ディープ・スロート
//スローター

ep.04 - Artificial Intelligence: Debug

 キャンベラ市北警察署、駐車場。明かりが控えめすぎる電灯のせいで、薄暗闇が周囲を覆っている。そんな中、ニールとセディージョ支局長の二人は車内に居た。
 長いこと静寂を守り通していた二人だが、遂にセディージョ支局長が我慢の限界を迎える。手持ち無沙汰で退屈をしている彼女は、ウンザリとした声でこのように切り出した。「そろそろ三十分が経つわねー」
「そうですね。何をやっているんでしょうかねー、あの二人は」
 同じく退屈さに耐えかねていたニールも、そう応答する。するとセディージョ支局長は下らない冗談を発した。「……デートとか?」
「ドクターと、アレックスが、警察署で?」
「うん」
「もうちょっとマシなジョーク、他に無かったんですか」
「お酒で頭がガンガンに痛くてね。これが精いっぱい」
「……支局長、ハメ外しすぎです」
 そんな調子の二人は、警察署の中に入っていったカルロ・サントス医師とコールドウェルが戻ってくるのを駐車場で待ち続けていた。
「はぁ。私にこういう道化役って向いてないみたい。こういうのって、どっちかっていうとリッキーの担当だったから。けど、そのリッキーはもう居ない……」
 カルロ・サントス医師のもとに、市警察から連絡が来たのは一時間前のこと。内容は、記憶喪失らしき十歳前後の子供が保護されたというものだった。子供が本当に記憶を失っているのかどうかを診てほしい、ということらしい。それと、その子供が口にした唯一の人名が、カルロ・サントス医師だったのだという。
 コールドウェル、ないし彼女にメッセージを送ったという“ペルモンド・バルロッツィ”が市警からの連絡を予見していたことも気味が悪いが、その子供が何故カルロ・サントス医師の名前を口にしたのかにも謎が残るし、なにより不気味だ。それにカルロ・サントス医師は「自分が外来で診ている患者の誰かかもしれない」と憂いていたが、コールドウェルはそれを真っ向から否定していた。その可能性は絶対にない、と。
 コールドウェルは何を知っているからこそ、そうだと言い切れるのか。ニールにはその理由がまったく分からないが、なんだか良からぬことが起きそうな予感がする。その直感だけは、この状況において信じていいものだと思えた。
「……ドクターもアレックスも一体、何をしてんだか……」
 ニールがそんな独り言を零したとき。その直後、支局長がニールに話しかけてくる。支局長の声は、外の明かりのように薄暗い雰囲気を感じさせた。「ねぇ、アーチャー。ひとつ、訊ねてもいいかしら」
「はい。なんでしょう?」
「実は、コールドウェルから聞いたのよ。他のASI局員は他殺だと断言できるけれども、リッキーだけは他殺ではない可能性があるかもしれないって」
「リッキーというと、パトリック・ラーナー?」
「そう、彼よ。……バーニーは、なにか言ってた?」
 バーニーとは、バーンハード・ヴィンソンのこと。顔は無表情だが声色は表情豊かな、あの不思議な検視官の名前だ。そしてニールは思い出す。ああ、そんなことも検視官は言っていたな、と。
「そういえば、バーニーは最後の検死解剖の際にそんなことを言っていました。他殺とも自殺とも言い難いし、もしかすると犯人も想定していなかった事故の可能性もある……とか、なんとか」
「それって具体的に、どういうこと? 私はバーニーから報告書をまだ受け取っていないから、詳細が分からないのだけど……」
 説明しろ、ということなのだろう。しかしニールは検視官のその話を適当に聞き流していた。犯人特定に関わらない話であり、自分にとってはそこまで重要な話ではないと、そう思えたからだ、
 しかしニールは慌てて記憶を辿る。そうして彼は覚えていることを可能な限り説明しようと努力した。
「ラーナー次長の死因は、気管に血液が流れ込んだことによる窒息だということは支局長もご存知ですよね」
「ええ。外頸動脈にナイフを二回刺されたっていうことも知ってるわ。一度目が致命傷で、二度目は死後の飾り。つまり一度目のナイフに問題があるんでしょう?」
「そうらしいです。……たしか」
「けどリッキーは致命傷を負うその直前に、四肢を奪われている。壁に背中を預け、床に座り込んだ状態で、真正面から喉にナイフを突き刺されたのだろうって、ファイルにはあったし。そんな満身創痍な姿で犯人に抗えたとは思えない。そうなると自殺なんて、とてもじゃないけれど……」
「そこなんですよ、そこ」
「そこ?」
「被害者には、抵抗する術がなかった。壁にもたれた状態で床に座っていて、目の前にはナイフを持った犯人が居る。被害者は逃げることもできないし、殴りかかることも出来ない。だから被害者は、何もできない状態であったはずだ……――って、俺たちは思っていたわけです」
「……?」
「バーニーが言ってたんですよ。その先入観が物事を単純明快であるように見せていたけど、実際は複雑に入り組んでいて厄介で面倒な事件である可能性があるって」
「えっと。つまり、リッキーは犯人に何かをしたってこと?」
「いいえ。被害者は、犯人に危害を加えていないと思います。バーニーが言っていたのはその逆で、彼は自分から死を選んだのでは、と」
 あのとき検視官バーニーは、スクリーンに照射した3DCG映像を交えながら、ニールに被害者の死に関する仮説を説明していた。
 スクリーンには、対峙する人形を横の視点から見た映像が静止した状態で映っていた。ひとりは小柄の人形で、四肢がない。壁に背中を預け、床に座り込んでいる。そしてもうひとりは長身痩躯の人形で、壁に背中を預ける人形の真正面に立っていた。その手に刃渡り十五センチほどのナイフが握られていて、その切っ先は座り込む人形の首に向けられていた。
 検視官バーニーはコンピュータを操作しながら、ニールに言った。よく見ていてね、と。それから検視官バーニーが何かのキーを押し、映像が再生される。そしてあっという間に、ほぼ一瞬で映像は終わった。
「犯人は、座り込む被害者の前に立っていたんです。握っていたナイフの高さは、ちょうど被害者の首のあたりと同じだったんでしょう。そしてナイフの切っ先は、被害者のほうに向いていた。……だから被害者は犯人のほうに向かって、前のめりに倒れたんです。そうして首にナイフが突き刺さり、死んだ」
「じゃあ、彼は……」
「自ら死を選んだのかもしれません。あるいは、事故だったのかもしれない」
「……そんな……」
 検視官バーニーは映像を止めると、こう言った。傷の微妙な角度を説明できたのはこの方法だけだった、と。
 検視官バーニーは、犯人が被害者を刺すというシミュレーションを何度も試したそうだが、どれも遺体の傷とは程遠い結果になったらしい。そこで試みたのが、被害者のほうから倒れ込むというシミュレーション。倒れ込む角度や高さ、立ち位置などを調整してついに、実際の傷と符合する結果が得られたのだという。
「とはいえ、それは犯人を野放しにしておいていい理由にはなりません。ラーナー次長の死は事故かもしれませんが、彼が誘拐され、四肢を切断されたのは事実。……一刻も早くヤツを見つけ出して、刑務所に……」
 ニールはそう語るが、しかし支局長からの返事はない。後部座席に座る支局長は力なく項垂れている。支局長は何も言わず、ニールも言葉を途中で止めた。そして車内は再び静まり返った。
 他殺であるならば、怒りをぶつける先があったのだろう。犯人を責めて責めて責め立てれば、悲しみから目を背けることが少しは出来たのかもしれない。けれども自殺の可能性もあるという線が浮上すれば……どうしていいのか分からず、混乱してしまうのだろう。ショックだって計り知れない。
 親しい者が自ら死を選ぶ。そんな局面におかれたとき、動揺しないでいられる者など居ないのだろう。
「…………」
 静かな車内に、ニールも言葉を発することが億劫になる。黙りこくるニールは、コールドウェルとカルロ・サントス医師が戻ってくるのを待っていた。





 警察署内に通されたカルロ・サントス医師は、擦り切れた安物のソファーの上で眠る子供の顔を見るなり、呆然としていた。カルロ・サントス医師の横に立つコールドウェルも驚愕から立ち竦んでいる。彼女の口元には褪めた笑みが浮かんでいたが、緑色の三白眼には感情が灯っていなかった。そしてコールドウェルは力なく呟く。
「……まさか、ここまでソックリだとは。これはあまりにも酷い話だ。酷すぎる……」
 化粧も崩れ、疲れ切った顔をしている若い女性警官の膝に頭を乗せ、暖かそうなブランケットを肩に被って、ソファーの上で縮こまるようにその子は寝ていた。また、その子の膝は丸められている。これは不安や警戒心の表れだ。その子の寝顔は安らかなものに見えるが、しかし内面に抱えた恐怖は隠し通せるものではない。無防備な状態であれば、なおさらに。
「どうですかね、ドクター。この子に見覚えはありますか」
 カルロ・サントス医師とコールドウェルの二人をこの部屋に案内した中年の男性警官は、大あくびをしながらカルロ・サントス医師に尋ねる。真顔のカルロ・サントス医師は拳をきつく握りしめると、切り捨てるように言った。「いや、ないな。うちのクリニックの患者、ないしその関係者でないことは確かだ。このような子は見たことがない」
「そうですか。そりゃ、困ったなぁ……」
 男性警官はまた欠伸をしつつ、ぽりぽりと頭を掻く。白髪交じりの髪から、ふけのような白い粒が飛び出し、制服の肩に落ちる。その様子を見る若い女性警官は、寝不足から隈を作った目を「うわぁ……」と歪ませていた。
 そこでコールドウェルはさりげなく、男性警官に耳打ちをする。「……なぁ、巡査部長さんよ」
「どうかしましたか」
「アンタ、さては奥さんと別居しているね。子供にも、冷たい態度を取られてんじゃないのかい。今だって、そこのオチビちゃんの寝顔を見る目に切なさが溢れてて、情けないったらありゃしねぇよ。我が子を思い出して、悲しくなってんだろ」
「……?!」
「今は家を追い出されて、モーテル暮らし? または車か、それとも署で寝泊まりしてるのか……。そこいらの事情は知らんが、身なりは清潔にしといたほうがいいよ。シャワーは毎日ちゃんと浴びたほうが良い。汚いヤツは身内に嫌がられ、部下には慕われない。けど清潔であるっていうのは、それだけで印象がプラスになるのさ。この近所には入浴施設もあるし、仕事あがりに寄って行ったらどうだい」
「…………」
「中年になるとどうしても蔑ろにしがちだが、案外ね、大事なんだよ。身だしなみっていうのは。綺麗にして、汚らしい不精髭も剃って、酒もやめれば、奥さんも見直してくれるって。ほら、そこのドクター・サントスを見なよ。決してセクシーでも美形でも何でもない馬ヅラ親父だが、悪い印象は抱かないだろう? 医者は清潔さが第一だからさ、身なりには気を使うわけ。精神科医となりゃ特にね。見習ったほうがいいよ、アンタ」
「……ど、どうして、そんな助言を……」
「仕事柄ってやつだね。色んな人間を見るから」
「……そうか、そうだよな。君はドクターの助手、なんだろう? そりゃ、色んな人間を見るわけだ……」
 ははは……と気拙そうに笑う男性警官は最後にそう言うと、そそくさと立ち去る。仮初の笑顔を浮かべるコールドウェルは、哀愁が隠し切れていないその背を見送った。
 ――しかしコールドウェルは親切心からあのようなことを言ったわけではない。この場から彼を追い出したかったのだ。
「さてと。邪魔者は追っ払ったし。話を聞かせてくれないかね、お嬢さん」
 何故ならそこの女性警官が、彼が居るから言えないことがあるというような面構えをしていたからだ。
 女性警官は一度深呼吸をして息を整えると、膝の上に乗っている子供の頭をそっと撫でる。それから彼女は話を始めた。
「……この子、捨てられたみたいです。親か、施設か、そこは私には分かりませんけど、とにかく誰かから捨てられたみたいなんです」
 彼女の膝に頭を置いて寝ているその子供は、真っ直ぐで長い黒髪を持っていた。すべすべしたもち肌は青白くて、ゆで卵のように瑞々しい。眉毛は細く整えられているが、多分それは今だけ。きっと元は、それなりの太眉だろう。そして目鼻立ちは、どことなく北アフリカ系の民族を彷彿とさせた。混血児なのか、あるいは混血の者に似せて作られたのか……――。
 もし仮に、その子供が作り物なのだとしたら。これの製作者は詰めが甘い、とコールドウェルは顔を顰める。その子供の顔の骨格は北アフリカ系の男児だが、首から下の骨格はコーカサス系の女児であるからだ。
 この子供はどこかから誘拐され、何者かによって故意に顔を改造されたのか。または受けとったメッセージにあった通り、この子供はよくできた人工物、つまり人型のロボットであるのか……。そんなことを考えながらコールドウェルは、黙って眠る子供の人形を見つめていた。
 そして女性警官は眠る子供の頬に手を置くと、言葉を続ける。彼女はこう語った。
「自分は彼らにとって要らないものだった、だから棄てられたんだって。そう言いながらこの子、ずっと泣いてたんです。あと、黒い狼に『ここから出て行け』と追いやられたって、そんな妙なことも言っていました。それにうちの上司は、この子が自分の名前を言えなかったから記憶喪失だって決めつけたんですけど、私にはどうにもそうだとは思えなくて……」
「そう思う理由を、是非とも聞かせてくれ」
 女性警官の話に、カルロ・サントス医師が反応を示す。そのカルロ・サントス医師の顔は険しいものだった。そして女性警官は小声で話す。「この子、そもそも名前を貰っていないんじゃないかなって」
「名前を貰っていない……?」
「それにこの子は、まるで……自分のことを、誰かの所有物であるかのように話していたんです。この子は自分を、機械か何かとでも思ってるんじゃないのかなって。そんな風に感じられてしまって仕方無いんです」
「……そうか。ふむ……」
 カルロ・サントス医師は腕を組み、しばし黙りこくる。それから彼は無言でコールドウェルに視線を送ってきた。
 君は何を知っているんだ。コールドウェルを見るその目は、無言の圧でそう問いかけてくる。コールドウェルはそれに対し、目を逸らしてみせた。彼女も、そこまで深く事情を知っているわけではなかったからだ。
 しかしカルロ・サントス医師は、コールドウェルの反応からひとつの解釈を編み出したらしい。カルロ・サントス医師はその後、閉ざしていた唇を少しだけ開ける。それから彼は女性警官の前に跪くと、眠る子供の額を撫でた。そして彼は子供の背中に左腕を、膝の裏のあたりに右腕を回すと、子供をそっと抱きあげた。
 すると寝ぼけ眼からハッと覚醒した女性警官は、カルロ・サントス医師に制止を求める。「ドクター、それはちょっと駄目ですって!」
「若い君よりかは、私の方がこのテの子供の扱いには慣れている。安心したまえ。それに君は疲れているんだろう? 休んだ方がいい」
「そうじゃなくてですね、ドクター。あなたに引き渡すとしても、踏むべき手順や手続きってものが……」
「君が何かを言われるようなことがあれば、私を悪者にしてくれて構わないよ。だから、この子を預からせてくれ」
「ですから、ドクター!」
「外の駐車場で、連邦捜査局のシドニー支局長ノエミ・セディージョを待たせてるんだ。悪いが、行かせてもらうよ」
「え?」
「連邦捜査局の」
「……連邦捜査局?」
「シドニー支局長」
「……あっ……」
「ノエミ・セディージョを、待たせている。あれの気は長くない。怒らせたくないんだよ。それは君たち市警察も、同じだろう?」
「……ど、どうぞ、行って下さい……」
 市警が頼りにしている精神科医の口から突然飛び出た、まさかの大物の名前。経験の浅い若手の警官は戦慄し、恐れをなして固まった。そうして見事にカルロ・サントス医師は、思い通りにことを進めた。
 子供を両腕で抱きかかえたカルロ・サントス医師は、何食わぬ顔で部屋を出る。長い脚から繰り出される大きな歩幅で署の廊下をすたすたと歩いていく彼の背を、コールドウェルは小走りで追う。コールドウェルは、ピンヒールの靴をコツコツと鳴らしながらケタケタと笑いつつ、こう言った。
「ドクター。アンタ、やっぱりただの精神科医じゃないね! 脅しとは、意外とやるじゃないか。今の手口は少しだけだが、悪辣で有名なバルロッツィ高位技師官僚に似ていたよ」
「私は、君よりもずっと多くの修羅場を潜って来ているんだ。これぐらい、どうってことない。……それもこれも、パトリック・ラーナーのせいだがな」
「ハッ! ラーナー次長か。アタシもあの人のお陰で修羅場慣れさせてもらったよ」
「それでだ、アレクサンダーくん。まさかこの子について、いつまでも黙っている気じゃあないだろうね」
 前を歩くカルロ・サントス医師が少しだけ後ろを向き、コールドウェルを睨んできた。それに対してコールドウェルはただ苦笑うのみ。
 すると痺れを切らしたカルロ・サントス医師は、遂に直接的な言葉を発する。
「どうしてこの子は、パトリックと瓜二つの顔をしているんだ? 是非とも君に、その理由を説明していただきたいのだが」
「ドクター。その話は、落ち着いた場所に着いてからでも構わないか?」





「知っていることを教えろ、って言われてもだ。アタシとて知りたいぐらいなんだ。聞かれたって困る。あのお人形さんについて、アタシも何も知らないんだから」
 朝方に限りなく近い時間帯に、やっと辿り着いたカルロ・サントス医師の自宅。そこに集っていた四人は、縦に長い長方形のテーブルを取り囲むように座っていた。
 右側にはニールとコールドウェル、左側にはカルロ・サントス医師とノエミ・セディージョ支局長が並んでいる。その中で最も機嫌が悪そうな顔をしていたニールは、ついに我慢の限界を超え、歯切れの悪いコールドウェルの胸倉を掴み上げた。
「いい加減にしろよ、アレックス! お前は、いつも、いつもそうだ! 肝心なことをはぐらかし、嘘を吐き、いつも何も言わない。そうして全てが明るみになるのは、最悪の結末を迎えたときだ!」
「おいおいおい。落ち着けって、ニール。この問題において一番の部外者であるアンタが、なにもそこまで感情的になる必要はないだろうに……」
 珍しく荒れるニールに、コールドウェルはあくまでも冷静に対応する。鼻息を荒くするニールをコールドウェルがどーどーと宥めていると、支局長からの援護も飛んできた。
「アーチャー、落ち着いて。コールドウェルの言う通り、あなたはこの問題において部外者よ。そしてあなたには運転手という大事な役目がある。だからそこのソファーで横になって。寝なさい」
 支局長からの指示に、口を噤んだニールは黙って従う。彼はコールドウェルの胸倉を掴んでいた手を離すと、椅子から立ち上がった。そしてニールは支局長が指し示したソファーの上に腰を下ろし、そしてソファーの上で仰向けになる。彼は右の前腕で両目を覆い隠し、それから目を閉じた。
 けれどもニールの意識はハッキリとしたままで、一向に眠りという闇に落ちていく気配はない。張り詰めた精神は休まることを忘れているようで、目を閉じて視界が暗くなった今、余計に頭が冴えわたり始めていた。視覚が閉ざされた分、聴覚が普段以上に活動を活発化させていたのだ。
 誰かが座っている椅子の脚が、がたがたと小刻みに揺れる音。苛立ちを募らせたように机を手指の爪の先で、不規則なリズムで叩く音。カルロ・サントス医師の溜息。誰かの真似をしているかのように、道化を演じるコールドウェルが語る本題とは何ら関係のない瑣末な長話。静かな怒りに満ちた支局長の舌打ち。朝方という時間帯で外が静かであるから……というのもあるが、部屋の中で発生するあらゆる音がニールにはよく聞こえていた。
 だからこそ彼はイライラして、ムカムカして仕方がないのだ。こんなとんでもない状況下において、いつまでも大事な情報を出し渋っているコールドウェルのその態度に。
「私とカールは、この目で見たのよ。とても死んでいるようには見えなくて、薄気味悪かったリッキーの遺体が棺に納められて、墓地に埋められた瞬間を。あの子供がリッキーじゃないってことは分かっているの。だから、あの子がどういう存在なのかを教えて。それにさっき、あなたはあの子のことを“お人形さん”と言っていたけれど、それはどういう意味なの?」
 コールドウェルの態度に苛ついているのは、ニールだけではない。支局長も、カルロ・サントス医師もだ。そうして遂に始まったのは、痺れを切らした支局長による激しい追及。
 数十人もの犯罪者たちをノイローゼにまで追い込み、洗いざらい全ての情報を吐かせたと言われている支局長の猛攻の先が今、コールドウェルに向けられていた。
「エージェント・コールドウェル。答えなさい」
「言葉の綾だよ。お人形さん、ってのは」
 コールドウェルは余裕そうに少し笑いを混ぜながら、皮肉を言うように喋っている。だがその声の裏側には、焦りのようなものが見え隠れしていた。
 コールドウェルも察しているのだろう。セディージョ支局長という人物を相手に、自分のような経験の浅い人間が弁で勝てるわけがないことを。それに支局長の横には、プロファイラーとしても活躍しているカルロ・サントス医師が居る。
 手練れの二人を前に、勝算は限りなくゼロに近い。コールドウェルが、彼女の持ち得る情報すべてを白状することになるのも時間の問題だった。
 そして支局長の攻撃は続き、コールドウェルの濁すような回答も続く。
「人形って、いくつも種類がある。それはあなたも知っているわよね、コールドウェル」
「ああな。可愛らしいものもあれば、そうでないものもいて、中にはキモ可愛いなんていうジャンルも――」
「中に綿や木くずが詰まっただけの人形もあれば、綿の中に簡素な基盤が入っていて、あらかじめ録音された音声を再生したり、てくてくと歩いたりする人形もある。中には、より高性能なものもあったりする。人工知能を搭載していて、自立稼働する人形もあるわ。……オートマタっていうのも、人形という枠組みに入るわよね?」
「へぇ、オートマタとは。また古典的なものを持ち出して来ましたね、支局長」
「となるとヒューマノイドも、広義の人形でしょう?」
「さあ、どうなんでしょう。アタシゃその道の専門家じゃないんで」
「エージェント・コールドウェル」
「なんでしょうか、支局長」
「あなたは既に、私との勝負において負けを認めている。ここは全てを言ってしまったほうが、潔いってものなんじゃないのかしら」
「勝負って、何を言っているんだか……」
「噂で聞いたことがあるのよ。特務機関WACEは、人間と見間違うほど精巧に作られたヒューマノイドを保有しているって。そのヒューマノイドには高性能な人工知能が搭載されていて、常に最善の選択肢を導き出す、と。そして搭載されている人工知能は、この国に設置された監視カメラの全てに対して、アクセス権を持っているそうじゃない。……ブラックハット、ともいうけど」
「…………」
「そしてその人工知能は、人間のような感情を持つとも聞いたことがある。二十二世紀に最高点に達し、以降その危険性から全世界で禁止され、封印された禁忌の技術が使われている、って。そういうものを作れそうな人物って、私には一人しか思いつかないのよ。例えば、十数年ものあいだ失踪中で、足跡が全く辿れない軍事防衛部門の高位技師官僚、ペルモンド・バルロッツィとか。そういえばあなた、彼からメッセージを受け取ったって言ってたわよね。それになんて書いてあったのかしら?」
「…………」
「まあ、高位技師官僚のことはいいわ。それよりも、あの子についてだけど。――情緒豊かであり、完璧な頭脳を持つ人工知能を搭載した、至上のヒューマノイド。まさかーとは思うけど。あの子のことなの?」
 腕の下で隠れている目を、ニールはカッと見開く。彼は支局長の突拍子もない話に驚いたからだ。
 なんだ、その話は。そう呟くカルロ・サントス医師のくぐもった低い声が聞こえてくる。それに続いてコールドウェルは、皮肉を吐き捨てるようにこう言った。
「その仮説はあながち外れじゃないけど、ちと違うね」
 その瞬間ニールはゾッとし、凍りついていた。コールドウェルが、支局長のぶっ飛んだ仮説の大筋を肯定してみせたからだ。そしてコールドウェルは言う。
「特務機関WACEが、そういった機械を保有しているってのは事実だ。本物の人間であるかのように振舞ってみせるヒューマノイド、そういうものは実在する。そいつのことをアタシ含め隊員たちは、レイと呼んでいる。性格も可愛らしくてね。とても機械だとは思えないほど、よく出来た子なのさ」
「それで、リッキーに似たあの子は?」
 支局長のその問いに、コールドウェルは言葉を詰まらせる。何から話せばいいのか、と彼女は唸っていた。
 エージェント、コールドウェル。緊張感が滲み出ている声で、支局長はコールドウェルの名を再び呼ぶ。するとコールドウェルは渋々、警察署から連れ帰ってきた人形について話しだした。
「実を言うと。本当にアタシも、詳しいことは知らないんだ。レイの姉妹機らしい……っていう情報しか、アタシのもとには届いていない。まあ、仮にレイの姉妹機なのだとしたら、製作者はレイと同じ人物だろう。つまり、まあ……」
「つまり、高位技師官僚?」
 支局長はコールドウェルにそう訊くも、彼女から得られた返答は芳しいものではなかった。「あくまでアタシの推測だ。確定の情報じゃないよ」
「なら質問を変える。姉妹機、それはつまりどういう存在なの?」
「さあね、アタシにそれを訊かれても困る。……ただ、元老院と呼ばれている連中がラーナー次長の代替品を求めていたらしいって、高位技師官僚から送られてきたメッセージの中にはあったよ」
「…………」
「ラーナー次長の顔の広さは、あんた方が一番よく理解していると思う。次長が持っていた人脈の利用価値は、誰にとっても十分にある。それに誰もが警戒心を解かざるをえないあの見た目と、顔からは想像もつかないえげつない才能を、欲しいと思う人間は大勢居たはずだ。けど、次長は自由意思を持つ人間。それにあの性格からして、他者にコントロールされることを嫌う人物だ。……だから管理者の命令に必ず従う機械でそのコピーを作った、ってことなんじゃあないのかい。元老院は、あわよくば次長が築いた今までの全てを乗っ取るつもりでいたんだろう。だが高位技師官僚が多分、それを妨害したんだ」
「無茶苦茶な話ね……。だとしたら、あの機械のためにリッキーは殺されたっていうの?」
「今のは、あくまでアタシの仮説。まだ何も分かっちゃいない。アタシにあのメッセージを一方的に送りつけてきた張本人が出てきてくれたら話は別だが、しかし連絡が付かなくてな。となりゃ……あのお人形さんが起きてくれない限り、この話も進まない」
 コールドウェルと支局長の二人の間だけで、話がどんどん進んでいく。男二人は話について行けず、置いてけぼりを食らっていた。
 ソファーの上で横になっているニールは、ただ固まっていた。動きも、そして頭も。ニールからしてみれば、女性二人の会話は理解に苦しむものだったからだ。
 感情を持つ人工知能? それって人間のクローンと同じ、この世には存在してはいけない物なんだろう? それに限りなく人間に近いヒューマノイドって……――どうなんだ? それは存在しても問題の無い代物なのか?
 なんてバカげた話なんだ。ニールはそう笑い飛ばしたかった。けれども、それが出来ない。突飛な物語に心は拒否反応を起こしているが、頭の中では分かっていたからだ。これが、今の世界である。今、自分が生きている現実世界の姿なのだ、と。
 だって、彼はこの目で見たのだ。死後どれだけの時間が経過しようと、一向に腐敗が進まないどころか、発見現場でウジ虫のひとつも湧いていなかった不気味な死体。それから、その死体によく似た姿をした機械人形の姿を。どちらも気味が悪くて、非現実的だった。だがそれが現実で起こっている。
 それに……――もっと不気味なものをニールはティーンエイジャーの時に見ていた。
「……そうね。たしかに、あの子が起きてくれないと何も進まない。これ以上、あなたを問い詰めても無駄そうだし」
「けど肝心のおチビちゃんは、ゲストルームのベッドで熟睡中。子供は一度寝たら中々起きない。気長に待つしかないよ」
「ところで、コールドウェル。あの機械の中身というか……自我はどれくらいの年齢になるの? 子供? それともリッキーそっくり?」
「さぁね、分からん。起動直後の人工知能は五歳児レベルだと、レイは言っていたが……――あの子が起きてみないことには、ねぇ。それこそアタシに訊かれても困るってもんさ」
 あるときニールの前に、枯草色の髪の男が現れた。その男は、同じくその場に居たパトリック・ラーナーからこのように呼ばれていた。上官(サー)、と。
 その男は、とっくの昔に死んだはずの大罪人にそっくりの顔をしていた。そして男の目は、異質だった。どういうわけか虹彩は、蒼白く光り輝いていた。それでいて、人の目ならばあるはずの黒い穴が、瞳孔が、なかったのだ。
 その男は、何もかも知っているような口ぶりで話していた。それから男は異質な目でニールを見下ろしながら、こうも言った。
『……これ以上は浴びたくないだろう? なら、今すぐ下がりなさい』
 ニールはあの日の出来事を、あの男の存在を、何度も否定しようとした。何度も否定しようとして、何度も同じ答えにぶつかった。あの男は存在する。化け物はこの世に実在するんだ、と。
 特務機関WACEの長、上官(サー)アーサー。連邦捜査局に入局してから、幾度その名を聞いたことか。コールドウェルから聞いた。支局長からも聞いた。他の捜査官たちがその名を噂をしているのも聞いた。
 特務機関WACEのボス。瞳孔の無い瞳。瞬間移動の能力を持っていて、どこにでも現れる。首相も大統領も恐れをなす、神出鬼没のサー・アーサー。
 単なる噂だと笑う人間も居た。彼の存在を信じている者も居た。居るわけがないだろうと真っ向から否定する人間も居た。何でもないことのように、あっけらかんと存在を認める者も居た。多種多様な人間が居て、様々な解釈が世間には広まっている。けれどもニールはたった一つの事実を知っていた。サー・アーサーは間違いなく存在する。そしてサー・アーサーは本物の化け物だった。
 サー・アーサーのような化け物が存在するなら、人間にどこまでもそっくりな機械も居るのだろう。人間を遥かに超えた能力を持つ人工知能だって、あるのだろう。頭では、分かっている。だが心の理解が追いついていないのだ。
 そんなニールと同じような状態に、カルロ・サントス医師も置かれていた。
 彼もいくつか不可解な事件に関わったことがあった。アバロセレンがらみの犯罪は常に予測不能で、何が起こるか、何が起こされたのかなんてことは、従来の常識では計ることすらできなかった。それにモンスターも同然の犯人と対決し、無残にも敗れ去って、未解決のまま葬り去られた事件もあった。かつてのASI長官が暗殺された事件も、それに付随してとある局員が右腕を奪われ、挙句に精神崩壊に追い込まれた事件も。犯人は分かっていたにも関わらず、逮捕にまで至らなかった。
 何故なら、犯人が化け物だったから。殺しても死なないモンスターだったから。それでいて人間の世界において強大な権力を持つ者だったからだ。
 世の中には、人知を超えたものが存在していて、それらは人の世に少なからず影響を及ぼしている。もしくは“彼ら”のような上位存在によって下等な人類は支配されている。そのような世界の構図を、カルロ・サントス医師は垣間見てきた。だが彼もニールと同じで、それを認められなかった。いや、認めたくなかったのだろう。人間がどう足掻いても決して勝つことが出来ない敵がいるという事実を。
 その“敵”が新たに人間をからかう道具として送り込んできたのが、あの子供。奇しくもよく知る人物に似た姿をした、あの子供なのだ。
「ところで、アレクサンダーくん。君はあの子の……――いや、あの機械の名前を、知っているのか?」
 青褪めた顔のカルロ・サントス医師が、やっとの思いで絞り出した言葉が、それだった。そしてコールドウェルは頷く。それから彼女はこのように答えた。
「アーティフィシャル インテリジェンス、デバッグ。頭文字をとって、AI:D(エイド)と呼ばれているらしい。エイドは見た目こそ次長にそっくりだが、レイのシステムをベースにしている関係で、性自認は女性だそうだ。ボディもそうなっている……らしい。高位技師官僚から送りつけられてきた長文メッセージには、そう書いてあったよ」
「なるほど。パトリック・ラーナーではなく、パトリシア・ヴェラスケスというわけか。皮肉な話だな……」
 呆然とした顔でカルロ・サントス医師はそんなことを言う。その横で支局長は、ブッと噴き出していた。
「それって、リッキーが女装で潜入したときの名前じゃない! アハハッ、懐かしー! すっかり忘れてたわ」
 大口を開けて笑い転げながら、目からうっかり零れた涙を支局長は指で拭う。支局長の明るい笑い声を聞いたニールの緊張がほんの一瞬だけ緩んだ。
 その瞬間、綻びから強烈な睡魔がニールに襲いかかる。腕の下に隠れていた目が閉じ、ころっと浅い眠りに落ちていく。
 間隔が広くなり、浅くなった寝息。それを横目で確認したコールドウェルはニヤリと笑う。そのコールドウェルの様子に支局長は首を傾げさせた。その一方、カルロ・サントス医師は無言で立ち上がると、寝室に向かっていく。
 すると支局長はコールドウェルに言った。「どうしたのよ、エージェント・コールドウェル。なんでニヤついているの?」
「ニールの野郎が、ようやっと寝たみたいで。まさか支局長の笑い声を聞いた瞬間、ことんと眠っちまうとは思わなくてさ」
「えっ、私の笑い声で寝た? ……というか彼、まだ起きてたの?」
「そうですよ。ずっと盗み聞きでもしてたんでしょうねぇ」
 なんか、失礼って感じだわー。支局長は眠るニールを細めた目で見ながら、そう言う。するとそこに、毛布を持ってきたカルロ・サントス医師が戻ってきた。
「カール。もしかしてあなたも、アーチャーが……」
「ずっと盗み聞きをしていたそこの彼は、ようやく寝たみたいだな。ノエミの笑い声を聞いた途端に眠りに落ちるとは、面白い子じゃないか」
 やつれきった顔に疲れ切った笑みを浮かべるカルロ・サントス医師を、支局長は凝視する。それから支局長はまたコールドウェルを見ると、またカルロ・サントス医師を見る。そして支局長は言った。「あなたたち二人して、超能力者か何かなの?」
「いや、見てれば分かることじゃないですか」
 コールドウェルはそう答える。続けて、カルロ・サントス医師もこう言った。
「アレクサンダーくんの言う通りだ。観察していれば簡単に分かることだよ」
「えっ。えー……?」


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