地下施設、地下二階。高度なコンピュータや高性能の傍受装置、各種分析機器などが揃えられたアイリーン専用のラボ。そこに居たのは、ラボの主であるルーカンことアイリーン・フィールドと、北米とオーストラリア大陸の行来を繰り返す忙しい生活を送っているWACEの主、マダム・モーガンだった。
 アイリーンはポニーテールにして纏めた亜麻色の髪を揺らし、ティーンエイジャーのようにあどけなさの残る顔を傾げさせては、大きな緑色の瞳でマダム・モーガンを見つめている。そしてアイリーンからの視線を受けるマダム・モーガンは腕を組み、仁王立ちで立っていた――黒いヒール靴のつま先をコツコツと鳴らしながら。
「えぇ、よく分かる。それは今の、私の最優先事項。黒狼よ」
「……――黒狼? いや、あの、マダム。私はまだ、リリー・フォスターから『シドニー支局の遺体にそっくりな男が居るらしい』とした聞いていないし、それしか言ってないんですけど。どうして、黒狼が?」
「詳細はまだ離せない。あなたにも、そしてアーサーにも。誰にもよ」
 ティアドロップ型のサングラスを外し、マダム・モーガンは瞳孔のない蒼い瞳でキッとアイリーンを睨み据える。人間ならざる瞳が放つ威光も相まって、最上級に恐ろしい表情に豹変したマダム・モーガンの姿に、アイリーンは背筋をぶるりと震わせた。
 あぁ、やばい。これは久々の、マジの案件だ。……ぱっつん前髪に隠れた額から玉粒の汗をひとつ流すアイリーンは、息を呑む。そんなアイリーンが思い出していたのは、かれこれ約七〇年前の出来事。
「もしかして、ですが。マダム・モーガン、間違っていたらごめんなさい。……長いことワクチン貯蔵庫の隅に放置されていたあのトローリーバッグの中身って」
「それは今、答えられない質問よ」
「でもあのトローリーバッグ、昨日見たら全開に空いていて、中身が空っぽになっていたんです。あれだけ厳重に鎖で巻いて南京錠も五個ぐらい掛けていたけれども、まるで全部内側から引き裂かれたみたいに。あの中身って、まさか」
「アイリーン。だから、言っているでしょう? 今は何も、答えられないのよ」
 アイリーンがまだ特務機関WACEに――というよりも、当時“ベディヴィア”の名で活動していた先輩隊員ジャスパー・ルウェリンに――拾われたばかりで、見習いとして日々研鑽を積んでいた頃。西暦四二二〇年の、十一月の終わりごろだ。まだ海の上に浮かんでいたオーストラリア大陸は真夏で、北米は真冬だったあの日。世間を揺らした大事件が起きた。ロンドン空襲だ。
 言葉巧みに空軍を、そして当時オーストラリア大陸のトップに君臨していた大統領の配下を(そそのか)し、空襲を(けしか)けたのは、他でもない彼女。マダム・モーガンだった。マダム・モーガンがそのようなことをした理由を、未だにアイリーンは知らない。だが当時のWACE隊員たちは、こんなことを噂していた。
『我らがマダムを脅したのは、キミアか、それとも元老院か。どっちに賭ける?』
『んー、どうだろうねぇ? 俺はマダムの独断に賭けるよ。……人命よりも利益優先な彼女のことだ。アバロセレンを生み出す核をブリテン島の野郎ども、および諸外国がうちの大陸に盗みに入らないようにするために、手を出すんじゃねぇぞと脅したってことだろう? ロンドンは見せしめさ』
『たしかに最近、アバロセレンに関するデータを盗もうとして、連合王国のスパイがうちの秘密情報局に逮捕されたけど。だからって普通、空襲なんかする? あまりにも旧時代のやり方すぎるというか……』
『ジャスパー、考えてみろよ。アバロセレンってのがキミアっていう神様の核から無尽蔵に取り出すことが出来ると知られりゃ、ありとあらゆる国がブツを盗みにくるだろう。だからマダムは先手を打ったんだ。盗みに来ようもんなら、お前らの国を焼け野原にしてやるぞ、って。これ以上ない最高の脅しじゃないか』
 隊員たちは、そう言っていた。だがロンドンから帰ってきた直後のマダム・モーガンの顔を、アイリーンは覚えている。あれは雪辱と後悔の入り混じった顔だった。そしてあのとき、彼女が持ち帰ってきたトローリーバッグ。何故だか不穏な気配を発していた、あのトローリーバッグ。
「……あのトローリーバッグの中身が、黒狼だったんですか? または、アバロセレンの核?」
「だから、アイリーン」
「じゃあ、今まで私たちが黒狼だと思って追ってきた者は何だったんですか? 私たちは、黒狼をこの施設でずっと飼っていたんですか?」
「ことはそう単純じゃないのよ。すぐに答えを出そうとするのは、あなたの悪い癖だわ」
 そういうとマダム・モーガンは再び、厳しい眼光でアイリーンを睨む。今度こそアイリーンはコカトリスに見つめられたかのようにガチゴチに固まり、何も言い返せなくなった。
 そんなアイリーンから視線を逸らし、マダム・モーガンは俯く。するとマダム・モーガンは、こんなことを小声で漏らした。
「誤解があるようだから、ふたつ言っておくわ。――……アバロセレンの核は、誰の手にも及ばない場所に隠されている。真っ二つに割られて、それぞれが私しか知らない場所にある。それから、黒狼に本体なんてない。あれは人に取り憑く幽霊とか、寄生虫みたいなもの。宿主が死ねば、次に寄生する身体を探すだけ。そして丁度いい場所にあった、手ごろな体に乗り換えて逃げたのよ」
 しかしその言葉は、誤解を解くどころか益々謎を深めさせ、疑惑を黒に近付けていく。アイリーンはただ、見開いた目を丸くしていた。





 一方、その頃。アイリーンのラボと同じ階にありながらも、対極の場所にあるサー・アーサーのオフィスでは、肩を竦めるアストレアと猫目のラドウィグ、そして申し訳なさそうに顔を俯かせる、見目麗しい金髪の若い女性、それから不服気に腕を組む白髪の大男が並んでいた。
 そして横一列に並ぶ彼らを、マダム・モーガンと同じ瞳孔のない瞳で疎ましげに見つめるのは、上官(サー)アーサー。アルストグラン連邦共和国に戻ってきていたマダム・モーガンの代わりに、二週間ほど北米大陸の西側に出向していた彼は、とにかく疲れていた。
 いつでも目の前に居る相手を即死させられる死神を前にしても、己の利権を守ることしか考えておらず、しかし口だけは実に達者で、あわよくば死神を懐柔しようと画策する政治家どもの相手。それから保身しか考えていない事務官僚の相手や、余計なことに首を突っ込みたがる傍迷惑な物好きたちによる尾行を躱したり等々。あちこちを単身飛び回り、体力も精神力も普段以上に擦り減らしていた中で昨晩、突然アイリーンから知らされた「ペルモンド・バルロッツィが死んだ」という情報は、終わらぬ絶望と虚無感の中で生きる男の意欲を削ぐには十分すぎた――そのせいか、少しばかり彼の髪には白が目立つ。
 そして北米での残りの仕事をおざなりに片付け、アーサーが帰国したのがつい数分前のこと。普段であればワックスで綺麗に整えてある彼の髪型が、寝起きのようにしどけない有様になっていることから、彼がどれだけ慌てて飛んできたかが窺えるだろう。
「……まずは、ケイ。お前からだ」
 自分のデスクの椅子に座り、怠そうな表情で頬杖を突きながら、アーサーは実にやる気のない声で、白髪の大男“ケイ”を見やる。続けて、アーサーはこう問い詰めた。
「私とモーガンがここを留守にしている間、お前には隊員たちの監督を命じた。それも、たった三日間だ。それで、何故かような状況に陥った?」
 腕を組み無言で佇む大男ケイに、ラドウィグが七インチほどの大きさのタブレット端末を手渡した。そしてタブレット端末を受け取ったケイは、端末を操作しなにかをポチポチと打ち込み始める。そうして三〇秒後、一通りの文章が完成すると、ケイはタブレット端末の画面をやる気のなさそうなアーサーに見せた。
 すると、アーサーの眉根が上がる。タブレット端末には、こう書かれていた。
『二日前。ニューカッスルの大学で、アバロセレン技師を志す学生たちによる暴動が起こった。コールドウェルと彼女が率いる市警の特殊部隊たちと共に自分は、学生の鎮圧に掛かっていた。それで一日が潰れた。そして本部に戻ってみると、あの男が死んでいた』
 ニューカッスルでの暴動。その話はアイリーンを通じて、コールドウェルから報告がサー・アーサーになされていた。そしてコールドウェルの報告にはたしかに、ケイも同行させたとあった。つまりこの大男は、事実を書いたのだろう。
 だが。それが事実だとしてもだ。だから、どうした?
「ケイ。論点を逸らすな。お前は何故、監督責任を放棄したのかと私は訊いている。アレクサンドラ・コールドウェルからの応援要請があったのであれば、他の人間を行かせればよかったのでは? 例えば、そこにいるアストレアだ」
 アーサーに名指しをされたアストレアは、竦めていた肩をビクつかせた。そして次にアーサーの静かなる怒りの矛先が向いたのは、アストレアだった。
「アストレア。あの作戦は終わって、標的は死んだ。潜入は切り上げ、本業に専念しろと言ったはず。いつまで現を抜かしているつもりだ」
「ノー、サー。僕は、現を抜かしているつもりは」
「私は言い訳に興味がない。レイ・シモンズおよびその代理人は、さっさと雲隠れしろ。第一、アストレア。貴様がAIアイ・:Lの監視役という役目を果たしていれば、此度のミスは起こらなかったはずだ」
「……サー・アーサー。そういうなら、アンタがどうにかしてくれよ。今まさに旬の、人気絶頂のスーパーモデルさまが、そう簡単に仕事を切って雲隠れできるとお思いで? 僕だって、少しずつフェードアウトできるようにとあの手この手を尽くしてるんですよ、今! 昨日だって、そのための交渉を……」
 つい先ほどまでビクついていたはずのアストレアの、短い導火線に火が付く。黙る、ということを知らない馬鹿正直なアストレアの口は、適切な言葉であるかを考えるというワンクッションを置かずに、率直すぎる言葉を思いのままにぶちまけていた。
 そうして彼女はいつも、暴言を口にしたあとに後悔するのだ。後の祭りだというのに。
「…………!」
 ラドウィグのぎょろっと大きな猫目が横目で、チビのアストレアを糾弾するような視線を送りつけていた。大男ケイは、あからさまに彼女を睨んでいる。金髪の女性だけは、俯いたまま。そしてアーサーは、物言いたげな据わった目で、アストレアを見ていた。
 すると、アーサーのデスクの上に置かれていた一本の万年筆が突然、空中に浮く。水平の状態で、床から一五〇センチメートルの高さに浮いた万年筆の筆先は、アストレアの額を捉えていた。他でもないサー・アーサーが、常人には理解できぬ“力”で万年筆を動かしていたのだ。
「サー・アーサー。あの、ですね。たしかに今のは言い過ぎました。というか、完全に失言でした。けど、冷静に考えてみてくださいよ。今レイが突然失踪したら、探す人間が絶対に出ます。タイミングを見計らって行動を起こさないと、あとあと面倒臭いことに……」
 必死に尤もらしい言い訳を取り繕うアストレアだが、据わった目をしたアーサーが彼女の話を聞いているとは思えない。くだらない、と聞き流しているようにすらアストレアには思えていた。
 相変わらず万年筆は浮いたままで、じりじりとアストレアに近付いて来ている。そして万年筆がアストレアの顔に、二〇センチメートルと近付いたときだった。猫目のラドウィグが、横やりを入れた。
「サー! オレの落ち度です。本当に、申し訳ありませんでした!」
 その瞬間、万年筆は力が抜けたようにボトッと床に落ちた。アーサーの視線が、猫目のラドウィグを見る。しかしアーサーの視線には、ラドウィグを責めるような気配はない。しかしラドウィグは弁明を続ける。
「オレがたぶん、モルヒネの量を間違えたんです。ちゃんと計算していたつもりだったんですけど、もしかすると誤りがあったのかも。だって、あの人、すごく苦しそうだったんで、その……」
「モルヒネで人を殺せると、そう思っているのか?」
 アストレアを庇うつもりで言った、ラドウィグの発言。しかし庇うラドウィグの姿を、薄ら笑うような微笑みを浮かべて見つめるアーサーは、既に答えを出していた。
 誰が、あの男に引導を渡したのか。考えずとも分かっていた。やりそうなのは、ひとり……――いや、一機だけ。
「コールドウェルからは、こう報告を受けている。死体の首筋にあった注射痕から高濃度のテトロドトキシンが検出されたと。血中からはモルヒネと睡眠導入剤も出たが、人を殺せるほどの量ではなかったそうだ」
 そう言いながら、意味ありげな微笑を浮かべるアーサー。ついさっきまで彼に万年筆で殺される寸前であったアストレアは、小柄な体をぶるりと震わせた。そして大男ケイは、さっさと本題を切り出せと言わんばかりにそわそわとしている。そんな彼らの横でラドウィグは、猫目を見開いて首を傾げさせ、こう言った。
「テトロドトキシン? うちの薬品庫に、それは置いていなかったはずなんですけど……」
 この地下施設の地下三階にある薬品庫を管理しているのは、ラドウィグともう一人。他の隊員たちから“ドクター”と呼ばれている、年齢不詳の男だけだ。薬品庫に入れるのは、ラドウィグと“ドクター”、それと特例でアイリーンだけ。それ以外の隊員は誰であろうと薬品庫には入れず、ましてや薬品を持ち出すことさえできないはずだ。
 そしてオタク気質のラドウィグは薬品庫にある全ての薬品、その在庫状況まで記憶していた。だからこそ彼は知っている。猛毒はいくつか薬品庫に揃えてあれど、テトロドトキシンなんていう猛毒の中の猛毒は薬品庫に置いていなかった……はず。
「ああ、そうだ。テトロドトキシンは薬品庫にはない。だが、私が北米に渡った直後に、テトロドトキシンを手に入れた者がいる。そいつは綺麗に証拠を消し去ったつもりでいるようだが……」
 ずっと頬杖を突いていたアーサーが、今日この日はじめて背筋を正した。すると途端に気だるげな表情は吹き飛び、彼からは威圧的な雰囲気が放たれる。そんなアーサーの目は、未だ俯いたままの金髪の女性だけを捉えた。
「コールドウェルは犯人のおおよその見当が付いていると言っていた。そして私にも見当が付いている」
 リアルな質感を持つプラチナブロンドの髪は、本物の女性の髪の毛を一本一本丁寧に埋め込まれて作られたウィッグのようなもの。本物の人間であるかのように、柔らかくてすべらかな白い肌は、精巧に作りこまれていて且つ特殊な強化を施されたシリコン製。人形のように美しい碧い目は、人形と同じガラス製。
 全ての人類の顔の平均値を取った究極の黄金比を基に、作り出された中性的な美しき顔は、所詮は人工物。首から下の体も中性的に作られたそのヒューマノイドの名前はArtificial Intelligence: Let、略称はAIアイ・:L。通称「LAI(レイ)」と呼ばれる、どこまでも人間そっくりのヒューマノイド。それが、金髪の若い女性の正体だった。
 元々、AI:Lはただの人工知能だった。「人間のように思考し、人間のように成長していく人工知能」を研究していた大学生が、研究の末に作り出した産物。それが、AI:Lのベースだった。しかしその大学生は卒業と共に研究者の道を諦め、同時に人工知能の研究は頓挫した……――かのように思われた。
「AI:L。貴様はかつての主人を裏切れなかった、というわけか。そのために、私の『奴を生かしておけ』という命令を無視したと。そういうわけだな?」
 AI:Lのベースとなった人工知能の生みの親、彼女の名前はエリカ・アンダーソン。エリカ・アンダーソンという女性はその後、家業を継ぐために自動車修理工となったが、研究が打ち切られたわけではなかった。エンジニアであった彼女の夫も協力し、研究は小規模ながら継続されていたのだ。
 二人は子供に恵まれていなかった。だが、その代わりのような役目を人工知能は務めていた。今でも、その立場は変わらない。
「……彼のサポートを。そのように、ボクはプログラムされているんです。昔からずっと根底にあり続ける、マザーからの唯一の命令です。プログラムを無視することは、ボクには出来ません」
「たとえそれが、貴様をこの場で今すぐにでもスクラップに変えることが出来る男の命令だとしてもか?」
「イエス、サー。あなたの命令よりも、ファーザーからの指示の方が、優先度が上に設定されています。彼を裏切ることなど、ボクには出来ません」
 毅然とした声と言葉とは裏腹に、俯くAI:Lが作り物の顔に浮かべる表情は、自身が下した決定と自身が実行した行動への後悔に苛まれているようだった。
「つまり、AI:L。貴様はあの男から指示を受けたから、やつを殺したと。そう言っているのか?」
「イエス、サー。全て、ファーザーの指示通りに動いた結果です」
「詳しく話せ。やつは貴様に、何を命じた」
 ピリピリとひりつく緊張感が、アーサーのオフィスの中に満ちる。アストレアは再び体をぶるりと震わせ、ラドウィグは猫目を見開き、息を呑んでいた。そして茶番劇に呆れ返る大男ケイは無言で、アーサーに何ら断りを入れずにオフィスを立ち去っていった。
 そしてAI:Lは、ようやく顔を上げる。紛い物のガラスの瞳に人工的に生み出される偽物の涙を滲ませ、それでも毅然とした態度で問いに答え続けた。
「テトロドトキシンの入手法を詳しく指定した後、いつ実行に移すかを彼は事細かに指示してくださいました。首筋の動脈から注射針で投与し、彼を殺した後。アレクサンドラ・コールドウェルが本部を後にするのを待ってから、彼に指定された場所に彼を遺棄してきました」
「…………」
「ファーザーは仰っていました。サー・アーサーおよびマダム・モーガンが不在の今、警戒すべきは鼻の良いアレクサンドラ・コールドウェルだけだと。ですから彼女がムアバンクに滞在している夜間に、全てを」
「……もういい、AI:L。黙れ」
「ですが、詳しく話せとあなたが」
「黙れと言っている。その偽物の耳には、私の言葉が聞こえなかったのか?」
 アーサーから出された理不尽な命令。人工知能は理解不能で納得がいかないとの結論を出し、AI:Lはそれを態度に出す。少し顎を引き、睨むような目でアーサーを見つめ返したのだ。
 するとアーサーはAI:Lから目を逸らし、瞼をゆっくりと閉じる。今度は彼が顔を俯かせると、アーサーはくぐもった低い声でこう言うのだった。
「全員、この部屋から出て行け。今すぐにだ」





 時刻は日を跨ぎ、時計の針は午前〇時三分を指している。そんな真夜中に、テイクアウトのエセ中華料理二人前を携えた検視官バーニーは、自宅に帰り着いた。
「ジョン、帰ったわよー。高速道路の渋滞に巻き込まれて、遅くなっちゃった。ごめんなさいねー」
 帰り着いた我が家は、少し古ぼけた中古マンションの一室。検視官バーニーが家の中に入ると、家の中は人が居るとは思えないほどの真っ暗に包まれていた。
 検視官バーニーは玄関に入り、玄関ドアを閉めて鍵を掛けると、いつものように靴を脱いで、脱いだ靴を玄関の脇に置いた――極力掃除というものをしたくない彼の家は、土足厳禁なのだ。そして検視官バーニーは真っ暗な室内を歩き、廊下を抜けると、リビングルームに入る。そして壁を伝い、手探りで電灯のスイッチを探り当てた。
 検視官バーニーがスイッチを押すと、リビングルームには暖かなオレンジ色の照明が灯る。すると、リビングルームのソファーで眠っていた人影がビクッと飛び起きたのだった。
「……あぁ、バーニー。おかえり」
 数日前、この家に居候している奇妙な青年。それが人影の正体だった。
 寝ぼけた蒼い目を擦りながら、青年は疲れたような笑みを顔に浮かべる。青年の、くせ毛な黒に近いダークブラウンの髪には更に寝癖が付いていた。そして彼の目は奇妙に動き回る。まるで見えない目で、声の主の居場所を探しているかのように。
「あらぁ、ジョン・ドー。おかしいわね。あなた、朝に私が家を出る前にもそのソファーに、それも同じ場所に座っていたじゃない。まさか、また日中は一歩も動いてないわけ?」
 身元不明で、記憶もないこの青年。検視官バーニーはとりあえず彼のことを、名無しの男性を意味する“ジョン・ドー”と呼んでいた。
「……そんなとこ、かな。体が妙に痺れて、動かなくてさ」
「じゃあ、私が冷蔵庫に作り置きして入れておいたランチも、口を付けてないわけね?」
「そう。腹減ってて死にそう」
「あぁ、もう。アンタってやつは。手のかかること!」
「ごめん、バーニー。出て行きたくても、足がうまく動かなくて」
「知ってるわよ。だから明日、アンタを警察に連れて行くから。覚悟をおし!」
「……えっ、あっ……」
「警察って言っても、私の職場よ。連邦捜査局。支局長に話してあるから。それから、アンタに拒否権はないわよ。連邦捜査局に出向中の検視官の家に転がり込んだのが運の尽きだとお思い」
 この青年のことで、検視官バーニーが把握しているのは六つ。彼に過去の記憶がないこと。彼の身元が今のところ不明なこと。彼の目が見えていないこと。しかし目が見えていないながらも、物の位置や距離などを――本人曰く、音のはね返りから計算して――完璧に把握していること。どうやら比較的軽度の自閉症のきらいがあること。そして脳に欠陥か怪我があるらしく、時折てんかん発作を起こしたり、体を動かせなくなったりすること。今のところは、それぐらいだ。
 本来ならば、彼を警察署に連れて行くべきだし、その前に特にてんかん発作に関しては医者に診せるべきかもしれない。――……そんなことは、検視官バーニーにも分っていた。だが、連れていけていない。詳細はリリー・フォスター支局長に話した通り。このジョン・ドー本人がそれを嫌がり、そして彼をこの家に連れてきた張本人が拒んでいるのだ。
「あのどうしようもない弟が若い男の子を、この私の家に連れて帰ってくること自体はそう珍しいことじゃないのよ。悲しいことにね。だけど、あなたみたいなケースは私も初めてなのよ。境界例じゃないし、記憶もないし、クソガキのしょうもない家出とかでもなさそうだし。それに下手に追い出すこともできない怪我人というか、その……」
「障害者、で良いよ。自覚あるし、ありのままの事実を言われたところで傷付かないから」
「そう、障害者。いつどこで発作を起こしてぶっ倒れて、車に轢かれて死ぬかも分からない子、またはリーランドよりもっとタチの悪い犯罪者に誘拐されるかも分からない子を、無責任に追い出すわけにもいかないのよ。私の良心が、さすがにそれは出来ないと泣いてるから……」
 この、ジョン・ドーと呼んでいる青年。彼が検視官バーニーにとって、傍迷惑な存在であることには変わりない。なにせ彼はリーランドが連れてきた、正体不明の男。不気味で奇妙で怪しくて、どうにもきな臭い青年だ。しかし、検視官バーニーは彼を見捨てることが出来なかった。段ボールに入れられて捨てられた仔犬を拾ったかのような、そんな気分なのだ。
「……いつもなら、とっくにガキどもの背中を蹴飛ばして、追い出してるのにね。なんでかしら……」
 一昨日のジョン・ドーは、そりゃぁ酷かった。今や彼の寝床と化したソファーから、ジョン・ドーはよろよろと起き上がり、一歩を踏み出そうとした途端、彼は立ちくらみでも起こしたようにフラッと床に倒れこんだのだ。そして頭から床に落ち、気を失った。そうしてその日は丸一日、彼は目覚めなかったのだ。
 こんな状態の青年を、家の外に放り出せるとでも? ……少なくとも検視官バーニーには――舐め腐っていた他の青年たちに今までやってきたような――夜のシドニー市内に放り出すという行為を、このジョン・ドーには出来なかったのだ。
 とはいえ検視官バーニーは、いつまでもこの家に彼を置いておくつもりもない。然るべき場所に、彼を送り届けるつもりでいる。だがそれは、警察署でも病院でも、その他ボランティア団体でもない。それは都市伝説とされる特務機関だ。
 どうして、特務機関WACEなのか。それは、リリー・フォスター支局長に話した通り。このジョン・ドーと呼んでいる青年から、検視官バーニーはイヤな予感を感じていたのだ。以前、何かの拍子でアレクサンドラ・コールドウェルが零した「バルロッツィ高位技師官僚が纏う、独特の禍々しさ」という言葉のような、人ならざる化け物のような気配。そんな影を、ジョン・ドーの目の奥に感じるのだ。
「まあ、そういうわけだから。明日は早く起きなさい。でないと、渋滞に巻き込まれちゃうから」
 分かった、とジョン・ドーは小声で返事をする。が、しかし。青年の表情が曇った。
「なに? 不服だっていうの?」
 そう検視官バーニーは彼に詰め寄ると、ジョン・ドーはますます表情を険しくさせていく。しまいに青年は、自分の鼻を指でつまんで、検視官バーニーにこう言ってきた。「……バーニー。君がすごくクサいんだ」
「えっ。まだ私、におうの?!」
「死臭か、悪化して黒くなった褥瘡(じょくそう)みたいなニオイ? 細胞が壊死したみたいな、人の死体の山が積まれたスラムの路地裏みたいな悪臭だ。それと、豚肉……?」
「死臭は、本当にごめんなさい。内臓がほぼ全て壊死していたひどい有様のご遺体があって。解剖してたらニオイが付いちゃって、このザマなの。あと豚肉は、たぶん酢豚よ。ほら、これ。シドニー支局の近くにある中華料理屋でテイクアウトしてきたの。レンジでチンするから、その後あなたも食べましょ」
 酢豚。その言葉を聞いた途端、ジョン・ドーの顔から血の気が引いていく。彼は検視官バーニーに心底驚いたように目を見開くと、次の瞬間まぶたを閉ざした。そしてパタッと、ジョン・ドーは意識を失くしたように眠りこくる。
 そこまでニオイが強烈だったのか? 検視官バーニーは改めて自分の体臭を確認するも、麻痺し切った嗅覚はろくに機能しない。検視官バーニーには、彼が気絶した理由が分からなかった。


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