コール・オブ・クルセイド

Into the twilight

 マダム・モーガンは言った。
「あのとき、私はこう思った。愛を理屈で語ろうとする男は、十中八九サイコパス。だからこいつは、サイコパスだ、と」
「私もこんな世界で長いこと生きてるから、精神病質者なんて山ほど見てきてるのよ。だからある程度、そういう人種のパターンが分かってる。だから、どうしても不思議だったのよ。あなたはサイコパスのように見えるのに、でも円満な家庭を築けていたから。それで、あの質問をしたのよ。あなたたちの夫婦円満の秘訣って何、ってね」
「大抵の場合、旦那にそういう質問をすれば返ってくるのは『妻に逆らわない』ってワードだけ。でもあなたはそれに付け加えて、親愛の条件を理屈で語った。あのときに、確信したのよ。可哀想な男だな、って」
「サイコパスが生まれるのは、先天的なもののせいだけじゃない。多くの場合は育った環境に、つまり親に問題がある。あなたなんかは、その典型にもろに該当する。そうよね?」
「幸せな家庭に生まれた子供なら得られる、両親からの無条件の愛。だけど不幸な家庭で育った子供にとって、それは現実に起こり得ない出来事。親から愛されるには条件が必要と思い込んで、彼らは必要な条件を知るために、幸せな家庭に生まれた同世代の子供たちを分析するの。そして間違った答えを得る。……そうやって育った奴は、愛を理屈で説明するのよ。少しばかり説得力のある言葉を交えてね」
「普通の人間は、愛を理屈で表すことなんかできないわ。きっと説明を求められたら、気恥ずかしくなって、笑ってごまかす。それが普通の反応なのよ。なのにあなたは、理路整然と語った」
「アーサー。……あなたのことは本当に、可哀想だと思ってる。あなたほど、不幸な男もそうそう居ない。けれど、だからって更なる不幸を世間にバラまくのは違うんじゃないの?」
 それらに対して、彼はこう答える。
「人間世界に於ける善行も、悪行も。人間が全て滅びれば、等しく意味を失くし、どうせ清算される」
「仕様もない諍いの煙と、その煙の下に隠れる音無き嘆き。その全てに私は辟易とした」
「――争うこと、破壊することしか能のない生物なら、滅するべき。何故ならば、存在そのものが害悪だから。……その答えに、行きついただけだ」
 マダム・モーガンはそれに対する返答は控え、彼女は口を閉ざし、黙りこくった。


* * *



 あれよあれよと時が過ぎ、気が付けばアストレアの北米生活も二ヶ月になっていた。
「はぁ。アルストグランじゃずっと、電磁調理器を使ってたからなぁ。ガスの火加減、難しすぎるでしょ。……あーあ。北米人って、変なとこで旧時代的だなぁ。華氏温度とかインチとかもワケわかんないし……」
 空の上のアルストグラン連邦共和国では、新しい高位技師官僚、イザベル・クランツに関する話題が至る所で交わされているという。アバロセレン廃絶を掲げる過激思想の持ち主、だとか。ペルモンド・バルロッツィの後継者を自称しているあたり、ろくでもない女性に決まっている、だとか。そしてイザベル・クランツ高位技師官僚は、地上の国々でも話題になっているらしい。彼女の強気な姿勢とは反対に、華奢で撃たれ弱そうな細身の容姿というギャップに、人々は様々な期待を寄せているそうだ。
 とか、なんとか。近頃よく話すようになった――青果を売る露店の店主である――女性は、アストレアの話すオーストラリア訛りから何かを察したらしく、頻繁にその話題を振ってくる。だがそれに関する情報を何も仕入れていないアストレアはいつも、適当に話を誤魔化していた。
「……でも、お湯が年中使えるのはありがたいか。それはガスのお陰だもんな……」
 アレックスと、ラドウィグ。
 可能なことなら一度だけ会いたい顔が、その話題が出るたびに思い浮かぶが。これが自分の選んだ道だからと、アストレアはぐっと郷愁を飲み込み続ける。
「……ニューヨークはシドニーほど、節水に気を遣う必要もないし。ホームレスも老人ばっかりで、随分と大人しいもんだし。騒ぎを起こすアバロセレン技師も、馬鹿なくせにうるさい市民も居ない……」
 アルストグランという場所が嫌だったわけじゃない――彼女の居場所は、どこにもなかったけれど。そこに居た人に、どうしても嫌いな人が居たわけでもない――人々に対する漠然とした恐怖や不信感は、胸の中にずっとあり続けていたが。それでも、あの場所から脱したいと願ったのは他でもない自分自身。
 それにあのままアルストグランに残ったところで、アストレアの未来は二つにひとつだけ。ASIに監視されながら田舎の片隅で飼い殺しにされる日々か、またはASIに篭絡されて局員たちに蔑まれ続ける日々。どちらも耐え難い屈辱であり、そんな目に遭うくらいなら、死神の手を取り新天地で生き直すほうが遥かにマシ。それに今のほうがずっと幸せだから、あの選択に間違いはなかった。
 ……アストレアはそう自分に言い聞かせて、後悔のある選択を正当化し続ける。
「――なんだかんだでニューヨークの廃都市のほうが、大都市シドニーよりも過ごしやすいかな。手に入る食材は少ないけど」
 まあ、でも実際のところ、アストレアは北米での生活を気に入っていた。ゆえに空の上の故郷に帰りたいという思いは微塵もない。……しかし沈黙の寂しさから、独り言は随分と増えてしまっている。
「……なんで喋ってるんだろ、私。話し相手も居ないのに。……まあ、いっか。うん……」
 この場所には大正義なんてものや面倒な法律、顔色を窺うべき役人なんてものはなく、代わりに昼間でも鬱々と、そして混沌としている。この場所に住んでいるのは、ボストンの光を眺めながら余生を送りたいと願う物好きな人間か、余所に逃げたくても資金がなく、この場所に囚われ続けている貧乏人ぐらい。治安に関しては決して安全ではないものの、防犯対策さえ固めてあればそこまで警戒するほどでもないライン。そして国の警察組織はとっくにこの街から撤退しており、今は小規模な自警団が居る程度。つまり影の特務機関が出る幕はない。だからアルストグランでやっていたような仕事を、ここではしなくていいのだ。この場所には闇が蔓延る隙間があるほどの大きなコミュニティがなく、腐るような行政府も、そもそも存在していないのだから。
 また、人の少ない廃都市には仕事らしい仕事もないため、貨幣が循環しない。そのうえ、外貨が入る入口もないこの街では、取引といえば物々交換が基本であり、なので収入という概念がない。だから現金を持っている人間は、それだけで歓迎される。この街から逃げ出したい人間たちにとって現金は、喉から手が出るほど欲しい貴重品だからだ。故に羽振りのいいアストレアおよび『アルバ』は、明らかに怪しい人物でありながらも、この街のコミュニティにすんなりと受け入れられた。それは彼らが現金を、たんまりと持っているからだ――それと『アルバ』が扱うボストン訛りが強い英語も、警戒心の強いコミュニティのガードを解いた要因の一つでもあった。
 そして先日、元サー・アーサーで今の『アルバ』は大金をポンと出し、この街で最も綺麗で丈夫と思えるアパートを一棟まるごと買収。大家だった若い夫婦は喜んでこのアパートを手放し、荷物をまとめて、どこか遠い場所へと去っていった。
 今、アストレアがいるのはそのアパートの一室。アルバと名を改めた彼とは、財布は共有しているものの、基本的には別々の部屋で、別々の生活を送っている。
「…………」
 とても快適で、とても寂しい一人の生活。アルストグランでは常に感じざるを得なかった、故人の影から解放されたのはいいものの。失ったものも大きく、そして二度と取り戻せないだろうと思うと、悲しみが湧いてくるのは否定できない。
 そのうえ、アストレアはどうにも心配で堪らないのだ。棄てた故郷の行く末と、故郷に残した人々が辿るであろう悲惨な未来も。そして故郷から一緒に逃げてきた男の、不安定で一貫性のない言動も。そして最近アストレアにも見えるようになった、彼の背後を付き纏う大きな黒い影『ギル』という存在も。
「そういえば……そろそろ帰ってきてるかな。あいつも」
 アルバ。彼が日中、何をやっているのかは、アストレアはよく知らない。
 だが彼が言うには、北米のあちこちを転々と回りながら、ロビー活動の代理やったり、黒い仕事のコンサルタントをしたりと、要するにフィクサーとして暗躍しているそうだ。そうして自分をエリートだと錯覚している欲に塗れた豚どもから金を巻き上げている、らしい。また彼は、クソ野郎揃いのゴミ同然な連中を焚きつけて、あちこちで抗争を巻き起こしては、掃討の依頼を受けて、それを遂行して、クソ鼠どもから報酬として金を巻き上げている、とかなんとか。
 特務機関WACEが健在していた時代も、彼はそうやって金銭を掻き集め(時には他人の『公になってはいけない金庫』から勝手に盗んで)、どうにかこうにかで隊員たちを食わせたり、備品を揃えたり等していたそうだ――アルストグランにおける活動では報酬が一切発生せず、それどころか支出がかさむばかりで、とにかく金を稼ぐ必要があった、というのが理由らしい。今のアストレアは、以前の自分の思慮の無さを恥じていた。今までの彼女は、裏方での彼の苦労を一切知らなかったのだから。――ただ、彼が選んだその手段には……聊か、不満と疑問が残るものの。
 まあそういうわけで、彼は多忙を極めている。この街に戻るのは、夜に寝る時ぐらい。それに帰ってこない日もある。だからアストレアは、少し心配していた。彼は人間ではない化け物とはいえ、元は人間で、そして今も限りなく人間に近い。体力の限界だってあるだろうし、精神力だっていくら図太くとも限界は訪れるだろう。いつか限界が来て、破綻するのではないかと。彼女は、不安だったのだ。何故ならば、彼の破綻はアストレアの生活に直結する問題でもあるからだ。
 だがアストレアは、素直じゃないし正直者でもない。心配していたとしても、それを本人に向かって面と口にすることはできないのだ。
「…………」
 そんなこんな、独り言を呟きながら物思いに耽るアストレアは、火にかけたチキンスープのことを忘れて、キッチンの小窓に歩み寄る。ガラス窓を開けると、冷たく乾いた冬の夜風が吹き込み、換気扇が回っていても尚もわっとした熱気が充満していたキッチンが、急激に寒くなっていった。
 それでもアストレアは寒さを気にせず、窓から少し顔を出して、夜の空を見上げる。人の少なさに比例している電灯の明かりと、乾いた空気のお陰で、満月が強い光を放っていても、小さな星がよく見えていた。
 そうしてアストレアが暫し呆然と夜空を眺めていると、アパートの屋上に白い頭の人影が現れる。屋上の柵から身を乗り出し、下を覗き込んでアストレアを睨んでいたのは、今やこのアパートの管理人となった死神『アルバ』だった。
 あ、帰ってきてたんだ。アストレアが抱いた感想は、それだけ。自分を屋上から見降ろしている男が、露骨に不愉快さを滲ませる表情を浮かべていることになど、彼女は気付きもしない。するとそれを察してか、屋上の死神は下に向かって、こう怒鳴るのだった。
「なにボケっとしてるんだ、シュリンプ! 急いで台所に戻れ、貴様は火事でも起こす気かァッ!!」
 火事。彼が発したその言葉で、アストレアは自分が調理中であったことを思い出す。我に返ったアストレアは慌てて顔を窓から引っ込め、キッチンに戻ったが、その時にはもう手遅れ。彼女の前には眉間にしわを寄せる白髪頭のアルバが立っており、彼がガスコンロの火を止めていた。そして彼は言う。
「……鍋に鶏肉とセロリと玉ねぎ、人参だけを入れて、水も油も入れずに火にかけ、それを短時間でも放置すれば当然、焦げるよな。お前も、そう思うだろう?」
 反論の余地がない、尤もであり至極正当な意見。久しぶりに“肝が冷える”というのを体感しているアストレアは、無言で頷き、息を呑んだ。反論する口も、余計なことを口走る余裕も、減らず口を叩く気力も、今のアストレアにはない。
 以前は顔を合わせるたびにしょっちゅうであったが、アストレアが彼の顰蹙を買うのは二か月ぶりのこと。久々に見る彼の怒る顔はあまりに恐ろしく、彼女の背筋は凍り付いていた。
 すると溜息をひとつ吐いて、額に手を当てた彼は、それ以上怒ることをやめた。代わりに呆れ顔を浮かべると、彼はアストレアに「キッチンから出て行け」というジェスチャーを送る。それからアルバは、こんなことを口走った。
「慣れというのは、どこまでも恐ろしい魔物だ。慣れは一瞬の気のゆるみを生み出し、その気のゆるみが事故を招きかねない。……お前はあっちに行ってろ、後は私がやるから」
「あ、あの、ミスター。本当に、ごめんなさい。つい、うっかりしてて、その……」
「お前ってやつは、いつまで経っても危なっかしくて、まるで成長がない。そろそろ自立してくれ、ペルモンド」
 アストレアは彼に、また『シュリンプ(=クソちび)』と呼ばれるのかと思っていた。それなのに、アルバの口から突然飛び出してきた死んだ男の名前に、彼女は度肝を抜かれる。あまりにも自然に、日常の会話のひとコマのように、普通にそう言ってのけた彼は今、呆れ顔で鍋の中の具材を選別している。
 焦げの酷いものを柄杓ですくって、シンクに捨てて。大丈夫そうなものを見極めて、鍋に残して。無言で作業をこなす男は、自分が言った言葉のどこがおかしかったのかなんて考えていないことだろう。
「……あの、ミスター・アルバ。あんた、大丈夫?」
 恐る恐るアストレアがそう声を掛けると、彼はウンザリとした顔でアストレアを見る。彼からすれば、その台詞は今自分が言いたいことらしい。お前こそ大丈夫なのか、と。やはり彼は気付いていないようだ。
「私なら、大丈夫だ。世間知らずのガキと違って、料理ぐらいなんてことはない」
「違う、ミスター。そういうことを言ってるんじゃなくて、僕は――」
「これでも昔は数年ほど、専業主夫をやっていたんだ。だから心配は無用だぞ?」
「だから。今さ、あんた……ペルモンドって、言った。アストレアでもアイーダでも、シュリンプでもなく、僕のことを『ペルモンド』って呼んだんだよ。だからあんたは大丈夫なのかって、そう訊いたんだけど」
 すると彼は一瞬、真顔になる。その後、少し俯いて両目を閉じて、再び額に手を当てて、シニカルに笑った。どうやら額に手を当てるのは、彼の困った時の仕草らしい。そしてそれに、心の底から笑っている時にだけ彼が見せる動作が加わる。つまり、心底この状況が面白おかしく思えていて、と同時に彼は軽い混乱を起こしているようだ。
 それから、アルバは目を開けながらこんなことをボヤく。
「どうやら私もついに、老いぼれの仲間入りをしたようだ。参ったな……」
 はたして、老いぼれという言葉が的を射ているのかどうか。アストレアはその言葉にも、そして彼の言動にも違和感を覚えていたが、当の本人はあまり深く考えていないらしい。この奇妙な生活の慣れによる、気のゆるみで起きた些細なアクシデントだと、それぐらいにしか彼自身は思っていないのだろう。
「老いぼれ、なのかな。僕はちょっと違うと思うけど……」
「私はこれでも八十八の老人だ。見た目こそ実年齢の半分だが、脳味噌までは分からんぞ?」
「アンタがボケるなら、同じ死神のマダム・モーガンなんかとっくにボケてそうだけど。でも彼女は、そうじゃないでしょ。だからアンタだって」
「私が、彼女と完全に同じだとは限らない。彼女は常若だが、私は違うのかも。それに慰めはいらないぞ」
「別に僕は、慰めてるわけじゃ」
「気が散る。シュリンプ、お前はあっちに行ってろ」
 一通り自分自身を嘲り笑ったあと、アルバはまた鍋の中の焦げた野菜たちと対峙する。アストレアはそうして、キッチンを追い払われた。
 二ヶ月前と変わったのは、アストレアだけではない。彼もまた、変わっていたのだ。


+ + +



 随分とやせ細り、そしてやつれていた男は、薄れていく意識の中でニヒルに笑っている。
 狂気の大天才、そう仇名された男も、こんな姿になってしまえばもう威厳はない。ましてや彼のトレードマークともいえるスクエア型の黒縁メガネもなければ、誰も彼があの“ペルモンド・バルロッツィ”であるだなんてことには気付かないだろう。
 そんな威厳を失くした天才は、擦れた声でこう言った。
「お前を責めるような馬鹿な真似は、もうやめにした。だから安心したらいい。俺はもう、二度とお前を糾弾したりしないよ」
「結局、お前の言う通り、俺たちは似た者同士だったんだ。なぜか俺たちにだけやたらと風当たりが強い世界の中で、どうにか必死に生きてきた。自分たちはのうのうと気楽に息をしていながらも、何故か俺たちを無条件で蔑み、攻撃してくる周囲を恨んで、妬んで、嫌って、呪って。心の中に怒りを閉じ込めて、思考に悪魔を飼い、闇を育てた。同じ穴の狢だった、だから俺とお前は必然的に出会ったんだろう」
「俺は孤児で、心配する親が居ないのをいいことに、散々な目に遭ってきた。お前は父親の呪縛の中に囚われ続けていて、それをいいことにお前の父親はお前に対し、暴虐の限りを尽くしてきた。俺たちは子供の頃、生きるのに必死だったんだよ。その名残が、今もあるってだけ。生き延びるためなら形振り構ってられない。他人のことなんざ知ったことか、と。こればっかりは本能に刻まれた教訓だ、もうどうしようもない」
「しかし俺よりも、お前の方がずっと哀れだ。お前は未だに、無意識のうちに自分の首を絞めてる。自分の中にある怒りと、世間に刷り込まれた良識と、そのどちらが正しいのかを決めあぐねてるんだ」
「だから周囲が困惑するような、矛盾した行いをお前はしてみせる。世間に刷り込まれた良識の受け売りを、懇切丁寧に説いたかと思えば。その翌日には怒りを爆発させて、道徳やら倫理をかなぐり捨てたような行動をやってみせたりとな。結局、お前にはどうすることが正解なのかが分からないんだろ? そして正解を追い求めて考えれば考えるだけ、混乱する。いつまで経っても、尤もらしい正解が見つからないから」
「貧乏生まれで、百かゼロかしかない俺と違って。ご立派な教養もあって、類まれな閃きと深い洞察眼を持った本物の天才であるお前は、うんと頭がいい。だから世界が、裏表だけでなく幾つもの側面を持っていること、そして単純化できないことを知っている。だから余計なことを深く考えちまうんだよ。真実を直向きに求めるお前の性分も災いしてな。そして昔のお前が嫌ってた、哲学の沼に落ちるんだ。答えの出ない暗闇に、もう頭で埋もれている。でもお前は分かっているはずだ。お前の怒りに正しさはない、だが世間の良識とやらも正しいかどうかは分からない。それに真実さえも、それが絶対に正しいと証明する方法はない」
 遠回しな、くどい言葉の数々。そんなペルモンド・バルロッツィの言葉を聞く男は、眉を顰めてこう返す。
「何が言いたいんだ、ペルモンド」
 するとペルモンド・バルロッツィは、こう答えた。
「崩壊を恐れるな。考えるのを、やめちまえよ。壊れて、割れてしまえばいい。そうして大いなる流れに、そのまま流されろ。抗うことなく。……こんなことを言うのは俺も不本意だが、そうしたらうんと楽になるぞ。俺が、そうだった。きっとお前にとっても、そうだ」
「その結果が、どうなったとしても。俺はもう、お前を非難しないよ。お前が世界をぶち壊したいなら、そうすればいい。それで世界が滅ぶなら、その世界には価値なんて無かったってことなんだろうからな。それはかつての、俺の願いでもあるし……」
「――だがもし叶うなら、お前の気が変わってくれることを、俺は祈るよ。まだこの世も捨てたもんじゃないと思わせてくれる何かが、お前の前にも現れてくれることを。俺にとってそれは、イザベルだった。だがお前は、どうだろうな」
「お前が、お前の真実を知ったときに。俺と同じ道を往くことを選ぶのか、それとも全てを滅ぼすことを望むのか、または別の選択肢を見出すのか。叶うことなら、それを見送ってやりたいよ。だが、まあ――どちらにせよ、俺たちに救いなんてないのかもしれない。本当に、どうしてこうなっちまったんだか……」
 それが彼らの、最期の会話となった。


* * *



 寂れた廃都市の暗い景色の写真。それに添えられた、短い手紙。
「……マンハッタン、ねぇ……」
 アルストグランよりも、私はここを気に入った。私は至って大丈夫だから、心配は無用。
「――やっだー、サンドラ。似合ってないのに、辛気臭い顔してる」
 アストレアが、アルストグランを去ってから三ヶ月。時刻は午前八時四十五分。期待もしていなかったアストレアからの便りが、アレクサンダー・コルトのもとには届いていた。
 ASI、アバロセレン犯罪対策部のオフィスに出勤したアレクサンダー・コルトは、自分のデスクに封筒がひとつ置かれていたのを発見。彼女はその封筒を開封し、しみじみと中に入っていたものを眺めていたのである。そんなアレクサンダー・コルトを茶化したのは、同僚であり相棒のジュディス・ミルズだった。
 そしてジュディス・ミルズは、アレクサンダー・コルトからその手紙を取り上げると、その文面を堂々と盗み見る。そしてジュディス・ミルズは、こんなひどい言葉を吐き捨てるのだった。
「彼女、字が汚いわね。これでも二十六歳なの?」
「アストレアは喋りだけ達者で、スペイン語もポルトガル語も、日常会話が難なくこなせるレベルにはマスターしたんだけどな。字の汚さだけは、どうすることもできなくて……」
「まっ、それも仕方ないわね。彼女、学校には通ってないんでしょ? なら読み書きできるだけ、まだマシなほうか」
 とても読みにくい、子供のような汚い字。文の内容を読み解くのは、この字を見慣れていないジュディス・ミルズには面倒に思えていた。しかし、ジュディス・ミルズは別の角度からこの手紙を見ていた。
 僅かにだが、波を打つように小さく揺れている筆跡。それから、まるで弱弱しい筆圧。そこから読み取れるのは、不安と苦悩。何をどこまで書くのが正解なのか、この手紙を書いたアストレアは悩みに悩みぬいた末、この短文だけにしたのだろう。
 多分、この手紙の差出人にはもっと書きたいことがあったはず。伝えなければならない何かも、きっとあったのだろう。だが戸惑い、悩んだ末、差出人はそれらを書かなかった。――なら、差出人が伝えたかったことは何だ?
「それで、サンドラ。返事は書くの?」
「残念ながら、そりゃ無理だ。書いたところで、届け先が分からないんじゃあ無駄だよ。この手紙に書いてある住所は宛先のASIアバロセレン犯罪対策部ってだけで、送り主の住所はない。それに消印は、マンハッタンから遠く離れたアトランタになってるし、送り主の住所を突き止めるのは難しそうだよ」
「写真は? この写真がどこで撮影したかさえ分かれば、住所は割り出せるかもよ?」
「あの子が、住所を書かなかったんだ。返事は不要ってことだろ? それにマンハッタンが気に入ったって言ってるんだから、アルストグランに帰ってこいだなんて諭すのもアホらしいし……」
「じゃあ、マダム・モーガンを頼ってみたら? だって彼女は、アストレアがどこに居るのかを知ってるんでしょう」
「マダム・モーガンだけは絶対に頼らない。頼りたくないんだよ」
「サンドラったら、意地張っちゃって。そこは年の功を借りておくべきだと、私は思うけど」
「死神に貸しなんか作っちゃいけないんだよ。あとでどんな汚れ仕事をさせられるのか、分かったもんじゃないからな」
 なんて面倒臭いんだろう。言い訳を連ねるアレクサンダー・コルトを見ながら、ジュディス・ミルズはそう考えていた。この手紙の送り主も、そして受け取った人物も、なんて面倒臭いのか。
 書きたい言葉、伝えたい出来事があるなら、素直に文面にして書き表せばいいのに。なのに彼女たちは、それをしない。素直じゃないし、正直じゃない。まるでそっくりだ。――そんなことをジュディス・ミルズは思いながら、アレクサンダー・コルトに手紙を返す。そしてジュディス・ミルズは言った。
「ねぇ、サンドラ。コヨーテ野郎ならともかく。マダム・モーガンって人物が、そんな詰まらないことで貸し借りがどうのと持ち出すとは、私には思えないんだけど」
「さぁね、どうだか。警戒するに越したことはないとアタシは思うけど。なんせ彼女の名前は“モーガン”だ。ロマンス群の魔女さまみたく、実は腹黒いのかもしれないだろ?」
「んー? 私はそっちのモーガンじゃなくて、アルスター伝説の女神のほうが、彼女に近いと思うけど。ほら、ASIでの彼女の仇名って『幸運のカラス』だし、それにちょうどクー・フリンも――」
 マダム・モーガンについて論じる、ジュディス・ミルズの言葉も途中だったとき。少々乱暴に開けられたアバロセレン犯罪対策部のオフィス入口ドアが大きな音を立て、騒がしい男がやってくる。
「居た! 姐御!!」
 茶色の、それなりに大きな紙袋を脇に携える、黒スーツのその男。彼はペルモンド・バルロッツィの形見である、裾が脹脛の半分まで届くほど丈の長い黒のトレンチコートを脱ぎながら、ニコッと笑う。
「やっと見つけましたよ、サンドラの姐御ぉ~!」
 オフィスに入ってくるや否や、そんな大声を上げる男に、ASI局員たちは小さな笑いを零す。声の主は、昨日から続く任務をようやく終えて、その報告に戻ってきたラドウィグだった。
 もうかれこれ、三ヶ月ぐらい前だろうか。それほど前にアレクサンダー・コルトが彼に貸したサングラスを着用していたラドウィグは、サングラスの本来の持ち主を見つけると、それをサッと外す。そして彼は穿いていたスラックスの腰ポケットから、お座りした猫の黒いシルエットがプリントされた、白地のガーゼハンカチを取り出した。それから、そのハンカチで彼は、外したサングラスのブリッジやテンプルなどを軽く拭う。そうして簡単なサングラスの汚れ落としを済ませたラドウィグは、アレクサンダー・コルトとジュディス・ミルズが居るデスクのほうへ、すたすたと歩み寄ってきたのだった。
「おう。随分と久しぶりだな、ラドウィグ……」
 アレクサンダー・コルトがラドウィグと再会するのは、これが三ヶ月ぶり。アレクサンダー・コルトのほうはその再会に、明らかに気まずさを滲ませるのだが、ラドウィグのほうはというと、そうでもなく。三ヶ月という期間を一切感じさせることのない、至っていつも通りの“ラドウィグ”のまま。
「サングラスずっと返し損ねてて。これでやっと返せますね」
 気を遣ってくれているのか、それとも彼は些細なことなど気にしない無神経男であるのか。一見、能天気にしか思えない笑顔を浮かべるラドウィグの真意は、アレクサンダー・コルトに知るすべはないが。以前と同じように接してくれるラドウィグに、彼女は心の中で感謝をする。
「あー、そのサングラスなら、アタシはもういらないよ。アンタにやる」
「えっ?! でも、姐御。これってアーチャー支局長から貰ったプレゼントなんでしょう?」
「なんでアンタが、そのことを知ってるんだい?」
 ラドウィグだけは、変わらずに彼のままであり続けていてくれたこと。激動の日々が続いている中では、そんな些細なことが、砂漠の中の湧水のように貴重で、有難いように思えていたのだ。
「アーチャー支局長に会うたび、いつも彼にその話をクドクドとされるんですよ。だからやっぱり、これは姐御に返したほうが――」
「アタシはもうサングラスを使わないって決めたんだ。だから、いらないよ。たとえ、ニールからの贈り物だとしてもね。それにアンタのほうは、サングラスがないと困るんじゃないのかい?」
「ええ、そうです。サングラスがないとオレは困るんです!」
 アレクサンダー・コルトに手渡そうとしていたサングラスを、ラドウィグは再び着用する。猫に似た目を黒いレンズで隠し、そしてにっこり笑う彼は、本当に嬉しそうだった。
「ここ最近ずっとこれ使ってたんで、ちょっとこのサングラス気に入りかけてたんですよ~。やった~、嬉しいです。姐御! あっ、でもアーチャー支局長が――」
「あいつのつまらねぇ小言なら無視すりゃいいさ。やりたくない支局長なんて仕事を押し付けられて、ストレスが溜まってんだろうよ、きっと。可哀想なやつだと思って、聞き流せばいい。あとでアタシからも伝えておくし、檄を飛ばしておくから」
 そんなラドウィグはラドウィグで、この三ヶ月は多忙を極めていた。
 大統領官邸から、防弾仕様の公用車を借りて。その公用車でイザベル・クランツ高位技師官僚を、アルフレッド工学研究所にまで迎えに行って。そこから関係機関を高位技師官僚と共に訪ねて回って、彼女を警護して。また彼女をアルフレッド工学研究所に送り届けて、大統領官邸に公用車を返して、ASI本部に急いで戻って。時にASIに戻る道中で雑用を頼まれ、連邦捜査局シドニー支局に行けと命じられたりして、寄り道もしたりなど。――ほぼ毎日のように、そんなハードスケジュールを彼はこなしている。
 しかしそんな彼の顔は普段と変わらず能天気なもので、疲労やら心労といったものはまるで伺えない。
「…………」
 アレクサンダー・コルトと、ラドウィグの会話を横で見ているジュディス・ミルズはふと思う。ラドウィグとかいうこの男こそ、実はサイボーグなんじゃないのか、と。でなければ説明が付かない。有り余る体力、疲れ知らずの身体、強靭すぎる精神。人間とは思えないほど、あまりにもタフすぎる。
「お願いしますよ、姐御。シドニー支局に行くたびに、アーチャー支局長に難癖を付けられるし、ベッツィーニにも難癖を付けられるしで。嫌味と喧嘩は食傷気味なんです」
「エドガルド・ベッツィーニまで、アンタに? またどうしてだい」
「まぁ、奴とは色々とありましてね~。今も、かな?」
 とはいえラドウィグの常軌を逸したタフさは、幼少期に彼が受けたスパルタ教育の賜物と、天性の資質、そして潜り抜けてきた多くの修羅場に鍛えられたことによるものであるのだが。彼の経歴など知らないジュディス・ミルズには、不思議でたまらず、また気味が悪く思えて仕方がない。
 そしてジュディス・ミルズが何かを探るように、ニコニコとしているラドウィグの顔を見つめていると。彼女はあることに気付く。ラドウィグのほうから、焼いたバターのような芳醇な香りがしていたのだ。
 そしてジュディス・ミルズが匂いの発生源を目で辿っていくと、行きついたのはラドウィグの脇、彼が抱えている茶色の紙袋だった。「ねぇ、キャッツアイボーイ。あなたが持ってるその紙袋から、バターの香りがするんだけど……」
「あー、これっすか? 高位技師官僚をアルフレッド工学研究所に送ったあと、所用があって連邦捜査局シドニー支局に寄ったんです。そんで、これをエドガルド・ベッツィーニのデスクから盗んで、逃げてきたんですよ~」
 ラドウィグがずっと脇に携えていた紙袋。彼はそれを開けて、中身をジュディス・ミルズに見せる。ぱかっと開けられた紙袋からは、先ほどよりも強いバターの香りが外に漏れ出し、その香りは朝食を食べていないジュディス・ミルズの胃袋を刺激した。
 そして彼女の目に見えた、芳しき赤茶色の輝きが五つ。丸いフォルムで見るからに柔らかそうな――
「アーチャー支局長のテーブルロール! これがメチャクチャ美味しいんですよー。彼のことはあまり好きになれないっすけど、このテーブルロールは最高でしてねー」
 紙袋の中からラドウィグが取り出した、赤茶色に輝くテーブルロール。メチャクチャ美味しい。そう褒め称えた彼は、取り出したテーブルロールを自分の口に押し込む。朝食がまだだったのは、ジュディス・ミルズだけではない。彼もまた、そうだったのだ。
 そしてラドウィグは、テーブルロールの詰まった口でもごもごと、こんなことを語る。
「先月からシドニー支局で、朝早くに来た捜査官の朝食用にと毎朝百個限定で販売してまして。だいたい、販売開始から五分もしないうちに売り切れるらしいですよ? 優先的に貰えるのは、なぜか検視官のドクター・ヴィンソンだけで。それ以外の捜査官は、ね……――とにかくシドニー支局の朝はドタバタバッタンらしいっすね」
「で、あなたはそのベッツィーニ特別捜査官が必死で手に入れたテーブルロールを、盗んできたと?」
 テーブルロールを羨ましそうに見つめるジュディス・ミルズは、ラドウィグにそう突っ込む。すると彼女の言葉に、ラドウィグは笑顔で頷いてみせた。そして彼は言う。
「あいつがデスクに置きっぱなしにしてるのが悪いんですよ」
「そうね、そうよね。置きっぱなしにしてるほうが悪いわ」
 しかし突っ込みを入れたジュディス・ミルズはなんと、あろうことかラドウィグの悪行を肯定してみせた。それを聞いたアレクサンダー・コルトは、眉を顰めて目を見開き、ジュディス・ミルズを見つめる。するとラドウィグはおちゃらけた調子で、罪滅ぼしにもならないこんなことを口にした。「まあ、代わりに二ドルほど、あいつのデスクには置いてきたんで。あっ、ミルズさんも食べてみます?」
「ええ、ひとつ欲しいわ」
「姐御もどうです?」
「いや、アタシは遠慮しておくよ」
 ラドウィグが美味しそうに頬張っている、テーブルロール。ジュディス・ミルズもひとつ手に取り、バターの香りを堪能しているテーブルロール。アレクサンダー・コルトにはよく見覚えのある、その昔大好きだったテーブルロール……。
「……そういや、ニールの野郎は昔、ベイカーになりたいとか言ってたっけなぁ……」
 たぶんあのテーブルロールは、アレクサンダー・コルトが子供の頃によく食べた、懐かしい味と同じなのだろう。子供の頃、ニールの家に彼女が遊びに行くと、彼の母親がよく焼いてくれたテーブルロール。あれと見た目と香りは、まるで同じなのだから。
「私、アーチャー捜査官のこと大好きかも。彼のこのテーブルロールは最高ね! ねぇ、そういえば今の彼は離婚も成立したし、フリーでしょ? 私、彼のこと狙っちゃおうかなぁ~? どう思う、サンドラ」
「んー、いいんじゃねーの?」
「なに、その他人事みたいな反応。――ねぇ、サンドラ。アーチャー捜査官って、あなたの昔のボーイフレンドじゃなかったの?」
「あいつはただの幼馴染だよ。兄弟みたいなもんさ。それに、あのニール・アーチャーが、ジュディス・ミルズみたいな良い女に拾ってもらえるなら、アタシとしちゃ大歓迎だね」
 テーブルロールにかじりつくジュディス・ミルズは、アレクサンダー・コルトの軽薄な返答に不満げな顔をしている。アレクサンダー・コルトはそんなジュディス・ミルズに、不愉快そうな表情を向けた。
「なんだい、ジュディ。何が気に食わないんだ?」
「別に。サンドラってあっさりしてて、つまらないなーって思っただけよ。あなたには、嫉妬とか独占欲っていう感情がないのね。まあ、それはキャッツアイボーイにも言えることかしら。――怒り以外の感情が希薄っていうのは、特務機関WACE出身者の特徴なの?」
 ジュディス・ミルズはそんなことを言い、ラドウィグをちらりと見るのだが。その横でラドウィグは相当に腹を空かせていたのか、一心不乱にテーブルロールを食べ続けている。彼がジュディス・ミルズの視線に、気付いている気配はないし、彼女の話を聞いていたという素振りもない。そんなラドウィグに、アレクサンダー・コルトは声を掛ける。
「なぁ、ラドウィグ。ひとつ聞いていいか」
 真っ黒なサングラスと、真っ白なシャツに、真っ黒なネクタイとジャケットにスラックス、トレンチコート。そんなシックでハードボイルド風な装いに反して、コメディリリーフのように剽軽な振る舞いしかしないラドウィグという青年。いつも無意味にニコニコとしていて、おどけてみせては人を笑わせ、まるで何も考えていないかのような軽さを感じる反面。幅広い薬学の知識や、自然科学と応用科学への造詣の深さ、多少はある医学の心得に、どこで習ったのかは分からないが他の追随を許さない武術の腕前や、実戦に慣れていることを匂わせる言動、第六感の存在を示唆する仕草の数々など。隠された彼の引き出しは多く、その全ては明るみにされていないだろう。
 秘密などないような軽さを持っていながら、実際には謎だらけで、秘密の多い存在。まるでカメレオンのような彼の実態は、誰も掴めていないのだ。
「姐御がオレに、質問ですか? 変なこともあるもんですね」
 テーブルロールを食べる手を一旦止めるラドウィグは、サングラスの下に隠れた目で、不思議そうにアレクサンダー・コルトを見る。そしてラドウィグに、アレクサンダー・コルトはこんなことを訊ねた。
「ラドウィグ。アンタは、覚醒者なんだろ? なら、教えてくれ。覚醒者ってのは結局、何なんだ?」
 ラドウィグに秘密は多いものの。その中でも、アレクサンダー・コルトがここ三ヶ月間ずっと気になっていたのは、覚醒者というワードだった。
 それは昔から、ちょくちょく耳にするワードであった――アバロセレンに日常的に接する仕事に就いている者がある日突然、特殊能力に目覚めるという話と共に。その覚醒者により引き起こされた事件や、自分の力に呑まれた覚醒者の死亡事故などを、特務機関WACEだった頃に彼女は十何件か対応したことがあったものの……その存在を、彼女自身がどこまで理解していたのか。その点は長いこと、あやふやな状態であった。それは彼女が今まで、その目で覚醒者が能力を発現させる瞬間を見たことがなかったことに起因する。
 しかし三ヶ月前、彼女はたしかにその目で見た。ラドウィグの手から橙色の炎が立ち上った瞬間を。彼は間違いなく、覚醒者だった。
「あー……――科学的に説明しろっていうなら、その回答は『まだ未解明』になりますねー」
 アレクサンダー・コルトの質問に対し、ラドウィグは明確な答えを避け、はぐらかすという反応をした。しかしこめかみを掻くラドウィグの気まずそうな顔は、なにか知っていることがあるという様子。
 何かを知っているなら出し惜しみするなと、アレクサンダー・コルトは彼を無言で睨んだ。ジュディス・ミルズも身を前に乗り出して、その話に興味があるという素振りを見せる。するとラドウィグは苦笑い、圧の強い女性二人から目を逸らして、こんなことを漏らした。
「オレが立てた仮説を話してもいいんですけど……あまりに、話が長くなるんで。それに前提知識の共有にもすごく時間が掛かるし、たぶん姐御たちには理解できないと思いますよ? それにオレは他の覚醒者とは厳密には異なるんで、オレの話はあまり参考にならないだろうし、それに……」
 二十五歳の若造に、さらりと小ばかにされた。
 アレクサンダー・コルトは「まあ、仕方ないか……」と唇をへの字に歪めるも、一方ジュディス・ミルズはあからさまに不快感を滲ませる。それも、そのはず。ジュディス・ミルズとて、自然科学を志した者のひとり。シドニー市警鑑識課に潜入を命じられたのも彼女に自然科学の知識があったからであり、長年そこで浮くことなく仕事を全うできたのも、ひとえにその知識のお陰。
 故に、ジュディス・ミルズの血が騒ぐのだ。解き明かせない謎があって堪るものか、と。
「分かりました。話しますよ、ミルズさん。でも理解できないとか、そういう文句は受け付けませんからね。なにせ『神々の世界』が絡んでくるんですから」
 神々の世界。ラドウィグが発したその言葉に、ジュディス・ミルズは小さく笑う。そして彼女は、こう言った。
「もう私は、些細なことで動じたりしない。瞬間移動する死神さんたちに、挙句ドラゴンまで見せられた以上、超自然の存在を否定する理由はないもの。……それに。ただ私は、知りたいだけ。だから教えなさい。それから。情報を出し惜しみしたら、あなたを尋問室に連れて行くわよ?」


+ + +



 ASIの作戦が失敗し、アバロセレン犯罪対策部附属特殊作戦班が敗走を喫した、あの日。誰もがあの時、こう思った。今起きているこの全てがもし夢であったなら、どれだけ良かったか、と。
「……ひどい悪夢だ」
「ああ、そうだな。たしかに、ひどい悪夢だ」
 血だまり。赤い血と、白い燐光がちらつく蒼い血。不意打ちの攻撃に倒れた男の死体がひとつ、そこに横たわっている。切り落とされた無骨な女の左腕も、そこに置き去りにされて落ちている。
「キャロラインにそっくりな顔をした、アルビノの女が目の前に現れて。黎明がどうのと散々ほざいた後、立ち去ったかと思ったら。今度は僕自身にそっくりな顔をした男が、目の前に……――待てよ、僕は死んだはずだ。ならここは、死後の世界か? なら、お前は……?」
「私は、貴様の死だ」
「お前が、死? 笑えるねぇ、まったく。……なら、僕を殺してみろよ。この悪夢を、終わらせてみろ」
 暴走して発熱し、火を噴き始めた巨大なコンピュータたちが、すぐ隣の区画ではパチパチと音を立てている。彼が佇む部屋の温度も着々と上昇していて、彼の額からは黄土色を帯びた汗が流れ始めていた――白髪を隠すカラーワックスが、汗と共に少しずつ落ち始めていたのだ。
 この部屋が火に包まれるのは、時間の問題。いや、それとも酸素が尽きる方が先か。まあ、どちらにせよ、自分はすぐに逃げればいいだけの話。……そんなことを考えながら彼は、先ほど空中から引きずり下ろしたもう一人の自分を、悪夢から飛び出してきたかのような姿で横たわるもう一人の自分を、瞳孔のない冷たい瞳で見降ろしていた。
 彼が見降ろすもう一人の自分は、本当にひどい有様だった。腹は割かれて、臓腑は飛び出し、顔は土気色。その体に、心臓は無い。何故ならば彼が、もう一人の自分の心臓をその手に握っていたからだ。なのに床に横たわり、冷たい笑顔を浮かべる男は、生きているように振舞っていた。そして彼が握る心臓は、彼の手の中でひとりでに脈を打っている。一定の間隔で収縮を繰り返す心臓は、人ならざる蒼い血を吐き出し続けていた。
 これが夢なら、どれほど良かったことか。――彼は辿り着いた真実の前で、そう思った。今までこの真実を隠し続けていたペルモンド・バルロッツィを、マダム・モーガンを、キミアを、彼は恨んだ。それから不条理な運命を呪い、不条理な世界を憎んだ。そして、何もかも全てがどうでもよくなった。
「ああ、いいとも。終わらせてやろう」
 そう言った彼は、手の中に握った心臓を握る。だが絶妙に気持ちが悪い弾力と硬さを持った筋肉の塊は、凹んだだけで潰れることはない。床に横たわるもう一人の自分も、痛がる素振りひとつも見せない。そして心臓は何事もなかったかのように、脈動を継続する。彼が手を翻しそれを床に落としたとしても、床に落ちたそれを踏みつけたとしても、心臓は相変わらず収縮を繰り返していた。
 そうして、あくまで『奇妙な悪夢の中に居る』と思っている様子のもう一人の自分は、仕事をやり遂げられない死神を馬鹿にするように、そしてどうにも奇怪な悪夢に呆れたように笑っていた。見覚えのある笑顔、聞き覚えのある笑い声で、もう一人の自分は笑っている。
「どうした。お前は、僕の死なんだろう? ……ケッ、その程度の力しかないってことか」
 あの時、彼は腹が立っていたのかもしれない。または、どちらが本物の自分なのかが分からないという、恐怖に慄いたのかもしれない。深い悲しみを覚えたのかもしれない。けれどもあの時の彼はたしかに無感情で、何も感じていなかった。だが、これだけは思った。笑っているこの男を、始末しなければならないと。
 そうして彼は使い慣れた拳銃を取り出し、照準を合わせて、引き金を素早く引いた。装填した弾が尽きるまで、ずっと。頭を狙って、何度も執拗に発砲した。すると笑っていた男は目を閉じて、何も言わなくなり、動かなくなる。だが死んだわけじゃない。どうせまた、こいつも生き返るだろう。
「…………」
 動かなくなったもう一人の自分を見降ろしていたアーサーはあの時に、後戻りが出来なくなったことを悟った。と同時に、どこかで誰かがこの自分の凶行を止めてくれることを望んでいた心を見つけて、おかしな自分自身を笑う。
 だが彼は、止まることができない。何故だかは分からないが、一度始めてしまった歩みは、そう簡単には止められないのだ。だから、突き進む。全てを破壊し、新たに再生しようとする道を。
 それが彼の答え。大いなる流れに身を任せた結果、辿り着いた境地だった。





 天空の方舟は寒々しい朝の空気に包まれ、その中でラドウィグが難解で入り組んだ話をジュディス・ミルズにし、横でアレクサンダー・コルトが頭を抱えているとき。同じ時間でありながらも、時差の影響で未だ前日の夕方である場所に、マダム・モーガンは立っていた。
 場所は北米大陸の、寂れた貿易港の跡地。遠い昔には世界の中心とも称された地の栄光は、今や跡形もなく消失しており、雑草すらも生えていないむき出しの茶色い地面には、ぽつんと立つマダム・モーガンの影だけが落ちている。遠くからは時折、普通の野性動物だとは思えない化け物たちの唸り声や咆哮が聞こえてくるその場所は、かつてボストンと呼ばれていた場所。
「……“自由のゆりかご”どころか“悪魔のゆりかご”よね、この街は……」
 そんなマダム・モーガンの呟きも、誰にも跳ね返ることはなく、ただ地面に落ちていく。肩を落とす彼女は、こんな場所に呼び出されたわけと、釈明の言葉を考えていた。
「…………」
 他に、人間はいない場所。そこは元老院が顕現するに相応しい舞台だ。それに以前もマダム・モーガンはこの場所に来るようにと、元老院に召喚されたことがある。あれはたしか、この場所で悲劇が起きてから日が浅い頃。死の闇から目覚めてしまった男について、元老院に説明を求められたときだ。
 そういうわけでマダム・モーガンには凡その見当が付いていた。此度自分が、この場所に呼び出された、その理由を。
「……あーあ。何をどう釈明すりゃいいんだか……」
 間違いなく原因は、もう一人の死神が起こした騒動について。どうしてやつの監視を怠ったのか、どうしてキミアの暗躍を元老院に報告しなかったのか、どうして事態を防げなかったのか……――矢継ぎ早に、あちこちから注がれる質問の雨を思い浮かべるのは容易なこと。なんせ元老院に召喚されるのは、これで十六回目。彼女はもう、慣れていた。
 そして毎回、彼女は釈明のしようもない事態を、どう釈明するのか、その嘘を取り繕うことに追われる。
「……これは、私の管理不行き届きの所為? それとも全部、アーサーが悪いのか。または、キミアか……」
 結局のところ、元老院が求めているのはそれらしい謝罪だけ。それから、忠誠心の証明。なのでその二つをクリアすればいいだけなのだ。けれども、マダム・モーガンには元老院に謝罪する気なんか微塵もないし、ましてや忠誠心なんてものはあった試しがない。それでも、彼女は嘘を繕わなければならないのだ。
 彼女が、元老たちの機嫌を損ねたとき。そのとばっちりが何処へ行くのか、それが予測できないからだ。
「…………」
 今ならば、元老院の怒りの矛先はアーサーに向けられる可能性が高い。または、彼が連れ去ったアストレアか。――今まではずっと、その怒りを受け止めるサンドバッグの役目を果たしてきたジョン・ドーが、竜神カリスの傍という緩衝地帯に居る今。彼女の頭に浮かぶのは、その二択。
 アーサーには、恨みがある。こんな事態を巻き起こしやがって、と彼を責め立てる気持ちが、マダム・モーガンにないわけではない。それにアストレアには、肩を銃で撃たれた。アストレアに対して、マダム・モーガンが怒っていないわけではない。だが、かといってマダム・モーガンは、彼らが元老院の『気まぐれな仕打ち』の危険に晒されることを望んでいるわけではないのだ。
「……どうすりゃいいのよ、もう……」
 しかし元老院は今、ただでさえご立腹だ。
 黒狼ジェドを有効活用するための『器』が自ら命を絶つという選択をしたうえに、その器が偽物であった事実が発覚し、さらに『オリジナルの器』は、元老院も手出しできない竜神の庇護を受けているが故、取り返すこともできない。そのうえ今、誰も手綱を握ることができないトラブルメーカー黒狼ジェドは、オリジナルの器に戻ることが出来なかったため、新たな器を求めて失踪中。尚且つ、長いこと息を潜めていた天使ギルがついに登壇。そのうえギルが、神話で言うならまさに『トリックスター』の肩書が相応しい、あのカラスの側についた。元老院はおろか、世界の全てを滅ぼし、何もかもを終わりにしてやろうと画策している、キミアという神の側に。そしてキミアの眷属、アーサーはもはや制御不能。
 そんな悲惨な状況の中で、マダム・モーガンは彼女が本来やるべき職務を怠った。アバロセレンの核を宿した危険因子、アーサーの監督任務を。
「……私だって万能じゃないのに。何をどうすればよかったってワケ? ああっ、くそ。考えるだけでイヤになるわ……」
 元老院直属の機関で、通称“エズラ・ホフマン”と呼ばれている元老の一柱の管轄下にある組織。キミアが指示し、マダム・モーガンが組織した、特務機関WACEというもの。特務機関WACEのかつての仕事は実に“特務機関”らしいもので、元老院に歯向かおうとした愚かな人間たちを『浄化』したり、全ての人間たちが元老院の下に収まるよう、あらゆる国家に潜伏し、工作活動やときに『黒い仕事』というものをしたり等していた。
 人間たちの牙が決して元老院に向かないように、人間同士で敵対させ、戦争や紛争、内乱を勃発させたり。スムーズに『浄化』活動を行うため、あらゆる種類の兵器を人間に作らせては、自滅するよう画策したり。――この天体の守護神、竜神カリスの怒りを買わない程度に、悲劇という悲劇を作り出してきたものだ。
 だが、アバロセレンが登場するなり全てが変わった。元老院はアバロセレンに人間たちが手を出すことを良しとしなかったが、アバロセレンの生みの親であるキミアは、それを良しとした。そして元老院たちが、さらに特務機関WACEがいくら手を尽くそうが、キミアが綿密に詰めて講じた策には太刀打ちできず、ついにアバロセレンは人の手へと渡ったのだ。
 それからは特務機関WACEのあり方は根本から覆り、人間がアバロセレンを使って引き起こす問題をどう解決し、そして未然に防ぐか、その対応に特化した組織に変貌した。その甲斐あって、アバロセレン波及の輪は、北米大陸の一部とオーストラリア大陸にのみ留まることに成功。しかしその地では、もう手のつけようがないほどに、アバロセレンが普及してしまったのだ。
 だが元老院の、アバロセレンに対する意見に変化が生じる。これを餌として利用すれば、人間たちが大人しく自分たちに従うようになるのではと、元老院は考えを改めて、積極的な利用を開始したのだ。そうして元老院は、北米で実験を行った。アバロセレンからエネルギーを取り出し、取り出したエネルギーを人間に与えて、さらにアバロセレンを人間に売りつけて、彼らの生活を支配するという計画を、ボストンで開始したのだ。
 その結果、起こった悲劇が今に伝わる『アルフテニアランドの悲劇』。そして生まれたのが、アーサーと呼ばれていた怪物。そうしてまた、特務機関WACEのあり方は変わった。
 悲劇に付随して生まれたこの怪物を、サンプルとして監視しながら、元老院の下僕として飼いならし、運用する。そのための『枠組み』に、変わってしまったのだ。
 アーサーは残念ながら、今もこの事実を知らないだろう。まさか自分が、サンプルとして飼われていた存在であったとは、彼は思ってもいなかったはず。長いこと元老院に――表向きは――尽くしてきたマダム・モーガンと、自分は同じ立ち位置にあると思っていたに違いない。
 だが元老院も、まさかと思っていたはずだ。アーサーが、こんな大事件を引き起こしてくれるだなんてことを、元老院は予想していなかっただろう。きっちり調教したはずの飼い犬が、飼い主の手を噛み千切って逃げるだなんてことを、飼い主である元老院が警戒していたはずもない。
「……元老どもの考えてることも分からないけど、アーサーの考えてることなんてもっと分からないし、ましてやアストレアなんて謎すぎる……はぁ……」
 元老院はアーサーが反抗するような姿勢を見せるたびに、少しずつ彼から『大事なもの』を奪っていった。妻、故郷、プライド、娘、息子。そうして彼の精神を縛り上げ、決して逆らうなと調教した。だが、それが結局のところ仇となったのだ。
 マダム・モーガンには、まだ守るべき大事なものが残っている。ジョン・ドーこそ、彼女に残された最後の宝物だ。だから彼女はまだ、元老院に縛られている。ジョン・ドーこそが、彼女を縛る鎖であるからだ。だがアーサーには、もはや何もない。元老院は全てを彼から奪い、結果として彼は随分と身軽になって、足枷も消えてしまった。そして“何かを失うことを恐れる心”すらも、彼は失くしたのである。
 そうやって作られたのは、恐れるものを悉く失くし、破滅に向かってただ一直線に進む狂気。背後に守るものを失くした彼という剣は、目についたものを全て等しく切り伏せるようになったのだ。そして狂気を佩くアーサーは、自分という剣が折れて使い物にならなくなるその日まで、その凶行を続けることだろう。彼が歩いたあとには、死者だけが残される。ペストのように猛威を振るう死に、彼は為ったのだ。
 それこそが、破滅を望むキミアが長く待ちわびていた武器。元老院が最も恐れていたであろう最悪な展開を、元老院は自らの手で実現してみせたというわけである。
 そして元老院はその責任を、職務を怠慢したマダム・モーガンに見出している。だがマダム・モーガンからしてみれば、それは「責任転嫁も甚だしい」というところだ。――決してその思いは、口にすることが出来ないが。
「……結局のとこ、分を弁えないで、得体のしれないもんに手を出したのがいけなかったんでしょ。人間も、元老院も。だから、アバロセレンの勝手を知ってるキミアに負けた。なのに、なんで私がサンドバッグになんかならなきゃいけないわけよ。昔、アバロセレンに手を出すのは絶対に危険だからやめた方が良いって、元老院に忠告してやったのは私なのに……」
 独り言を、ぶつぶつと。他に誰も居ない荒地で、マダム・モーガンは孤独に連ねる。するとそんな彼女の肩に、一羽の黒いカラスが舞い降りる。蒼白く光る目で、からかうようにマダム・モーガンを凝視するカラスは、他でもない諸悪の根源。元老院と常に対立し、あれこれ騒動を引き起こしている昏神キミアだった。
「お前ェサンは賢いなァ、モーガン。そうヨ、勝手知ったる俺ちんに、勝手を知らないアホゥが勝負を挑んだのが、大間違いだってモンなのヨ。ケケッ」
 マダム・モーガンの肩に留まるカラスは、不快さを煽る嗄れた声で笑う。マダム・モーガンはそんなカラスに向けて舌打ちをするが、しかしカラスは黙らない。
「俺ちんが二つ前の宇宙が滅ぶ直前から、練りに練って詰めた完璧な計画も、大成功ってわけヨ! 唯一の想定外は、アストレアっつー名前の小娘の誕生だけ。それ以外は万事順調、計画通りってわけヨ。アイリーン嬢を爆弾にしたとこまで、完璧ってワケ。俺ちん、見事だと思わねぇかェ? なぁ、モーガン」
「――……アイリーンの事件を引き起こしたのは、アンタだったの?!」
「そうヨ。アーサーの野郎が生殺しのまま放置してた嬢ちゃんを、俺ちんが借りたのサ。アーサーはパトリック・ラーナーの時と同じように、アイリーン嬢ちゃんをモンスターかなんかに作り替えようといていたらしいがー……レディにそりゃ酷だろ? だから、一思いに俺ちんが殺しってやったわけヨ。ケケッ」
「これでアンタに、私の仲間を殺されるのは何十人目かしらね? その巻き添えを食らって命を落としていった大勢の民間人も含めれば、軽く数億人は超えるかしら」
「俺ちんとお前ェサンの付き合いも、長いからなァ。お前ェサンも二千年は生きてンだ、そろそろ死に慣れな。それに人間なンざ、放っときゃまた増える。ンで、今度は増えすぎてパンクする。たまの間引きと思えばヨ、あれぐらいなんてこたぁ――」
「できることなら、アンタをぶっ殺してやりたいわ」
 更なる舌打ちと共に、マダム・モーガンはカラスを睨む。するとカラスは機嫌を悪くしたのか、なんなのか。マダム・モーガンの肩の上で翼を広げ、広げた翼をばたつかせる。容赦なくマダム・モーガンの顔に黒い羽をぶつけるカラスは、嗄れた大声でこんなことを叫ぶのだった。
「しかーし!! この完璧な計画はここまでだ。アバロセレンの核を手にした後、アーサーが何をどうするかまでは俺ちんには予測もできなーい! ここから先は全て、アーサー次第なのヨ」
「……それって、かなり最悪ね……」
「おうヨ、最悪だ。なんてったってアーサーは、アイリーン嬢の件でお冠になりやがってヨ。ヤツは俺ちんを呼びつけて怒鳴り散らしたかーと思えば、せっかく手に入れたアバロセレンの核の半身を、俺ちんすらも在り処を辿れない“どこか”に隠しやがったのサ……」
「……?!」
「核が、この惑星、それどころか三次元の世界の中にないことだけは、たしかだゼ。隠し場所は四次元か、それより上の次元層だろうヨ。となりゃ俺ちんが、黒狼ジェドちゃんを操って、どうにかこうにかで繕った三次元上の実体ってモンも、崩壊してると考えていいだろうヨ。核はたぶん二度と、完全に戻ることはないってわけサ……」
 そう言ったカラスの声は、徐々にトーンダウンしている。カラスにとってそれはまさに、想定していなかった最悪な展開であったからだ。しかし対するマダム・モーガンにとって、それは吉報。
 分裂して二つに別れたアバロセレンの核のうち、片一方がこの星から消えた。そうしてアバロセレンの核は、たぶん二度と完全な状態には戻れなくなった。つまりこれは、この地で起きた悲劇は二度と繰り返されないということである。それはとても――想定外の、素晴らしい出来事だ。
 マダム・モーガンはカラスから顔を逸らし、腕を組んで、暫し考え込み、胸をなでおろす。彼女が想定していた最も悪いシナリオは、幸運にも免れたように思えたし、アーサーにもまだ人間らしい心が欠片ぐらいは残っていることが分かったからだ。
 すると、カラスはばたつかせていた翼を収める。それからカラスはニヤつくマダム・モーガンの横顔に、ゴツンと頭突きを決めた。そして三度目の舌打ちをするマダム・モーガンに対し、カラスは言う。
「アバロセレンの核ってェンは、雌雄同体のウニみたいなもんなのサ。あれってのは元々、雌雄セットの状態でヨ、完全な状態にさえあれば、あれ単体だけで無限に分体を作ることができる。しかしヨ、あれをぱかっと二つに割っちまうとヨ、それが出来なくなンのサ。雄と雌の要素がガチッとはまらないと、分体は作れねェのヨ。まあ片一方だけでも増殖は可能だが、それは実体を徐々に削っていくだけみてェなモンだからヨ。……んでアーサーはその片一方を、いうなりゃ雌のほうをぶち消しちまった。もう二度と、アバロセレンってェのが増えることはないっつーわけヨ。まぁ、アバロセレンが消えることもねぇンだが。しかしヨ、この場所で起きた悲劇と同等の規模のものは二度と繰り返されねェってこった。退屈ってもんさね」
 先日の、アイリーンの死と共に引き起こされたアンザックヒル消失事件。あれはてっきりアーサーが仕組んだものとばかりマダム・モーガンは思っていたが、もしキミアの言葉が正しいのならば……状況の見方は大きく変わる。だが、変わるからといって決して楽観視できるわけではない。
「……アンタが退屈そうにしている時、私はきっと幸せを感じるでしょうね。退屈こそ、平和である証。それでいいのよ」
 マダム・モーガンは、叶うことなら人間という種族の寿命を延長したいと考えている。それに彼女は、そのための努力を今まで積み重ねてきた。しかし……それも、もう限界なのだろう。
「……それが、一番素晴らしいことだから……」
 自分が見ている世界は、今後も永続する。漠然と、彼女はそう思っていた。人間は今後もあり続けるし、自分は今後も与えられた仕事を粛々とこなしていくのだろうと。
 だが冷静に考えてみれば、全てのことには必ず始まりがあって、必ず終わりがあるではないか。朝が来れば、また夜も来る。目を覚ませば、また眠る。誕生すれば、いずれ死ぬ。栄えれば、やがて滅ぶ。いつか、全ては等しく終わる。そうして全ては、何もなかったことになる。
 ならば、私のしていることは……なに? 今までも幾度となく繰り返してきた問いが、再びマダム・モーガンの頭を過るが、しかし彼女はいつも通りに、真理から目を背ける。そして明日を求める声に耳を傾け、その願いを叶えようと努力するのだ。雑念に集中していれば、その目に答えは見えなくなって、随分と気を楽にして過ごせるようになるのだから。今後も、そうしていくだけ。その時が、いずれ来る時まで。
「さァて、元老院のお出ましだ。ンじゃ、ここいらで俺ちんは、おさらばヨ。ケケッ!」
 くだらぬ思案に耽り、表情をきつくしているマダム・モーガンを横目に、カラスはそう鳴く。そしてカラスは再び翼をばたつかせると、マダム・モーガンの肩からひょいと飛び上がり、冷たい光が今も浮かんでいる空へと羽ばたいていった。
 そうして消えて行ったカラスと入れ違いになるように、人影が次々と現れる。背後に感じ取った気配にマダム・モーガンがはたと振り返ると、そこには十一柱の元老たちが佇んでいた。
『モーガン。なぜここにお前が召喚されたのかを、お前は分かっているな』
 人種、性別、年齢も様々な人間の姿を借りた『元老院』が、そこに居る。一部の見慣れたものを除いては、マダム・モーガンにとってどれもこれも初めて見る顔ばかりだ――それもそのはず、彼らには本来『肉体』というものがなく、時と場合に応じて仮初のものを取り繕うだけ。その時々で、彼らの見た目は大きく変わるのだ。鷹やライオン、昆虫など、もはや人間の姿をしていない時でさえあるのだから。
 しかし、その中にはあるひとつの姿にこだわりを持つ者も居て、こだわりを持つ彼らの顔といえば、マダム・モーガンにとっては実に見飽きた顔。『エズラ・ホフマン』や『マイケル・バートン』という偽名で人の世に関わる通称『ケテル』に、『デボラ・ルルーシュ』という名前で度々事件を起こす通称『ネツァク』。そして真っ先に口を開いた若い女――の姿をした元老院の一柱――もまた、ひとつの姿にこだわりを持っている。
 人の世に憚る際の名前は『ダコタ・スティル』。そしてマダム・モーガンの前でのみ、名乗る名前は『ダート』。そいつはマダム・モーガンの首に繋がれた鎖を握る者であり、彼女の宝物である弟分ジョン・ドーをズタボロに壊した張本人であり、『エズラ・ホフマン』ないし『マイケル・バートン』と結託し、ジョン・ドーを死に損ないの姿で留め続けている者。
『我らの調べによれば、アルストグラン連邦共和国にはやはり“大陸を浮かせている大型エンジン”というものは存在していない。しかし、なにゆえお前は人間に偽りを教えた?』
 鳶色をした、癖毛の長い髪。黒曜石のように黒く、冷たい瞳。漆喰壁のような白さと血色の悪さをもつ肌。高い身長と、女性にしては筋肉の発達している体格に、無表情な顔、ハスキーな声。今も昔も変わらず、独特の威圧感を持つ『ダート』は、そう言いながらマダム・モーガンを睨む。その視線を受けるマダム・モーガンは、自身の顔を敢えて伏せさせ、少しだけ頭を下げた。
 それは形だけで中身はない、謝罪の真似事。彼女とて不本意ではあるが、形だけだとしても頭を下げなければいけないのだ。元老院を、そして元老院の頭である『ダート』をこれ以上怒らせないためには、必要なこと。だから少しだけ、頭を下げるのだ。
 けれども、マダム・モーガンにも譲れない点がある。故に彼女は、自分の非を全面的に認めるような謝罪の言葉は決して口にしない。代わりに説明するのは、その決断に至った理由だ。
「あの大陸を浮かせているのは他ならぬアーサーであり、彼の『本体』の中にあったアバロセレンの核です。ゆえに、あの男がその事実に気が付けば、いつでも彼はあの大陸を動かすことも、また海に落とすことも出来るのです。――そのような恐怖しか与えぬ情報を、人間に伝えるわけにはいかないでしょう? いらぬ混乱を招くだけですから。それに万が一、そこからアーサーの耳に情報が入れば、彼はやりかねないでしょう。大陸の墜落を。なので、嘘を与えるのがあの場においては最善であったと、私は考えております。警戒するに越したことはありません。それに人間には、真実を与えないほうが良いのです。嘘の情報を氾濫させておいたほうが、人の世は却って安定しますから」
 死神、アーサー。彼の出自を紐解いていくと、それはまどろっこしい真相と混乱していた当時の状況が見えてくる。しかしその説明は困難。だが一言で纏めるとするならば、それは『ペルモンド・バルロッツィと同じ状況』とも言えるだろう――アーサーという男のほうが、置かれた状況はより悲惨だが。
 ともかく、アーサーは二人存在している。地下施設に長いこと封じられていた『本体オリジナル』と、特務機関WACEの者として暗躍していた『義体コピー』の二つだ。少なくとも元老院は、そう呼び分けている。そして暴走し、今は北米に逃げているのが『義体』のほうだ。
『何故、あの大陸を浮かせているのはあの男であると、お前は言い切れるのか?』
 元老院の一柱――どこの誰かも、どんな名前かも分からない――である若い男が、偉そうな口を叩いてマダム・モーガンに問う。単純なようで難解なその問いに、マダム・モーガンは伏せさせたままの顔を険しくさせた。
 彼女が全てを目撃しているからといえ、彼女が全てを知っているわけではない。『本体』の中に割れたアバロセレンの核を二つ詰め、それをオーストラリア大陸に持ち帰り、そこで『本体』の腹を切り裂き、中から核の片割れを取り出した、その全てを行ったのはたしかにマダム・モーガンであったが。だからといって、その時々に起きた事象の全てを、彼女が完全に理解しているわけではないのだ。何故ならば彼女も所詮、キミアという神が命じるままに動いた駒でしかないのだから。
 故にマダム・モーガンが説明できるのは、その時に起きた現象の詳細と、仮説だけ。
「アーサー。彼は自由自在に物質の位相を操作できます、それがキミアから譲られた彼の力です。指一本触れることなく、万年筆を浮かせたり、鉄パイプで人を殴ったりなど、そういった力です。――オーストラリア大陸を浮かせている力も、それと同一の性質を持つものと思われています。それに意識レベルを低下させた本体の無意識に指令を刻み、無意識を介してあの中にあったアバロセレンの核を操作して、あの大陸を浮かせたのは、他ならぬ私であり、そしてキミアですから」
 真相を知っているのは、いつでもひとりだけ。嗄れた声で鳴くカラス、その姿を騙る神。謎ばかりのアバロセレンと同様に、謎に包まれた昏神キミア。そいつだけだ。
『モーガン。……して、本体の中にあったはずの核は今、何処にある?』
「現在の在り処は不明です。キミアによれば、アーサーの義体の中にある核は変わらずの状態を維持しているようですが、本体から持ち出されたものは実体を失ったらしく、復元することが出来なくなったそうです。義体は故意に、件の核を四次元より上の次元層に持ち出したとかで、少なくとも三次元世界にてあれを元の形に戻すのは不可能だと――」
『その情報の信憑性は?』
「分かりません。義体のアーサーに訊ねてみない限りは、なんとも。それにキミアが嘘を吐いている可能性も十分に……」
『そうか。――失われた核の捜索は、我々で行う。お前は引き続き、義体の行動を注視するように』
「承知いたしました」
 四方八方から、矢継ぎ早にマダム・モーガンへと注がれる質問の数々。聞かれたことにのみ嘘を交えず話し、聞かれていないことに関しては自発的に話そうとはしないマダム・モーガンは、言葉選びに苦戦していたし、苛ついている感情を抑えて隠すことにも苦労していた。
 一方で、マダム・モーガンが大人しく質問に答えているのをいいことに、元老院は好き勝手なことばかりをほざいている。
『それでアーサーの、本体は何処に消えたのだ? 我々の調査では、爆発で崩落した地下施設から、本体らしきものは見つからなかったのだが』
「アーサーの本体は私が回収し、竜神カリスに預けました。カリスは、私と義体により傷付けられた体を癒したうえで、本体が目を覚ますことのないよう厳重に凍結し、保管しているとのことです」
『なんだと、貴様。また我らの許可なく、無断で……!』
『静粛に。今は彼女を糾弾する場ではありません。しかし……凍結ですか。ならば解凍さえすれば、仮に今の義体が死亡しても、本体を運用することができますね。それに新たな義体を作成し、新規データを得ることも――』
「それは、やめておいたほうが賢明かと。アーサーの基となった男は反社会的な人格を有しているうえ、それを隠すだけの知能を持っています。仮に新たな義体を作成したとしても、今の義体と同様に、やがて元老院に牙を剥くことは避けられないでしょう。となれば本体は、何を仕出かすかなんて分かったものではありません。これ以上のアーサーの運用は避けるべきだと、私は思いますが」
『今はお前の意見など求めていないぞ、モーガン。不要な言葉は慎みたまえ』
「ですが、アーサーの運用はリスクしかありません! 彼がキミアと結託したら最後、我々には破滅の道しか――」
『ジャーファル・アル=ハーデイー。彼の時も、アーサーと同様のリスクがありました。しかし我々は、あの獰猛な溝鼠を服従させることに成功しました。――地球の三次元生物には、肉体的そして心理的な苦痛が有効であるという一定のデータが採れています。アーサーとて、同様でしょう。心理的苦痛を与える段階は終わりました。ここで服従の意を固めないのであれば、次は肉体的な苦痛の段階へと移るだけです。幸いにも、あの義体には痛覚がありますから。ペルモンド・バルロッツィはその点、例外でありましたが』
 元老院。彼らが何をしたいのか、そんなことマダム・モーガンには分からない。きっと彼らの考えは、小さな小さな人間たちの思考ではとても及ばない知識、領域、言語で組み立てられているのだろう。そして彼らと同様の価値観を共有することは、マダム・モーガンにはとても難しい。
『ねぇ、ダート! どうせなら、アーサーは私に任せて頂戴。そしたら私がいっぱい彼と遊んで――』
『デボラ。貴様は口を閉じていろ』
『うっさいわね、ケテル。私はアンタの意見なんか聞いてなっ――』
『そこ、静粛になさい』
 元老院のやること、なすこと。マダム・モーガンの心は一度たりとも、賛同したことはなかった。彼女の心はいつもこう思っていた。反吐が出る、と。だが、彼女はこうも思う。人間も所詮、彼らと大して変わりはないのかもしれない、と。
 人間は、些細な理由で他の生物を殺す。生きるための糧とするため、食らうことを理由に行われる殺生ならまだいい。だが人間は、単に邪魔だとか不快だという理由で、大して害もない生物を殺すことがある。時には単に殺しを楽しむために殺す、そんな気色の悪い文化さえもある。
 手で、蚊を叩き潰すこと。蠅をバットで殴り殺すこと。蟻の行列を靴で踏みつけること。毒薬を撒いて、ゴキブリや鼠、ヘビを殺すこと。生まれたばかりの仔猫を、公園の池に放り投げて溺れさせること。野良犬をガス室に詰め込み、殺処分すること。牙を得るためだけに、象を撃ち殺すこと。狩りを楽しむためだけに、弓矢で鹿を狙うこと。上等な毛皮欲しさに、生きたままの狐から皮を剥ぐこと……――。
 結局、同じなのだ。元老院はそういったことを、人間に対して行っているだけで。やっていることは、人間も大差ない。人間がウィルスを媒介する蚊を駆除するために、繁殖を妨害するよう遺伝子改造を行った蚊を放ち、時と共に衰退し、やがて滅びるよう促すように。元老院は改造した人間を人間のコロニーに送り込み、人間が自滅するよう画策しているだけなのだから。
 その理由はたぶん、とても単純。人間という生き物が、彼らにとって邪魔な存在であるから。
 だからこそマダム・モーガンは、憤るたびに呆れ返る。だから彼女には、元老院に対して反論する口はない。反論する権利もないと、そう考えていたからだ。
 そして顔を俯かせたままのマダム・モーガンに、元老のひとり『ダート』が問う。
『最後に、モーガン。この落とし前を、お前はどう着ける?』
 そう問うダートの顔は、かれこれ二千年以上も昔にマダム・モーガンが見た、憎きダコタ・スティルの顔と寸部変わりない。それも、そのはずだ。この『ダート』こそダコタ・スティルであり、こいつは今も昔も、何も変わっちゃいないのだから。
「あの大陸を安定させるため、最善を尽くしましょう。ですが、そこに住まう人間に関しては……」
『人間など問題ではない。だがあの大陸には、我らが用意した幾つかの施設がある。どれも重要な役割を果たしているものだ。それらを必ず、守れ』
 ダコタ・スティル。そんな偽名で活動していた元老の顔を思い出すたびに、そして見るたびに、マダム・モーガンの頭に思い出されるのは青年の悲鳴。怯えた目と止まらない涙、虚ろな表情に、痩せた体、拘束衣と、不快な沈黙――。
 もしも、願いが叶うのなら。マダム・モーガンは彼ら『元老院』が崩壊し、潰えることを望むだろう。だが、それは叶わぬ願いだと分かっている。
「仰せの通りに……」
 マダム・モーガンはその場に跪いて、その言葉を口にする。そして彼女は込み上げる怒りや恨みを堪えるように、瞼を固く瞑り、下唇を上顎の前歯で噛み、項垂れるように深く頭を下げた。
 すると、そんなマダム・モーガンの肩に手が触れる。それは元老院の一柱『ダート』の手だった。
『モーガン。お前もこれ以上、愚かな真似を重ねてくれるな。我々の我慢にも、限界というものがある。そして限界を超えたときに、どうなるか。お前はよく、それを分かっているはずだ。――死して肉体を失っておれど、魂は苦痛を感じることが出来る。そして我々の手中にあるのは、ジャーファルだけではない。お前の愛した男、ハサン・シャヒーンの存在も、よもや忘れてはおるまいな?』
 女の冷たく乾いた声が、マダム・モーガンの上から降り注ぐ。その声が笑っている気配を、彼女は感じていた。己の中で長いこと眠っていた火山が、再び活動を開始しようとしている予兆も、同時にマダム・モーガンは察知する。
「……!!」
 誰かを愛することにはじめ、怒りや憎しみに恐怖など、あらゆる全ての感情を抑圧し続けることに、マダム・モーガンは慣れているつもりだった。だがそんな彼女が世界で唯一、誰にも穢されたくはない大切な記憶に今、元老院は土足で入ってきたのだ。マダム・モーガンの握りしめた拳が震え、跪いた膝がミシミシと唸る。
 そして彼女が、煮えたぎる猩々緋しょうじょうひの岩漿と共に顔を上げたとき。目の前にあったのは、何もない広大な荒れ地だけ。そこに居たはずの元老院は、綺麗に消え去っていた。
 畜生。――……そんな汚い言葉を、マダム・モーガンを思わず口にしてしまう。そんな彼女の姿を、空からは黒いカラスが笑いながら見降ろしていた。
「ケケーッ! 元老院も、あくどいもんだァ! これじゃあヨ、どっちが悪役だか分かりゃしねェ!!」
 冷たい風が荒れ地に吹いて、マダム・モーガンの熱くなった心も冷やしていく。そして短くなった彼女の髪を、風は弄ぶようにひらひらと揺らした。
 死した男たちへ、餞と贖罪の代わりにくれてやった、彼女の自慢の黒髪。二二〇〇年以上守り続けた、艶やかで長く美しいあの髪。死して、息を吹き返して以降、一度も伸びたことがなかった、あの髪。彼女の長い生涯の中で、ただ一人だけの恋人が、若かったあの日に「綺麗だ」と褒めてくれた、黒髪。そして久々に他者の口から聞かされた、愛した男の名前。
 煮えたぎる岩漿はあっという間に冷え固まり、新たな火成岩を彼女の心に遺す。溢れそうになった涙は、まだ熱を持っている火成岩によって熱せられ気化し、外に出てくることはなかった。
「……どちらを守ればいいのよ、ハサン。死んだあなたか、まだ生きている人間たちか……」
 深呼吸をして、心を切り替えて、ようやく絞り出したその言葉。だが彼女には分かっていた。彼女が愛した男なら、なんと言うかを。だからこそ彼女は、辛かった。




 そして、同時刻。夕方も暮れてきたころのマンハッタンでは、アストレアが驚きのあまりに目を丸くし、それから自分の鼻を抓んで、この強烈なにおいを嗅がないようにしていた。
 燻製品のようで、それでいて海辺の磯臭さも纏っており、そしてさらに除光液のようなアルコール臭がどこかに隠れている、そのにおい。慣れていない人間にとって、そのにおいは不快そのもの。それも、そのはずだ。燻製のようなにおいの正体である泥炭は、人間が本能的に嫌う香り。その燃えやすさ故に、先人たちが避けてきたものなのだから。
 そんなにおいの発生源は、中身が半分にまで減っているボトルにある。それから、空になった一人分のグラスと、テーブルに突っ伏して寝ている男の呼気だろうか。
「……酒を飲んで寝るには、まだ時間が早いと思うんだけど……」
 朝からずっと、彼の部屋から聞こえていた、鳴りっぱなしで止む気配のない電話のベルに嫌気がさして。アストレアはこの部屋に殴りこんできたのだ。いつの間にか大規模に改装されて、十九世紀アメリカの邸宅、その書斎風な趣になっていた、この部屋に。一向に集中できなくて、これじゃアンタに頼まれてた書類も片付かないよ、と。アストレアはそんな不満を、部屋の主アルバにぶちまけてやるつもりだったのだ。
 しかし彼女が部屋に入るなり見つけたのは、テーブルに突っ伏して寝る男、つまりアルバの背中。それと安物のスコッチウイスキーと、何かが混ざった不快なにおい。
 それからアストレアは、一通り部屋の中を散策して回った。うるさい電話の音を止めるため、電話線を引き抜いてやろうと考えたからだ。そうして彼女が見つけたのは、けたたましい音を鳴らす古びたダイヤル式黒電話。それは床に落ち、横向きに倒れた状態で放置されていて、電話線は半分だけが辛うじて刺さっているような有様だった――まるで誰かがアストレアと同じく、この電話を壊してやろうとしたかのように。
 そしてアストレアは電話線を完全に黒電話から引き抜いたあと、再び眠っている男のもとに戻ってきた。そんな彼女は今、男が突っ伏しているテーブルの上に並んでいるものを見つめている。
「……にしても、ウイスキーか。趣味が悪いね。それと、これは……?」
 テーブルのうえに散乱したものたちから、おおよその状況は分かった。ひとりでヤケ酒でも煽って、彼は寝たのだろう。そして酒のお供は、ダンテの叙事詩『神曲』地獄篇。――くさいウイスキーに、埃どころか土を被っているともいえる長編叙事詩。どちらもアストレアには興味も好感も抱けず、それこそ『趣味が悪い』と感じられるものだった。
 そしてブツブツと独り言を連ねるアストレアは、眠る男の白髪頭をペチペチと軽く叩く。が、起きる気配はない。アストレアは場所を変え、今度は彼の横顔、左頬を叩いてみるも、やはり目覚める気配はなし。
「……九〇歳も目前のおじーちゃんが、何をやってんだか……」
 アストレアは思わずため息を吐き、呆れ顔をして、自分の鼻をつまんでいた手を下ろす。その時にはもう彼女の嗅覚は不快なにおいに慣れ、心地良いとも不快だとも感じないようになっていた。
 そしてにおいにも慣れてくると、集中力も戻ってきて、より周辺の景色を注視できるようになる。そんなわけでアストレアは再び、男が突っ伏すテーブルを見やった。そこでふと目に留まったのは、長編叙事詩が記された本の下。テーブルと本の間に挟まっていた、喫煙パイプのマウスピースを発見する。そしてアストレアは本を退け、その下にあったパイプの全容を目にした。
 長い煙道を持つ、チャーチワーデンと呼ばれている形状。煙草の葉を詰めるボウルは、銀色に輝くステンレス製で、それには犬や狐のようにみえる動物を模ったような、エキゾチックな意匠が凝らされている。……アストレアにとってそれは初めて見るものであり、同時にアストレアは、彼が喫煙をするという事実を初めて知った。そしてアストレアは、心底驚く。
「……酒も煙草も、興味ないと思ってたのに。まさか、両方ともやるだなんて。よりにもよって、このミスター・アルバが……」
 ――なおボウルに刻まれた意匠はネイティブアメリカン風のものであり、月に向かって吠えるコヨーテが描かれているのだが、芸術に疎いアストレアはそんなことになど興味はない。
「……酒は、ともかく。煙草か。煙草は、なんだか感じが悪いな……」
 スコッチウイスキー。神曲の地獄篇。そして、喫煙具。テーブルに突っ伏して寝る、白髪頭の男。
 それらを見つめながらアストレアは、迷っていた。これをハードボイルド風と呼ぶべきか、はたまた『孤独を拗らせた結果、クレイジーな方向に進みつつある末期の老人』と喩えるべきかを。特にアストレアが気にしていたのは、本の下から発見したパイプ。
 アストレアは、煙草とそう縁があるわけではない。特務機関WACEに所属していた人間――今は寝ているこの男を除いて――に、喫煙を嗜むものは一人も居なかったからだ。けれどもアストレアは煙草というものに対し、悪い印象しかない。何故ならばそれは「煙草はくさい、あのにおいが本当にヤダ」や「喫煙者の人格を、オレは疑ってます。あの不快なにおいのする煙を周囲に撒き散らせる神経、オレには理解できませんよ……」だの「もし願いがひとつ叶うなら、オレは全世界から全てのタバコの葉を、種もろとも消し去りたいです」とよく愚痴を零していた、ラドウィグの影響によるものだろう。
 とはいえアストレアも、煙草のにおいぐらいは知っている。ラドウィグの言葉を借りるなら「不快なにおい」となるあの煙を、嗅いだことがないわけじゃない。直近でいえば、このマンハッタンの街。寂れたこの街では至る所で、人生に疲れたような顔をした人々がシガレットをくわえて、口から煙をくゆらせている。だから、煙草のにおいは知っていた。
 だから、アストレアは変だと思った。本の下から発見したパイプには、なんらかの葉が燃えたカスが入っているが、しかし煙草特有の、どこか渋いあのイヤなにおいがしないのだ。代わりにスコッチウイスキーが出す強い臭気の影に隠れて、あのパイプからじわじわとにおうのは、ラドウィグのアロマコレクションの中にあった、あれに似ている。あのアロマオイルは、たしか――
『あぁ、これ? ヘンプオイルだよ。アイリーンが明らかにイライラしてんなーって時に、こそっと彼女の部屋にこいつを焚いておくんだ。すると翌日、アイリーンは穏やかな表情になる。つまり効果バツグンなんだよ』
『まあ要するに、カンナビス……――マリファナと同じってことだね。とはいえこれは、法律で規制対象になってるTHCとかは入ってない市販用のやつ。だから問題はないよ。ハイになるような効果はないから』
『でもホラ、自然の香りっていうのかな。ヘンプ特有の青臭い感じって、たまに嗅ぐと懐かしい感じがして、ちょっと神経が落ち着いたりしない? あとヘンプ繊維の服とか、オレは好きだよ。ってのも、子供の頃によく来てた藍羽織が、ヘンプで織られてたものだったんだ。あの独特の動きにくさが、懐かしい感じがして、堪らないんだ。……はぁ、恋しいなぁ。トウィンガル・ラン・アルダンのシンボル、あの藍羽織が……』
 パイプの中身は、大麻なのだろうか。そんな答えに至った瞬間、アストレアは頭よりも先に体が動いていた――これはアレクサンダー・コルトに似た、悪いクセだ。
「ヘイ、ミスター!! 起きてください、もう夕方ですけど!? それから、このパイプは何ですか~!」
 眠る男の耳元で、アストレアは大声でそう言った。そして彼女は白髪頭の髪を一房ほど掴み、後ろに引く。彼女は死神を、強引な方法で眠りから現世へと引き戻したのだ。
 当然、そこまで乱暴なことをされれば人は目覚める。たとえ、死線を越えて戻ってきた者だとしても。そうして大声に肩をビクッと震わせ、掴まれた髪に呻き声を上げた男は、一瞬で目を覚ます。さらに怠そうに顔をあげたアルバの額に、アストレアはウイスキーのボトルをごつんとぶつけてやるのだった。それから、彼女は言う。
「ヤケ酒に、マリファナ。……アンタさ、どうしちゃったわけ? アンタは、こういう俗な道楽に手を出すようなタイプじゃなかったでしょ。なのに、どうして急に?」
 アストレアは心配していたのだ。北米に来てからずっと、どこか調子がおかしなこの男のことを。
 アルバと名を改めた彼の精神面にガタが来ていることは、もう否定のしようがない。大麻に手を出すような人間が、正常でないことは明らかだ。少なくともアストレアは、そう考えている。だが当人である彼は、あくまでそれを否定した。そして彼は言う。
「あれはただの“カンナビス”で、これは偶のガス抜きだ。大騒ぎするようなことでもないだろうに……」
「マリファナもカンナビスも、同じ植物で同じ葉っぱでしょうが! 別物みたいな言いぐさで誤解を招こうとして、何を言い逃れしようとしてるんだか……」
 アストレアの小言を聞き流しながら彼は、ボトルで叩かれた額を手で押さえて、気怠そうに俯いている。目元には影が落ち、その顔には疲労の蓄積が見えていた。身体的なものが要因か、はたまた心理的なものであるのかは、さておき。彼が疲れていることは、たしかだろう。
 だが、かといって大麻なんていうものに手を出すなんて。とてもじゃないが、アストレアは見逃すことが出来なかった。
「本当にどうしちゃったの、ミスター。疲れてるなら休めばいいし、もう無理しなくていいんだよ? それにここはアルストグランじゃない。なのにアンタは……」
 疲れているなら、休めばいい。それを言うのは、とても簡単なことだ。……だからこそその言葉を口にしたあと、アストレアはすぐに後悔して口を噤む。
 実際には少し休んだだけで疲れが取れるなら、その人の苦労なんて大したものじゃないといえる。本当に疲れている、それこそ身も心もボロボロの状態にある人間は、ちょっと休んだところで状況はよくならないのだ。それどころか、そういう状態にある人間ほど休めやしない。経済的に困窮している者なら、休む暇などないだろうし。精神的に参っている人間は、そもそも理性が『休む』ことを『怠け』だとして拒絶する。疲れているから休みたい、だが休むことができない。それが極限まで疲労が蓄積した人間の有様なのだ。
 そしてアストレアが後悔したとおり、彼女の言葉は彼の顰蹙を買った。彼は呆れ返ったような目でアストレアを見つめ、そして冷たい笑みを浮かべている。それから、彼は言うのだ。
「ああ、たしかにお前の言う通りだ。私は酒が嫌いで、俗物どもの道楽も大半は好みじゃない。賭博も女と遊ぶような趣味も、ドラッグにも、私は興味がない」
「なら、どうしてマリファナなんか」
「言っただろう。マリファナは偶のガス抜きで、荒療治。寝れない夜の、最終手段だ」
 荒療治。その言葉のあと、彼は浮かべた笑顔を消す。それから彼は肩を落とすと、沈んだ声でこう続けた。
「ジン、ラム、テキーラ、ウォッカに、アブサン、最後はスピリタス……。若い頃には様々な蒸留酒を試したものだが、どれも結果は同じ。度数をどれほど上げても、ストレートだろうがホットだろうが、何を試そうが、結局は酔えないんだよ。どれもただ、不味いだけでな。そこのウイスキーもそうだ。――そのうえ、私には眠剤も効かない。だが唯一効いたのが、マリファナだった。そのマリファナもただ眠気を誘うだけで、高揚感もクソもないがな。今のように、ただ眠くなるだけ。強いてマリファナの利点を挙げるなら、夢を見ずに眠れるようになる。それだけか……」
 どう転んでも、暗い方向にしか進まないその話題。酒とも煙草とも、ましてや大麻などとも縁がなく、興味すらもないアストレアには、何が何だかチンプンカンプンではあるが……――今の彼には何も訊かないのが賢明であるということだけは、彼女も分かっていた。たぶんアストレアが酒の種類とその詳細を訊ねただけでも、彼は過去の記憶を思い起こして……更に暗く沈むだろう。となればアストレアもまた、気まずさから暗くなる。ならば、何も言わないに越したことはない。
 そうしてアストレアが黙っていると、彼はフラフラとした足取りで椅子から立ち上がる。酔っぱらいとはまた違う歩みの不安定さに、アストレアは慌てて彼の傍に駆け寄った。
「どこ行くの、ミスター! 今は大人しくしてなってば!」
 すると彼は、近寄ってきた低身長のアストレアを杖の代わりにするように、彼女の頭を鷲掴む。それから彼はこんなことを言った。
「屋上だ。お前も来い、エスタ」
 エスタ。初めて呼ばれたその名前にアストレアは少し驚くが、それが『シュリンプ』に次ぐ自分の新たな呼称であることはすぐに分かった。アストレアおよびアストリッドの省略形、それがエスタだからだ。
 新しい呼称に悪い気はしなかった。少なくともシュリンプよりかは幾分もマシだ。……アストレアは、そう思う。だが、どうしてなのだろう。嫌な予感がする。
「屋上? まあ、付き合ってあげてもいいけど。それに酔っ払いを放っておくわけにはいかないしね」
「酔ってはいないさ、眠いだけだ」
「なにを言ってるんだかねぇ、おじーさん……」
 見上げた男の顔に、落ちている翳。アルストグランに居た頃は見たことがなかった、人間らしい表情。――もう慣れたようで未だに慣れていない、この男の闇に満ちた一面。ふとした瞬間にその顔が現れたとき、それは大抵、悪いことの前兆。
「お前に話しておかなければならないことが、幾つかある。――お前自身に関することだ」
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