アンセム・フォー・
ラムズ

ep.08 - Prevention is better than cure

 そうして寒い夜が明け、暑い朝がやってくる。生き延びた幸運なものはぐったりとした顔で再び街へと繰り出していくだろう。しかし夜を越えられなかったものは、蒼褪めた顔でとこしえの眠りに就いていった。
「未明から通報が嵐みたく寄せられていると、市警の副署長から連絡が。シドニーだけでも、死体を見つけたというものは一〇〇件を超えているみたい。ホームレスの大半が、昨晩の寒波で凍死したらしいわ」
「朝からヤな報告ね。きっと福祉局もてんやわんやで……――あっ」
「どうかしたの、バーンハード」
「実習を兼ねた候補生の派遣がドタキャンで中止になるかもっていう、最悪のシナリオがふと頭をよぎってね。まさか、そんなことは……ない、わよね?」
「ない、と思いたいわね」
「フォスタ~! そこは嘘でも『ありえない』って断言して頂戴!!」
「私は、断言ってものが何よりも嫌いなのよ」
 あぁ、どうしましょう。検視官バーニーは、ひとり頭を抱えて嘆く。リリー・フォスター支局長は、朝日が少し顔を出した空を見つめ、溜息を吐いていた。
「……バーンハード。あなた、少しは寝たらどうなの? 大仕事が控えているっていうのに、あなたは一睡もしていないように見えるんだけど」
「そうね。寝たいわ。寝れないけど。胸騒ぎがしてて、どうにもね。それにフォスター、あなたも同じでしょう?」
「ええ、まあ。でもあなたは、眠る努力をしなさい。最低でも二時間は」
「……それじゃ、お言葉に甘えさせてもらうわね」
 今は朝の四時半。寒波のピークは去り、真夏の時期の夜明けらしい気温になってきたようだ。それでも、妙なざわつきが胸の中にある。それはこの連邦捜査局シドニー支局に居残りになった、全員に共通して言えることだった。
 狸寝入りをして、目を閉じ続ける十七歳のスカイ・クーパーもその一人。父親のジャケットを被り、右隣に座る父親にもたれるスカイは、検視官バーニーとリリー・フォスター支局長の会話を盗み聞ぎしながら、彼らとは少し違う『嫌なこと』を考えていた。
「……」
 なぁ、スカイ。これは仮の話なんだけどな。
 スカイ・アーチャーと、スカイ・クーパー。
 ――……選ぶなら、どっちがいい?
「…………」
 母さんには秘密の話。そう言って、スカイの父親であるニールが切り出したのは、その言葉だった。気まずそうな笑みを浮かべて、スカイの目を真っ直ぐに見てきた父は、そう訊いてきた。
 まだまだ世間知らずな十七歳。でも、大人の一歩手前である十七歳だ。具体的な言葉はなくともスカイは、ニールの発した言葉の意味はおおむね理解していた。そしてスカイは、即答したのだ。
射手(アーチャー)のほうが断然良い! だって樽屋(クーパー)なんて、ダサイもの。……あっ、ママには秘密ね!』
『アーチャーも、なかなかダサいと思うけどなぁ』
『でもクーパーよりはマシだよ! アーチャーは戦えそうだけど、クーパーは逃走することが得意そうな姓だと思わない? 樽の中に入って、川をどんぶらこって下っていくイメージっていうか』
『それは、スカイ。全世界のクーパーさんに失礼だ』
 うちの家庭は、父であるニールが多くのものを犠牲にし我慢することにより、どうにか保たれている。そのことをスカイは幼い頃からひしひしと感じていたし、それが事実であると知っていた。
 父は、我慢強いひとである。スカイはそう感じていた。母の譫妄や言いがかりに、もう二〇年も耐え続けているわけなのだから。それに父の、母に対する愛情とやらがとっくの昔に冷めていることは、スカイも知っていた。言葉や態度では、父はそのことを巧妙に隠しているけれども。本当は、母と別れたがっている。しかし父は、スカイが居るからこそ、そのことをおくびにも出さずに我慢しているのだ。
 かつて父自身がそうであったように、片親の家庭で育った子供とは哀れなものだから。スカイが成人するまではと、我慢しているのだろう。娘に自分と同じ思いをさせたくない一心で。
「…………」
 そこまで我慢してくれなくていいのに。……スカイは父に、そう思っていた。
 父の仕事は、人命が係ったり、死者の名誉に関わったりする、奇特で尊い仕事だとスカイは思っている。そんな尊い仕事は忙しくて、ときに休日が潰れてしまうこともあるけれど、時間を作っては家族のために何かをしようとしてくれる父が、スカイは好きだった。そんな父の娘で居られることはスカイにとって誇りで、同時に父はスカイが目標とするひとのうちの一人だ。
 そしてスカイは、連邦捜査官としての父が好きだった。家庭の中で、びくびくと母に怯えているような父は好きではなかったし、もうこれ以上見たくもなかった。
「……あら、まあ。また、ギャングが四人も殺された……?」
「なんですって?」
「まだ寝てなかったの、バーンハード」
「それより、フォスター。ギャングが、また……?」
「市警の副署長から、また連絡が来たのよ。朝一番で、うちに運び込まれるそうよ。追加で、四体」
「はぁ~……どこのどいつだか知らないけど、少しは大人しくできないのかしら? なんでそんなに、ギャングばかりを連続で……――もうイヤ~。検視官、辞めたいわ~!」
 リリー・フォスター支局長と、検視官バーニーのぼそぼそと呟くような会話と、誰かの寝息が聞こえている朝の四時半。スカイはどうすることもできない問答を、頭の中で繰り返し続けていた。
 ――そして、午前五時。陽が昇り、朝らしい光景が外に広がっている頃。旧ポート・ボタニーにある特務機関WACEの地下本部、地下一階のエントランスで、マダム・モーガンは目を覚ました。
 それはとても、寝覚めの悪い朝だった。麻酔のせいか、どことなく体は重く感じられ、間接の節々が鈍い悲鳴を上げ、きしむ。
「……アレクサンドラ・コールドウェルは、どこに行ったの……?」
 重たい体を起こしながら、マダム・モーガンは瞼を開く。そして彼女は、自分がエントランスのソファーで寝ていたこと、それから誰かが自分に毛布を掛けてくれいたことに気付くのだった。
 すると、彼女の背後から声がした。
「おはようございます、マダム。気分は如何ですか? 昨晩は、アルストグランにしてはひどく冷え込みましたし、なにか温かいお飲み物でも……」
 声がしたほうにマダム・モーガンは振り向く。そこには、柔らかな金色の長い髪を、後ろで緩く束ね、とても人工物とは思えない穏やかな微笑みを浮かべるヒューマノイドが居た。それはこの施設を管理統括する人工知能と同一のものが搭載された、限りなく人間に近いヒューマノイド、AI:L。またの名を「レイ」だ。
 そんなヒューマノイドの右手には、淹れたてと思しき湯気が立ち上るコーヒーが入った、小さめのマグカップが握られていた。ほのかに香るジンジャーのにおいから察するに、このヒューマノイドはマダム・モーガンの好みをよく理解している。
 または、マダム・モーガンの趣味趣向をよく知る者が、このヒューマノイドに命令したのだろう。
「あらやだ、レイちゃん。いやに用意周到ね。アーサーに命令でもされたの?」
「いいえ、マダム。アーサーからのオーダーは、ちょうど拒否したところですよ」
「拒否? 珍しいわね。あなたのこと、ノーを知らないイエスマンだと思っていたものだから」
「アーサーは、あなたのことを縛り上げて、ワクチン貯蔵庫に放り込めと、ボクに仰りました。しかし、それは人道にもとる、許しがたい行為です。ですので麻縄の代わりに、毛布とコーヒーをあなたに――」
「ありがとう、レイちゃん。でもあなたのその、私にやたらと媚を売る様子から察するに、誰かから何かを命令され、私に用があることは確かね。それは誰なの?」
 マダム・モーガンは有難くコーヒーを頂戴しながら、ヒューマノイドにさり気なく尋ねる。するとヒューマノイドは頬笑みを消し、少しだけ複雑な、考え込むような表情を浮かべるのだった。
「……マダム・モーガン。実は、ご相談が」
 アーサーからの命令ではない。となると、このヒューマノイドに指示を出したのは一人だけだろう。マダム・モーガンには、それが誰かの見当が付いていた。
「聞くだけなら、聞いてあげるわ」
 それにしても。アーサーは私を縛って、ワクチン貯蔵庫に閉じ込めようとした?
 ……そんなことを考えると、マダム・モーガンは心の奥底で怒りが煮えくり返るのを感じざるを得なかった。あの男、調子に乗っていやがると。
「それで、レイちゃん。用件は?」
「あ、あの。なんて説明すればいいのか、どこから話せばいいのかが分からないのですが、えっと……」
「理路整然としていない話、順序だっていない話には慣れているわ。仮説の断片でもいいし、滅茶苦茶な話でも、順番通りじゃなくてもいいから、とにかく話して。あとで私が整理してあげるから」
 そんなマダム・モーガンの言葉を聞くと、ヒューマノイドは顔を俯かせ、暗く沈んだ表情を見せた。まるで生き物であるかのように、人工物は自然な振る舞いをしてみせる。
「……特務機関WACEに、未来はありません。たとえ、あなたが足掻いたとしても、大いなる流れは止められないのです。時の女神の銀車輪は、彼女以外の誰にも、何者にも巻き戻せないように」
「なら、私にどうしろって?」
 どうにも分かりにくい奇妙な言い回しや、物言い。マダム・モーガンの直感は、確信に変わる。
 今のような、おかしな言葉選びをしてしまいがちな男は、マダム・モーガンが知る限りでは一人しかいない。それはやはり、洗練された詩や散文を好むアーサーではく、それらに全く興味関心もなければすべての芸術に疎い男。それはこのヒューマノイドに内蔵されている人工知能を構築した男で、このヒューマノイドが“ファーザー”と呼ぶ男、ペルモンド・バルロッツィだ。
「ペイルは、なんて言っていたの? 彼は私に、何をして欲しいって?」
 するとヒューマノイドは、驚いたように顔を上げる。自分は一言も彼の名前を出していないのに、どうしてマダム・モーガンは分かったのかと、疑問に思っているようだ。しかしマダム・モーガンからすれば、朝飯前どころではない。子供のつたない隠し事を見抜くぐらいに、簡単なことだ。
「おばあちゃんの年の功を舐めちゃいけないわ。そんじょそこらの人間と私じゃ、桁が違うんだから」
 どっしりと構えるマダム・モーガンの姿に、ヒューマノイドは何かを決意したらしい。ヒューマノイドの顔つきが、わずかに変わった。
 ヒューマノイドの気味が悪いほどに整った、中性的な美しい顔に、凛々しさが宿る。そして機械は、自身の主から聞いた話をほぼそのまま、マダム・モーガンに伝えるのだった。
「ファーザーは、全てを予見していました。アーサーがこれからやろうとしていることも、ダイアナと名を改めた彼女の暴走も、エージェント・コールドウェルの謀反も、彼女と共謀するラドウィグの裏切りも。……エージェント・コールドウェルとラドウィグの裏切りは、序章の第一節でしかありません。これから全てが始まりますが、その前に我々は、まだ芽吹いていない地中の種を焼き払わなければなりません。いつものように、それらが地中より顔を出す前に」
「……それで、私は何をするの?」
「まず、竜神カリスに会わなければなりません。そしてカリスに、彼を託さなければいけないのです。今はアーサーが囲っている彼を。黒狼ジェドが嗅ぎ付ける前に、ASIがここを探し当てる前に、アーサーが全てを知る前に。そして竜神カリスの居場所を探し当てるには、中位の神を意のままに使役できるラドウィグの協力が必要不可欠になります。それにASIの目を誤魔化すためには、エージェント・コールドウェルの協力も必要になるでしょう。つまり……」
「今すぐ彼を連れてここを後にし、それからアレクサンドラ・コールドウェルを懐柔しろ、ってわけね。アイリーンやケイにも、声を掛けるべきかしら?」
「いいえ。彼らには……――申し訳ありませんが、未来のためにも犠牲になってもらいます」
「犠牲……?」
「アイリーン、ケイ、ドクター。この三名は、もう……」
 高速で、詳細をすっ飛ばして語られたその話は、穴だらけで完全な理解は得られない。しかしマダム・モーガンは、概ねを理解できた。
 穴は後から埋めて行けばよい。ひとまず、今やるべきことは、すぐにでもやるだけだ。
「……あーあ。色々と言いたいことはあるけど。ペイル、彼のためなら。贖罪も兼ねて、一肌脱ぐしかないわね」
「……マダム。申し訳ありません」
「あなたが謝ることじゃないわ。ケイやアイリーンは、よく尽くしてくれた。特にケイは付き合いが長い方だし、私も彼のことは大好きよ。……でも、もう潮時よね。市民の命と、隊員の命を、同じ天秤にかけるわけにはいかないし」
 どうやらマダム・モーガンが想定していたよりも、ずっと悪い結果をもたらしそうなアーサーの企み。そして今、初めて聞いたコールドウェルの謀反や、ラドウィグの裏切り。それから、これもまた初めて聞いたラドウィグの「中位の神を意のままに使役できる」という、今はまだ詳細がよく分からない力など。……分からないこと、予測できないことばかりだ。
 くそくらえ、と全てを投げ出したい気分ではある。だがそこを堪えて、すべきことを粛々と行うことこそが、マダム・モーガンの役目。やるべきことはやる、いつものように。それだけのことだ。
「いいわよ、レイ。私についてきなさい。私の本領、見せてやろうじゃないの」
 そう言うと、マダム・モーガンは一気にコーヒーを飲み干す。それから空になったコップを適当な机の上に置くと、ヒューマノイドの手を握った。そしてマダム・モーガンとヒューマノイドは、煙のように消えたのだった。
 ――そして午前六時。片田舎ムアバンクの某所にて。
「サンドラ、朗報よ。アルフレッド工学研究所から貰ったあの論文を昨日、ダルトンに託したんだけどね。彼からさっき、連絡が来たのよ。彼、徹夜で頑張ってくれたみたい」
「それじゃあ、あの古代の遺物が、現代の技術で解析できたってことかい?」
「いえ。実はパトリック・ラーナーのラップトップパソコン、あの古いパソコンが奇跡的に生きていたの。それが使えたみたい。そして奇跡か、偶然か。ラーナーのパソコンに入っていたデータから、猫の名前も分かったのよ。それで、マイクロフラッシュなんたらメモリの中から、データが抽出できたわ。私はまだ内容の詳細を知らないからアレだけど……――ダルトンの興奮し切った声から察するに、相当なお宝だったみたいね」
「そうだろうねぇ。ペルモンド・バルロッツィの秘蔵っ子が、首から大事にぶら下げてた宝物なんだから。……それで、あの猫の名前は?」
 ラドウィグは、部屋の中央にあるソファーで寒そうに縮こまって眠っている。そしてアストレアは、ラドウィグから奪ったブランケットを被り、部屋の隅で膝を丸めて眠っていた。
「茶トラの男の子は、アポロって名前だったらしいわ。そして白猫の女の子はダイアナ。……バルロッツィ高位技師官僚の一人娘、エリーヌ嬢。彼女が子供の時に拾ってきた野良の兄妹猫だと、あのラップトップパソコンの中にあったのよ」
「白猫? あのロケットの中の写真に、白猫なんか映ってたか?」
「いいえ。白猫は娘さんの看病も空しく三週間ほどで死んじゃったらしいわ」
 二〇代の若い二人が、縮こまって寝ていた間。四〇代のおばさん二人は一時間ごとに交代しながら、見張りをしていた。誰も来ることはないとは分かっていたが、それでも警戒はするに越したことはない。そんなこんなで、六回目の交代のとき。仮眠から覚めたコールドウェルに、ジュディス・ミルズは見張り中に朝一番で届いた吉報を報せていた。
「それで生き残ったアポロは、十四年も生きたそうよ。猫にしちゃ大往生ね。バルロッツィ高位技師官僚も、アポロのことは溺愛していたみたい。論文のパスワードにしちゃうくらいなんだから。あのラップトップパソコンにも、彼の仕事の邪魔をするアポロの写真が何枚もあったとか……」
「あのミスター・ペイルが、ネコ好きだったって? そりゃ初耳だ。彼が大の犬嫌いだってのは聞いたことがあったが、ネコ好きとは……」
「あら、サンドラ。あなた、彼のことを“ミスター・ペイル”って呼んでるの? それこそ初耳だわ」
「ほら、ペイルブルーのペイルだよ。それにあのオッサン、いつも顔色が悪かったろ? だから……」
 短い睡眠で、なおかつ目覚めたばかり。そういうわけでシャキッとしていないコールドウェルの頬――ライオンに引っ掛かれた傷跡が残る左頬――を、ジュディス・ミルズは指の腹でむにっと抓る。ジュディス・ミルズは今、コールドウェルが適当なことをでっち上げて言った思ったのだ。「適当なこと言ってるでしょ」
「嘘じゃねぇってば。ペルモンドなんていう変わった名前と、あの人の蒼い目の色を掛けて、ペイルって。彼の嫁さんは、そう呼んでたらしいぜ」
「ブリジット・エローラとかいう女医さんだっけ?」
「違うな。エリカ・アンダーソンっつー名前の、自動車工の女性だよ」
「聞いたことない名前! 誰なの、そのひと。というか彼は……結婚歴にバツありだった、ってこと?」
「話すと長い。まあ、そういうことだね。詳しいことは後日。アタシが纏めたファイルを渡すよ。ジュディ、あんたがその話に興味があれば、だけど」
 天才で大金持ちだったら、たとえ性格が歪んでいたとしても女性にモテて当然だろ? そんなことを言い、コールドウェルは小さく笑う。ジュディス・ミルズはコールドウェルのその話に、個人的な興味は抱いた様子だが……――今の自分が抱えている任務には関係ない話だと、切り離して考えている模様。さほど話題に乗り気でないジュディス・ミルズの姿に、コールドウェルは唇をへの字に曲げた。
 すると、ソファーの上で寝ていたラドウィグがもぞもぞと動く。彼も目を覚ましたらしい。
「おはようございます。……今、何時だ……?」
「おはよう、ラドウィグ。今は朝の六時だよ」
 コールドウェルがそう答えると、ラドウィグは目を細めて、首を傾げる。そしてラドウィグは猫のように、ヘーゼル色の瞳に開いた黒い孔を縦に細長くさせた。
 そんなラドウィグの“猫目”を、ジュディス・ミルズは自分の目で見たものを再度確認するように、まじまじと凝視する。猫目という言葉の本当の意味を知った彼女は、驚きのあまりにその事実を疑っているようだ。「ねっ、猫目って……まさか、そっちの意味?」
「ん? あぁ、ミルズさん。それ、よく言われるんですよねー。オレが前に大怪我したときにアーサーの血を輸血されてから、なんでか原因は分からないんですけど、こんな猫みたいな目になっちゃったんです。暗闇には強くなった反面、強い光とか日光にはべらぼうに弱くなっちゃって……」
 朝日を眩しがるように目を細めるラドウィグに、コールドウェルは自分のサングラスを渡す。そしてラドウィグは受け取ったティアドロップ型のサングラスを掛けながら、傾げた首を元に戻した。それからラドウィグは、首を傾げさせた理由をボソッと零す。
「それでー……さっき、マダム・モーガンの声が聞こえた気がしたんですけど。オレの気のせいですかね?」
 ラドウィグの言葉に、コールドウェルとジュディス・ミルズの二人は顔を見合わせる。
「さっき……?」
「姐御が『おはよう』って言う、その直前です。マダムがオレの名前を呼んだ気がしたんですが」
「いいえ、少なくとも私には何も聞こえなかったけど……?」
「アタシもだ。そんな声は聞いていないが」
 自分だけがおかしな声を聞いている、らしい。またもラドウィグは首を傾げさせた。
「どうした、ラドウィグ。朝から幻聴でも聞こえてるのかい?」
「いや、姐御。今のは幻聴じゃないと思いますけど」
「幻聴を聞いてる人間は決まって言うのよ。今のは幻聴じゃない、って。錯乱したヤク中とかがね」
「ミルズさんまで……。オレ、ドラッグになんか一度も手を出したことないっすよ。どちらかといえば調合するほうが、オレの専門ですから。っつっても、野草とかを使った超古代的な……」
「猫目くん。あなた、随分とお喋りなのね」
「自然と出ちゃうんですよ。草の話は大好きなんで」
 しかし、とラドウィグは考える。幻聴だとしたらあの声はとても不意打ちで、予想外のものだった。統合失調症や麻薬などの摂取により聞こえるという、自分を詰るような声ではなかったし。ただ、マダム・モーガンの声で「起きなさい、ラドウィグ! 仕事よ!」と怒鳴りつけられただけだった。
 だが、ラドウィグが聞いた声を、コールドウェルとジュディス・ミルズの二人は聞いていないようだ。――ならば、ラドウィグに聞こえたあの声の正体は?
「ラドウィグ。――アンタ、昨日のあれが相当ショックだったのか? ツラいなら、無理に普段通りを装わなくとも」
「誤解っす、姐御! オレは寝たら心境はリセットされるタチなんで、もうあの件は大丈夫ですから!」
 女性二人から注がれる憐みの視線が、じりじりとラドウィグを追い詰める。彼女らは完全に、ラドウィグのことを『頭のネジが緩みかけている可哀想な青年』と認定しているようだ。
 しかしラドウィグ自身は、自分はそこまでイカれていないし、誰よりも正気であると思っている。
「オレは大丈夫ですから……――ってことは、あはは、気のせいだったのかな?」
 ラドウィグは失敗を恥ずかしがるように笑い、はぐらかす。だがそんな彼の耳に、今度は列記とした声が届くのだった。
「気のせいじゃないわよ、アホたれ! 察しの悪いニブちんばっかりじゃないの、まったくもう!」
 突然聞こえた女性――マダム・モーガン――の怒鳴り声に、コールドウェルとジュディス・ミルズの表情が変わる。二人の雰囲気が警戒モードに変わると、そのピリピリとした空気を察してか、部屋の隅で寝ていたアストレアも目を覚ました。
 すると、部屋の中に黒い靄が立ち込める。そして靄の中から女性の姿をした黒い影がふたつ、現れた。
「なぁーにがASIきっての精鋭ですって? バーソロミュー・ブラッドフォードが聞いたら、きっと悲しむわね。レムナントの名前が泣いてるわ!!」
「落ち着いてください、マダム・モーガっ――」
「それにアレクサンドラ・コールドウェル、あんたはすぐに人を精神病に割り当てたがるんだから! カルロ・サントスから、アンタは何を学んだの?!」
「マダム、冷静に!!」
 黒い靄が消えうせたあと、コールドウェルの前に居たのは、黒のスレンダーなパンツスーツを着たマダム・モーガン。それと灰色のフォーマルワンピースを着た、中性的な容姿のヒューマノイドAI:L。
 噂通りなマダム・モーガンの神出鬼没さに、ジュディス・ミルズは目を見開く。すると間髪を入れずに、マダム・モーガンが鋭いナイフのような声色でこう切り出した。
「これから簡潔に、あったことを全て言うから聞き洩らさないで! まずジョン・ドーが逃亡した! そして特務機関WACEの地下施設は壊滅し、アーサーとここに居るメンバー以外は全員死んだわ! アーサーが、彼らを殺したのよ! そしてアルストグラン連邦共和国を支えているものに、ダイアナとかいう女が何かをしたみたいで、急いで修理しなきゃならない。さもなきゃ、この異常気象は日に日に悪化し、そう遠くない未来、アルストグランに住む大方の人間が死ぬことになる。それになんとしても、ダイアナとかいう女を潰さないと――」
「あの、ごめんなさい。順番に、かみ砕いて説明してくださる?」
 早口で語られるマダム・モーガンの言葉に、ジュディス・ミルズが水を差す。するとマダム・モーガンの瞳孔のない瞳が、ジュディス・ミルズを捉えた。そしてマダム・モーガンの怒りの矛先も、ジュディス・ミルズに向けられる。
「追って説明するから、車に乗れって言ってンのよ! 今代のミズ・レムナントは、察しが悪いわね!!」
 感情をセーブすることなく、露骨に怒りをあらわにするマダム・モーガンの姿に、コールドウェルは顔を顰めさせる。まるで冷静でないリーダーだ、と。だが、そのコールドウェルの表情もすぐに変わった。彼女の背筋が、ぞわっと震えたのだ。
「……マダム、その血は」
 マダム・モーガンが着ているスーツの、ジャケットに隠れていた白いシャツ。そのシャツには、赤い血が染みていた。
「ドクター、アルスル・パストゥール。彼の血よ。肺を刺されて苦しみながら、私の腕の中で彼は死んだわ。――……ほら、早く支度しなさい」
 そしてよく見てみれば、マダム・モーガンの長く艶やかだった黒髪は、辛うじてうなじを隠す程度の短さに変わっている。並大抵でない赫怒が、彼女の瞳孔のない蒼い瞳に宿っていた。
「…………」
 底知れない怒りを前に、コールドウェルは何も掛けるべき言葉が見つからなかった。するとマダム・モーガンの目が、コールドウェルを見る。マダム・モーガンはこんな言葉を唐突に漏らした。
「それから、エージェント・コールドウェル。ニール・クーパーの件は、本当にごめんなさい。悪意はなかったのよ」
「……それ、殴られた本人に言ってもらえませんかね?」
「ええ、機会があったら言うわ。……これで水に流してもらえるかしら?」
「はぁ……――分かりましたよ。ただし、これは貸しですからね。マダム・モーガン」


+ + +



 それは未明の出来事。特務機関WACEの本部、地下二階のアイリーン・フィールドのラボ。大男のケイはその部屋の床に突っ伏し、悶えていた。頭を内側からかち割られるような、頭痛とは言い難い得体の知れない苦痛が、彼を襲っていたのだ。
「フィンレイ・エンフィールド。何も恐れることはない」
 やがてケイが動かなくなるまでに、そう時間は掛からなかった。
 そして腰を抜かしたように床に座り込むアイリーン・フィールドは、頑なにその瞼を瞑っていた。彼女が半世紀以上も昔に捨てた、フィンレイ・エンフィールドという本名を、男の優しい声で呼ばれてもなお、その瞼を開けることはない。
「どうした。君は、長らくこれを望んでいたのだろう?」
 真冬のように寒い地上とはまた違う、鳥肌の立つような寒さが部屋には満ちていた。
「違う! そんなこと、一度もないわ! こんなことなんて、私は望んだことない!!」
 男の死人のように冷たい手が、アイリーンの頬を撫でる。そしてアイリーンから、彼女が掛けていた眼鏡を取りさらった。そして再び、男の手がアイリーンの首筋に触れた。
「意地を張るな、フィンレイ。肩の力を抜けば、すぐに楽になる」
「私は、フィンレイじゃない! 私の名前は、アイリーン・フィールドよ!」
 何があっても、目を開けてはならない。この男、アーサーの目を直視してはならない。
 大男ケイは最期に、その身をもってアイリーンにそう伝えた。だからアイリーンは、何をされようがその目を開けることはない。そしてアイリーンを絆そうと試みる男の低い声に、彼女は耳を傾けようとはしない。
「黙れ、黙れ黙れ黙れ! アンタの声なんか聴きたくないわ、アーサー!!」
「本心を隠すことはない。君は私をずっと求めていたのだろう? 知られていないとでも思っていたのか」
「ええ、そうよ! 大昔のあなたは優しくて、素敵な紳士だったわ! アレクサンダーちゃんが、この場所に来るまでのあなたは」
「コルトに私が取られたと、妬いてるのか?」
「いいえ。あなたが、道義心を失くしたことを悔やんでいるのよ」
 強い拒絶を示し続けるアイリーンに、アーサーが苛立っていることは、彼女も感じていた。アーサーは声だけは穏やかに、人の好さそうな紳士を取り繕っているが、そんな彼から放たれる空気は尋常ならざる怒りに満ちている。その怒りはアイリーンにも向けられていたし、床に突っ伏しているケイにも、それ以外の何か大勢にも向けられている。もしかするとその怒りの発端はこの場にはいない、そして特務機関WACEの者ですらない何者かなのかもしれない。
 だが、そんなことアイリーンの知ったことではない。アーサーが何に怒っていたとしても、彼のための犠牲になるつもりは、彼女にはなかった。
「キャロラインとかいう名前の死んだ奥さんに、あの世で三行半でも突き付けられた? だからこうして今、私を口説いてるの? ……昔のあなただったら、こんなことはしない。何が目的かは知らないけど、私は今のあなたを受け入れないから」
「……アイリーン」
「やっと思い出したの? 私の名前を」
 アイリーンは首を横に振り、自分の首筋に触れていたアーサーの冷たい手を払いのける。するとすかさず、アーサーがまたアイリーンに触れた。
 しかし今度の彼の手には、上辺だけの優しさもない。氷のように冷たい彼の右手が、乱暴にアイリーンの後頭部、ポニーテールに束ねられていた髪を掴む。そして掴んだ髪を力づくで下へと引き、彼はアイリーンの顔を上に向けさせた。それから彼の左手が、アイリーンの閉ざされた右目の瞼に触れる。その手つきは、やはり優しさなど微塵もない。
 それはまるで大人しく捕まってくれない羊たちを、吠えて脅すコヨーテのようだった。
 そして次に聞こえてきたアーサーの声は、もはや人間のものではない。サイコパスやソシオパス、それらをはるかに上回る狂気――まさしく邪悪の権化。禍々しい気配だけが、顔を覗かせていた。
「……大人しく、無駄な反抗をせずにいればよいものを」
 髪を掴んでいたアーサーの右手が、今度はアイリーンの顎に回る。それから顎に触れた指が輪郭をなぞり、広がり、首を、鎖骨のほうへと降りていった。
「フィンレイ・エンフィールド。またの名をアイリーン。君は長い間、よく私に尽くしてくれたよ。これでも感謝はしているんだ。だから、言わせてくれ。ありがとう、と」
「嘘なら、たくさんだから。何も、あなたの言葉を聞きたくなっ――」
 そして、アーサーの手に力が籠められる。アイリーンの気道は締め上げられ、片目の瞼はこじ開けられた。
「アイリーン。最期に、私の役に立ってくれ」
 こじ開けられた右目でアイリーンが見たのは、薄暗闇に蒼白く光る目。そしてアーサーが浮かべていた、見た者の背筋を凍らせるほどに冷たい笑みだった。
 息苦しさに喘ぎ、気味が悪いアーサーの笑顔に恐れをなし、思わずアイリーンは両目を開けてしまう。アイリーンが陥った極度の緊張は、イカれた死神に隙を与えた。
「フィンレイ。かつて君を捨て、君が捨てた君の家族たちが、あの世で君を今か今かと待っている」
「……!」
「埃を被っては擦れ、汚れた、罪深い君を。白い光で呑み込み、捕食するために。私には彼らの声が聞こえている。まるで耳元で囁いているように、彼らの声が聞こえているんだ。――……大人しく、その体を差し出せ。そうすれば君は、未来への礎となる」
 やめて、嫌だ、聞きたくない。彼女はそう叫んでいたつもりだが、その言葉は音になっていなかった。がたがたと肩を震わせる彼女の耳には、彼女に呪いをかけるように何かを呟く、アーサーの声だけが聞こえていたわけではない。この場所に居るはずもない、遠い過去に聞いた、懐かしくも疎ましい声も聞こえていた。





「下の階からアイリーンの悲鳴が聞こえて、レイちゃんと二人で向かった時には、もう何もかもが壊滅していたわ。アイリーンのラボは血塗れ。そして地下三階には、パストゥールが倒れていた。そしてパストゥール、彼が死ぬ間際に言ったのよ。ジョン・ドーを外に逃がした、と」
 朝の八時。ろくに寝ていないコールドウェルに代わり、金髪のヒューマノイドAI:Lが運転席に座っている。人間とは一線を画すその正確なハンドル捌きに、後部座席の更に後ろ、折り畳み式のリアシートに座るコールドウェルは感心していた。ヒューマノイドは完璧に、制限速度ギリギリを攻めている。コールドウェルなら制限速度など無視して飛ばすところだが、このヒューマノイドは法律に違反しない範囲で急いでいた。
 そして助手席に座るマダム・モーガンは、淡々と事情を説明している。冷たく乾いた声だったが、滲む怒りの色は消し去れていなかった。
「アーサーの名前を叫びながら、爪で床を引っ掻くアイリーンは、もはや人間の姿をしていなかった。ケイは、自分がどうなるのかが予測できてしまったのでしょう。彼はショットガンで自分の頭を撃ち落としていて、頭は原形を留めていなかった。辛うじて正気で居たのは、パストゥールだけ。けれども彼は、正気ではあったものの、死に瀕していたわ。……まあ、彼も死んだのだけれど」
 コールドウェルと同じリアシートに、並んで座るジュディス・ミルズは、まるで架空の異世界を舞台に綴られる物語を聞くような顔で、マダム・モーガンが語る話を聞いていた。マダム・モーガンの語る言葉が、現実味を帯びていないのは、仕方がない事実であった。
 そして後部座席の左隅に座るアストレアは、外の景色を呆然と見つめている。頭を働かせることを放棄した彼女の耳に、マダム・モーガンの言葉は入っていないことだろう。そしてアストレアとは反対の右隅に座る猫目のラドウィグは、毅然とした顔でマダム・モーガンの頭を見つめていた。彼の横顔は、こんな状況にも慣れていると言わんばかりのもので……――もっと酷い陰惨な状況すらも乗り越えてきた、心身ともに古傷だらけのサバイバーという風貌だ。
 マダム・モーガンの言葉に対する反応はまちまち。それでもマダム・モーガンが、喋ることを止めることはない。
「――多分だけれど。今、この場所では誰も想像していなかった事態が起きている。ペイルは、何かを知っていたのかもしれないけれど。彼は死んだ。彼の預言は、もう二度と聞けない。預言の下に、対策を講じるっていう今までのやり方はもう行えないわ」
 コールドウェルも、動揺していないわけではなかった。
 彼女も、マダム・モーガンが語る話の全てを拒絶したいと思っていた。マダム・モーガンの話したこと全てを嘘だと認定して、馬鹿を言うなと笑いたいところだ。だが、血を見てしまった。そしてマダム・モーガンの、あの顔も見てしまった。見てしまったものを否定することは、コールドウェルには出来なかった。彼女の話は全て事実なのだと、認めるほかに選択肢はなかったのだ。
 それに、昨日アーサーがコールドウェルに告げた言葉も、彼女の胸に引っ掛かっていた。
『私に、君自身の価値を証明してみせろ』
『証明できないのであれば、君を処分する』
 処分。その言葉の意味が、アイリーンらが辿った末路のことを指しているなら。それはなんとしても避けたいものだ。
 自分はアーサーに試されている。それは、間違いない。そしてここに居る他の人間――アストレアやラドウィグ、マダム・モーガンと金髪のヒューマノイド、もしかするとジュディス・ミルズまでもが――は、彼の用意した舞台の上で踊らされているのだ。踊らされているどころか、もしかすると遊ばれてすらいるのかもしれない。
「……なぁ、マダム。アーサーは、神にでもなったつもりなのか?」
 彼は、本当の意味で“神”にでもなったつもりなのか。そんな疑問がコールドウェルの頭に浮かんだのと同時に、口から零れ出る。それに対し、返ってきたマダム・モーガンの返答は曖昧なものだった。
「神、か。もしかすると、そうかもしれない……」
 するとコールドウェルが呈した疑問に、マダム・モーガンが何かを考えこみ始める。マダム・モーガンは腕を組み、表情を強張らせていた。
「……主なる神。久しぶりに聴くフレーズね……」
「マダム・モーガン?」
「ああ、ごめんなさいね。ちょっと、考え事をしてたのよ」
 アーサーは“神”にでもなったつもりなのか。この問いは、あながち的外れでもないとマダム・モーガンには思えたのだ。彼は、人々が思いを馳せて、長らく恋焦がれた“神”という存在に、自らがなろうとしているのかと。だが、マダム・モーガンは同時に疑問に思う。あれがそんな大それたことを考える男だろうか、と。それにあの男は案外、自信家であるとは言い難い。自身に誇大妄想を抱くようなタイプでもない。
 となると……彼は何かに、取り憑かれたのだろうか? 特定の思想や概念といったものに取り憑かれて、心を侵されたのか。または、黒狼ジェドのような……。
「一応、伝えておくわ。アーサー、彼はアバロセレンそのものよ。彼の心臓は、アバロセレンの核。私は彼に本気を出されたら敵わないし、あなた達なんか多分やられるときは一瞬で消し飛んじゃうでしょう。だから、彼に勝負を挑まないほうが良いわ。負け戦は確定ですもの」
 それとも。最近よく耳にした言葉、黎明。曙の女王と同じものに、彼も狂わされたのか? ……そんな仮説がマダム・モーガンの脳裏に浮かぶ。
「……アーサーが、アバロセレンの核だって?」
「ええ、そうなのよ。エージェント・コールドウェル。あなたが戸惑うのも無理ないわ」
 思えば、マダム・モーガンにもあの『声』は聞こえていた。二〇〇〇年以上も昔から、今に至るまでも、ずっと。今でさえも、耳元で誰かが囁いているようにその『声』が聞こえている。
 声がどこから聞こえているのか。マダム・モーガンは直感的に理解していた。それは曙の女王が『黎明』と呼んで敬愛し、そしてマダム・モーガンとアーサーの二人が『ゴミ捨て場』と呼んでいる、あの穴からだ。
「戸惑うのはサンドラだけじゃない。私もよ。それにASIも、国民も、国家すらも! なんて秘密を、あなたは隠していたの……!」
「落ち着きなさい、ミズ・レムナント。説明するから」
 あの穴は、死神という役目に直結する存在だ。その穴は遠いどこかにあって、死神とされたものはそれを手繰り寄せることができる。そしてその穴に、死神は彷徨える死霊を投げ入れるのだ。彼らの首根を掴み、否応なしに放り込む。そこが死んだ者たちの逝く場所だと、そう神に教えられたからだ。
 マダム・モーガン及びアーサーの主である、キミアという名前の神に、そう教えられていた。
「話すと長いわ。でも端的に言うと、まずアバロセレンっていうのは、とある神の骨髄ってところよ。その神の力の源で、そしてその神は『すべてを捩じ曲げる力』を持っている。捻じ曲げるっていうのは、あらゆる不可能を可能に変えるってことよ」
 思えばあの穴から聞こえてくるのは、全てを恨む声ばかりだ。仕方がないといえば、それは仕方ない。なにせあの場所は、強い未練や怨恨を抱えているばかりに、大地に縛り付けられた者たちが死神により引き?がされ、最期に向かう場所だ。恨みつらみ、そんな声しか聞こえてこないのは当たり前だといえるだろう。
 しかしそんな声を長いこと聞きながらも、よく心を病まないものだとマダム・モーガンは改めて疑問に思う。主であるキミアは以前、それについて「俺ちんが、お前から余計な感情を排除したからだ」と言っていたが……――実際のところは、どうなのか。単に彼女が図太い精神を持っていたから、今の今まであの『声』に耳を傾けることをしなかっただけなのかもしれない。だからアーサーは、ついうっかり耳を傾けてしまったのだろうか?
「そしてあるとき、黒狼ジェドがその力の源を『可視化』させた。そうして生まれたのが“アバロセレンの核”と呼ばれているもの。核はやがて少しずつ分裂を始め、液体を漏らし始めた。それが今、私たちがアバロセレンと呼んでいるあの物質よ」
 いや、違う。マダム・モーガンは思う。あの男は仮にあの『声』に耳を貸したとしても、「くだらない」と鼻で笑うだけで終わるだろう。そうとしか、彼女には思えなかった。
 アーサー。彼は冷静で、同時に冷徹だ。それは温厚そうで人の好さそうな人間であるフリをしていた昔から、ずっと変わらずにあり続ける彼の本性だ。キミアは彼のそんな点を見抜いていたからこそ、彼を死後に拾い上げ、死神という奇怪なものに彼を仕立てたのだから。冷徹で、心の内では他を見下している彼の本性は今も変わらずにあるだろうし、それに拍車が掛かっているのかもしれない。
「当初、元老院はアバロセレンの存在を頑なに隠そうとしたわ。私たちが“エズラ・ホフマン”と仮に呼んでいる存在も、初めは頑なにアバロセレンを拒み、それを秘匿しようとした。けれども黒狼ジェドが誰よりも先に、人間にその存在を公表してしまったのよ。ペルモンド・バルロッツィの名前を借りてね。……それが全ての、悪夢の始まり」
 もしかすると、それを悪化させたあまりに、彼には何もかもが『くだらなく』思えたのだろうか。無価値で、無意味で、無益で。それで全てを踏みつぶしたくなったのだろうか。――だとしたら、それを悪化させたキッカケは何だ?
「…………」
 この国を離れていた時期があるマダム・モーガンには、それが分からなかった。
「力を根こそぎ奪い取られて、無力なただのカラスになった神は、怒り狂うどころか大いに喜んだ。これで自分が望んだ世界が作れる、って。そしてカラスが望んだ世界を創るために、使者として選ばれたのが、今のアーサーなのよ。死んだ体の中にアバロセレンの核を埋め込まれて、否応なしに甦らされて……――でも本人はきっと、つい最近まで自分の身体の中にある核の存在に気付いていなかったはず。私は教えていないし、キミアにも秘密にしろと命じられていたから。なら、彼はいつそれに気付いたのかしら。だとしたら、何があったの……?」
 マダム・モーガンの零した疑問。しかしそれに答えられる者は、この場所には居なかった。
 と、そのとき。ジュディス・ミルズが、彼女の耳に手を当てる。するとジュディス・ミルズが、こんなことを口にした。
「……ASIから、新情報が。女好きのアルファが、ジョン・ドーを?まえたそうよ。見覚えのあるウィッグ、見覚えのある黒ドレス、見覚えのあるヒール靴で、彼は何かから逃げていて、さらにひどく怯えていたんですって。そこでASIとして、アルファが彼に保護を申し出たところ、少し落ち着いた。だから、今からアルファはASI本部に向かうって。それで、どうします?」
 見覚えのある。その言葉を言うとき、ジュディス・ミルズはしきりにコールドウェルへ視線を送っていた。ということから考えるに、多分そのウィッグやドレスは、かつてコールドウェルが使っていたものだろう。
 つまり、女装で逃げたということか? ……その光景を想像してみると、コールドウェルの心境は複雑になった。なにせ彼が着ているのは、彼女の衣服なのだから。
 あの安ドレス。それとニールに笑われたウィッグに、すぐヒールが外れる靴。あれなら、まあ許してやろう。どれも気に入ってなかったブツだし。……コールドウェルは、そう自分に言い聞かせる。しかし本音を言うと、納得していなかったし、どことなく気持ち悪い感覚を覚えていた。

 かつて自分が、一瞬でも着ていたものだ。
 それをろくに知らない相手が、それも男が、アタシに無断で着ているって?

 アストレアやジュディス・ミルズなど、よく知っている女ならまだしも、とコールドウェルは考えていた。彼女らなら許せただろうが、男は……――冗談がキツい。
 とはいえきっと、彼はあのサー・アーサーから逃げている最中なのだろう。見た目を変える必要があったのだ。そう、仕方ない。仕方ないのだ。
「……女装、か。よりによって、アタシが本部に置いていった服かい……」
 そんなことをコールドウェルが考えていると、マダム・モーガンが再び口を開いた。
「私とラドウィグ、アストレア、それからレイは、ASI本部に向かうわ。エージェント・コールドウェル、あなたは連邦捜査局シドニー支局に向かいなさい。それから、ミズ・レムナント。あなたはシドニー市警に向かうんでしょう?」
 マダム・モーガンのその言葉に、ジュディス・ミルズが固まる。潜入工作員として一番知られてはならない情報、つまり潜入先を、マダム・モーガンが握っていたからだ。
 するとマダム・モーガンが、薄気味悪く笑う。
「安心しなさい、漏らしたりしないわよ。ASIとは良好な関係のままであり続けたいから。……それが、バーツとの約束だし」





「あー、スカイ。多分、お前は今日……この支局から出れない、な」
 時刻は午前九時。ぐったりとした顔をした人々が、連邦捜査局シドニー支局の中にぞろぞろと入ってくる中。異常犯罪捜査ユニットのオフィスに移ったニールは、同じ部屋に居る自分の娘スカイに言った。
「スカイ。退屈かもしれないが、今日はこのオフィスの中で大人しくしていてくれ。シドニー支局は今、大きな仕事が入っていて忙しいんだ。捜査官たちの手を煩わせるようなことは」
「ねぇ、パパ。私は十七歳だよ、駄々っ子じゃないから。大丈夫、邪魔しない。今日はずっと、この部屋で勉強してるから。パパの仕事も、他の人たちの仕事も邪魔しないよう努力するよ。じっと息を殺して、テキストと睨めっこしまーす」
 昨晩から未明にかけて起こった異常気象による寒冷で、バスやら電車やらの多くの交通網は麻痺。道路も、夜間に発生した事故の対応に追われて、その多くは交通止め。そして国内全土、その大半の学校は休校せざるを得ない事態に発展した。よってスカイの学校も休み。彼女は、休日となったのだ。
 だが休日なのは学生だけだろう。心優しい企業に勤めている幸運な者でない限り、大半の社会人にとっては今日も普通の平日だ。混乱した交通網をどうにか攻略し、日々の務めに今日も励まねばならない。
「……スカイ。ママに、迎えに来てもらうか?」
「えー、ヤダ。今日だけは本当に、日中は帰りたくない」
「おい、スカイ。さっき『駄々っ子じゃない』って言ったばっかりだろ? 早速ダダを捏ねるのか?」
「家に居たら、まともに勉強も出来ないよ。だって今日はたしか、おじいちゃんおばあちゃんが家に来るって予定があったはず。グラン・バーバラなら、好きだから問題ないんだよ。でも、ママのほうのおじいちゃんおばあちゃんは……」
 グラン・バーバラ。それはニールの母である、バーバラ・アーチャーのことである。仕事で忙しい父ニールと、一切赤子に関心を示さなかった母シンシアに代わり、グラン・バーバラは赤ん坊だった頃のスカイの世話をしてくれていた。それもあってか、成長した今でもスカイはグラン・バーバラが大好き。そしてグラン・バーバラが焼く上等なテーブルロールも大好きだった。
 しかしスカイは父方の祖母を好いておれど、母方の祖父母はそうでもなく、どちらかといえば敬遠していたのだ――父親と同じように。
「クーパー家の住人は性格がキツすぎるもの。クーパー家で染まった空間には、あんまり居たくない」
「スカイ。お前もクーパー家の住人だ。忘れちゃいけないぞ」
 スカイが敬遠するのも無理はないと、ニールは思っていた。ニールも、というよりもスカイ以上にニールが彼らを敬遠していたからだ。仕事を理由に、妻であるシンシアの両親と会うのを避け続けているほどだ。血縁のないニールはそれが辛うじて許されているが、可愛い孫娘であるスカイは、そうはいかないだろう。
 シンシアの両親は、悪い人たちではない。だが、できれば会いたくない人たちであることには間違いなかった。なにせ、何かにつけてニールを「これだから貧乏の出の白人は!」だの「片親で育った人間は、これだからダメなのよ」と貶めてくる。大抵のことは笑って受け流す温厚なニールも、そう言われて気分が良いわけがない。――それが二〇年近くも続いているのだ。振り撒くべき愛想も、ニールの中ではとっくに尽きていた。
 しかし彼らの身内になってしまった以上、縁を切るまではその仕打ちに耐えなければいけないわけだ。だが、ニールはその言葉を許すことはない。受け入れることもない。そして憤慨を、表に出さない。強い反対を押し切って婿入りした者である以上、強いことは言えないからだ。よってストレスは溜まっていく一方。コールドウェルとの夕食の席で、義理の両親に対する愚痴も増える一方だ。
 そしてストレスが溜まっているのは、ニールだけでない。スカイも同じだ。
「ねぇ、パパ! 私、成人したら姓をアーチャーに変えていい? クーパーのままは嫌だから」
「そんなこと言っちゃいけないよ、スカイ」
「でも昨日は、あんなこと――」
「思っていても、言っちゃいけないことだ。ママが傷付くぞ」
 スカイの不満を否定せず、かといってクーパー家を擁護もしない。そんな曖昧な言葉の裏に、複雑な父親の心境を察したスカイは、窄ませて尖らせていた唇を一文字にする。
 じめっとした、嫌な空気が充満してしまったオフィスの中。父娘は途端に、無言になった。
「……」
「…………」
 するとその時、オフィスの入口ドアがバンッと強い音を立てて開けられる。スカイはビクッと肩を震わせた。
「チーフ、大変ですよ! 新聞社がギャングの件を嗅ぎ付けて、支局にきました。チーフに説明を求めてます! それとギャングの親たちが、連邦捜査局の対応が不誠実だとかメディアに訴えているんです!」
 やってきたのは、額からぼたぼたと汗を流すエドガルド・ベッツィーニ特別捜査官。
「新聞社が、ここに。――……親たちもだって?」
 報道陣に情報が流れてしまうことは避けようのない事態。最初の事件が発覚してからだいぶ時間が経っていた以上、報道陣の耳に伝わり、彼らが押し寄せてくるのは時間の問題だとはニールにも分かっていた。
 だが、だとしたらベッツィーニ特別捜査官の焦り具合は異常を極めていた。悪いニュースはそれだけではない、とでもいう顔だ。するとベッツィーニ特別捜査官はニールの予想通り、最高に悪いニュースを口にした。
「最悪なことに、情報を流したのはこの支局の人間。うちに事件を取られたことを恨んだ誰かが、流したみたいで。うちのユニットを含め、シドニー支局にすぐにでも内務調査が入る予定だそうです!」
 情報を流したのが内部の人間だということは、とてもタチが悪い。さらに内務調査が入るというのは、うんとタチが悪かった。
「内輪揉めしている状況じゃないってのに……――情報を流した馬鹿は、なにを考えてるんだ!!」
 苛立ちから、思わずニールは声を荒らげさせる。またスカイは、肩をブルッと震わせた。
 すると今度は、別の方向から怒鳴り声が聞こえてくる。今度は、女の声だった。
「ニール・アーチャーは居るかァッ!!」
 声の主は、ひどく疲れ切った顔をしたコールドウェルだった。
 長い金髪の髪を適当に後ろで束ねた彼女は、着ていた赤いレザージャケットとは裏腹に、蒼褪めた顔をしていた。そしてベッツィーニ特別捜査官およびスカイは、初めて見るコールドウェルの「黒スーツ」以外の服装に驚く。赤いレザージャケットに、真っ白なVネックのTシャツ、そして暗い灰色のジーンズ、それから白地に金色のアクセントが混ざったスニーカーを履く彼女の姿は、普段のクールさをかなぐり捨てていた。彼女が持つワイルドさ、ないしガサツさばかりが際立っていたのだ。
 それから普段よりもずっと濃いアイメイクは、三白眼の目力を格段に高めている。そんなコールドウェルの目で見つめられたニールは、一瞬で冷静さを取り戻した。今度は猛獣が、悪いニュースを持ってきたことを予感したからだ。そしてコールドウェルは、真っ赤な口紅が塗られた口を大きく開ける。
「ニール、まずは朗報だ。ASIがジョン・ドーを確保して、ハッキリと分かったよ。あいつは被害者のひとりだ。あいつの背中に、一週間前だかにナイフか何かで切り付けられたと思われる傷があった。多分、血はその時に着いたやつだ。とはいえ彼は今、口が利けない状態でね。それ以上の情報は得られていない」
 緊迫する空気に、スカイは肩を竦ませる。父親の仕事がこれほど怖いものだとは、想像したこともなかったからだ。
 いつも優しくて笑顔の印象しかない父親は、鬼のような形相で声を荒らげるし。ベッツィーニ特別捜査官は焦って焦って焦っているし。いつもニヤニヤ笑っていて、余裕のある謎の凄腕仕事人アレックスおばさんですら、キツイ顔をしている。ここはなんて怖い職場なんだ、とスカイは思っていた。そしてスカイの本音は口から零れていく。
「……うわぁ、どうしよう……」
 しかしスカイは知らない。今日が特別に緊迫しているだけだということを。
 そしてコールドウェルは、続きを話す。今度は悪いニュースだ。
「続いて、悪報だ。犯人は特定された。通称、曙の女王。ASIが今、総力を挙げて追っているよ。それでアタシは連邦捜査局とASIがうまく連携できるよう、調整役をやるつもりだ。だが、あまりASIにも、そして現実にも期待しないでくれ。アタシには犯人が逮捕できると思えないんだ」
 逮捕できると思えない。その言葉に、ベッツィーニ特別捜査官が眉を顰める。そしてニールも、表情を曇らせた。またか、とニールは思っていた。犯人は化け物で、やはり予想していた通りの展開が来ると。
 そうして、コールドウェルが口にした言葉はこれだった。
「レッドラムの再来なんてもんじゃねぇ。バーソロミュー・ブラッドフォード暗殺事件の再来だ。特定できても、捕まえられないんだよ。捕まえたところで、容易に逃げられるから」
 アイメイクだけではない。コールドウェルの目には、いつもよりもギラギラと強く輝く眼光があった。タフさや強情さといった戦いを求める普段の眼光とは違う、何か覚悟を決めたような目だ。
 ニールは彼女の目に、覚悟と共に後悔を見ていた。そしてニールにとって懐かしい服装と思える彼女の服装に、込められた意味に彼は気付く。
「……で、どうするかい。ASIはこの戦いに臨むつもりでいるよ。アタシも今、全てを犠牲にしてここに居る。アンタたちは、どうする。人事を尽くしきる覚悟はあるかい?」
 コールドウェルのくぐもった声に、ベッツィーニ特別捜査官は無言で頷く。しかしニールはコールドウェルから目を逸らしてしまった。彼が視線を向けたのは、状況を飲み込めず困惑しているスカイ。するとスカイはニールの視線に気付くと、何かを察し、それから父親に向かってニコッと笑った。
 スカイにとってそれは、単なる苦笑いのつもりだった。だがニールは、そう思っていなかったようだ。
 そしてニールは、コールドウェルの目を再び見る。
「アレックス。よろしく頼む」
 約三〇年ぶりに見たような気もする、ニールの男らしい姿に、コールドウェルは少しだけ頬の緊張をほころばせた。それからコールドウェルはニールの許に歩み寄る。そしてニールに向けて、手を差し出した。
「ニール。後悔の無いようにやりきろう、お互いに。それから、神が笑いかけるのを待とうぜ」
 差し出されたコールドウェルの手を、ニールは強く握る。そしてニールはコールドウェルの赤い肩を抱き寄せた。
「ああ、やろう。三〇年前の二の舞いはゴメンだからな」
 スカイには、父親の顔がどんな顔をしているのかが分からなかった。コールドウェルの背中に隠れ、俯いていた父親の顔がよく見えなかったからだ。
 だが涙ぐんでいるように思える父親の声に、スカイの中にあった漠然とした疑問が確信に変わる。二人の友情は友情でも、それだけの関係ではなかったことを、スカイは理解してしまったのだった。


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