ディープ・スロート
//スローター

ep.12 - Misfortunes never come alone.

『連邦捜査局シドニー支局長ノエミ・セディージョ、電撃解任!』
『アバロセレン工学研究所の一斉検挙を企て、アバロセレン工学エンジニア出身の副大統領の怒りを買ったのか!?』
『連邦捜査局生え抜きの逸材であった彼女は、三八歳という若さでシドニー支局長に大抜擢。以後一〇年もの間、シドニー支局を取りまとめてきた。しかし、その輝かしいキャリアに突如として暴風雨が吹き荒れた。なんと、政府も知らぬ秘密裏で進められていたアバロセレン工学研究所の一斉検挙作戦が、腹心の部下といえる副支局長エド・スミス氏により暴露されてしまったのだ』
 朝から、テレビはその話題でもちきり。そしてニールが読んでいた電子新聞の一面には、そのような文面が書かれていた。
 ニールはブラックコーヒーを片手に持ち、電子新聞を流し読む。特命課の狭いオフィスの中で、コールドウェルが来るのを待っていたのだ。
「……アーチャーとコールドウェル、ってのも何だかんだで割と気に入ってたんだよな。それこそ、モルダーとスカリーみたいな感じで……」
 レッドラムの事件が特命課に回されてから、一ヶ月が経過した。しかし進展は何もなく、全てが振り出しに戻っていた。挙句に上からは、これ以上捜査はするなという無言の圧力が掛けられ、事件にはコールドケースの印が押された。
 今となっては、もう何も分からない。なにせ遺体もすべて消えてしまったのだ。
「…………」
 ジェイコヴ・パテル。ケイト・ウェブ。ビル・キッドマン。
 パトリック・ラーナーに続いて、彼ら三人の遺体も何者かにより掘り返されて、失われてしまったのだ。そして本日付で、特命課も解体。事件も担当者が消えることとなり、迷宮入りの印が押された。特命課を創設したノエミ・セディージョ支局長が解任されてしまったのだから、それは仕方のないことでもあった。
「……レッドラム、か」
 ジェームズ・ランドール特別捜査官などの先輩達は、ニールにこう言った。捜査が突然打ち切られて、何事もなかったかのように葬られるのは、連邦捜査局じゃそう珍しいことじゃないさ、と。彼らの経験則から言うと、公安に関わるものであればあるほど、捜査が潰される確率が高くなるのだという。それがまるで当り前のことのように、先輩たちは言っていた。
 しかしニールが、このようなケースに関わるのは初めてのこと。ショックや失望、無力感は計り知れない。
 なによりも被害者たちに対する申し訳なさが、肩や背中に重く圧し掛かってくるのだ。それはとても苦しくて、とてもつらい。
「……デボラ・ルルーシュ」
 ニールは滅入りに滅入った気分を、ブラックコーヒーのカフェインで奮い立たせる。そうしてニールは、特命課の最後の日に臨もうとしていた。
「……お前は何者なんだ……?」
 三歩進んで、四歩下がった。今回の事件は、その繰り返しであったような気がする。進んでいるようで、更に後ろに下がっている。そんな感じだ。
 そして無力感やどうしようもない遣る瀬無さの中で、ニールはいつしか可愛い我が子が生まれた喜びが忘れ去られていた。
 娘が生まれてきたばかりの頃は、あんなにも嬉しかったのに。天にも舞いあがる気分だったのに。何故だか今は、生まれてきてくれた娘に申し訳ないという気持ちで心がいっぱいなのだ。
 こんなクソみたいな世界に産み落としてしまって、本当に申し訳ない。
 子供の将来を考えるだけで、胸が苦しくなるのだ。
「…………」
 ニールは右手に持っていたコーヒーカップを、自分のデスクの上に置く。それから電子新聞を閉じ、座っていたぼろ椅子の背もたれに身を預けた。
 そうして漠然と、彼は天井を見つめる。ライトブラウンの瞳には、コンクリートがむき出しになった灰色の天井が映り込んでいた。
 ふと思い出されるのは、約十年前の記憶。まだ馬鹿な学生だった頃の、忘れ去りたくてたまらない思い出。長いこと片思いをし続けていた女友達が彼の目の前から消え、以来二度と姿を現さなくなった、あの日の記憶だ。
 昼下がりの純喫茶。よく分からない分厚い哲学の本を読み耽る友人。その横で、気味の悪い手帳を読みながら、延々と独り言を呟く不気味な精神科医のオッサン。仕事があると言って、どこかに行ってしまった情報局の局員の男。居心地の悪さから、そわそわとしていた自分。その後、友人は何かを追って、喫茶店の外に出た。誰かが助けを呼ぶ声が聞こえたと、友人はそう言って、ニールの前から立ち去った。
『……話にならない』
 そう言い残し、彼女は消えた。そして二度と、彼女は戻ってこなかった。
 彼女は死んだ。殺されたのだ。銃で脇腹のあたりを撃たれて、ひどい出血で、死んだ。だが表向きは交通事故であったと処理をされて、無茶苦茶なやり方で事件は揉み消された。遺体も発見されず、遺族の悲しみは救われず、彼女が存在していたことを示す全ての証拠を消されて、その存在は殺された。
 何事も無かったかのように。何も、起きていないかのように。
 無情にも平和な日々が、それから過ぎていった。
「……連邦捜査局は、無能。結局、俺たちってのは権力には勝てないのか。たとえ、俺たちが正義だとしても。いや、正義なんてこの世には……」
 天井を見つめていた目を閉ざし、ニールは口も閉ざす。と、そのとき。オフィスの扉をノックする音が聞こえてくる。ニールは目を開けると、だらけきっていた姿勢を正した。
 そしてニールは扉を見る。静かに、ゆっくりと開けられた扉から入ってきたのは、アレクサンドラ・コールドウェルだった。
「おはようございます。ニール・クーパー捜査官」
 仰々しい挨拶をする彼女の姿に、ニールは驚いて思わず飛び上がる。挨拶に返事をする前に、彼の口から飛び出たのは「うわっ?!」という大声だった。するとコールドウェルは不機嫌になる。眉間に皺を寄せ、ムッとする彼女は、ニールを侮蔑するような目で見た。
「ンだよ、テメェ。人の顔を見るなり、モンスターでも目撃したかのような大声を上げやがって。ひどいにも程があるだろ」
「だ、だ、だって、お前。その、いつもの真黒なスーツは? サングラスはいつも通りだが、なんか、その、あっと、えっと……」
 ニールが驚いているのには、理由があった。彼女の服装だ。
「アレクサンドラ・コールドウェルは、黒スーツ黒ネクタイだろ? なのに、その赤いレザージャケット……」
「どうせ今日は、仕事も無ぇんだろ? だから、ラフな格好でいいかと思ってな。それにこの赤いレザージャケット。せっかく新品を買ったってのに、着ていける場所がどこにもなくてさ」
「あ、ああ。そうなのか、おう……」
「それに今日ぐらい、私服で居たかったのさ。連邦捜査局は、私服OKなんだろ?」
 ニヒヒ、と意味深に笑うコールドウェル。その姿に、ニールは不覚にもドキッとしていた。
 何故なら、そのコールドウェルの姿が、ニールの初恋の相手と見事に重なっていたからだ。十年前に死んだ、とある女友達の姿に。
 すると顔を赤くしたニールに、私服のコールドウェルがぐんと詰め寄る。そして彼女はしたり顔を浮かべると、ニールの鼻の頭を指でベチンッと弾いた。
「……なっ、お前!!」
 痛そうな音が鳴り、ニールはひりひりと痛む鼻を手で押さえる。そして少し涙が滲んだ目で、コールドウェルを睨んだ。
 コールドウェルはニールのその様を眺めて、愉快そうにケタケタと笑っていた。それから彼女はニールの肩に手を当てると、軽く彼を突き飛ばす。そしてコールドウェルは真顔に戻り、ニールを冷めた目で見つめた。
「アンタは、もう既婚者なんだ。子供ができたことを口実に嫁さん家に婿入りして、姓もアーチャーからクーパーに変わったんだろ? 嫁さんじゃない他の女を見て、顔赤くしてんじゃないよ。みっともない……」
「なァッ!? 挑発してきたのは、ソッチだろ?!」
「挑発だって? アタシは私服で来ただけだ。それが、挑発? アホじゃないのか、アンタ」
 ギリッ。怒りと侮蔑と、その他諸々。見下すような視線が、コールドウェルからニールへと注がれた。
 普段なら、ここは沈黙を通して無駄な争いを避けていただろう。しかし、今朝のニールはどうかしていた。開き直ったような笑顔を浮かべるニールは、コールドウェルが燃やす怒りの炎に、たっぷりの油を注ぎ始めたのだ。
「わーるかったな、俺だって男なんだよ。おっぱいが好きで何が悪い!」
「……うわっ、もろに馬鹿な学生に逆戻りしてんじゃねぇか」
「うるせぇな。そういうもんなんだよ、男は!」
 閉ざされた、特命課のオフィスの扉。その向こうからは、コールドウェルの怒鳴り声とニールの悲鳴が聞こえてくる。それと、次々と物がなぎ倒される音が。
 廊下にて、扉の前に立ち、中から聞こえてくる物騒な音に耳を欹てる女は、フフッと笑う。そして女――私物を取りに来ていた、ノエミ・セディージョ前支局長――は、手を掛けていたドアノブからそっと離れていった。





 その頃、ASIでは小さな動きがあった。
「失礼します」
 首都特別地域キャンベラ、そのちょうど中心部に位置するASI本部局。そこの最上階、長官室を訪れていたのは、シドニー市警鑑識課に所属する若い女性だった。
 ASIにおいての彼女の名前は、ジュディス・ミルズ。エイミー・バスカヴィルという名称で市警に潜入していた、アバロセレン犯罪対策部のメンバー。つまり、ASIの局員というわけである。
 そんな彼女のコードネームは『レムナント』。アバロセレン犯罪対策部において、潜入を専門とする女性局員の中でも、特別に突出した能力を持つ者にだけ与えられる名誉の名だ。つまり彼女は、それだけの逸材であるということである。
 そんな彼女はシドニー市警に潜るにあたり、ASI長官から直々に特命を帯びていた。その特命に関する報告をしに、今朝は参じたのだ。
「ハイドン長官代行。やはりシドニー市警にも、特務機関WACEの息が掛かっていました。特に鑑識課主任のイライアス・イーモン・ハウエルズ氏は、過去にサー・アーサーに命を救われたとかで……――」
「やはり、そうか。……これでシドニー市警から証拠品や遺体が消える理由が判明したな」
 長官の椅子に座るロマンスグレーの髪の男は、小声でそう呟く。男の名は、トラヴィス・ハイドン。どういうわけか後任が一向に任命されないせいで、かれこれ二十年以上、長官代行の肩書を背負わされている人物だ。
 志半ばで無念にも凶牙に倒れた前長官、バーソロミュー・ブラッドフォード。その前長官が遺した理想と志を受け継ぎ、前長官が目指した社会を実現することを、この男は目標に掲げている。一言で言うならそれは、原子核エネルギーを超える脅威であるアバロセレンの廃絶。アバロセレンの使用を全面的に禁止する法案の策定だ。
 しかし、言うまでもなくその道は困難が予想されていた。現に、この二ヶ月の間だけでASIは優秀な局員を四名も失った。この二〇年で失った人員の数も、両手の指だけでは数えられない人数である。
 だが尊い犠牲があったからこそ、見えてきたものもあった。
 そして犠牲となった者たちが居たからこそ、長年温め続けてきた計画が、ここまで漕ぎ着くことができたのだ。
「……長官代行?」
 それは道を阻む、真の敵の存在。
 そして、敵をこの国から蹴り出す為の計画だ。
「特務機関WACE、そして元老院という存在。彼らは非常に厄介だ。彼らは情報が表沙汰になる前に、その元から握り潰してしまう。アバロセレンが絡む案件は特にだ。故に彼らが動くよりも先に、こちらは手を打たなければならない。と同時に、彼らの裏を掻く必要がある」
 トラヴィス・ハイドンが長年大事に温め続け、ようやく実行の段階に移すことができた大規模な計画。それは何も知らない民衆に、アバロセレンへの悪印象を植え付けるというものだった。
 まず連邦捜査局に情報を流し、連邦捜査局にアバロセレン工学研究所への大規模なガサ入れを検討させる。それからガサ入れの噂を特務機関WACEに流し、彼らが連邦捜査局の誰かの首を切るのを待つ。そして誰かの首が切られた直後、一斉に情報をマスメディアに解禁。首切り騒動に乗じてマスメディアに情報を流し、騒動の原因となった「アバロセレン工学研究所」の黒い噂を報道させた。
 そして民衆は、首を切られた人間に同情し、その人物を英雄視し始める。と同時にアバロセレンと、アバロセレン工学研究所を絶対的な悪だと認識し、敵対視しはじめるのだ。そうなれば民意は圧力となり、政府が方針を転換するのも時間の問題となる。そして、ゲームセット。ASIの勝利だ。
「風向きは変わった。今は、我々の背を押してくれている。決して少なくない犠牲を払うことになってしまったが、それでもこれは大いなる一歩だ」
 不運にもスケープ・ゴートに選ばれてしまったノエミ・セディージョは、連邦捜査局を追放されてしまった。しかし世間の目は彼女に対し同情的で、世論はそのような対応を取った連邦捜査局を責めるものばかりだ。
 そしてアバロセレンに対し、批判的な意見も増えつつあった。
「……レムナント。君に、次の任務を与える」
 コードネーム『レムナント』ことジュディス・ミルズに注がれる、トラヴィス・ハイドンの鋭い眼光。身構えるジュディス・ミルズは、長官代行の言葉に注意深く耳を傾けさせた。
「ペルモンド・バルロッツィ高位技師官僚。彼を探し出すんだ。そして表の世界にもう一度舞い戻ってくるよう、説得を試みてくれ。彼の立つ舞台は、こちらで整えておく。何の心配もいらない、と」
「……バルロッツィ高位技師官僚? ですが、彼は既に亡くなられているのでは」
「いいや、彼は生きている」
 生きている。そう断言するトラヴィス・ハイドンの目をジュディス・ミルズは、疑うように見つめ返した。しかしトラヴィス・ハイドンの目に、一点の曇りはない。
 腐りきった今を冷静に見つめ、同時に健やかなる未来を願う彼は、不敵に笑う。そしてトラヴィス・ハイドンは言った。
「彼には後進の育成という名の下、教壇に立ってもらう。……もとより彼は、アバロセレンの利用に反対していた人物だ。我々に協賛してくれるだろう」
「仮に、彼が生きていて、彼が私たちに協力してくれるとしましょう。その時……――長官代行は、何をお望みに?」
 もし少しでも邪な思惑が混ざっているのなら、私は一切協力することができない。ジュディス・ミルズは無言で、長官代行である男にそう訴えていた。するとトラヴィス・ハイドンは笑う。彼はジュディス・ミルズに、こう言った。
「私の望みは、今も昔も、そしてこれから先も、ひとつだけだ。時代を作り変え、アバロセレンという存在を“エネルギーの覇王”から“悪の権現”に引き摺り落とす。その為には、これからの時代を担う若者たちの頭に、新時代の正しき知識を刷り込むことが先決だ。私を含めた古い時代の人間は、二〇年も待てば勝手に死んでいってくれるのだからな。……そう思わんかね、ミルズ?」
 ジュディス・ミルズは口を閉ざし、明確な返答を避けた。代わりに彼女は、長官代行の椅子に座る男に対して、深々と頭を下げる。それが彼女なりの、忠誠心の示し方であった。





 地下鉄のホームに、草臥れ顔の中年男カルロ・サントス医師が佇んでいる。掛かってきた電話にため息混じりで対応する彼は、どこまでも疲れ切っていた。
「仕事一筋、捜査官バッジが旦那のようなものだったお前が、あらぬ汚名を着せられて、連邦捜査局を追い出されたんだ。もう少し凹んでいるかと思ったが、全然そんなことはないようだな。そのうえ、再来週にもエスペランスに移住するときた……。ノエミ・セディージョは相変わらず、お気楽なこったぁ。羨ましいねぇ、まったく」
『だから前にも言ったでしょう? ノエミ・セディージョは太陽よ。いや、太陽よりも明るいんですから!』
「……ああ、そのようだな。お前は、明るすぎな太陽だよ」
 電話の相手は、ノエミ・セディージョ。連邦捜査局シドニー支局長電撃解任騒動にて渦中にある、時の人だ。
 しかし彼女の声色は沈んでおらず、むしろ普段よりずっと明るいようにカルロ・サントス医師には思えていた。何かが吹っ切れたというような、そんな感じだ。すると彼女は明るい声色のまま、珍しく弱音のようなことを電話越しに洩らすのだった。
『まぁね、たしかに少しだけ凹んでるわー。でも現場からいきなり引き剥がされて、シドニーの支局長になれって言われた時よりかはショックも少ないわね。だって私が支局長に任命されたのって、決して名誉な理由じゃないし。捜査に関しちゃ嗅覚が鋭すぎた私を気に入らなかった本部の役員どもが、私を現場から引き剥がしたかった、ってだけなんですもの。都合の悪い真実を嗅ぎつけられないように、ってね。気に食わないわよね、ホント。あの本部役員のクソ豚どもめ!』
「…………」
『とにかく、支局長のポストって、私にとってはストレス以外の何でもなかったのよ。だから正直なとこ、今はホッとしてる。それに人間、いつ死ぬかなんてわからないんですもの。約一〇年、支局長ってポストに座り続けて無駄にした分、残りの人生は好きなことして楽しく笑って生きていこうって、そう決めたわ』
「……はぁ、そうか。切り替えが早いな、お前は」
『あっ、そうだ。どうせなら、カールも私と一緒に来る? それで、結婚しちゃう?』
「俺は、生涯現役と決めてるんだ。死ぬまで、またはボケがくるまで精神科医を続けるつもりでいる。それと」
『それと?』
「前の彼氏が、パトリック・ラーナーだった女と結婚? 無理だ。お前、男の趣味が悪すぎるだろう。それに俺には、結婚こそしてないがジルが居る。他の女性、ましてやお前なんざと……」
『えっ、あっ、カッ、カール?! なっ、なんで、それを知って……』
「見ていれば、分かる。二〇代初めの頃、お前たち二人がアカデミーの寮で同室になった際に一度。そして三〇代のときに二度。一年半ぐらい男女の仲になり、同棲一歩手前まで漕ぎつけては、些細なことで喧嘩を起こして、やや疎遠になり、また普通の友人に戻っていた。……俺が気付いていないとでも、思っていたのか?」
『うん、気付いてないと思ってたわ』
「パトリックの周りに大量の男が群がっていた時期と、お前が無理に合コンやらお見合いやらに出向いて男を探していた時期と、お前たち二人がやや疎遠になっていた時期が、見事に一致してるんだよ。嫌でも気付くに決まってんだろうが」
『そ、そうよ! 私、リッキーと付き合ってましたーっ! っていうか、彼しかそういう相手が居なかったというか、その……』
「お前たち二人は、どこまでもお似合いの二人だったよなぁ? 女々しい男と、オッサンよりもオッサンな女と。どうして結婚しなかった?」
『そりゃ、リッキーのほうが適当な理由をつけては、結婚って言葉を拒絶したからに決まってるでしょ! 誰かの所有物にはなりたくないだの、自由でありたいだの囚われたくないだの、今のままの関係が丁度いいだの、なんだのと……。お陰で五〇も手前だってのに、結婚歴が綺麗なまんまの可哀想なババァになっちゃったじゃない! ひどいひとよ、本当に!! ……あぁっ、もう。この話題はナシ!』
 スピーカーから、ノエミ・セディージョの荒い鼻息が聞こえてくる。こりゃ怒らせたな、と気まずそうな顔をするカルロ・サントス医師は、片手間に鞄の中から黒革の手帳を取り出す。会話に適当な言葉を返しながら手帳を開き、その中に挿んであった二枚の写真を交互に見比べていた。
「ハッ! 自由でありたい、か。パトリックらしい、無責任で自分勝手な言葉だなぁ」
『だから、その話題はナシ!! もうやめてよ、悲しくなるじゃない!』
「分かった、止めるって。それじゃあ……――あの、特命課はどうなったんだ? アレックスくんはさて措き、アーチャーくんは」
『アーチャーじゃなくて、今はクーパーよ。やっと正式に、結婚できたんですって。だからニール・クーパー特別捜査官』
 手帳に挟まれた二枚の写真は、コールドウェルから渡されたものだ。
 一枚は、小さな家庭用のプールで遊ぶ幼い娘と、その様子を近くで見守る母親の写真。愛らしい少女の名前は、アイーダ。ピンク色の可愛らしい水玉模様の水着を着て、ぱしゃぱしゃと跳ねる水しぶきを楽しんでいるようだ。写真の中の無邪気な笑顔は年相応に可憐で、その笑顔はカルロ・サントス医師の記憶の中にある幼い頃の妹の顔にそっくりだった。
 そんな娘の姿を微笑ましそうに見つめる母親の名前は、マルシア。彼女が十八歳だったときに無謀な夢を見て家を出て以来ずっと音沙汰がなかった、カルロ・サントス医師の妹だ。
「若い捜査官が結婚か。それもクーパーといえば、大財閥じゃなかったか? ……内心、妬いてるだろ?」
『そっ、そんなことはないわよ! ……彼はシドニー支局の重大犯罪対策課、異常犯罪捜査ユニットに移ったわ。それに支局長のポストには体調が回復次第、リリー・フォスターが就くって聞いてるし。だから、支局のことで心配するようなものは何もないわね。リリーが居るなら大丈夫、安心して眠れるわ』
「そうか。そりゃ良かったな。気がねなくバカンスを楽しめるじゃないか」
 そしてもう一枚の写真は、とある男の運転免許証のコピー。男の名前は、ヘンリー・フランツマン。肥満体型で顔には顎がなく、さらさらの長い茶髪がウザったい、見るからに醜い男だ。だがこの男は、妹マルシアの内縁の夫で、姪のアイーダの父親である。
 そして今、この男はフィッツロイの刑務所で服役中だそうだ。罪状は、内縁の妻へのDV。それと児童虐待。初犯では無いということから、執行猶予なしの懲役五年が言い渡されたらしいと、コールドウェルは言っていた。
『ねぇ、カール……』
「ん? どうかしたか」
『私なら、心配には及ばないわ。至って元気だし、むしろ今までの人生の中でも一番活力に溢れてるって感じだから。けど、あなたはどうなの? さっきからずっと溜息ばっかりじゃない。他人を気に掛けるのもいいけど、自分を一番労らなきゃ。多分、私よりもあなたのほうが疲れてるでしょ』
「…………」
『カール?』
「……あぁ、たしかに。そうかもな。俺のほうが、お前よりもやつれてるか」
『愚痴ならいつでも聞くわよ?』
「聞かせられる愚痴ならな。……生憎、身内のアレコレは人さまに言えたもんじゃないんでね」
 そう言いながら、カルロ・サントス医師はぱたんっと手帳を閉じる。手帳を、鞄の中に押し込んだ。
『カール、それ嘘ね。あなた、言いたくないことがあると、すぐに身内がどうのこうのって言うから。ラリった勢いでヤクの売人を殺して、刑務所にぶち込まれた弟さんも今は立ち直って、更生施設で頑張ってるんでしょ? 長いこと行方知れずになってた妹さんが死んだ件だって、もう落ち着いたじゃない。下手な嘘をつかないで正直に話したら?』
「……はぁ……」
『ほら、また溜息。正直に話したほうが、楽になるわよ? それとも、数多くの犯罪者を追い詰めてきた私の言葉攻めを、あなたも受けたい?』
「いや、是非ともご遠慮願いたいね」
『カール』
「あー、分かってるよ。そう急かすなって……」
 パトリック・ラーナーという男の死後、突然明かされた姪の存在。そしてコールドウェルが持ちかけてきた提案。ただでさえ忙しい日常に突然降りかかってきた火の粉に、修羅場慣れしているはずの精神科医も戸惑っていた。
 長い付き合いだった友人が惨たらしく殺されたことだけでも、十分な災難だというのに。その死んだ友人にそっくりな顔をした子供が現れたかと思ったら、その子供が実は、死んだ妹の娘だった? それに妹の娘は数年前に誘拐されていて、以来ずっと行方不明のままだったというじゃないか。それで、肉親だからとその子供を引き取れと? 出会ってまだ数週間で、本当に妹の子供かも分からないのに? それにその子供とくれば、自分自身のことを機械か何かだと勘違いしているというじゃないか。 
 ――一体、何がどうなっているんだ?!
 それがカルロ・サントス医師の、率直な今の感想だ。
「……実を言うとラーナーが死んで以降、ロクに寝れてないんだわ。毎日のように、同じ悪夢を繰り返し繰り返し……。精神科医が、情けないってもんだ」
『それで、悪夢ってのはどんなヤツなの?』
「胸糞悪くなるだけだぞ?」
『それでもいい、聞かせてよ』
 そして問題は、それだけではない。まるで悪霊にでも取り憑かれたかのように、毎晩見る悪夢もまた、彼の疲れ切った心を更に疲れさせていた。
「……住宅街のゴミ捨て場の中で、パトリックが抵抗してる姿だよ。亜麻色の髪の女に、ナイフで滅多刺しにされて。俺は少し離れた場所から、その光景を傍観しているんだ。それでアイツは時々、俺の存在に気付く。それで悲鳴を上げながら、言うんだよ。こっちを見るな、消え失せろ、ってな。俺が近付こうとすると、アイツは泣く。近寄るな、こんな姿を見られたくない、と。延々と、その繰り返しだ」
 それはどこまでも、不愉快な夢だった。目の前で友人が切りつけられ、滅多刺しにされ、悲鳴を上げ、助けを求めているのに、何もしてやれない夢なのだから。
 毎晩、毎晩。その繰り返しだった。眠りに就くたびに、その嫌な夢が暗闇から襲い来る。そしていつしか、ベッドに横たわることが億劫になり始めていた。そして精神科医である以上、カルロ・サントス医師はその兆候の意味をよく理解していた。今やるべきことは、ひとつ。それは仕事よりも、まずは混沌とした現在の状況を、整理することなのだと。
 そしてカルロ・サントス医師は、しばし黙り込む。すると電話越しに、ノエミ・セディージョが疑問を呈するように唸ったのが聞こえてきた。
『えっと、それって……本当に、あなたが見た夢なの?』
「ああ、そうだ。毎晩見ている」
『……奇妙な偶然ね。私も同じような夢を、毎晩のように見てるわ』
「お前も、なのか?」
『ええ、そうよ。私も、ほぼ毎晩』
「…………」
『ねぇ、なんだか不気味じゃない? まるで……――』
 ノエミ・セディージョが何かを言い掛けた、その途中だった。
 地下鉄駅のホームに、電車が近付いてきた。どことなく地面が揺れ、地下にある構内に風が吹く。そして電車特有の耳障りなスキール音が、遠くから聞こえてきた。そのスキール音に気を取られ、カルロ・サントス医師が周囲への警戒を少し緩めた直後だった。
 背後から、何かが強い力でぶつかってきた。そして黒い大きな影が、カルロ・サントス医師の傍を横切っていく。ぐらりと彼の体が揺れ、前のめりに倒れた。
 片手に持っていた携帯電話が宙に舞い、駅のホームに落ちる。体勢を立て直せず、線路上にそのまま落ちてしまった男は、立ち上がることも出来ず固まっていた。自分の身に何が起こったのか。その状況を呑みこめず、パンクした思考回路が停止したのだ。
 そんな彼が最期に見たのは、見覚えのある獣の姿だった。
 闇を融かしたような真黒の毛並みと、純度の高いエメラルドの宝石を埋め込んだような瞳が印象的な、あの狼。
 約二〇年前の、あの日。友人の右腕を咥えた姿で彼の前に現れた、あの黒狼に似ていた。
『――……私たち。何か得体の知れない影に追われているような、そんな気がしない?』
 電話越しに、ノエミ・セディージョはそう言った。しかしその声が、カルロ・サントス医師の耳に入ることはない。
 駅に、電車が何食わぬ顔で到着する。運転手は顔を蒼褪めさせ、ホームでは悲鳴が上がった。置き去りになった携帯電話からは、男の名を呼ぶノエミ・セディージョの声が虚しく鳴り響く。そして携帯電話は何者かによって操作され、通話は一方的に切られた。


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