ディープ・スロート//スローター

Let well enough alone. ― アーチャー&コールドウェル

 黄金時代も世界大戦により焼失し、戦火を逃れたライフラインにより辛うじて人類が生き延びている、西暦四二七一年。生活水準は二十一世紀とほぼ同等と、人類はどこまでも落ちぶれていた。
 舞台は、そんな四十三世紀。『空中要塞アルストグラン』こと、アルストグラン連邦共和国。かつての名をアルフレッド島、更に昔の名をオーストラリア大陸といったその大陸は、今や高度一五〇〇メートルほどの空を漂う空中都市エアロポリスとなっていた。
 アルストグラン連邦共和国。そこはひとつの大陸が、ひとつの大きな飛行船になっていたのだ。夢のようなその都市は、永久機関の大型エンジンと、未知のエネルギー物質によって可能となった。
 大型エンジンを動かす動力源は、まだ未解明な部分が多く残されているエネルギー物質『アバロセレン』。ここ二、三〇年ほどの歴史しかないその物質は、今やアルストグランのエネルギーの全てを賄っていると言っても過言ではない。電力を生むタービンに使えることは勿論のこと、車や飛行機を動かすエンジンにも、果ては核爆弾以上の威力を持つ兵器にもなり得るアバロセレンは、全ての夢を叶えてくれるであろう素晴らしい代物だった。
 しかし、そんなアバロセレンがもたらす恩恵は、それを使用することにより発生するリスクとはとても釣り合っていなかった。
 原子力発電に用いられるウランよりも、よほどタチが悪いといえるだろう。
「シンシア。朝飯が出来たがー……食べられそうか?」
 そんな空中要塞アルストグランに住まう国民に忠誠を誓い、法に尽くす男が居た。
 男の名前は、ニール・アーチャー。警察機関アルストグラン連邦捜査局シドニー支部に勤務する、特別捜査官である。以前はキャンベラ市にある本部局の犯罪捜査指令部、重大犯罪対策課に所属していたが、とある任務を任された関係で異動。現在はシドニー支部局の特命課に所属しており、やや扱いに困る少々厄介な女とコンビを組まされている。
 そんなニールには、シンシア・クーパーという名の婚約者がいた。
「うん、なんとかね。起き上がるのに手を貸してくれない?」
 大きなお腹をかかえたシンシアは、ゆっくりとベッドから上体を起こす。ニールは彼女に手を差し出し、ベッドから降りる手助けをした。
 寝ぐせのついた黒髪を揺らし、ニールの肩を借りるシンシアは、すっぴんパジャマ姿でよろよろと廊下を歩く。再来週には臨月を迎える彼女は今、落ち着いたかと思われた悪阻つわりの再来に苦しめられていた。
「あなたは仕事で忙しいだろうに。ごめんなさいね、ニール」
 気まずそうな顔をするシンシアは、そんなことを言う。彼女をリビングに誘導しながら、ニールは仕事の愚痴を漏らした。
「ああ、本当に仕事が忙しい。俺の予定じゃ今頃、貯えた有給を一気に消化して君に付き添ってるはずだったってのに。土日もロクに休めやしない。まるで理解の無い職場だよ」
 そう言いながらニールはドアを開け、リビングに入る。それから机の横に置かれた椅子を少し引くと、そこにシンシアを座らせた。
 それからニールは一度キッチンに行き、用意した朝食をプレートに乗せ、リビングに運んでくる。朝食を、シンシアの前に並べた。
「……こういうとき、仕事一筋で生きてきたキャリアウーマンが上司だと、融通がきかなくて困るよ。副局長リリー・フォスター、ありゃ強敵さ。それに相棒のコールドウェルも、家庭とは無縁なぶっきらぼうだし」
「あれ? 前に相棒は二人の子を持つパパさん捜査官だって、あなた言ってなかったっけ?」
「それは前の相棒、クルーゾーだ。二年前の異動で変わってさ。今の相棒は、頭のネジがぶっ飛んでいるクレイジーな女で。ことあるごとに犯人を射殺する、困った奴なんだ。いつか俺も、あいつに殺されるんじゃないのかって思うと、恐ろしくて……」
 ガラス板の食卓に並んでいるのは、ほうれん草のバターチーズ炒め。それと小さめのオムレツに、プレーンヨーグルト、オレンジジュース。短時間で作った割には、それなりの量だ。
 中国系の血を引くシンシアは、慣れた手つきで箸を握る。非の打ちどころがない綺麗な箸使いで、摘み上げたほうれん草を口に運んだ。それから彼女は口をもぐもぐと動かしながら、壁に掛けられたアナログ時計を指差す。
 ニールは淡褐色の目で、時計を見た。時刻は、午前七時五十七分。ニールは驚いたように目を見開くと、慌てだした。
「あぁっと、シンシア。昼飯は、冷蔵庫の中に入れておいた。食べる時には電子レンジで温めてくれ。ラップを掛けたまま、五〇〇ワットで一分半。それで夕飯はいつも通り、料理人のちんさんが来てくれるんだよな?」
 シンシアは首を縦に振り、こくりと頷く。
 実を言うとシンシアは、調理という行為をしたことがない。何故なら彼女は、複数の企業を経営する資産家の娘であるからだ。彼女にとって食事は誰かが作ってくれるものであり、自分で作るものではない。だからニールはこうして毎朝、早起きをしては彼女の分まで朝食を作るのだ。
 しかしニールは、それを苦には感じていない。ニールの母はそれなりに有名なホテルの料理人で、幼いころから母に料理の腕を仕込まれているからだ。それに、キッチンに立つことは好きだし。シンシアが喜んでくれるなら、それ以上のことはなかった。
「それじゃ、俺は行く。夜の七時には帰ってくるつもりでいるが、急用が入ったらごめんな。それと、何かあったら連絡をくれ」
 ニールはそう言うとスーツの上着を着て、リュックサックを背負う。手入れが行き届いているとは言えない革靴を履き、バス停へと駆け出して行った。
「……やべぇっ、遅刻する……!!」





 連邦捜査局シドニー支部、四階。『特命課』と書かれたステッカーが貼られている扉を、ニールは恐る恐る開ける。
「おはよーございまーす」
 元は物置だった部屋を改修して作られた、デスクが二つしか入らない狭いオフィスの中。剥き出しのコンクリートの壁に設置されたダーツボードに向かってダーツを投げる、黒スーツをクールに着こなすブロンドの女が居る。彼女の長い天然ブロンドの髪には強いカールが掛かっており、左頬にはライオンに爪で引っかかれたような古傷が刻まれていた。
 ニールは挨拶をしてからオフィスに入り、静かに扉を閉める。しかしブロンドの女は、ニールに一瞥もくれない。彼女の鋭い緑色の眼光は、ダーツボードだけを睨んでいた。
「……」
「おい、アレックス。無視すんなよ」
「…………」
 一投目。ダーツボードの中心に、矢尻は綺麗に刺さる。
二投目。一投目が刺さっている場所の、数ミリ下に刺さる。
三投目。大きく左に逸れた場所に突き刺さる。
四投目。ダーツボードから大きく右に外れ、今度はコンクリートの壁にダーツが当たる。かこーん……となんとも切ない音を立てたダーツは、安物の赤い絨毯が敷かれたコンクリートの床に落ちた。
 そして、五投目。
「……うるせぇんだよ。集中が削がれるだろうが」
 ダーツは、ニールの左頬すれすれを通り抜けていく。過ぎて行ったダーツはニールの後ろ、閉じられた扉に刺さった。
 ニールは後ろに振り向き、扉に深く突き刺さったダーツを見る。それから、ダーツを投げた女を凝視した。そしてニールは言う。
「おい、アレックス。俺を殺す気か?」
 すると“アレックス”と呼ばれた女は、こう答えた。
「なんなら、アンタの脳味噌の中にあるアプリコット(脳幹の隠語)を撃ち抜こうか?」
「お前、本当にイカれてるな。……はぁ、俺の知ってるアレクサンダー・コルトはどこに消えたんだ。パトリック・ラーナーに毒されちまって……」
「今のアタシは、アレクサンドラ・コールドウェルだ。昔の名は忘れろ」
 六投目のダーツの矢尻が、ニールの額を狙っている。ニールは両手を上げると、降参の意を示した。
「わぁーかったよ、アレックス。今のお前は、特務機関WACEワースから派遣された超一流のエージェント。“死神”ことコールドウェルだ」
 切れ味鋭い目でニールを睨むコールドウェルは、六投目のダーツを投げる。六投目のダーツは、一投目のダーツのおしりに、見事に突き刺さった。ニールは厭味ったらしい笑顔を浮かべ、拍手をコールドウェルに送る。
 すると不機嫌そうな顔をするコールドウェルは、こう言った。
「“死神”は、余計だ」
 死神というのは、連邦捜査局の捜査官たちがコールドウェルにつけた仇名である。少しでも敵意を見せた犯人を、彼女が容赦なく射殺することから、この仇名が付けられた。
 そしてコールドウェルは、連邦捜査局の人間ではない。彼女は『特務機関WACE』と呼ばれる謎の組織――少なくとも、アルストグラン連邦共和国の国家機関ではない――から派遣されたエージェントだ。外部の人間ということもあり、連邦捜査局の捜査官たちからはあまり好かれていなかった。
 そんなコールドウェルと、ニールはコンビを組まされている。
「よっ、死神!」
「…………」
 コールドウェルと共に、特命課に回された事件を捜査しながら、彼女の監視をする。それこそが、シドニー支局長から彼に与えられた任務であり、ニールが特命課に異動させられた理由であり、特命課が急きょ設立された全容であった。
 しかし特命課というのは、存外に暇な部署である。
 事件は、滅多に回ってこない。仮に回ってきたとしても、それはモンスターが出たとか、宇宙人が人を攫ったとか、現実から大きく乖離した事件ばかりだ。それに実際に起こってなどいない、自作自演であることも多い。なので大半は無視をされるか、コールドケース扱いとなり、終結する。
 こんな仕事、もう嫌だ。どうせ仕事が来ないなら、待機している意味もないのだし。妊婦である婚約者のために、俺に有給をくれたって別にいいじゃないか。
「なんだよ、アレックス」
「……いいや。別に、何でもねぇけど?」
 ニールは切実に願っていた。本部に戻りたい、と。
 重大犯罪対策課に戻りたい。宇宙人を追うよりも、野放しにされている殺人鬼を捕まえたい。居もしないモンスターを捕獲するより、誘拐された子供をひとりでも多く救いたい。
 それなのに。
 それなのに、どうして。
 ああ、居もしない神よ。あなたはどうして、こんなにも理不尽なんだ……――!
「あのなぁ、アレックス。死神と言われたくないなら、犯人を射殺するな。生け捕りにしろ。分かったか?」
 ニールはコールドウェルに対して、そう言う。すると彼女は、ニールの言葉を鼻で笑った。犯罪者を生かす価値などないとでも、彼女の目は言いたげだった。
 ニールは、そんなコールドウェルから目を逸らす。自分のデスクに荷物を置くと、おんぼろの椅子にどかっと座った。椅子はキィーっと悲鳴をあげ、軋む。
 すると、そのとき。久しぶりに、特命課の扉がノックされた。
「アーチャー、居るかしら?」
「どうぞ、入って下さい」
 がちゃり。ドアノブが捻られ、扉が開く。顔を出したのは、溌剌とした笑顔を浮かべる黒髪ショートヘアーの壮年女性――ノエミ・セディージョ支部局長――だった。
 椅子に座ったばかりのニールは慌てて立ち上がり、支局長の前に立つ。そんな畏まらなくていいわよ。支局長はそう言いながら、ニールに一封のファイルを手渡した。
「はい、これ。新しい事件よ」
 青い厚紙に挟まれ、ファイリングされた資料。ニールはそれを受け取ると、少しだけ首を捻った。今までは薄っぺらいファイル――大した情報も書かれていない、馬鹿げたサイエンスフィクション紛いの珍事件――しか渡されてこなかったというのに、今回はそのファイルが分厚かったからだ。
 すると支局長は、コールドウェルの名前も呼んだ。
「エージェント・コールドウェル。あなたも目を通して頂戴。今回ばかりは、特務機関WACEに協力をお願いしたいのよ。あなたからサー・アーサーに、口をきいてくれないかしら」
 目つきを悪くさせたコールドウェルは、支局長を疑いを抱くような目で見る。コールドウェルはニールの横に並ぶと、分厚いファイルの中身を覗き見た。
 そしてニールは支局長に、問い掛ける。
「それで、局長。今回の事件ってのは……」
「聞くよりも、ファイルを見たほうが早いと思うわ」
 支局長は言いながら、渡したファイルを指差した。
 ニールは、支局長の顔色を窺い見る。先ほどまで溌剌とした笑顔を浮かべていた支局長の表情が、暗く沈んでいることに気付いたからだ。それに支局長の目には涙がうっすらと浮かんでおり、目元は少しだけ赤みを帯びている。マスカラも、ほんの少しだけ滲んでいた。
 今度の事件は一体、何だっていうんだ。ニールは不審に思いながらも、ファイルをそっと開く。そして答えは支局長が言っていた通り、ファイルの中に載っていた。
「実はこの一ヶ月の間に、ASIの局員が立て続けに殺されているの。今のところ被害者は全員、ASIの中でもアバロセレン犯罪対策部に所属している人間。他の部署の人間が狙われたという情報は、今のところ出てきていないわ。民間人の被害も確認されていない」
「……ASIの局員が?」
 ASIとは、アルストグラン秘密情報局の略称。その名の通り、国の諜報機関である。
 そこの局員が、それも特定の部署の人間だけが、立て続けに殺されている。となると、それは国家の安全に関わる重大事件という扱いになり、連邦捜査局の管轄となるのにも納得がいく。
 しかし、ニールは眉を顰めさせた。たった二人しかいない特命課に、回すべき事件なのだろうか。そこが疑問に思えて、仕方無かったのだ。すると支局長が言う。
「この事件は昨日まで、キャンベラの本部局、それも最高の精鋭とやらが集う国家保安部が捜査していた。けれども進展はなし。これ以上、国家保安部に任せていても解決が見込めないと判断した長官が、この特命課を指名したの。……連邦捜査局には限界があるけど、WACEの権限があれば、ってね」
「特務機関WACEってのは、あんたらが思ってるほど万能じゃないんですよ。なんせ、うちの上官は何考えてんのかが分からない人でしてねぇ。あんまり期待してもらっちゃ、困るんですがね」
 コールドウェルはだるそうに、そう洩らす。しかしその直後、彼女の表情が変わった。
 ニールがファイルのページをめくり、ある被害者に関する記述を開く。そこに書かれていた名前を見るなり、コールドウェルは焦りを見せた。そして彼女は、支局長に詰め寄る。
「おい、アンタ。ラーナー次長が殺されたってのは、本当なのか?」
 支局長は、憂い気に目を伏せる。その拍子に、支局長の目からは涙が零れ、頬を伝っていった。
「……そこに書いてあることは、何もかも事実。あなたたち特務機関WACEと深い関わりを持っていた、アバロセレン犯罪対策部次長パトリック・ラーナー。彼は昨晩、殺されたのよ。ばらばらにされて、ゴミ捨て場に遺棄された姿で、発見された」
 パトリック・ラーナー次長。その名前を聞くなり、ニールの顔も青ざめていった。つい数分前、ニールはその名を口にしたばかりだったからだ。
 ニールは、そんな次長の名が書かれたファイルを、真っ白になった頭で漠然と見つめる。その横で、コールドウェルは言った。
「……一昨日から、次長と連絡が取れなくなったんだ。まさかとは思ってたが、そのまさかが現実に起こっていたとは」
 ラーナー次長という人物は、多かれ少なかれニールに影響を及ぼした人物である。彼が推薦状を書いてくれたからこそ、ニールは連邦捜査局の特別捜査官になれたようなものだからだ。
 しかし、良い思い出ばかりとは限らない。むしろニールとラーナー次長の間には、一言では言い表せない複雑な事情ばかりが渦巻いていた。関係は険悪そのものだったと、言えるのかもしれない。
 ニールにとって、ラーナー次長という存在は憎悪そのもの。何度も、あんな男など死ねばいいと呪ったほどだ。けれども、いざ彼が死んでみれば……途端に頭が真っ白になった。涙が出るほどではないが、少なからず彼の死が悲しいと感じられたのだ。
「それじゃっ、ファイルは渡したから。……リッキーを、宜しく頼んだわよ」
 支局長はそう言うと、特命課のオフィスを立ち去る。
 かくして特命課は、久々に始動したのだった。
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