アンセム・フォー・
ラムズ

ep.04 - Faith will move aeropolis

「えぇ、そう。リーランド、その通り! 明後日までに、いつもの貸倉庫にアンタの荷物を全部ブチ込んどいてやるから。二度と、私の家に来ないで。……だから、そう言っているでしょう。絶縁よ。……理由を説明しろって? 考えなくても分かるでしょうに。それじゃ、さようなら。次にあなたに会うとき、あなたが解剖台の上に寝ていることを願っているわ」
 そう言い終えると検視官バーニーは、ガシャンッと乱暴に携帯電話を床に投げ捨て、あげくにそれを踏み潰して壊す。解剖室には、物騒な音が響いていた。そんな検視官バーニーの様子に、彼の助手であるハリエット・ダヴェンポートは委縮していた。
 いつもなら穏やかで冷静で物腰柔らかな検視官バーニーが、あの彼が、怒り狂っている。それも無表情ではなく、あの耳まで赤くなった姿は誰が見ても「怒っている」と分かるレベル。……これはただならぬ事態だと、助手のダヴェンポートは考えていたのだ。
 しかし、そのダヴェンポートの横に座るコールドウェルは、ニタニタと平気な顔で笑っている。コールドウェルにとってはどうやら、怒り狂う検視官バーニーは取るに足らないことであるらしい。
「随分と荒れてんねぇ、バーニー。今になって怒りが込み上げてきたのか?」
 そんなコールドウェルの視線は、解剖室の壁に立てかけられたテレビに向けられていた。そしてビクビクと肩を震わせる検視官助手ダヴェンポートは、そんなコールドウェルに問いかける。「……あの、アレクサンドラさん。ヴィンソン先生は、何に対してあんなに怒っているんでしょうか?」
「察しが悪いねぇ、ダヴェンポートちゃん」
「すみません。私、察するってことが出来ないんです。五歳の時にアスペルガー症候群と診断された人間なので。アレクサンドラさんみたいな優れた洞察力とか、持ってないんです」
「なるほど。だから助手のハリエット・ダヴェンポートは、無表情の検視官バーンハード・ヴィンソンに気に入られたのか。ふむ……」
「それでなんですけど。どうして先生は……――」
「バーニーの自宅を荒らしたやつが居るんだよ。その犯人は、彼の双子の弟らしいぜ? で、バーニー先生は今、双子の弟に絶縁宣言をしたんだ。二度と家に来るな、二度と目の前に現れるな、ってね」
「家を荒らされたくらいで、普通の人は絶縁しちゃうんですか?」
「イヤ、普通は立ち入り禁止になるぐらいだよ。絶縁ってことは、よっぽどのことがあったんだろ?」
「よっぽどのことって、何ですか?」
「アタシは知らないよ。でも気になるからって、バーニーに尋ねちゃいけないよ」
 他人のプライベートの問題には、首を突っ込んじゃいけない。奇妙な検視官の、風変りな助手ダヴェンポートに、コールドウェルは柔らかなトーンで釘を刺す。しかし助手のダヴェンポートは、首を突っ込んではいけないという言葉の意味をよく理解していないようだった。「……首を突っ込んではいけないのは、どうしてですか?」
「ダヴェンポート。アンタさ、質問が多いって言われたことはないかい?」
「あります。いっぱい」
「つまり根掘り葉掘り尋ねられることを、普通の人は不快に感じるんだよ。だから人はアンタのことを『質問が多い』と呼ぶのさ」
「どうして質問が多いことを、人は不快に感じるんですか? 私にはよく分かりません。分からなければ分からないで怒られるのに、分からないことを理解しようとしてする質問は、不快なんですか?」
「分からなくたっていいよ。だから『そういうものなんだ』と覚えておきな。そういうものであるから、不必要なことは訊くべきではないと。余計な言葉は、余計な争いを生むだけだからね」
「じゃあ私は、何も喋らないほうが良いんでしょうか?」
「難なく世を渡れる、っつー自信がアンタにないのであるならば、会話は業務連絡ぐらいに留めておいたほうが良いかもね。少なくとも、今日のバーニーに対しては」
 このテのタイプの――少し昔の、情緒がなかったアストレアのような――扱いにはこなれているコールドウェルは、それらしい適当な言葉を助手のダヴェンポートに返す。そんなコールドウェルは、風変りな検視官助手ダヴェンポートの言葉に取り合っていられるほど暇ではなかった。
 テレビの画面には、見覚えのある小奇麗なホームレスの老人が映っている。その老人は酒をバカ飲みしたのか赤くなった顔で、自身を取り囲む取材陣に嬉々として答えていた。
『そうなんだ、そうなんだよ! あの男の死体を見つけたのは俺だ! フハハハハハッ! 不死身の男が、死んだんだよ! 冗談みたいだろ? でも現実なんだ。ハハッ!』
 ホームレスの老人は、間違いなくコールドウェルの父親ダグラスだった。コールドウェルの父親は画面の中で、誇らしげに死体を見つけた瞬間のことを少し誇張しながら語っている。呆れ顔でそのシーンを見つめるコールドウェルは、父親が死体遺棄の件については何も触れていないことにだけホッとしていた。
 そして、画面は切り替わる。今度は画面の左下隅に生中継の文字が現れ、映し出されたのはこのシドニー支局の出入り口、正面玄関前だった。そして画面の中央に映るのは、絶え間なく焚かれるカメラのフラッシュにうんざりとするような表情を浮かべる淑女、リリー・フォスター。今まさに支局の地上では、バルロッツィ高位技師官僚の死亡を嗅ぎ付けた記者たちに向けて、フォスター支局長が会見を行っているのだ。
『どこから情報が漏れたのかは知りませんが……ええ、そうです。おおむね、報道の通りでしょう。昨日の明朝、ペルモンド・バルロッツィ高位技師官僚の遺体が旧シドニー港で発見されました。えーっと……ちょっと。静かにしてくれないかしら? 質問は後で受け付けるって、そう言ったでしょ? 黙って話を聞くってことが出来ないの? ――……だから!! 質問は後で受け付けるから、少しのあいだ黙っていろと言った私の言葉が聞こえないのかァッ!! 人の死は、アンタらの為にある娯楽じゃないのよ!?』
 しかし……――どうやら、記者会見はスムーズに進んでいないらしい。
「……あっちゃー。普段からストレスフルな支局長に、更なるストレスを与えるとは。記者たちも、馬鹿だねぇ」
 凄まじい剣幕で、記者に対し怒鳴り散らすフォスター支局長は、もはや記者会見どころではない。それでも態度を変えず、絶えず質問をぶつけては、フォスター支局長の怒りを買い続ける記者たちもまた、愚の骨頂と言う他ないだろう。
 カオス。まさに、そんな状況の生放送。コールドウェルは、そんな生放送が映るテレビを指差し、助手のダヴェンポートにこう言った。
「言っちゃいけないタイミングで、余計な質問を人にぶつけるとな。あのテレビに映っている支局長みたいに、人は激昂するんだよ。で、見てみろよ。あのテレビに映っている状況。ありゃまさに放送事故だ。……ダヴェンポート。アンタも、あんな風になりたいかい?」
 なりたくないです、と助手のダヴェンポートは即答する。どうやらこの風変りな検視官助手は、放送事故という良いお手本を観て、何かしら納得したようだ。
 すると波乱の記者会見はどうにか再開されたようで、あからさまに不機嫌だという態度を見せるフォスター支局長は、メディア向けの声明を読むのを再開した。
『もう一度言います。昨日の明朝、ペルモンド・バルロッツィ高位技師官僚の遺体が旧シドニー港で発見されました。検死解剖の結果、服毒による自殺と判明。そして本日の午後二時半に火葬を開始し、連邦捜査局により海に散骨され、無事に終えたことをご報告いたしッ――』
『フォスター支局長! 火葬され、海に散骨されるのは死刑囚だと法律で定められています。どうして死刑囚でないバルロッツィ高位技師官僚に対し、死刑囚と同様の措置が行われたのでしょうか!!』
『特殊な事例ゆえの判断です。同時に、本人の遺書にはそうするようにとの記載がなされていましたので、彼の遺志を尊重したまッ――』
『遺書の全文は公開されますか?!』
『……それでは、ここで質問を締め切らせて頂きます。以上』
 私、不機嫌ですからオーラを全開に放出するフォスター支局長は、質問をひとつ受け付けただけで締め切ると、会見自体を終えてしまった。いそいそと支局の中へと戻っていくフォスター支局長の背中にフラッシュが焚かれ、その様子がテレビの画面に映っている。それから虚しいリポーターの声が流れた。
 嵐のように一瞬で過ぎ、カオスに始まり、カオスに終わった。そんな会見である。だがコールドウェルは意に留めない。重要なことは、父親もフォスター支局長も黙っていたからだ。死体遺棄の件には一切触れるな、ということは守られたのだから。何も言うことはない。
「そんじゃ、アタシゃ不機嫌な支局長と顔を会わせたくないんで。ここいらでお暇を……」
 とあらば、支局にはもう今日は用がない。そう判断したコールドウェルが、一足先に上がろうとした時だった。
「ダヴェンポート、あなたはもう帰っていいわ。けどアレックスちゃん。あなたはここに残って」
 検視官バーニーの沈んだ声が、コールドウェルの名前を呼んだのだ。





 WACEの本部(仮)地下二階。アイリーンは、自分のラボに引きこもっていた。
「……案の定というべきかな、うん。早速、陰謀論者が動き出したよ……」
 いや、アイリーンのラボに立てこもっているのはアイリーンだけではない。彼女の後ろには、彼女が操るコンピュータのモニターを覗き込むアストレアとヒューマノイドAI:Lの姿もあるし、上の空で椅子に座る猫目のラドウィグも居た。そしてじきに、大男ケイもこの部屋に来る。ケイは今、この部屋に居るメンバーのための夕食を、地下一階にあるキッチンで(こしら)えているところなのだ。
 この部屋に、どうしてメンバーが集まっているのか。その理由は一つ。ここはアイリーンの聖域であり、この部屋の壁は完全防音で完全遮音。つまり外部の陰惨な空気を忘れられる場所なのだ。
 そしてアイリーンのラボには、パステルカラーの奇抜でファンキーなタペストリーや小物が溢れている。まるで夢の世界やテーマパークのようなその異質な空間は、憂鬱な現状から自然と目を背けさせてくれるのだ。
「陰謀論者って?」
 モニターを覗き込むアストレアは、アイリーンにそう尋ねた。アストレアに見えるのは、よく分からない謎の文字の羅列。一見、意味をなさないように見えるラテン文字の羅列に、ときおり数字や記号が混じっていたりする、奇怪な文章だ。そしてアイリーンが閲覧していて、今まさにモニターに映し出されているページは、俗にいう掲示板サイトのような見た目をしていた。
 謎の文字の羅列で行われる書き込みは、次々とそのサイトに投稿されて、内容は更新されていく。アストレアは意味が分からないと首を捻るが、アイリーンにはその意味の分からない文字列の意味が分かっていた。
「シドニー支局のリリー・フォスター支局長がさっき、記者会見を開いたでしょ? そしたら、サイバー空間の地上地下問わず、あちこちが大沸騰したの。会見から一時間が経過した今でも、沸騰中。どこもかしこも、バルロッツィ高位技師官僚で話題もちきりよ。で、このサイトはサイバー空間の地下も地下の所にある場所。あらゆる種類の犯罪者と犯罪を未然に防ぐ者、または陰謀論っていう沼にハマった馬鹿者の三種類しかいない区画よ。んで、アーサーが作った解読アルゴリズムを適用すると……――」
 カタカタカタカタ……と、アイリーンの手元に置かれたキーボードは音を立てる。高速で動くアイリーンの細くて白い指は、視覚に頼ることなくコンピュータに命令を打ち込んでいた。そしてアストレアにはさっぱり分からない謎のダイアログが現れた後、モニターに映し出されていたサイトの文字列に変化が生じる。すると文字列は、誰でもスムーズに読むことが出来る綺麗な文章に変化したのだった。
「シドニー在住のベンジャミンくん、十九歳はこう言ってる。人類の敵、アバロセレンを世界にもたらした悪魔がこの世を去った。神の裁きが下ったのだ、って。お次にブリスベン在住のコートニーさん四十七歳は、こう書きこんでる。アバロセレン産業は衰退確定。高位技師官僚は人々の生活を変え得たであろう偉大な秘密の多くを黙ったまま、死んだ。クソッ、私がどれほどアバロセレン産業に投資したと思ってるの? 私の持ち株の大半がパーになるじゃないか、って。それから、テナントクリーク在住の……」
「あー、アイリーン。もう僕でも読める文章になってるから、読み上げなくても大丈夫だよ。それに、なんというか……善良な一市民、ってのは気楽なもんだね。身勝手で、自分のことしか考えていない。こいつらの為に僕らは身を削ってるのかって思うと、この仕事が空しく思えるというか、なんというか……」
「あっ、そう。アストレア。じゃあ、黙々と読んじゃって。私は仕事に戻るから」
 アイリーンが実行したアルゴリズムがなんたら……により、意味不明な記号の羅列だった文章はごく普通の、汚らしい言葉遣いが溢れるものに変わった。そしてアストレアが大きな目で文字を追ってみれば、その内容のひどさたるや呆れてものも言えない。勝手な憶測で書かれた罵詈雑言や自分勝手な発言の数々に、アストレアは大きな目を不快感から細めていた。
 溢れかえるデマの数々。自殺だというのは陰謀で、実際は他殺だという情報が書かれていたり。服毒による自殺ではなく焼身による自殺だったから、連邦捜査局は火葬に回したのだと発表したのだとか。ニトログリセリンを呑んで、彼は爆発したんだとか。
「……アレックスがこんなの読んだら、どんな顔をするんだか……」
「彼女の仕事は、こういう暗い場所に潜む意気地なしを扇動して、デマを作らせることだから。アレックスちゃんならきっと、したり顔でも浮かべるに違いないよ。アタシの手のうえで踊ってやがる、ってね」
 罵詈雑言とデマは、こうしてアイリーンとアストレアの二人が話している間にも増え、ページは更新されていく。アイリーンは無感情な目で、アストレアは不愉快そうな目で、流れていく文章を見つめていた。
 すると、上の空でかれこれ三〇分ほどぼーっとしていたラドウィグが久しぶりに口を開く。
「そういや、もう午後一〇時っすね。サンドラの姐御は四日連続、本部に顔を出してませんけど。今頃、どこで何をしてるんでしょうか」
 そう言いながら、ラドウィグは眠たそうに目を擦る。今日は少しヘビーな仕事をこなした為か、精神疲労に襲われていた彼は、今すぐにでも眠りに落ちて、現実から逃げたいというような顔をしていた。
 そしてアイリーンは、ラドウィグの言葉にこう返答する。
「アレックスちゃんなら今頃、ニール・クーパー特別捜査官か、ASIのエージェント・ミルズでも引っかけて、夕飯を奢らせてるんじゃないの? それか、空軍のエイヴリー……――おっと、待った」
 だがアイリーンの言葉は途中で止まり、途中から彼女の声色も変わった。すると無感情だったアイリーンの目に突如やる気がみなぎり、闘志が燃える。目を見開き、モニターを凝視するアイリーンの姿に、アストレアは少しだけ驚き、そして引いていた。
「……前からマークしてた自称アバロセレン技師が動き出したみたい。黎明の到来、って。なんだろ、この意味深な書き込みは。いつもみたいな、アバロセレンの裏取引って感じとはちょっと違うぞよ……?」
 途端に前のめりの姿勢になり、身を乗り出してモニターを見つめては、カタカタカタカタと高速で指を動かしてキーボードを叩くように打ち、独り言を呟きながら、アイリーンは何かをやっている。彼女は何かを一人で考え、何かを一人でしていた。
 薄気味悪い彼女の姿に、アストレアは背筋をぶるりと震わせる。しかしラドウィグは暢気に、欠伸をしていた。





 そして時刻が夜の十一時に触れた頃。コールドウェルは、検視官バーニーの自宅に居た。
「バーニー。もう止めておけ。酒の飲み過ぎはよくない。明日に響くぞ?」
 ビール缶の三本目に手を出そうとした検視官バーニーの手を、コールドウェルは左手で引っ掴んで止める。そんな彼女は右手に握ったフォークの先を、テイクアウトの容器に入った甘ったるい酢豚もどきに突き立てていた。……しかし、検視官バーニーは情けない声で言う。
「今日だけは本当に、ムリ。呑まなきゃやってられない……」
「あのさ、バーンハード・ヴィンソン。アンタさ、年齢を考えなよ。五〇過ぎのいい年したオジサンが、涙目でビールと猛獣(ビースト)に縋りつくなんて。どんな趣味をしてんだか」
「正しくは六〇過ぎのオジサンよ」
「へ? ……だとしたらアンタ、随分と若く見えるね。ならより一層、年相応の振る舞いってもんが」
「ああっ! 今はそういう世間体とかは一切ナシ! 考えたくない、何も!」
「……そっれにしても、この酢豚マズいね。ニールの奥さんの実家に長いこと仕えているっつー料理人の、陳さんが作ってくれた酢豚は冷めていても絶品だったんだけどなぁ。本当に、なんじゃこれ。この餡、甘酢じゃなくてもろに砂糖だけっつーか、カラメルを飲んでる気分だ。歯が溶けそうだぜ。アイシングだらけのケーキを食わされてる気分だ……」
 かつては作りたてホヤホヤだったはずのエセ中華料理も時間が経ち、味も落ちて美味しさが半減していた。肉はパサパサしているし、野菜は火が通っていないのかどこか生っぽくて、冷めた餡はただただ甘いだけで他に味や深みは無い。作りたての頃はまだ比較的マシで、まだ食べられたのかもしれないが……――残飯処理をさせられていたコールドウェルは、このお世辞にも美味しいとは言えないモノに顔を顰めていた。
 しかし、ブツブツと文句を言いながらも、なんだかんだでコールドウェルは食べ進める手を止めはしない。こればかりは、相対的貧困の家庭に生まれ育った彼女の悲しき性。幼い頃にどっぷりと浸かった貧乏性は、生活が変わっても未だに抜けていなかったのだ。
 そして貧乏育ちというのは、検視官バーニーも同様だった。
「まだ私が子供だった頃。あのときは将来、自分がこうなるなんて思ってもいなかった。高給取りの外科医になりたくて勉強していたのに、まさか薄給の監察医になるだなんて思ってもいなかったし。それに、ヨーロッパ系移民の集まる貧困街から抜け出せるとも思っていなかったわ。だけど、私も弟も必死に努力して、夢を叶えたと思ったら! どうして人生って、こうなのかしら? 不幸ばっかりじゃない……!」
「バーニー。落ち着け。声がデカいよ」
「私は、自分が監察医になるとは思ってもいなかったけど。だけど双子の弟が、ひどいことを平気でしてのけるクソ野郎になるとは、もっと思っていなかった! 男好きの男だっていうのは、百歩譲って認めてやるわよ。許してやる。というか、そこはどうでもいい。でも、だからって。――……暴力をふるう人間を許すことはできないわ! それじゃあ暴力の常習者だった父と、まるで同じじゃない!! なのに、リーランドは!」
「バーニー! 話に付き合ってやっから、ひとまず落ち着け。マジで、声がデカいから。時間を考えてくれ。もう真夜中なんだぞ?」
 人もいない田舎の一軒家ならまだしも、ここは大都会シドニーの中流家庭が多く住まうマンションの一室。ここは悲しき独身男しか住んでいない部屋だが、周りはそうではないかもしれない。子持ちの家庭だってあるかもしれないし、夜くらい静かに眠りたい者だって居るだろう。
 しかしアルコールで判断力の鈍った酔っぱらい男は、みっともない大声を上げては机に突っ伏して泣いて、また顔を上げては酒を飲む。そんな検視官バーニーは珍しく無表情ではなく、表情と声が釣り合っていた。
「……リーランドが言うには。夜に路上で座り込み、ボーっとしているのはドラッグ常用者。だから、ハイになってる者には何をしても良いんですってよ。物取りをしても、殴っても、連れ去ってレイプしても、殺しても。危険薬物に手を出すのが悪いのだから、そんなやつには何をしたって構わないって。たしかにドラッグに手を出すのはいけないことだけど、私は彼の言葉に賛同しかねるわ」
「それは、アタシもそう思うさ。まるで滅茶苦茶な理論だよ」
「そのうえジョン・ドーは、ドラッグなんか使っていなかった。てんかん持ちだっただけ。ハイになっていたんじゃない、発作を起こしていただけ。なのに、リーランドは……」
「…………」
「――まあ、でも、リーランドはジョン・ドーを車に連れ込んだ後、返り討ちにあったそうよ。激しく抵抗されて、自慢の顔に強烈な左フックを食らったって。そのあと二人は散々もみ合った結果、リーランドは車に積んであった枕を彼の顔に押し当てて、彼を殺そうとした。そして数分間、枕で押さえつけたら、ジョン・ドーはぴくりとも動かなくなったから、怖くなって私の家に来た、って。幸いにも彼は死んでなくて、翌朝には何事もなかったように目覚めたから良かったけど。もうあの男の顔は、二度と見たくない。あいつは人を傷つけ、殺そうとした挙句、仮に死んでいたら全てを私に押し付けるつもりでいたのだから」
 許せない。そう呟いて、検視官バーニーはまたビール缶に口を付ける。まずい酢豚を黙々と消費しながら、コールドウェルは物憂いげな冷たい目で検視官バーニーを見つめていた。





『黄金時代を終え、生活水準が急激に低下し、一時は十九世紀と同等にまで落ちぶれた人類。そんな私たちの前に救世主として現れたのが、ペルモンド・バルロッツィ高位技師官僚でした。彼が発見した新種のエネルギー物質アバロセレンは、消耗品であったガスや石油とは全く異なる、尽きることのないエネルギー。アバロセレンの正体は、発見されてから半世紀以上も経過した今もな判明しておらず、研究が続けられていますが、その謎多きアバロセレンが我々の生活を救ったことは否定のしようがない事実でしょう』
 そうして、翌朝を迎えたアルストグラン連邦共和国。快晴となった今朝の気温は、昨日の同時間よりも暑い。そして報道機関各局は朝から特番を組み、テレビ番組はどこもかしこも凶悪過ぎた頭脳と功績を持ったひとりの天才の死を、挙って悼んでいる。
『しかしアバロセレンが我々にもたらしたのは、恩恵だけでしょうか? いいえ、違います。むしろアバロセレンは我々に悲劇をもたらしました。忘れてはなりません。北米合衆国で起きた大事故、アルフテニアランドの悲劇を。SODと呼ばれる現象、通称アルテミスは今もなおアルフテニアランド自治領の上に……』
そして見当外れな情報を垂れ流し、死を悼みながらも、彼の軌跡を挙って痛烈に非難していた。
『リリー・フォスター支局長は英断を下したといえるでしょう。あの男に、墓など必要ありません。死刑囚と同じ扱いで良いのです』
『テトロドトキシンで自殺だなんて、許せるはずがありません。彼は電気椅子で死ぬべき人間でした。彼は自らの犯した大きな罪から逃げたのです! 国民の皆様、今こそ立ち上がる時です。彼が遺した負の遺産、アバロセレンなどこの国に必要ありません! 今こそ政府に、そしてアバロセレン研究所に突き付けるのです。アバロセレンはこの国にいらない、と!』
 そんな報道機関の有様を鼻で笑いつつ、ニールはいつものように台所に立ち、家族三人分の朝食を作るためにフライパンと向き合っている。卵とパンがこんがりと焼けていく匂いに満たされながら、彼は傍らに置いてあったタブレット端末に手を伸ばした。
「…………」
 昔懐かしいポップアップ型の電気トースター二機に食パンのスライスを合計四枚ぶち込み、コンロに並べたフライパン二つで目玉焼きを四つ焼く。両者が焼きあがる待ち時間に、ニールは毎朝の日課である電子メールボックスの確認を行っていたのだ。
 もっぱら仕事用として使っている七インチのタブレット端末。それの電源をニールは点けると、電子メールを確認する。メールボックスの一番上には新着メールが届いていた。
 差出人はアレクサンドラ・コールドウェルの、連邦捜査局内で使われているメールアカウントから。件名は「無題」とある。そして本文は、こんなもの。
「……アレックスから朝にメールが来るとは。珍しいな……」
 エアーコンプレッサーの件、逮捕おめでとう。皮剥ぎ殺人のホシが逮捕されて、アタシも嬉しいよ。
 それで。今日はASIのほうでやらなきゃならねぇ仕事があるんで、支局の方に顔を出せそうにない。つーわけで、何かあったらメールのほうに連絡を入れといてくれ。それじゃ。
 P.S. バーニー・ヴィンソンに良いカウンセラーを紹介してやってくれ。
「……バーニーに、カウンセラー……?」
 アレクサンドラ・コールドウェルが支局に来ないのなら、今日は平穏そうだ。……とニールは安堵する一方、気がかりな追伸に眉を顰める。するとニールの後ろから一人娘スカイの元気な声が聞こえてきた。
「ねぇ、パパ! バルロッツィ高位技師官僚が自殺したって、本当なの?! それにシドニー支局って、パパの職場だよね。もしかしてパパ、ペルモンド・バルロッツィを見たりした?」
「ああ、見たぞ。彼はたしかに、死んでいた。検視官も自殺だと断言してたよ」
 垂れ流される報道を見たのか、スカイは興奮した声でそう訊いてきた。なのでニールはひとり娘の質問に、半分正直に半分嘘で答える。それから、ニールはこうも付け加えた。「そして彼のご遺体に近付いたから、パパは最近クサかったんだ」
「なんで、それでパパがくさくなるの?」
「バルロッツィ高位技師官僚の内臓の大半は壊死してたんだ。体内に残ったままだった銃弾の破片が原因か、抱え込んでいたストレスが原因か、それともアバロセレンに長いこと接していたからなのかは、まだ分かっていないがな」
「なんだか、悲しいね。教科書に載ってるぐらいすごい人なのに」
「そうだな。少し、哀しいかもな。パパの命の恩人でもある人だし……」
「えっ。パパの命の恩人って、ペルモンド・バルロッツィなの? どうして?」
「パパが、ちょうどスカイぐらいの年だった頃の話だよ。パパが真昼の大通りを歩いていたとき、急に銃とか持ったヤバイ連中がパパの目の前に現れてな。理由は分からないが、銃を突き付けられて脅されて、パパはやつらに誘拐されたんだ。で、そしたら偶然、彼が現れて、パパを助けてくれたんだ。まさにコミックスに出てくるようなダークヒーローって感じの背中だったよ。彼は誰よりも格好良かった、最高に……」
「ますます分からないなぁ。ペルモンド・バルロッツィ高位技師官僚って、どんな人だったんだろ」
「どうしたんだ、急に。そんなに彼を知りたいのか?」
「テレビの人たちは彼をまるで悪者扱いしてるけど、学校の授業では彼を建国の父として敬うようにって教えられたし、それにパパは命の恩人で最高に格好良かったって言うし。もうワケ分かんないよ」
「んー、そうだなぁ……――パパは彼を、良い人だと思ってるよ。彼はぶっきらぼうで口は悪いし乱暴だったが、通りすがりの哀れな高校生を助けてくれるような人だったんだから。それに彼は悪い連中を青あざだらけにしたし、一人の脚は撃ったたが、殺しはしなかった。何も知らない世間は散々に言うが、パパは知ってる。彼は悪い人じゃないよ。でも完璧な善人でもないだろうね」
「……高位技師官僚は、本当に焼かれて灰にされちゃったの?」
「本当に、火葬された」
「…………」
「彼の火葬についてのあれこれは、アレックスおばさんが仕切ってたよ。特殊な事例だから、ってな。そうだ。今度おばさんに会った時に、話を聞いてみたらどうだ? 仕事柄、彼女のほうがバルロッツィ高位技師官僚に詳しいだろうし、それに……――」
 と、そのときだった。ニールは背中で、不穏な気配を察した。
「アレックスおばさんが、なんですって?」
 嫉妬深き妻シンシアが、起きてきたのだ。寝癖の付いた髪を気にすることもない彼女は、寝起きの気だるそうな目でニールを睨んでいる。すると、そんなニールの前で、電機トースターに入れられたパンがポンッと軽快に飛び跳ねてみせた。





 そしてニールが不機嫌な妻シンシアに怯えながら、黒こげの目玉焼きをちびちびと啄んでいた頃。三白眼の目の下に黒々とした隈を作ったコールドウェルは、気だるそうな顔でWACEの本部(仮)に顔を出していた。
「おはよーごぜーます。そんで、朝から徴集が掛かるくらいなんだから、よっぽどの用件なんだろうねぇ?」
 昨晩は検視官バーニーの家に泊まった彼女は、今朝までずっと検視官バーニーに付き合っていた。ジョン・ドーを心配する彼の声を聞き、リーランドというロクでもない弟への恨み節を聞き、仕事の愚痴を聞き、独身男の寂しい胸の内も聞いた。ひたすらコールドウェルは聞き役に徹したのだ。
 いつものアレクサンドラ・コールドウェルなら、きっと彼の話に十五分と耐えられずに、逆上して説教まがいの怒鳴り声を上げていたことだろう。男ならシャキっとしろ、どうもこうも結局は自分の選んだ選択なんだろ、責任感を持てよ、うだうだしてんじゃねぇ、と。しかし、昨晩の彼女は違った。
「あぁ、姐御。珍しいっすね。徴集が掛かってからまだ十五分も経ってないのに、こんな早くに来るなんて。昨日はムアバンクに帰ってなかったんですか?」
「そうなんだよ、ラドウィグ。昨日はずっとシドニーに居たんだ。とある検視官に付き合ってやってたのさ。で彼の家に泊まってたってわけ」
「へぇ。男性の家に……?」
「噂のジョン・ドーを数日ほど世話してやってた男だよ。今度はそいつの世話を、アタシがしてただけさ。酒飲みの愚痴を聞いて、慰めの言葉をかけて……もうクッタクタだ。眠くて仕方がねぇ」
「あぁ、なるほど」
「まったく、そのジョン・ドーってやつの顔を見てみたいね。あの検視官バーニーの無表情を崩してみせた青年ってのは、どんなジゴロなんだろうか。ぜひとも拝んでみたいもんだ」
 昨日の彼女は、検視官バーニーの話を聞く傍らで、ある死んだ男を思い浮かべ続けていた。その男が彼女を踏みとどまらせ、忍耐強くしたのだ。男の名前はカルロ・サントス。馬面の胡散臭い精神科医で、まあ少しは世話になった男だ。
 検視官バーニーの話を聞きながら、コールドウェルはずっとこう考えていた。カルロ・サントスなら、なんて言う? カルロ・サントスなら、なんて言葉を返す? カルロ・サントスなら今、どんな表情を浮かべる? カルロ・サントスなら、どうやって目の前の患者に対処し、なんて助言する? そしてカルロ・サントスなら、どうやって面倒臭い男を一喝して、あしらう? ……そうやって彼女は、昨晩を乗り切ったのだ。無事に検視官バーニーの地雷を踏むことなく、穏便に、無事に全てを終えた。
「それなら、たぶん無理っすよ。アーサーが、そのジョン・ドーを監禁している隔離室への隊員の立ち入りを禁止してます」
「へぇ、あのサー・アーサーが? 意外だね」
 そして面倒臭い出来事は、検視官バーニーの世話で終わりそうにもなかった。
 本部に顔を出したコールドウェルが、一番に顔を合わせたのは、地下一階のエントランスで待機していた猫目のラドウィグ。彼が早速、不穏な言葉を発したのだ。コールドウェルは腕を組み、眉を顰めると、ラドウィグにこう訊ねる。「仕切りたがりなマダム・モーガンならまだしも、滅多なことが起きない限り全てを部下に丸投げするあの男が、自ら首を突っ込んでくるとは。そのジョン・ドーってのは、よっぽどってことかい?」
「さぁ? アイリーンならまだしも、ヒラの隊員どころか見習いでしかないうえ、アーサーに嫌われてるっぽいオレは何も知りませんし、知らされてないですよ。それにオレはジョン・ドーの顔も見てないし、オレに言えることは何もありません」
「……まあ、そうだろうな。予想はしてたよ。質問する相手が悪かったね」
「あっ。そういえばアーサーは、マダムにも隔離室に入るなって言ってましたよ」
 サー・アーサーが、マダム・モーガンに、言った?
 コールドウェルはその言葉に、さらに顔を顰めさせた。するとラドウィグもコールドウェルと同じことを考えていたようで、首を傾げさせる。それから彼は、こう続けた。
「けど、まぁ、マダムは彼の言葉なんて無視するに決まってますよね。……でもアーサーがマダムに何かを忠告するっていう、このシチュエーションって珍しいと思いませんか?」
「ああ、珍しい。となると、そのジョン・ドーってのはアタシらの仕事外にあるものなんだろうね。つまり、アタシらは関知しないほうが良いだろうよ。そいつはアーサーに任せときゃいいさ」
 そう言うとコールドウェルは組んでいた腕を解き、表情の緊張も解く。ゆるい笑顔を浮かべる彼女は、仕事を逃れたいときにいつも言うような、妙に説得力のある言い訳を語り始めた。
「バルロッツィ高位技師官僚は、前に言っていた。彼曰くこの世で一番怒らせちゃぁいけねぇのは、サー・アーサーらしいぜ。あの男はああ見えて、一度火が付いたら止まらない。相手が誰であろうと、地獄の果てまで追い回し続けると。怒りの度合いによっちゃ、相手を破滅にまで追い込まなければ満足しなかったりするそうだ。ガーランド・ミュージカル・コーポレーションの会長サマも、そんなこと言ってたしな」
「アーサーが? たしかに彼は怖いっすけど、でもそんな執念深いタイプには見えないというか……」
「でもそのアーサーは今、おかんむりなわけだ。それもマダム・モーガンに対して、激怒している。だって二人は昨日から、バチバチやりあってるんだろ?」
「えぇ、まあ、そうですけど。……アーサーが、かぁ。うーん……」
「となるとジョン・ドーは、彼女に関係のある、または二人に関係する何かと考えるのが筋だろうが……」
「……?」
「火の粉を浴びて、アタシまで燃えちまうのは御免だね。つーわけで、そのジョン・ドーにアタシは関わらないことにするよ」
 首を突っ込まないに越したことはない、とコールドウェルは不敵な笑みで言う。乗り気でないコールドウェルに、ラドウィグは「姐御らしくない」と毒突いた。どうやら彼は、真相を探るというスリリングな展開を希望していたようだ。
 だがコールドウェルは、スリリングな展開など求めていないし、それは彼女が最も嫌悪する展開だ。安全第一で、何も起きないことこそ至上、平和が一番。だからこそコールドウェルは、わざわざ波風を立てるようなことはしない。それに、ボスと大ボスの喧嘩に挟まれることなど、想像するだけで悪夢だ。
 つまらないと無言で訴えるような、少し不服気な顔をするラドウィグの頬を、コールドウェルはむにっと抓った。イテテ、と情けない声をラドウィグは上げる。と、そのとき丁度“ルーカン”アイリーン・フィールドがエントランスに顔を出した。
「猫目のラドウィグ坊や。ジョン・ドーはアーサーに任せて、アンタは忘れろ。ルーカンも来たことだし、アタシらは通常営業だよ」
 いつも以上の大荷物を携え、階段を上がってきたアイリーンは、肩で息をしている。
「……アレックスちゃん、今日は来たんだねぇ……良かった、今日だけはあなたに来てもらわなきゃ、困ったことに……」
「あー、ルーカンさん。荷物持つよ」
 背中にはピンク色の大きなリュックサックを、両腕には黄緑色の大きなバッグを、肩からは小型のラップトップパソコンの入ったケースをぶら下げるアイリーンは、目の下にコールドウェルよりも黒々とした隈を作っていた。どうやら彼女は、徹夜明けであるらしい。
 そんなアイリーンから、コールドウェルは両腕のバッグを引き受ける。ひとつのバッグは、コールドウェルの体感では二キログラムはあるように思えた。それが、ふたつ……――
「なぁ、ルーカンさんよ。どんだけヤベェ仕事なんだ? 場合によっちゃASIに丸投げしたほうがいいんじゃないのか。あっちのほうが人員も多いし……」
「いいえ、アレックスちゃん。ASIじゃ無理だと、私は思ってる。少数精鋭で動かないと、確実に相手にバレるわ。なんだか、そういう気配を感じるの」
 エントランスの中央に置かれた大きなテーブルの上に、コールドウェルはふたつのバッグを置く。そしてアイリーンも背負っていたリュックサックを、テーブルの上に下ろした。それから肩からぶら下げていたラップトップパソコンも、アイリーンはテーブルの上に置いて、広げた。
 アイリーンは床に膝を付いてその場に座って、テーブルの上に置いたラップトップパソコンの画面と向き合いはじめる。カタカタカタ……と何かをキーボードに打ち込みながら、彼女はコールドウェルに向かってこう言った。
「それに相手が喧嘩を売ってきたのは、間違いなく他でもないこの私たち、特務機関WACE。売られた喧嘩は買って、相手を潰さなきゃ、私たちのメンツが立たない。特務機関WACEの名に懸けて、これはやり遂げなきゃ」
「……なんだって?」
 再びコールドウェルは腕を組み、眉を顰める。ラドウィグの次はアイリーンが、不穏な話題を持ってきたからだ。それもラドウィグの話よりもずっとタチの悪そうな、仕事に直結する危険な香りだ。
 そして何よりもコールドウェルが違和感を覚え、警戒していたのはアイリーンの放つ雰囲気。徹夜で寝不足、それだけじゃない。彼女の何かが確実に、変だったのだ。そしてアイリーンは、話を続ける。
「どこかの誰かが、大規模なSODをこの国で開こうとしているみたい。ハンドルネームは“曙の女王”さん。このスーパーハッカー、アイリーン・フィールドが辿れないほど巧妙に世界各地の中継局を経由して、自分の所在を誤魔化してる。なかなかのテクニシャンだね。まるで正体が割れない。でもこの“曙の女王”さんが、アバロセレンをどうこねくり回したら、SODを作り出せるのかを理解していることは確実。だからまずはアバロセレン技師の線を辿って、犯人を割り出して……」
「なぁ、ルーカン。WACEの矜持だかなんだか知らないけど、アタシら単独じゃ無謀すぎると思わないか? もしその大規模なSODってのがアルストグラン連邦共和国の中で起こるならば、ASIや連邦捜査局、および市警や州警察、さらに陸空軍警察、あらゆる捜査機関に協力を仰ぐべきだ」
「大袈裟だなぁ、アレックスちゃん。大丈夫だよ、私たちだけで」
「アタシはそう思わないから、言ってるんだよ。最低限、ASIには警告をしておくべきだ」
 SOD。というのは、Spacetime Of Distortionの略称。臨界超過状態――と仮に名付けられた状態で、厳密には臨界超過とは異なる――になったアバロセレンが引き起こす、予測不能の現象のことを言う。簡単に言えば、どこかの異星または異世界に繋がるゲートが開いた状態で、そのゲートを“SOD”と呼ぶのだ。
 世界最大の、そして世界初のSODは『アルフテニアランドの悲劇』により引き起こされたもの。今もなお、かの地の上空に在り続けて不気味に輝いている『ローグの手(またはアルテミス)』だ。
「……ミルズには今日会う予定があるし、そのついでにASI長官のサラ・コリンズに報せて――」
「余計なことはしなくていいよ。WACEだけで、どうにかする」
 そしてSODには、タチの悪い難点がある。誰も、あれを消し去る方法を知らないのだ。SODを生み出す過程は少しずつ解明されつつあると言われているが、発生してしまったSODを閉じる方法はまだまだ見つかっていない。目途や糸口すらも、見つかっていないのだ。そのうえ、ペルモンド・バルロッツィという偉大な天才が自ら命を絶った今、解明は絶望的かもしれないとも言われていた。
 彼は、SODを閉じる方法の一端を握っていると言われていたのだ。言われ続けていた。しかしそれを世間にはそれを明かすことなく、死んだ。
「どうしたんだ、ルーカン。何をそんなに意地になってる? いや、ヤケクソって言ったほうが正しいか?」
「いつもみたいに悪者を見つけて、処分すればいいだけよ。簡単な任務。暗殺なんて、いつもやってることで……」
「なぁ、この件は一歩間違えれば大事故に発展しかねないんだぞ。アルフテニアランドの二舞いは、誰もが恐れていることだ。今は亡きトラヴィス・ハイドンが、どれほどその問題に心血を注いでいたと思っているんだ? それにペルモンド・バルロッツィのおかげでアバロセレン技師が減り、それに伴い少しずつアバロセレンが世間から消えつつあるってのに、そんな折にSODなんか開かれっちまったら……――」
「だから、何? 私たちはいつも通り、最善を尽くすわ。それだけのことでしょ?」
 吐き捨てるようにそう言ったアイリーンの目は、まるで屍のようだった。全てに飽き飽きとしていて、何もかもどうにでもなれとでも言いたげな目を彼女はしている。コールドウェルは言葉を失い、呆れ顔で溜息を零すことしか出来なくなっていた。
「それでダメだったら、その時はそのとっ……――」
 そしてアイリーンが、何かを言いかけたときだった。居心地の悪さに耐えかねたラドウィグが動く。
「あ、あの! その曙の女王って、もしかして詩かなんか残してませんか?」
 ラドウィグは“曙の女王”という名前に、心当たりがあったのだ。そしてラドウィグは、もしその心当たりが当たったときには面倒なことになるだろうと知っていた。だからこそ、心当たりが外れることを願っていたのだ。
 詩さえなければ、彼女ではない。彼女でなければ、彼女でなければまだ……
「あぁ、詩ね。あったよ。よく分かったね、ラドウィグくん。これ。変な文章よねー」
 するとアイリーンはラップトップパソコンから目を移し、黄緑色のバッグに手を伸ばす。そして彼女はバッグの中をガサゴソと漁り、ひとつの書類を探しあてた。それを彼女は、苦笑うラドウィグに突き付けた。
「私には解読不可能。サッパリだよ。だから古い時代の暗号解読を専攻してたアーサーに、この詩の解読を頼みたいんだけど、彼は今寝てるし。『うるさい、黙れ、死ね』とか『その首をへし折るぞ』とかなんとか、とにかくひどい寝言を呟きながら寝てるのよ。だから起こしちゃ悪いかな、って思ってさ。下手に叩き起こして、彼に不機嫌になられても嫌だし。それでラドウィグくん。あなたはこの詩の意味を理解できるの?」

 ディースラグの封印が解かれたとき。
 私はヴィーナスと共に、再びこの地へ舞い戻る。
 二羽の烏の鳴き声で、水は溢れ、風は荒び、
 火炎を纏いし死の竜巻が、神の降りた地を汚すことだろう。
 民も王もそこには無くなり、ただ獣どもが、白を待つのみになる――

「ええ。オレには、分かります。それに断言できます。アーサーに解読は無理です。だってこれは、オレの故郷に伝わる叙事詩の一文を、英語に直したものですもの。原文と背後の歴史を知らない限り、地球の人にこの詩は理解できませんよ」
 それは、特殊な経歴を持つラドウィグにだけ分かる詩だった。というよりも、ラドウィグに向けられた詩のようにすら、彼には思えていた。
「……こっちの世界に来てまで、ラゴン・ラ・ゲルテに振り回されるだなんて。イヤな予感しかしないなぁ……」
 その昔。ラドウィグという名前になる前の彼が、憧れた父親や、父の同僚たちの背を追って、一流の剣士になるべく木製の剣を振り回していた頃。父の同僚のひとりに、他の者たちとは一線を画すような雰囲気を纏った、才色兼備の女性が居たのだ。その女性は片田舎で薬師をしていた男の弟子で、職場ではいうなれば衛生兵のような立ち位置にいた。そして彼女は、幼いラドウィグに読み書きを教えてくれた人物でもあった。
 そんな彼女の正体が、片田舎の山奥から逃げてきたとある王家の現当主で、偉大な女王の血を引く稀代の魔術師であったことをラドウィグが知ったとき。父と肩を並べるほどに成長した彼は十五歳になっていた。そしてその情報を彼が知った直後、彼の故郷は跡形もなく滅亡した。その女王の手によって。
 文字通り、ラドウィグの故郷は滅亡したのだ。惑星ごと爆発したのか、はたまた閉じた重力により世界ごと潰されたのか、詳しいことは分からないが、彼の故郷は存在ごと消滅した。しかしラドウィグだけは、寸でのところで逃げ延びたのだ。アルストグラン連邦共和国の人間がSODと呼ぶ、あの穴の中に飛び込んだが故に。そしてとあるアバロセレン技師に拾われ、そこの養子となったのだ。
 ……だが、まあ、彼の過去など然程重要でもない。
「さっさと言え、ラドウィグ。曙の女王ってのは、何だ。誰のことを言っているんだ」
 何から話せばいいのか。考えあぐねるラドウィグが唸り声だけを上げていると、コールドウェルがきつい口調でそう切り込んできた。そこでラドウィグは慎重に言葉を選びながら、ゆっくりと話し始める。
「オレの、もう存在しない故郷に居た人です。何よりも畏れられていた、サラネム山の女王。彼女の名前は、ユイン・シャグリィアイグ・オブリルトレ。絹糸みたいに白い髪に、蒼白い肌、それと赤い目をした、アルビノの女性で。オレの故郷では“アル・シャ”と呼ばれていた、魔法みたいなものの一番の使い手でした。だけど彼女は心が壊れていて、それで、えっと……でも、そんなはずが……」
 すると、コールドウェルの表情が変わった。ナイフの切っ先のように鋭い空気を放つ彼女は、ラドウィグにロックオンしている。どうやらコールドウェルには、ラドウィグの話に思うところがあるらしい。すると彼女は言う。「待て。その妄想話、アタシには聞き覚えがあるぞ」
「ひどいですね、姐御。妄想なんかじゃなく、オレの列記とした過去の思い出で――」
「その故郷の名前は、シアルン神国とかいうふざけた名前の場所かい? そしてユインって名前の女の叔父は、メズンとかいう薬師だろ?」
 コールドウェルの言葉に、ラドウィグは大きな猫目をより一層見開き、目を丸くさせていた。何故ならば、彼女の言葉が悉く当たっていたからだ。
「姐御、どうしてそれを……」
 ラドウィグが驚くのと同時に、コールドウェルも内心驚いていた。嘘だろ、と。
 これは彼女が特務機関WACEなどという珍妙な場所に放り込まれるよりも前のこと、高校生だった頃の話だ。得体の知れない病を患った少女が、同じ学校に居たのだ。そしてコールドウェルはひょんなことから偶然、彼女と仲良くなったのだ。そして病を患っていた少女の、双子の片割れとも、彼女は親しくなった。
 そしてある時、病を患っている少女が錯乱を起こした。その時、うわごとのように呟いていた言葉と物語が、今コールドウェルが口にしたもの。あの少女が生み出した、架空の御伽噺だ。
 たしかあれは、何もかも全てに捨てられ、裏切られた悲劇の女王が、狂気で世界を滅ぼす物語だった。
「ルーカン、分かったよ。その曙の女王とやらが」
 あの双子の姉妹の名前は、ユンとユニ。
 やがて彼女たちの正体が、アバロセレンから生み出された史上初の生命だと彼女が知ったとき。コールドウェルの前に、サー・アーサーが現れた。そうして三人の少女があの日、消息を絶ったのだ。
 そして架空の御伽噺を紡いでいた少女の名前は、ユン。ユニの遺体は一〇年ほど前に発見されているが、ユンのほうは未だ消息不明。つまり彼女は、どこかで生きている可能性があったのだ。
「最初のホムンクルス、双子ちゃんだよ。それも長らく行方知れずになってる、ユンのほうだ。……となりゃ、たしかにアタシらだけで穏便に済ませたほうが良いかもしれねぇ。それと薬品庫のドクターに伝えといてくれ。久方ぶりの出番だとね」
 にやりと笑うコールドウェル。だが彼女はその言葉とは裏腹に、特務機関WACEだけでどうこうしようとは考えていなかった。この件はASIに協力を仰ぐべきであり、それどころかASIに任せて、自分たちはバックアップに回った方が良いと考えていたのだ。
 しかし……突然吹いた竜巻に、今この場に居る三人は混乱していた。宣戦布告のような情報をアイリーンが掴んだというだけで、今はまだ何も詳細が分かっていないのだ。SODを開くつもり“なのかもしれない”でしかなく、その曙の女王とやらもユン“なのかもしれない”、という段階でしかない。
 先の展開はまだ読めず、しかし胸騒ぎだけがしている状況。いつも物事の始まりはこんなものだが、それにしては胸騒ぎがいつもよりもしている。アイリーンが暗い顔をする横で、再びラドウィグがそわそわとし始めた。「……あの、言い忘れたことがありまして」
「なんだい、ラドウィグ。さっさと言いな」
「SODのこと、なんですけど。まだ理論上って段階で技術は確立されてはいないんですが、実は閉じる方法があるんです」
 再び、コールドウェルのきつい眼光がラドウィグに注がれた。今度はアイリーンの視線も、ラドウィグに向く。異様な注目に、ラドウィグは背筋をぶるりと震わせると、詳細を話した。
「SODに関して、バルロッツィ高位技師官僚が遺した論文がひとつあるんです。どうやら特務機関WACEもASIも、その論文の存在を知っていないみたいなんですけど……――とにかくそれが、アルフレッド工学研究所に保管されているんです。研究所の職員だけが閲覧を許されている論文で、オレもそれを読んだことがあるんですけど。そこに、彼が組み立てた理論が書かれていました。で、ふたりの研究員が実際にSODを開いて、閉じることに成功しています。オレもその場に立ち会い、この目で見ましたし、SODから飛び出してきた異世界の化け物を、先輩に代って処理させられましたもの」
「ラドウィグ、教えろ。その閉じるのに成功した研究員ってのは、誰だ」
「オスカル・ペドロサ技師と、レオンハルト・エルスター技師の二人です。イザベル・クランツ技師官僚も、協力してたかなぁ……」
「――……レオンハルト・エルスターだって?!」
「もしかして、姐御。彼を、知って……――」
「レオンハルトってのは、あのカルロ・サントスにくっついてたガキか!? あン野郎、ペルモンド・バルロッツィの研究所に入って、そのうえアバロセレン技師になってたのかい? ……ハハハッ、笑えるねぇ!! ギャハハッ!」


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