ディープ・スロート
//スローター

ep.05 - She's "Redrum".

 ニールがシドニーの自宅に帰りついたのは、葬儀があった翌日の夜。疲れ切ってへろへろで、今にもぶっ倒れてしまいそうなニールを出迎えたのは、しかめっ面のシンシアだった。
「お帰りなさい」
 乱暴に開けられた玄関のドア。その中で待っていたのは、あからさまに頬を膨らませて「私、不機嫌ですよ」アピールを猛烈にしているシンシアだ。顰められた顔に細くなった目で、彼女はニールを睨んでくる。「ただいま」よりも先にニールの口から飛び出したのは、謝罪の言葉だった。
「シンシア。本当にすまない。支局長に急用が飛び込んで、俺もそれに付き合ってたら、こんな時間に……」
「遅くなるとは聞いた。けど翌日の真夜中に帰ってくるなんて聞いてない」
「だから、本当にごめんって。シンシア……」
 ニールの言い分などロクに聞くこともなく、彼女は自分の寝室へと戻っていってしまう。その歩みは、どすどすと力強く、苛立ちに満ちたもの。家の中に入り、玄関のドアに鍵を掛けたニールは、勘弁してくれよと頭を抱えていた。
 昨日。ニールは、大声を上げたい衝動を必死に堪えながら、騒がしい酔っぱらいを連れて市内をドライブしていた。そして今朝のニールは、何をしても泣き止まない子供(それも因縁の相手にそっくりな顔をした子供)を相手にしながら、髪を掻き乱して叫びたい衝動を必死に堪えつつ頑張って笑顔を作っていた。
 泣き虫な子供に別れを告げた後は、支局長とのドライブ。あまりにも酷過ぎる支局長の(いびき)に激昂してしまいそうになるのを堪えながら、シドニー行きの高速道路を安全運転で走行し、どうにか支局長を自宅に送り届けてきた。
 その後、自宅に帰るためにニールはタクシーを拾ったのだが。運が悪いことに、拾ったタクシーの運転手はやたらとお喋りなオッサン。運転手は居眠りをする隙をニールに与えてくれなかった。
 そうこうしてニールは家に帰り着き、踏んだり蹴ったりで散々な目に遭った二日間が幕を下ろしたかと思ったら……――つまらぬ試練はまだ続いていたようだ。
「シンシアぁー。勘弁してくれよぉー……」
 シンシアが不機嫌な理由。それはニールもよく分かっている。ニールが約束を破ったからだ。
 始めは日帰りだと言ったのに、それが「やっぱり遅くなる」となり、結局「翌日の夜遅くの帰りになった」のだから。シンシアが不機嫌になるのも仕方がない。
 世間知らずでお嬢様育ちであるシンシアは、臨機応変というものを知らない。彼女にとって約束や予定は絶対のものである。
 シンシアの、そういうブレない真っ直ぐなところにニールは惚れたようなものなのだが、こうも疲れているときにまでそういう態度を貫かれると……――グサッと胸に刺さるものがある。瀕死の重傷を負っているハートに追加で突き刺さる一本の槍は、ずっしりと重みのある強烈な一撃となって、ぼろぼろのハートを見事にブレイクした。
「シンシアぁ、頼む、許してくれぇ~。君が大好きなフレンチトーストを何枚でも焼いてやるから、ホントに、ゆるして……。もう、俺、昨日今日とで散々な目にあって、身も心も限界なんだよ。支局長は酒癖も酷いし、ずっと泣きわめいてるし、鼾も酷いしで……。それなのに、君まで……」
 ニールは今にも涙が出てきそうな震える声で懇願するが、シンシアからの応答は何もない。ニールは膝をつき、がっくしと項垂れる。その瞬間、疲れ切った脳味噌が活動を緊急停止させた。
 バタンっとその場に倒れ込んだニールは、そのまま冷たい床の上で眠りに就く。しかしシンシアは、やはり助けに来なかった。





 シドニーに帰り着いたニールが、自宅の冷たい床の上で熟睡している頃。キャンベラのカルロ・サントス医師の自宅にまだ居たコールドウェルは、我慢の限界を迎えようとしていた。
「……どうせあなただって、僕なんか消えればいいって、そう思ってるに決まってるんだ」
「だから、そうじゃないって。そう言ってンだろ」
「嘘に決まってる。だってアドミニストレータは、そう言った。お前なんか生まれてくるべきじゃなかったって」
「それで君は必死の思いで、どこともしれない郊外から都市部に逃げて来たんだよねぇー。怖かっただろうにー。けれどここは安全だ。何故ならこのアタシが、特務機関WACEの隊員であるアタシがッ――」
「特務機関WACEは役立たずだって、エズラは言ってた」
「あのなぁ、ガキんちょ……」
 コールドウェルは笑顔を保とうと必死の努力を続けていたのだが、笑みを浮かべるその口角はぴくぴくと引き攣り始めていた。何故なら目の前のクソガキ――“エイド”と自称する子供――が、あまりにも不躾極まりなかったからだ。
 普段の自分の言動を顧みると、あまり人にどうのこうのと言えたことじゃないとコールドウェルも分かっていたが、それでも我慢ならない。
 そうして遂に、コールドウェルの我慢の限界が近付く。
「……ずっと聞いてりゃ、無茶苦茶ばっかりじゃねぇか。このクソガキが。えぇ?」
「……ッ!」
 コールドウェルが脅すような態度で臨めば、自称エイドという子供は肩を竦ませ、そして泣き始める。ギャンギャンギャンギャンと、大号泣だ。
 朝からずっと、この子はこの調子だった。卑屈な言葉を連ねては、ギャンギャンと泣いて、それから不貞腐れる。その様子を見てカルロ・サントス医師は、こんなことを言った。こんな調子じゃあ何も話を聞きだせない、と。
 しかしカルロ・サントス医師は、だからといえ何もサポートはしてくれなかった。というのも彼はコールドウェルと違い、表の世界で働いている人間であり、スケジュールというものに縛られているからだ。
 そういうわけで彼はコールドウェルにこの駄々っ子を託すと、自身が運営する心療内科に出勤していった。君を信じているからね、とコールドウェルに言い残して。
「……あー、ドクター。早く帰ってきてくれよ……」
 そしてカルロ・サントス医師は朝、こんなことを言っていた。
『パトリックのほうがよっぽど厄介だった。この子のほうがまだマシだと思うよ。……まあ、頑張りたまえ』
 カルロ・サントス医師が言うには、二〇代の頃のパトリック・ラーナーというのはまあ酷かったそうだ。パトリック・ラーナーのそれと比べれば、エイドと自称するこの子はまだまだ可愛いものだというらしい。カルロ・サントス医師からすれば、だ。
 しかしコールドウェルがこのような子供を預かるのは、初めてのこと。学生時代には有名な某大学病院の精神病棟で、看護助手のアルバイトをしていたが……――その時に関わった患者の大半は、認知症初期でほんわかとした雰囲気のご老人たち。それか重い鬱病を訴える患者たちだ。泣いて叫んで暴れる子供を相手にするのは、元より子供が苦手だった彼女にとって初めてのことである。
「イヤだイヤだって泣いたところで何も進まねぇぞ。テメェは何がしたいんだ。答えろ。テメェはどうしたい」
「そんなこと言われたって、分かんない!」
「少しは考えてみろ!」
「僕は、レイとは違う! レイみたいな自由な思考を、僕はアドミニストレータから与えられてないもん!!」
「ンなこと言われたって、アタシゃ知らねぇよ。んじゃ、いっちょアドミニストレータにでも会いに行くか? 僕にもレイと同じ機能をくださいーって、頼みに行こうじゃないか」
 アドミニストレータとは、たぶんそのままの意味なのだろう。エイドのシステムに改変を加えられる、管理者権限を唯一保有している人物のことだろうと、コールドウェルは推測している。つまりこの自動人形の製作者であり、管理者のことだ。……――まあ、この子供が『ヒューマノイドであれば』の話だが。
 ソファーの上で膝を丸めて縮まり込む子供の前に、仁王立ちで立ち塞がるコールドウェルは、三白眼のきつい目で子供を見下ろす。するとラーナー次長に似ているようで、やや違っている子供の顔が歪む。真黒だった次長の目と違い、明るい茶色をしている子供の瞳が、込み上げてきた涙のような液体で揺らいだ。
 そして子供はまた泣き叫ぶ。
「それは嫌だ! 絶対に、僕はアドミニストレータに壊される……!」
 ブチッ。――その瞬間、コールドウェルの中で何かが切れた。そうして次に叫んだのは彼女だった。
「ぬああああああああ! だから、テメェはどうしたいんだ!?」
「分かんない!」
「分かんない、じゃねぇんだよ! 考えろってンだ!! その頭を、動かせ! なぁーにが『僕はレイと違う』だ。こっちからすりゃ、ンなもん知ったこっちゃねぇよ。やれ。さぁ、早く。決めろ。今、この場で!」
「無理だって、言ってるじゃん!」
「無理もクソも、アタシが知ったことか! やれって言ってんだよ。さもねぇと今すぐテメェを、ここでぶっ飛ば――」
 カチャッ……。玄関の鍵が解錠され、玄関扉が開けられる音がした。続いて扉が閉まる音が鳴り、足音も聞こえてくる。リビングに近付いてくる、男性の足音が。そして呆れかえったような溜息も、コールドウェルには聞こえた。
 こりゃ完全に、やっちまった……。目の前で大泣きする子供を上から見下ろすコールドウェルは、握りしめた掌に汗を握る。いやに湿っぽくて、べとべととしているような、気持ちの悪い汗だった。
 するとコールドウェルの背後から、咳払いが聞こえてきた。
「アレクサンダー・コルトくん。どうやら君は、私の期待を見事に裏切ってくれたようだ……」
「ドクター。アタシの名前は、アレクサンドラ・コールドウェルだ。その名は」
「今は、君の名前のことで議論を交わす気はない。代わりに、聞きたいことが山ほどある」
 コールドウェルはゆっくりと、後ろに振り返った。後ろには案の定、真顔のカルロ・サントス医師が立っている。
 彼の垂れ目に灯るぼやけた光の名前は、失望。カルロ・サントス医師はコールドウェルの顔を見てから、ソファーの上で膝を抱えて泣きじゃくる子供を見る。それから彼は、コールドウェルに言った。「君は、あの子に何をしたんだ」
「まあ、その。アレだ。……脅し、ってヤツかな」
「それが、君の組織のやり方かね」
「いいや。アタシの上官のやり方ってとこだな」
「上官?」
「そう。上官」
「アーサーという人物のことか? 彼については、パトリックから『極めて冷静で冷徹』だと聞いているが」
「あのジジィこそ感情任せかつ気まぐれで行動するクソ野郎だよ。ラーナー次長よりも煽り散らすしな」
「私は彼を知らないから、それについては何も言えない。しかし今の君は――」
「感情に任せた暴走? あぁーっ、分かってるよ、ドクター。そうだ、その通り。アタシに子供のお守は無理だった。こんなクソガキの相手、もう二度と……」
 コールドウェルがそう言いながら子供を指差した、そのときだ。携帯電話の着信音が同時に二か所から鳴る。ひとつはコールドウェルが穿いていたスラックス、その尻ポケットから。もうひとつはカルロ・サントス医師が携えていた黒革の鞄からだ。
 コールドウェルとカルロ・サントス医師の視線は一度交わり、またすぐに離れる。お互いに背を向けた彼らは、同じタイミングで電話に出た。
「こちら、コールドウェル」
「ドクター・サントス。こんな夜遅くに、どうしたんだ」
「……」
「…………」
「キャンベラの墓地で墓荒らしが出た? おい。ちょっと待ってくれ、ルーカン。その墓地って、政府の殉職者が埋葬されてる、あの……」
「なに? 施設を抜け出して、ひとりで墓参りに行っただと? 何を考えてるんだ、レオ。君はまだ十二歳なんだぞ。こんな夜遅くに、子供ひとりで郊外に繰り出すなど……――なんだと?」
「あぁ、そうか。アンタが今、こっちに向かってるんだな。で、アンタがエイドの面倒を見ると。それでアタシは、例の墓地に行けばいいわけだな。それがサー・アーサーの命令だと。了解、すぐに向かう」
「ちょっと待て、レオ。状況を整理させてくれ。君は、ラーナーの墓に向かおうとしたんだな。そうしたら、ラーナーの配偶者だと名乗る先客が居て、家族が眠る他の墓地に移すからと墓を掘り起こしていたと。それが三十代半ばぐらいの白人の女で、髪は栗色だったんだな? なんとなく危険を感じた君は、物陰に隠れた。そうしたら、銃声が鳴った。しかしその女は構わず棺を車に乗せ、どこかに行ってしまったのか。そうか、分かった」
「おい、ドクター」
「それでレオ、今どこに居る? ……まだ、墓地に居るのか? 分かった、今すぐそっちに行く。絶対に、場所を移動するんじゃないぞ。そうだ、良い子だ」
「ドクター・サントス、ちょっとアンタ!」
「……何だね、アレクサンダーくん。今から私は聞かん坊を迎えに行かなければ」
「今のアンタの会話。どういうことだよ」
 通話を終えていたコールドウェルは携帯電話を尻ポケットに戻しながら、キツい眼光でカルロ・サントス医師を捉える。カルロ・サントス医師も携帯電話を鞄に押し込むと、コールドウェルの目を見た。
「墓荒らし女の話題だ。どうしてアンタの口から、その女の話が出た。今の通話相手は誰だ」
 コールドウェルはそう言い、カルロ・サントス医師に詰め寄る。コールドウェルの気迫は、緊張に満ちていた。しかし若い娘の威圧ごときで、ベテラン精神科医は動じない。
 もっと恐ろしい殺気に満ちた凶暴な患者たちや、頭のネジが数本ぶっ飛んだイカれた犯罪者たちを、今までどれほど相手にしてきたことか。引っ掻かれ、噛みつかれ、ナイフで切りつけられ、あやうく銃で撃たれかけ……――したくもなかった数多くの経験を、彼は積んできたのだ。そんな彼にとってコールドウェルの威圧など恐るるに足らぬもの。
 堂々と佇むカルロ・サントス医師は、冷静な態度でこれだけを言った。「さっきも言っただろう。聞かん坊を、その墓地まで迎えに行く。電話の相手はその悪ガキだ」
「悪ガキ?」
「君も覚えているんじゃないのか、アレクサンダーくん。レオンハルト・エルスター。以前、ラーナーが君を巻きこんで、あの少年に事情聴取をしただろう」
「……あの、金髪の?」
「ああ、あの金髪の少年だ。それに君と私の目的地は、どうやら同じであるようだ。なんなら君も乗っていくかね」
 このドクターと居ると、どうにも調子が狂わされる。心の中でコールドウェルは愚痴を零す。それから心とは裏腹に、コールドウェルは表情を緩めた。
「そうしてもらえると助かるよ」
 するとコールドウェルがそう言った直後に、来客を告げるインターホンが鳴る。玄関の向こう側からは、時間帯も考えずにキーキーと騒ぐ女性の声が聞こえてきた。
「ドクター・サントス、それとアレックス! 居るんでしょー、ドアを開けてー」
 コールドウェルにとって、その声は聞き慣れたもの。毎日のように聞いていて、どこか飽き飽きとした気分すら覚える声だ。
 そしてカルロ・サントス医師にとって、その声は聞き覚えがあるもの。随分と昔に聞いたことがある、どこかゾクッと背筋が震える声だった。
「今の声はもしや、アイリーン・フィールドか?」
 眉を顰めさせるカルロ・サントス医師は、コールドウェルに尋ねる。するとコールドウェルは首を縦に振り、頷いてみせた。
「その通り。今、彼女はアイリーン・フィールド。ドクターも、アイリーンは知ってるんだろう?」
「知っているからこそ、訊いているんだ。彼女は、何の用があってうちに来たんだ?」
「そこのクソガキを引き取りにきたんだ」
「あの子を、アイリーンが?」
「アタシがずっとあの子の面倒を見続けるより、彼女に任せたほうが安心ってもんだろ」
「そうだな。彼女のほうが、君よりもずっと、何百倍も、安心できる」
「…………」
「事実を述べたまでだ」
「分かってるよ、ドクター。それよりさっさと行こう。ほら、車のキーを貸して」
「なに? 私の車を、君が運転するとでも言うのか」
「そうだよ。アタシのほうが早く目的に着けるからね」
「……危険だ。危険すぎる」
「早く。キーを出してくれ」
「…………」
「ドクター、急いでるんだよ」
「……分かった。だが、私の車に傷を付けることは許さないからな」





 彼が乗ってきた電車は、終電の一つ前のものだった。
 彼が駅を降りてから、もうだいぶ時間が経っている。終電はとっくに仕事を終えているだろうし、今朝まで帰る脚は何もないだろう。それに彼は、帰りの電車賃を持ち合わせていなかった。
 タクシーに乗るお金など、当然持ち合わせていない。宿賃もない。それに子供ひとりだけでモーテルにでも行けば、通報されるのがオチだ。
 けれども別に、彼は悲観視をしていなかった。迎えに来てくれる大人を彼は知っていたからだ。
「……国営の墓地だってのに、警備も柵の間もガッバガバだな……」
 そう呟きながら少年は、監視カメラが一台も設置されていない死角に入ると、柵の広い隙間を潜りぬける。なけなしの小遣いで買った白百合の花束を大事そうに携えた少年は、政府に仕え、そして散っていった殉職者たちが眠る国営の墓地に忍び込んでいた。
 なお、少年の目的は墓荒らしではない。ここに眠ると聞いた一人の死者に、せめてもの感謝を捧げに来ただけだ。
「……そういやカルロのおっさんに、どこにあの人のお墓があるとか聞き忘れたなぁ。どうしよ、困ったな……」
 あたりは真っ暗。よりにもよって今晩は新月で、月の明かりは期待できない。建物らしい建造物は見当たらず、夜闇でより鬱蒼とした森が周囲には広がっている。周辺に光らしい光がないため、お陰で曇りのない夜空には満天の星が散りばめられていた。
 真夜中でもライトが燦々と輝く、必要以上に明るい都市部ではまず見られない星空。普段は地上の眩しさに掻き消され、目にすることが叶わなかった小さな星々が今、少年の目に映っている。その小さな星たちに、墓石に刻まれた名前たちを照らし合わせながら、少年は羽織っていたジャケットのポケットを漁る。
「……っと、あった」
 少年が取り出したのは、一本のペン。ボールペンの尻に、申し訳程度の懐中電灯がついたものだ。少年は、取り出したライトの電源を入れる。カチッという音のあとに、それなりに明るいが、照らしてくれる範囲が狭いライトがともった。
 それから少年は墓地の中を歩いて回った。頼りないライトの光で墓石の名前を確認しては、違う人だと次に行って。また見ては、違うと次を見て……。その作業を繰り返して三〇分が経った頃だ。少年の足音以外の物音が、はじめて聞こえてきたのだ。それから、ふたつのキツい明かりが遠くに見え、消える。それが駐車場に停まった車のフロントライトだと理解したとき、少年は慌てて物陰に逃げ込んだ。
 息を殺し、少年は気配を消す。すると遠くから、男女の声が聞こえてきた。それから、なにかの機材でも持ち込んだかのような強烈に明るい光が、暗闇に包まれていた墓地を照らす。どういうわけか、金属がカンカンッとぶつかり合う音も聞こえてきていた。
「だーから、書類を見せたでしょー? 頭カタいなぁ、墓守さん。私だって本当はスっ飛ばしたかったけど、お役所でちゃーんと手続きして、許可貰ってるのー。だから彼は、うちに連れて帰る。家族のお墓に移すわ」
「ですから、聞いて下さい。その書類は民間の墓地でのみ適用されるものであって、ここは国営の墓地です。それに、ここに眠る方々は政府職員ないし関係者であった方々なんです。あのような略式の書類数枚で、掘り返しの許可を与えるわけにはいきません。裁判所命令が必要になります」
「じゃあ、なに? パトリックを、家族と離れたこんな場所に置いて行けって言うの?」
「はい、そうです。そもそも、この墓地に埋葬されるというのは名誉なことであり、ご本人も生前にその意向を示されていて……」
「アンタに、彼の何が分かるっていうの? 家族でもないのに?」
「それについては返す言葉もありませんが、ですが」
「なによ、たかが墓守のくせに! 偉そうな口をきいて、政府職員のつもりなの?」
「ええ、司法省の者ですが」
 パトリック。覚えのある名に、少年はビクッと背筋を震え上がらせた。なにせ少年が探していたのは、その人物だからだ。
 パトリック・ラーナー。その人物は少年がまだ五歳だったときに、少年の姉が事故死した件を調査していた捜査官だ。
 二十五歳以上も年が離れていた姉は、元アバロセレン技士だった。その姉はある日、少年の目の前で焼け死んだ。突然体から強力な電気を発現させ、その電気に襲われ、死んだのだ。姉と弟、慎ましく二人で暮らしていたおんぼろの家の中で。
 警察は姉の死を早々に事故と決めつけ、捜査を打ち切った。事故死というのは、たしかに事実であった。けれども、その判断には問題があった。所見が正しくなかったのだ。
 警察は、姉の死は落雷による感電死だと決めつけた。姉の遺体のありさまは酷く、そうとしか言いようがなかった。けれども姉の死の前後に、落雷を伴う雨がアルストグランに訪れていなかった。なら原因は何なのか? そこに深く関連していたのが姉の職業だった。
 アバロセレンによる人体の変異。それに姉の体は適応できなかった。それが、姉の死の答えだった。
 姉の死の直後、少年のもとにパトリック・ラーナーと名乗る人物が現れた。彼だけが、少年の話を真摯に受け止めてくれた。姉の体から電気が出たという突飛な話を。そして彼が、姉の死の原因を解明してくれたのだ。
 だが結論から言うと、姉の事件は落雷による感電死として処理され、真実が明るみになることはなかった。けれども少年は、そのことに悔しいといった憤りを覚えていない。
 姉は死んだ。彼女はもう戻ってこない。でもその死は、決して無駄になっていないと少年は思っている。少しずつだが、アバロセレンが人体に及ぼす影響についての調査が、国を始めた至るところで進み始めているからだ。
 調査を進めるようにと各所に圧力をかけて回ったのがパトリック・ラーナーであると、父親代わりの精神科医から少年は聞かされていた。だからこそ、少しでもお礼がしたくて、少年は今日ここに来たのだ。
 彼の墓を見つけて、そこに花を供えたら、少年は児童養護施設に大人しく帰るつもりでいた。ただ、それだけのつもりだったのに。なんだか事態は面倒な方向に進みそうな気配を濃厚に臭わせつつある。気配を消そうと努力する少年は、不安や恐怖から目を逸らすために拳を強く握りしめていた。
 するとまた、女の声が聞こえてきた。
「へぇー、あっそ。司法省なんだ。ケテルが最近の根城にしてる、あの司法省。ふーん……」
「ケテル? 誰のことです」
「そーいや、アイツ。最近はまた若い男のフリをして、マイケル・バートンって名乗ってるんだっけ。あれっ、それとも白髭のエズラ・ホフマンだっけ。もうちょっと名前のバリエーションとか、ないのかなー。あいつ」
「マイケル・バートン……副長官……?!」
「司法省か。ケテルの息が掛かってると思うと気に食わないなぁ。というわけでじゃあねー、バイバァ~イ♪」
 副長官が、何を。それが男の最期の声だった。豪快な銃声が鳴り、女の気味の悪い笑い声だけが淋しく広がっていく。
「あっははー、イェーイ! サイレンサーつけるの忘れちったけど、まー聞いてるやつなんかいないよね。ジェドに後始末がどうのって怒られるだろうけど、まあいっか。うふふふ、アハハ!」
 その後には、土をさくさくとシャベルで掘り出す音が続いた。女の不気味な独り言も聞こえてきた。

 愛してる。本当に可愛い。私のいとしい天使。
 殺してしまいたいほど、愛おしい。
 まっ、私が殺したんだけどね。
 もう一回生き返らせて、また殺してみようかな。
 ならキミアの力を借りなきゃ。でもキミアって案外カタブツだからなー。
 じゃあ、どうする?
 モーガンに頼んで、レプリカを作ってもらう?
 あーん、どうしよう。私の愛しいパトリック。
 待っててね、パトリック。
 私の天使。いちばん愛しい人間。
 もうすぐ冷たい土の中から出してあげるから。
 私と一緒に居よう。ずっと、ずっと。
 あのときはゴミ捨て場になんか放置して、ごめんなさい。
 ケテルに邪魔されたから、あなたを置いて逃げるしかなかったの。
 だから未来永劫、この世界が終るまで。
 これからはずっと、ずっと、ずーっと一緒。
 生き返らせてあげるからね、パトリック。
 だから最期の言葉を、訂正して。
 最期の言葉が私宛てじゃないなんて、あんまりだわ。
 どうしてこの私よりも、人間のほうが良いわけ?
 カルロ・サントス、それとノエミ・セディージョ。
 挙句にテオ・ジョンソン?
 納得できない。
 だから絶対に、あなたを連れて帰るんだから。

 女の口から紡ぎだされる呪縛のような言葉に、少年はぞっと怯えながらも、必死に気配を消し続けた。やがてシャベルを放り投げたような音が聞こえてきた。それから重いものを引き摺り出す音。それから、引き摺ってどこかに運ぶ音。やがて女の声と物音が遠のきはじめ、少年は恐る恐る物陰から顔を出す。
 掘り返された地面に、ぽっかりと空いた空洞。土の山。死んでいる男。赤茶色く錆びついている、年代物のシャベル。そして引き摺られていく白い棺。棺を引き摺る、女の背中。
「……もしかしてオレ、すごい現場を目撃した……?」
 暗闇の中、女の姿はよく見えなかった。せいぜい分かったことといえば、女の身長と髪色くらい。女の身長は高く、ざっと一八五㎝弱。栗色の髪はストレートで、肩に掛かっているくらいの長さ。そして頭には、ビビッドピンクらしきニット帽を被っていた。
 服はタンクトップのような形をした真っ白のセーター。袖はないが、タートルネックがついているという不思議な形状をしている。また女が穿いていたのは、カーキのような明るい茶色のホットパンツ。真っ白で細い脚と腕は剥き出しで……――ということは、きっと白人なのだろう。靴は、たぶん真っ赤なハイカットスニーカー。それと柄はよく見えなかったが、右の二の腕にはタトゥーのようなものが入れられていた。
 いくつかのリングが規則的に散りばめられ、それが線で結ばれ何かの形を作っていた、よく分からない模様。それはどこか、魔法陣といったオカルトの分野の文様のようで……。まだまだ知識の浅い少年にはその正体が分からなかった。
 女の特徴を頭の中に叩きこむと、少年は一度深呼吸をする。すると遠くのほうで車のフロントライトが光り、どこかへと去っていった。
 さて、もう気を緩めても良い頃だろう。少年は別の人に渡す予定だった花束を、新たに増えた墓場の死者の横にそっと置く。それから施設の職員に買ってもらった安い携帯電話を取り出し、とある人物の番号に掛けた。
「あっ、カルロのおっさん。実は今、バーソロミュー記念霊園に居てさ。んで、その……――墓荒らし女を目撃したってとこかな」


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