アンセム・フォー・
ラムズ

ep.05 - Just forget it

 午前九時半。連邦捜査局シドニー支局前には、ぞろぞろと人が集まり始める。その人だかりは所属する特別捜査官の出勤光景ではなく、また客人の歓迎シーンでもない。昨日から世間を騒がせている高位技師官僚の自殺について、何か一つでも情報を得ようと必死の報道機関の連中だった。
 ニールは下界に群れを成す集団を、地上六階の会議室の窓から見下ろす。彼は唇をへの字に歪めながら、締めていた赤茶色のネクタイを少しだけ緩めた。
「…………」
 思うところは、山ほどある。言いたいことも、そりゃたんまりと。しかし口は噤まなければならない。面倒ごとは御免だからだ。
 黙っていれば、嵐は勝手に過ぎてくれるだろう。人の興味など一過性で、きっとすぐに全ては過去になって、色褪せていくはずだ。だから、ここで。
「あぁ、チーフ! ここに居たんですねー。探しましたよ」
 下界を眺めながら、ボーっとしていたニールの背中に、そう声を掛けてきた若い男が居た。彼はニールが指揮する異常犯罪捜査ユニットの一員、つまりニールの部下のひとり。一言が余計に多いという難点を持つ、少しだけ扱いに困るお調子者エドガルド・“エディ”・ベッツィーニ特別捜査官だ。「遺体安置所(モルグ)のクリーチャーが、あなたのことを呼んでましたよ。ギャングを狙った連続殺人の件で、ちょっと気になることがあったって」
「モルグのクリーチャー? 誰だ、そりゃ」
 薄気味悪い怪物(クリーチャー)。初めて聞く言葉に、ニールは表情を険しくさせた。ベッツィーニ特別捜査官が同僚たちに侮辱的なあだ名をつけることはいつものことだが、ここまでひどいものを聞くのは初めてのことだ。
 遺体安置所、ということだから検視官バーニー・ヴィンソンか検視官エレノア・ギムレット、または検視官助手のハリエット・ダヴェンポートのいずれかなのだろう。しかし検視官バーニー・ヴィンソンのあだ名は既にあるし(彼が表情を一切変化させないことから『動く蝋人形』と呼ばれている)、検視官エレノア・ギムレットのあだ名も既にある(彼女の手にコーヒーカップが握られていない瞬間がないことから『カフェイン中毒』と呼ばれている)。
 となると、あだ名はまだこれといってなく、そして挙動不審で空気が読めない傾向がある検視官助手ダヴェンポートのことを指している言葉なのだろう。――と、おおよその見当は付いているものの、ニールは一応そう訊ねた。するとベッツィーニ特別捜査官はこう答える。
「検視官助手、ダヴェンポートのことですよ。あいつ、バーニー以上に不気味でしょう? ちなみに“解剖室のクリーチャー”はダヴェンポート公認の呼び名なんで」
「本人公認だから良い、ってもんじゃないだろ。……ダヴェンポートはきっと、意味を誤解しているんじゃないのか?」
「誤解がなんです? ダヴェンポートは言ってましたよ。人間は生物(クリーチャー)の一種だから、私はクリーチャーで間違いないって! あいつ、自分が怪物(クリーチャー)だって……――ハハハッ! 可笑しいと思いませんか、チーフ?」
 そう言ってベッツィーニ特別捜査官は笑う。しかしニールが呆れ顔になると、彼は途端に笑顔を消し、大人しくなった。どうやら遅れて、ベッツィーニ特別捜査官は気付いたらしい。今のは失言だった、と。
 が、しかしすぐにベッツィーニ特別捜査官は次のネタを発見した。次なるネタは、連邦捜査局シドニー支局の下で蠢く群衆たち。けれども今度のベッツィーニ特別捜査官の様子は茶化すものではなく、神妙な面持ちでシリアスなものだった。
「バルロッツィ高位技師官僚は本当に自殺だったのでしょうか! ……って、俺も朝、ここに来る時に下のやつらに問い詰められたんですよね。俺はチーフと違って、彼の死については何も関知していませんから、何も話しませんでしたけれども。でも、なんというか……――彼の死も、やつらにとっては視聴率を稼ぐための喜劇でしかないんでしょうかね」
「どうした、ベッツィーニ。お前が死人に同情するとは、珍しいじゃないか」
「普段、取り扱っている死人は何の縁もない赤の他人だからですよ。背景にあるものを知らないから、『この人は運が悪かったんだな』ぐらいのことしか思わないだけで」
「ということは、だ。お前は、高位技師官僚と知り合いだったのか?」
 そんなニールの突っ込みに、ベッツィーニ特別捜査官は少し恥ずかしそうに鼻の頭を掻く。はにかみながら、ベッツィーニ特別捜査官はワケを説明した。「大学時代に、ちょっとだけ……」
「大学時代に? ……お前まさか、ディーキン総合大学の出身だったのか?」
「ハイ。ええ、まあ。当時は、アバロセレン技師になるつもりだったんですよ。それに当時はキャンパスの中でバルロッツィ教授……――じゃなくて高位技師官僚が、研究所を新たに設立するからそれに伴って研究員を募集しているって噂が広まっていて。それで当時の俺は、彼に気に入られるために必死だったんです。それで一度、彼と一対一で話す機会があって。十五分とか、そんなもんだったんですけどね」
「……ふむ」
「それで彼に、俺の夢をぶった斬られたんですよ。お前はアバロセレン技師に向いてないからさっさと諦めろ、ってね」
「…………」
「その道のパイオニアに真っ向から全否定されたんですから、そりゃショックでしたよ。でも、彼はその後に言ったんです。お前には刑事とか連邦捜査官のほうが向いてるんじゃないのか、って。……夢を全否定されてズタボロになった俺は、高位技師官僚のその言葉を真に受けて。それで、今の俺があるんです。ちょっと、恥ずかしい話ですよねぇ」
 彼にとっては、相当恥ずかしい過去だったのか。アバロセレン技師を目指し、そして高位技師官僚に全否定された過去のことを打ち明けるベッツィーニ特別捜査官の頬は、ほんのりと赤くなっている。それに左下を向いているベッツィーニ特別捜査官の視線には、ニールと目を合わせる気配はない。
「高位技師官僚の一声で、お前は自分の未来を決めちまったわけかぁ。高位技師官僚も、なかなか罪深いことをしたな」
「さぁ、どうなんでしょう。少なくとも俺は、この選択を悔いてないですよ。それに高位技師官僚の言葉は、不思議なことに全て当たっているし。俺がシドニー支局に配属されることも、ニール・クーパーの部下になることも、アレクサンドラ・コールドウェルに出会うことも。……あの人、予言者か何かだったのかな?」
 そんなベッツィーニ特別捜査官の話を聞きながら、ニールは自分の経歴がとても恥ずかしく思えていた。今や中堅の連邦捜査官となったニールだが、元はといえば彼は……――今や口にすることもできないような、恥ずかしい過去だ。
 ニールにはこう思えていた。ベッツィーニは恥ずかしがる必要はないと。捜査官になるという道は彼が選んだ選択で、そして彼は自分の力で道を拓いたのだから。敷かれたレールの上を歩いてきただけのニールとは、まるで違っている。
「はぁ……でも、まだ信じられてないんですよ。あのペルモンド・バルロッツィが死んだ、それも自殺だったってことが。俺が知っていた彼は自信に溢れてた大天才だった。ちょくちょく過労で倒れて、秘書を困らせている場面は見かけましたが。とはいえ自殺するような人だとは、到底思えない。周囲も、彼が過労死しないよう彼に目を光らせていたわけですし……」
 そう言ったベッツィーニ特別捜査官の視線が、また下界の群衆に映る。するとニールの口からは、こんな言葉が漏れ出ていた。
「誰にでも、知らない顔、知らない過去ってのがあるものさ。特にバルロッツィ高位技師官僚は、抱えていた闇が深い。元々、彼には多重人格者だという噂があったし。俺からすると、彼の死になんら違和感はないよ。押し込めていたものが爆発した結果だったのかもしれない」
「……多重人格?」
「嫁さんを目の前で殺されたり、一人娘は殺された上にバラバラ死体で見つかったり、彼自身も過去に災難があったりと、色々と辛い経験を重ねている人だ。――結構、有名な話だと思うが。聞いたことないのか?」
「ええ、初めて聞きましたよ。……あっ、そういや報道にもそんな情報があった気が。あれ嘘だと思って、聞き流してましたよ。事実だったんですか、へぇ……」





「……つーことが、今朝あったわけよ」
 時刻は午前十時。曙の女王とやらの情報をコールドウェルが伝えられてから、約二時間が経過した頃。他に人もいない寂びれた国道を、コールドウェルが運転するSUVが時速一五〇キロという速度で突っ走っている。そして助手席には、渋い顔で腕を組むASI局員“レムナント”ことジュディス・ミルズ、またの名をシドニー市警鑑識課主任エイミー・バスカヴィルという彼女が座っていた。
 コールドウェルから、特務機関WACEで起きた今朝の話を聞かされたジュディス・ミルズは、むぅっと眉間にしわを寄せる。するとジュディス・ミルズはこう言った。
「曙の女王を名乗る異常者が、国内で大規模なSODを発生させるかもしれない。しかしあくまで今は可能性の話でしかなく、確たる証拠や確信といったものはないと。ダークウェブに宣戦布告とも取れる書き込みを見つけたから、相手の情報を探りつつ、今は警戒しているってことね。いわば、まだその段階でしかないけど、やたらと胸騒ぎがするから私の小耳に入れておきたいと。なるほどねぇ……」
「だが、仮に現実に起こるとしたら。間違いなく大惨事になるだろ? とはいえアルフテニアランドの悲劇を起こしたアバロセレン発電所ほどの大規模で凝った装置を、曙の女王サマが用意できるとは思えない。さすがにあれと同等の規模ってのはありえないだろうが、それでもそれぐらいの規模の災厄が起こることを仮定して動いたほうが良い。だとしたら絶対に食い止めなきゃならねぇ。そうだろ?」
「そうね、サンドラ。私もそう思うし、コリンズ長官もそう考えるでしょう。亡きトラヴィス・ハイドン前長官代行も、きっと『手段は問わない、何が何でも阻止しろ』と命じるはずだわ。それに『アバロセレンってものは、いくら警戒してもまだ足りない』って、バルロッツィ高位技師官僚もよく言ってたし。……この任務が終わったら、コリンズ長官にこそっと伝えておくわね」
「さっすが、ジュディ。話が分かるねぇ。アンタのこと大好きだよ」
「私もよ、サンドラ。情報をいっぱい流してくれるアナタが大好き」
 お互いに利用して、お互いに利用される。情報提供を受けては、相手が用意した舞台で脚本通りに踊る。そんなギブ・アンド・テイクの関係で成り立つ二人は、傍から見れば狐と狸の化かし合いにしか見えないだろう。が、彼女らの間には独特だが、そう簡単には揺るがない篤い信頼関係が構築されていて、役割分担がなされていた。
 あの手この手で情報を掴むのがコールドウェルの役目で、コールドウェルの掴んだ情報を基に証拠を押さえに行くのがジュディス・ミルズの役目。普段は、役割をそう決めている。だが今回は、少し違っていた。二人の――コールドウェルはサー・アーサーから命じられ、ジュディス・ミルズは直属の上司より命じられた――合同任務だ。
「それで、なんだがー……ASIが“曙の女王”の件で動くならば、アタシらWACEにもバレないほど隠れて動いてほしいんだ。アイリーンの目に引っ掛からないのは勿論のこと、マダム・モーガンにも悟られないよう動いてほしい」
「あら、アルストグラン秘密情報局を舐めないでほしいわね。隠密行動はどこよりも得意よ?」
 今回の任務はアルフレッド研究所に向かい、「SODを閉じる方法に関する論文」とやらを回収すること。原本はASIが回収し、保管することで二人、及びサー・アーサーは合意。
 そしてコールドウェルの役目は、難攻不落の砦とも称されるアルフレッド工学研究所の侵入経路を開くことである。何故なら彼女は一度、件の研究所に侵入していたからだ。それで当時、研究所に所属する研究員だったラドウィグと、所長であったペルモンド・バルロッツィ高位技師官僚を誘拐したのである――職員たちが見ている目の前で、高位技師官僚の頭に拳銃を突き付けて。
「あぁ、知ってるとも。ジュディ、アンタは誰よりも優れたヒューミントの使い手さ。だが、マダム・モーガンを舐めないほうが良い。彼女は、誰よりもベテランだからね」
「もしかしてだけど、サンドラ。あなたは今、お仲間を敵に回してるのかしら?」
「まぁね、そんなとこだな。少なくとも今、アタシはアイリーンを裏切っている。ジュディス・ミルズと行動を共にし、ペルモンド・バルロッツィの秘匿された論文をASIに渡す腹積もりだってことがバレりゃ、アタシは一巻の終わりかもしれねぇな」
「アイリーン、彼女はラーナーと上手くやってたって、ジョンソンから聞いたことがあるけど。どういう女性なの?」
「最近は、ちょっとヒステリックになってるね。リリー・リーケイジ以来、何に対しても投げ遣りで、視野が狭くなりつつある。あと最近はアーサーと不和でな。――アタシの気分はまるでコウモリだよ。視野は狭いが最低限の倫理観は備えているアイリーンに従うべきか、クソ野郎だがアバロセレンに対する憎悪だけは本物であるアーサーのご機嫌を取るべきか、悩ましい選択を常に強いられてる感じだ」
 さぁて、この先はどうなるんでしょうかねぇ。……と、ハンドルを荒々しく捌きながら、コールドウェルはそう呟く。すると殺風景だった国道沿いの景色が、徐々に華々しさを持ち始めた。郊外にある学園および研究所が立ち並ぶ地の周辺にできた、城下町ともいうべき地に入ったのだ。
「ジュディ。国公立新アルフレッド・ディーキン総合大学が見えてきたぜ。それと、遠くにはアルフレッド工学研究所の影も幽厳に……」
「学園都市に聳える、砦のような研究所ねぇ……――それで、サンドラ。どうやってあれに侵入するの?」
「正々堂々、正面からだよ。あの研究所の防御システムを統括するAIが、実はうちの機関のAIと同一でね。アタシは顔パスってわけ」
「えっ。……それ、正気?」
「正気だよ。まあ、見てなって」
 ――一方、その頃。同時刻、特務機関WACEの地下本部施設(仮)地下三階。隔離室前の廊下に佇むラドウィグ、及びその足許をウロチョロと徘徊する小動物の影は、扉の向こう側から漏れてくる気配に怯えていた。それは覚えのあるような気配でありながらも、どうにも見知らぬ別人の空気のようでもある。懐かしく、それでいて不気味な気配であった。
「…………」
 隔離室は、防音で遮音という構造になっている。中の音が外に漏れることはなく、外から音が中に入ることもない。まさに隔絶された空間なのだ。しかし、扉が開いた時は別だ。あの一瞬だけは、外と中が繋がる。音が共有されるのだ。
 草臥れ顔のアーサーが、ついさっき物騒な荷物を抱えて中へと入っていったとき。アーサーが扉を開けた瞬間、部屋の内側で轟いていた声が廊下に漏れ出たのだ。そしてアーサーから「仮に収容者が一歩でも部屋の外に出た場合、すぐに収容者を撃ち殺せ」と命じられたため、隔離室前の廊下で仕方なく待機していたラドウィグは、その漏れ出た声を聞いた。そして今、彼の手は震えていたのだ。
「そんな、まさか。そんなはずないよな。……だって、そうだろ、リシュ……?」
 ラドウィグはそう呟きながら、彼の足許を徘徊する小動物の影にそう問う。すると影はラドウィグを見捨てるかのように、スッ……と消えていった。
「……リシュ、頼む、オレを置いていくな。ひどいよ、お前……!」
 そんなこんなで小声で愚痴を零すラドウィグだが。彼は思考の底なしにハマっていた。考えれば考えるほど、彼の思考は最悪の仮定ばかりが詰まった坩堝に嵌まるのだ。そしてぐるぐると、耳の奥では同じ言葉が繰り返される。
 震える喉で絞り出される、薄気味悪いほど訛りのない綺麗な英語が。軍隊の掛け声とは違う、特異で背筋が凍るような言葉が。涙ぐむような声が、全てを呪うような声が、憎しみに満ちた声が、扉の向こう側から聞こえ出ていたあの声が、余計に頭から離れなくなるのだ。

 この身はダートに捧げられた贄、我が身はダートの剣であり盾。
 牙となり鉤爪となり、四肢となり翼となる。
 命令は血よりも尊い。反逆、失敗は何があっても許されない。
 この身はダートに捧げられた贄、我が身はダートの剣であり盾……――

「……うわぁ、もう嫌だ、こんな職場ぁ……!!」
 扉がアーサーの手で開けられ、ラドウィグが一瞬だけ中を見てしまった時。ペストマスクで顔を覆い隠した青年の姿が、ラドウィグの目には見えた。そしてペストマスクのアイピースから覗く垂れた蒼い目とラドウィグの目が合い、ラドウィグは寒気を覚えたのだ。
 あの目に、ラドウィグは間違いなく覚えがあった。もっとも、彼に覚えがあった目は、うんと優しいものであったが。ペストマスクのアイピースから見えたあの目は、どこまでも空虚で絶望に満ちていて、死人であるような……――
「……なんだって?」
 そして、ところ変わって連邦捜査局シドニー支局、地下二階のモルグ兼解剖室。朝一で諸々の書類を片付けたあとにここを訪れたニールは、検視官助手ダヴェンポートの説明を一通り聞き終え、目を剥いていた。
「ですから、クーパーさん。ヴィンソン先生が化学捜査課に個人的に解析を依頼してたDNAが、ギャングを狙った連続殺人事件の凶器、ナイフに付着していた血液と一致したんです! さらに」
「さ、さらに?! まだあるのか!?」
「ええ、はい、ありますよ」
「……」
「えっと。ナイフに付着していたDNAと、ヴィンソン先生が解析を依頼したDNA。そのDNAが、バルロッツィ高位技師官僚のDNAと限りなく酷似していることも分かったんです。ほぼ同一人物と思われるぐらい、そっくりで。あっ、完全に一致したってわけじゃないんですよ。約九十九・九パーセントの確率です。でも、どうしたらこんな珍現象が起こるんだろうって、化学捜査官たちが嘆いていました。兄弟や親子でないとなれば、残る答えはクローンだけだと。でもクローンなわけがありませんよね。だってクローンは条約で禁止されているんですもの」
 平然と、穏やかで不自然なアルカイック・スマイルを浮かべる検視官助手ダヴェンポートは、判明した衝撃の事実を淡々と告げていく。どうやら検視官助手ダヴェンポートの目には、驚愕のあまり固まるニールの姿が入っていないらしい。
「ですので、ヴィンソン先生は天文学的確率で誕生したドッペルゲンガーの線を洗って……」
「ドッペルゲンガー?」
「クーパーさんはどう思います? 私はドッペルゲンガーだと思います。だって、天文学的確率ですよ。なんだかロマンで溢れていると思いませんか? あっ、そういえばロマンといえばヴィンソン先生とジョン・ドーとの出会いも」
「俺は、こう思うよ。アレクサンドラ・コールドウェルを今すぐここに呼び出し、あの女を問い詰めるべきだと。それとバーニー・ヴィンソンもだ。今すぐ、そのジョン・ドーとやらに事情ッ――」
 ニールがそう言いかけたときだった。モルグの中に黒い風が吹き、ニールの背後を掠める。そしてニールは後頭部に、殴られたような強い衝撃を感じ、間もなく前のめりに床へ倒れこんだ。
 検視官助手ダヴェンポートが甲高い短い悲鳴を上げ、倒れこんだニールに駆け寄る。クーパーさん、と検視官助手ダヴェンポートは彼の名前を呼びかけ続けた。
「クーパーさん、しっかりしてください、クーパーさん! クーパー特別捜査官! あぁ、どうしよう。ヴィンソン先生に……いえ、支局長だ! 支局長に連絡しなくちゃ!!」
 倒れたニールを起こすことを諦めた検視官助手ダヴェンポートは、解剖室の隅に置かれた内線電話のもとに走る。その傍らで、床に倒れこみ白目を剥いていたニールは、遠のく意識の中で最後に聞こえた検視官助手ダヴェンポートの声を反芻していた。





「どうやってこの研究所に入り込んだのかは知らないけど、正々堂々と正面から来てくれたから、まあ大目に見てあげるわ。きっと先代の所長なら、そう言うだろうし。それで、この度のご用件は?」
 アルフレッド工学研究所所長、イザベル・クランツ。そう書かれた職員証を首からぶら下げる女性が、コールドウェルとジュディス・ミルズの前に立ちふさがる。
「ペルモンド・バルロッツィ高位技師官僚とルートヴィッヒ・ブルーメを誘拐した次は、誰を攫うんですかね? 特務機関WACEのお方」
 栗色の髪を頭頂でお団子に束ね、細い眉を顰め、ヘーゼルの瞳でコールドウェルを睨む、所長イザベル・クランツ。華奢な体躯の若い女性であるにも関わらず、修羅場慣れしたような威圧感さえも感じる彼女の姿に、コールドウェルは少したじろいでいた。準備不足で突っ込んできてしまった、と。
 思えばこのアルフレッド工学研究所は、あのペルモンド・バルロッツィが築き上げた場所。そして彼女は、ペルモンド・バルロッツィの後任者だ。あの男が、後任として選んだ女性。きっと肝っ玉が据わっていることだろう。要するに、ちょっとやそっとの脅しぐらいじゃ通じない。手ごわい相手だということだ。
 そこでコールドウェルは、方針を切り替えた。職員を脅して論文を掠め取ろうと思っていたが、それは捨て、バカ正直に正々堂々と立ち向かうことに決めたのだ。
「単刀直入に言おう。アタシらはASIだ、特務機関WACEじゃないよ。それで本題だが、バルロッツィ高位技師官僚がSODの閉じ方について記した論文があると聞いた。それを渡してもらいたい」
 すると、所長イザベル・クランツの目が変わる。警戒するような睨みつける目が、意表を突かれ驚いたような目に変わったのだ。
「あの論文に、いまさらASIが興味を示したってこと? あれが執筆されてから、五年も経ってるんだけど。今になって、ようやく?」
 あんな下らないものが欲しいのか、と所長イザベル・クランツは心底驚いているようだった。彼女にとってあの論文は、さほど価値を持たないものであるらしい。
「いいわ。あれなら、持っていってくれて構わない。寧ろ、ASIで保管してくれたほうが助かるわ。あの論文目当てで、うちのラボに侵入を試みるバカが多くて困っているのよ。他のラボから送られたスパイとか、他国のスパイとか、その他諸々。それに論文自体は、もう用無しだし。どうぞ、論文なら持ち去って。ASIならバルロッツィ高位技師官僚も信用してたし、大歓迎よ」
 スムーズに進んだ話。意表を突かれて驚いていたのは、コールドウェルもジュディス・ミルズも同じだった。まだ彼女らは、所長イザベル・クランツに対し名前を『ASI』だとしか名乗っていない。それに、相手に信用されていないのは明白だ。にも関わらず、所長イザベル・クランツは二人に論文を引き渡す、いやむしろ持って帰ってくれと言っているのだ。
 ジュディス・ミルズとコールドウェルは、一度顔を見合わせる。
「……なら、有難く頂戴しましょうか。そうよね、サンドラ」
「お、おう。そうだな。その論文、引き取ろうか」
 呆気に取られていた二人は、ぎこちなくそう答える。すると二人の返答を聞いた所長イザベル・クランツは、首から下げていた職員証を翻した。そして職員証の後ろに隠れていたロケットを、所長イザベル・クランツはネックストラップから取り外す。それから彼女はロケットを開き、中を二人に見せた。
 ロケットの中には、愛らしい茶トラの仔猫の写真が入っていた。そして所長イザベル・クランツは、ロケットの中から写真を取り出す。次に彼女は、取り出した写真の裏面をコールドウェルとジュディス・ミルズに見せた。
「これが、その論文の入ったマイクロフラッシュメモリーカードよ。……マイクロフラッシュメモリーカード、長い名前よね。バルロッツィ高位技師官僚って、こういうものが好きな変な人だったから」
 写真の裏面には、セロハンテープで小さなカードが貼りつけられていた。指先に収まるぐらいの大きさしかないそのカードには『2GB』の文字が書かれている。どうやら記憶容量が、それぐらいであるらしい。
 すると見慣れない小さなカードに、ジュディス・ミルズは眉を顰めさせた。
「初めて見るわね。その、マイクロフラッシュメモリーカード、でしたっけ? ……小さいし、記憶容量も少ないのに、どこにこれを使うメリットが……」
 今のご時世データといえば、磁気を発する特殊な装置に右手を翳し、右手の母指種子骨の上に埋められた不揮発性マイクロメモリに記録するものが当たり前。しかしそのカードは、手に埋め込むマイクロメモリよりも一回り大きく、そのうえ記憶可能な容量が随分と少ない。
 今の時代、記憶装置といえば最低でも二ゼタバイト以上が普通。二ギガバイトだなんて……いつの時代の話をしているのか、とジュディス・ミルズは思っていたのだ。
 しかしコールドウェルは、この小さなカードを使うメリットを知っていたようだ。
「ハッ、たしかにペルモンド・バルロッツィらしいな。彼は本当に古い時代のものが好きだねぇ。彼だけは、二十一世紀に生きていたようだ」
「そんなに古いの、これ?」
「ああ、古い。だから、アタシらは困るんだよな。その装置からデータを抜き取る方法は、世間じゃ疾うの昔に失われているから……」
 四十三世紀を生きる多くの者の目には、使い物にならないゴミやガラクタにしか見えないその記憶装置。
 だが分かる者には、そのガラクタの中に秘められた価値が分かる。そして分かる者は、分かるからこそ悩むのだ。最新の装置では、この古すぎて互換性のない記憶装置から何も情報が取り出せないことを。
 つまりこの装置の持ち主であった男の助言が無ければ、この装置はゴミやガラクタでしかないのだ。
「……ったく。困ったね。どうしたもんか……」
 コールドウェルは腕を組み、唸り声をあげる。すると所長イザベル・クランツはロケットの中に、メモリーカード付きの写真を戻した。そして彼女はロケットをジュディス・ミルズに渡すと、二人に向けて穏やかに微笑みかける。
 しかし聖女のようにも見えた所長イザベル・クランツの微笑は、どこかあの高位技師官僚に似た好戦的で挑発的な、他人をコケにするような態度が滲み出ていた。どうやら、一筋縄ではいかないようだ。イザベル・クランツという女性も、このメモリーカードとやらも。
 そして所長イザベル・クランツは、ざまあみろと言わんばかりに穏やかな笑顔で、物腰穏やかにこう言うのだった。
「そのメモリーカードは読み取り専用で、パスワード付きだとバルロッツィ高位技師官僚は失踪前に言っていたわよ。そして三回、パスワードを間違えると中身のデータが全て消し飛ぶ仕組みになっているらしいから、気を付けて頂戴。それと、私も含めてここの職員全員、誰もパスワードの正解を知らないから。それでは、せいぜい頑張って」
「…………」
「そういえば。そこの金髪の女性が彼を連れ去るよりも前に、ペルモンド・バルロッツィはこんなことを言ってたわ。パスワードのヒントは写真の猫の名前だ、って。でも誰も、その猫の名前を知らない。少なくとも、うちの職員たちは知らないわ」
 そして所長イザベル・クランツは渡すものを渡すと、二人に背を向けて、いそいそと本来の仕事へ戻っていった。
 ジュディス・ミルズは受け取ったロケットを、妖物でも見るような目で見つめる。そんなジュディス・ミルズのおどおどとした様子を、物珍しそうに見るコールドウェルは、ニタニタと笑っていた。
 だが、コールドウェルの高みの見物はすぐに終わる。血気盛んな男の大声が、背後から聞こえてきたのだ。
「……おい、そこの金髪女! テッメェ、どのツラ下げてこのラボに……――」
 男の声と共に、背後から殴りかかってくる気配を感じ取ったコールドウェルは、即座に振り返って、左腕を地面と水平に――肘を背中側に少しだけ曲げた状態に――伸ばす。すると突っ込んできた男は、コールドウェルが狙った通りに、彼女の伸ばした腕に衝突した。
 コールドウェルの腕は、男の首に直撃した。そしてぶつかったタイミングでコールドウェルは肘を曲げ、男の首の後ろに腕を回し、その首を抑え込む。それは男が床に背面から倒れこみ、後頭部をぶつけないようにとの、コールドウェルなりの配慮だった。――のだが、男はコールドウェルの顔を見るなり目を丸くした。それから男は言う。「えっ、お前……」
「ハッ! まさか、ここでアンタと遭遇するとは」
「アレクサンドラ・コールドウェルじゃねぇか……?!」
「そっちこそ、カルロ・サントスに張り付いてたクソガキじゃねぇか。随分とデカくなったもんだね」
 コールドウェルが首を締め上げていた男は、彼女にとっても見覚えのある男だった。コールドウェルはそう言って笑うと、男の首を抑えつけていた腕から力を抜く。すると男はドンっと床に背中から落ちた。そして落ちた男はそのままコールドウェルの顔を見上げ、こう呟いた。
「ペルモンド・バルロッツィの頭に銃を突き付けて、彼を攫ったのは、お前だった、のか……? あの時、頭に血が上っていて犯人の顔をよく見ていなかったから……」
「ああ、そうだよ。あれはアタシだ。他でもないペルモンド・バルロッツィに、そうするよう頼まれたからね」
 床に落ちた男の名前は、レオンハルト・エルスター。彼の首から下げられた職員証にも、そう書かれている――アルフレッド工学研究所、アバロセレン工学研究室主任研究員、という豪奢な肩書も付いていた。
 男にしては少し長めの金色の髪をオールバックにして固め、見るからに『軽そうな男』という雰囲気を放つ彼も、コールドウェルの記憶が正しければ、三十代の大人の男。
 コールドウェルの目には、十代前半のほんのクソガキだった彼が、ドクター・サントスに叱られていた時代の彼が、つい昨日のことのように思い出されるが。しかし、あれからもう二〇年近く経っているわけだ。
 随分と、時間は経っていたのだ。
「それにしても、アンタも年取ったねぇ? はぁー……アタシもババァになるわけだ。レオ、アンタと出会ったのも、もう二十七年前になるのかい? あん時のアンタは、ビクビク怯えてた五歳だか四歳の子供で……」
「二十七年前? 十七年前の間違いじゃないのか」
「いいや。二十七年前、アンタの姉さんが事故死した時だ。パトリック・ラーナーは覚えてるだろ? アタシは、彼の横で待機していたんだ。というかアタシは、アンタとお喋りしてたお姉さんだぞ。アンタ、さては忘れたのかい?」
「お前が、あの場に? 記憶にないな。……いや、待て。ASIの、パトリック・ラーナーの傍に居た? お前が?」
「ああ。ドクター・サントスがなーんにも喋らん子供に手を焼いて頭を抱えている姿を見ていたし、彼の相談にも乗ったもんだねぇ。それにドクター・サントスと、親友パトリック・ラーナーのハラハラとした裏方の駆け引きも、なかなかのモンだったよ~? 怯えてたお子様は、なぁ~んにも見てなかっただろうけど」
 床に落ちた男にコールドウェルは手を貸し、彼を立ち上がらせながら、彼女は昔話をまくし立てる。まるで恥ずかしい過去でも暴露しているかのように。しかしレオンハルトという男が動揺していたのは、昔話の一歩手前の話だった。
「ん? どうしたんだい、レオ。久方ぶりにカルロ・サントスにでも会いたくなったのか? 彼なら、遺灰の一部をジリアン・マクドネルっつー詩人さんが管理してるって話を――」
「いや、違う。その前だ。ペルモンド・バルロッツィが、何だって?」
「ああ、そうだよ。他でもないペルモンド・バルロッツィに、そうするよう頼まれたからね」
「あのジジィはお前らに一方的に連れ去られたんじゃあなく、研究所と俺たち研究員を無責任にも捨てたってことか?」
 そう言いながら、立ち上がった彼がコールドウェルに向けてきた目は、怒りに満ちたものだった。コールドウェルに対しての怒りではない。死んだ男に向けられた怒りだ。
 余計なことをうっかり口走ってしまったと、後悔しても遅い。言ってしまったことは取り消せやしないのだから。
「サンドラ。ここでの用は済んだし、次の場所に行かないと」
 気まずい空気に、ジュディス・ミルズがすかさず助け舟を出す。コールドウェルもすぐにその舟に乗った。
「ああ、そうだな。次、行くか」
 おい、待てよ。話は終わってないぞ! ……そう怒鳴る男の声が、後ろから聞こえてくる。コールドウェルは無視を決め込む一方で、伝えなければならないことが山ほどあることに頭を悩ませていた。


次話へ