アンセム・フォー・
ラムズ

ep.09 - The fake is mightier than the fact

 午前九時。ASI本部、アバロセレン犯罪対策部の作戦会議室にて。『アルファ』というコードネームを与えられて十年が経つ男、ヒューゴ・ナイトレイは、奇妙な青年の見張りをやらされていた。
 見覚えのあるような気がしたウィッグやドレスに、ヒューゴ・ナイトレイが人違いをして声を掛けたのが運の尽き。アレクサンドラ・コールドウェルのように思えた後ろ姿の正体は、びくびくと怯える目をした男の子であり、そして彼は同僚である『レムナント』ジュディス・ミルズが噂していた青年『ジョン・ドー』の特徴を持っていた。
「……? よく聞こえなかった。……ジェド、もう一回言って」
 ジョン・ドーと思しき青年は、少なくともヒューゴ・ナイトレイの目には見えない『大きな犬のようなもの』を時に愛でるような動作を見せながら、何かと会話をしているかのような独り言を呟いている。そして彼はヒューゴ・ナイトレイがどれだけ声を掛けても、まるで聞こえていないかのように振舞った。
 壊れた人間の相手をしている気分だ、とヒューゴ・ナイトレイは感じていた。というよりも、その予想は彼の中では確信に近い。この青年の頭か、心のどこかが、何かしら欠けていることは間違いないだろう。ヒューゴ・ナイトレイにはそう思えていた。
 むしろ、どこかが壊れていないほうがおかしいだろう。体中にあれほど、長期間に渡り、継続的に折檻されたであろう傷があるのだから。
「……入りたい。――お前が、ここに……?」
 流石にあの上出来な女装のままではまずいと、ヒューゴ・ナイトレイが青年に着替えるよう指示を出したのは三時間前のこと。安い服飾屋で適当に見繕ったジャージと、同僚の女性に借してもらったメイク落としの道具を、ヒューゴ・ナイトレイは青年に渡した。すると青年から「目が見えない」との申告が出て、ヒューゴ・ナイトレイは着替えと、不慣れなメイク落としの作業を手伝わされる羽目になったのだ。
 その中で、必然的に見てしまった。青年の背中にあった、比較的新しい塞がった傷ひとつ。それから、肩やら首やら胸やらわき腹、至る所に刻まれた古傷の痕を。それは過去にひどい拷問を受けた軍人や工作員の身体にある傷痕にも似ていて、今まで見たことがあるそれらよりもよっぽど酷いと、彼には思えた。
 そうして着替えも終わり、青年に男らしい姿が戻ってきた頃。ヒューゴ・ナイトレイが、何気なく傷痕のことを青年に訊ねた。するとまだ人間らしい振る舞いが残っていた青年の表情は一変し、何かに取り憑かれた抜け殻のような、今のような状態に変貌したのだ。
「……モーガンの呪印? ……そんなこと言われても、俺にはよく分からないよ、ジェド……」
 今の彼の姿は、病的といえば、そうなるだろう。少なくともヒューゴ・ナイトレイの目には、そう映っている。
 今の青年は、少なくともヒューゴ・ナイトレイの目には見えない“何か”と会話している。それでいて、その“何か”以外の声は聞こえていない。そして延々と続く青年の独り言を遮るように、ヒューゴ・ナイトレイが重たい溜息でも零してみれば、その溜息にだけ彼は反応を示し、青年は怯えたように縮こまる。それに通り過ぎる人々の足音にも警戒心を示し、青年は極端に緊張していた。
 要するに、ヒューゴ・ナイトレイは身動き一つすらろくに取れないのだ。
「……」
 ヒューゴ・ナイトレイは、ソファーの隅に肩を竦めて座っている青年の横に座り、腕を組んで足を組み、何も言わず、可能な限り動かず、呼吸と定期的な瞬きだけをしている。幸いなことに、日ごろの訓練や研鑽の甲斐あって、ヒューゴ・ナイトレイはそれを退屈だとも苦痛だとも思わなかった。無の境地で、何も感じていなかったのだ。
 そんなヒューゴ・ナイトレイが待っていたのは、女性の足音。『レムナント』ジュディス・ミルズを待っていた――……のだが、彼の前に現れたのは別の女だった。
「…………」
 コツコツと、高いヒールを鳴らして歩く足音が近付いてくる。ヒューゴ・ナイトレイは、ジュディス・ミルズが来たのかと思った。が、彼の前に現れたのは茶髪のジュディス・ミルズではなく、黒髪で黒スーツの女。黒いサングラスで目を隠した、マダム・モーガンだった。
「ハロー、ボーイズ。ところで、あなたがミズ・ミルズの言っていた“アルファ”なのかしら?」
 初めて見る女の姿に、ヒューゴ・ナイトレイは警戒を見せる。しかしジョン・ドーのほうはというと、ヒール靴の足音に初めこそは緊張を見せていたが、彼女の声を聞くなり表情を少しだけ穏やかなものに変え、緊張を緩めた。どうやら彼女はこの青年の知り合いらしい、とヒューゴ・ナイトレイは気付く。
 しかしヒューゴ・ナイトレイの目に、マダム・モーガンは相当に怪しい女として映っていた。どうにも見覚えのある黒いスーツに、黒いサングラスという出で立ちだ。もしかすると、もしかするが……――
「ああ。俺がアバロセレン犯罪対策部附属、特殊作戦班班長のアルファだ。それで、アンタはアレクサンドラ・コールドウェルの同僚か、または彼女の上司か?」
 彼女はきっと、特務機関WACEとやらの人間だろう。そう見当を付けたヒューゴ・ナイトレイは、腰に着けていたガンホルダーの存在を彼女に向けてチラつかせる。あからさまな警戒心を向け、威嚇していたのだ。
 というのもアルファことヒューゴ・ナイトレイを含め、アバロセレン犯罪対策部のメンバーたちは、コールドウェルからろくでもない話しか聞かされていないのだ。その“特務機関WACE”というものについて。それにパトリック・ラーナーが生きていた時代を知る古株たちは、彼からもっとヒドい話を聞いたこともあるという。
 鎮圧命令の本当の意味や、標的を殺さなければ自分がボスに殺されるという話。極論、黙って仕事をするか死ぬかの二択しかないという現実。ボスの目的は人類を救うことではないらしい、という仮説など。
 まともな仕事じゃねぇから給料なんてものもねぇし、息をし続けていられることが最大の報酬っていう世界さ――……などと、コールドウェルはよく漏らしていた。ASIが羨ましくて堪らないよ、と。
 そんな噂が付きまとう特務機関WACEから来た人間だ。付き合いの長いアレクサンドラ・コールドウェルは信用できたとしても、初対面の者相手にはそうはいかない。
「ねぇ。アンタたちは、その『おねんね銃』なら所かまわずブチかましていいと思っているの?」
 ヒューゴ・ナイトレイがチラつかせているのは昨日、コールドウェルがマダム・モーガンに向けた銃と同じモデル。スリーパーA79、通称『おねんね銃』。それを見て、昨日の痛みと寝覚めの悪さを思い出したマダム・モーガンは、露骨に不愉快さを露わにした。
 そしてヒューゴ・ナイトレイが、マダム・モーガンの質問に対し『イエス』と首を縦に振って答える。
「サイレンサー不要の消音銃だし、殺傷能力はないからな。場所を選ばずに使える」
 するとマダム・モーガンは、ますます不愉快そうな表情になった。
「ミスター・ペイルが『人を殺さない銃』なんて余計なもんを造ったばっかりに……――乱用者が増えちゃ、本末転倒しているようなものだわ」
 殺さないからといえ、むやみやたらに発砲していいわけがないでしょうに。……そう頭を抱えるマダム・モーガンの姿は、甘い考えを持つ若者の姿に未来の世界を憂う老人そのもの。そして彼女は大きなため息を一つ吐くと、簡単な自己紹介を済ませた。
「――まあ、それは今は措いといて。私は、モーガンよ。マダム・モーガン、そう呼んで頂戴」
 マダム・モーガン。聞いたことがあるかもしれない名前に、ヒューゴ・ナイトレイは更に警戒心を強める。と、そのとき。黒スーツを着た溌剌とした若い男と、真っ黒のフード付きパーカーを着て、フードを目深に被った幼い男の子――のように見える女――も、同じ部屋に入ってくる。これまた、ヒューゴ・ナイトレイにとって初めて見る人間だった。
 警戒心むき出しのヒューゴ・ナイトレイは、新たにやってきた二人を、特にフードで顔を隠している挙動不審な方を睨みつける。溌剌とした若い男の方は睨まれていることに気付いていない、または気付いていても気にしてもいない様子だが、フードを被っている方は気付いたようで、肩をビクッと震わせていた。
 すると溌剌とした若い男のほうが、間延びした声で暢気なことを言った。が、その途中で顔色を変える。
「この局内、ややこしすぎますよ! マダムは先に行っちゃうし、幽霊がわんさかうろついているし、危うく迷うところでし……――あっ」
 白目がちな大きな目と、およそ人間だとは思えないような、爬虫類や猫に似た瞳孔を持ったその若い男は、その奇妙な目で何かを見つめ、静止した。そんな彼の視線の先には、ヒューゴ・ナイトレイが昨晩からワケあって連れて歩いている青年がいる。そして若い男は、その青年の手を凝視していた。何か大きな犬でも撫でているような、その手を。
 するとマダム・モーガンの視線も、若い男と同じ場所に向く。彼女は、こんなことを言った。
「あら、大きな悪い狼さんが居るじゃないの。お久しぶりね、ジェド。入れる器がなくて、残念ねぇ?」
 若い男、つまりラドウィグと、マダム・モーガンには、それが見えていた。マダム・モーガンの目には犬のような姿をした揺らめく黒い影として映り、ラドウィグの目にはハッキリと、黒い毛並みと不気味なほどに綺麗な緑色の瞳を持った狼として見えていたそれは、黒狼ジェド。
 しかしそれ以外の他の者、普通の人間には、黒狼ジェドを見ることが叶わなかった。だからこそ、ヒューゴ・ナイトレイは眉を顰める。彼には、狼やそれらしいものなど、何も見えなかったからだ。
 すると、そのとき。ジョン・ドーの手が、ヒューゴ・ナイトレイの膝に触れる。
「なんだ? ……っ!」
 ジョン・ドーの意図の分からぬ行動に、一瞬だけ戸惑いを見せたヒューゴ・ナイトレイだが、すぐにそれも吹き飛ぶ。今度は彼の目にも、しかと見えたのだ。そして、声が聞こえた。
『よぉ、アルファ。お前の活躍は全て知ってるぜ? 曙の女王の姿を、運悪く見ちまったこととかなァ?』
 ジョン・ドーの足元に、利口な犬のように伏せをして待機している狼が居たのだ。黒くて、緑色の狼。そして、狼は笑っているようにも見えていたし、狼が今喋ったようにすらもヒューゴ・ナイトレイには思えた。
 そしてヒューゴ・ナイトレイは、思った。これが本物の悪魔とやらか、と。


+ + +



 それは昨晩、夜中のこと。ジョン・ドー。最近はそう呼ばれている青年は、真っ暗な世界の中で、聞こえてくる声を無心で聞いていた。
 聞こえてきた声は、優しそうで気が弱そうな男の声だ。若くもないが、かといって年をいっているわけでもない。三〇代半ば、それくらいと思しき年齢の男の声だった。しかし、空気感といった情報から得られる男の体躯は、うんと小さいように思えた。身長は一六〇センチ前後で、小柄な女性のように細い。だがその男は、随分と落ち着きを払っている。小心者ではないらしい。
「あなたは何も知らないでしょう、ジョン・ドー。ですが、彼から最期に伝言と仕事を賜った以上、私はその役目を果たさなければなりませんからね」
 そう言いながら優しそうな雰囲気の男は“アーサー”が青年に着させた拘束衣のバックルを解き、それを脱がせた。しかし、男は青年に「まだ椅子に座っていなさい」と指示する。
「なぁ。誰だか知らないけど、こんなことして良いのか? アーサーが来たら、何を言われるか分かったもんじゃ……」
 何が起こっているのか。自分は何をこれからされるのか。その状況が飲み込めていなかった青年は、目の前の男にそう尋ねた。すると男は穏やかな声でこんなことを言う。「あなたは、アーサーから逃げなければならないんですよ、どうしても」
「……どうして?」
「アーサー、彼はあなたを道具としか思っていない。ここに居続ければ、あなたは彼の望む道具に作り替えられてしまうでしょう。あなたがそれを望もうが、望むまいがに関わらず。……あなたは彼の為に、罪のない人々を殺したいと思いますか?」
 あくまで、聞こえてくる声は物腰穏やかで優しそうな雰囲気だった。声色からは言葉の重みなど、まるで感じられない。しかし、その言葉は重く青年の心に迫ってくる。
 するとまた、男がこんなことを言った。
「私は、ある男からアーサーの企みを阻止するよう命じられています。そして今、その為に動いているんです。あなたをこの施設から逃がすこと、それが今の私の最優先事項。目的を果たすためには、手段を選んでいられないのですよ」
 そう言う男の声の後ろでは、何かがガサゴソと音を立てていた。丈の長い衣服、ドレスのような何かが揺れる音。ヒール靴を床に置く音。それから、何やらポーチのようなもののジッパーを開けるような音。そしてプラスチックのケースか何かが、カチッと開いた音だ。
 この男は、何をしているんだろうか。――……真っ暗闇の世界の中、青年は考えていた。すると、青年の頬に何かが触れる。コットンのような、柔らかい何かだ。そして男の、ひとりごとを呟く声が聞こえてきた。
「……エージェント・コールドウェル、あなたがこの施設に置いていった私物を、勝手に使わせていただきます。彼の容姿を変えるためには、必要なことなんです。ごめんなさい、あぁ……!」
「容姿を変える?」
「いいですか、よく聞いてください。ジョン・ドー」
 すると、男の雰囲気が変わる。穏やかな物腰だったことが嘘のように、今度は緊張感に満ちた声に変わっていた。
「あなたは変装が終わったら、すぐに階段を駆け下りて、地下五階に潜るんです。そうしたら、地下五階には地上にだけ直通しているエレベーターがありますから、それに乗るんです。そして市街地に向けて走りなさい。決して振り返らず、ここには戻ってはいけない。そして彼の最期の言葉を信じるならば、あなたが走り続けた先で、ASIの局員を名乗る人物と出会います。その人物は、信用していいそうです。あなたのことを、安全な場所へ連れて行ってくれる人ですから」
 粉のような、液状のような、そんな何かが青年の顔に塗りたくられていく。男の手つきは少し乱暴で、早くて、時間に追われて焦っているようだった。そして『容姿を変える』という言葉の意味を、青年は理解した。どうやら、かなり別人に変わるらしい。
 それから、どうしてもこの場所から逃げなければいけないようだった。この男によると“アーサー”は相当な悪人で、何かまずいことを企んでいるらしい。青年は、その言葉を信じたわけではないが……男の尋常ならざる焦りから、それが多分事実なのであろうと察していた。
 青年は“アーサー”という男に、悪い印象は特段抱いていなかった。だが“アーサー”がここに彼を閉じ込めたがっているのは事実。そしてその目的は、一切知らされていない。
「……あんたの名前、聞いてもいい?」
 逃げる前に、恩人となるだろう男の名前を聞いておきたかった。だから青年は、そう尋ねた。すると返ってきたのは溜息、そしてしばらくの無言。
 そうして数分が経った後、男が口を開く。
「私の名前は、パストゥール。アルスル・パストゥールです。あなたの偽物の男に二度も命を救われた、医者の端くれですよ。……世間では『ドクター・ペヴァロッサム』という偽名のほうがよく知られていますがね」





 午前十時半。ニールに、市警から正式な連絡が来たのは、その時間だった。
「……ええ、はい。ありがとうございます、バスカヴィル警部補」
 シドニー市警鑑識課主任、警部補のエイミー・バスカヴィル。そう名乗った女性が、電話越しで伝えてきた伝言は業務連絡のように非常に単調で、短いものだった。
 ペルモンド・バルロッツィ高位技師官僚の遺体を発見したホームレスが今朝、変死体で発見されました。現在シドニー市警のモルグに安置しています。検視解剖が終わり次第……――たぶん明後日には、ニューサウスウェールズ遺体安置所に移される予定です。
 冷淡であるように思えた電話越しの女性の声は、そのあとに何かを続けて言おうとしていたが、躊躇ったようにそれを止めた。ニールはその奇妙な沈黙に違和感を覚えたものの、追及することはせず、静かに受話器を下ろした。
「はー……――ダグラスさんが、亡くなったのか」
 朝に観たコールドウェルの異様な目つきから、なんとなくだがニールも予想をしていた。だが、こう現実に目の当たりにすると、覚悟はしていたが整理はつかなかった。
 ついこの間、この部屋で会って話していた相手が、死んだなんて。信じられなかったのだ。
「…………」
 連邦捜査局シドニー支局、地上六階の会議室に居たニールは、押し寄せる後悔に打ちひしがれていた。そんなことをしている場合ではないと分かっていても、切り替えがうまくいかない。
 下では、報道陣が押し寄せている。ギャングを狙った連続殺人を何故隠していたのかと、糾弾しているそうだ。そのマスコミ対応を今、副支局長であるジェームズ・ランドールがやってくれているが……――事件の進展は無い。凶器が見つかった、生きている被害者が見つかった。が、それ以外の収穫は無いし、この先も見込めない。
 地下で検視官バーニーは、各所から集めた実習生と、検視局や監察医局にSOSを送り、急遽派遣してもらった検視官三名と助手二名、監察医二名とで、三〇体を超す遺体を捌いているが、そこからも大した収穫は見込めないだろう。
「……はぁ。曙の女王が、ユン・エルトルか。ハイスクール時代の悪夢が再来したって感じだな……」
 人間が起こした事件なら、どんな凶悪犯罪でも解決の糸口があった。ここには優秀な人材が揃っていて、最新鋭の機器はやや足りていないが、それでも十分な戦力がある。人間が相手なら、連邦捜査局は対処できるのだ。だが、相手が人間でない存在なら話が違ってくる。
 檻に入れたところで、すぐに壁をすり抜け逃げ出してしまうような相手を、どうやって捕まえろというのだ。それに相手はわざとらしく証拠を残し、正体を隠すことすらせず、堂々と人前に現れる。相手の正体は分かっている。なのに、捕まえられないのだ。
「それにしても。……あの病弱だった美少女が、どうしてあんな残忍なことを……?」
 今、ギャングどもを散々殺して回っている曙の女王がどこに居るのか。それが全く以て分からない。そして彼女をどう捕まえて、どう閉じ込めるのかも、分からない。さらに最終的な彼女の目的も分からない以上、先手の打ちようがないのだ。何もかもにおいて負けている。残念ながら、それが現実だ。
 そしてニールにとって最も不可解だったのは、彼女の正体だ。ユン・エルトル。彼女は、人間ではなかったのか? コールドウェルから聞いた『死神』二人の話のように、彼女も死んで生き返ったら化け物に変わっていたのか。それとも初めから、彼女は人間ではなかったのか?
 あまりにも、分からない点が多すぎる。
「…………」
 そして今、コールドウェルはASI本部へと向かったため、ここ連邦捜査局シドニー支局には居ない。今ニールに出来ることは何もなく、彼に出来ることと言えばジェームズ・ランドール副支局長がうまく報道陣を往なしてくれること、それからコールドウェルが何か良いニュースを持って帰ってきてくれることを祈るぐらいだった。
 ――そんなこんな、コールドウェルはASI本部のアバロセレン犯罪対策部に顔を出していた。先に来ていたラドウィグとアストレアは、普段ジュディス・ミルズが使用しているデスクの周りに屯して、コールドウェルのことを待っていた。そして金髪のヒューマノイドAI:Lは、安物のキャップ帽を目深に被り、ラドウィグらに近い壁際に待機している。そんなAI:Lの傍には、落ち着かない様子でそわそわとしているジョン・ドーの姿があった。
 アバロセレン犯罪対策部のオフィスに入ったコールドウェルは、目が合った知り合いたちと軽い挨拶を交わす。そして彼女が最後に声を掛けたのが、オフィスの隅に置かれたソファーに深く座り、気難しそうに足を組んで腕を組んでいた“アルファ”ヒューゴ・ナイトレイだった。「よぉ、色男。気難しい顔してるが、何かあったのか?」
「……おお、色男アレックス。そっちこそ、暗い顔をしてるな」
 それまではずっと、気難しげな顔でどこかを見つめながら、何かを考えている様子だったヒューゴ・ナイトレイだが、コールドウェルの声に気が付くとすぐに態度が変わった。防弾ベストを着た“アルファ”としての顔、つまり仕事中のクソ真面目さとは大きく乖離した、オフの時にだけ見せる自信満々なプレイボーイの笑顔に変わったのだ。
 さて、何の話を聞かされることになるやら。……そんな考えが過ったコールドウェルは、唇をへの字に歪ませる。プレイボーイのヒューゴ、というモードに入っている時の彼は、とにかく扱いが面倒くさいことを彼女は知っていたからだ。
 アルファとしての戦闘服を脱いだ彼は、本当に仕様もない男だ。彼の口から出てくるのは、できればコールドウェルは聞きたくない話ばかり。それに彼は、不愉快そうな顔をするコールドウェルをからかうことを楽しんでいるようですらある。「まあな。昨晩も今朝も色々あって、寝不足だよ。アタシも、ジュディも。それから、誰が色男だって?」
「アレックス。お前って女は『アレクサンドラ』っていうよりかは『アレクサンダー』って雰囲気だ。男よりも男らしい、それも男の中の男だ。映画に出てくるようなガチムチのヒーロータイプ。さぞかし女にモテるだろ? レムナントだって、お前にゾッコンだしな。下手すりゃ、俺よりも女に……――」
 ヒューゴ・ナイトレイの失礼な言葉に、コールドウェルは無意識のうちに身構えていた。そんな彼女の行動を、手練れのASI局員が見逃していないわけもない。そしてヒューゴ・ナイトレイはコールドウェルを馬鹿にするように、ニヤニヤと笑う。対するコールドウェルは、この低俗なやり取りに嫌気が差していた。
 が、うまいことこの会話を終わらせる方法が、コールドウェルの頭に思い浮かばない。苦肉の策で絞り出したのは、とりあえず話題に乗っかるふりをして論旨を逸らすという時間稼ぎだった。
「ああ、そうかもねぇ。誠実なアタシは、下半身でしかものを考えないアンタよりも、うんとモテるかもしれねぇな。キャンベラのショーパブにゃ、美人の知り合いがいっぱいだしよ。歌姫連中はいいぜ?」
「歌姫って……お前、そっちが好きなのか? あの女装家連中が?」
「ドラッグクイーンを馬鹿にしないほうが良いよ、ヒューゴ。あの歌姫さんらは高級娼婦たちよりも、よほど有益な情報を持っていたりするから」
 プレイボーイの下らない話を切り上げる策を練るために、時間を稼ぐつもりで振った話だが、コールドウェルはすぐに後悔した。時間稼ぎではなく、逆に火に油を注いでしまったと。
 ショーパブ。歌姫。ドラッグクイーン。次に連想される言葉は? 酒やら夜やら、どう考えてもこのプレイボーイが好きそうなものばかりだ。
 やっちまった、とコールドウェルが後悔したところで後の祭り。プレイボーイの笑顔がサディスティックに歪む。
「ドラッグクイーンといえば、あのジョン・ドーだ。あいつ、お前の服を随分と着こなしてたぜ? 一瞬、本気で女かと思ったほどさ。手足も細くて毛が無いし、お前よりもあいつのほうが綺麗だったかもな?」
 コールドウェルの表情が、あからさまに曇る。抑えきれない拒否反応が、思わず顔に出てしまった。そして嫌がるコールドウェルの顔が、プレイボーイの歪んだ性根の底で燃える不純な火をますます焚きつける。
「俺は、綺麗な女としか寝ないと決めてたんだがなぁ。可愛い男も、これはこれでアリだと思ったぜ」
 ちらり。コールドウェルはヒューゴ・ナイトレイから視線を逸らし、壁際に佇むジョン・ドーと、その横のAI:Lを見やる。ジョン・ドーにはあの男の面影が少しあるが、しかしその姿は成熟していない少年。大人の男ではない。
 ジョン・ドー。彼の容姿は、まあ整っているほうではあるだろう。髭面と痩せこけた顔も相まって、イカつく感じられたあの男と同じ彫りの深い顔立ちも、ジョン・ドーの場合はまだ輪郭に残るあどけなさが丸みを演出していて、雰囲気も柔らかく、年頃の青年にしては可愛らしい顔をしている。それに彼の、くりっと丸く大きな垂れ目と、物憂げな長い睫毛、鼻筋の通った高い鼻は美少年のそれだ。
 しかし、だ。コールドウェルは残酷な真実を知っている。
「……ほら、あれ。よく居るだろう。子供の頃は周囲の誰もが認める美少年でも、大人になってみりゃ、なんだか顔のパーツがちぐはぐで、どうにも崩れた顔になっちまう男ってのが。またはゴツくなったり、イカつくなったり、胡散臭い風貌になったりで、残念なジジィになっちまうのとかよ」
「そうか? 俺は期待してるぜ、あのガキに」
「アタシには、彼のあの垂れ目が、最近死んだ高位技師官僚とダブって見えるんだがね」
「ペルモンド・バルロッツィだって? 冗談きついぜ、アレックス。彼のあの猜疑心に歪んだ一匹狼みたいな顔と、甘えん坊なシベリアンハスキーの仔犬みたいなジョン・ドーじゃ、似ても似つかねぇだろ」
「……どっちも似たような犬じゃないか。大人か、子供かの違いしかないだろ」
「ないない、絶対に有り得ない。ジョン・ドーが、あのペルモンド・バルロッツィに似てるわけがない」
 冗談きついぜ。その言葉をそっくりそのまま返してやりたいが、コールドウェルはうんと我慢する。知らないほうが良い真実もあるものだ。「それで、ヒューゴ。あんた、まさか……」
「昨日の夜は良かったぜ? 自称美人の女どもよりも、金だけせびって後はおざなりな娼婦よりも……いや、比較にもならねぇな。女よりも可愛かったぜ」
「……あんた、その話は墓まで持って行った方が良いよ」
「おいおいおい、誤解だ。あっちのほうから誘ってきたんだぞ?」
「いや、そういう問題じゃ――」
「これでも俺は紳士だ、人道にもとるような乱暴なことはしないさ。乱暴なのをおねだりされたら……話は別だがなぁ?」
 まるで聞いていられない。そう感じたコールドウェルは、ヒューゴ・ナイトレイに背を向ける。執念深いマダム・モーガンに今の話を聞かれていたのなら、彼は処刑されるだろう。コールドウェルには、そんな気がしていた。
 まったく、なんて考え無しなことを。溜息と共にコールドウェルが、そんなことを言おうとした直後だった。ヒューゴ・ナイトレイが、こんなことを言ってきた――先ほどまでとは打って変わった、自省に満ちた暗く沈んだ声で。
「しかし、まあ……――それも、電気を消した真っ暗闇の中での話だ。今朝、あれの傷だらけな身体を見たときに考えが変わったよ。今はとんでもねぇ間違いを犯したとも思ってるさ」
「アンタらしくないじゃないか、ヒューゴ。気味が悪いったらありゃしないね」
「あいつは昨晩、過去の記憶をリプレイしていただけだったんだろう。……猫撫で声で自分からせがんできた割には、どうにも怯えて緊張していたうえに、命じたわけでも何でもないにも関わらず、やけに隷属的だったから、奇妙だとは思っていたが。今は、あれの行動に全て納得してるさ」
「……?」
「俺はあいつを、可愛いと感じた。だが裏を返せば、あいつは俺にそう思われるよう必死に振舞っていたってことだよな? つまりそりゃ、生き抜くためにそうせざるを得ない環境を潜ってきたってことだろ? だとしたら俺は、とんでもねぇトラウマをほじくり返したのかもな……。現に今朝のあれは、昨晩の出来事を何も覚えてない様子だったし」
 プレイボーイな雰囲気はいずこへ。どうやらヒューゴ・ナイトレイは、この一人では処理しきれないモモヤモヤを、良くも悪くもキッパリと断罪してくれるコールドウェルに懺悔したかったようだ。だから彼は、話したくて堪らないという態度を出していたのだろうか。
 しかし、こんなことを打ち明けられたところで……なんと言葉を返せばいいのやら。
「はぁ~……――だろうねぇ、ヒューゴ。確実にアンタは、開けちゃならねぇ記憶の箱を開けただろう。しかし、まあ、当人が覚えてないようなら、なかったことのように振舞うしかねぇよ。また思い出させるのも酷だろう?」
 溜息とともに、ヒューゴ・ナイトレイのほうに振り向いたコールドウェルは、そう言った。当事者でないコールドウェルには、そんな他人事のような言葉しか言うことが出来なかったのだ。
 気まずい空気は当然のごとく訪れ、しばらく無言が続く。すると、ヒューゴ・ナイトレイがこんなことを零した。「痛みは嫌い。けれど痛みが無いと、自分が生きているのかが分からない。……ってのは、どういう心境だ? アレックス、お前には分かるか?」
「あ?」
「ナニの最中にあのガキが言ってたんだよ。そんな感じのことをな。あン時の俺は、単純にマゾ野郎なのかと思ったんだが、今は何か意味があるように思えてなぁ……――というか、待てよ。俺はまさか、未成年とヤッたのか? それは、まずいな。ジョンソンにバレたら、いや、それどころか“大学行き”だぞ……?」
 痛みを求める。そう聞いてコールドウェルが真っ先に思いついたのは、死んだ精神科医の男の顔、つまりカルロ・サントスだった。
 リストカットについて、彼は言っていた。痛みで命の実感が得られるらしい、と。また、彼はこうも言った。痛みが意識を飛ばす、現実を忘れられるらしい。つまり人によりけり、ケースバイケースだ、と。
 そしてカルロ・サントスの次に、コールドウェルの頭に浮かんだのはつい昨日見た女の姿だった。
「……曙の女王」
「曙の女王? 急にどうした、アレックス」
 人が、自ら望んで痛みを求める心理も気になる。が、それよりも今コールドウェルが気になったのは、無慈悲に痛みを……――いや、殺戮をばらまく者の心理だ。
「曙の女王だよ。アバロセレンを盗むために、何故ギャングたちを惨たらしく殺す必要がある? それも一〇代の若者ばかりだ。アバロセレンなんかこっそり盗んで、黙って逃げりゃいい。彼女には、それが出来るはずなんだ。なのに、何故わざわざ殺す? どうして騒ぎを焚きつけるような真似をし、自ら追われる羽目になるような状況を作る? 彼女は何がしたいんだ? アンタはどう思うかい、ヒューゴ」
 逆に、返された質問。ヒューゴ・ナイトレイの頭は一瞬、固まる。しかし彼の口は、動いていた。
「見当違いの復讐か? 自分がその年頃だったときに受けた仕打ちを、今の若い連中にやり返してるとか。彼女には自分の過去か、または妄想しか見えていないから、現実のことなんか考えちゃいない。だから警察組織の存在すら失念していて……――いや、まさかそんなわけが」
「それだよ、ヒューゴ!」
 コールドウェルが突然上げた大声。ヒューゴ・ナイトレイはビクッと肩を震わせ、周囲の目は一斉にコールドウェルに集まった。ラドウィグもアストレアも、コールドウェルを見ている。壁際のジョン・ドーも相当驚いた様子で、金髪のヒューマノイドが彼を宥めていた。
 それでも、コールドウェルは何も気にしない。声量は抑えたが、熱はそのままに語りはじめる。
「彼女を捕まえて檻に入れられるとは思えねぇが、殺戮は止められるかもしれねぇ! となりゃ曙の女王サマを引き摺り出して説得を……――」
 しかし。興奮したのも束の間のこと、すぐに熱は冷めた。
「どうやって、引き摺り出す? それに説き伏せられるかどうかも分からねぇのに、なにを熱くなってるんだか……」
「そうだな、アレックス。曙の女王は、霧のように現れ、煙のように消えていったんだ。あの化け物の出現場所を特定する、ましてや捕らえるなんて、無謀としか思えないな」
 相手がもはや人間でないことを、昨日コールドウェルは目の当たりにしたばかりだ。そして“アルファ”ことヒューゴ・ナイトレイも、曙の女王の不気味さを見ている。彼も彼女も、分かっていたのだ。相手にはとても敵いっこない、戦いを挑む前から負けが見えていると。
 興奮が冷めた後、途端に失意から委縮する二人。しかしそこに堂々としたベテランの足音がやってくる。
「どうした? 寝る相手を間違えたナイトレイはさておき、猛獣アレクサンドラが沈んでいるとは」
 六〇歳も越えて数年、しかしまだ仕事を辞める気はなさそうな――というより、辞める機会を逸し続けている――その男は、テオ・ジョンソン部長。前部長ポール・ドノヴァンの殉職を受け、その職を引き継ぎ、アバロセレン犯罪対策部を取り仕切り続けて七年。その昔は“クイーン”というコードネームを持つ男とバディを組んでいた“キング”の名を冠する男。それが彼、セオドア・“テオ”・ジョンソンだ。
「アレックス。お前がそんな顔をしていると、あの世でパトリックが嘆くぞ? 『まさか、よりにもよってあなたが、化け物相手に音を上げるだなんて。私はどこで教育を間違えたのか……』って具合にな」
 絶妙に似ているようで、何かが違っている故人の物まねを披露しながら、テオ・ジョンソン部長はそんな言葉をコールドウェルに掛ける。彼なりの励ましの言葉だったのだが、その言葉は余計にコールドウェルをブルーな気分にさせるのだった。
「……そうだな。たしかに、彼に向ける顔がないよ」
 どうしてなのか。その理由を彼自身に訊いたことは、コールドウェルは一度もない。しかしコールドウェルの師であるパトリック・ラーナーという男は、ASIが“化け物”と呼び、特務機関WACEが“元老院”と呼ぶ存在を心底疎んで嫌っていた。そして彼はアーサーを嫌い、ペルモンド・バルロッツィの中に居る“見えない何か”を嫌っていた。――そして彼は、隙あらばそれら化け物を食い殺してやろうとしていたように、今は思える。
 誰よりも小さくそして満足ではない華奢な体で、誰よりもスマートな獰猛さを持っていたひと。そんな彼が、今のコールドウェルを見たら……テオ・ジョンソン部長の物まねのように、彼はコールドウェルに落胆することだろう。
 戦いを挑む前から負けを認めることが、どれほど恥ずかしいことか。コールドウェルも、分かっていた。
 だが、後ろめたさの原因はそれだけじゃない。なんとも形容しがたい後悔が、彼女の胸の中にはあった。それは、かれこれ三〇年近く引き摺っている後悔。悪夢というに相応しい形で、舞い戻ってきた後悔だ。
 それに朝から、コールドウェルにはバッドニュースが続いていて。まるで頭が動かないのだ。
「……情けないよ、まったく」
 すると、そんなコールドウェルの肩にテオ・ジョンソン部長は手を置く。そして彼はコールドウェルに、こんなことを言った。
「お前に『パトリック・ラーナーとノエミ・セディージョのようになれ』とは言わない。第一、パトリックのように殉職されちゃ堪ったもんじゃないからな。だが、これは言わせてくれ」
「なんだい、ジョンソン」
「連邦捜査局のニール・アーチャー特別捜査官……だったか?」
「ニール・クーパー、だな。アーチャーは昔の……――」
「まだ彼は、クーパーの姓を名乗ってるのか?」
 まだ。テオ・ジョンソン部長の発したその言葉が、コールドウェルの曇った頭にひどく引っ掛かる。すると驚く彼女の反応に、テオ・ジョンソン部長も驚いていた。
「五日前に聞いた最新情報だと、離婚専門の弁護士に会っているとかで、離婚のカウントダウンが始まっていると聞いたんだが。家族以外では彼と最も親しいはずのお前が知らなかったとは、意外だな」
「……あのクソ野郎、自分の命に代えてでも守ると豪語してた嫁さんを捨てるだと?」
 クソ野郎。その言葉に、今度はテオ・ジョンソン部長が驚いた。彼はてっきり、コールドウェルが離婚話を喜ぶとばかり思っていたのだ。ニールとコールドウェルの関係が、そういうものだとばかり思っていたのだから。
 しかし義理堅い性分の彼女は、軽薄な男を断罪する気でいるらしい。たとえそれが、一番の友人である男だとしても。いや、一番の友人であるからこそ、彼女は憤慨しているようだ。
 そんな彼女の調子がいつも通りでないことは、テオ・ジョンソン部長もすぐに分かった。だが、いつも通りの彼女に戻るのを待っている時間はない。敵は待ってくれないのだから。
「まあ、それはいい。アレックス、とにかくお前は彼と、タッグを組め。お前はパトリック・ラーナーにはならなくていいが、トラヴィス・ハイドンになって欲しいんだよ。そしてアーチャー特別捜査官には、トーマス・ベネットの役を演じてほしい。かれこれ四十年近く昔の、あの二人の役だ」
 何を言っているのかが分からない。コールドウェルはそんな顔を、テオ・ジョンソン部長に向けた。彼女の近くに居たヒューゴ・ナイトレイも、困惑顔だ。トラヴィス・ハイドンは知っているが、トーマス・ベネットというのは誰のことだ、と。
 しかし丁寧に説明するような時間はない。テオ・ジョンソン部長は細かな説明はすっ飛ばし、概要だけをコールドウェルにぶつける。「いいか、お前とアーチャー特別捜査官の二人で、密に連携を取るんだ。上に立つ者同士で、息を合わせろ。そして現場に出る、下の人間たちの動きをサポートする。細々とした微調整は、ミルズおよび他の局員にやらせるさ」
「そんなことを急に言われてもだ、ジョンソン。アタシは……――」
「というわけでだ、アレクサンダー・コルト。ASIに、そしてうちの部に加われ」
「えっ……」
「どうした、コルト。それがお前の本名じゃなかったのか?」
 コールドウェルが一度も明かしたことのない本名を、テオ・ジョンソン部長はさも当たり前のように口にする。とっくにASI側に過去もバレているだろうことは彼女も薄々予想していたが、こう突き付けられると……やはり、少し緊張するものである。
「ハハッ、こりゃ驚いたぜ。アレックス、お前の本名は『アレクサンドラ』じゃなく『アレクサンダー』だったのか? 俺の勘は冴えていたみたいだな! やっぱりお前は、男の中の男だ」
「ちょっと黙ってろ、ヒューゴ」
 だが、それだけでは終わらない。テオ・ジョンソン部長は意味深に微笑む。そして彼は、続けて言った。
「ちなみに、アレックス。これは特務機関WACEへの提携の申し出ではない。君個人へのオファーだと思ってくれ。君をうちで、雇いたいんだよ」
ぶるり。テオ・ジョンソン部長の笑顔が、コールドウェルにじりじりと迫り、彼女の背中を緊張で震わせる。息を呑んだコールドウェル……――否、アレクサンダー・コルトに、それでも彼は詰め寄り続けた。
「うちは毎月きちっと給料も出るぞ? 待遇もそう悪くない。それに、アレックス。お前の能力がどれほどのものか、それとお前が持っているコネクションがどれほど有用なものであるかは、私もよく知っている。それにお前のこれまでの働きも加味して、一発採用は間違いなしだ。さぁ、どうする?」
 当然、答えはイエスだろう? そんな風に無言の圧を送るテオ・ジョンソン部長を前に、アレクサンダー・コルトは何も返事が出来ず、固まっていた。昨晩からドタバタの連続で、朝からはバッドニュースの嵐で、そして今は……突拍子もないオファー?
 これを吉報と捉えるべきか、はたまた悪魔の誘いと取るべきかを彼女が決めあぐねていると、テオ・ジョンソン部長は笑顔を消す。真顔に戻った彼は、至極冷静な口調で更なる衝撃をアレクサンダー・コルトに齎すのだった。「まあ、お前の返事は待っていないがな。これは決定事項だ」
「……!?」
「バーソロミュー・ブラッドフォードが重宝していた幸運のカラス、マダム・モーガン。彼女と、現ASI長官が取引して決めた。アレクサンダー・コルト、お前は今この瞬間からASIの局員で、そしてお前は私の部下だ。お相手のいないジュディス・ミルズとバディを組め。あいつにも、後から伝える。再度言うが、これは決定事項だからな」
 ここ数日、目まぐるしく変化する日々が続いていた。だが、今日ほど最高に狂っている日はあるだろうか?
 アレクサンダー・コルトは考える。いいや、ここまで酷い日はない。今まで、一度も!
「早速だが。コルト、お前に仕事がある。そこの暇を持て余しているヒューゴ・ナイトレイと二人で、アルフレッド工学研究所に行け。国からの資金援助を餌に、イザベル・クランツを懐柔しろ。そしてあの研究所に『大陸を支えるリアクターを利用し、SODを引き起こした場合の被害のシミュレート』と『万が一の事態に備えた際に、冷却手段の試算』を取り付けてくるんだ、至急でな。行ってこい」
「……曙の女王は? 彼女は、どうするんだい。野放しにでもするのか?」
「いいや、野放しなんて以ての外だ。だが追跡はお前の仕事じゃない。彼女の追跡は電子情報課に、そして捕縛は機動部隊と遊撃部隊に任せておけ。お前は、お前の仕事をするんだ」
 何かの歯車が、急激に狂いだしたのか。はたまたずっと前から仕組まれていたターニングポイントが、遂に訪れただけなのか。それはまだ肉体を脱いだことが無い、生きている人間には誰にも分からない。
 その全容を知り得るのは、全てを仕組んだ者だけだろう。それは『黎明』という妄想に取り憑かれた曙の女王か、または全てをせせら笑う男の死神か、もしくは彼らの後ろに隠れる存在か――
「なるほど、これがASIのやり方ってわけか。いいね、大きな組織って感じで……幾分か、気が楽だ」
「コルト、行ってこい」
「――サー、イエッサー!」
 だが混乱の真っただ中に居る人間に、全てが見えるはずもない。ましてや動揺で心をかき乱されているのならば、尚更に視界は不明瞭だろう。
 分かっていた。何か大きなものを見落としている気がしていることは、アレクサンダー・コルトも直感的に理解していた。だが気持ちが急いている今、焦っているからこそ余計に目が曇るのだ。
 見ようとすればするほど、余計なディテールばかりに目が行き、大雑把な本質を理解するという最も肝心なことを見落としがちだ。だから、こういうときは何をすればいいのか。それをアレクサンダー・コルトは知っていた。
 木を見て森を見ないなら、いっそのこと木を次々に手繰って森の中を迷ってみればいい。そしてヘンゼルとグレーテルが撒いたパンくずを拾う鳥のように、罠だと知りながらも、目の前に撒かれている餌を拾っていく。それに専念するのだ。そうすればいずれどこかで、目的のものと巡り合う。
 そして仲間が多ければ多いほど、その作業は効率的で、少人数で掛かるよりも余程早い。
「コルト。そこは『了解』でいい。うちは軍隊じゃないぞ」
 サー、イエッサー。ASIではあまり聞かれない軍隊風な硬い言葉を残し、オフィスを去っていったアレクサンダー・コルトの背を見送りながら、テオ・ジョンソン部長は彼女の背中に言った。
 すると暫く黙っていたヒューゴ・ナイトレイが、シニカルに笑う。
「ハハッ! あの猛獣アレクサンドラが、ASIに加わるたぁねえ。こりゃまた、予想外だ。さてはコリンズ長官、初めから――」
「それで、ナイトレイ。お前は後日、審問会に……」
「了解、キング。その話、後にしてもらえますかねぇ?」
「ああ、そうだな。そのほうがいい、お前のためにもな。知らないほうがいい話もあるさ」
「……ん?」
「はぁ……まあ、その話はあとだ。お前も彼女と行ってこい」
 ――一方、その頃。シドニー市警察署に居たジュディス・ミルズ……ではなく、鑑識課主任エイミー・バスカヴィルは市警のモルグに立ち寄り、市警所属の検視官の背中を見つめながら、そわそわとしていた。
 連邦捜査局シドニー支局に居るニールに連絡を入れた後、彼女は言いそびれた言葉があることに後悔していた。そして相手は、ニールだけではない。アレクサンダー・コルトにも、まだ完全なことは伝えていなかったのだ。
「…………」
 モルグの検視台に置かれた老人の遺体は、ひどい有様だった。
 両手首と両足首は、それぞれダクトテープのようなもので縛られたような粘着物の痕跡。年相応にしわだらけの蒼白い肌は更にしわしわとしていて、同時にぶよぶよと、まるで水にふやけているよう。それから閉じた口の隙間からは、およそ水と思われる無色透明の液体が垂れている。
 水死体のようで、微妙に様子が異なる。溺れた形跡はないのだから。そんな不審な死を遂げた遺体の頭蓋に、市警の検視官は専用の電動ノコギリの刃を入れていく。エイミー・バスカヴィルは、その様子を検視官の後ろから見守っていた。
「ドクター・オルティス。死因は、どう? 水中毒だと思う?」
 頭蓋骨の切断を終え、電動ノコギリの電源を落とし、検視官はそれを脇に置く。そして開いた頭蓋骨の中から、検視官はぶよぶよに膨れた脳を取り出した。
 検視官は取り出した脳を、検視台の横に設置された計量器に載せる。測定結果は、およそ二〇〇〇グラムほど――男性の平均的な脳の重さが一五〇〇グラム弱であることから考えるに、この脳は随分と重いといえるだろう。すると検視官はエイミー・バスカヴィルの問いに答えた。「エイミー。僕の所見も、およそ君と同じだよ。水中毒だろうね。この状態を見るに、彼の最期は悲惨だっただろう。随分と苦しんだはずだ」
「やっぱり……」
「ほら、エイミー。脳の、ここを見てくれ。浮腫が出来ているだろう? この人が、致死量の水を摂取したことは間違いない」
「それも自分で飲んだのではなく、誰かに飲まされた。手足を縛られてちゃ、コップもボトルも持てないもの。これは他殺とみて間違いないわよね?」
「そうだね。これが自殺だとは、僕にはとても思えないよ。……それにしても、気の毒だ。寒さの中、地上で苦しみながら溺れ死ぬだなんて。眠っている間に凍死したほうが、うんとマシだっただろうに……」
 検視台の遺体の名前は、ダグラス・コルト。つい先日までは殺到する報道陣の取材に対し、有頂天で答えていた老人だ。それが今や物言わぬ死人となり、冷たいベッドの上で眠っている。
 エイミー・バスカヴィル、またはジュディス・ミルズは、大事なことをアレクサンダー・コルト、及びニールに伝え忘れていた。
「……私も、そう思う。どっちかを選べって言われたら、私は眠っている間に凍死するほうを選ぶわ」
 きっと彼らは昨晩の異常気象で、ダグラス・コルトが凍死したのだと思っているのだろう。だが、事実は違う。ダグラス・コルトは、何者かによって殺されていた。水責めにでもあったのか、それはまだ分かっていないが、彼は生きている間に水に苦しめられ、死んだことは間違いないだろう。彼の体は水に浸かっていなかったが、彼の体の中は水で溺れていたのだから。
「そういえば、エイミー。このご遺体は、死んだ高位技師官僚の発見者だったよな?」
「ええ、そう。だからさっき、連邦捜査局に連絡したのよ。一応、それが礼儀ってもんでしょ?」
「偉いねぇ、君は。しかし、これは実にきな臭い事件だよ。自殺した高位技師官僚の遺体を発見した男が、今度は殺された状態で見つかるのだから……――本当に高位技師官僚は、自殺だったのか。疑わしく思えて仕方が無いね」
 やめてよ、陰謀論なんて。市警の検視官が発した言葉に、エイミー・バスカヴィルはそう返す。すると検視官は「冗談だよ」と笑った。
「で、エイミー。連邦捜査局のほうはなんて言ってた? この遺体も、引き継ぎの用意をしろとでも言ってたかい?」
「いいえ。電話に出た捜査官は、特にそんなことは言ってなかったわ。だから彼らが捜査権を取り上げることはないと思う」
「そうかい。その言葉が聞けて良かったよ。……シドニー支局のあの検視官、エレノア・ギムレットって名前の女性がとても高圧的で、僕はちょっと苦手でね。あまり関わり合いになりたくないんだ。それに、シドニー支局の男のほうの検視官も苦手でね。バーンハード・ヴィンソン、って言ったかな。彼の雰囲気が、何故だか僕の母に似ているんだ。動く蝋人形みたいなあの雰囲気、気味が悪くて仕方がないよ。それに、たしか彼はバーソロミュー・ブラッドフォード暗殺事件で犯人の遺体をうっかり失くしたとかで、監察医局をクビになった男だったような気が――」
「ドクター・オルティス。その話、長くなる?」
 いつも通りに、なんてことないように。『エイミー・バスカヴィル』として振舞うジュディス・ミルズだが、内心では震えていた。シドニー市警でも、その他の潜入先でも、そしてASIでも、悲惨な死や残酷な殺し方は見てきたが、ここまで強い不快感を覚えたのは初めてだった。
 サディストの犯行? そんな生易しいものではない気が、彼女にはしていたのだ。そして、とても嫌な予感がする。まるで、特定の個人に向けられたメッセージのような。見せしめに彼は殺された、というオーラすら感じるのだ。
「……どうかしたのかい、エイミー。顔色が悪いが」
「あぁ、ごめんなさい。なんでもないのよ。ただ、ちょっと……――いろんなご遺体は見てきたけど、水死体ってちょっと苦手で、慣れなくて」
 適当な嘘を取り繕い、彼女は苦笑いを浮かべる。そんな彼女は抑えられない胸騒ぎのせいで、手に汗を握っていた。





 アレクサンドラ・コールドウェル、改めアレクサンダー・コルトは、早速仕事に出たという。そして暇に耐えきれなくなったラドウィグは、ASIの特殊作戦班に所属する筋骨隆々の隊員たちと、訓練施設で殴り合っているそうだ。アストレアも、そのラドウィグについて行ったという。
 ヒューマノイドAI:Lは、ジョン・ドーに付き添っていて、彼の様子を見てくれている――ASI局員たちの監視の目を受けながら。そしてマダム・モーガンはASI本部の最上階、長官室に居た。
「確信は九割ほどかしら。断言はできないけれど、それはアーサーの仕業でしょうね。あいつのやりそうなことだわ……」
「マダム・モーガン。どうして、そうだと言い切れるんです?」
 額に手を当て、もう一人の死神の暴走を憂うマダム・モーガンに、ASIの現長官サラ・コリンズは尋ねる。マダム・モーガンが言うところの『あいつがやりそうなこと』とは、つい先ほど“レムナント”ジュディス・ミルズから上がってきた報告のこと。ホームレスの老人で、且つアレクサンダー・コルトの父親である男が変死体で発見された事案についてだ。
 ASIが知る限りでは、今までの“サー・アーサー”のやり口といえば、銃殺が常套。稀に鉄パイプやら何かしらの長い刃物のようなもの――しかし凶器が見つかったことは一度もない――で、繰り返し何度も、執拗にめった刺しにされたような遺体を発見することもあったが……――彼が水責めを用いるだなんて話は、一度も聞いたこともなかった。
 しかしマダム・モーガンには、確信があるらしい。だがサラ・コリンズ長官には、疑念しかなかった。
「シルスウォッド・アーサー・エルトル。彼の行動には、特異な強迫性が伴っているという分析があります。対象の息の根を確実に止める、というものでしょうか。一人の男に銃弾を十発も浴びせてみたり、心臓や太い動脈だけを狙って頻りに刺したりなど。ですが、それがいきなり水に変わるなんて……――プロファイルからは考えられませんよ」
 銃弾や刃物。それらの道具からは、明確な殺意を感じることが出来る。しかし、だ。水は、どうだろう。サラ・コリンズ長官は、その点が疑問だった。
 水を使って人を殺すことは出来る。溺死や、今回のような水中毒など。だが銃弾や刃物と比べると、あまりにも成功率に差が出る。ましてや水中毒で人を、それも老人とはいえ、そこそこ体格のいい成人男性を死に至らしめるとなれば、相当量の水を飲ませる必要があり、そんなこと通常は……できるとは思えなかったのだ。それに数ある凶器の中でもよりによって『水』を選ぶ者は、相当にタチの悪いサディストとしか思えない。
 しかし、だ。サー・アーサーという存在の分析結果に、サディストという文字はなかったはずだ。確実に対象を殺す、という執念に取り憑かれてこそいるものの、彼は殺しを楽しんでいるというわけではなかったはず。……彼と仕事をしていた故人は、以前そう言っていたのだから。
 サラ・コリンズ長官は腕を組み、眉を顰める。するとマダム・モーガンは、小さく鼻で笑った。それからマダム・モーガンは、こんなことを言う。「そもそも、彼に関する根本的な情報が間違っているのよ。ひとつ、足りない情報があるわ。それも致命的なやつが」
「……それは、何でしょうか?」
「彼の名前は、シルスウォッドなんて妙ちくりんなもんじゃないわ。正しくは、シスルウッドよ。彼の本名は、シスルウッド・アーサー・マッキントシュ。それから彼の母親は、ブレア・マッキントシュ。アンタも知ってるんじゃないの、サラ。彼女はとても有名な殺人鬼だから」
 マダム・モーガンの言葉に、サラ・コリンズ長官は驚き、固まる。マダム・モーガンの言葉通り、サラ・コリンズ長官は『ブレア・マッキントシュ』という名前を知っていたからだ。
 いや、その名前を知らない人間の方が少ないのではないのか。
「……“コヨーテ”の母親が、ブレア・マッキントシュですって? でも、たしか彼女の子供は」
「臨月を迎えた妊婦であった彼女は、出産を終えたあとに予定されていた死刑執行を待たずに、お胎の子を道連れに自殺した。有名な話よね。……でも、真実は違うのよ。父親のメンツのために、そして他でもない息子本人の為に、その情報は伏せられてきた。まぁ、いまさら隠しておく理由はないわね。殺人鬼の息子、シスルウッド・アーサー・マッキントシュは死んでる。今いるあれは、ただのアーサーだし。死人だし」
 卑劣極まる犯行を重ねた凶悪犯であり、学はないが、魅力的な容姿を持っていた美女であり、死刑執行を前に自害した殺人鬼。多くの謎を残したまま、何も証言を残さないまま、消えてしまった女。そして未だに、その犯行の全ては明るみに出ていないとも言われている。――そういうわけでブレア・マッキントシュは、死後八〇年以上が経過した今でも、人々を魅了していた。
 故に、誰もが一度は聞いたことがある名前だった。彼女が殺した人数、彼女が殺した手口、そして彼女が道連れにしたとされる子供の行方など、誰もが知りたがった。サラ・コリンズ長官とて、例外ではない。彼女も若い頃には一時期、ブレア・マッキントシュについて調べることに熱中した時期があったものだ。
 と、そこでサラ・コリンズ長官はふと思い出す。
「……娼婦であったブレア・マッキントシュは、客の男たちを騙して彼らにメタンフェタミンを摂取させて、殺したんですよね。正確に言うとメタンフェタミンの副作用で喉の渇きを訴えた男たちに、彼らが満足するまで水を飲ませ続けて、水中毒を故意に引き起こし、自らは手を下さずに殺した。……まさか、今回のは同じやり口? そして故意にエージェント・コールドウェルを苦しめるために、彼女の父親を……?」
「私は、アーサーじゃないのよ。あれの考えてることなんて分からないわ。第一、あれは口数の多い男じゃないし。私が知っていることは限られている」
 マダム・モーガンは頷きもせず、否定もしない。彼女は黒いサングラスの下に隠れた目で、サラ・コリンズ長官をじっと見ているだけ。その後にどうするかは、人間の手で決めなさい、という感じの突き放すような態度だ。
 それにマダム・モーガンとて、確証があるわけではない。その可能性があり得ると思う、というだけの話だ。サラ・コリンズ長官の立てた仮説を肯定することも、否定することも彼女にはできないのである。
 しかしマダム・モーガンは今、別の問題が気になっていた。
「私に言えることは、ひとつだけ。受け継いだ血や遺伝子が、必ずしもそのひとの人間性を左右するとは限らないと言いたいけど、その仮説を肯定するにしろ否定するにしろ、エビデンスがないってこと。彼の中に眠っていた母親の血が急に目覚めたのか、それとも抑圧していた何かが弾けたのか、何なのかは、私には分からないわ。……で、それよりも。サラ、私には気になることがあるんだけど」
「何でしょうか、マダム・モーガン」
「コヨーテって、何のこと? およそアーサーのことを言っているのは理解できるわ。けど、どうして彼が、コヨーテ?」
 先ほど、ふとサラ・コリンズ長官が零した“コヨーテ”という言葉。それがアーサーのことを指しているのであろうことは文脈から理解していたが、それでも分からない点がある。何故、コヨーテなのか。その由来が、さっぱり分からない。
 そんなマダム・モーガンの問いを受け、サラ・コリンズ長官は自分の記憶を辿りはじめる。
「それは……約二十五年前ぐらいです。ある事件を機に、まるで“サー・アーサー”の人格が変わったように思えるから、プロファイルを作り直した方が良いとパトリック・ラーナーが言い出しまして。その時、作り直したプロファイルに付けられたラベル名が“憤怒のコヨーテ”なんですよ。……ラーナーは、ご存知ですよね?」
「ええ。彼が生きている間に、本人と会ったことはないけれど、噂はかねがね聞いていたわ。それで、憤怒のコヨーテ、ねぇ……――だから、どうしてコヨーテなのよ?」
「その暗号名を決めたラーナーは言ってましたよ。アーサー、彼は鼻持ちならない白人のエリート野郎で、北米出身の余所者、つまり嫌われ者のコヨーテがお似合いだ、と。彼の髪色がコヨーテの毛皮の色に似ているっていうのもあって、異論を唱える局員はいませんでしたし。今ではサー・アーサーという名前より、コヨーテと言った方がASIでは通じるほど、浸透しています。丁度、あなたが“幸運のカラス”、そしてエージェント・コールドウェルが“猛獣”と呼ばれているように」
 ASIには、動物の名前を付けたがる趣味でもあるのか。マダム・モーガンはふと思ったが、すぐに余計な考えは切り捨てた。サラ・コリンズ長官が口にしたあるワードが、とても引っ掛かったのだ。「……それと、サラ。もう一つ、聞いてもいいかしら」
「ええ、なんなりと」
「約二十五年前の事件って、何のこと? 私はその頃、北米に出向していたから……何の話だかさっぱりなんだけれど」
 人格が変わるほどの事件。少なくともマダム・モーガンは、そのようなことを耳にしたことがない。約二十五年前に聞いた話といえば、アレクサンダー・コルトという新人の噂ぐらいだ。だが……そういえば、その話を当時マダム・モーガンにしていたのは、他でもないアーサーだ。彼が、情報を出し渋っていた可能性は十分考えられる。
 するとサラ・コリンズ長官は、少し驚いたようにマダム・モーガンを凝視し、言う。
「コヨーテの息子である男、レーニン・エルトル。彼と、その配偶者が、体を切り刻まれてバラバラになった状態で発見された事件です。犯人の目星は付いていたのですが、その女はかれこれ二〇年ほど行方をくらませていて。局内では、既にコヨーテが手を下したのではないかと噂が……」
「バラバラですって……?」
「まさかあなたが、あの事件をご存知ないとは。少なくとも国内では当時、大々的に取り扱われたニュースでしたよ。切り落とされた女性の指をくわえていた野良猫を撮影した一枚の写真から発覚した、かなりセンセーショナルな事件でしたからね」
「北米では、まったく聞かなかったわ」
 そういえば聞いたことはあったかもしれないと、マダム・モーガンも過去の記憶を掘り起こす。アーサーの息子、レーニン・エルトルが死んだということは、そういえば十年ぐらい前にアイリーンから聞いていたかもしれない。だが……殺された、とは聞かされていなかったような気がする。
 マダム・モーガンは腕を組み、少し顔を俯かせ、表情を強張らせた。疑問ばかりだった未完成のパズルに、カチッと嵌まるピースが見つかり、答えへ至る道の完成図が浮かび上がったのは良いものの。その答えがどうにも不穏で、直感が彼女に呟くのだ。同じことの繰り返しだ、どうして止められなかったのか、と。
「……まったく、嫌になるわね。私としたことが。あいつに任せれば大丈夫だと思って、安心しきってたばかりに……」
 肉親を全て惨たらしく殺され、生きながら地獄のような日々を送った末に気が狂い、とんでもなく邪悪な存在に自分の全てを売り渡した男――正確には、当時は少年だった――のことを、マダム・モーガンはよく知っていたはずだ。そのことで何度、後悔しただろう。どうして気付けなかった、どうして防げなかった、と。今でもずっと、後悔していた。
 にも関わらず。また同じ過ちを繰り返した恐れがある。だとしたら、このうえなく最悪な展開だ。
「サラ。ASIに、ジョン・ドーを託してもいいかしら? うちの優秀なヒューマノイドと一緒に、二十四時間体制の万全な警護付きで、とにかく安全な場所に彼を匿ってほしいんだけど。お願いできるかしら?」
「ええ、構いませんよ。寧ろ、あれを外に連れ出されて、余計な騒ぎを起こされるほうが迷惑ですから」
 マダム・モーガンの要望に、サラ・コリンズ長官は二つ返事で応答する。しかしサラ・コリンズ長官の目は、歓迎しているとは言い難い。そしてサラ・コリンズ長官は、明確な態度にしてそれを表した。
「そうですね、マダム。……彼とあのヒューマノイドとやらを、この施設で最も警備が厳重で、抜け出すことも侵入することも容易ではない場所に、収容しましょう。あの場所なら二十四時間の監視体制が整っていますから。それにあの場所は全ての信号を妨害する装置がありますから、おたくの高度な人工知能を保有するヒューマノイドを入れても――」
「地下の牢獄なら安心、ってわけね。……汚い本音をぶちまけたいところだけど、仕方ない。それが当然の判断。受け入れるわ」
「業務もそうですが、局員たちの安全を最優先することがASIのモットーですので。ですがモンスターの襲撃に備え、特殊作戦班の職員を配備させましょう。コヨーテか、曙の女王か、どちらが来るかは分かりませんが。彼らにジョン・ドーを攫われたら、それこそ何が起こるか分かりませんからね」
 どちらも来ないことを祈るわ。マダム・モーガンは、そう言葉を返す。
「ジョン・ドーとヒューマノイド、それからアレクサンダー・コルトのこと。頼んだわ。アストレアとラドウィグを信用するかどうか、彼らの処遇もあなたに任せるわ、サラ。特務機関WACEが壊滅した今、彼らはもはや私の部下じゃないし、彼らの道に私は口を挿めないもの」
 突然、永い眠りから覚めた『ジョン・ドー』。そしてジョン・ドーと入れ替わるように、自ら死を選んだのは彼の偽物、ペルモンド・バルロッツィ。さらに人間のなりそこないであるホムンクルス『曙の女王』は暴れ始め、アーサーも目的不明の凶行を開始した。その上、ペルモンド・バルロッツィの自殺を機に、アルストグラン連邦共和国の気候は大いに狂い始めた。挙句、ダグラス・コルトという新たな死者も増えた始末。負の連鎖が、まるで止まる気配を見せない。
「マダム・モーガン。……今、なんて? あの特務機関WACEが、壊滅?」
「詳細はミズ・レムナントか、アレクサンダー・コルトに聞いて。私は彼女たちに、大まかなことは伝えたから。それから、アストレアもラドウィグも優秀よ。アストレアは狭いところにも人の心にも、あの小さな可愛い体でどこにでも入り込めるし、ラドウィグは潜在能力が高いオールラウンダー。だから彼は、使い勝手のいい切り札にもなり得るわ。つまり彼らは、ASIでも充分に活躍できると思う」
「……分かりました。詳細は、レムナントに確認することにしましょう。宙ぶらりんの二人についても検討致しますが、期待はしないでください」
 しかし、だ。それら連鎖はてんでバラバラで、何の接点もないように思えていた。だが、どうにも違う気がマダム・モーガンにはしていたのだ。ダグラス・コルトを除いた全てには、接点がある。
 それは、アバロセレンだ。そしてアバロセレンの親、キミアという名前で呼ばれている存在。マダム・モーガンの命運をすべて握っている彼女の主であり、同時にアーサーに自らの骨髄ともいうべき核を与えた神、キミアだ。
「それで、マダム・モーガン。あなたは他人の心配ばかりですが、ご自分はこれからどうするのですか? 私が口を挟むべき問題ではないことは重々承知ですが、これからは『特務機関WACEとの提携』という口実は使うことが出来ないでしょう。『世界の管理者』と長年恐れられていたものがあえなく壊滅したとなれば、人々には最早あなたを畏れる理由はもうありません。これからは、どうするおつもりですか」
「私? それは……特務機関WACEなんてものが組織される前の状態に戻るだけよ。だって私は、幸運のカラスじゃない。正しくは『幻霊のカラス』。世界を飛び回って、黒い仕事をする。その生活に戻るだけね。勿論、あなたたちASIの悪いようにはしないわ。そこは安心して頂戴。バーツとの破れない約束が、私にはあるもの」
 マダム・モーガンとサー・アーサーの二人は、キミアにより問答無用で生き返らされ、こき使われているキミアの眷属。そして『本物の彼』というべきジョン・ドーはかつて、黒狼ジェドに体を乗っ取られていた際に、キミアの全てを“核”に封じ込め、アバロセレンというものを作り出した。そして曙の女王を名乗る彼女は、そんなアバロセレンから創られた生命の模造品。
 思えば『偽物の彼』であるペルモンド・バルロッツィは、ホムンクルスの亜種ともいえるのかもしれない。キミアの眷属であるマダム・モーガンが、主であるキミアの力『何もない状態から、目にしたものの複製を創り出す』を借りて、咄嗟に創ったものだ。曙の女王と似たような存在といえば、そうなるだろう。アーサーも――詳細を話すと長くなるが――同じだ。
 となると。裏であの神が、キミアが、全ての糸を引いていたのでは? ……根拠があるわけではないが、マダム・モーガンにはそう思えてならないのだ。そして仮にそれが事実だったとすれば、それは主であるキミアがマダム・モーガンを捨てたことを暗に意味する。
 それに、捨てられたのはマダム・モーガンだけではないだろう。キミアは全てにノーを突き付けたのだ。明日がまた訪れることを当たり前のように思いながら、何も考えずにまた眠りにつく生命に。そして水素やガスや塵が集まった塊から始まり、次第に肥大していき、最期には爆発して死んでいく星々に。それから星のように塵から始まり、膨張しては冷えて収縮し、再び熱を持って膨張を始める宇宙、そして全ての世界を、キミアは拒んだということだ。
「私はまた昔みたいに、薄暗がりに息を潜めながら、人の道を踏み外した悪いやつらをお仕置きして回りつつ、地上にしがみついている幽霊をお掃除するだけよ。心配には及ばないわ」
 サラ・コリンズ長官に向けて作り笑顔を取り繕いつつ、マダム・モーガンは心の中でぼやく。最高に悪い展開だ、と。
「それじゃ、手始めに私は思いつく限りの羊たちを問い質してくるから。何か収穫があったら、またここに顔を出すわ」
 今までにどれだけの人間が、アバロセレンを巡って死んだことか。騒ぎを鎮圧しようとした者、儲けを目論んだもの、無邪気な好奇心のままに突き進んだものなど。数えたら、キリがないだろう。因果応報の死、無益な死、無念の死を問わず、大勢の人間が死んできた。
 だが、それすらもまだ序章に過ぎないのだとしたら? 今よりもはるかに酷い未来が、この先に待ち受けているとでもいうのだろうか?
「――……サラ・コリンズ。あなたが、私を信用しているかどうかは知らない。けれど私は、あなたのことを信用しているわ。あなたがバーソロミュー・ブラッドフォードの遺志を継ぐ後継者であることが、話していてよく分かったから」
 もし、そうだとしたら。一体何のために、私は今まで。そんな無力感がマダム・モーガンの胸に押し寄せるが、彼女はそれを今は無視することにした。
 今は、目の前に居る人々を信じようと思ったのだ。彼女が今まで、そうしてきたように。寄り添うなら、何もかもに絶望した者の言葉よりも、一縷の望みを信じる者の信念を選びたかった。
「だから私は、ASIに全面的に協力するつもりでいる。もし困りごとがあるなら、いつでも私を頼りなさい。私のポリシーに反しない限り、私は何でもやってあげる。あなたの剣になり、盾になってあげるから」
 最後にマダム・モーガンは?偽りない微笑みを浮かべると、左手の親指と中指の腹をこすり合わせて、パチンッと音を立てた。そして彼女は煙のように、サラ・コリンズ長官の前から姿を消す。目の前で起きた怪奇現象に、サラ・コリンズ長官は驚きもしない。だが眉間にしわを寄せる彼女は、間違いなく険しい表情をしていた。


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