コール・オブ・クルセイド

A friend in need is a friend indeed

「さぁねぇ。何が、なんだか。急に黒い影が見えて、殴られたような気がして、気絶した。それでたしか、女の声が聞こえたんだ。彼は渡さないとか、なんとか。そんなことを言っていたような……」
 ニールが黒い影に襲われてから時間が過ぎ、時刻は正午過ぎになっていた。幸いにもニールは軽い脳震盪で済み、一時は焼失した意識もすぐに回復。コールドウェルのお墨付きである彼の石頭は、そう簡単には砕けなかったのだ。
 しかし脳震盪の症状も見えなくなり、ニールは落ち着いているものの。フォスター支局長からは、念のため医者に診てもらいなさいとの忠告を受けた。そして医者とは死人の医者、検視官バーニーのことである。
「んーと……拳銃の台尻で軽く殴られた痕みたいね。あくまで、軽く。殺意は無さそうな傷ね。骨折とかはなさそう。青あざが出来てるぐらいで、軽いもの。……あなたって幸運ね、クーパー特別捜査官。普通、台尻で殴られたら人は死んでるわ。相手が手加減してくれたことを喜ぶべきね。ふむ……」
「それなら良かったよ。なら俺は仕事に戻ってもいいよな、バーニー」
「仕事に戻っても構わないけれども。でも走り回るとか、そういった運動なんかは部下に任せて、あなたは当分控えなさいよ。それと、今日はこれを使いなさい。首を冷やしておきなさいよ」
 そして検視官バーニーが手渡してきたのは、クラッシュアイスの入った氷嚢。見覚えのある氷嚢に、ニールは表情を曇らせる。そんなニールの肩を、検視官バーニーは平手でペチッと軽く叩くのだった。
「ええ、そうよ、クーパー特別捜査官。これはたしかに、死人の腐敗を遅らせるために使う氷嚢。だけど、これしかないのよ。我慢して」
「まるで、死人になった気分だ」
「なんなら私が、あなたを解剖してあげましょうか? その前に、アレックスちゃんをここに呼んで、あなたをご遺体にしてもらわなくちゃね」
「……ご親切、痛み入るよ」
 クラッシュアイスの入った氷嚢を検視官バーニーから受け取ると、ニールはそれを自分の首の後ろに当てる。ジンジンと痛む患部に、氷の冷たさはよく沁みた。
 しかし。ニールは自分がどうして殴られたのか、そして自分は何に殴られたのかを把握していなかった。その場に立ち会っていた検視官助手ダヴェンポートも、そうだった。
「それで、クーパー特別捜査官。あなたもダヴェンポートも、黒い影がどうのこうのって言ってたんだけど、解剖室の監視カメラ映像には何も映っていなかったのよ。突然倒れるあなたと悲鳴を上げるダヴェンポート以外は、何も。でも、あなたは確実に何かに殴られている。……本当に、ここで何が起こったんだか」
「ポルターガイストとか?」
「やめてよね。私は死者に康寧を与える仕事をしているつもりよ。恨まれることなんてしてないし、そう思いたいわ」
 真顔の検視官バーニーは、声だけは嫌がるようにそう言う。と、ニールは自分が発した「ポルターガイスト」というドイツ語の言葉から、ふと別のドイツ語の言葉を思い出した。ドッペルゲンガーだ。
「あっ、バーニー。そういえば俺は何かに頭を殴られる前に、ダヴェンポートから話を聞いてたんだ。ジョン・ドーってのがペルモンド・バルロッツィ高位技師官僚のドッペルゲンガーなんじゃないのか、って話でね。ジョン・ドーのDNAが、ペルモンド・バルロッツィ高位技師官僚と酷似していたとか、たしかダヴェンポートは言ってたな。同一人物と思えるほどそっくりだと」
 やっぱり、そうだったのね。……検視官バーニーは、そう呟く。検視官バーニーにとっては、その事実は想定の範囲内であったようだ。
 だが話には続きがある。ニールが思い出し、そして彼に伝えなければいけないと感じた話は、ここから先の部分だ。
「それでジョン・ドーのDNAってのが、別件で回収したサンプルに付いてた血液とも一致したみたいなんだよ。その別件ってのはアバロセレン裏取引きの斡旋に関わっていたとされるギャングたちを狙って、今も繰り返されている連続殺人事件なんだが。その連続殺人事件の捜査の中で回収された、凶器と思われるナイフに付いていた……――」
「つまり、こういうこと? ジョン・ドーは連続殺人事件の犯人で、私は連続殺人犯を匿っていたと」
「彼は被疑者かもしれない、被害者のひとりかもしれない。重要参考人ってこと以外は、今は何も分からないんだ。――……そうだ、それで俺は、彼を支局に呼び出して事情聴取を行わなければいけないし、アレックスにも聞かなければならないことがある、って言ったんだ。そしたら影が現れて、気を失った。そう、あのタイミングだ」
 無表情の検視官バーニーは、口を噤んで黙り込む。そしてニールは自分が口にした言葉に驚いていた。続けて彼は、こう言う。
「そうだ、そうだ。アレクサンドラ・コールドウェルに連絡だ! ジョン・ドーの居場所を探らなければ……――」




 その頃。シドニー市内、郊外の某所。大昔には先住民族の住居があったとされる場所。
「――……んあ? ニール? 今取り込んでるから、またあとで」
 大陸が空に浮いてから、各地で着々と進められる再開発にも見捨てられたこの地は、大都会シドニーに近いながらも、捨てられた田舎のような雰囲気を醸し出している。朽ちかけた家々が並び、崩れたレンガの壁が並ぶ半面、住民の姿が見えないこの光景は、ゴーストタウンという言葉が相応しいだろう。
 そんな町に、コールドウェルは居た。黒スーツの上からASIの防弾ベストを着て、ASIのヘルメットを被る彼女は、二丁の九ミリ拳銃を腰ベルトの左右に着けたガンホルダーにそれぞれ入れている。そして背中には、ある男の遺品から勝手に拝借した二本のサーベルを差し、右足首にはナイフを忍ばせていた。更に肩からは、とある軍需企業のお偉いさんから無償で提供してもらった最新型のアサルトライフルをぶら下げている。
 見るからに戦闘態勢の、重装備のコールドウェルは、同じく重装備のASI局員を数名引き連れ、危険な場所に乗り込んでいた。そこはアバロセレン裏取引きの最前線、ASIによる押収の場面。アバロセレン工学研究所間で不正に行われる密売買、それの仲買人またはカモフラージュ役を務める欧州移民系ギャングたちと、交戦している真っ最中なのである。
『おいアレックス、おめーの事情なんか知らねぇよ! そんなことよりも、ジョン・ドーのだな!』
 指示を求めるASI戦闘部隊の者たちの声が聞こえる。ギャング側の、混乱した少年たちの悲鳴が聞こえる。銃声が聞こえる。傍迷惑なニールの声が、携帯電話から聞こえている。
「ジョン・ドー? 尚更あとにしてくれねぇか? アタシはあれに関知してないし、今は本当にそれどころじゃねぇんだよ」
 崩れたレンガの壁に隠れながら、コールドウェルは身振り手振りでASI局員たちも隠れるよう指示を出す。ニールを適当にあしらいながら、彼女はあれこれと考えを巡らせていた。
 情報によると、売りに出されたのは液化アバロセレン五リットルが詰められたカプセル、十五本。元は合法であり唯一の正規のルートから入手されたものだが、シドニー市内某研究所から他所に破格の安さで横流しされたようだ。それをここレッドファーンを縄張りとするギャングたちが買い、金を出した顧客へと倍額で売り払う。その、まさに顧客へと売り払わんとした場面に突っ込んだところが、今なのだ。
 敵のギャングは、単体では大したことはないだろう。ろくに銃をぶっ放したこともない、そうであれば実戦経験なんて今回が初めてであろうガキどもばかりだ。銃だって闇雲に打ちまくるばかりで、連中は狙いを澄ますということを知らないし、正しい構え方というものも知らない。いうなれば、烏合の衆なのだ。だが、いくら実力はなくとも数は相手の方が圧倒的に上。数が多いというのは、それだけで有利である。
 こちらは七名しかいない。対する相手はその倍以上、十五人は確実に居る。それもカプセルを積んだ車の傍を取り囲むように五人が居て、車内にも四人。外で警戒に当たっている他の連中を掃除したとしても、車が逃げられてしまっては……――
『どうせ、お前の忙しいって言葉は嘘なんだろ!! とにかくジョン・ドーを』
「とにかく今は忙しいんだよ! ……ブラボー、チャーリー、エコーは援護を頼む!」
『ブラボー、チャーリーに、エコー? おいアレックス。お前、どこの戦場に居るんだ? 今、アルストグランに居るのか? 北米合衆国に居るとか、馬鹿なことは言わないでくれよ?』
「うっせぇ、クソが! おいエコー、この機銃を使いな! その銃、中身はおねんね銃と同じだからよ!」
 携帯電話に向かってそう怒鳴り散らすコールドウェルは、その言葉を最後に携帯電話の電源を落とし、ニールから掛かってきた通話を一方的に切る。それからコールドウェルは肩から下げていたアサルトライフルを、“エコー”と呼んだ隊員に投げるように渡した。
 そして彼女は背中から二本のサーベルを鞘から抜き、両手に握りしめる。前の持ち主が両刃に加工し、先日コールドウェルが敢えて切れ味が悪くなるように研いだ刃は、鈍色に輝いていた。
「アルファはアタシに付いてきな! デルタは裏を回ってレムナントと合流し、カプセルの回収を急げ! 三、カウントしたら開始だ」
 コールドウェルの言葉で各々が武器を構え、目には闘志が輝く。悲鳴が聞こえる中、彼らは冷静だった。
「イエス、サー!!」
「サーじゃない、マァムと呼びな!」
 彼女の横には、五名の局員が待機。切り込み隊長のアルファを筆頭に、ブラボー、チャーリー、デルタ、エコーの援護と工作のプロフェッショナルたちが揃っている。各人の装備に問題は無い。大丈夫、だろう。
 そしてコールドウェルは少しだけレンガの壁から顔を出し、ギャングたちの背後に回り込んでいるはずのジュディス・ミルズを探した。そして恐怖のあまり機銃を乱射する少年たちの後ろの壁に潜むジュディス・ミルズを、コールドウェルは見つける。ジュディス・ミルズは、アイコンタクトで「準備万端だ」と伝えてきた。
「……んじゃ、行くぜお前らァッ! スリー、トゥー、ワン、ゴー!!」
 弾切れだ。ギャングたちからそんな声が聞こえ始めたタイミングで、コールドウェルは号令を掛ける。両刃のサーベル二本を水平に掲げ、烏合の衆へと真っ直ぐに突っ込んでいった。
 迷いなく、一直線に。そのはずだった。
「久しぶりだね、アレックス。騙された気分だよ。あなたのこと、死んだものだと思っていたから」
 聞こえてきた覚えのある女の声に、コールドウェルは踵で地面を踏みしめブレーキを掛ける。じめっとした地面にサーベルの刃を突き立て、彼女は飛び出した体を停止させた。
「せっかくだし。このアバロセレンを盗むつもりだったけど、今回はあなたに譲ってあげるわ」
 白い霧がコールドウェルの前にだけ現れ、やがてその霧は人の姿を成していく。すらっと背の高い、白髪の若い女性の姿に変わっていった。
 悪夢の顕現。そんな言葉が、ふとコールドウェルの脳裏に思い浮かぶ。白い霧から現れ出たその女は、まさにコールドウェルの悪夢だった。
 曙の女王を自称する彼女。ヴェスパと、ラドウィグが呼んでいた彼女。若き日のコールドウェルが友人のように接していた、彼女。白い髪に白い肌、赤い目をした、誰もが羨む美少女で、同時に誰よりも不幸で、最高に狂っていた彼女。
「……ユン、なのか?」
 再会を喜ぶことはない。コールドウェルも、白い霧から現れた彼女“ユン”も。
 コールドウェルは険しい表情で、ユンを見つめていた。コールドウェルの三白眼にぎらつく緑色の瞳は、単独でやってきたハイエナの首を狙う百獣の王さながら。
「そうだよ、アレックス。だけど、違う」
「なら、曙の女王とでも呼べばいいのか? それとも、ユインなんたらかんたら三十三世?」
 そして鮮血のように赤い目でコールドウェルを見下ろすユンは、薄ら寒い笑みを口元に浮かべている。近い将来に起こる出来事を予測できずにいるライオンを嘲るハイエナのように、ユンは笑っていた。「その様子じゃ、ルドウィルもあなたたちの仲間になったみたいだね。曙の女王の名前を知っているのは、彼だけだから」
「ルドヴィグ? 誰だ、そいつは」
「あなたは知っているはずだよ、彼を。生まれながらの覚醒者、ルドウィル・シャネム。ルートヴィッヒ・ブルーメ、ラドウィグ、ユーウェイン……――そんな風に、名前をいくつも持っている彼だよ。素直で可愛い、猫目くん」
 なにをやってるんですか、エージェント・コールドウェル! そんな風にコールドウェルを呼ぶ声が、遠くから聞こえている。今のコールドウェルは、奇妙な感覚に陥っていた。
「まぁ、ルドウィルのことはどうでもいい。彼が元気にやっているなら、それで十分だから」
「ユン、アンタの目的は何だい」
「私は、もうユンじゃないの。今の名前は、ダイアナ」
「ダイアナだって? また、どうして」
 ユンの声は、ハッキリと明瞭な輪郭をもって聞こえていた。なのに、他の物音はまるでハッキリと聞こえやしない。まるで水の中に潜ったときのように、他の全ての音は籠って聞こえるのだ。
「黎明が、私を呼ぶのよ」
「……黎明?」
「私の心の奥深くを流れる、まばゆく輝く蒼白い光の川のほとりで、鳥のような姿をした黎明が私に静かにさえずる。ダイアナと名乗れと。だから私は、ダイアナを名乗る。やがて生まれるであろうニンフたちを率い、世界をあるべき姿に戻す女神となるために。……可哀想に。あなたには、あの声たちが聞こえないのね」
「なにを言ってるんだか……――神だって? アンタが? 笑えるねぇ、まったく」
 急激なストレスによって引き起こされた解離症状により、表れた離人感? いや、違う。そんなものじゃない。胸がざわつくから、違う。明らかに異質で、それでいて理解を超えた何かが今ここで起こっている。
「勝手に生まれ出た生命、下等な人間には分からないでしょう。神の手により作られた、究極の被造物である私の考えることなんて」
「……あぁン?」
「どうして、アルフテニアランド自治国の上空に開いたSODを、学会が定めた正式名称『Rogue hand悪しき者の手』でなく、多くのひとは『アルテミス』と呼ぶのか。考えたことなんて、一度もないでしょうね。あなたも、誰もかれも。でもきっと、アーサーは知っている。そうよね?」
 アーサーは知っている。そう言われたところで、アーサーではないコールドウェルは、何を言われているのかがさっぱり分からなかった。
 そして、次第に水の中にいるような耳の感覚が消えて行く。周囲で聞こえる悲鳴が、鮮明に聞こえるようになった。代わりに、ユンの声が遠のいていく。
「アルテミスの弓矢は、山野を回り獣を狩るだけじゃない。見てはいけないものを見た人間も、狩るのよ」
 最後に聞こえた彼女の声は、ギリシャ神話の女神の逸話をなぞる言葉。そして言葉の後に、再び白い霧が立ち込め、ユンの姿は消えて行く。束の間どこかの異空間に居たような気分だったコールドウェルも、現実に戻ってきた。
 その頃には、ギャングたちの悲鳴は収まっていた。アバロセレンを積み込んでいた車には、ジュディス・ミルズとデルタの二人が乗り込んでいる。そして地面にはひどい顔で眠りこける少年たちが突っ伏していて、レンガの壁からは人間を瞬時に眠らせることに特化した麻酔銃を構えるブラボー、チャーリー、エコーの三人が顔を出している。それからコールドウェルのすぐ後ろには、麻酔銃をガンホルダーに戻すアルファが不思議そうな顔をして立っていた。
「エージェント・コールドウェル。今の女は、誰ですか」
 アルファのほうへと体を向けるコールドウェルは「アバロセレン専門の盗人だ」とだけ言葉を返す。アルファは腕を組んで顔を顰め、コールドウェルに対して無言で疑問を呈した。それだけじゃないだろう、と。
 しかしコールドウェルは、それ以上は何も言わない。すると車に乗り込んでいたジュディス・ミルズが、クラクションを二回鳴らす。それからジュディス・ミルズは運転席のカーウィンドウを開け、運転席からコールドウェルに怒鳴った。
「サンドラ、何やってたのよ! いきなり立ち止まったと思ったらボケーっと突っ立って、独り言呟いて……――状況分かってるの? あんたに、おねんね銃が当たってたかもしれないのよ?! うちの局員たちの銃の腕前に感謝しなさい!!」
「あぁ、すまない。ジュディ。知り合いが見えたもんで……」
「知り合い? あなた、ひとりで暢気に幻覚でも見てたの?」
 幻覚。ジュディス・ミルズが発した何気ない一言に、コールドウェルは驚く。
「ちょっと待て、ジュディ。アンタには、見えなかったのか? 白い髪の女が」
「何も? そんなのは見えなかったわよ。私の目には、馬鹿ヅラ晒してボーっとしてるアレクサンドラ・コールドウェルと、戸惑い顔のアルファしか見えなかったわ」
 ジュディス・ミルズのその言葉に、続いてコールドウェルの後ろに立っていたアルファも、さらに顔を顰めさせて表情を険しくさせた。
「確認だが……アルファは、見たんだよな。それでブラボー、チャーリー、デルタ、エコーはどうだ?」
 混乱してきたコールドウェルは、現場に居た者に確認を取る。アルファは「見た」と頷き、ブラボーとチャーリー、デルタ、エコーは「そんな人影は見ていない」と回答した。ジュディス・ミルズも、見ていないと言う。
「アルファとアタシは、白い髪の女を見た。だがそれ以外は、誰も彼女を見ていない。……ハッ、こりゃまるで魔法みたいだね。猫目くんの言葉を借りるなら、アル・シャとやらか……」
 結局、使わなかったサーベルをコールドウェルは鞘に戻す。それから彼女はどうしようもない状況を鼻で笑い、こんなことを口にする。
「ジュディ。アンタは見ていないだろうが、今現れたのが“曙の女王”だ。昔の名前は、ユン・エルトル。長らく失踪扱いになっている、バルロッツィ高位技師官僚およびサー・アーサーの孫娘だよ」
「孫娘、ですって? 高位技師官僚と、サー・アーサーの? ……待って、家系図ってどうなってるの」
「“曙の女王”の養母は、バルロッツィ高位技師官僚の一人娘であるエリーヌ・バルロッツィ。そして養父は、今日のサー・アーサーである男の息子、レーニン・エルトル。そして曙の女王は彼らの養子で、どちらとも血縁が無い。ユン、彼女はアバロセレンから生み出された命だ。つまり両親なんてものは存在せず、彼女は人間ですらない。特務機関WACEは彼女みたいな存在を、こう呼んでいる。ホムンクルスと」
 誰かが、驚きのあまり麻酔銃を地面に落とした。ジュディス・ミルズも、目を見開いている。
「……曙の女王が今、ここに現れていたの? 本当に……?」





「……ASIと共にアバロセレンを押収しに行ったら、その場で曙の女王と鉢合わせた。それで彼女は、ASIが押収しようとしたアバロセレンを盗むところだったらしいが、ASIおよびあなたに譲ってくれた。しかしあなたは、彼女を捕縛することは出来なかった。何故なら彼女は、アーサーや私のように霧のように現れ、霧のように消えてしまったから……――ところで、エージェント・コールドウェル。その裏取引きに関わっていた少年たちは今、どうしているの」
「クソガキどもは全員、慈悲深きペルモンド・バルロッツィ謹製のおねんね銃で撃たれて、ASIに捕縛されましたよ。奴らは今頃、ASIの拘置所にでも居るんじゃないですかね。そこでASIアバロセレン犯罪対策部の尋問官にこってり絞られているかと。いつも通りの手順なら、そうでしょうね」
 売主と買主の名前を吐かせるんですよ、と腕を組むコールドウェルは言う。そんなコールドウェルの前には、細い足を組んで鉄パイプの椅子に座るマダム・モーガンの姿があった。
「それで、エージェント・コールドウェル。あなたは、どう思う。少年たちは、曙の女王について何か情報を持っているかしら?」
「ガキどもは彼女のことなんて知らなかったと思いますよ、少なくともアタシは」
「それは、どこまで確信を持って言える答えなのかしら」
「一二〇パーセント。曙の女王もアタシやASI同様に、取引の現場に乗り込んできたって感じでしたからね。彼女は裏取引きの現場から、アバロセレンを盗んで入手しているんでしょう。たぶん、今回の一件のようにギャングたちを襲ってね」
「ギャングたちを……――そういえば最近、ギャングたちを狙った連続殺人事件が発生していると聞いたわ。それと、今回の件の関連性は?」
「あぁ、そういえばそんな話も……。明日、連邦捜査局シドニー支局に出向いて、ちと探ってみますわ。もしかしたら、二つの案件を同時に処理できる展開になるかもしれませんね」
「二兎を追う者は一兎をも得ず。それを忘れないで、エージェント・コールドウェル」
「二兎を追う者のみ、二兎を得る可能性があるんですよ。それもまた忘れないでくださいね、マダム」
「……そうね。それも、一理あるか。なら、良い報告があることを待ってるわ」
 外は今頃、夕暮れ時。多くの場所では就業時間を終え、帰路に就く人々が増え始めているだろう。しかし地下にある特務機関WACE本部には、朝だろうが夜だろうが関係はない。いつでもそこは、動いている。機械も人間も、そして死神も。
 たとえ、昼間に汗水を垂らしこれでもかと働いた者であろうとも。この場所は、次の仕事が見つかったのであれば休みは返上しなければいけない。寝る暇があることは、この場所ではとても幸運なことなのだ。
「あぁ、そういえばマダム・モーガン。シドニー支局ってので思い出したんですが、ニール・クーパーって奴が今日、しきりにジョン・ドーのことを……」
 そして今、特務機関WACEの地下二階は、アイリーン・フィールドを中心にてんやわんやの大騒ぎ。曙の女王の正体が、長らく消息不明だったホムンクルス『ユン』だと判明し、やはり彼女が良からぬことを企んでいそうだということが確定したが為に、彼女の痕跡を追う作業が本格的に始まったからだ。
 それに『曙の女王は、SODを開こうとしているのかもしれない』という言葉を聞くなり、アーサーは血相を変え、何が何でも阻止しろと高尚な演説を始めただの。その演説のお陰で、アーサーに不信感しか抱いていなかった猫目のラドウィグが一瞬で心を入れ替えただの。アイリーンは奇声を発しながら、キーボードと格闘しているだの。AIアイ:Lはアイリーンと提携し、彼女の仕事をサポートすることに集中しているだの。チビのアストレアは情報収集の為に、ASIに出向していっただの。厨房番の大男ケイは大騒ぎの隊員たちの為に、簡単な夕食を現在準備中だの……――地下二階は、騒々しいらしい。
 だがコールドウェルとマダム・モーガンの居る地下一階は静かなもので、それは彼女ら二人の声以外は音らしい音が何も聞こえないほどだった。
「ニール・クーパー? ……あぁ、私が頭を殴った彼ね」
「……なんだって?」
 しかし、コールドウェルには聞こえていた音があった。
 それは、少しぐらいはあった信用や信頼というものが、竜巻に吹き飛ばされて崩れていった音。そして少なくとも信用していた、それに数少ない友人として愛していた存在が、身内によって傷付けられたというショックが轟かす落雷の音だ。
 しかしマダム・モーガンの佇まいは、泰然たるもの。後悔や反省、謝罪といった態度は、マダム・モーガンには微塵もなかった。
「ニール・クーパー、彼の件なら知ってるわ。ジョン・ドーは引き渡せないとでも、気の毒な彼に伝えておいて。そんな取り調べとか受けられるような状態じゃないのよ、あの子」
「マダム・モーガン。ちょっと待て。ニールの頭を殴ったのか、アンタ」
「ええ、そう。でも、あれはちょっとした事故よ。手加減はしたし、彼が死ぬことはないわ。軽い脳震盪を起こしたくらいじゃないのかしら? だから大丈夫よ、エージェント・コールド……――」
 マダム・モーガンの言葉を聞き終えるよりも前に、コールドウェルは本能的に動いていた。昼間に購入したばかりの新しいプリペイド携帯をコールドウェルはスーツの裏地ポケットから取り出すと、ニールの携帯電話番号に発信していた。するとすぐに、ニールは応答する。『よお、警戒しすぎて自意識過剰気味なミズ非通知。お前また新品の携帯を踏みつぶしたのか?』
「あぁ、そうだよ。超新品に鞍替えした。それで、アンタに聞きたいことがあってね。ジョン・ドーの件だ。アンタはアタシに、何を効きたかったんだい?」
 コールドウェルの三白眼は、パイプ椅子に座るマダム・モーガンを見下ろしていた。冷たく乾いた、無感情なまなざしで。マダム・モーガンはコールドウェルの企みを理解したのか、泰然自若とした表情を一変させる。マダム・モーガンは口角を下げ、怒りをあらわにした。
 だが、コールドウェルはあくまで毅然とした態度を取る。心が決まった猛獣に、決心が揺らぐ余地などなかった。すると、電話越しのニールは言う。
『検視官バーニーが個人的に、ジョン・ドーから取ったDNAの解析を科学捜査課に依頼してたんだ。それで、そのDNAが別件の事件の凶器に付着していた血液と一致したんだ。更に、ジョン・ドーのDNAはペルモンド・バルロッツィ高位技師官僚のものと酷似していたそうなんだ。同一人物とはいえないが、限りなくそういうものに近いと。例えば、クローンとか』
「へぇ、クローンねぇ……?」
『アバロセレンからなんちゃらして、あんなものや、そんなものが作れるこの時代だ。死神もいれば、死人が生き返って人を四人も殺したりするんだから、大天才のクローンが居るくらいで俺は驚かない。で、どうなんだ、アレックス。本当のところは』
「今回はアンタのこと、誉めてやるよ。アタシの一歩先を、アンタが、そしてバーニーが行っている。そしてアタシはこれから、アンタの仮説を証明しに行くところだよ。なんなら実況中継してやってもいいんだが……」
『おっ、そりゃ楽しみだな』
「生憎、そうはいかない状況でね」
『……そりゃ、残念だ』
「結果は、明日にでも伝えるよ。楽しみに待っときな」
 そして通話を着るコールドウェルは、プリペイド携帯を床にたたきつけ、それを履いていたピンヒールで踏み潰し、徹底的に破壊した。それからマダム・モーガンを再び見て、彼女は言う。「マダム・モーガン。アンタには失望したよ」
「……エージェント・コールドウェル。彼に危害を加えることは、私が許さないわ」
「アーサーよりもアンタのほうがマシかもしれないと思った時期もあったが、もしかするとアーサーのほうが数百倍もマシかもしれねぇな。あのオヤジは性格こそひん曲がっているし気まぐれにも程があるが、決して踏み越えてはならない守るべき境界ってもんを知っている男だ。あのオヤジが駆け引き好きの、根っからの政治屋気質だからこそ、な。だが、どうやら生粋の秘密工作員であるアンタの目には見えてないらしい。人の怒りに火を点ける、境界ってもんが」
「エージェント・コールドウェル。何度も言わせないで。彼に手を出すことは、私が!」
「ASIや連邦捜査局の連中は、特務機関WACEよりも大事な家族みたいなもんだって、アタシはアンタに言ったよな? アンタは、アタシの境界を土足で踏み荒らしたんだよ」
 そしてプリペイド携帯の次に、コールドウェルが取り出したのは拳銃だった。慣れた手つきで拳銃にサイレンサーを嵌め、躊躇なく撃鉄を起こすコールドウェルの目に、迷いは無い。怒りから、怯えに表情を変えたマダム・モーガンの目を見てもなお、コールドウェルは判断を覆さなかった。
「死神も、痛みを感じるんだよな? アーサーは前に、紙で指先を切った際に、顔を歪めて舌打ちをしていた。紙で指先を切った痛みを感じるならば当然、被弾する痛みも感じるよな?」
「やめて、コールドウェル。今すぐ、考えを改めなさい。あとで後悔するわよ……?!」
「アタシには今さら、死神を恐れる理由もない。後悔すべきはアンタのほうだ。アタシの大事な友人に、手を出したんだから」
 拳銃の照準をマダム・モーガンの左腕の肩口に合わせ、コールドウェルが引金を引いたのは一瞬のこと。放たれたのは鉛の弾、ではなく麻酔の入った注射筒だった。
「肉体ってもんがある以上、アンタもアーサーみたく眠るんだろ。それじゃ、アンタは暫く眠っていてくれ。アタシの邪魔は、してくれるな」
 一瞬、苦悶に表情を歪めたマダム・モーガンだが、彼女はすぐに気を立て直した。そして腕に刺さった注射筒をマダム・モーガンはすぐに引き抜くが、既に遅い。ASIで支給される麻酔銃は、国の麻酔科学会とペルモンド・バルロッツィが改良に改良を重ね、とにかく人間を一瞬で眠らせることに特化したものだ。人の肉体を持つ死神にも、麻酔銃は同様の効果を見せる。
 素早く効くよう改良された麻酔と、並みの銃よりもより早く打ち出されるよう改良された空砲、それと素早く注入されるように改良された注射筒。「国内における諜報活動において、必要とされる人道的配慮」という名目のもとに誕生し、多くの愚か者を眠らせては、生け捕りに貢献してきたこの銃は、死神マダム・モーガンにもその効果を見せた。
「……それと、一撃必殺おねんね銃スリーパーA79を見くびるな。死神の鎌や剣よりも、よほど強力だぜ?」
 マダム・モーガンはしばらく持ちこたえて、コールドウェルに掴みかかろうと立ち上がりかけたが、すぐに彼女は膝を床に付き、そのまま床に突っ伏して眠りに落ちた。その様子を見届けると、コールドウェルはマダム・モーガンに背を向ける。下層へと降りる階段のほうへと走るコールドウェルは、地下三階を目指していた。





 連邦捜査局シドニー支局地上五階、異常犯罪捜査ユニットのオフィス。夕暮れに背を向け、デスクの上に置いた携帯電話を見つめるニールは、迫る夜の気配にただならぬ空気を感じていた。
 このユニットに回された事件は、今は一通り片付けられていた。捜査が難航していたエアーコンプレッサー皮剥ぎ殺人の犯人も挙がり、束の間の静けさが訪れている。だが、それがいつまで続くのか。
「…………」
 凶悪な事件は、数多く起こる。特に表の大都市であると同時に、裏の世界にとっても大都市であるここシドニーでは多い。信じられないほどに、絶え間なく。ひとつが終わったと思ったら、また新しい異常者が出てくるのだ。いたちごっこのように、まるで終わらない。性善説を根底から疑いたくなるほど、社会に沸く蛆はどれほど努力しても消えやしないのだ。
 かつて港として栄えていたが、海をなくして捨てられた場所は今、浮浪者が居るだけでなく、アバロセレンや麻薬やら、ありとあらゆる取引が行われている無法地帯と化した。都市部でも一歩裏の道に入ればそこは、健全な社会とやらに捨てられたギャングがたむろする巣窟で、やりたい放題の荒れ地と化している。そして郊外にあるゴーストタウンには、ときに逃げ回る殺人者や犯罪者が住み着く。そして人で賑わう街には、雑踏に紛れて異常者も闊歩する。
 常に獲物を狙うような目で、人を見つめる者が居る。そんなことなどつゆ知らず、平和ボケした市民はろくに警戒もせずに街を歩く。親も、一〇歳かそこいらの子供を『昼間だから大丈夫だろう』と一人で街を歩かせる。前科のあるなしに関わらず、小児性愛者は街のそこらじゅうに居るというのに。成人した女性も男性も、どこまで自衛の意識があるのだろう? 性犯罪者も、血に飢えた殺人者も、そこらじゅうに居るというのに。年齢性別を問わず、この街に溢れている。
「……連絡は明日を待て、と言われてもなぁ。その間、何をしてりゃいいんだか……」
 この街に、そしてこの国に安全な場所なんて、どこにもない。少なくともニールは、それを知っていた。
「……はぁ。アレックス、良い報告を待ってるぞ……」
 溜息のあとにそう呟くニールは、自分の座る椅子に身を預けた。脱力しきった彼は、背もたれに体の全体重を預け、重力に逆らおうとする力を止める。だらけた背筋の彼に、ユニットチーフという肩書はまるで勿体ないだろう。
 だがそれでも、このニール・クーパーという男は異常犯罪捜査ユニットを率いるユニットチーフである。彼には直属の部下が四人いる。彼をチーフと呼び、慕う者が最低でも四人は居るのだ。そしてそのうちの一人、メリッサ・テンプル特別捜査官が興奮した様子でオフィスに入ってきた。
「チーフ、やりましたよ! フォスター支局長が、例の事件の捜査権をうちに回してくれました!」
「……例の事件? なんのことだ、テンプル」
「ギャングを狙った連続殺人事件です! 支局長が、ASIと密に連携できるうちのユニットが一番適していると判断し、回してくれました。元々捜査権を持ってた連続殺人課のショーン・パーシーは、猛反対してましたけど。これは支局長命令ですからね!」
 捜査開始から二ヶ月経っても解決できない連続殺人課が悪いんですよ、とメリッサ・テンプル特別捜査官は言う。少数精鋭の力を見せてやります、とも彼女は意気込んでいた。
 しかし意気込む彼女とは裏腹に、ニールの表情は曇っていく。
「勘違いするんじゃないぞ、テンプル。俺たちの実力を支局長が評価したわけじゃない。アレクサンドラ・コールドウェルの有用性を評価したに過ぎないんだ。実力じゃない、コネクションの力なんだ……」
「チーフ。コネもまた実力のひとつですよ。コールドウェルを利用できるのも、チーフの武器のひとつじゃないですか。……あっ、それじゃあ私はエディとロドニー、ウェンディにも伝えてきますね。それから、連続殺人課に資料を貰いに行ってきます。それから、検視官にも報告を……」
「あぁ、ならバーニーには俺が説明してくるよ。それじゃ、資料の引継ぎ作業を頼んだぞ」
「はい、チーフ!」
 思うところは、山ほどある。言いたいことも、そりゃたんまりと。しかし口は噤まなければならない。面倒ごとは御免だからだ。
 黙っていれば、嵐は勝手に過ぎてくれるだろう。だが、今回は? 嵐のほうからにじり寄ってきて、ニールが蹴り飛ばさなければ離れてくれなさそうな気がしなくもない。何もしなければしないほど、事態は悪化しそうな予感がしている。
「……最悪だ。まさか、よりによって俺のところに、厄介そうな事件が回ってくるとは……」
 コールドウェルに、今まさに確認を頼んでいる案件。それと大いに関係する事件が、まるで運命に引き寄せられたかのようにニールのもとにやってくる。
 アバロセレン裏取引きに関係していたと思われるギャングたちを集中的に狙った、連続殺人事件。
「……アレックス、良い報告を待ってるぞ」
 コールドウェルに確認を頼んだのは、ジョン・ドーのこと。そして彼女が持って帰ってくるであろう答えの凡そを、ニールは予想していた。そのうえで『良い報告』を待っている。
 この場合、良い報告とはニールの予想が裏切られること。ジョン・ドーとはどこの馬の骨とも知れない誰かさんで、彼の顔は高位技師官僚であった男に偶然似ていただけ。ニールの一番の希望は、そんな展開になることだ。だが、そんなことが起こり得るとは思えない。きっと事態はニールの予想通りの、悪い方向へ転がっていくことだろう。
 そうなれば。全ての事件に未解決のシールが捺されることが確定。まだまだ青く正義漢に輝く部下たちはきっと必死に捜査をし続け、真相に至ろうと努力を重ねるだろうが、その全てが水泡と帰すだろう。特務機関WACEの名のもとに。そしてニールも、信頼をなくすはずだ。巨大な力に抵抗しなかった、不甲斐なく愚かな上司として記憶され、疎まれる。
 かつて自分が、そうであったように。今度は自分が、呆れられる側なのだ。





『自動操縦モードに切り替えます。ベルリンからタスマニア島まで、二七時間を予定。その後、補給を……』
「アイル、ルートはお前に任せる。俺は暫く寝るよ。メルボルンに着いたら、起こしてくれ……」
『了解です、ファーザー。……お怪我は、大丈夫ですか?』
「ホローポイント弾を食らうことには慣れてるさ。傷はじき治る。お前は気にしなくていい」
『分かりました。僕は、操縦に集中しますね』
「それから、アイル。ASIのトラヴィス・ハイドン長官代行に報告を入れておいてくれ。市街地での戦闘は予想以上に酷い、のんびり調査をしてられる余裕なんざありゃしねぇとな」
 狭くもなく、かといって広いわけでもない。そんな軽飛行機の機内、小さな彼女は貨物置場代わりの座席に、息を殺して潜んでいた。
 彼女の傍には、火薬のにおいしか存在しなかった。それから彼女の視界には、使い古されたアサルトライフル、乱雑に投げ捨てられた拳銃、鞘に入った状態で天井からぶら下がる二本のサーベル、迷彩柄の防弾ベストと迷彩柄のヘルメット、戦闘用のゴーグル、それと救急箱らしきもの、さらに床に点々と垂れている血の跡が見えていた。そして英語で会話が交わされる、少し高く柔らかい、若い男性の声を基にした合成音声と、息苦しそうな大人の男の声が聞こえている。
 これが誰の飛行機か、彼女は知らなかった。それでも、この飛行機に乗れば今よりはずっとマシな場所に行けると信じていたのだ。決死の、密航だった。
「あーっと……鉗子はどこだ。アイル、覚えてるか?」
『最後に確認した時には、たしか救急箱の中にあったかと。ですが、最後に確認したのは三ヶ月前です。そして一ヶ月前に、パトリック・ラーナー氏がタウンズビルに向かう際に、この機を無断で使用していましたから……』
「ラーナーが? ……聞いてないぞ」
『表向きは、この機も、そしてこの機に搭載された僕も、ASIに押収されたことになっていますからね。仕方ありませんよ。それにラーナー氏が、ファーザーに使用を一々報告するとは思えません』
 メルボルン。大都市の代名詞として聞いたことがある都市の名前に、息を潜める彼女はホッとしていた。血と埃の海であるベルリンよりも、ずっと素敵な場所に行けることは確定したのだから。だが、彼女には不安があった。乗り込んだ飛行機の主が、どうにも危ない人であるように思えたのだ。
 彼女は最悪の展開を想像していた。私が乗り込んだのは殺し屋か傭兵の飛行機で、見つかったら殺されるかもしれないと。ばらばらに体を切り刻まれて、トイレから外に捨てられるのかも、と。
 考えれば考えるだけ、心臓の鼓動が早くなり、強くなる。そして、彼女が恐れていた展開が起こった。
「おい、そこのチビ。いつまで隠れているつもりだ。手が空いてるなら、手伝え」
 そこのチビ。彼女の母国語であるドイツ語で聞こえたその言葉は、明らかに彼女のことを言っていた。その瞬間、ビクッと跳ね上がった彼女の肩は、周囲に積まれていた荷物の山を崩し、がたがたと大きな音を立てた。
「おいおいおい。何やってんだ、まったく……」
「あっ、えっと、ご、ごめんなさい!!」
 慌てて立ち上がる彼女は、大慌てで謝罪する。そんな彼女の背後で、また荷物の山が崩れて音を立てた。
 呆れるような、男の溜息が聞こえてきた。そして次に飛んできたのは、彼女に向けられた指示だった。
「チビ、お前の前に救急箱があるだろ。そこの中から、鉗子と包帯、ありったけのガーゼを取ってくれ」
「あの、えっと……カンシって、なんですか?」
「細長いハサミみたいなやつだ。知らないのか?」
「……ごめんなさい。私、学校に行ってないから。馬鹿なの」
 おどおどと、彼女はどもる。両親はとっくに死に、上に三人いた兄たちも死んでいる戦災孤児であった彼女には、家族もなければ学もなかった。
 ベルリンは死の街だった。かつての敵は世界経済をかき乱した北米合衆国であったはずなのに、今では敵がすり替えられ、国民同士が争っていた。政府と、反政府勢力が争っている。銃弾と砲弾と化学兵器を互いに打ち合って、関係のない一般市民が巻き込まれて、命を落としていた。彼女も、そう。砲弾と銃弾から逃げ惑う日々を送り、この場所から逃げ出すことだけをいつも考えていた。
 だから、彼女は。
「……これで、合ってますか? カンシと、包帯とガーゼ」
「ああ、合ってる。ありがとな。そこの座席に置いてくれ」
「はい……」
 救急箱から見つけ出した鉗子と包帯、ガーゼを、飛行機の主が座っている座席の隣に置く。そこで初めて見た男の姿に、彼女はぞっとした。
「……出血、ひどいですね」
「アサルトライフルで集中的に撃たれたんだよ。一五発中二発、防弾ベストを貫通しやがった。それでこのザマさ」
 四〇代半ば、それぐらいに見える男だった。くせ毛のダークブラウンの髪、鷲鼻、特徴的なラウンド型の垂れ目と生気のない蒼い瞳。彼女の故郷では、あまり見かけないタイプの容姿だった。見るからにひねくれ者で、性格が悪そうな人だと、彼女は純粋にそう感じた。
 そして彼が着ていた白いシャツは、もはや白ではない。埃と砂で茶色く、黒く汚れていたうえに、下腹部から溢れる黒々とした血により、ザクロの種のような赤黒い色に染まっていた。
 何より彼女が怖いと感じたのは、男の平然とした顔だった。これだけ血が溢れているのに、痛がるような素振りなど見せやしない。強がっているというよりも、痛みというものを感じていないというような雰囲気だった。
「……痛く、ないんですか」
「痛みなんか感じるような体だったら、こんな過酷な仕事なんざ務まらねぇよ。欧州の地獄に出向いて、現地の惨状を記録し、情報を集めるだなんて……――情報屋稼業ってのも、楽じゃない」
 そう言いながら、男は手に取った鉗子を、何のためらいもなく自分の傷口に突っ込んでいく。子供の目から見ても分かるほど、乱暴な手つきで。やがて血にまみれた鉗子が、傷口から出てくる。鉗子の先には、潰れた銃弾が挟まれていた。
 それから、彼は呟く。あと一つ、と。まだ体内に銃弾があるのかと思うと、彼女は吐き気を感じた。すると男は血で赤くなった手で、機内の後ろを指差して示した。それから彼は言う。
「ディストピアに到着するまで、丸一日は掛かる。……腹が減ってるんだろ。奥に缶詰があるから、好きに食べればいい」
「あ、えっと……」
「イザベル。遠慮はいらないぞ」
 男が口にした名前は、彼女の名前だった。イザベル、それが彼女の名前。だが彼女は、自己紹介などしていない。
「……私の名前。どうして、知ってるの」
 すると男は二つ目の弾丸を取り出し、ニッと歯を見せて笑う。
「お前がこの機に乗り込むことは予め知っていた。イザベル・クランツ、ベルリンの孤児、十歳。だろ?」
「……どうして?」
「俺は盲目だが、代わりに別のものが見えるんだよ。人の過去や、未来の運命とかな」
「あなたは予言者なの?」
「まあ、預言者のようなものだ。目に見える世界しか信じぬ者は、俺を天才と呼ぶがな。所詮、俺は神々のマリオネットでしかないってのに……」
 そう言った後、男は体力が尽きたように静かに眠りに落ちていった。その後の機内はずっと静かで、何故だか安心した。生まれて初めて、安全な場所にいると感じたからだ。
 缶詰めの中に入っていた塩漬けサーモンの強烈な塩辛さも、よく覚えている。生まれて初めて食べた乾パンのパサパサとした食感に覚えた不快感も、よく覚えていた。
 あれは、彼女の子供の頃の記憶。幾度となく、未だに繰り返し見続ける夢でもある。すると彼女の耳元で、同僚の女性がささやく声が聞こえてきた。
「――……ベル、イザベル! 報告書を抱えたロイド・グリフィンがずっと、廊下で待っていますわよ。イザベル、起きなさい、イザベル・クランツ!」
 所長室のデスクに突っ伏すような姿勢で寝ていたイザベル・クランツは、同僚の声でハッと目を覚まして飛び起きる。
「ごめんなさい、ナタリー。私、寝てたわ」
 目の前に居たのは、同期のナタリエ・エーベルス技師。ブルネットの長い髪を三つ編みにして纏めた、お嬢様育ちの眼鏡の美女だ。彼女もイザベル・クランツ同様、アルフレッド工学研究所の創設期から居る初期メンバーの一人。つまり前所長ペルモンド・バルロッツィに認められた、数少ない技師のひとりだった。
「ええ、そうですわね。夕方の一番忙しい時間帯に、随分と幸せな夢も見ていたようで。塩漬けサーモンはしょっぱかったんじゃなくて?」
「……もしかして私、寝言でも言ってた?」
「いいえ。でも私は、クレヤボヤンスですもの。寝ている人間の夢を覗き見ることくらい、造作もないことですわ。それにしても、あなたの中のバルロッツィ高位技師官僚というのは実に……――いえ、やめておきましょう」
 同時に、ナタリエ・エーベルスは“覚醒者サイキック”と呼ばれる人間のひとり――イザベル・クランツもまた、そうである。“覚醒者”とは、アバロセレンに何らかの影響を受け、人間には本来備わっていないはずの新たな知覚を得た存在だ。
 イザベル・クランツの能力は、五分後の未来の世界を偶に目にすることが出来るもの。あまり役に立たない能力である。しかしナタリエ・エーベルスの能力はもっと実用的。人の心や思考を、彼女の意のままに自由なタイミングで読み取る能力だ。
 つまり今、イザベル・クランツの夢をナタリエ・エーベルスは盗み見ていたということである。
「……そうね。塩漬けサーモン、しょっぱかったわ。あれは納豆パスタと同等の衝撃よ」
 そう呟くイザベル・クランツは、欠伸をした。それから彼女は言う。
「ロイド、待たせてごめんなさい。予算案、見せて頂戴」





 姐御、それは駄目ですって! そう宥めてくるラドウィグの声が、聞こえていたはずだった。
「たまげた。なんてこったい。笑うしかないねぇ」
 蹴破って破壊した扉の先。コールドウェルは部屋の中央付近に、仁王立ちで立っている。彼女の前には、拘束衣を上半身に着せ付けられ、さらに木製の椅子の足に両足首を、椅子の背に胴体を固定された男が俯いて座っていた。
「よぉ、アンタが通称『ジョン・ドー』かい?」
「………」
「なんだい、アンタ。返事も出来ないのか? 口が利けないのかい」
「……………」
「……ったく、そのようだねぇ。呆れちまうよ」
 くせ毛気味でうねったダークブラウンの髪。小麦色の肌。高い鷲鼻。落ちくぼんだ目。俯いていても、分かる。その顔に見覚えがあることくらい。
 コールドウェルは俯く顔に手を伸ばし、その顎の下に手を当て、顔を上に向けさせる。絶え間なく小刻みに、左右に揺れ動く眼振を繰り返す蒼い瞳は、コールドウェルの中で仮説を確信に変えた。そして確信は笑いとなり、込み上げてくる。
「……フッ、ハハッ!! どうりでアーサーが隠したがり、マダム・モーガンがこだわるわけだ。――……クソが!」
 特務機関WACE本部施設の地下三階、隔離室。普段は閉ざされているはずの扉は今、全開に開かれていた。
 廊下で待機し、収容者が部屋から出てこないよう監視するだけの業務を続けていたラドウィグは今、部屋の中に立ち入ったコールドウェルのすぐ後ろに立ちすくみ、呆然としていた。そしてコールドウェルは、部屋の中に閉じ込められていた男の目の前に立ち、遣る瀬無く笑っている。そんな彼女の足元には、嘴が模られた合皮の黒いペストマスクが落ちていた。
「これはあの男が死ぬ前に仕掛けた、壮大な罠か? それとも、何か大きな陰謀の一部か? または、ただの偶然。それとも、誰も意図していなかった事故なのか? どうなってんだよ、クソ……!!」
 ペストマスクを剥がれた目の前の男、いや、まだ毛も生え揃っていないような青年は、正面に立つコールドウェルに怯えているように見えていた。特に彼女が履いているピンヒールが鳴らす、コツコツと床を叩くような細く尖った音に、彼は震えあがっている。
 見覚えのある生気のない蒼い垂れ目と、彫りの深い目鼻立ち。見覚えのあることは、言うまでもない。コールドウェルにとっても、ラドウィグにとっても。だが、何かが違っている気がしたのだ。年齢もそうだが、それだけない。似ているようで、あの男と違う。別人であるようにも、感じられていた。
 なら、こいつは誰だ? ……そんなことをコールドウェルが、笑いながら考えていた時だ。青年の口がわずかに開き、小さな声が隙間から漏れ出た。
「――……ダコタ……?」
 ダコタ。おそらく、誰かの名前だろう。
「ふぅん、ダコタ? ダコタが、どうした」
 笑うのをやめたコールドウェルは真顔に戻り、そう言った。しかしコールドウェルの言葉が、青年に聞こえているかどうかは定かでない。青年の蒼い目は眼振を止めることはなく、今も絶え間なく動き続けている。コールドウェルが右手で彼の顎を掴んでいても、コールドウェルが三白眼で彼の顔を凝視していたとしても、彼の動き回り続ける目はコールドウェルを見ない。そもそも、視力があるのかさえも疑わしい。そんな様子だ。
 そんな青年の姿にため息を零すコールドウェルは、彼の顎を掴んでいた手を離した。すると青年の首は、力なく下に垂れる。元の俯いた姿勢に戻った彼の口からは、独り言だけが紡がれた。
「……痛いのは、もう嫌だ。嫌だ。何もしたくない、されたくない。だから放っておいてくれ……」
 その独り言は、誰かと話しているようでもある。というよりも、一方的に自分の言いたいことだけを伝えているような感じだ。だが相手は、コールドウェルではない。ラドウィグでもなかった。彼にしか見えていない、彼の世界の中の誰かだ。きっと、それが“ダコタ”という名前の人物なのだろう。
 顔を蒼くさせていくラドウィグは、一歩、また一歩と後ずさっていった。しかしコールドウェルは、逆に一歩踏み出していく。青年に近寄る彼女は、彼の座る椅子の前に片膝をついた。そして青年の顔を下から覗き込みながら、どすの利いた低い声でコールドウェルは言った。
「悪いが、アンタのお望みどおりに放っておく……――ってわけにもいかねぇんだよ。アタシにも仕事ってもんがあるからね」
 そうして彼女が、青年の頬を軽く平手でぺちっ、と叩いたときだ。青年の目が、限界まで大きく見開かれた。それから彼の口元には奇妙な薄ら笑いが浮かぶ。そして次に聞こえた声は、嘲笑の混じった悲痛な叫びだった。
「さっさと俺を殺せよ、ダコタ! 殺せ、殺してくれ!! 俺は死人だ、実験動物じゃない!」
 異常。全てがその言葉で片付いた。
 ここには居ない誰かに怒鳴る彼の目に、目の前に膝をつくコールドウェルは映っていない。椅子に縛り付けられ、さらに拘束衣で動きを制限された体を激しく動かし、暴れる姿は、凶暴な囚人というよりも、人間に捕縛された野生の肉食動物のようだった。
 コールドウェルにとってそれは、とても見覚えのある光景だった。
「そうだ。アンタは死人で、実験動物じゃないよ……――はぁー、ったく。デジャヴばかりじゃねぇか」
「――……姐御?」
「……彼がDIDだとは、正直のとこアタシは信じていなかったよ。ひとが言うところの『彼の別人格』ってのは、てっきり黒狼のことを言っているのかと思ってた。だが、違ったようだね。ブリジット・エローラの所見が正しかったようだ。物事はそう単純じゃねぇ。いくつもの側面があるもんだ……」
「あの、姐御。何の話をしてるんです?」
 昔、真っ白なベッドの上で、膝を丸めて座る少女が居た。彼女は自分の真っ白な髪の毛を、青白い手で掻き毟りながら、泣き叫んでいた。周囲の人間からすれば意味をなさない言葉、だが彼女にだけ意味が分かる言葉を叫びなら、泣いていた。……あの時と、今の状況は、まるで似ているように思える。
「この男と、黒狼は別の存在。そしてこの男は、たぶんDIDなんだろうね。アタシたちが知っている彼じゃない。中身が、別人なんだよ。彼のようで、彼じゃない。そしてバーニーが匿っていた青年とも違う、全くの別人だ」
 自由の利かない体で暴れて、疲れたのか、青年は大人しくなる。きしむ椅子が立てる不快な音はなくなり、部屋の中は幾分か静かになった。そして怒鳴る声も収まり、代わりに聞こえてくるのはむせび泣く声だけ。
 コールドウェルはゆっくりと立ち上がり、背後に立つラドウィグのほうに振り返る。目の前の光景を受け入れられないのか、大きな猫目を泳がせて俯くラドウィグのその後ろには、腕を組んで立つ男が気配を消して佇んでいた。
「……だから私は、この部屋に誰も立ち入るなと言ったのだ。まともな人間なら、こいつを前にして正気を保っていられないからな。今のラドウィグのように。とはいえコルト、君の鈍感さは感服ものだ」
 スクエアフレームのサングラスを頭に乗せ、冷め切った視線をラドウィグの背中越しにコールドウェルに送っていたのは、サー・アーサーだった。よれたスーツの襟を見る限り、彼はどうやら慌ててここに飛んできたらしい。
「エントランスで眠りこけているモーガンを見つけ、まさかと思ったら……――アレクサンダー・コルト、君は何故、物事にやたらと首を突っ込みたがるのか」
「突っ込みたがる、ってわけじゃぁねぇ。豪運または悪運が祟り、結果的にいつもそうなるだけで。なにもかも、偶然だよ」
「躍起になって真相を究明したところで、その先に何があると? 見ての通り、絶望的な解に至るだけだ」
「だから、アーサー。アタシは」
「答えは、概ね君の予想通りだ。そして今のそいつは私のことを、研究施設に新たに配属された飼育員か何かとしか思っていない。それから君が鳴らすヒールの音に、そいつは研究主任ダコタ・スティルを思い出している。かつてそいつの脳をアイスピックで掻きまわして壊し、更にそいつの目玉を潰し、何度も何度もそいつを殺した女だ」
 要するに、邪魔だから出て行けと。直接的な言葉こそないが、アーサーはコールドウェルにそう言っていた。彼の言葉は回りくどい反面、その目は直接的に訴えている。
 たとえコールドウェルに言い分があったとしても、彼は耳を貸さないだろう。そんな雰囲気だ。だからこそ、コールドウェルは言う。
「アーサー、アタシの話を聞け!」
 すると返ってきた答えは案の定、冷たく輝く彼の目と同じくらい冷たい言葉だった。
「聞くまでもない。この件はもう忘れろ。曙の女王とやらにだけ集中するんだ」
 それに対してコールドウェルは、食い下がる。
「こいつが、その曙の女王の件に関わっているかもしれないんだよ?! 何かしら知っていることがあるかもしれない。だから」
 それでも、アーサーは態度を変えなかった。
「仮に、そいつが関わっていたとしても。情報を聞き出せる状態に見えるか?」
 それは悲しいほど、正確に的を射ていた言葉だった。コールドウェルは、彼の言葉に反論などできやしなかった。彼女ができたことは、悔しそうに笑うことだけ。
 三白眼の目を少しだけ伏せさせたコールドウェルは、アーサーから視線を逸らした。そして彼女は言う。「……フッ、たしかにアンタが正しい。見えねぇよ、そんな状態には。彼には、アタシの声が聞こえてないんだから」
「分かったなら、この部屋から出て行くんだ。ラドウィグも連れて」
 イエス、サー。口先だけ、コールドウェルはそう答える。それから彼女は現実を見失ったかのような顔をしていたラドウィグの肩を叩いた。そしてコールドウェルは、ラドウィグを廊下のほうへと突き飛ばし、次にアーサーの目を見て、彼を睨む。彼女は彼に、宣戦布告とも取れる台詞を告げた。
「だがフォスター支局長には、ありのままの事実を報告するからね。それも、アタシの仕事だから」
「連邦捜査局での進展状況は聞いている。ニール・クーパー特別捜査官の活躍も、検視官バーンハード・ヴィンソンの功績と罪過も、DNA解析の結果とやらも。ASIに君が何をさせようとしているのかも、ASIが君にさせようとしていることも、そして君がどの世界に立っているかもな」
 心のない薄ら笑いを浮かべ、アーサーはそう返した。まるで動じる様子のない彼からは、血の気の多い青二才を馬鹿にするような態度すら感じられる。自分は全てを把握している、敵に回すべきではない。暗に、そう言っているようでもあった。
「アタシはアンタと同じ、薄汚れた裏の世界の住人ですよ。今や“世界の支配者”と侮蔑される人間のリストに、アタシの名前も入っているくらいだからね」
「それは、どうだろうな。私が深夜の闇を闊歩する者であるならば、君は黄昏の影に潜み、光と闇の境界で逃げ惑う者だ。似ているようで、大いに異なっていると思うがね」
 アイリーンは以前、アーサーのことをこう評価した。心無いサイコパス、と。彼は恐怖で人を支配して、彼が用意した舞台の上で人々を躍らせたがると。コールドウェルもアイリーンの評価に、概ね同意していた。サー・アーサーと呼ばれる男に、そういった側面があることは間違いようのない事実だからだ。
 だが彼は、心無いサイコパスと切り捨てられるほど、そう単純な男ではない。それは彼が、非常に気まぐれな死神であるが故に。
「アタシは、オヤジのポエムに興味はありませんよ。それじゃ、失礼します」
 そんな捨て台詞を吐き捨てるとコールドウェルは、ラドウィグの手を引いて、部屋を後にする。そしてアーサーの横を通り過ぎようとしたときだ。彼は正面を見つめたまま、横を通り過ぎるコールドウェルに、こんな言葉を掛けたのだ。
「易々と、解が得られると思うな。安易な道を選択した場合、やがて進路も退路も断たれることになる。それが常だ。天命を待つなら、人事を尽くしてからにしたまえ」
「……なんだって?」
 突然飛び出した、意図の分からぬアーサーの言葉。コールドウェルは立ち止まり、アーサーを凝視した。すると彼はコールドウェルに背を向け、床に落ちていたペストマスクを拾う。そして椅子に縛り付けられた青年に歩み寄りながら、アーサーはこんな言葉を零した。
「私は死神であり、その役に徹する者だ。超自然がただ存在しているだけであるように、私は崇高な目的や信念など持ち合わせていない。正位置にもなり、逆位置にもなり得る。相応しき者の呼び掛けには応えよう、そうでないゴミは存在ごと葬り去るだけだ。曙の女王が“黎明”と呼び、私とマダム・モーガンは“ラビッシュ・シュート”と呼ぶ、あの穴に」
「何が言いたいんだ、アーサー?」
「私に、君自身の価値を証明してみせろ」
 アーサーは拾い上げたペストマスクから軽く埃を払うと、彼は椅子に縛り付けられた青年の顔にペストマスクを嵌める。
「証明できないのであれば、君は名誉除隊になるだけだ」
 己の価値を証明しろ。
そう言った彼は、冗談を言うように笑っていた。だが、きっとあの言葉は冗談ではない。声の軽さとは裏腹に、どこまでも重たい言葉だ。
「……アンタ、好きだねぇ、それ。タロットの喩えってやつ。その知識がねぇやつからすりゃ、何を言われてんのかさっぱり分からねぇってのに。回りくどいったらありゃしねぇな」
 アーサーの背中に皮肉をぶつけるコールドウェルだが、それに対するアーサーの反応は何もない。それ以上は何も言うことが無いと言うかのように、彼女の存在を彼はまるで無視していた。
 

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