アンセム・フォー・
ラムズ

ep.16 - I rise in the dawn

 太陽の下に、永遠に生き続けるのは神々のみ。人間というものが生きられる日数には、限りがある。人々の為すことは、神々にとっては一瞬の風に過ぎない……。
「――どうした、ジュディ」
 二日に及んだ調査任務を終えて、アリス・スプリングス跡地を飛び去り、シドニーへと戻ろうとしている輸送機の中。詩のような独り言をぼそぼそと呟き始めたジュディス・ミルズに、そう声を掛けたのは、疲れ切った顔をしたアレクサンダー・コルトだった。そしてアレクサンダー・コルトの問いかけに、ジュディス・ミルズは答える。「ギルガメシュ叙事詩。ふと思い出しただけ」
「どうして?」
「なんとなくよ。理由なんかないわ」
 どうして、その詩が思い浮かんだのか。はぐらかすようなこと言ったジュディス・ミルズには、それが分かっていた。それは彼女が、かつての仲間の顔を思い出して、難しいことを考えてしまっていたからだ。
 命が有限でないことを、彼女は改めて思い出してしまった。そして強い風に吹かれては一瞬で消える蝋燭の火のように、個人とは儚いものであることを知った。
 それから漠然と、彼女はまだ死にたくないと思った。だが彼女は色々な話を聞いていたし、色々と知っていたからこそ、無限に生きたいとは思えなかった。そうして彼女が思い出したのが、古代の人々が紡いだ叙事詩。永遠の命を追い求めた王の物語だったのだ。
 そうしてジュディス・ミルズはまた、ぽつぽつと言葉を零す。今度は独り言ではなく、無学なアレクサンダー・コルトに対してだ。
「私たちは明日のことを考え、五年後、一〇年後のことを考える。その程度のスパンでしか、物事を見ようとしないのよ。それは私たちが、そう長く生きられないことに由来する。なら、長く生き続ける彼らはどんなスパンで物事を考えるのかなって、そう思ったのよ」
「彼ら、ってのは?」
「あなたの元上司たちよ、サンドラ。死神さんたち。だってマダム・モーガンは、もう二千年以上の時を生きているんでしょう? そんな彼女のような存在が見ている未来ってどんなものなんだろうって、ちょっと考えてただけよ。それで思い出したのが、ギルガメシュ叙事詩」
「へぇ……?」
「となれば、人類の滅亡を願うコヨーテ野郎の見ている未来なんて、私達には分かりっこないわよね。きっと彼は五千年とか、それよりも遠い未来を視てそう。人間が居なくなって綺麗になった地球を思い描いてるからこそ、人類の浄化を試みてるとか? ねぇ、どう思う。サンドラ」
 ジュディス・ミルズがアレクサンダー・コルトにそう問いかけ、相手の顔を見たとき。ジュディス・ミルズは、相手の顔に違和感を覚えたのだ。何か気難しそうな顔をして、記憶を隅から隅までほじくり返し、何かを思い出そうとしているような、そんな表情をアレクサンダー・コルトは浮かべていたのだ。
 これは、まさか。ジュディス・ミルズは、ある検討をつける。
「……あなた、もしかしてギルガメシュ叙事詩を知らないのね?」
 するとアレクサンダー・コルトは気難しい顔を照れ笑いに替え、正直なことを打ち明けるのだ。
「お恥ずかしながら。知らないんだ、まったくね。名前しか聞いたことがない」
 本当のことを言うと、アレクサンダー・コルトはその名前『すら』聞いたことがなかったのだが。少しばかり見栄を張ってしまった。それでも、なんら内容を知らないことには変わりないのだけれども。
 しかし寛大で優しい、そしてとにかく優しいジュディス・ミルズは、知らないことを咎めはしない。というのもこの時代において、超古代の叙事詩など普通に生きていれば必要のない知識であるからだ。それについて学校で教えられるなんてこともないし。古きも新しきも、芸術とつくものは全て軽視する傾向のある今の時代において、そんな古代の物語に興味関心を示し、多少の知識を収集する者の数は限られている。要するに知っている者のほうが少なく、アレクサンダー・コルトのような反応が普通。
 そこで優しくて優しい、とにかくイイ女であるジュディス・ミルズは、芸術への理解や関心はからきしダメな野獣アレクサンダー・コルトに、手ほどきをしてやることにしたのだ。
「ギルガメシュ叙事詩っていうのは、古代メソポタミアの文学作品で、十二の粘土板からなる物語。メソポタミアと呼ばれてた地域が中東のどこかにあったらしいと言われてるんだけど、二十二世紀から二十四世紀頃の間のどこかで起きたとされている中東の核戦争で、あの地域は丸ごと吹き飛んじゃった上に、中東っていう場所に関するあらゆる歴史的記述が失われた今じゃ、分かることがこれといって何も――」
「あー、ジュディ。その叙事詩のあらすじだけ教えてくれないか」
 だがこの金髪の野獣アレクサンダー・コルトは、とにかくせっかちである。背後にある歴史からまず勉強するという芸術の醍醐味を、なんら分かっちゃいないのだ。
「ああ、あらすじ? ギルガメシュっていう暴君と、エンキドゥっていう野人が、出会って早々に取っ組み合いの喧嘩した後、最高の親友になるって話よ。そのあと二人はバディを組んで旅に出る。野獣を倒すためのね。そして野獣を倒して凱旋すると、なんと女神さまがギルガメッシュに恋を――」
「なあ、ジュディ。もしかしてだが、アタシを馬鹿にしてるのかい? アタシが内容を知らないのをいいことに、なんかの漫画のあらすじか、またはでたらめを言ってるんじゃないのか」
「いいえ! 私は大幅に要所を端折ってはいるけど、嘘は吐いてないわよ」
「……信じられねぇな」
 そのうえアレクサンダー・コルトは、変なところが捻くれている。何故だか彼女はジュディス・ミルズを疑うような目で、じーっと見てくるのだ。だがジュディス・ミルズは本当に、嘘など吐いていない。
「あー、つまりね。要点だけを言うと。ギルガメシュっていう王様には、エンキドゥっていう友人が居たのよ。二人は幾つもの苦楽を共にしてきた最高の親友だったけど、あるときに不幸な運命のせいでエンキドゥが死んじゃうわけ。そして友人の埋葬を終えた後に、ギルガメシュは死が怖くなって、永遠の命を求める旅に出るのよ。旅の果てで、ギルガメシュは不死者の許に辿り着くけど。でも不死を得る方法は結局、分からず仕舞い。でも代わりに不死者はギルガメシュに、海の底にあるっていう若返りの植物の在り処を教えるのよ。そしてギルガメシュは海を潜り、その植物を手に入れるけど、せっかく手に入れた植物は蛇に横取りされちゃう。結局、ギルガメシュは何も手に入れることが出来ず、泣く泣く自分の国に帰って、天寿を全うすることにしたっていう話」
「……それが、ギルガメシュ叙事詩なのか?」
「そうよ。これがギルガメシュ叙事詩」
 流れをこれほどまでに省略し、簡潔に教えてやったが。しかしジュディス・ミルズを見るアレクサンダー・コルトの目は依然、疑いを抱いたまま。これはいくら丁寧に解説してやったとしても、この猛獣は信じやしないだろうと感じたジュディス・ミルズは、そこで古代の叙事詩に関する話は打ち切ることにした。
 その代わりにジュディス・ミルズが切り出したのは、そもそもの本筋である話題。どうしてギルガメシュ叙事詩なんてものを思い出したのか、その原因である疑念だった。
「私たちが、一瞬の風に過ぎないのであれば。悠久の存在にとっての私たち人類っていうのは、何なのかしらね。そんなことを、考えちゃったの。私たちが掲げる信念の意味、そして私たちが私たちの信念のために払ってきた犠牲の価値。それが、私には分からなくて」
「……」
「だって、一瞬で消えるものなのよ? 空から降ってきた雪の結晶ひとつにお金を払えって言われても、私は一瞬で消えるそんなものに払いたくない。なら彼らから見た私たちって、その雪の結晶みたいなものなんじゃないのかなって。そんなことを、つい考えてしまうのよ」
「ジュディ。そういうことは、金で計るべき問題じゃないさ」
「そう思えたら、私もよかったんだけど。……はぁ。仕事終わりの輸送機の中って、前はすごく騒がしかった。野郎どもがポーカーに一喜一憂している声とか、どうしようもない卑猥な話とか。そういう声を聞きながら、皆の無事を静かに安堵して、仮眠するのが私にとっての当たり前だったのに。今はすごく静かで。どうにも、慣れない。静かだと、余計な考え事が捗るわね」
 シドニーへの帰路を飛行中の輸送機の中は、この輸送機と共に空軍から派遣された二人組のパイロットと、ジュディス・ミルズとアレクサンダー・コルトの二人、それからASIから貸し与えられた調査用の機材が幾つかだけ。巨大な機体が大気を切って滑空する、ごうごうという低音と、ジュディス・ミルズとアレクサンダー・コルトの会話の他には、これといって音は無い。
 ここはあまりに静かだった。過酷な仕事終わりの騒がしさが、ここにはない。静かであるという点では、仮眠には最適な環境だといえるだろう。だがジュディス・ミルズは、胸の中にある寂しさを否定することが出来なかった。そして静けさを埋めようと頭の中をうるさくすればするだけ、寂しさが増す。そうしてイヤな考えばかりが、頭を支配するようになるのだ。
「今や特殊作戦班は、私とあなた、それと猫目くんだけ。エコーは情報分析課に異動してデスクワーク組になったし、デルタはASIを辞めちゃったし。アルファ、ブラボー、チャーリーの三人は死んじゃった。あれから時間はだいぶ経ったけど、やっぱり寂しさが薄らぐことはないわ」
「……」
「それでも、はたして私たちの払った犠牲に、それ相応の対価があったのかが分からないのよ。私たちの唯一の成果であるイザベル・クランツ高位技師官僚も、国民からの支持は薄いし、それに……」
「悲しいこと言うなよ、ジュディ。そんなことないさ、きっと」
 弱音を零すジュディス・ミルズに、アレクサンダー・コルトはそう言葉を返す。けれどもそう言ったアレクサンダー・コルトの声に、思いやりの心といった温もりは感じられない。乾燥し切った岩肌のように、アレクサンダー・コルトの声は荒れ果てていたのだ。要するに今の言葉は、ジュディス・ミルズを諌めるようでいて、アレクサンダー・コルトが自身にそう言い聞かせていたということなのだろう。
「……そう、よね。泣き言なんか零してたら、あの世にいるブラボーに笑われちゃうわ」
「チャーリーにも、笑われるな」
「アルファは……」
「あいつは今頃、幽霊になったのをいいことに、女の風呂でも覗いてるんじゃないのかい?」
「ふふっ、そうかも。でも、私は祈ってるわ。彼が、ケイトと再会できることをね……」
「おっと。ジュディス・ミルズの口から、ロマンティックな言葉が出るとは意外だね」
「死後の世界に縋りたくなっただけよ。……死んでいった仲間たちのもとに、安息が訪れていることを信じていたいのよ。でなきゃ私が、後悔の中に溺れてしまいそうで――」
「そうだな。ああ。死んでいった仲間たちに、安息があることを祈ろう……」
 つまるところ誰にも否定できないのだ。この全てに意味があったのか、価値があったのか、と問う疑問の声を誰も、そんなわけがないと切り捨てられずにいる。
 こんな暗い話題を続けていたところで、空気は悪くなるばかりだろう。そこでジュディス・ミルズは、まだ救いのありそうな話題に切り替えることにした。「……それで、サンドラ。コヨーテに襲撃されたアーチャー支局長の、その後の経過の情報って入った?」
「ああ。この輸送機に乗り込む前に、副支局長のランドールから連絡があってね。彼が教えてくれたよ。ニールは全治二週間ぐらいの重傷だが、命に別状はないってね。経過も順調だってさ。意識もハッキリとあって、悪態を垂れる元気はあるみたいだし、心配することは何もないとよ」
「良かったわね。ひとまず、彼が助かって」
「ああ。本当に、良かった。ただ、安心はできない」
「二度目の襲撃はあり得ない、とは言い切れないものね。コヨーテ野郎の考えることは、ASIの心理分析官たちでさえも把握できていないから。最悪の展開を予測し、備えておくに越したことはないもの……」
 二日前の夕頃。アレクサンダー・コルトとジュディス・ミルズの二人が、アリス・スプリングスに向かう輸送機に乗り込んだ直後に、あの連絡は入った。ASI本部で待機しているヒューマノイドAI:Lから緊急で、アレクサンダー・コルトに伝えられたのだ。ニール・アーチャー、彼が会見の途中に“憤怒のコヨーテ”に襲われて、搬送されたと。
 あれからアレクサンダー・コルトは暫く、気が気でなかった。そんな様子の彼女を横で見つめていたジュディス・ミルズもまた、不安に駆られていた。彼は助からないのでは、と。降り立ったアリス・スプリングスの、砂と太陽以外には他に、まったく何もない景色を仕事の名の下にほっつき歩きながら、二人の心はずっとざわついていたものだ。
 そうしてアリス・スプリングス跡地を延々と歩き回って、終えた調査の結果は『全てが跡形もなく、綺麗さっぱり消え去っている』。それ以外に、何も得るものはなく。予想していた通りの結果に肩を落としながら、帰りの輸送機に乗り込もうとした際に、アレクサンダー・コルトの許に届いた連絡だけがここ数日間で唯一の吉報。連邦捜査局シドニー支局、副支局長ジェームズ・ランドールが伝えてきた言葉。ニールは助かった、というものだった。
 その言葉はまるで、砂漠の中に見つけた湧水のように貴重で、心の底から堵に安んじたものだ。だが、懸念は尽きない。ジュディス・ミルズが言ったように、再びの襲撃がないとは限らないからだ。
 今回、ニールは助かった。だが、もし次があったとしたら? ――そんなことを考えてしまうと、せっかくの喜びも、なんとなく薄らいでしまうのだ。
「気まぐれがすぎるオヤジの考えてることなんて、誰にもわかりゃしないさ。でなきゃここまで、アタシたちは彼に振り回されてないよ。それに、アーサーだけじゃない。マダム・モーガン、曙の女王、元老院。きっと、他にもある。色んなものが絡みすぎているんだ。まるで全体像が見えてきやしない……」
 懸念は次なる懸念を呼び、その連鎖はとどまることを知らない。未来を思えば思うほど、不安な心情は高まっていく。それを得られないと、知っているからだ。
 だがその裏で密やかに、無謀ともいえる渇望もまた高まるのだ。それが叶わぬものであると、知っていながらも。それと、せめて今日か明日だけは素敵な日で会ってほしいと祈る、少しの願望も湧いてくる。
「あー……ねぇ、サンドラ。シドニーに着いたらすぐ、あなたはアーチャー支局長のお見舞いに行くんでしょう。私もあなたに付いて行って、いいかしら?」
 ジュディス・ミルズがふと口にした、そんな頼み事。アレクサンダー・コルトは嫌な顔こそしなかったし、嫌な気分もしていなかったが、ぽっと出たそのお願いに、首を傾げさせた。
「ああ、アタシは別に構わないが。だがー……向こうは怪しむぞ? 市警を辞めたエイミー・バスカヴィルが、なぜ然程親しくもないのに見舞いに来たんだ、って。それにシドニー支局の連中も居るだろうし。支局でも、シドニー市警鑑識課のエイミー・バスカヴィルってのは有名人だぞ? とびきり美人なのに浮ついた噂が一向に上がってこない、ミステリアスな女性としてな」
「それを承知の上でね。それじゃ、決まり! 私も行くわ」
「ジュディ、それなんだが……」
 どうしてもニール・アーチャーに会いたい様子のジュディス・ミルズだが、その反面、アレクサンダー・コルトは彼女が同行することを渋っている。
 アレクサンダー・コルトがジュディス・ミルズを連れて行きたくないのには、また別の理由があったのだ。それはニールではない、もう一人の男の話。
「お荷物が他に一匹、居るんだ。シリル・エイヴリー、やつも何故かアタシと一緒に、ニールを見舞いに行くって言ってるんだが。そこは、大丈夫なのか?」
 アレクサンダー・コルトが、ジュディス・ミルズの同行を渋っている一番の理由は、空軍のシリル・エイヴリー少佐に原因があった。そして、それには二つのわけがある。
 まず、第一に。シリル・エイヴリー少佐は、ジュディス・ミルズを知っている。しかしそれは、シドニー市警を退職したエイミー・バスカヴィルとしての彼女ではない。ASIアバロセレン犯罪対策部のジュディス・ミルズを、彼は知っているのだ。
 それから、シリル・エイヴリー少佐は決して純粋な気持ちでいるわけじゃない。彼は単に、ニール・アーチャーというライバルに対抗心を燃やし、圧をかけたいだけなのだ。そんなシリル・エイヴリー少佐が、ニールと顔を合わせれば、火花が散るのは避けられないのだろう。だから、そんな下らない男どもの喧嘩に、アレクサンダー・コルトはジュディス・ミルズを巻き込みたくなかったのである。
 だがジュディス・ミルズは、思いもよらない返事をする。
「ええ、大丈夫よ。全然オーケー。むしろ、大歓迎だわ」
「……ジュディ? なんだか様子が変だが」
「別に、なんでもないわよ。ただ、彼に会うのが楽しみなだけよ。いえ、正しくは“彼ら”かしら」





 これは全て、夢だ。そのことを彼は、はっきりと分かっていた。多分、あの意地悪な海鳥が見せてくれている悪い夢なのだろうと、彼は分かっていた。
『……どうかしたの、ダーリン。背後なんか気にして。もしかして、緊張してる?』
『あぁ、いや。何でもない。ただ、何かの気配を感じたような気がしただけさ』
 彼には、自分自身が見えていた。まるで映画でも観ているかのように、若い日の自分が、まだ内に秘めた毒気を隠し続けていた頃の自分が、彼の目には見えていたのだ。そして若い日の、実に美麗な妻の姿も見えている。その場面に立ち会っているかのように鮮やかに、自然に、その全てが――。
 だが、これは夢なのだ。昔の記憶から引っ張り出され、描き出された夢。この全ては、現実ではもうとっくに失われているのだ。場所も、人も、時間も。それら全てが、もう存在しない。
 ひどい悪夢だ。彼はそう思う。なにせその全てが、懐かしくて堪らないのだから。あの頃に戻りたいと、ひどくそう思わされる。この夢から醒めたくないと願ってしまう。そう思えば思うだけ、余計に苦しくなるのだ。この何もかも全てが、もう二度と取り返せないことを彼は知っているのだから。
『気配? そういえばさっき、あなたの後ろをウェイターが早足で通っていったけど』
『なるほど。多分、それだろうね』
 背後に立つ死神に気付くことなく、妻の立てた仮説を受け入れる若い日の彼は、挙動不審に見える振る舞いをしてしまったという少しの恥ずかしさから、ほんの少しだけ顔を伏せさせて、はにかむような笑顔を浮かべてみせる。そして俯いた拍子にズレた前髪を、彼は直すのだった。――そんな自身の姿を背後から見つめながら、傍観者である彼はふと思い出す。当時の自分はまるで何も考えていなかったということを。
 憎悪と後悔ばかりの過去も、過去と決別した後の葛藤も、それらを乗り越えてやっと手にしたごく普通の平穏な日々も、目には見えない何かに希望を奪われて沈んでばかりいた黄昏時も。乗り越え、同時に打ちひしがれてきた多くの艱難辛苦の中でも、やはり彼は何も考えていなかった。嫌な記憶も、幸せな時間も、その全てのときを過ごしてきた故郷がある日突然、光と共に消滅するだなんてことを。彼は一度も考えたためしはなかった。
 全ては当たり前のように続いていくとばかり、漠然と信じていた。そして、あの日のこの場面のときは、まさにそうだった。それを彼はよく覚えている。自分が何も考えていなかったことを、よく覚えていた。
『……それで、キャロライン。何の話だっけ?』
 夢の中で見えている若い日の自分の姿と、彼の記憶の中にあるあの日の容姿は見事に一致している。そして傍観者である彼は、小さく笑ってしまうのだ。馬鹿さを晒している、かつての自分自身の姿に。
 年相応の、短すぎずかといって長いわけでもない枯草色の髪。その前髪を年相応の爽やかさが出るように、ワックスで適度に上げて、毛先も少し遊ばせている。そして上等なネイビーのテーラードジャケットには、白シャツとベージュパンツ、キャメルの革靴を組み合わせて……――今見てもその容姿は、決して悪いわけじゃないだろう。ジャケットはタイトに着こなしているし、清潔さもあって、見た目にはそう悪い印象は抱かない。父親に唯一みっちりと仕込まれた身だしなみだけは、昔から完璧なものだったと彼は改めて自分をそう評価する。だが、そこが問題なのだとも彼は考えるのだ。
 かつての自分はそんな風に、見た目にばかり気を配る男だった。あとは気分屋な妻のご機嫌伺いと、好奇心旺盛ですぐ迷子になる娘の世話に、不穏な動きばかりを見せる幼馴染の偵察と、精神が不安定な親友のサポートに、その他知り合いや同僚、上司たちの顔色を窺ったりなど。何かと生活は手一杯で、けれども不満は何もなくて……。つまりかつての彼は、自分の手の届く範囲の世界しか見ていなかった男だった。
 ――いや。彼の中には昔から、広大な世界に目を向けていた視点はあり続けていた。自分の、ひいては人類の存在意義を問う声は、ずっと内にあり続けていた。いつか、全てが、残酷にも終わりを告げる日が来ることを予期し、望んでいた声があり続けていた。だが、目を背けて否定し続けていたのだ。
 目の前のものだけを見て、それらを愛することが、正常な人間の姿だと。かつては、そう信じていたから。だから動き続ける思考は別の場所に隔離して、そこに蓋をして、押し殺し続けていたのだ。何も、深く考えないようにと。自分は正常な人間であらなければいけないのだから、と。
『あなたは本当に不思議な人だなって、最近はよく思うって話よ。あなたのことを知れば知るほど、あなたっていう人のことが分からなくなるの』
 だが。妻は、キャロラインは見抜いていたのだろう。当人が目を背けて隠していた、彼の本性を。
『あなたの第一印象は、丸眼鏡を掛けた文学青年だった。で、その次は、優しそうな目をした紳士。さらにその次は、眼鏡を外したら少しワイルドで情熱的な顔を見せてくれた二面性のある男。それと……』
『それと?』
『時たま、あなたは物憂げな詩人みたいな顔をして、冷たい目になる。その時のあなたって、世界の涯てを見てるような心ここにあらずって顔をしてて、怖いって感じるのよ。今にも世界を滅ぼしてしまいそうな黒魔法の使い手みたいな雰囲気、っていうのかしら』
『本当に? その自覚はないけれども……申し訳ないね。そんな、怖い思いをさせていただなんて』
『別に謝らなくていいのよ。それを含めて、私の好きなダーリンだから。でも今のあなたは、第一印象のときと同じ。ちっとも怖くないわ』
 可愛くて堪らない娘は、妻の両親に預けて。少し値の張るレストランで夕食を共にし、二人だけの時間を過ごしていたあの時。白く丸い平皿の上に広がる、鮮やかなオレンジ色のソースの池の中央に、ポンと置かれて鎮座している鱈のポワレにナイフを入れながら、妻が発した何気ない言葉が、当時の彼をハッとさせたのだ。そして傍でそれを再度聞く傍観者も、再びあの時と同じ感情を体験する。
『でもね、ダーリン。あなたは、あなたの友人であるバルロッツィさんを散々に言うけれど。私から言わせれば、あなたも大概よ? カメレオンみたいにその時々で顔を変えてしまう。一体、どれが本当のあなたなのかしらね?』
 スライスされたトリュフが乱雑にトッピングされたフォアグラステーキを、ナイフとフォークで一口大の大きさに切り分けながら。妻の言葉を聞く男は、それまで浮かべていた気まずそうなはにかみを消し去る。彼はすぐには言葉を返さず、少しの間だけ黙り込んだ。その時だけ彼の頭の中を、普段は機能していない繁雑な思考が支配していたのだ。
 だがすぐに、いつも通りに煩わしい思考は封印された。そして、その場しのぎの適当な言葉を口にして、彼は上辺だけの人懐っこそうな微笑みを取り繕う。それから話題を変えようと試みて、答えをはぐらかそうとするのだ。『なにも、それは僕だけではないと思うけれどねぇ。大抵の男はそんなもんさ』
『私はそう思わないけれど……』
『男ってのは理性と本能を極端に分けて、普段は理性を強くし、本能を圧し殺しているんだよ。でないと暴走するからね。つまるところ男ってのは、女性ほど要領よくは出来ない生き物なのさ。だから極端になる。理性が強く働いてるときと、そうじゃないときじゃ、人が違うように見えるのも無理はない。だから』
『たしかに、今みたいに理性が強く働いている時と、一昨日の夜みたいに理性が働いていない時のあなたは、別人のように違うし。理性的じゃない時の、押しが強くて積極的なあなたが、私は好みだけど。今、私が訊いてるのはそこじゃなくて、つまり』
『君はてっきり、従順な優男が好みなのかと思ってたよ。ちょっと意外だなぁ。……なら、帰ってから一昨日の続きでもするかい?』
『ダーリン。話を逸らさないで頂戴。それから、こんな場所でそんな話はやめて』
『……ごめん』
『でもその提案には賛成。だけどその話はこの後に、車の中でしましょう』
『……本当に君は、最高の女性だ』
 けれども大抵の場合、妻にはその手は通じないのだ。あの時もいつも通りに、彼が仕掛けた姑息な策は一瞬で彼女に見破られた。しかし、そこから先はいつも通りではなかった。
 普段ならそこで、彼は負けを認めて大人しく本当のことを白状する。だがあの時は、どうしてもそれをしたくはなかったのだ。それは彼の中に、消せないやましい思いがあったから。それが原因で彼女に、嫌われたくなかった。本当のことを打ち明ければきっと、彼女に見放される。そう思えて仕方なかったのだ。
 何もかもがクソだと叫び、全てが滅びればいいと呪い続けているもう一人の自分が、昔からずっと頭の中に居ることを、彼女には知られたくはなかった。そして彼自身、当時は自分がそうであることを認めたくなかったのだ。自分も所詮はペルモンド・バルロッツィと同類で、幸いなことにペルモンド・バルロッツィよりも幾分かマシなステージに居るだけで、自分もペルモンド・バルロッツィと同じようにひび割れていたことを。とっくの昔に自分はもう狂っていて、正常ではないことを、当時の彼は認めたくなかったのだ。
『それで。君は、どれが本当の僕だと思うかい?』
『いやだわ。あなた、私を試してるの?』
 あの時。悪足掻きを続ける夫の姿に、妻は呆れていた。
『まあ、そんなところかな』
『あなたって意地悪なひとね』
『でも君は、そんな僕が好きなんだろう』
『あなたって、本当に、意地悪』
 きっと妻は、全てを見透かしていたのだろう。――そんなことを、強がりな笑みを浮かべるかつての自分を見つめながら、傍観者の彼は思う。
『……でも、そうね。強いて言うなら、あなたの素顔は物憂げな詩人なのかしら。あなたは悲しそうな顔をしている時だけ、嘘をひとつも吐いていないように見えるから』
 そう言って妻は、テーブルに置かれていた赤ワインを蒼い瞳で見つめた。グラスの中で波紋し、揺れる半透明のボルドー色は、どこか不穏な気配を帯びている。その色に、傍観者である彼はつい見入ってしまった。
 ゆらゆらと揺れて、光を反射する赤紫色。だがそれが次第により赤く、やがて鮮血のような色合いに変化していくように彼は錯覚する。そして波打つ赤に彼が既視感を覚えたとき、彼の耳に聞こえてきたのは幾つかの声だった。
『貧血と、嘔吐によるカリウムの低下で危ないところでしたが、息子さんはどうにか持ちこたえましたよ。あと一歩遅ければ、助からなかったでしょう。それで……どうかなされましたか、上院議員? ちょっ、上院議員?! ――まずい、警備員を呼べ! あのジジィを外へつまみ出せ!!』
『アーサー、落ち着きなさい。――……あの子に死なれたほうが、あとあと大変なのよ。それを、あなたは分かっているの? 万が一あなたのせいであの子が死んだとき、被害をこうむるのはジョナサンなのよ。シルスウォッドの件には一切関係のないジョナサンの将来まで、台無しにしないで頂戴!!』
『まったく、なんてことだ。ERで聞き覚えのある名前を聞いて、すっ飛んできてみたら。この年齢で、あそこまで重度の胃潰瘍だなんて。私は初めて聞いたぞ。それに彼は搬送されてきたとき、体温が低く全身がずぶ濡れで、溺れたような状態だったというじゃないか。はあ……彼が不憫でならないよ。可能なら彼を、うちで引き取ってやりたいね。だが警察すらも、上院議員の家庭には手が出せないんじゃあなぁ。私にできることはひとつ。彼に投票をしないこっ――』
『ドクター・エローラ。その話、後にしてくれます? 今、点滴の準備をしてるんで忙しいんですよ』
『弟が助かって良かったですね、だぁ? 俺はこんなやつを弟だと認めた覚えはない。こんなやつ、死んでりゃよかったのによ。ケッ……』
『今思えば、前兆はあったのかも。彼、最近は学校でもよく言ってたの。胃が痛いって。体調も悪そうだった。けど、体育をサボりたいだけだろうって思って、軽く受け流してたの。それが、まさか……』
『あの家族じゃあ、胃潰瘍にもなるわな。お前さんはよく耐えたよ、頑張った。だが、俺と約束してくれ。これからはストレスを溜め込んじゃいけない。やられたら、可能な限りはやり返して、怒りを吐き出せ。……ただでさえ嫌われている上院議員さまだ。あいつをぶん殴ったところで、お前に怒る市民は居ないぜ』
『貴様は生まれてくるべきじゃなかった! あの時に、死んでいれば良かったんだ!!』
 すると、いつの間にか妻の姿は消え、場所もレストランではなくなっていた。傍観者である彼が見ていたのも赤ワインではなく、彼が十七歳まで過ごした実家のバスルーム、その端に置かれた便座に変わっている。
 白い陶器製の便座の中は、吐血で赤く染まっていた。そしてタイルの床に座りこみ、便座の前で膝を付いている青年が、傍観者である彼には見えた。それから、彼は気付く。その青年が、十七歳だったころの自分自身であることを。
 肩をがたがたと震わせて、蒼褪めた顔を苦痛に歪めながら。青年はトイレットペーパーに手を伸ばし、それを適量切り取ると、自分の口元にそのガサガサとした固い紙を充てて、汚れを拭う。それからトイレットペーパーを赤く染まった便座に落とす青年は、背後から近づく男の気配に怯えていた。
『今からでも遅くはない。ジュニア、貴様の穢れを落としてやる……!』
 キャロラインと共にいる瞬間の夢は、醒めないでくれと思ったものだが。本物の悪夢に移り変わるや否や、彼の気持ちはがらりと変わった。この夢だけは早く終わってくれ、と。
 この記憶も、彼はよく覚えている。これは人生で初めて、自分が死ぬと感じた瞬間だ。
『…………!!』
 吐き出した血と胃液から放たれる、吐瀉物特有の強烈な刺激臭。そのにおいが、更なる吐き気を誘発する。そしてキリキリと耐えがたい悲鳴を上げる胃に、体はねじれてしまいそうだった。――あの痛みと辛さは、忘れようとして忘れられるものじゃない。だからこうして今も、悪夢として見るわけだ。
『…………っ……!』
 その横で、シャワーからは冷たい雨がバスタブに降っていた。そうしてバスタブには、冷たい水が張られていく。水の中に、水が落ちる音がバスルームに響いていた。そして青年はその音を聞きながら、再び便座へと吐血し、背中を震わせる。
 この後の展開を、彼は知っている。そして目を瞑りたいと彼は願ったが、しかしここは夢の中。閉じるような瞼は備わっていない。
『立て、ジュニア。立つんだ!』
 がくがくと震える青年の背中。その後ろに、中年の男が近寄る。その男の名前はアーサー・エルトル、彼の父親だった。そして父親は“ジュニア”と呼んだ息子、つまりまだ父親の下に囚われていた時代の彼のすぐ背後に立つ。それから父親は、血を吐く息子を優しく労わることはせず、それどころか息子の後ろ髪を掴み上げて、強引に立ち上がらせたのだ。
 そうして父親が、息子を連れて行くのは病院ではない。冷水が張られたバスタブだ。
『……父さん、お願いだ……やめてくれ……父さん……!』
 血が欠乏した体では、頭も思ったようには動かない。そうやって何もかもが愚鈍になっていた状態で、父親にされるがままの、あの恐怖。胃の痛みと貧血とで気が遠のいていきそうになる中で、感じていた恐怖は今も、トラウマとして残っていた。
 そして何よりも恐ろしかったのは、水だった。幼い頃から何度も何度も、父親から脅すように教えられてきたあの話。実の母親が水を使って多くの男たちを殺してきたというあの話が、あの時には思い出されて。自分は母親が人々にしてきたやり方で、父親に殺されるのだと、そう覚悟したものだ。
『汚らわしい悪魔め、私がこの手でケジメを着けてやる!!』
 これは、夢だ。夢なんだ。いつものように見ている悪夢だ。傍観者である彼は、そう自分に言い聞かせる。
『マリアは言った! 我が心は主を崇め、我が霊は救い主なる神を喜び、讃えます! 主はこの卑しき女さえも――』
 ルカの福音書一章、四十六節から五十五節。マニフィカトと呼ばれる祈祷文を、興奮し切って上ずった声で諳んじる父親の声。その声は初めこそハッキリとした輪郭と芯を持って聞こえていたが、その途中で声は輪郭を失くし、何を言っているのかさえ聞き取れなくなる。水の中に耳がすっかり浸かり切ったときのように、声がはっきりとは聞こえなくなったのだ。
 そうして次第に、見えている世界も暗くなり、黒に沈んでいく。やがて音らしい音も消え、心も安らぐ静けさが訪れた。
『…………』
 際限なく続いているように思える、黒い闇。音も何もない、静かな世界。悪夢の後にやってきた静寂に、彼は安堵する。そして彼は願った。下手な夢など見せないでくれて構わない、この闇のままにしておいてくれ、と。
 すると暗闇の中に、声が響く。聞こえてきたのは意地悪な海鳥の影、ギルの声だった。
『私はこれまでにも、いくつかの人間の体を拝借してきましたし。彼らの記憶を盗み見てきたものですが。やはりあなたを理解することが、私にはできません。自信家なのか、そうでないのか。忍耐力を持った誠実な男なのか、我慢を知らない奔放な男なのか。愛を信じているのか、それとも鼻で笑っているのか。あなたについて、多くのことが分からないのですよ。――明確に分かっているのは、あなたの中には常に強い罪の意識と怒りがあり続けているということだけ。それぐらいしか、私は把握できていない』
 クールにスカして、他を見下すような喋り口が常であるはずの海鳥の声が、今だけは戸惑いを隠し切れていなかった。そして声は続く。
『だから私は、あなたを理解することが出来るようになるまで、この悪夢を続けるでしょう。……どうせこの体を借りているのは、短い間だけ。その期間ぐらい、少しは私に付き合ってください。まるで嬰児も同然である黒狼ジェドが好むような、無邪気さ故のむごい仕打ちなど、私はあなたにしませんから。記憶を掘り返すだけで、それ以外のことはしませんよ』
 やめてくれ、記憶を掘り返されることが嫌なんだ。……彼はそんなことを思ったが、しかし主導権を今握っているのは、意地悪な海鳥の影ギルである。
 次は何の悪夢を見せられることやら。そんな風に彼が憂鬱になったときだ。暗闇に光が差して、ぼんやりとした人影――壁に背中を預けて、床に座りこんでいる彼の正面に立ち、上から彼の顔をまじまじと覗き込んでいる女の影――が彼の目に入る。それから、どことなく不愉快さを感じる女の声も聞こえてきた。
「――……おい、おーい。起きなさい!」
 小麦色の肌と、女性にしては短い黒髪。鼻筋の通った高い鼻と、瞳孔がないうえにチラチラと光り輝いているように思える蒼い瞳。――声の主はマダム・モーガンで、彼の顔をまじまじと覗き込んでいるのは彼女だった。
 彼の正面に立つマダム・モーガンは身を少しだけ屈めて、彼の様子を観察しながら、右手に持った緑色のワイン瓶でコンコンッと彼の額を軽く叩いている。寝ぼけ目のアーサー、改めアルバに対し、目を覚ませと彼女はサインを送っていたのだ。
 しかし未だ意地悪な海鳥が見せる悪夢に囚われている気分である彼は、そのままの気分で、余計な言葉をうっかり口から滑らせる。
「……ギル、勘弁してくれ。これは今、一番見たくない顔……――ッ!」
 彼が失言を零した、その直後。軽く彼の額を小突いている程度の力だった瓶が、まるでハンドベルを鳴らすように振られ、彼の額を叩いたのだ。それから続けざまに、マダム・モーガンの左手が大きく横に振られる。そうして眠気を瞬時に吹き飛ばす平手打ちが、彼の左耳に衝突した。
「その様子じゃ、今のあなたはギルじゃなさそうね。そういうわけで、おはよう。ミスター・アルバ」
 悪夢から覚めたところで、現実もまた悪夢。
 瓶底で殴られた額を手で押さえながら、目を覚ましたアルバは肩を落とす。それから彼は不機嫌そうな顔でこちらをじりじりと睨んできているマダム・モーガンに、こう言うのだった。「……アストレアから聞いたのか」
「ええ、そう。彼女から、彼女が知っている限りのことを聞いたわ。だからこうして来てやったのよ」
 どぷん、どぷん。マダム・モーガンが右手に持っている瓶の、その中に入っている水が、彼女の怒りに呼応するように揺れる。その音に耳を澄ませ、マダム・モーガンの声からフォーカスを逸らしながら、アルバは覚悟した。これは完全にやらかした、モーガンにつまらない小言をまた言われるぞ、と。
 しかしマダム・モーガンという人物は、彼が思っている以上に小ざっぱりとした性格の持ち主で、多くのことを「所詮、そんなものだ」と割り切って考える女性である。故に彼女は不機嫌そうな顔こそそのままだが、彼が零した失言については何も言及しない。そしてマダム・モーガンは彼に、別の話題を振るのだ。
「それで。ここがどこだか、あなたは分かる?」
「……見当もつかないな」
「スコットランド、ハイランド地方の片田舎よ。地名が書いてある標識も立っていないような、人はいないけどブヨはいっぱい飛んでいるド田舎。あなたを探し出すの、大変だったんだから」
 マダム・モーガンの言葉に適当な相槌を返しながら、アルバは徐々に靄が晴れて良好になっていく視界で、周囲の景色を見渡す。自分が今いる場所は、長いこと人が入らずに放置されていた様子の、腐って朽ちる寸前な丸太小屋のように見えていた。
 そして窓から見えたのは、曇天の真昼と、実にスコットランドの田舎らしいクソ緑色の木々が広がる川辺の風景。いかにもブヨが沸いていそうな、穏やかで綺麗であり、同時に肌が無性に痒くなる景色である。スコットランドであるかどうかは分からないが、北半球のどこかの田舎であることは間違いなさそうだ。
 どうして自分が、こんな場所に居るのか。彼にはそのことがサッパリ分からなかったが、それについて深く考えようとはしない。何故ならば、ここに居るのは少なくとも自分の意思ではないからだ。考えられる可能性はひとつだけ。彼の体を借りている海鳥の影ギルが、彼の体を操ってここに逃げてきた。それだけだ。
 ギルのやることなすことに、ひとつひとつ疑問を抱いていては、今後やっていけないだろう。そう感じていた彼は、だからこそ考えようとはしない。――だが、それはあくまで彼の理性に限った話だ。めざましく動く彼の無意識は、無意識のうちにこの場所に該当するであろう地名の候補を挙げ、無意識のうちにそれを口走る。
「……ここはヘルムズデールか?」
 スコットランド。そう聞いて彼の頭の中で真っ先に思いついた地名は、インヴァネスでもエディンバラでもグラスゴーでもなく、ヘルムズデールだったのだ。そして実際に彼が居る場所は、ヘルムズデール。
「あー……かもしれない、わね。海も近い場所だし。ここはヘルムズデールかも。けれどさっきも言った通り、私には分からないわ」
 男の口から飛び出した具体的な地名に、マダム・モーガンは驚いていたが、すぐに彼女は暫定の答えを見出して、それを留めることなく受け流す。こいつは記憶力の良い男だから、以前に写真などで似たような景色を見たことがあるのだろうと、そう考えたのだ。
 けれどもマダム・モーガンと同時に、彼自身も驚いていた。ヘルムズデールなど今まで一度も来たこともないし、写真でさえ見たことがなかったからだ。だが、その地名だけは知っていた。そして彼は、先ほどまで見ていた悪夢に登場してきた、とっくに死んでいる父親の怒り狂った顔を思い出す。
 思い返してみれば彼の父親は、彼に対してよく母親の話をしていた。恥ずべき婚外児をわざわざ遺し、自分だけ死んでいった悪女に対する憎悪を滲ませながら、なんだかんだで父親は死んだ母親に関する情報をよく教えてくれたのだ。
 母親の名前はブレア・マッキントシュ。彼女は、悪しき目的を持ってスコットランドから北米に渡った移民。母語であるスコットランド・ゲール語はいっぱしに扱えても、第二言語の英語は少しも扱えなくて、英語の読み書きはからきし駄目で、綺麗な蒼い目と美貌しか誇るべき点を持っていなかった女。……少なくとも父親は、彼女のことをそう評価していた。
 そして、その母親の故郷の名前が、記憶が正しければヘルムズデールだったはず――
「…………」
「アーサー? ぼうっとしてるけど。大丈夫なの? もしかして私、頭を強く殴りすぎた?」
「……その名で呼ばないでくれ」
「そうだったわね、ごめんなさい」
 瓶底で殴られた額に手を当て、どっと疲れ切った顔をしているアルバに、マダム・モーガンは軽く謝る。そんなマダム・モーガンは彼が疲れ切った顔をしている理由を、瓶で殴られたダメージと蓄積された疲労であろうと見当を付けていたし、彼女はそうだとばかり思っていた。だから彼女は、こんなことを言う。「天使に体を貸すと、疲れるでしょう?」
「……ああ」
「あいつらは肉体に限界があるってことをイマイチ理解していないようだから、平気で無理をするのよ。そして肉体が疲れ切って、動けなくなると、今みたいに抜け出して体を置き去りにする。そして肉体の体力が回復した段階で、また戻ってくるのよ。――ギルが加減っていうのを覚えるまでは、しばらく身体的にしんどい時期が続くでしょう。でも、それがあなたの選んだ道だから」
 彼が疲れ切ったような表情を浮かべている理由には、たしかに疲労もあった。だが一番の理由は、意地悪な海鳥が見せた悪夢により、久方ぶりに蓋を外された無意識が、溜め込んでいた心理的ストレスをどっと解放したこと。
「……まるで経験があるような口ぶりですね、マダム・モーガン」
 マダム・モーガンの言葉に、適当な返事を言う傍らで。数十年と目を背け続けてきた無意識下のストレスの、そのしわ寄せが彼に有無を言わせず押し寄せてきていたのだ。浮かんでは消える泡のように、フラッシュバックが脳裏で明滅する。
 ギルは本当に意地が悪い。彼は心の底から、そう感じていた。
「私自身にはその経験はないわ。あなたと同じ道をかつて選んだ彼を、ずっと見てきたから知っているってだけよ」
 次から次へと、フラッシュバックが移り変わる。
 父親アーサーからかつて浴びせられた暴言や暴力の数々に、異母兄ジョナサンから執拗に受け続けた嫌がらせや暴力、誹りの言葉。家の中では、彼という存在を頑なに無視し続けていた、義理の母親エリザベスの冷たい横顔。そんな親たちの代わりに、洗濯や料理などの生活に必要なことをコッソリと教えてくれた家政婦マリアムが、最後の日に見せていた怯える姿。
「それで、本題に入るけど。――って、あなた聞いてるの?」
 コンクリート製の大きな水槽の前に立ち、「恐れることは何もない」と手招きする神父の穏やかな笑み。限界まで水を張ったバスタブの前に立ち、手にした聖書を読み上げる父親の怒りに満ちた背中。プールの中を、母親と一緒に自由に泳ぎ回りながら「パパも来て!」とダダを捏ねる幼い娘の悲しそう顔。子を持つ親になっていた息子が、今際に見た父親に対して「汚名を注げなかった」と許しを請う、擦れた声――。
「……ああ。聞いている」
 いや。実際は昔のことに気を取られて、マダム・モーガンの話など聞いていなかったが。聞いていないことを馬鹿正直に告げることなど、するはずもなく。彼は息を吸って吐くように、自然に嘘を吐いてみせる。
 とはいえ見え透いた嘘にマダム・モーガンは気付いていたが、物分かりの良い彼女は言及をしない。そうして彼女は、本題とやらを切り出すのだ。
「今回ギルが仕出かしたことは、特別に見逃してあげるわ。ニール・アーチャー、彼の命は助かったから。だけど次はないわよ。覚悟しておきなさい」
 マダム・モーガンの言葉から察するに、どうやら『彼』はニール・アーチャーを襲ったようだ。襲ったというか、殺そうとしたのだろう。だがニール・アーチャーは助かったから、その殺人未遂を見なかったことにしてやると。マダム・モーガンはそう言っているらしい。
 しかしアルバ自身に、ニール・アーチャーを殺そうとしただなんていうその記憶は、直近には無い。何故ならば、それは彼女の言葉の通り。彼の体を借りたギルが、仕出かしたことだからだ。
「その顔、何が起きたか知らないって感じね? まったく、呆れたわ……」
 とはいえアルバは、決めている。ギルがこの体で何を仕出かそうが、自分の知ったことではないから、自分は何も口を出さないし、その一切の責任は負わないと。なので彼は、呆れ顔をするマダム・モーガンから目を逸らして、彼女の言葉を聞き流し、そして何も言わない。何故ならば、それは彼の知ったことではないからだ。
 期待していた言葉は彼から得られそうにないと察すると、マダム・モーガンは不満げに眉を顰めた。それから彼女は再び、右手に持った瓶をハンドベルのように振る。そうしてまた、瓶底はアルバの額に当たった。
 逸らしていた視線を再びマダム・モーガンへと戻す彼は、疎ましげに彼女を睨む。だが相手を睨んでいたのは、彼女も同じ。そしてマダム・モーガンは、苛ついているように早口な尖った口調で、彼に対しこう言うのだ。
「大方のことは、アストレアから聞いた。あんたが何をしたいのか、そしてギルがあんたの体で何を仕出かそうとしているのかも、おおよその察しは付いている。けれども私はその全てに賛同しかねる。だけど、これだけは約束してあげるわ。アルストグラン連邦共和国の外で起きることに、私は口を出さないし、見逃してあげる。けれども、アルストグラン連邦共和国に手を出した時には、私はあんた達を全力で潰しにかかるわ。あの国を守り続けるというバーツとの誓いを、私は破るわけにはいかないから」
「……」
「それから、私にはあなたって男のこともよく分からない。人間性がどうのと怒っていたあなたは、その反面、探求心から人間を化け物に変えようと試みたりしているし。今まではアストレアに深く関わろうとしなかったあなたが、同伴者に彼女を選んだのだから。もうワケが分からないわ」
「…………」
「とはいえ、それは今に始まったことじゃないわね。最初はパトリック・ラーナーに同情していたらしいあなたが、いつの間にか彼のことを嫌悪するようになったって、その昔にアイリーンは戸惑っていたし。もっと昔の話をすれば、あなたは唯一の理解者であった幼馴染のブリジット・エローラとの友情を、一瞬にしていとも容易く切り捨ててみせた。――ペイルよりもずっと、あなたのほうが滅茶苦茶よ。それについてあなたは、何か言うことある?」
 早口で一方的に捲し立てるマダム・モーガンの言葉など、彼はまともに聞いていなかった。その大半を、聞き流していたのだが。最後に「何か言うことはあるか」と意見を求められて、彼は少し困惑した。そのような抽象的なことを聞かれたところで、彼には何も言うことはないからだ。
 だが上から見降ろしてくるマダム・モーガンの目は、何かしらの言葉を発することを彼に対し強要しているように見えていた。そこで彼は、適度な説得力を持たせた出まかせを言うことにする。
「……私の頭の中は、チェス盤のようなものだ。理想を探究し求め続ける意志と、現実を冷ややかに見つめて笑う理性。その相反する性質が交互に駒を動かし、私という盤の上で常に戦っている。戦局次第で私の意見は変わるんだ。それに私は――」
 しかし彼は、出まかせを最後まで言い切ることはできなかった。胃に、覚えのある痛みがして。咄嗟に自分の口を、彼は手で覆い隠したのだ。そして込み上げてきたのは、肋骨がぎしぎしと軋むような咳。
 彼は空咳かと思った。だが口を覆っていた手を離したとき、そうでないことに気付く。ほんの少しだけだが、ちらちらと光る燐光を含んだ蒼い液体が、彼の掌に付着していたのだ。その液体の色は、今の彼の冷たい体を循環している血の色と同じ。
「飲みなさい、ほら。安心して、中身はただの水だから」
 咳きこんだアルバの姿を見て、眉を顰めたままのマダム・モーガンは、右手に持っていた緑色の瓶を彼に差し出す。そんな彼女は先ほどまでハンドベルのように振っていた瓶の中身が、ただの水であると発言した。
 だが、そんなことを信じられようものか? ……疑り深くなっていた彼は、そう考える。仮に水だとしても、マダム・モーガンならば何かしら混ぜていそうだと、彼には思えたからだ。例えば、効き目の強い眠剤とか。そういったものが入っていそうな気配がしていたのである。
 しかしマダム・モーガンの言葉が正しく、瓶の中身は本当にただの水だった。それどころか面倒見のいい彼女は、この男のために胃薬まで携帯してきてやっていたのだ。
「あら、そんな目で私を見るなんて。……分かったわよ。なら、望み通りにしてあげる」
 それなのに、男はあからさまに訝しむような目つきで、マダム・モーガンを見ている。そんな目で見られたら、マダム・モーガンとて面白くはない。そこで彼女は、この相手に対する親切心を捨てることにした。彼が警戒しているであろう展開を、実現することにしたのだ。
 そうして彼女が取り出したのは、ASI長官サラ・コリンズから借りていた拳銃。床に座りこんでいる男の左肩に照準を合わせると、マダム・モーガンは一切の躊躇いもなく発砲した。
 発射された注射筒を素早く避けられるほど、意識はハッキリとしていなかった男の肩に、強電圧を帯びた注射筒は狙った通りに突き刺さった。至近距離から撃たれたことにより、発生した刺痛は尋常ならざるものであったが、電圧は体の動きを封じ、麻酔はすぐに彼の意識を弱らせる。
 アルバが、マダム・モーガンを再び睨み据えた途端。彼の上体はぐらりと揺れて、そのまま埃を被った床へと倒れこむ。床に倒れ込んだ時にはもう、彼の意識は途絶えていた。
「……おねんね銃の効果はてきめんね……」
 すっかり眠りに落ちている男が、呼吸はしていることを確認すると、マダム・モーガンは拳銃を腰ベルトに着けたホルダーへと戻す。それから彼女は、眠る男の背後から、大慌てでぬるりと出てきた黒い海鳥の影を見つけると、その影に声を掛けるのだ。
「ギル。あなたの企みは分かってる。でも、私はさっきも言った通り、アルストグラン連邦共和国に手を出さないのであれば、見逃してあげるわ。だから、代わりに教えて。この男の目的は、具体的には何?」
 楕円形の頭に、長い嘴と細く長い首、大きいながらも丸っこくて愛らしいフォルム、それとコンパクトに折りたたまれた巨大な翼。そのような形をした立体的な影は、熱射が照り付ける砂漠に立ち上る陽炎のように、ゆらゆらと揺らめいている。その影の定まらない輪郭は常にブレ続け、一定ではない。
 そして、その影が発する言葉もまたふわふわと震え続ける輪郭を持ち、中心にある軸というものを見せようとはしない。不吉な予感ばかりを匂わせるだけで、その本懐を明かすことはないのだ。
『空の方舟になど、私は興味もありませんよ。あそこは私が何もせずとも、近い将来に自滅することが目に見えています。あなたにもその結末が見えているでしょう、モーガン』
「ギル、教えなさい。アーサーはあなたが目的を果たした後に、何をやるつもりでいるのかを。教えないなら、ラドウィグをここに連れてくるわよ。……彼、あなたの首を狙っているんですってねぇ?」
 マダム・モーガンの問いには答えず、はぐらかそうとした海鳥の影の言葉に、彼女は毅然とした態度を貫きとおした。その中で彼女が敢えて語気を強めて、挙げた名前。ラドウィグ。その名前を聞いた途端、海鳥の影の輪郭が一段と強く、風に吹かれて拡散していく火柱のようにぐらぐらと揺れる。――多分これは、この海鳥の影が動揺しているということなのだろう。天使専門のハンター。ラドウィグが語っていた話は、このギルの反応からするにどうやら嘘ではないらしい。
 予想外に有益な収穫が得られたところで、マダム・モーガンはさらに影へと睨みを利かせると、再び海鳥の影は風に煽られる火のように揺らぐ。すると海鳥の影は観念したように、マダム・モーガンが投げかけてきた質問に回答するのだ。
『地獄を洗い流し、綺麗になった大地に種を蒔く。不要な争いはなく、全てが清浄で穏やかな世界を創りたい。……そんなことを、彼は言ってましたね』
「――何?」
『つまり彼は、人間に取って代わる次種族を生み出そうとしているのでしょう』
「へぇ、そう。……あなた、優れた解釈力を持っているようね」
『でなければこんな男と、まともに付き合っていられないでしょう』
 そう言い終えると、激しく揺らいでいた海鳥の影の輪郭は落ち着きを取り戻す。そしてマダム・モーガンは望むものを手に入れたため、この場を立ち去ろうとした。
 しかし、この海鳥の影がやられてばかりで終わることは決してない。影は背を見せたマダム・モーガンに、後ろから突剣のように鋭く尖った言葉を飛ばすのだ。
『それで、モーガン。あなたとキミアは、いつまで黙っているつもりですか? 私が籠絡したほうがオリジナルの彼であり、竜神カリスの許で眠りに就いているほうが空っぽの義体であるという事実を。それについて元老院も、及びアルバ自身も、誤解をしているようなのですが……?』
 迷いなく突き出された剣の切っ先は、事実という一点だけを狙い、見事に衝く。咄嗟に振り返り、海鳥の影を見るマダム・モーガンの焦りに満ちた顔を見上げて、海鳥の影は満足そうに長い尾を揺らした。
『地下にあったデコイはよく出来ていましたよ。見た目は、彼にそっくりでしたから。人間たちと、あのホムンクルスを誤解させるには十分でしょう。ですがキミアの腹話術に騙されるような私ではありません。それにいずれ、アルバも気付くでしょう。自分の姿を騙って、ホムンクルスを手玉に取り、黎明の光なる幻想をあのホムンクルスに植え付けたのは昏神キミアであることを』
 続けて放たれた二撃目の突きもまた、無識という弱点を衝いてみせる。
『嗚呼、可哀想に。モーガン、あなたもキミアの玩具でしかないようだ』
 誰よりも聡く、誰よりも野蛮で凶暴である剣の天使ギルは決して、いついかなる時も負けはしない。
 決して、それは負けやしないのだ。





「お前の正体がまるで分からない」
 そう言ったのは、ソフトアフロな頭をしたエドガルド・ベッツィーニ特別捜査官だった。
「俺が知ってるお前は、アバロセレン技師を志す学生だった。なのに今のお前はASIのエージェントで、クランツ高位技師官僚専属のボディーガード、その名も『ラドウィグ』だって?」
 夕方の連邦捜査局シドニー支局、地上六階の異常犯罪捜査ユニットのオフィス。支局長が不在の今、ざわざわとしている局内で、エドガルド・ベッツィーニ特別捜査官は遅めのランチ代わりにアイシングたっぷりのドーナツをつまんでいる。そんな彼の右横には、チョコが掛けられたドーナツを横取りするラドウィグが立っている。
 オフィスには、二人きり。同じユニットに所属する、他の捜査官たちはいない。というのも彼らは別室で個々に、キャンベラ本部から派遣された捜査官たちによる聴取を受けているからだ。曙の女王とやらが引き起こした『ギャングを狙った連続殺人』で起きた情報漏洩に関する内務調査が今、入っているのである。
 エドガルド・ベッツィーニ特別捜査官は、自分の番が来るのを待っているというわけだ。
「オレにはもっと、秘密があるよ。だけど、それは教えない。だって、謎めいている男のほうがモテるんだろ?」
 内務調査に苛立ち、同時に怯えているエドガルド・ベッツィーニ特別捜査官をよそに、我関せずという態度でドーナツを頬張り続けるラドウィグは、そんなことを言う。すると自分が買ってきたドーナツを、ラドウィグに横取りされたエドガルド・ベッツィーニ特別捜査官は、素知らぬ顔を平然としている盗人を肘で小突くのだった。
「モテるかどうかはさておき、お前はたしかにミステリアスだよ。経歴も職種もだが、特に謎なのは底なしの胃袋だ。お前がこのオフィスにいるとき、俺が買ってきた食い物は目を離した隙に盗まれてるんだからよ。丁度、今のようにな!」
 最初にエドガルド・ベッツィーニ特別捜査官が繰り出した肘鉄は、ラドウィグの左腕の二の腕に当たる。だがエドガルド・ベッツィーニ特別捜査官が次に撃ちだした拳は、狙ったラドウィグの左肩には当たらなかった。ラドウィグが瞬間的に避けたのだ。
 そして連邦捜査局の一流捜査官が繰り出した攻撃を華麗に避けたラドウィグは、意気がるようにエドガルド・ベッツィーニ特別捜査官を睨んで、こう言う。
「心が狭いなぁ、エディは! 食い物ぐらいでケチケチするなよ」
「ついでにお前のモラルも、なかなかミステリアスだな」
「オレはエネルギーの消費率が異常なんだよ。ハードスケジュールを毎日こなしてるし、それにありったけを燃やしちゃうからね。食べるものが必要なんだよ、いっぱい」
「なら自分の金で買え。俺にだって食い物は必要なんだよ」
「自分の金じゃ賄えないぐらい必要だから、困ってるんじゃん。前職に比べりゃマシだけど、ASIの給料ってめっちゃ低いし。仕事が過酷なわりには、給料が見合ってない。まるで食費が賄えないんだ」
「だからって、人のを盗むな!」
 再びエドガルド・ベッツィーニ特別捜査官が、ラドウィグへと繰り出した右アッパー。しかしこれも華麗に、ラドウィグは避けてみせる――横取りしたドーナツを、口にくわえた姿で。
 そして遂に、ラドウィグは反撃に転じた。エドガルド・ベッツィーニ特別捜査官の右隣にいたラドウィグは、素早くエドガルド・ベッツィーニ特別捜査官の正面に回り込む。それからラドウィグは見切れぬ速さで拳を突き出し、エドガルド・ベッツィーニ特別捜査官の顔面すれすれに近付ける。そしてラドウィグは突き出した拳に火を点けて、口にくわえていたドーナツを呑み込んだのだ。
 どこからともなく噴き出した橙色の炎が、ラドウィグの突き出された拳を包んでいる。それを顔前で目の当たりにしたエドガルド・ベッツィーニ特別捜査官は、当然驚いて腰を抜かした。
「――うわっ?! な、なんだよ、急に!!」
「オレの発火能力。どう、驚いた?」
「当ったり前だろうが、驚くに決まってんだろ!」
 お前を火だるまにはしないから、安心して。……そんな慰めにもならないことを言いながら、ラドウィグはニコニコと笑い、静かに拳を下ろして火を収める。そしてラドウィグは腰を仰け反らせて、目を大きく見開いているエドガルド・ベッツィーニ特別捜査官を見てはまた笑い、続けてこう言った。
「覚醒者ってのは、難儀なもんでさ。力を抑えるのにも、使うのにも相当なエネルギーを消費するんだ。逆に他人からエネルギーを吸い取っちゃうような例外もいるけどね。で、特にオレみたいな発火能力の持ち主は、じゃんじゃんカロリーを消費する。常に何かしら食べ物をつまんでないと、やってられないんだよ」
 しかし目を剥いたままのエドガルド・ベッツィーニ特別捜査官が、ラドウィグの話をまともに聞いているかどうかは怪しい。
「あー、エディ。もしかして、覚醒者を目の当たりにするのは初めてだったりする?」
「……」
「おー、その顔とその無言。つまりオレが初めてなんだ」
 するとエドガルド・ベッツィーニ特別捜査官は無言で、こくこくと頷いてみせる。そんな彼は、ただただ驚いていた。噂でしか聞いたことがなく、実在するとは思ってすらいなかった覚醒者が、本当に実在していたとは。それも大学時代の同窓生が、覚醒者だなんて。
「…………」
 覚醒者が現実のものとして目の前に表れたことに、決して少なくはない衝撃を受けたのだろう。すっかりフリーズしてしまったエドガルド・ベッツィーニ特別捜査官は、呆然とラドウィグを見つめていた。
 その一方でラドウィグは、腰を抜かした友人を宥めることはせず、友人がフリーズしているのをいいことに、また彼のドーナツをくすねるのだ。それも今度は、ひとつではない。ドーナツ四個を、箱ごとかっさらってみせる。あたかもそれが当然であるかのように堂々と、このドーナツの箱を買ってきた人間の目の前で、ラドウィグは箱ごと盗んでいったのだ。
「それじゃ、オレはクランツ高位技師官僚のとこに行かなきゃいけないんでね。ここいらで、お暇するよ。将来のシドニー支局長候補さん!」
 ドーナツの入った箱を脇に抱えるラドウィグは、笑顔でそう言い、エドガルド・ベッツィーニ特別捜査官に手を振る。そしてラドウィグは箱を当然のように持ち去り、異常犯罪捜査ユニットのオフィスを後にしていった。
「…………」
 エドガルド・ベッツィーニ特別捜査官が購入したのは、ドーナツが一〇個入った箱。そのうち、エドガルド・ベッツィーニ特別捜査官自身が口にしたのは二つ。そしてラドウィグはその倍の四つをこのオフィスでくすねて、挙句その残りの四つもまた盗んでいった。
 ぐるぅ、きゅぅ……。そんな音が、エドガルド・ベッツィーニ特別捜査官の胃腸から鳴る。
「……俺のドーナツが、ない……」
 自身の空腹感も、とても気になる。奪われたドーナツと、それに起因するラドウィグへの怒りも、エドガルド・ベッツィーニ特別捜査官の中で渦巻いている。だがそれよりも、エドガルド・ベッツィーニ特別捜査官には気になったことがあった。
「――あいつ、今『支局長候補』とか言ってなかったか……?」





 数か月前の自分とは、まるで違っている。彼女は彼を見ながら、ふとそんなことを思ってしまった。
「よぉ、アレックス! 黒髪のお前なんて新鮮で違和感が――……バスカヴィル警部補?!」
 時刻はもうすぐ夜の八時を迎える頃。そんなこんなでアレクサンダー・コルトとジュディス・ミルズの二人はシドニーに帰り着いてすぐに、ニールが運び込まれたという病院へと向かった。お邪魔虫を一匹、引き連れて。
 そうしてアレクサンダー・コルトらが、ニールが居るという病室に入ったとき。ベッドの上から来客を出迎えたニールは、腹を刺されて大怪我をしたわりには、随分と元気そうな声をしていた。
 そんなニールの傍へ、真っ先に駆け寄ったのはしかしアレクサンダー・コルトではない。
「ハーイ、アーチャー特別捜査官! お久しぶりね。でも私、もうバスカヴィル警部補じゃないのよ」
 それはわざとらしく鼻にかかった声で喋る、ジュディス・ミルズだった。そして予想もしていなかった客人に、当然ながらニールは戸惑いを見せる。
「あぁ、そういえばたしか、市警を退職されたと風の噂で聞いたような」
「ふふふっ、そうじゃなくてね♪」
「……というと?」
 鼻にかかった声で喋り、ニコニコと笑顔を浮かべて、ニールの傍へと近寄ったジュディス・ミルズ。しかし彼女はニールのすぐ横に着くと一変、その笑顔を消し去り、真剣な真顔に変わる。声のトーンも、素の彼女らしい低い声へ変貌した。そしてジュディス・ミルズは言う。
「――私は、アルストグラン秘密情報局アバロセレン犯罪対策部のジュディス・ミルズ。サンドラ、彼女とバディを組んでいるの。以後、よろしく」
「えっ?」
「私はASIの局員よ。名前は、ジュディス・ミルズ。つまりエイミー・バスカヴィルは初めから存在しない。市警には任務で潜入してたのよ」
「あっ……――えぇぇぇぇぇぇっ?!」
「無論、この事実は内密に」
 たぶん大勢の友人や同僚たちに親類などが、既に見舞いに来てくれていたのだろう。造花で彩られたブーケや、未開封のまま積まれているお菓子の箱に、実用書や写真集といった書籍など。お見舞いの品と思しきものたちが、病室の一角には積まれている。
 そんな景色を観察しながら、アレクサンダー・コルトはふと考えてしまうのだ。数か月前に自分が似たような状況にあったときに、こんなものが自分にはあっただろうか、と。その答えは考えるまでもない。そういうものは無かったわけじゃないが、限りなく少なかった。それにあの時は、入り組んだ事情が――
「大丈夫かい、サンドラ。しんどいなら、帰るか?」
 ジュディス・ミルズの突然の告白に、仰天して大声をあげたニール。その様子を、少し離れた場所から見ていたアレクサンダー・コルトに、そう声を掛けたのは彼女のもう一人の連れ合い。まるでこれから意中の女性とのデートに行くかのような気取った装いをしている、隻腕のシリル・エイヴリー少佐だった。
 長い黒髪のウィッグを頭に被って、ショートボブの金髪を隠し。左頬の古傷には、ファンデーションを塗りたくって隠して。太いアイラインを目に描き、いつもより暗い色合いのルージュを唇に引くアレクサンダー・コルトは、別人のように変わったその姿で、声を掛けてきたシリル・エイヴリー少佐をちらりと横目で見やる。そしてアレクサンダー・コルトは、着用していたモスグリーン色のPコート――ジュディス・ミルズから借りたもので、フェミニンさの香るデザインは決してアレクサンダー・コルトの趣味にはそぐわない――のボタンを外しながら、彼に返事をした。
「しんどいのはアンタのほうじゃないのかい、シリル。アンタこそ、帰ってもいいんだよ」
 シリル・エイヴリー少佐の魂胆は分かっている。だからこそ牽制をしたアレクサンダー・コルトは今日、彼に対して素っ気なく冷たい態度を取り続けていた。
 というのも本当はシリル・エイヴリー少佐を、彼女はここに連れて来たくはなかったのだ。しかしどういうわけか、もう一人の連れ合いであるジュディス・ミルズのほうが「どうしてもエイヴリー少佐と一緒が良い」とゴネた。そうして仕方なく、このやきもち妬きな空軍士官もここに連れてきてやったのだ。
 とはいえアレクサンダー・コルトがシリル・エイヴリー少佐のことを嫌っているわけでは、断じてない。彼のことを友人として、そしてビジネスパートナーとして、彼女は好ましく感じている。シリル・エイヴリー少佐は仕事が早いし、融通が利くし、義に篤い人物であるからだ。
 けれどもこの男は、少しばかり嫉妬深い。そしてアレクサンダー・コルトに対し、明らかに気のある素振りを見せつけてくるのである。そしてそれは、ニールも同じ。この男二人は、どことなく面倒臭いのだ。
「……」
 何を考えているのかは分からないが、なんだかよからぬ気配がプンプンと漂っているジュディス・ミルズの背中と。面倒臭い男どもの些細な諍いに。どこか惨めに思えてならない、自分自身のこと。そんなことをグダグダとアレクサンダー・コルトが考えていると、どうやらジュディス・ミルズとニールの会話が終わったらしい。
 ニールの傍からスッと離れたジュディス・ミルズは、意味ありげな視線をアレクサンダー・コルトに送り付けてくる。そしてアレクサンダー・コルトはジュディス・ミルズと入れ違うように、ニールの傍に寄った。それから彼女は、病衣姿で仰向けに寝ているニールを上から見下ろす。
「死神に襲われたわりには、元気そうで何よりだ」
 ぶっきらぼうに、そう声を掛けてきたアレクサンダー・コルトを見上げて。ベッドの上のニールは、少し頬を綻ばせる。
「ああ、そうだ。見ての通り、意外と俺は元気だよ。……現代の死神は大鎌を振るうんじゃなく、剣を投げつけてくるみたいでな。腹は刺されたが、首は刈られずに済んだんだ」
「笑えない冗談は止せよ、ニール。その死神さまが、剣を捨てて鎌に持ち替えたりしたら、どうするんだい?」
 もしそうなったら、最悪だな。……二人はそう言って、互いの目を見つめ合い、小さく笑い合う。その瞬間だけ二人はお互いに、居心地が良いと感じていた。まるで大昔のような、ただの友人だった頃に戻れたような気がしたのだ。
 そして二人は同じことを思い出す。そういえば、その大昔には今と似たようなシチュエーションがあったような気がする、と。
「それにしても……なんだか、既視感がある。そう思わないか、アレックス」
「ちょうど、アタシも同じこと思ってたよ」
「あの時も。お前が先に怪我して病院送りになって、その後に間を開けて俺も病院送りになったんだよな」
「それでアンタは、お袋さんに頭をはたかれて怒鳴られてたっけ」
「お前も、ダグラスさんに色々と怒られてただろ」
「そのうえ、アンタはパトリック・ラーナーにも……」
「アレックス。今、その名前は思い出したくなかった」
 そして二人は同じタイミングで同じような溜息を吐き、ノスタルジーを捨てて、我に返る。最初に、今現在の話を切り出したのはアレクサンダー・コルトだった。
「まっ、昔話はこれぐらいにして。最近の話をしようじゃないか、ニール」
「……あー。あの件か」
「そう、あの件。曙の女王に、特務機関WACE、リリー・リーケイジとバーソロミュー・ブラッドフォード暗殺事件の真相。とんでもない情報をアンタは、大々的にリークしてくれたねえ? 死神さまに腹を刺されるのも無理ないよ。そう思わないか?」
 アレクサンダー・コルトが切り出したのは、ニールが試みようとして、中途半端に終わった情報開示についてだ。
 ニールが襲撃を受けたあの会見に向けて、用意されていた台本。その中身がどういうわけか全文、とある新聞社に流出したのだ。そして流出した内容は、そのまま全文が世間に放流されたのである。
 その情報が世間に、今もなお続く大混乱をもたらしたのは、言うまでもない。俄かには信じがたいような情報が明るみにされ、どこもかしこも人々は戸惑っていた。報道されたその情報に、民間人たちはざわめいているし。報道機関は次から次へと都市伝説とされたものを掘り返し、その真偽を検証し始めているし。そして糾弾された行政機関はそれでも素知らぬ顔で、知らぬ存ぜぬを続けている。しかし一方では匿名の情報提供者が次々と出現し、ニールが漏らした情報を肯定するような発言が連続して世間に放出されてもいた。
 そしてニールはこの病室で、訊ねてきた客人たちから次々とそのお叱りを受けてきた。ASIのテオ・ジョンソン部長に始まり、大統領側近や司法省の次官、前妻のシンシア・クーパーと娘のスカイに、連邦捜査局シドニー支局の面々などなど。目くじらを立てられ、怒鳴られ、泣かれて、頭や頬を叩かれて――そして今はアレクサンダー・コルトに小言を言われている。
「アレックス。お前に言われなくとも。もう既に各所から、これでもかとコッテリ絞られたさ。無茶なことをしたと思ってるよ、世間に大いなる混乱も招いたし。でも俺は、後悔はしていない」
「実にアンタらしいね、ニール。でも後悔はしてもらわないと」
「そうだな。一応、後悔はしてる。バーニーには怒鳴られて、ノエミ・セディージョには頭をはたかれて、シンシアにもビンタされて、スカイには泣かれた。心苦しさはあるさ。だが」
「そんなことはハナから承知で、死ぬかもしれないという覚悟は決めてあった。そうだろ? その無謀なところ。アンタらしいよ、本当に。アタシもアンタをぶん殴ってやりたいね、彼らみたく……――ん?」
 ニールの言い訳を聞き流していたアレクサンダー・コルトだったが、彼が口にした名前にひとつ違和感を覚えた。
「なぁ、ニール。アンタ、今『ノエミ・セディージョ』って言ったか?」
「ああ、言った。彼女、三ヶ月前だかにエスペランスの家を売つ払って、シドニーに戻ってきたそうだ。それでバーニーと同じく、シドニーの外に出られなくなったらしい。そういうわけで今、あの二人は同じ境遇同士で仲良くやってるんだってさ」
「……バーニーと?」
「ああ。それで今朝は、二人で来てくれたんだ。で、二人から個別に説教を受けたんだよ。だからもう、これ以上の説教は聞きたくないんだ」
 自分で蒔いた種だというのに。寝ぼけたことを言うニールの頭を、アレクサンダー・コルトは義手の掌で叩く。怪我人相手に振るわれた容赦のない暴力に対し、ニールは心の中で嘆くのだった。少しは誰か労わってくれよ、と。
 ニールは殴られた頭をさすり、アレクサンダー・コルトは腕を組んで溜息を吐く。その後ろで二人の様子を見ていたジュディス・ミルズは、いつも通りな二人の姿に小さく笑った。その一方でシリル・エイヴリー少佐は、気の置けない間柄である二人の遣り取りを観察しながら、ニールを妬むように睨みつつ、悔しそうに下唇を噛んでいる。
 と、そのとき。ジュディス・ミルズは異変に気付いた。扉の向こう、病棟の廊下から、聞き覚えのある声がしたのだ。
「バーバラさん、ちょっと待ってください!」
 それは、かれこれ十五年前。ジュディス・ミルズがニールの偵察任務を遂行していたときに、何度も聞いた声だ。
 その声は、ニールの前妻であるシンシア・クーパー。そして声は言った。バーバラさん、と。バーバラといえば思い当たるのは、ニールの母親であるバーバラ・アーチャーのみ。
「サンドラ! 急いで支度して。帰るわよ!!」
 こんな夜も遅い時間なら、他に来客は居ないだろうと見越して来たはずなのに。そのまさかが起きたようで、ジュディス・ミルズは慌ててアレクサンダー・コルトに声を掛けた。そしてアレクサンダー・コルトも、脱ごうとしてボタンを外したコートを、大急ぎで着なおす。だが、一歩遅かった。
 早足、かつ大股で歩く足音が、扉の向こう側から徐々に近づいてくるのが聞こえる。プライベートの時間であったこともあって、緩み切っていたジュディス・ミルズの緊張感は今、仕事中のときよりもうんと張り詰めていた。そして大慌てで帰り支度を整え、アレクサンダー・コルトとジュディス・ミルズの二人が部屋の外に出ようと、出入り口の扉に手を掛けようとした時だ。その前に、扉が開いたのだ。
「それじゃあ、アーチャー特別捜査官。私たちは帰るわ!」
 扉の前にはジュディス・ミルズの予想した通り、肩で息をするニールの母、バーバラ・アーチャーが立っていた。それでも構わずにジュディス・ミルズは、ベッドの上のニールに別れの挨拶をすると、アレクサンダー・コルトの手を強引に引き、その場を強硬に立ち去ろうとする。
 そうしてアレクサンダー・コルトが、バーバラ・アーチャーの横を、何食わぬ顔で通り過ぎようとしたときだ。バーバラ・アーチャーが、アレクサンダー・コルトの手首を掴んだのだ。
「……やっぱりあなたは生きてたのね、アレックス」
 バーバラ・アーチャーがその言葉を発した時。固唾を飲んだのは、アレクサンダー・コルトだけではない。彼女の秘密を知っているジュディス・ミルズも、そして秘密を頑なに守り続けたニールも、凍り付いたのだ。
 だが、それだけでは終わらない。バーバラ・アーチャーを追いかけて、病棟の廊下を走ってきたシンシア・クーパーのその後ろ。そこには蒼褪めた顔をしたニールの娘スカイも居て、更にその後ろには見覚えのある老女が居たのだ。その老女を見た瞬間、アレクサンダー・コルトは観念した。これで長年吐き続けた嘘は終わりになるだろうことを。
「ニール……――このバカ息子がァッ!! なんて秘密を、あんたは今まで黙ってたの!」
「あーっと……と、とりあえずだ。落ち着いてくれ、母さん。な?」
「落ち着いていられるもんですか! あんたって男は、いつまで経っても成長しない。何度、馬鹿なことをやれば気が済むの!!」
 アレクサンダー・コルトの手首を掴んだまま、ニールの母バーバラ・アーチャーは、息子であるニールにそう怒鳴る。その間にも、シンシア・クーパーらは徐々に近付いてくる。
 何してるのよ、早く撤退しなきゃ! ジュディス・ミルズは唇だけを動かし、声は出さずにそうアレクサンダー・コルトに伝えてくる。ジュディス・ミルズもまたアレクサンダー・コルトの手首を引っ張り、アレクサンダー・コルトがジュディス・ミルズのほうに動けば、再びニールの母バーバラ・アーチャーが、自らの許に引き寄せようとアレクサンダー・コルトを無言で手繰り寄せる。
 もう駄目だ。アレクサンダー・コルトは、そう覚悟を決めた。そして彼女はジュディス・ミルズに対し、意味ありげな笑みを向ける。と、そのとき。ニールの母バーバラ・アーチャーが、こんなことを言った。
「昨日の昼、スカイから偶然に『アレックスおばさん』って名前を聞きましてねぇ? 色々と問い詰めてみれば『アレックスおばさん』の特徴は、まあアレクサンダーにそっくりですこと。それでシンシアにも話を聞いてみたら、もうこれは違いないと確信が持てましてねぇ? それで、ニール。言うことは?」
「母さん。これには、事情が――」
「ニール?」
「……はい。申し訳ございませんでした……」
「それでよし。イーリャさんにも、それを言うこと」
「イーリャさん? ――……あぁッ?!」
 久方ぶりに聞いた名前に、ニールが拍子抜けした声を上げたときだった。その『イーリャさん』が、アレクサンダー・コルトの目の前に来る。真っ白の中に細い金髪がまばらに混じる白髪に、青みを少し帯びた緑色の瞳をした老女、イーリャ。その老女は、同じ緑色の瞳を持つ娘、アレクサンダー・コルトを見た。
「スカイが『アレックスおばさんはきっと夜遅くに、面会に来ると思う』って言ってたし、シンシアもそう思うって言っていたから。イーリャさんにも連絡を入れて、彼女も連れてこの時間に来てみたのよ。そうしたら見事に当たったわ。死んでいたはずのアレックスが、ここに居る」
 そう捲し立てる母バーバラ・アーチャーに、怪我人である息子ニールは狼狽えていた。そして父親の居る部屋に辿り着いた娘のスカイは、自分の失言が招いた修羅場に、父親のニールと同様に狼狽えている。
 そしてジュディス・ミルズは眉を顰めさせたあと、掴んでいたアレクサンダー・コルトの手首を離した。それからジュディス・ミルズは数歩ほど後退し、駆け付けた老女に場所を譲る。空いたスペースに割り込んだ老女――アレクサンダー・コルトの母イーリャ――は、より近くで娘の顔を凝視した。
「……ああ、そうだ。アレクサンダー・コルトは死んじゃいない。アレクサンドラ・コールドウェルとして、長いこと生きてきたのさ」
 そう告白したアレクサンダー・コルトは、先ほどまでジュディス・ミルズに向けていた微笑を、今度は自身の母親イーリャへと向ける。同じ緑色の瞳と瞳が、交差した。すると次の瞬間、母イーリャは手をあげて、娘アレクサンダーの左頬を容赦なく平手で打った。
 そんな母親の手には少しばかりファンデーションが付着し、打たれた娘の頬からは塗りたくられた塗装が少しばかり剥がれて、隠されていた左頬の古傷がその片鱗を露わにした。そして母親は、目の前に居る女が生き別れた娘であることを確信。それから母親が娘の長い黒髪を引っ掴んでみれば、そのウィッグは簡単に外れて、カールが掛かったショートボブの金髪が現れる。
 良いように言えば『成長していた』、悪いように言えば『年相応に老けた』アレクサンダー・コルトの姿が、母イーリャの目の前にあったのだ。
「ちょうど、バルロッツィ前高位技師官僚が死んだって話題になっていたときに。ダグラスが、私に会いに来てくれたのよ。そのときに彼が言った。アレクサンダーは生きている。俺はこの目で見たし、俺はアレクサンダーの家に行った、って。最初は、底辺に落ちた人間の妄想か、幻覚だと思ったわ。それに彼の息が酒くさかったから。なのに、それがまさか、本当だったなんて……」
 ぼとぼと、と。母イーリャは、そんな言葉たちを零す。それから彼女が掴んでいた黒髪のウィッグも、バサッと床に落ちた。アレクサンダー・コルトはすぐに身を屈めて、落ちたウィッグを拾い上げる。だがそれを再び被ることは今はせず、アレクサンダー・コルトはウィッグを手に持ったまま、立ち上がりつつ、こう言葉を返した。「親父が話しただろうことはたぶん、全部が真実だ。それで親父は……」
「ダグラスは最初の大寒波に巻き込まれて、死んだんでしょう。彼の身元確認をするために、私は検視局に呼び出されたし。そのことなら、もう知ってるわ」
 父ダグラス・コルトの、死の真相。『憤怒のコヨーテ』から間接的に教えられ、後日ジュディス・ミルズから正式に知らされた、その真実。――アレクサンダー・コルトはそれを知っていながらも、その真相を母親に言うことは出来なかった。誤解をしているのならば、そのままで。救いにもならない事実を伝える必要はないと、そう思ったからだ。
 すると気まずい空気が流れて、母娘が暫し俯き、沈黙する。そこにジュディス・ミルズが、切り込んで割り入ってきた。
「親子の再会に、水を差すようで悪いんですが……私たちはもう、帰らないといけないので。だから、サンドラ。行きましょう」
 一度は離したアレクサンダー・コルトの手首を、ジュディス・ミルズは再び掴む。それからジュディス・ミルズは自分の居る方向へ、アレクサンダー・コルトの手首をぐっと引いた。するとまたニールの母バーバラ・アーチャーが、アレクサンダー・コルトを引き戻そうと、掴んでいた彼女の手首を引っ張ったが。今度はジュディス・ミルズも負けじとそれに応戦し、強引にアレクサンダー・コルトを自身の真横へと引き寄せたのだった。
 ニールの母であるバーバラ・アーチャーからすれば、そしてアレクサンダー・コルトの母であるイーリャからすれば、ジュディス・ミルズはどこの誰ともしれない謎の女。それに『サンドラ』という、アレクサンダー・コルトの偽名での愛称を使う彼女の存在は、母親らからすれば気に食わないことこの上ない。そのジュディス・ミルズに向けられる視線は厳しいもので、この危機的状況にますます彼女は緊張していた。
 だからこそ、ジュディス・ミルズはこの場所から一刻も早く抜け出さなければならない。しかし可能であればことは荒立てずに、後腐れなく温和に別れたいもの。と同時に、彼女の本来の目的も果たさなければ……――
「どうも、サンドラのお母さま。私はアルストグラン秘密情報局のジュディス・ミルズ。私は娘さんの同僚で、パートナーです。公私ともに。なお、このことはどうかご内密に……」
 アレクサンダー・コルトを、自分の横に引き寄せたあと。ジュディス・ミルズは作り笑顔と共に、アレクサンダー・コルトの母イーリャにさっと自分の手を差し出し、彼女に握手を求める。すると母イーリャは戸惑いの表情を浮かべたものの、差し出された手を握り、二人は軽い握手を交わした。
 そうして手が離れ、二人の距離が離れる。それからジュディス・ミルズが作り笑顔を消した時、周囲の視線が途端に彼女へと集中。母親たち、シリル・エイヴリー少佐、ニールにスカイ、そしてアレクサンダー・コルト。シンシア・クーパーを除くその場にいた全員が、ジュディス・ミルズを凝望した。
「アレクサンダーが、ASIに……?!」
 そう驚いたのは、母親ふたり。アレクサンダー・コルトの母イーリャと、ニールの母バーバラである。
「お、おい、ミルズ!! どういうことだ、今のは!? サンドラのパートナーは、俺だぞ!」
 そう驚き、同時に憤慨したのは、しばらくの間おとなしくしていたシリル・エイヴリー少佐。
「へ? あっ……――んんっ?!」
 シリル・エイヴリー少佐と同じポイントに疑問を抱き、驚愕し、ついに頭が真っ白になったのは、怪我人のニール。
「やっぱり、ASIだったんだー……」
 なんとなく察しはついていた、と納得するのはニールの娘スカイ。そして。
「……疑った私が、やっぱり馬鹿だったのね……」
 ジュディス・ミルズの唐突な告白から、暫定の答えを見つけ出して安堵するのは、ニールの前妻シンシア・クーパー。
「あー……ジュディ? どうしたんだい、急に」
 ジュディス・ミルズが突然投下した、前代未聞の手榴弾。たった一言の『公私ともに』というワードが招いた誤解に、アレクサンダー・コルトも勿論、困惑していた。
 そしてアレクサンダー・コルトが、この場に混乱をもたらしてくれたジュディス・ミルズを見つめてみれば、彼女は「してやったり」と言わんばかりのしたり顔を浮かべている。挙句ジュディス・ミルズはアレクサンダー・コルトへとよりにじり寄り、自分の腕をアレクサンダー・コルトの腕に絡ませて、密着してみせるのだから……――シリル・エイヴリー少佐の表情はますます険しくなり、嫉妬に歪んでいくばかり。
 状況は明らかに険悪だ。それでも、ジュディス・ミルズは茶番をやめようとはしない。
「やっだー、サンドラ。お母さまの前だから照れちゃってるの?」
「いや、そうじゃなくてだ。ジュディ……――あー、なんでもない」
 媚びるような笑みを唇に浮かべて、意味深に目を細めて、ジュディス・ミルズはアレクサンダー・コルトに視線を送る。同時にチラチラと、ジュディス・ミルズはシリル・エイヴリー少佐に、それからニールにも視線を送りつけもしていた。ニールは目と口を開け広げて、ポカーンとしているだけだが、シリル・エイヴリー少佐の眉間には皴が寄っていく。
 ジュディス・ミルズは、男たちを意図的に煽っていた。そのうえ彼女は男たちを煽ったうえで『自分のほうがアレクサンダー・コルトと親しい』ことを露骨にアピールしているのである。
「それじゃ。ともかく、本当に明日の任務に支障をきたすので。私たちはこの辺で、お暇させていただきますね~♪」
 シリル・エイヴリー少佐から注がれる嫉妬と憎しみの目に、アレクサンダー・コルトは苦い顔をしながらも。ジュディス・ミルズに引っ張られるがまま、アレクサンダー・コルトはこの部屋の外へと連れ出されていく。
 そうしてその場を立ち去ろうとしたアレクサンダー・コルトの背中に、母イーリャが最後に声を掛ける。
「待って、アレクサンダー!」
 心のどこかでは諦めていながらも、長らく待ち望んでいた母と娘の再会。けれども娘のほうは、ろくに言葉も交わさないうちに早々に立ち去ろうとしている。
 待って、アレクサンダー。母イーリャはそれ以上の言葉は言わず、無言で娘を見つめるだけ。だが飾りだけの言葉など、必要はない。同じ血を引く、同じ瞳を見れば、言いたいことは自ずとわかる。たとえ長いこと、顔を合わせていなかった間柄だとしても。
「また今度、そのうちに。都合が付きそうだったら、会いに行くからさ。絶対にな」
 アレクサンダー・コルトもそれだけを言って、わずかに微笑むと。母イーリャに背を向けて、アレクサンダー・コルトは足音を立てずに、その場からジュディス・ミルズと共に立ち去る。一度も振り返ることはせず、前だけを向いて、早足にすたすたと彼女は歩き続けた。
 そんなアレクサンダー・コルトの肩に、横を並んで歩くジュディス・ミルズは、腕を回す。それからジュディス・ミルズは、少しばかり緊張し、同時に後悔するように沈んだ空気を和ませるべく、ある提案をしてみせた。
「さっ、ディナーでも食べに行きましょうよ! だけど今日はあなたが奢ってよね、サンドラ♪」
「いいね、ディナーってのも。だが奢らせるなら、あいつにしようぜ」
 暗い空気はひとまず、二人の視界に入らない場所に隠れて。アレクサンダー・コルトには、いつもの彼女らしい蛮骨さが戻ってくる。
 最高に悪いが、面白いことを思いついたといった感じの、ニタニタとした下品な笑みを浮かべてみせるアレクサンダー・コルトは、背後にちらりと視線を送る。その横でジュディス・ミルズも同じく、悪企みをしているかのような、黒い笑みを浮かべた――どうやら二人の考えは一致したらしい。そしてジュディス・ミルズは小声で、アレクサンダー・コルトの案に賛同する。
「……それ、名案ね」
 アレクサンダー・コルトとジュディス・ミルズの後ろには、彼女らを慌てて追いかけるシリル・エイヴリー少佐が居たのだ。そして彼に向かって、アレクサンダー・コルトは言う。
「シリル! これからアタシとジュディでメシを食いに行くんだけど、アンタも来るかい?」
 すっかりデート気分でめかしこんでいたシリル・エイヴリー少佐の財布の中身が、大喰らいであるアレクサンダー・コルトとの外食用にと、今日だけはたっぷり詰まっていること。そのことを、アレクサンダー・コルトもジュディス・ミルズも、薄々だが勘付いていた。
 もともと彼は、怪我人であり恋敵(?)であるニールに喧嘩を売るためだけに、見舞いに付いてきたような男だ――ニールと共に、ジュディス・ミルズに虚仮にされた挙句に弄ばれ、ノックアウトされたことはさておき。ここで一度コッテリと彼を絞っておこうと、アレクサンダー・コルトは考えたのである。
 下らない喧嘩は禁止。そして彼氏ヅラをするのも厳禁。もし一線を踏み越えようとするならば、財布を絞り上げる。……そんな新ルールをたった今、アレクサンダー・コルトは思いついたのだ。
「ああ、行くとも! 君たちには話しておきたいことが幾つかあるからね。特にミルズ、お前だ!!」
 ジュディス・ミルズを指差し、顔を怒りで赤くしながら、シリル・エイヴリー少佐は二人のもとへ小走りに近付いてくる。
「まあ。怖いわー、エイヴリー少佐。私は事実を言っただけなのにー」
 しらばっくれた声で、感情を込めずに淡々と、ジュディス・ミルズはそんな言葉を零す。
「まあ実際、公私ともにパートナーってのは嘘じゃないからな。アタシも今は、ジュディの家に居候させてもらってる身だし。……同棲といえば、まあそうなるか!」
 事実を誇張したことを言い、アレクサンダー・コルトはジュディス・ミルズに視線を送る。顔を見合わせると、急におかしさが込み上げてきて、二人は思わず笑ってしまった。
 するとますますシリル・エイヴリー少佐は嫉妬を募らせ、彼が立てる足音はますます大きくなった。そうして悠々と歩く女性二人を追いかけて、シリル・エイヴリー少佐は叫ぶ。
「サンドラの飯代ぐらいは奢ってやろう。だがミルズ! 貴様にはびた一文たりとも払わないからな!」


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