ディープ・スロート
//スローター

ep.06 - Muddy springs will have muddy streams.

 早朝のバーソロミュー記念霊園。そこには大勢のパトカーと、今にも死んでしまいそうなほどに眠い顔をした警官たちが来ていた。
「ひとつの死体が持ち去られて、新たにひとつの死体が増えて……。プラマイゼロ、って感じだな」
 ふぁ~、と欠伸まじりに笑えないジョークを飛ばすのは、いつでもどこでもマイペースなアレクサンドラ・コールドウェル。そんなコールドウェルの乱れた金髪頭を、カルロ・サントス医師は後ろから平手でペチンと叩く。それからカルロ・サントス医師は、うとうとと船を漕ぐ少年の頬をむにっと抓った。それからカルロ・サントス医師は少年に言う。「話は終わってないぞ、レオ。まだ寝るんじゃない」
「そんなぁー。拷問じゃんか……」
「元はといえば、お前が真夜中に施設を抜け出したことが」
「分かってるよ、おっさん。ごめんなさい」
「もうすぐこちらに着くと、ジェームズくんから連絡があったから。……児童養護施設の方々に、ちゃんと謝るんだぞ」
「……うん」
 コールドウェルが信号無視でカッ飛ばしてきた、カルロ・サントス医師の車。その車内。後部座席に並んで座る少年と精神科医の様子を横目で見ながら、運転席で休憩中のコールドウェルはまた欠伸をした。
 そんなこんなで暇を持て余したコールドウェルは、ジャケットの裏地に縫い付けられたポケットから、先日セディージョ支局長から「いらないから、あげる」と貰ったガムを取り出す。ペパーミント風味と、真黒な紙の包装には白字で書かれていた。そして稲妻を思わせるロゴで描かれた商品名はVicious(強烈な) Punch(一撃)」。……陳腐なネーミングセンスである。
「……ふーん。ヴィシャス・パンチ、ねぇ。ヘヴィメタバンドでありそうな名前のガムだこと……」
 そんなこんな、コールドウェルは何も考えずに包みを開けた。紙の中から出てきたのは、ウコンジュースを連想させる真っ黄色のガムが一粒。それからコールドウェルは何も考えずにガムを口の中に放り込んで、やや硬い粒をガリッと噛んだ。
 すると、瞬時に眠気が吹き飛ぶ。と同時に舌と喉に強烈な刺激の攻撃を受け、コールドウェルは咳き込まざるを得なかった。
「大丈夫かね、コールドウェルくん」
 咳き込むコールドウェルに声を掛けてきたカルロ・サントス医師だったが、そう言った彼の顔はどことなくニヤついている。コールドウェルは目にほんの少しの涙を滲ませつつ、堪らずガムを包装紙に吐きだした。それからコールドウェルは顔をむっとさせ、カルロ・サントス医師を睨む。依然ニヤついたままのカルロ・サントス医師は、どうやらこのガムの強烈さを知っているようだった。
 あのノエミ・セディージョから物を素直に受け取るなんて。君にもまだ可愛らしいところが残っているようじゃないか。……カルロ・サントス医師の目は、そんなことを言っているようだ。
 コールドウェルは、カルロ・サントス医師から目を逸らす。それと同時にコールドウェルが持ち歩いていたタブレット端末に、ニールから画像付きのメッセージが送られてきた。
 ニールから送られてきたメッセージ、その本文はとても短い。頼まれてたやつ。書かれていた文章はそれだけだ。添付画像も一枚だけ。けれども今この状況において、一枚の画像はとても重要な意味を持っていた。
「……んで、ガキんちょ。墓荒らしの女は、コイツで間違いないんだな?」
 コールドウェルは、ニールから送られてきた画像をカルロ・サントス医師の横に座る少年に見せる。画像は、シドニー市警から引き継いだ監視カメラ映像のスクリーンショット。ラーナー次長の死体遺棄現場を撮影していた監視カメラに映っていた、犯人らしき女の後ろ姿だ。
 少年は端末に映し出された画像を凝視し、頷く。この女だったと少年は言った。「そう、こいつ! 帽子も服装も同じだった」
「へぇ。てこたぁ、次長を殺した犯人が、次長の遺体を掘り出しに来たってわけか。凄まじい執着心だこと……」
「あと腕のタトゥーも、夜に見たのと同じ。この女で間違いないと思う」
「腕のタトゥー?」
 少年の口から飛び出た言葉に、コールドウェルは首を傾げる。すると、異常犯罪の専門家でもあるカルロ・サントス医師が喰いつく。老眼鏡をどこかからサッと取り出した彼は、それを着用すると、食い入るように画像を見つめた。それからカルロ・サントス医師は、重苦しい溜息を吐く。
「右上肢のタトゥー。画像の解像度が低く、鮮明でないことから正確なことは言えないが、これはカバラの『セフィロトの樹』だろう。ネツァクを示すリングだけが大きく描かれ、ピンク色で塗り潰されているようだ。右手の甲にも、ネツァクの象徴である翼の生えた剣のシンボルが彫られているな。そしてケテルを示すリングには、上から赤いバツ印が書き足されている。……これは、もしや」
 カルロ・サントス医師は続きを言わず、黙ってコールドウェルの目を見る。対するコールドウェルは何も言わず、その顔は青ざめていくばかり。その横で少年は何かを思い出したのか、あっ!と声を上げた。
「ケテル! あの女、ケテルがどうたらこうたらって言ってた。ケテルとかいうやつが最近、司法省を根城にしてるとか、なんとか。あと、名前をマイケル・バートンって偽ってるとも。あと、それと、エズラ・ホフマンとかいう名前も言ってたような気が……」
「マイケル・バートンは、現職の司法省副長官。そしてエズラ・ホフマンはかつてのASI副長官。当時のASI長官、バーソロミュー・ブラッドフォードを暗殺した真犯人で、現在も逃亡中。……つまり因縁のモンスターが舞い戻ってきていたというわけか。それでこの画像の女は、モンスターが放った刺客か? だとすれば、次の被害者は……」
 カルロ・サントス医師はそう言いながら、頭を抱える。顔をむっとさせたコールドウェルは、端末を自分の鞄にしまった。コールドウェルは腕を組むと、はっきりとしない声で呟くように言う。
「……いや。アタシは、この女に殺される人間はこれ以上出ないと見立てているよ。きっとこの女の目的はラーナー次長で、それ以外の人間に興味はないはず。少なくとも、の女の目的は果たされたはずだ。次の獲物を見つけない限りは、当面は大人しくしているだろう。ただ」
「エズラ・ホフマンは別だ。あのモンスターが、一番の懸念事項だろう」
「そう、そこが問題なんだ。奴が一体、何を企んでいるのか……。こりゃ一度、アタシの上官に確認しといたほうが良さそうだね。連中の動向を掴まない限りは、何も……――?」
 コールドウェルは口を噤み、それ以上のことを言うことは避けた。……が、代わりに彼女はカルロ・サントス医師を見やる。
 エズラ・ホフマン、マイケル・バートン、モンスター。そういった言葉を当たり前のように発した精神科医。それが彼女には信じられなかったのだ。これは特務機関WACEぐらいしか把握していない情報ではなかったのか、と。
「……」
 そうしてコールドウェルが黙ったのと同時に、ひとりの刑事が止まっている車に近付いてきた。刑事はフロントガラスを指でコンコンッと叩くと、後部座席に座るカルロ・サントス医師に視線を送る。どうやら刑事は少年の事情聴取を求めているようだ。
 カルロ・サントス医師は少年に確認する。きちんと答えられそうか、と。少年は無言でこくりと頷いたが、その少年にコールドウェルが制止を求めた。
「おい、ガキ。警察には女のことを何も話さなくていい。墓守をやってたお役人さんの死体を見つけただけだと言うんだ。分かったかい」
 少年は困ったような表情を浮かべ、コールドウェルを見てから、カルロ・サントス医師に意見を求めるような視線を送る。カルロ・サントス医師は何かを言おうとしたが、彼が何か言葉を発するその前に、コールドウェルがまた喋り出した。
「アタシの予想が正しければ、すぐにサー・アーサーが事件の揉み消しに動く。これ以上の被害を食い止めるためにも、そうすることが最善だからだ。そして上からの圧力がかかれば、市警は捜査を打ち切らざるを得なくなるだろう。だから証言するだけ無駄だ。この事件は解決しないんだからな。それに、ガキ。アンタがあの女を見たという事実が広まっちまえば、あの女はアンタを殺しにくるよ。相手はどこに目があり、耳があるのかが分からないうえに、情けなどもっていない奴らだ。無事に生きていたいなら黙っているに越したことはない」
「待ってよ。そんなの、無責任だろ。それにサー・アーサーって誰のこと?」
 少年はコールドウェルに反論するが、コールドウェルのほうは一歩も引く様子を見せない。少年を見るコールドウェルの目は、まるで獲物を狙う雌ライオンのよう。そこでカルロ・サントス医師は、少年に言った。
「……ここは彼女に従ったほうがいい」
 少年は物言いたげな顔をしたが、最後には黙ることを約束した。カルロ・サントス医師は車の外で待っている刑事に合図を送り、後部座席のドアを開ける。それから少年とカルロ・サントス医師は刑事に誘導され、任意の聴取に応じた。
 ひとり車内に取り残されたコールドウェルは、ふたりが遠くに行ったことを確認すると、普段使いの携帯電話とは別個に持ち歩いていた、使い捨てのプリペイド携帯を手に取る。彼女はプリペイド携帯から、別のプリペイド携帯に電話を掛けた。
「ああ、どうも。アタシですよ、サー・アーサー。ちょっと確認したいんですが、ケテルってのはエズラで間違いないんですか。……ええ、はい。あと、ネツァクってのは……――はい、了解です。それじゃ、アタシはASIのほうに足を運んでみようと思います。……エイド? エイドは、アイリーンに任せましたよ。子守りって仕事はアタシよりも、彼女のほうが適任だと思いましてね。では、また。シドニー市警に宜しく頼みます」
 短い通話を終え、コールドウェルはプリペイド携帯の電源を落とす。それからポリ袋の中にプリペイド携帯を入れると、それを床に落とし、穿いていた靴の底で思い切り踏み潰して壊した。壊れたプリペイド携帯入りのポリ袋を、コールドウェルは拾い上げる。コールドウェルはそっと、ポリ袋を鞄に入れた。
「……さてと。どっか遠くの、ゴミ箱を探さねぇとなぁ……」





 ニールはコールドウェルに頼まれた画像を送った。しかしコールドウェルからの返信は何もない。感謝の言葉の一つも、返ってこない。しかしメッセージには、開封済みと書かれている。
コールドウェルは、メッセージを見ているはずなのだ。なのに、返信も何もないのか?!
うんざりとした顔のニールは、そっと携帯電話をポケットにしまう。そんな彼が足を運んでいたのはシドニー市警の鑑識課だった。
「イライアス・イーモン・ハウエルズ主任は、いらっしゃいますか?」
「ああ。それなら、私のことですが」
「あなたでしたか! 連邦捜査局シドニー支局のニール・アーチャーです。一週間ほど前にASI局員が殺害された事件の管轄を本部から移されたんですが。まあ、本部の連中が資料を出し渋っていまして。それで、少しでも情報を頂ければと……」
 気拙そうな笑みを浮かべて、ひたすら平身低頭して……。なんて身勝手なことを言っているんだ、というのはニール自身もよく分かっていた。だがドン詰まりの現状を打破するには、こうするほかに無かったのだ。
 連邦捜査局が所轄の刑事たちにどれほど嫌われているのか。ニールはその点をよく理解しているつもりでいた。
 だって、連邦捜査局は所轄から偉そうな顔で大きな事件――国家の安全に関わるものなど――を取りあげるが、しかし解決はしないからだ。その多くは闇に葬られ、無かったことにされる。大きなものが裏で動いた、という噂だけを残して。
 そんな“無能”の連邦捜査局が所轄の鑑識に助けを求めに来ただって? 格好の笑い物にされるのがオチだ。それでも、そうだとしても、つまらないプライドなど捨て去らなければいけない時が……――
「アーチャーさん、でしたか。場所を移しましょう。そこで少し、お話を。アーサー氏から詳細は伺っておりますので。お気になさらず」
 渋い顔をされると思いきや、予想外にも好感触から始まった。そこでホッと安堵しかけたニールだが、しかし鑑識課主任が発した人名が気になった。
「アーサー氏、ですか?」
 嫌な予感がする。そう感じたニールは、恐る恐る確認をする。すると、悪いことにニールが予想した通りの人名が飛び出てきた。
「……特務機関WACEのお方である、アーサー氏ですが」





 ニールが通されたのは、市警鑑識課主任イライアス・イーモン・ハウエルズのオフィスだった。
 出されたブラックコーヒーを、苦笑いを顔に浮かべて受け取りつつ、ニールはイライアス・イーモン・ハウエルズという人物の顔をじっと見る。
 年齢は、もうすぐ六〇を迎えるといったところなのだろう。色が抜けきった白髪頭に、ふっくらとした体格と人のよさそうな顔、それと小さなレンズの丸眼鏡が印象に残る人物だった。
 イライアス・イーモン・ハウエルズは、ニールに資料が綴じられたバインダー五つを差し出す。するとイライアス・イーモン・ハウエルズが話を始めた。
「犯人の足跡を追い、犯行現場が判明しましてね。レッドラムの被害者は、全員同じ場所で殺害されていることが分かりました。ポート・ジャクソン、旧シドニー港近辺にある製紙工場跡ですね。ですが場所が分かったところで、捜査から外された我々は立ち入ることができませんから。捜査はあなたがた連邦捜査局にお任せ致します」
「…………」
「それと四〇年ほど前にキャンベラのほうで、とある事件が起きていましてね。犯人の女は射殺されているんですが、その女というのがコイツ。デボラ・ルルーシュという輩でして……」
 イライアス・イーモン・ハウエルズは、バインダーのひとつ――オレンジ色のカバーがなされた、年季の入った古いもの――を手に取ると、その中に挟まれていた女の写真を見せる。その女の顔に、どこか見覚えのある気がニールにはした。するとイライアス・イーモン・ハウエルズが言う。「死体遺棄現場に映っていた女と、四〇年前に、連邦捜査局の特別捜査官により射殺された女。同一人物のようにそっくりだと思いませんか?」
「あっ、たしかに。そっくりですね、この二人。しかし……射殺?」
「四〇年前の事件の記録は、どういうわけか閲覧制限が掛けられていて詳細は分からないのですが……――この二人の女の共通項は、パトリック・ラーナーという人物であると見て間違いないようです」
 ここ最近いやというほど聞かされている名前に、やっぱりかとニールは顔を顰める。
 イライアス・イーモン・ハウエルズは話を続けた。
「他の被害者には、四肢切断のほかに拷問を受けたと思われる痕跡や抵抗した際に出来たであろう傷が多数見受けられました。しかし、パトリック・ラーナー氏には」
「拷問のような痕は見られなかったんですよね」
「ええ。ですが他の被害者は酷いものですよ。人によっては四肢を切断される前に、手足の爪を全て剥がれていたり、指を関節ごとに一つ一つ切り落とされていたり……。古典的で、悪質性の高い拷問の手口ですね。犯罪組織のやり方とは微妙に異なっていることから察するに、犯人は個人で動いているのでしょう。誰かの命令を受けて動いているというより、個人的な目的を果たすためだけに動いているようにも思えますね……」
 イライアス・イーモン・ハウエルズの言葉に、ニールは目を丸くさせた。拷問の話など国家保安部から引き継いだ資料には一言も記載されていなかったからだ。
 キャンベラ本部局の国家保安部は、一体何をしていたんだ。それに俺たち連邦捜査局は、何を見ていたんだ……。込み上げてくるのは遣る瀬無さと、どうしようもない無力感。そして痛感するのは能力の無さ。
 それにニールが所属する特命課は、そんな連邦捜査局の中でも最も相手にされない部署だ。事件の手がかりが見つかったと言っても、連邦捜査局の鑑識たちが協力してくれるとは到底思えない。「どうせ宇宙人の仕業なんだろう?」と鼻で笑い飛ばされる未来しか、思い浮かばないのだ。
 となると、ここは……――
「もし連邦捜査局が、そちらに協力を要請したとき……応じて、もらえますか?」
 苦笑うニールは、イライアス・イーモン・ハウエルズに懇願の眼差しを送る。肩身の狭い思いをしている、誠実な若人の心情を察したベテランは、にこやかな笑みを浮かべて無言で頷いた。





 コールドウェルとの通話を終えた枯草色の髪の男は、手にしたプリペイド携帯を地面に落とす。それから革靴の踵でプリペイド携帯を雑に踏み潰し、修理不能になるまでそれを壊した。
 その男――真黒なサングラスで目を隠し、真黒の背広に身を包んだ、通称“上官(サー)”アーサーと呼ばれる男――は、真っ白な棺に抱き付く女を睨みつけていた。それから彼は女に向けて言う。
「さて。特務機関WACEの関係者を惨たらしく殺したこと、それと罪なき三つの命を奪った釈明を聞かせてもらおうか。――デボラ」
「うるさい、アーサー。パトリックと私だけの時間を邪魔しないで」
「デボラ、それは脱け殻だ。魂は中にない。……貴様は(うろ)の器を手にしたようだが、それで何が満たされた? 虚しくはないのかね」
「ふん。今や力を失ったも同然のキミアから継いだ『魂のお掃除係』っていうお仕事はどんな気分なの、アーサー? 偉くなった気分? 私には霊魂なんか見えないから分かんないけど、でもパトリックはここに居るもの。それは分かるわ」
「妄言を……」
「あっ、そっか。アンタもキミアの力を受け継いだのよね、アーサー。じゃあさ、ほら。やってよ。パトリックを生き返らせて。ケテルがつくった世界の法則を引っくり返せるのは、絶対を否定する可能性の神、キミアの力だけだもの。ほら、ね? ケテルの失敗作の力、今こそ見せてよ。パトリックに呼吸を、心音を戻して。ねぇー、ねー、アーサー」
 奇妙な栗毛の女――通称“デボラ”と呼ばれている者――は、ものを知らぬ子供のように無邪気にキャッキャと笑って、無理な願いを叶えてくれと強請る。彼女が縋る白い棺の周囲には、これでもかと白百合の花がばら撒かれており、辺り一帯には異臭も同然となった強烈すぎる花の香が立ち込めていた。
 頭に被ったピンク色のニット帽をデボラは脱ぐと、その帽子を傍に立つアーサーに投げつける。子供のような笑顔はそのままに、底の見えぬ本物の狂気をデボラは見せつけていた。
 そんなデボラを、アーサーは冷たく往なす。
「力は然るべき時に、然るべき方法でのみ使われるべきだ。虚妄に囚われた愚か者の為に、安易に死者を蘇らせる気は私にはない」
「難しーことは分かんなーいわー。だから、やってよ。ほら。私のために、私のパトリックを」
 棺に抱きつくデボラは、奇妙な笑みを引き攣らせた。それから耳を塞ぎたくなるような奇怪な笑い声を、デボラはケタケタとあげる。その態度に、アーサーは不快感を露わにする。露骨に顔を顰める彼は、狂気を纏うデボラから距離を置くように一歩だけ後ろに下がった。
 すると、不愉快そうに顔を顰めるアーサーに向けて、デボラは昔話を始めた。
「むかーし、むかーし。四〇年ぐらい前かなぁー? 私がね、パトリックを見出したの。彼は本来、税理士になって、つまらない二十七年間を過ごしたあと、白血病で死ぬっていう退屈な人生を送るはずだったんだけどね。私が彼の人生をテコ入れして、面白くしたの。私が、彼を素晴らしい人生に導いてあげたんだー。それも、パトリックが私に約束してくれたからなんだ。彼の全てを、私の好きにしていい、ってね。ねぇー、パトリックってサイコーッの子でしょー?」
「何を言っているのか、私にはまるで理解できないな」
「でもね、パトリックがこうして四十八年も生きられたのは、ひとえに私のおかげよ? 私が彼を連邦捜査局に入局させて、それからASIの職員にしてあげたんだから。白血病も、治してあげる機会を設けてあげたわ。今まさに患っていた肺腺がんも、近い将来に治してあげる予定だったの」
「…………」
「けど、予定外の出来事もあったわ。あの精神科医と、ノエミとかいうやつ。あとテオ・ジョンソン。それとアンタたち、特務機関WACE。WACEが出てこなければ、ジェドが絡んでくることも無かったし、ケテルも出てこなかった。それにケテルが、パトリックを私から奪ったの! だから、こうして取り返したっていうのに……」
「貴様の噂は聞いていたが。噂どおり、話にならんな」
 狂気や妄想も、ここまで来るともはや清々しい。呆れ顔のアーサーは心の声でそんな台詞を漏らしつつ、ゆっくりと歩く。巻き散らされた白百合の花を踏みつけて進み、棺に抱きつくデボラのすぐ右隣りに立った。そして彼女と共に、棺の中で眠る死体の顔を覗き込む。
 ただ睡眠を取っているだけのようにも見える、その死に顔。耳を澄ませば寝息が聞こえてきそうなくらいだ。ほの赤い唇にはチアノーゼを示す青紫色も見られないし。白い頬には、蒼紫の静脈が透けて見える。また瞼には、疲労と心労からくる翳りが浮かんでいる。――これらはすべて生前のままで、ちっとも変わっていない。死後数週間が経過し、一度は土の中に埋められた死体だとは思えないほど、その死体には生気があった。
「ねぇー、アーサー。私、知ってるんだから。アーサーとかモーガンの血が血中に混ざった人間は、不老不死に限りなく近くなるんでしょう? 頭を吹き飛ばされたり、首を落とされたりしない限りは死んでも生き返るって、ジェドが前に言ってたわ。だってアバロセレンは、キミアの力そのもの。時間を止めることも、巻き戻すこともできるって」
「ああ、そうだ。アイリーンのように濃度が高ければ、可能だろう。しかしラーナーには君が期待しているほどの濃度はない。それに手遅れだ」
「どういうことよ、アーサー」
「そのままの意味だ。彼の肉体の時間は心機能が完全に失われた瞬間で止まっている。その直前で止まっていたのならチャンスはあったのかもしれないがな。残念だ。何にせよ、彼が生き返ることはない」
 その死体は時間が止まっていたのだ。死後硬直は起こらず、腐敗も永遠に起こらない。燃えもせず、凍りつきもせず、状態は変化しない。これから先も、ずっと。それがアバロセレンに身を冒された者が辿る末路だった。
 だが彼の場合、血中に混じったアバロセレンが極々少量であったことが救いだった。死から蘇るために必要なエネルギーを、体内にあるアバロセレンでは賄いきれなかったのだ。そのためアバロセレンは不要なエネルギー消耗を避けるために休眠を選択。活動を停止させた。宿主の体ごと時間を止めてしまったわけである。
 こうなったアバロセレンは、外部から親玉が強烈な刺激を送ってやらない限り、活動を再開させることはない。その親玉とはアーサーのこと。つまりアーサー次第で、どうにでもなるのだ。
 しかしそのアーサーに、パトリック・ラーナーという男を生き返らせるつもりは今のところ微塵もなかった。何故ならばアーサーは知っていたからだ。死以上の安らぎはないことを。
 生は喧噪。生きていたってロクなことはない。デボラのような存在がいる世界では、特に。
「生き死にばかりは私には覆せぬ事象だ。諦めろ、デボラ」
 さらりと嘘を言うアーサーは、棺に縋る不気味なデボラを上から見下ろす。黒いサングラスの下に隠れている目は、忌避するような視線をデボラに送っていた。
 すると、デボラの目には涙が浮かぶ。今度は駄々を捏ねる三歳児のように、デボラはぎゃんぎゃんと泣きだした。
「ヤーダー! ねぇ、アーサー! お願い、パトリックを元に戻して!! ねーえー、お願いだからぁ~!」
「元に戻せだと? 彼を壊した張本人が、どの口で言っているんだか」
「パトリックを壊したのはケテルだもん! ケテルがパトリックから右腕を奪ったから彼はおかしくなっちゃったの!」
 デボラの見た目は、三〇代半ばの白人女性。しかしその言動はかなり幼稚だ。だが、その年齢は人間には想像も出来ない領域に達する。彼女からすれば肉体だって、幾らでも作り出せる仮初の衣でしかない。
 デボラの正体は、元老院を構成するうちの一柱。神やら天使やら生命やらを作り出した、創造主と呼ばれる者のひとりだ。
 しかし宇宙よりも遥かに永く生きているはずの彼女が見せる醜態に、流石のアーサーも引いていた。
「……四つの善良な命を奪っておきながら、よくもそのようなことを……」
 だがアーサーの此度の目的は、デボラの糾弾ではない。デボラが嫌っている“ケテル”の情報を、少しでも聞き出すことであった。
「それで、デボラ。貴様は先ほどからケテルが彼を壊したと言っているが、ヤツは何故そのようなことをした。その理由は何だ」
 デボラを責めるような口調はそのままに、糾弾の延長線上にアーサーは質問をさりげなく混ぜる。すると見事に罠に掛かったデボラは、泣き叫ぶように答えた。
「パトリックが、ケテルが進めている計画の情報を外にリークしようとしたからよ! あの忌々しいホムンクルスのこと。ジェドが吹っ飛ばした研究所の跡地にできた、新たな研究所の地下で、ケテルはまた新しいのを作らせてるの。今度は大量生産よ。バカみたい。ホント、気持ち悪い。吐き気がする。反吐が出るわ。それにアイツ、私に濡れ衣を着せようとしたの。だって私、パトリックしか殺してない。なのに私のやり方で、人間が他にも殺されてるっていうのを聞いたわ。それに私が死んだパトリックをこの場所に運び込もうとしたら、その道の途中でケテルに襲われたの。逃げるのに必死だった。だからパトリックを、道中で置いてくしかなかったの。ケテルのクソ野郎、絶対に許さないんだから。今度会ったらアイツの腕を、ハンマーで叩いて潰してめった刺しにして、それから……――」
 言葉の途中でデボラは泣くのを止め、怒鳴り散らすような喋りに変化した。そのまま彼女は一人でヒートアップし、ノンストップで喋り続ける。
 求めていた情報を得られてひとまず満足したアーサーは、そんなデボラに冷めきった眼差しを送ると、煙のようにどろんとその場から消え去った。だがデボラは、アーサーが消えたことに気付かない。その後数時間、彼女は外界から閉ざされた薄暗闇の中でひとり、延々と誰かに向って怒鳴り散らしていたのだった。


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