アンセム・フォー・
ラムズ

ep.10 - There is no royal road to everything

「お願い、行かないで! 私には、まだあなたが必要なの!」
 淡い光がちらつく暗闇の中、イザベル・クランツはそう叫んでいた。彼女の耳には聞き覚えのある、懐かしくて少し厳しい男の声だけが聞こえていた。それから彼女は光の中に、その男の幻影を見ていた。
 3Dホログラムで照射され映し出されたかのように、淡く蒼白い光と曖昧な輪郭を持って現れた幻。イザベル・クランツ、彼女にだけ見えていた幻。そして幻の目は間違いなくイザベル・クランツの目を見ていて、彼女に話しかけてきた。それから幻は愛娘を愛でるように、彼女の頬に触れてきた。人間らしい温もりや、明確な感触があったわけではなく、あくまで冷たい風が頬を撫でるような感覚だったが、それでも彼女はそれを感じた。
 行かないで。咄嗟に、彼女の口から飛び出た言葉がそれだ。彼はもう、逝ってしまった人だということを分かっていたにも関わらず。それでも彼女は、彼に行ってほしくなかった。もっと傍にいて欲しかった。
「待って、ミスター・ペイル! 私はあなたに、まだ教えてもらわなきゃいけないことが山積みで――」
 蒼白い燐光の幻が穏やかな微笑を浮かべた刹那、それは闇の中に消えて行く。それでも、行かないでと叫ぶ彼女の頭を誰かが叩いた。手の甲で軽く、コンコンッと。
「――……ぃ、おい、所長さんよ。『行かないで』じゃなくて、アンタが戻ってきてくれ。おい、おーい」





「おい、おーい。所長さん? 起きてくれよ、おーい」
「アレックス。そう無理に起こすのも、なんだか悪いんじゃないのか?」
 暢気に欠伸をしながら、ヒューゴ・ナイトレイはそう言う。それに対し、アレクサンダー・コルトは不機嫌そうに答えた。「起きてもらわにゃ困るんだよ。この人に、国の命運が掛かってるんだから」
「ここで昼寝してるアバロセレン技師のお嬢さんが、か? どうも俺には、彼女がキーパーソンである風には見えないんだが……」
 アレクサンダー・コルトに災難続きの今日、時刻は昼前の十一時半。約一時間前にASIを出たアレクサンダー・コルトとヒューゴ・ナイトレイの二人は今、アルフレッド工学研究所の所長室に立っていた。そして所長室の中央奥、窓を背に置かれたデスクに突っ伏すように座り、居眠りしている女性が目覚めるのを、彼らは待っている。時折、寝言のようなことをムニャムニャと呟く女性は、しかし一向に起きる気配がない。アレクサンダー・コルトが彼女の頭をいくら突こうが、叩こうが、目覚めやしない。
「アンタが起きてくれなきゃ、困るんだけどなぁ。イザベル・クランツさんよお……?」
 コンコンコンッ。アレクサンダー・コルトは握りしめた手の甲のナックル部で、寝ている女性、つまりアルフレッド工学研究所所長のイザベル・クランツの頭を軽く叩く。これで三回目だ。しかし彼女が目覚める気配はなく、再び寝言が零れるだけ。
 そんなとき、再びヒューゴ・ナイトレイが欠伸をする。それから彼は、妙にニヤついた顔でアレクサンダー・コルトを見ると、こんなことを言った。
「そういえばだ、アレックス。あの、あいつだ。スーパーモデルのレイ・シモンズ。彼がまさか、ヒューマノイドだったとは。それも中身は、バルロッツィ高位技師官僚が作った人工知能だなんて。今朝は夢が砕ける音がしたねぇ。レイ・シモンズが女なら抱きたいと思っていたが、機械のレイ・シモンズは御免こうむりたっ――」
 すると、突然。眠っていた所長イザベル・クランツが何かの単語に反応し、飛び起きる。
「――……レイ・シモンズ!!」
 どうやら、あの金髪のヒューマノイドが世に(はばか)る仮の名前として使っている“レイ・シモンズ”に、彼女は反応したようだ。そしてヒューゴ・ナイトレイはリサーチ済みであったらしい。この女性が、レイ・シモンズという名のモデルが大好きでたまらないという情報を。
 ヒューゴ・ナイトレイのことを、てっきりドンパチしか出来ない男だと思っていたアレクサンダー・コルトは、その評価を見直す。彼はただの筋肉特攻野郎ではなく、秘密情報局の局員らしいスキルを持ち合わせていたようだ。「やるじゃねぇか、ヒューゴ」
「お前こそ、思ったより仕事できないもんだな、アレックス」
 ヒューゴ・ナイトレイの突っ込みに、アレクサンダー・コルトは笑って受け流す。そんなアレクサンダー・コルトは、彼の言葉を否定はしなかった。
「ハハッ。かもな?」
 彼女自身、自覚はあったからだ。今までは運よく生き延びてきただけで、運よく無事に局面を乗り越えられてきただけだと。行き当たりばったりで、それでも持ち前の強運でどうにかなっている。それが、アレクサンダー・コルトなのだから。彼女はまともな訓練や教育を受けてきたわけではなく、スキルのほぼ全ては独学と見様見真似で身に着けてきたもの。ジュディス・ミルズやヒューゴ・ナイトレイを始め、適切な訓練を受け、経験を積んできた者たちとアレクサンダー・コルトを比べたときに、自分の実力がいかに劣っているかということは、彼女もちゃんと分かっていた。
 そんなこんなで痛いところを突かれ、少しチクツとした痛みをアレクサンダー・コルトが胸に感じていると、飛び起きた所長イザベル・クランツが目をぱちくりとさせ、驚いたように二人を見つめていた。
「あら、まぁ。お客さんが、いつの間に……?」
 まずヒューゴ・ナイトレイを見つけた所長イザベル・クランツは、とたんに気まずそうな表情を見せ、口角が引き攣った笑みを口許に浮かべる。それから慌てて椅子から立ち上がり、緩んでいたシャツの襟首を整えた。そんな彼女の頭には、もうレイ・シモンズという言葉は残っていない。
 それから、次にアレクサンダー・コルトを見た所長イザベル・クランツは、一瞬にして表情を曇らせ、笑みを消す。そして彼女はアレクサンダー・コルトに威嚇するのだった。
「うちのレオンハルト・エルスターと、どうやら知り合いであるらしいアレクサンドラ・コールドウェルさん。今度は、何の用で?」
 つい先ほどまで、居眠りをしながら寝言を言っていた女性。しかし今、その彼女は縄張りを侵されて怒る野良猫のように、険しい形相でアレクサンダー・コルトを睨みつけていた。所長イザベル・クランツの、居眠りをしていたうちに崩れたお団子ヘアは、まるで背中の毛を逆立てる猫のよう。
 おお、怖い。アレクサンダー・コルトは、そんな思ってもいない言葉を呟く。一方ヒューゴ・ナイトレイは、アレクサンダー・コルトが所長イザベル・クランツの注意を自分に引きつけているうちに、所長イザベル・クランツの背後に回り込んでいた。
 しかし自分の後ろで、男が手錠を掛けるタイミングを見計らっていることなど気付いていない所長イザベル・クランツは、また姿を現したイヤな女へのバッシングを続けていた。
「論文なら、お渡ししたでしょう? これ以上、何をお望みで。ペルモンド・バルロッツィ、ルートヴィッヒ・ブルーメ、その次は、レオンハルト・エルスターですか? それとも、まさかこの私?」
「ああ、そうだ。所長さん。ASIの長官命令で、あんたを本部にお連れしなくちゃならなくてね」
「まさか、昨日の……――パスワードなら知らないと、言いましたよね?」
「その件とは、また別件だよ。それにマイクロメモリーなんたらカードのパスワードの話なら、ありゃもう解決済みさ」
 そんなアレクサンダー・コルトの言葉に、不意を打たれた所長イザベル・クランツは一瞬、何が起きたのかと固まった。まさか本当に、そのような言葉が出てくるとは予想もしていなかったからだ。
 所長イザベル・クランツが見せたその隙に、ヒューゴ・ナイトレイはすかさず飛び込む。困惑顔の彼女の腕をヒューゴ・ナイトレイは後ろから掴むと、その手首に手錠を嵌め、もう片方の手首にも素早く手錠を掛けた。
「詳細は、本部に着いてから説明する。今は黙ってついて来てくれ、お嬢さん」
 アレクサンダー・コルトによる連行宣言からの、ヒューゴ・ナイトレイによる捕縛。何が起きたのかと身を固くした所長イザベル・クランツの背後から、ヒューゴ・ナイトレイはそう囁いた。彼女の耳元で、彼女の首筋に息を吹きかけるように。
 すると所長イザベル・クランツは、あからさまに不愉快そうな顔をしてみせた。と、次の瞬間。彼女の頭が勢いよく後ろに倒れ、そして彼女の背後に立っていたヒューゴ・ナイトレイが後ろへと吹き飛ぶ。それから所長イザベル・クランツは、啖呵を切った。
「私を連行するなら、まず理由を聞かせなさい! 行くかどうかは、私が判断するわ。それから、アレクサンドラ・コールドウェル。連れてくるなら、こんな、こんな礼儀を知らない男じゃなく、別の人にしなさいよ! 昨日のあの女性とか!」
 床に尻餅をついていたヒューゴ・ナイトレイは、上体を前屈みに倒していた。それから両足の間を閉ざし、さらに股間に手を当て、何やら男にとっての大事な場所を庇っている様子。どうやら彼は、顔を後頭部で殴られただけに限らず、股間に強烈な蹴りも食らっていたようだ。
 そしてヒューゴ・ナイトレイは暫く無言で悶えたあと、痛みをこらえて顔を上げる。彼の鼻は、赤くなっていた。すると今度は鼻を押さえながら、ヒューゴ・ナイトレイがボヤく。「……このアマめ……あンのクソジジィと、全く同じことを俺にしやがって……!」
「何か言いましたか、そこの下品なお方?」
「流石はペルモンド・バルロッツィの寵児、『鉄の女』と仇名されるだけはあると、そう言っただけだ! あぁっ、クソッ!!」
 これで二度目だ、とヒューゴ・ナイトレイは悪態を吐く。苦悶の表情を浮かべながら、よろよろと立ち上がる彼に、しかしアレクサンダー・コルトは手を貸さない。ひとり無様な姿を見せる彼をアレクサンダー・コルトは冷たく嘲笑いつつ、所長イザベル・クランツの目を見る。それからアレクサンダー・コルトは、こう言った。
「この大陸を浮かせているエンジンのリアクターか何か……だったか? それが、どうやら壊されたらしいんだよ。その影響で、近頃の異常気象が起こっているらしいんだ」
 アレクサンダー・コルトの言葉に、所長イザベル・クランツの顔色が変わる。所長イザベル・クランツの顔はまるで最悪な報せを耳にしたようなもので……――その表情だけで、無学なアレクサンダー・コルトも予想される被害の甚大さを理解した。
 しかし問題はそれだけではない様子。所長イザベル・クランツは目元にぐっと力を込めると、ひとを絶望の淵に追いやるようなことを口にするのだった。
「それって、すごく……悪い報せね。多分あなたたちは私が、あの永久機関のエンジンを設計した男の教え子だから頼ってきたんでしょうけど、残念ながら私に力になれることはあまりないわ。何故ならばペルモンド・バルロッツィ、彼しかリアクターの構造を知らないからよ。リアクターだけじゃない、この国を支えるエンジン機構すべての設計図、それらは国家機密に指定されていて、権限を持つ一部の人間しか閲覧を許されていないってはなし。知りたくば、その命と交換になる代物――彼は以前、そう言っていたわ。多くの者が手を伸ばそうとして、その全てが明日を奪われていった、ともね」
「……?!」
「それに、あなたがたASIもよく知っているでしょう? ミスター・ペイル、彼は口の堅い男で、そしてコントロール不能の多重人格者。数十年前に設計図を描いた彼と、私が教えを乞うた彼は別人で、私の知っている彼はそもそも、設計図に自分がどんなことを描いたかすら覚えていなかったし、一度たりとも思い出そうとしなかった。つまり私は、何も知らないわ。ごめんなさいね」
 ごめんなさいね。そう言った所長イザベル・クランツの声は、どこまでも平坦で、抑揚がなく感情もない。心底残念そうな表情とは裏腹に、声には切羽詰まったものが微塵もなかった。
 そんな彼女の姿に違和感を覚えたアレクサンダー・コルトは、所長イザベル・クランツの目を見つめる三白眼を凝らす。と、その瞬間。所長イザベル・クランツが、彼女の師匠譲りの、ひとを小バカにするような薄ら笑いを浮かべた。
「でも、そちらさまが設計図を入手して下さるなら……――話は変わりますかねぇ。まあASIなら、入手なんて簡単でしょう?」
 ニヤリと、引き攣るように上がる口角。だが目が笑っていない、その笑顔。ペルモンド・バルロッツィ、彼が他人を軽く脅す際に浮かべていた笑顔とそっくりの顔を、所長イザベル・クランツは今していた。
「私も、師が『最悪の罪』と呼んでいた産物の詳細に興味がありますし。彼が地獄まで持っていき、そして今もなお彼以外の誰もが見つけられずにいるアバロセレンの秘密が、そのリアクターから分かるかもしれませんからね。なぜアバロセレンだけがエネルギー保存則を超越してみせたのかという理由とか。異次元からエネルギーを盗んでいるという説が正しいのかどうかも、それで分かるでしょうし。それに今は研究とは距離を置いていますが、私はアバロセレン工学と熱工学の研究者であり、同時に師と同様、軍用機のエンジンの設計に協力するエンジニアでもありますから。きっとお役に立てますわ」
 癖のある人物。昨日、アレクサンダー・コルトが所長イザベル・クランツに対して抱いた第一印象は、間違いではなかったようだ。彼女の師匠には劣るだろうが、それでもイザベル・クランツという女性が食えない人物であるのは違いない。
 だが彼女は、天邪鬼や捻くれ者というわけではなさそうである。そして臆病者ではなく、かといって無謀な挑戦者でもない。自分の武器と、自分が活躍できる戦場をよく理解している、慎重な策略家といったところだろう。
 そんなイザベル・クランツは、必要な材料さえそちらで揃えてくれれば、自分は料理人として厨房に立っても良いと、アレクサンダー・コルトらにニュアンスで伝えていた。
「設計図なら、長官の一声ですぐ手に入るだろう。今日中にも、中身が明らかになるだろうさ。だから、お嬢さん。とにかく来てくれ」
 ヒューゴ・ナイトレイは赤くなった鼻を手で押さえたまま、鼻声で言う。すると彼の鼻の穴からは、一筋の血がタラア……と滴り落ちてきた。畜生、と呟く彼に、アレクサンダー・コルトは一枚のティッシュペーパーを差し出す。それは所長イザベル・クランツのデスクの上に置かれていたティッシュ箱から、無断で取ったものだった。
 まるで遠慮のない行動に、所長イザベル・クランツは少しムッとした表情をしてみせる。それから所長イザベル・クランツはひとつ咳払いをすると、鼻にティッシュを詰め込むヒューゴ・ナイトレイと、彼を茶化すアレクサンダー・コルトに対し、こんなことを言った。
「わかった。私、そしてこのアルフレッド工学研究所は、ASIに全面的に協力しましょう。けれど、条件があるわ。……まず、この手錠を外して。それから、そこの男を私に近付けさせないで」
 ――一方、その頃。連邦捜査局シドニー支局の地下は凍り付いていた。
 地下二階のモルグは、遂に四十体を越した遺体と、各所から寄せ集めた実習生、そして検視局および監察医局等々から派遣された検視官と監察医たちで、すし詰め状態。そんな中、全ての指揮を執っていた検視官バーニーは、死人のように冷たい目でひとりの若い男を見ていた。
「昔、あなたがドラッグクイーンをしていたって話は、本当なんですか?」
 それは若手と思われる監察医が、挨拶のあとに何気なく挟んできた質問。きっと質問をぶつけた彼に、悪気はなかったのだろう。
「ボーマン局長が、あなたのことをよく喋るんです。見た目はまるで蝋人形なのに、随分とパワフルで限界がないように思える男だ、って。朝も昼もバリバリ働いていて、いつ寝ているのかが分からない、って言ってました」
「……」
「僕は、あなたのことがずっと気になってたんですよ。謎多きドクター・ヴィンソン。どんな人なのか、想像もできなくて。でも実物は、本当に……――」
「…………」
「――まさに蝋人形、ですね」
 検視官バーニーには、その若い監察医が言うところの『局長』に心当たりがあった。それは検視官バーニーにとっての古巣、監察医局で同期だった男。今は監察医局で局長をしているとかと噂で聞いた彼だろう。
 そいつは多くのことにあまり頓着しない検視官バーニーが唯一、嫌いで堪らないとカテゴライズしている男。事実確認をろくにしないまま、今もこうして法螺を吹いて回っている男だ。
 その男の名は、監察医クライド・ボーマン。噂話とマウンティングが得意技で、肝心の仕事はおざなりで、遺体を――時には今も生きている人間すらも――実習用の人形と同じように扱う、とんでもないクソ野郎だ。
「それでボーマン局長が言ってたんです。あなたは監察医局で監察医として二年働き、その後に検視官の資格を取得して、検視局に鞍替えして。さらに連邦捜査局の特別捜査官の試験もパスして、今は連邦捜査局シドニー支局の検視官として働いていると。それで、どうなんですか? 若い頃にドラッグクイーンをやってたっていう話は。ショーパブの歌姫ってのは儲かるもんなんですか?」
 あー、面倒くさーい。
 検視官バーニーはそんな本音をついつい零したくなるが、あくまで仕事中である今、そんな緩みを人前で見せるわけにはいかない。だが検視官バーニーは心底呆れていた。ドクター・ボーマンは、未だに勘違いを続けているのかと。当時、あれだけ訂正したにも関わらず。
 ドクター・ボーマンのショーパブ通いが始まり、検視官バーニーが監察医局を辞めるまでの二年間で、検視官バーニーは百回以上そのことについて繰り返し何度も、ドクター・ボーマンに重ね重ね訂正したはずだ。
『その歌姫とやらの正体はたぶん双子の弟であるリーランドで、彼と自分は顔がよく似ているだろうがそれは自分ではない。第一にテメェが押し付けてくる仕事のせいでコッチは残業に次ぐ残業続きで、そのせいで婚約者にも散々に怒鳴られた挙句捨てられたってのに、そんなことに現を抜かしていられる余裕が俺にあるわけがないだろうがァッ!!』
 ――……と。それなのに、四〇年近くが経過した今でも……。
 検視官バーニーは小さく溜息を吐き、少し肩を落とす。そして彼は相変わらずの冷たい目で若い監察医を見ると、声に苛立ちを露わにしながら、言った。「まず、一つ目。私の今の肩書は、正確には『シドニー支局に出向している、検視局所属の検視官』。たしかに私は、連邦捜査局の検視官試験もパスしたし、連邦捜査局のバッジも持っているけれども。所属は一応、今も検視局だから。それから」
「それから?」
「私は、低俗な世界と捜査以外の場面で直接関わったことは一度もない。……そしてドクター・ボーマンは、法螺吹きで有名。あの男の話は疑ってかかるべき。あれの話を鵜呑みにすると、あなた自身が恥をかくことになるでしょう」
 真顔で、ぴくりとも動かない検視官バーニーの表情筋。だがその声から漂う不穏なオーラに、若い監察医も検視官バーニーの怒りを察しとったのだろう。彼は「すみません」と一言、検視官バーニーに謝ると、いそいそと持ち場に戻っていった。
「…………」
 散々な日だ。検視官バーニーは、心の中で嘆く。
「えーっと、皆さん。こんな大変な日に、来てくれて本当にありがとう。それじゃ、仕事に掛かりましょう」
 そして連邦捜査局シドニー支局、地上六階では、ピリピリとした空気がまだ残っていた。
 異常犯罪捜査ユニット、ユニットチーフのニール・クーパーは一時間前に、リリー・フォスター支局長命令で急遽キャンベラにあるASI本部に出向するよう命じられ、今は空席。そして残された異常犯罪捜査ユニットのメンバーは、身動きのできない状況に苛立ちを募らせていた。
 モルグに詰まれた、山のような遺体たちからの収穫は無し。そして地下のモルグに運び込まれた青少年たちの遺族らは支局に押し寄せ、連邦捜査局の無能さに怒り狂い、とんでもない言いがかりを報道陣らの前で勇ましく騙っている。それから重要参考人『ジョン・ドー』はASIに居る以上、連邦捜査局は手出しができない。そして金髪の猛獣は今朝、最悪な言葉を口にした。
 ――バーソロミュー・ブラッドフォード事件の再来だ。
「ペルモンド・バルロッツィ高位技師官僚の肝臓のサンプルを取って、それを調べてただぁ?」
 そんな異常犯罪捜査ユニットのオフィスが入る、地上六階の会議室。息を殺しつつテキストと向き合うスカイ・クーパーは、彼女の父親の部下であるエドガルド・ベッツィーニ特別捜査官の怪訝そうな顔に、内心ビクビクと震えていた。
 そんな顔を顰めさせているベッツィーニ特別捜査官のお喋りの相手は、解剖室のクリーチャー。検視官助手のハリエット・ダヴェンポートだった。
 普段とは違い、モルグに生きている人間が多く詰めかけている今日。寝不足の検視官助手ダヴェンポートにパニックを起こされては堪らないと、検視官バーニーの判断により彼女は解剖室およびモルグを追い出されたのだ。そして「異常犯罪捜査ユニットに“何でもいいから”協力してきなさい」と検視官バーニーに命令され、検視官助手ダヴェンポートはこの地上六階に来たのである。
 何でもいいから協力してきなさいと、ヴィンソン先生に言われて来たのですけど。何でもいいって、何をどうすればいいのですか? ……そんな質問を馬鹿正直に、エドガルド・ベッツィーニ特別捜査官に彼女はぶつけてきたのだ。そしてベッツィーニ特別捜査官が対応に困っていると、話の流れでいつの間にか、先日のVIPの遺体の話が出たのだ。
「私はただ、ヴィンソン先生の代わりに分析結果を受け取りに行っただけです。肝臓のサンプルの解析を頼んだのは、私ではなくヴィンソン先生ですよ」
「あの、バーニー・ヴィンソンが? なんでまた、そんな危ない橋を……」
「肝臓の一部を切り取ってサンプルを採取するのは、対象を死に至らしめた毒物を特定するためです。毒殺や薬物の過剰摂取と思われる場合に行われる、連邦捜査局ではごく普通のプロセスですよ。血液、尿、それに加えて肝臓も念の為に調べるんです。体内に侵入した毒物は肝臓に貯まり、そこで解毒されるので。あと肝臓を見れば、被害者が普段アルコールやドラッグなどを常用していたか、およびその量が……」
「肝臓で解毒が云々って話は、俺も知っているよ。だから何故バーニーは――」
「ただバルロッツィ高位技師官僚の臓器は大半が壊死していたので、毒物の特定がとても難し……」
「ダヴェンポート、落ち着け。俺の話を、聞け!」
 少し声を荒らげさせたベッツィーニ特別捜査官に、検視官助手ダヴェンポートは「何故、怒っているのかが分からない」と戸惑いの表情を見せた。そして検視官助手ダヴェンポートのその反応に、ベッツィーニ特別捜査官は呆れたといわんばかりの大袈裟な溜息を吐く。検視官助手ダヴェンポートの止まらぬマシンガントークに、彼は辟易としていたのだ。要点だけを話してくれ、と。
「あのな、クリーチャー。俺はお前に、解剖の手順など訊ねていない。俺はお前に、これを聞いているんだ。何故バーニーは、自殺と判断された遺体を、他殺体と同様に解剖して詳しく調べたのか。それから、お前はなんでその分析結果にやたらと興奮しているのか、だ!」
「それは、えっと……」
「ダヴェンポート」
「はい! えっとですね。……たぶんヴィンソン先生は、件のご遺体は自殺ではないと判断したのでは?」
「――なんだって?」
 そんな二人のやり取りに、息を殺すスカイは戦々恐々。彼女は気配を殺すのに必死で、テキストに書かれた問題の意味など、もはや頭に入っていなかった。それから二人の会話も、スカイの頭を右から左に抜けていく。
 スカイは今、後悔していた。家に帰りたくないと言った自分の今朝の判断を、とても後悔していた。彼女は今、とても家に帰りたくてたまらない。こんな緊張感に満ちた場所、まだまだ世間知らずな十七歳には耐えがたいストレスだった。
 だが、怯えるスカイの姿は二人の視界には入っていない。特に、空気を読むということができない検視官助手ダヴェンポートは、穏やかでない話を続けるのだった。
「バルロッツィ高位技師官僚は殺された、または何者かが自殺に手を貸した。ヴィンソン先生は、そう睨んだのだと思います。だって、普通では考えられませんもの。内臓があんなにも壊死している状態では、一人で外を歩き回るなんて無理です。ただ息をしているだけでも、想像を絶する苦痛に見舞われていたはず。その証拠に、ご遺体からはモルヒネとベンゾジアゼピン系の鎮静薬が検出されています。どちらも苦痛を和らげるためのものでしょう。そしていずれも、代謝の進行度合いから見るに、テトロドトキシンよりも先に投与されていたことが分かっています。あっ、ベンゾジアゼピンのお陰で代謝の速度が遅くなっていたので、普通であれば早くに代謝され、検出が困難になってしまうテトロドトキシンを無事に検しゅっ……」
「ダヴェンポート、簡潔に」
「はっ、はい! えっと、つまりですね。バルロッツィ高位技師官僚。彼にテトロドトキシンが投与されたとき、彼は意識清明ではなかったんです。混濁というか……強い眠気に襲われて、とても目を開けていられない状態だったと思われます。クリアな状態の意識では、耐えられない痛みに見舞われていたのでしょう。ですから意識を低下させずに痛みを和らげるモルヒネだけではとても足りず、意識を低下させる鎮静薬が必要になっていたのだと思われます。本当に末期の、緩和ケアみたいなものでしょう」
「……」
「つまり彼はテトロドトキシンが投与された時、ほぼ眠っていたような状態なんです。そんな状態で、自分の頸動脈に、正確に注射針を刺せると思えますか? それに一人で立って、歩いて移動するなんて、出来るでしょうか?」
「……無理だろうな」
「はい。ですがご遺体の首筋にあった、針のような細いもので刺されたと思われる小さな傷跡は、機械的な正確さで頸動脈を捉えていました。医学の心得がある人間で、且つ手慣れた者でないと、あれほどの正確さは再現できません。となると彼を殺した、または自殺幇助した者が居たと考えるのが妥当です。あれは鎮静薬を打たれた人間に出来る仕事ではありません。それに協力者が居たとなれば、第一発見者の話が理解できるようになりますし、シドニー港なんて場所に彼が居た説明がつきます。きっと彼は遺棄されたんです」
 話の脱線のしやすささえ除ければ、検視官助手ダヴェンポートの話は実に理路整然としていて、筋が通っている。
「――クリーチャー。お前も、やればできるじゃないか」
「何がですか?」
「バーニーみたいな、分かりやすい説明だよ」
「あっ、はい……ありがとうございます?」
 今の検視官助手ダヴェンポートの話が合っているのであれば、検視官バーニーは「件の遺体は自殺ではない」と判断したことになり、彼の行動にも説明がつく。納得したベッツィーニ特別捜査官の表情は、先ほどまでと比べて穏やかなものになっていた。
 あの遺体は「自殺」として処理されている。だが検視官バーニーは、自分が出した――または、出すようにと圧力を掛けられた――その所見を疑問視し、覆そうとしていたわけだ。しかし、その検視官バーニーの行為は支局の意向――または、支局に圧力を掛けた者の意向――に反する。
 故に検視官バーニーはここ数日、コソコソと動き回っていたのだろう。仕事の案件を『私用』と称し、『個人的』に化学捜査官にサンプルの分析を依頼したりなど。どうにも怪しかった彼の行動に、ようやく真っ当な説明がついた。……だが。問題はそこで終わらない。次なる問題が浮上する。
 ならば犯人は誰だ、どうやって逮捕する?
 クローズした事件を、どうやって蒸し返す?
「……だが何故、バーニーはあそこまでコソコソと動いていたんだ? クリーチャー、お前なにか知ってるか?」
 連邦捜査局シドニー支局は、キャンベラにある本部と比べれば腐敗は進んでいないほうである。それは前支局長ノエミ・セディージョの権威に対する反発心と腐敗を憎む志を礎に、現支局長リリー・フォスターがそれを盤石なものとしたのちに、彼女が捜査官たちを厳正に管理、監督しているからだ。捜査官たちが不正に手を染める余裕と隙が、この支局には無いのである。良くも、悪くも。
 それに捜査に関しては一切の妥協を許さないリリー・フォスター支局長が、篤い信頼を寄せている検視官バーニーを無下に扱うとは、少なくともベッツィーニ特別捜査官には思えなかった。
 リリー・フォスター支局長なら、正当なプロセスを踏み、確固たる証拠を示したうえで再捜査を提案すれば、それを受け入れてくれるだろう。彼女は仕事に関しては公明正大で、常に真実を明るみにすることだけを最優先にし、そのためならば臨機応変な計らいをしてくれる人物なのだから。……そうなると検視官バーニーがリリー・フォスター支局長を警戒していたとは考えにくい。それに彼女を警戒していたのであれば、同じ支局に所属する化学捜査官を頼るはずがない。
 となると、検視官バーニーは何を警戒していたのか? ベッツィーニ特別捜査官の頭に思い浮かんだのは、ひとり。ASI所属だとか特務機関WACEという場所から来ただとか、様々な噂が交錯する金髪の猛獣、謎多きエージェント・コールドウェルだ。それにベッツィーニ特別捜査官は、風の噂で聞いていた。エージェント・コールドウェル、彼女がリリー・フォスター支局長に対し、自殺で処理するよう圧力を掛けたと。
 ――すると、検視官助手ダヴェンポートは首を傾げさせる。彼女には心当たりがなかったようだ。
「すみません、私には分からないです」
 それも仕方ない話だ。検視官助手ダヴェンポートが知っているはずもない。それに、ベッツィーニ特別捜査官はハナからその可能性に期待していなかった。
 検視官バーニーが何かを考えていたとしても、あまり口数の多いほうではない彼が、それを事細かに助手に伝えるとは到底思えない。それもこのハリエット・ダヴェンポートになんて……それはあまり現実的でない話だ。
 となれば、次の話に移るまでだ。
「まあ、それは措いといて。それで、その分析結果は? 何が、そんなに問題なんだ。教えてくれ」
 次に、彼が気になるのは『バルロッツィ高位技師官僚の肝臓の分析結果』とやらだ。検視官助手ダヴェンポートは、その結果のどこに興奮しているのか。それが疑問で仕方ないのだ。
 ベッツィーニ特別捜査官がそう話を振ると、検視官助手ダヴェンポートは少し困ったような表情を浮かべてみせた。そして彼女は、こんなことを口にする。
「問題は、大ありなんです。でも、捜査には何も関係がなくて。ここで、話すようなことでもないかと……」
 話したがり屋のダヴェンポートが、説明をゴネる。ただならぬものを感じ取ったベッツィーニ特別捜査官の表情は、再び怪訝そうなものに変わった。
 眉間にしわを寄せるベッツィーニ特別捜査官は、検視官助手ダヴェンポートにじりじりと迫る。鈍いダヴェンポートも、今回ばかりはベッツィーニ特別捜査官の気迫を敏感に感じ取ったようで、肩を竦ませた。そして息を殺すスカイも、緊張から身を固くする。ペンを握るスカイの手には力が入り、彼女の手に握られていたシャープペンシルはギチギチと震え、歯軋りのような音を立てていた。
 するとベッツィーニ特別捜査官の手が、検視官助手ダヴェンポートのほうへと伸びた。そして彼の手が、検視官助手ダヴェンポートの脇腹に、彼女が携えていた分析結果のファイルに触れる。
「あっ、エディさん! ダメです!」
 するりと、検視官助手ダヴェンポートの脇腹をすり抜けたファイル。ファイルをかさらったベッツィーニ特別捜査官は、慌てふためくダヴェンポートをよそに、中を読み始めた。
 読みにくい小さな文字で、びっしりと書き込まれた本文。そして所々にちりばめられた、汚い走り書きつきの付箋。この文章を書いた人間は相当に興奮していたに違いないと、そう読み取れるファイルだった。それに軽く流して読むベッツィーニ特別捜査官も、この内容に震懾している。
「おい、クリーチャー。これは……本当に、本当なのか?」
「はい。たぶん、本当です……」
 検視官助手ダヴェンポートは『肝臓のサンプルの分析結果』と言っていたが、ファイルの中身はそれだけではなかった。
 体内から摘出された、脈動しない人工心臓――プロペラスクリュー内蔵のポンプ――に関する解析結果。肝臓から見つかった、普通の人間では考えられない酵素。不可解な点のあるDNA二重螺旋。
 ベッツィーニ特別捜査官は、軽く流して読んだだけだ。それでも、この内容に検視官助手ダヴェンポートが戸惑う理由を理解した。これに書かれているのは、まるで現実の出来事とは思えないショッキングな内容。世間に出したら最後、混乱を招く情報。
「マクベイン化学捜査官が、最初にテロメラーゼの存在に気付いて。そのあとに同じサンプルを、化学捜査課のティンダル主任がもう一度分析した結果、マクベイン捜査官と同じ結論に至ったそうです。なので火葬前に、そこから大急ぎで色々とサンプルを取ったり、撮影したりして、それで、えっと、あの……」
「つまりペルモンド・バルロッツィは、サイボーグ……いや、新人類(トランスヒューマン)だったってことか?」
 ペルモンド・バルロッツィ。彼の体内に、心臓代わりに埋め込まれていたのは、鋼鉄のポンプ。そして彼の肝臓の一部から見つかったのは、普通の人間ならばそこにあるはずのない酵素、テロメラーゼ。そして八〇歳をゆうに超えているはずの遺体から採取されたDNAは、まるで年齢と釣り合わない彼の外見と同じく、四〇代半ばのような状態だった。
 要するに、ファイルにある情報は『彼は普通の人間ではなく、繰り返し何度も若返る体と、医学的には“死んでいた”ことになる心臓を持っていた』ということを示していた。
 彼について分かっている情報は、完全ではないだろう。だが、それでもこれだけは確実に言えた。
 ――彼は、普通の人間ではない。そしてそれはもはや、人類と呼ぶには常軌を逸している。
 ファイルを読めば読むほど、曇っていくベッツィーニ特別捜査官の表情。すると何かを思った検視官助手ダヴェンポートは、ひとつ咳払いをした。それから、彼女はこんなことを言う。
「トランスヒューマン……――いいえ、彼は脱人類(ポストヒューマン)だったのかもしれないです。……しかし、もう何も分かりません。彼は死んで、そのご遺体は灰になり、海に消えました。分からないんです」
 そしてファイルには不死と思われた男が死んだ理由について、こんな仮説が書かれていた。
 彼の体内からはテロメラーゼが見つかったと同時に、ガン細胞が見つかったそうだ。しかしこのガン細胞は、どうやら他人のものを移植されたようだということが分かっている。そしてガン細胞は、彼の肝臓より分泌されるテロメラーゼを餌に異常増殖。すると、リンパ球CTLが『何らかの因果により』異常をきたし、ガン細胞だけでなく他の全ても、主に正常な細胞を狙って攻撃しはじめたと思われるそうだ。それにより、いくつかの場所で血管壁が損傷。そうして弱くなった血管には瘤が発生し、それにより血流が阻害され、内臓の壊死が引き起こされたらしい。
 何故、彼は他人のガン細胞を自分の身体に移植したのか。その答えは、二つに一つだろう。それほどまでに彼が死を希求したのか、またはどうしても彼のことを殺したい者が居たのか。その二択だ。
 どちらもあり得る話だが、ベッツィーニ特別捜査官は前者の線が濃厚だと思っていた。そうすればエージェント・コールドウェルが『自殺で処理するよう圧力を掛けた』理由も分かってくる気がする。きっとエージェント・コールドウェルは、ペルモンド・バルロッツィの自殺に手を貸した者のことを知っていて、その者のことを庇っているのかもしれない、と。
 ファイルを閉じながら、ベッツィーニ特別捜査官は溜息を吐く。どうにも、雁字搦めだ。彼にはそんな気がしていた。道徳、倫理、理性、そして義理。開けてはならないパンドラの箱が今、解錠された状態でベッツィーニ特別捜査官と検視官助手ダヴェンポートの前に置かれているような気がする。
 箱を開けて、真実を見ることも出来るだろう。だが、その後にどうなることか。
「こういう感情は、私には初めてのもので、あっ、あの、よく分からないんですが……――これは、謎のままで良いような気がするんです。これ以上、ほじくり返しちゃいけないような。たしかにこれは凄く興奮する未知の領域で、私はこれをもっと知りたいです。でも、同時にすごく怖いんです」
 ベッツィーニ特別捜査官が閉じたファイルを、検視官助手ダヴェンポートは取り戻す。暗い顔でそう呟く彼女に、ベッツィーニ特別捜査官は悪態を吐かない。代わりにベッツィーニ特別捜査官は、俯く彼女の肩に握りしめた拳を軽く当て、慰めにも励ましにもならない中途半端な苦笑いを向けた。
 そしてスカイは、ぶるぶると肩を震わせている。スカイの耳に二人の会話はろくに入っておらず、彼らの会話の内容など一切理解していなかったが、それでも彼女は何かに恐怖心を抱いていた。





 アルバトロス。それは後悔、そして償うことのできない罪のシンボル。
 それは終わらない悪夢、首に纏わり続ける影。いくら切ろうと、その身から切り離せない烙印。
 愛さえあれば、呪いは解ける。そんなことを説いた、バラッド風の詩もあった。だが。
『気を付けて、ダーリン。あなたの傍にはいつも、影が付き纏っているのよ。大きな海鳥みたいな姿の……――ペルモンド、彼の中に居る黒狼とまるで似たような気配がする。だから黒狼のように、あなたが油断した途端、その影はあなたの身体を奪いに来るわ』
 それは、今となっては遠い過去の話。少しだけ雀斑のある白い頬が、薄暗闇の中に朧気に浮かんでいた夜。彼女の淡いブルーの目はまっすぐに、似たような色を持つ彼の目を見つめている。
 年齢に釣り合わぬピュアさで、出逢ったころから全く変わらぬ淀みない彼女の瞳。そんな視線を真正面から向けられ、彼は何故だか急に気恥ずかしくなった。そして彼は、左横に寝そべる彼女から視線を逸らして、天井に目を向ける。すると彼女は、自分から目を逸らした彼の頬に手を伸ばし、触れた頬をむにっと抓ったのだった。
『アーティー!! 私は今、真面目な話をしてるのよ!』
『真面目な話は、ベッドで寝ながらするもんじゃないと思うけどねえ。それに、僕は大丈夫だよ。心配には及ばないさ』
『その根拠のない自信は何処から湧いてくるのかしらねぇ、ダーリン。あなたには敵が見えていないのに、どうやって対処するというの?』
 彼女の名前は、キャロライン。普通の人間には見えない世界を見ていた女性。もうこの世界には居ない、過去の人。決して替えることのできない、唯一無二の女性。
『何とかなるさ、キャリー。今までだって、そうだったように。それより……――僕は二人目の子供の話のほうが、今はしたいかなぁ?』
 いつだってキャロライン、彼女の言葉は正しかった。ペルモンド・バルロッツィの不吉な予言が常に的中したように、彼女の発する警告も常にその通りになった。
 彼女が警告を発したのは、もう半世紀以上も昔のこと。それでも数十年のときを越えて、現実のものとなったのだ。
「よぉ、アーサー。今のお前ェサンは正気のアーサーか? それともとち狂った死神かェ?」
 外は正午で、太陽も一番高いところにある時間だろう。だが地下にある場所には、陽射しなど届かない。光が無ければ影も見えない闇の中、迷い込んだ一羽のカラスは汚く嗄れた声でそう喋る。カァー……とは鳴かず、人語を操るカラスは、暗闇に座り込んでいた男の傍に降り立った。
 そこはポート・ボタニーの跡地。崩壊した特務機関WACEの本部、地下一階のエントランス。置かれていた机や椅子などはひっくり返り、壊れていた中で、俯く男が部屋の隅に座り込んでいた。壁に背をもたれるように座り、思うように動かない重たい体に呆れながら、肩で息をしていたのは、サー・アーサーと呼ばれている男だった。
 そんなアーサーに、カラスはちょこちょこと飛び跳ねるように進みながら、近付く。やがてカラスは彼のすぐ近くにまで迫ると、身を屈め、そしてカラスは嘴でアーサーの太腿を突くのだった。
 嘴の一撃は、生易しいものではない。瞬きの間に行われたその攻撃の痛みは、朧気な意識を呼び戻すには十分なほど。突如襲ってきた激痛に身を仰け反らせたアーサーだったが、すぐに体制を持ち直すと、近くに居たカラスの首を引っ掴む。そして首を握ったまま彼はカラスを持ち上げ、そのカラスを睨みつけるが、しかしカラスは動じることなく、むしろ彼を笑い飛ばしてみせた。
「その乱暴な反応ヨ! 久しぶりに、(おい)ちんの選んだアーサーが戻ってきたみてぇだ。やーっぱりヨォ、お前ェサンにゃスカした顔や笑顔よりも、今のその怒り狂った表情のほうがお似合いさね。ケケーッ!」
 気の抜けるカラスの嗄れた笑い声に、彼は付き合うのも嫌になったのだろうか。カラスを睨むこともやめた彼は、特に何も言わず、手を離してカラスを解放する。そして少し高い場所から放り出されたカラスは、なんとかバランスを崩すことなく地面に着地すると、今度は足の爪でコンクリート打ちっ放しの床を引っ掻き、音を立てる。
「アテンション、プリーズ! ケケッ!!」
 カラスの爪が立てる、ガリガリという不快な音。そしてどこか癪に障る笑い声と、おどけた調子。思わず彼の口からは、舌打ちの音が飛び出す。するとカラスは大げさに、飛び上がって怯えるふりをして見せるのだった。
「お前ぇサンといい、モーガンといい、俺ちんの死神さんらはどーして主君たる俺ちんに敬意を払うってぇことを知らんのかェ? 二人してヨォ、俺ちんに突っかかるばかりでェ……」
 ぴょこぴょこと、カラスは喋りながら飛び回る。そしてカラスは、座るアーサーの膝に飛び乗った。するとアーサーは足を横へと揺すり、カラスを振り落とす。しかしめげずに再び膝へと乗ってくるカラスに、彼は冷たい眼差しを向けた。それから彼は、淡々とした語り口でカラスに言う。
「まず第一に、私は貴様を主君だとは認めていない。それから、本来ならば貴様に忠誠を誓う義理などないが、それでも命ぜられた仕事は果たしているのだ。それ以上は、求めないでもらいたい。私にも、モーガンにも。そして私は――」
 言葉も言いかけの時だった。アーサーの膝の上に乗っていたカラスが、再びその小さく黒い頭を振り落とす。鋭利な嘴が、またしても彼の大腿に突き刺さるのだった。
 またも体を仰け反らせ、痛みに耐えるアーサーの姿を、カラスはケケケッと嘲笑う。それからカラスは彼をさらに愚弄してみせた。
「アーサー。お前ェサンはなーんも分かっちゃいねぇ。モーガンは、もっとだ」
「……このクソカラスめが……次はその首を、へし折ってやろうか……」
「やれるモンなら、やってみぃ。今の身体が死んだとこで、俺ちんはまた新しいのを創ればいいだけの話だからヨ。俺ちんに、死などない!!」
 ケケーッと高笑うカラスに、アーサーは手を伸ばす。そして再びその首を掴もうとしたが、間一髪のところでカラスはその手から逃れた。
 再び舌打ちをするアーサーに、カラスは「カァーッ!」と小ばかにするように鳴く。それからカラスは羽をばたつかせて飛び上がると、今度はアーサーの右肩の上に乗った。そしてカラスは真横から、彼の顔を覗き込む。カラスは青白く輝く瞳――アーサーとは違い、瞳孔のある瞳――で、疲労から項垂れる彼の顔を見つめながら、こう言った。
「そんでアーサー、お前ェサンの役目は総督だ。俺ちんは、いうなれば王国の意思ヨ。それからヨ。お前ェサンは“Sir(サー・) Arthur(アーサー)”じゃない。お前ェサンは“Sirius(シリウス)”のアーサーだ。分かるかェ、この違いが」
「……」
「つまりヨ、俺ちんがお前ェサンに与えた名は“シリウス”だ。SIRは、シリウスの頭三文字ヨ。サー、なんて大それた称号は、お前ェサンに与えちゃいねぇのサ。モーガンも同じヨ。あれをマダムと呼び始めたのは、人の子らサ。それにアーサーってンは、そもそも他ならぬお前ぇサン自身の本名だろう?」
 空中要塞アルストグラン。この大地に彼が縛り付けられて、約半世紀。シリウスなどという名前は、初めて聞かされるものだった。それに、ケケケッと嘲笑うカラスの姿から察するに、どうやらこいつは意図的にそれを隠していたらしい。彼がカラスを愚弄し続けてきたように、カラスもまた、彼を弄していたのだ。
 疲労と、募る苛立ちと、自分自身に対する呆れ。皮肉や暴力的な言葉を返す気力も失せたアーサーは、顔を俯かせたまま、ゆっくりと瞼を閉じる。彼は全てにウンザリしていたのだ。
 意味もないように思えれば、終わりもないように思える仕事、そして自分自身の奇妙な運命。山積みの厄介ごとを遺して、自分だけ死にやがったあの男。騒がしいジョン・ドー、煩わしいマダム・モーガン、可愛げもない部下たち。アルストグランの官邸に居る操り人形たちに、北米の議会に蔓延る銭ゲバども。半径十五メートルの世界しか見ておらず、それより先の場所にあるものを見ようとも、考えようともしない愚か者ばかりの民間人。そして肩に留まる、クソカラス。アーサーは、その全てを放棄したかった。
 アーサーが零す苛立ちのこもった溜息に、カラスはケケケッと笑う。カラスの長話は、まだ終わらないようだ。
「お前ェサンは何かを、ず~ぅっと勘違いしていたようだが。俺ちんがお前ェサンに与えた役目は、本来ならば生きてちゃあならねぇ咎人どもを束ねる、入植地の総督さんヨ。そして俺ちんがモーガンに指示を出し、組織するよう促した特務機関WACEってのも、そう素晴らしいモンじゃねぇ。なにせWACEってェモンの正式名称は、World Antagonists Carries End。つまり『終わりを運ぶ、世界の敵対者』ってェことなのヨ。ケケケッ! 元老院すらも、この話は知らねぇ。ついでに俺ちん、この情報を明かすのはお前ェサンが初めてなんだぜ? モーガンも知らないだろうなァ……――ケケーッ!!」
「……笑い声がうるさい……」
「つまりお前ェサンはヨォ、王サマじゃぁねぇのサ。キング・アーサーじゃない、いうなれば新時代のためのアーサー・フィリップ総督ヨ。だーからヨ、部下や市民の命やら、名誉やら、何やらと、ンなチンケなモンは守らなくったって良いのヨ。人類の未来も、発展も、お前ェサンは守らなくていい。気に食わねぇヤツには鞭打ち、絞首刑、銃殺、なんでもゴサレ。お前ェサンにとって全てのもンは、嵐に踏まれる牧草ヨ。代わりはいくらでも、すぐに現れる。キリがないほどになァ? ケケケッ」
 シリウス。入植地の総督。アーサー・フィリップ。それら断片的な情報で、俯くアーサーはおおよそのことを理解した。このうるさいカラスが自分に何を求めているのか、ということを。
 それは簡単な話。カラスは彼に、新しい時代の脚本を書けと言っているのだ。しかし、その新しい時代というのは、希望に満ちたものとは言い難い。悲劇的な終わりに向かうための、群像劇なのだから。
 しかし。捉えようによっては、悲劇も喜劇に転じる。絶望の中にこそ、より良い未来の種が眠っているのかもしれないし。多大なる犠牲を払うからこそ、素晴らしく美しい世界を見られるのかもしれない。
 薄汚い住人たちを野放しにし、汚い町をそのままにするか。それとも薄汚い住人たちを浄化し、彼らの住処も思い出も全てを切り捨て、清らかな水で洗い流し、そこに新しい高貴な住人たちを受け入れるか。
 人道を往き、未来のない今とともに心中するか。未来の為に、今ある全てを捨てる非道に出るか。
 久遠の正解など何処にもない。いつ、いかなる時も。だからこそ熟考を重ねて、最善の中の最善を選択する。――そんなアーサーという男の前では、先人たちが作り固めたあらゆるドグマはその価値を失うだろう。
「先住民である人間を、生かすも殺すもお前ェサンの手の中ヨ。まっ、人間どもは待っていればじきに自滅するゼ。少なくとも、このアルストグランではなァ? ケケケッ。――……そんで問題はヨ、地上の人間どもだ。ヤツらをどうやって、浄化する? それが今、一番に優先すべきお前ェサンの仕事。災いを振りまくコヨーテ、それがお前ェサンだ」
 するとその言葉に、アーサーはムッとしてみせた。閉じていた目を少し開けると、彼は眉間にしわを寄せる。嫌悪感を示した理由は、彼の生まれ故郷である北米。あの場所において『コヨーテ』とは、人に対して向けられる場合は一般的に、蔑称として使われる言葉だからだ。
「どうした、アーサー。コヨーテってぇのが、そんなに気に入らねぇのかェ? だがヨ、この国の人間らはお前ェサンのことを『憤怒のコヨーテ』と呼んでいるそうじゃねぇか」
 忌むべき混血。余所者。口うるさい者。老獪な者。社交上手で、人を操ることが得意な異常者、など。……コヨーテという言葉に含まれるのは、実に不愉快な意味ばかりだ。しかし裏を返せば、不愉快というのはつまり思い当たる節があるということ。
 そこでアーサーは考えを変えた。蔑称ではなく、付けられるべくして与えられた通り名と捉えることにしたのだ。
「……コヨーテ、か。たしかにそれは、私にはお似合いの表現かもしれないな」
 そして顔を上げたアーサーが浮かべたのは、人が好いとはとても言い難い、冷たい薄ら笑い。するとカラスも、ケケッと笑う。それからカラスは言った。
「全ては、ボタニー湾から始まるンさ。人間を滅ぼした後、お前ェサンが新しい世界をここに創る。素晴らしい世にするも良し、地獄のようにするも良し。俺ちんは、その判断にゃ加わらん。全てをお前ェサンに任せンヨ。その為に、お前ェサンにヨ、アバロセレンの核をくれてやったんだから。期待に応えてくれェな? なァ?」
 再びカラスは、ケケケッと不快な笑い声を立てる。同時にアーサーは薄ら笑いを消し、横目で肩に留まるカラスを睨んだ。
 カラスに言われずとも、彼は好き放題にやるつもりでいた。そして、だからこそカラスを睨む。仮に、邪魔をするのであれば容赦はしない、と。
 するとカラスはアーサーの肩に留まったまま、羽をばたつかせる。カラスは広げた黒い翼で、わざとアーサーの頬をはたいた。それからまた笑い声を立て、カラスは言う。
「お前ェサンの、シリウスのように鋭く、そして強く輝く蒼白い瞳は、見た者の魂を焼き焦がし、万物を還るべき場所へ、お前ェサンらが『ゴミ捨て場』と呼んでいる穴へと導く。モーガンにも同じ力はあるが、あれよりお前ェサンのほうが数百倍は強力だ。なんせお前ェサンの中には核があるからヨォ。モーガンは死んだやつにしかその力を使えねぇこったろうが、お前ェサンの場合は生きているヤツら相手にも使えるぜ。ケケケッ。そんでもってェヨ、その『ゴミ捨て場』は、お前ェサンとモーガンに力を分け与える。穴の中で泣き叫ぶ声が増すほど、お前ェサンらの力も増すのサ。ホレ、あれヨ。人間どもが『エネルギー保存則』とか付けた、アレ。アバロセレンとて例外でないのサ」
「へぇ、そうか。だが、それがなっ――」
「人間が肉を食らって、それをエネルギーにするように。お前ェサンらが『ゴミ捨て場』と呼んでるアレは、俺ちんの胃袋みてぇなモンなのヨ。俺ちんの胃袋に、いっぱい恨みの声が詰まれば詰まるだけ、アバロセレンから取り出せるエネルギーも増すってわけサ」
「…………」
「というかヨ、アバロセレンってェのは所詮、エネルギーを別の場所に移すための装置、ワームホールの入り口でしかねぇのヨ。アバロセレンが消えねェのは、それそのものにゃ消費するモンも何もねェからサ。だがヨ、俺ちんの胃袋にストックされてるエネルギーは有限。つまり、使った分は溜める、使わなくても溜める必要があるのヨ。しかーし、使われていない分が勝手に消える、消化し代謝されることはないのでご安心をば。そンで容量は無制限ヨ。ケケケッ!」
 話を簡潔にまとめる。その能力が、どうやらこのカラスには備わっていないらしい。これといってオチがあるわけでもなく、それでいて既に直感的に理解していたことをクドクドと説明される長話に、アーサーは思わず三度目の舌打ちをしていた。それにアーサーは気付いていた。どれも本題じゃない。まだこの長話は、前座なのだと。
 そしてこのカラスは、いつものあの言葉を待っている。それがない限り、こいつは一番の重要事項を喋らない。実に面倒なクソカラスだ。
「それで、キミア。用件は何だ」
 キミア。そう呼ばれたカラスは、ばたつかせていた羽をしまう。待ってましたと言わんばかりに目を輝かせるカラスは、首を少し捻り、まじまじとアーサーの顔を覗き込む。そしてカラスは言った。
「お前ェサン、昨日自分がなにをやらかしたか覚えてるかェ?」
 そんなカラスの問いかけに、アーサーは首を横に振る。
「いいや。コルトの仕掛けた盗聴器を踏みつぶした直後――……あれ以降の午後の記憶がないな」
「そうかェ。やっぱり、そうかェ。ケケケッ」
 そして笑うカラスの目には、アーサーの背後に隠れる、ある黒い影が見えていた。それは大柄の海鳥、アルバトロスによく似ている。しかしその体は影のように真っ黒で、本来のアルバトロスのような黒く白い翼は無く、首も白くなく、頭も金色ではなくて、ピンク色であるはずの嘴の先すらも黒く染まっていた。
 カラスはその海鳥の影を、よく知っていた。あの影は、黒狼ジェドと呼ばれている存在と似たようなもの。けれども、黒狼ジェドよりもよほど厄介で、より強い力を持つ影。
「お前ェサン、さては信天翁(アルバトロス)に気に入られたな?」
 カラスはてっきり、この男が記憶の欠落に怯えているとばかり思っていた。黒狼ジェドに魅入られた青年が、初めの頃はジェドと自分自身にひどく怯えていたように。この男も同じだろう、と。だから彼から、その影を引き?がそうと。それを目的に、カラスはここに来た。突然現れたギルに、計画の邪魔をされては堪らないからだ。
 だが、カラスの予想は外れたようだ。カラスが笑いながらアーサーを見やると、彼は不敵に笑っている。今度はカラスが、アーサーに愚弄されていた。
「ギルなら、知っている。それに昨晩の私はギルに、意図的に体を譲ったんだ。ギルがこの体で何を仕出かしたのかを私は知らないが、まぁ私は彼女を全面的に信用しているよ」
「……お前ェサン、正気かェ?」
「いいや、正気ではないだろう。だが狂おしいほど正気だともいえる。……何を正気とし、狂気とするか。一般常識から随分と乖離してしまった私には、その正解が分からないのでね」
 お前ェサン、判断を間違えたな。カラスはそう、アーサーに言おうとした。しかし直前で思いとどまり、嘴を閉ざす。お前の好きにしろ、その判断には自分は加わらないと言った手前、カラスはそれを覆すわけにはいかなかったからだ。
「ギル。彼女と私は、利害と目的が一致した。いうなれば、パートナーのようなものだ。そして彼女は、目的を粛々と実行するだけ。まぁ目的を果たす過程で、つい遊んでしまうという悪い癖がギルにはあるが……それは私の知ったことではない」
 道徳、倫理、温もり。そういった、人間を人間たらしめているものを著しく欠如したかのような笑みを浮かべるアーサーに、カラスは体の中が冷たくなっていくような感覚を覚えた。もはや彼は、かつてカラスが選んだアーサーではないのだろう。今の彼は、ただの狂気だ。
 だがカラスは、糾弾などという愚かしい真似はしない。そもそも狂気の誕生を待ち望んでいたのは、他でもないこのカラスだ――当初の予想をはるかに超える狂気の誕生に、少しだけ当惑しているが。それにアーサーの言葉を信じるなら、今アーサーの背後に隠れてるギルが、カラスの計画を邪魔するとは思えず、むしろ同志が増えたと考えるべきだろう。
 ただでさえ四面楚歌の状況だ。これ以上に幸運なことがあるだろうか?
「ケケケッ! 流石は俺ちんの見込んだ男だ、アーサー!! 清々しい冷血野郎を、俺ちんは待ってたのヨ! 猟犬チャンにゃあ無理だったことも、お前ェサンなら出来そうだァ!」
 カラスは笑いながら、アーサーの肩の上でぴょんぴょん飛び上がる。そんなカラスに対し、アーサーが露骨に不快感を顕わにした。
 と、その時だった。下の階から、泣き叫ぶ若い女の声が聞こえてくる。意味をなさない、言葉にすらなっていないその声を上げていたのは、壊れたアイリーンの成れの果て。アーサーとはまた別の意味の、化け物に成り下がっていた彼女は、死にきれない体で苦しんでいるのだろう。
「絶好調でお嬢ちゃんが悲鳴を上げてンなぁ。そういやこの下の階はひどい荒れ具合だったが、あれをやったのは、ギルかェ?」
 何気なく零したカラスの問い。するとアーサーがよろよろと立ち上がりながら、真顔で答える。
「いいや、私だ。――実験材料になってもらったんだよ、彼女に」





 そして昼過ぎの、午後一時。ASI本部ビル、アバロセレン犯罪対策部のオフィス。ここにどういうわけか呼び出されたニールは、困惑していた。
「……は?」
「だから、そういうことだ」
 暗い顔をしたアレクサンドラ・コールドウェル……改め、アレクサンダー・コルトは、ニールの前で腕を組み、肩幅に足を広げて立っていた。対するニールは、背筋をだらしなく丸めて、アレクサンダー・コルトの顔をまじまじと覗き込んでいる。ニールの姿はどこまでも、気が抜けていた。
「なぁ、アレックス。俺はお前の最悪な冗談を聞くためだけに、シドニーからキャンベラまで車を飛ばしてきたわけじゃないんだぞ。どうせなら、もっとマシな冗談にしろ」
 目の下に隈を作っていたニールは、口角を引き攣らせて苦笑う。同じく疲れ顔のアレクサンダー・コルトが話した内容を受け止めることが出来なかった彼は、その話を冗談だと分類したようだ。するとアレクサンダー・コルトは組んでいた腕を解き、重たい溜息をひとつ吐く。それから彼女は、念を押すのだった。
「冗談じゃねぇんだよ。アタシだって、これが冗談ならどれほどマシかを朝から百回以上は考えたさ」
「何にも分からないから、何が起こるのか予測すらできないだって? ……何のための情報機関なんだよ」
「責めるならASIの運の悪さじゃなく、まっさらな紙を設計図だと偽って後世に遺した、ペルモンド・バルロッツィにしてくれ……」
 アレクサンダー・コルトだけではない。アバロセレン犯罪対策部。そこに居た全ての人たちが、皆一様に暗い顔をしていた。皆が、絶望と杞憂の綯い交ぜになった暗闇に沈んでいたのだ。
 もう駄目だ、アルストグランは終わりだ。誰かが、そう呟いて溜息を吐いた。無言で肩を落とし、椅子に深く腰を下ろして、深く俯き、顔を上げようともしない者もちらほらと見受けられた。どんよりとした周囲の空気に背を向け、目の前の仕事――曙の女王の足跡を追うこと――に集中しているオペレーターや情報分析官たちが居た。あらゆる情報を血眼で?き集めながら、涙ぐむエンジニアたちが居た。絶望的な状況の中、それでも最善を尽くす努力をしようと指揮を執るテオ・ジョンソン部長が居た。白紙の設計図を前に、顔を赤くして怒り狂っては、故人を罵倒するひとりのアバロセレン技師――アルフレッド工学研究所所長のイザベル・クランツ――の姿もあった。
 そして今朝、ニールとアレクサンダー・コルトの二人が交わしたはずの勇ましき誓いは、もはや忘れ去られていた。状況は何もかも、想定を超えた。振出しに戻った……いや、それ以上に酷い状況に陥ったと言ってもいいのかもしれない。
「ASI長官が、大統領に直談判して最高機密文書を開示させたのはいいものの。出てきたのは、無価値な紙切れ数枚、それと黒塗りだらけの書類の山だったなんてよ。……曙の女王が、地中にあるというリアクターを壊したことは分かっている。だがそれを修理するにしても、肝心のリアクターの構造も、そしてこのアルストグランを支えている永久機関のエンジンとやらについても、分からないんだよ。どこに埋まっているのか、どれだけの規模のものなのか、誰が発注し誰が協力し、どこが出資し、どれだけのコストで、どうやって作られたものなのか、何もかも分からない。何も分からない以上、打つ手がないのさ」
 腕を組み、溜息を吐くアレクサンダー・コルトは、そう愚痴を零した。そんな意気消沈といったところの彼女に、ニールは詰め寄る。
「ASIのほうが連邦捜査局に、協力を要請してきたんだろ? それで俺は、連邦捜査局は何をやりゃいいんだ? 曙の女王を捕まえるんじゃなかったのかよ?!」
「いつどこに現れ、そして消えるかも分からない亡霊みたいなものを、捕まえるだって? 仮に捕まえたところで、すぐ逃げ出されて、同じことの繰り返しになるのがオチさ」
 ただでさえ、目つきの好くないアレクサンダー・コルトの三白眼。彼女はその目付きをより一層、悪くさせる。そんな彼女の態度に、ニールは本日五度目の溜息を零した。
 アレクサンダー・コルトとて、ニールと思いは同じ。だが今のこの状況について彼女は、彼よりもより多くの情報を知っていて、現実も良く分かっている。だから彼女は絶望し、落胆していたのだ。この最悪な、救いようのない状況について。
「リアクターの構造が分からない以上、修理のしようがない。それに場所が分からない以上、リアクターの今の状態を確認しに行くことも出来ない。……つまり、終わりなんだよ、ニール。このアルストグランの天候を長いこと調整し続けていた、大事な機械が壊れたんだ。それも直せない。異常気象はこのまま続く。アタシらに出来ることは、無事に明日が来ることを祈るだけさ」
「アレックス、お前にはこの国を救う覚悟が――」
「覚悟だけじゃ救えないんだよ。それに覚悟なら、ここにいる全員がとっくに出来てんだ」
 最後の希望。それがペルモンド・バルロッツィが書いたとされる、この大陸を空中に浮かせているエンジンおよびリアクターの設計図だった。だが掘り当てたお宝は、無価値な紙切れ。何も書かれていない、まっさらな紙だったのだ。
 設計図は実在するものだと思い、アバロセレン技師を事前に徴収していたが、それは徒労に終わった。設計図はない。アルフレッド工学研究所を取りまとめる所長イザベル・クランツの頭脳も経験も、設計図という前提条件がない以上、何も役に立たない。無駄なのだ。
 もどかしいが、それが現実で。
「――これが、人間の限界だ。これ以上、何をどうしろって?」
「アレックス。後悔の無いようにやりきろうって言ったのは、お前じゃないか」
「手がかりが何もないんだよ! 取っかかろうにも、入り口すらない。これはニール、あんたがいつもやっているような、人間が引き起こした事件じゃねぇんだ! 得体の知れない化け物が、化け物みてぇな頭を持った天才が作ったこの国の大事な機械に何かをして、何かがおかしくなって、異常気象が起こった。だが何も、分かっちゃいねぇ。すべてが、人間の理解を越えてンだ!!」
 やりきれない思いのあまり、アレクサンダー・コルトはニールに向かって怒鳴り声を上げる。ついに委縮したニールは言葉を失くし、それ以上は何かを言うのをやめた。
 アレクサンダー・コルト、彼女の言葉が正しかったのだ。これは普段、ニールが相手にしているような事件とはまったく毛色が違う。人間が仕出かしたことは、人間に対処できる。だが……たとえていうなら「神」の御業を、人間が理解し、それを対処または妨害することができるのだろうか?
 ASIは何かを考え、ここにニールそして連邦捜査局を呼び寄せた。何かしらの案または作戦があり、ニールはそれに役立つはずだったのだろう。だが、それらはすべてふいになり、ニールは今やこの場において何の価値もない。
 俺は一体、何の為にここにいるのか。ニールのその疑問は尤もなものだが、かといってその疑問に答えられる人間はここにはいない。
「……アンタには申し訳ないと思ってるんだよ、ニール。設計図はあって当然のものだと、誰もが思っていたんだ」
「…………」
「見つかった設計図を基にASIが動き出したら、アンタにはASIが用意した偽物の『曙の女王』の死体と共に連邦捜査局に戻ってもらって、ことの収束を謀ってもらう予定だったんだ。そんでASIは本物を麻酔銃で眠らせたのち冷凍し、半永久的に捕縛するって腹積もりだった。それは曙の女王が、リアクターのある場所に来ると踏んでいたからだよ。そこで待ち構えて、彼女を捕まえるつもりだったんだ。なのに、全部がダメになっちまった」
「……偽物の、曙の女王の死体だって?」
「北米より来た女性工作員さまの死体だよ。アルストグラン連邦共和国空軍参謀本部に忍び込むなんてバカな真似をして、昨日射殺された女の死体を、ここの地下に冷蔵保存してあるんだ――北米合衆国のほうには、まだ秘密にしてるがね。それで、その女がユンにそれなりに似た顔をしていたんだ。だから利用させてもらおうと、アタシが空軍に掛け合って譲ってもらったんだよ。死体の髪の脱色作業も終えて、準備はばっちり整っていたんだ」
「どんなスピードで動いてるんだよ、お前は」
「アタシひとりでここまで出来るわけがないさ。ASIにひとがどれだけ在籍してると思ってんだい? しかし、まあ、それも今や無駄骨になりそうだがね」
 ひとつの望み――それもたった一つの望み――が潰えたとき。人間は容易に崩落する。積み上げた努力も自分たちの手で水泡へと帰し、全てを台無しにしてしまうのだ。望みが絶えるということは、それほど大きな爪痕を心に残す。掛けていた労力が大きければ多いほど、ダメージも大きい。
 だが、時として奇跡も起こる。誰も予想をしていなかった場所から、ふっと湧いてくるのだ。
「……大陸の中心に、心臓が眠る」
 アレクサンダー・コルトの悪態を最後に、しんと静まり返っていたオフィスの中。ひとりの女が、そう呟いたのだ。
 声を発したのは、助っ人として参戦していたアルフレッド工学研究所所長イザベル・クランツ。すると彼女は呟きを発端に、様々なことを思い起こした様子。かっと目を見開き、勢いよく椅子から立ち上がる彼女は、興奮した面持ちで辺りを見回す。そして所長イザベル・クランツは、アバロセレン犯罪対策部部長テオ・ジョンソンを見つけると、彼に向かって声を張り上げ、部署内によく響き渡る大きな声でこう言った。
北部特別地域(ノーザンテリトリー)の南部、この大陸のど真ん中よ! 昔は大きな一枚岩だったけど、度重なる災害でついに割れちゃって、崩落の恐れがあるから今は誰も近付けないっていう、あの山みたいな岩があるぅ……えっと……とにかく、あそこ! あの場所よ。そこにきっと、リアクターとエンジンがあるはず」
 その時、空気がピリッと張り詰めた。リアクターとエンジンがあるはず、という彼女の言葉に、その場に居たASI局員全員が反応を示したのはいうまでもない。
 アレクサンダー・コルトも、所長イザベル・クランツを凝視していた――嬉しい驚きと、嘘ではないかと疑う心が混ざった、複雑な心境を湛える目で。ニールは、ただただ驚いて、今なにが起こったのかを理解できずにいた。
 そして所長イザベル・クランツの視線を受けるテオ・ジョンソン部長は、目を細める。彼は記憶を辿っていたのだ。ノーザンテリトリーの南部で、この大陸のど真ん中、かつ山みたいな岩のある場所、そこの名前を思い出そうとしている。
「それは、先住民が聖地としていた岩か? たしか名前は、ウルルだか……」
「そう、それよ! ウルル!!」
 ウルル。所長イザベル・クランツが発したその言葉を聞いた一部のオペレーターたちが、すぐさま動く。衛星画像、ステルスドローンの偵察映像など、あらゆる情報網で『ウルル』近辺を探り始めたのだ。少しでも可能性があるならばと、オペレーターたちは藁にも縋る思いで遠隔操作の捜索を開始する。誰の指示を受けたわけでもなく、それは彼ら自身の咄嗟の判断だった。そしてその行動を咎めるものは、どこにもいない。
 その一方、テオ・ジョンソン部長は細めた目をそのままに、眉をひそめる。藪から棒に飛び出た所長イザベル・クランツの言葉の信憑性を、彼は疑っていたのだった。「……ドクター・クランツ。だが急に、どうしてそれを」
「バルロッツィ高位技師官僚が出した謎解き問題と、彼の寝言をふっと思い出したの。彼は永久機関のエンジンの在り処を明かさない代わりに、学生たちにいつもこれを言っていた。『この大陸の中心に、心臓が眠る』と。それから彼はそのエンジンの話をした日、決まって悪夢に魘されて、いつも同じ寝言を言っていた。彼は何かに謝罪していたのよ。だから可能性があるとすれば、そこじゃないかと……そう、思っただけ」
 妙に説得力を持った、イザベル・クランツの話。その場に居たASI局員たちの動きが止まった。絶望の中に、新たな望みが降ってきたような気がしていたのだ。
 そんなこんなで静まり返る空間に、イザベル・クランツはたじろぐ。
「あっ、えっと。私はそれなりに長いこと、彼の介護……じゃなくて、サポートをしてきたから、ね。彼のスケジュール管理に彼のマネジメント、彼の処方薬の管理、それから研究所の運営を円滑に進める為の業務補佐とか。彼はお年を召しているにも関わらず無茶しがちで、それでいて自制心とかブレーキってものが備わっていないみたいだったから。私が放っておくと彼は飲まず食わずで三日連続徹夜とか、一ヶ月間無休で働き詰めとかを平気でやって、しょっちゅう体を壊しては抑うつ状態に陥るひとだったから、彼のハンドルを握るのが大変で、それで、ははは……」
 何を言っているんだろう、私は。イザベル・クランツが、自分自身にそう毒づいたときだった。テオ・ジョンソン部長が動く。
「――……今はそれに賭けるしかない。危険な博打だがな」
 彼の言葉のあと、オフィスは再びしんと静まり返った。しかし静寂は長続きしない。今度はテオ・ジョンソン部長が、声を張り上げたのだ。
「アレクサンダー・コルト! お前はそのコネを使って空軍に連絡を入れろ。輸送機を、あわよくば人員を借りる手はずを進めろ! 特殊作戦班は装備を整えること、一時間後に出発だ!! そして電子情報課、および情報分析課は引き続き『曙の女王』の追跡、それから次に出現するであろう場所の予測を進めてくれ。尋問班、潜入・秘密工作班も『曙の女王』追跡に加わるんだ。ニール・アーチャー特別捜査官、君は地下の死体とともに連邦捜査局シドニー支局へ戻ってくれ。……話は以上、各々仕事に掛かれ!」
 緊張で張り詰めていた空気が一転、部長の一声により局員たちの士気が急激に上昇する。先ほどまでしなびた青菜のような醜態をさらしていた人間たちが、今や獲物を狙う捕食者のようなギラついた顔で仕事に取り掛かっていたのだ。アレクサンダー・コルトも、例外でない。彼女は目の前にいたニールから一瞬にして目を逸らし、取り出した使い捨てのプリペイド携帯で何かをしている。空軍に連絡、とやらをしているのだろう。
「……俺は死体とドライブか。それに死体が増えるとなりゃ、バーニーが不機嫌になるだろうなぁ……」
 辛気臭い雰囲気が消え、局員たちに熱気と意欲が戻ってきた一方。ASIの局員でないニールは、ひとりどんよりとした空気の中に取り残されていた。


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