ヒューマン
エラー

ep.14 - “The less you know, the better.”

 こんな、バカみたいな話があるっていうの?
 カルロ・サントスの自宅に来ていたノエミは、悲鳴に近い声を上げて泣き叫ぶ。すると左横の部屋に住む住民から、壁をどんどんと叩かれた。うるさい、ということらしい。
 しかしノエミは、構わずに叫ぶ。
「じゃあ何よ? エズラ・ホフマン副長官は人外で、煙のように消えるし、他人にもなり済ませるっての? 馬鹿げたコミックの世界じゃないんだからやめてよ、そういう話は! ここは現実、架空の物語じゃない! サイエンスフィクションじゃない、現実なの! 宇宙人なんかいない、モンスターも居ない、超能力者も居ない、地球に居るのは人間と動物だけ! ごく普通の、生命だけよ! なのに、どうして。こんなの、ありえるわけないじゃない!」
「なぁ、ノエミ」
「なによ!」
「頼むから、声量を落としてくれ。俺がこのマンションを追い出される」
 右腕を切り落とされたパトリックが、トーマス・ベネット特別捜査官とカルロ・サントスにより保護されてから、一週間が経っていた。
 連絡を受けたパトリックの両親、兄姉たちも全員が病院に駆けつけ、遂に左腕だけになってしまった末子の姿を見舞ったが。しかしパトリックは兄姉たちが何を言っても反応を示さない。パトリックの家族は絶望に打ちひしがれていた。
 パトリックの母親は、息子の左腕に触れながら泣いた。父親はパトリックの頬に触れながら、こう言った。この子が何をしたというのか、と。その場に立ち会っていたカルロ・サントスは、目を逸らすことしか出来なかった。パトリックは両親にすら反応を示さなかったのだから。
 そんなカルロ・サントスに、パトリックの父親はこんなことを言った。
『なぁ、カルロくん。君は君の父親と違い、優秀で、数多くの実績があると、そう聞いてるよ。だから、君の意見を聞きたいんだ』
『それは過大評価で、実際の俺は……』
『うちの息子は、パトリックは、戻ってくるんだよな? ただ疲れているだけなんだろう? なぁ、そうだと言ってくれ……!』
 パトリックの状態は、惨状という言葉だけでは言い表せない。一縷の希望もない、暗闇のどん底に居るような姿だった。
 ゆえにそのときのカルロ・サントスは明言を避け、目を伏せた。そして一言、これだけを言った。
『善処します。ですが、期待はしないで下さい』
 パトリックは辛うじて、カルロ・サントスとトーマス・ベネット特別捜査官、それとレヴィンの三人には反応を見せた。だが、それ以外はからきし駄目。
 だからお前は、パトリックと会わないほうがいい。カルロ・サントスはノエミにそう伝えたのだ。そうしたらノエミは酒を飲み出し、この始末。号泣しながら叫ぶ彼女の姿に、カルロ・サントスは目も当てられなかった。
「じゃあ教えてよ! リッキーは、どういう状態なのよ!」
「昏迷に陥っている」
「専門用語はやめて。分かりやすく説明して」
「意識と無意識の狭間を、ずっと彷徨ってるような状態だ。いや、というか意識はあるんだが、ただ……」
「早く言いなさいよ」
「声を掛けても、揺すっても、叩いても、眩しい光を目に当てても、一切反応を示さない。そういう状態だ。今までで一番、酷いってことだよ」
「……」
「俺に反応するのは、俺があいつにとって一番の理解者だから。ベネット捜査官に反応するのは、彼がパトリックを見つけて保護したから。そしてレヴィンに反応するのは、犯人が彼女の姿をしていたからだ」
「……カール……」
「ノエミ。お前には悪いが、あんなパトリックをお前に見せることはできないよ。今のあいつはただ目を開けて、息をしてるだけって状態だ。お前だって、見たくないだろ……」
 通常病棟に今、パトリックは居る。腕と腹の傷の経過を見るためだ。病室は、複数の患者との相部屋。個室にすると何をしでかすかが分からないからと、ドクター・デイヴィスがとった措置だ。
 そんなパトリックのことを同部屋の患者たちは不気味に思っているらしい。パトリックの様子を見に相部屋を訪れたカルロ・サントスに、同部屋のある男性患者はこう言ってきたぐらいだ。
『パトリックとかいうあの子は一体、どうしちまってるんだ。飯も食わないしトイレにも行かないし、俺たちが声を掛けても反応しない。ずっとベッドに寝ていて、目だけが少し開いてる。言葉は悪いが、ちょっと不気味じゃないか。それにどうして子供が、成人の病棟に』
 カルロ・サントスは、こう返した。あいつは子供じゃない、俺と同い年なんですよ、と。
『事件に巻き込まれて、右腕をほぼ根元から切り落とされたんです。ショックが計り知れないんですよ』
『糖尿病で足を切られた俺たちとは事情が違うってわけか』
『……たしかに不気味かもしれませんが、察してやっちゃもらえませんかね』
『その口ぶりからすると、先生はあれの友人か?』
『そんなとこですよ』
『そういやババァも、あの子のことをよく知ってるみたいだったが』
『ババァ?』
『ベッツィだよ、整形外科の』
『あぁ、エリザベス・デイヴィスのことですか。デイヴィスもあいつとは、十年近くの付き合いがありますからね。まっ、宜しく頼みますわ。それと……さっきのセリフ、デイヴィスの前で絶対に言わないで下さいよ?』
 傍から見たパトリックの姿は、たしかに不気味というしか他に言葉がなかった。
 目は開いてるが、その瞳はどこを見ているのかが分からない。それに自分の意思で起き上がることはなく、瞬きの回数も少ないし、左腕を動かすこともない。日中の大半はベッドの上で横になってるだけ。ときおり様子を見に来る主治医のドクター・デイヴィスが何を言ってもリアクションを返さず、気にした看護師が車椅子に乗せ、病院敷地内に散歩に出ても、パトリックは終始人形のように固まっているだけだった。
 そのように一人では何も出来ない状態にある彼だが、二週間後には退院が決まっている。秘密保持の観点から、アイリーンが彼の身を引き受け、面倒を見ると申し出てくれているが、カルロ・サントスは気が乗らなかった。精神病棟に入院させ、二週間ほど様子を見てからのほうが良いのではないか、と考えていたからだ。
 ドクター・デイヴィスとは、その方向で調整を進めている。創部の経過を見て、そろそろ大丈夫だろうという頃になったら、通常病棟から精神病棟に移そうと話をつけていた。パトリックの家族はそれに応じたが、アイリーン、ひいてはASI側は難色を示している。現にパトリックの上司だというトラヴィス・ハイドンという人物から、カルロ・サントスのもとに抗議文が送られてきていた。
 一刻も早くパトリックを退院させろ。身元はこちらで引き受けるから、ASIにパトリックを引き渡してくれ。抗議文は、そんな趣旨が盛り込まれていた。無論カルロ・サントスは応じなかった。ASIにパトリックを渡したら、どうなることか。何をされるか予想ができないからこそ恐ろしかったのだ。
 そうして抗議文を無視していると、カルロ・サントスのもとに今度はトラヴィス・ハイドン本人が訪れた。頼むからパトリックを引き渡してくれと、彼は懇願してきた。しかしカルロ・サントスは拒否した。
『無理だ。俺は連邦捜査局にちょくちょく手を貸してるし、その関係であんたらのやり方はよく知ってる。だから、今はまだ渡せないんだよ。パトリックが万全の状態に戻ったときに、あいつ自身に判断させるさ。今は、駄目なんだ』
 しかし相手も、そう簡単には食い下がらなかった。
『ドクター、君は何かを誤解しているようだ。私たちは、ラーナーに危害など加えない。彼が何に巻き込まれていたのか、それを究明したいだけなんだよ』
 トラヴィス・ハイドンという男が言うには、パトリックはバーソロミュー・ブラッドフォード長官から何かしらの特命を受けて行動していたのだという。カルロ・サントスもそのことは薄々勘付いていたし、特別に驚きはしなかった。
 しかし驚いたことがあった。ASI側はつい最近まで、パトリックが特命を受けて単独で行動していることを把握していなかったというのだ。
『……おい、あんた。あの文面の中で自分はパトリックの直属の上司だと書いてたよな。なのにあいつが何をしているのか、知らなかったってのか?』
『ああ、恥ずかしながら。管理能力がないと糾弾されれば、それまでだ』
『じゃああんたは、気付かなかったってことか? あいつが、次第に狂っていってたことに』
『そこまで私は愚鈍じゃないさ。何度もラーナーには、声を掛けて話を聞こうとした。だが何も聞き出せないうちに、あんなことになってしまったんだ……』
トラヴィス・ハイドンは言った。パトリックが引き受けていた任務はASIのものではないと。外部の組織から委託をされたのか、もしくは外部の組織に彼が引き抜かれたのか。そこで現在ASIはバーソロミュー・ブラッドフォード長官の経歴を洗っており、長官が誰から指示を受け、何をパトリックに命じたのかを調べているという。それと同時並行でエズラ・ホフマン副長官も調査しており、もしかすると二つの件は密接に絡みあっているのではないかと推測しているという。共通点はパトリック・ラーナー。それと、とある組織。
『とある組織って、なんだよ』
 カルロ・サントスはトラヴィス・ハイドンに尋ねたが、彼は詳しいことは何も言わなかった。しかしヒントはくれた。
『アイリーン・フィールド。あの女が所属している組織だよ』
『……アイリーンだって? 彼女は、ASIの局員じゃ』
『彼女は局員じゃない。うちと協力関係にある、とある特務機関のメンバーだ。そしてラーナーは、その特務機関に協力していたのではないかというのが暫定の結論だ。経験がなく即戦力だとは言えない若手の局員を、なぜ彼らが選んだのかには疑問が残るがな……』
 そう言うとトラヴィス・ハイドンは最後に、カルロ・サントスに忠告をした。今話したことを決して口外するな、と。カルロ・サントスは、笑顔で言葉を返した。
『医者の仕事には守秘義務ってのが常に付き纏う。精神科医は特にな。……俺は口が堅い。そこは信用してくれ』
 そしてASIは「真相究明のため、一刻も早くラーナーを寄越せ」と釘を刺し、去って行った。それが三日前のこと。それ以降、彼らから連絡はなかった。
 ワイズ・イーグルから受けたという特命のはなし。それと謎の特務機関のはなしに、なんでも一人で抱え込む悪い癖と、誰にも話そうとしない悪い癖。そんなパトリックの話の全てをカルロ・サントスは今、心の中にそっとしまっている。目の前で呑んだくれ、泣いて騒ぐノエミに打ち明けるつもりは、今はまだ無かった。
「……それでも私、リッキーに会いたい。寂しいの。あの可愛いけど憎たらしい顔を見たいの。だってリッキーは、私の可愛い可愛い弟だもの。実の妹よりもよっぽど可愛い、私の弟! 節操がなくて男にだらしないイメルダなんて妹、いらない! パトリックって名前の弟が欲しい!」
「俺にとっても、それは同じさ。フェルナンドなんていう金の無心ばかりしてくる弟より、映画スターを夢見て無謀な家出していったマルシアなんて妹より、リッキーのほうがよっぽど可愛らしいってもんさ……」
 目を赤くし、鼻をずるずると啜るノエミの前にそっと、カルロ・サントスはティッシュペーパーの箱を置く。それから彼は、今日初めてのビール缶を開けた。
「リッキーは、冗談抜きで可愛くて、愛らしい奴だ。……そこがいつも、仇になってるんだろうがな」
 箱からティッシュを引き抜くと、ノエミは盛大に鼻をかむ。色気も女らしさも恥じらいも何もないその姿に、カルロ・サントスは呆れかえった。
「……お前よりもリッキーのほうが、女子力が高かったな」
「どうして比較対象がいつもリッキーなのよ!」
「リッキーは音を立ててみっともなく鼻をかんだりしなかったぞ」
「……うっ」
「お前みたいに泣き叫んだりしなかったし、お前よりあいつのほうが手料理は旨いし。それにあいつは、綺麗好きだった。ゴミ屋敷に住んでるノエミ・セディージョと違ってな」
「……うぐっ」
「ノエミ、お前の中身は後先考えずに突っ走るやんちゃな成人男性なんだよ。だから女として見られない。それに対してリッキーは、常に受け身なティーンの乙女だった。だからあいつをどう見ていいのか、俺はいつも困っていた。まっ、その、なんというか、うむ……。お前とリッキーは、ぴったりのコンビだと思うぞ?」
「フクザツだわ。褒められてるのか何なのかが、よく分からないって感じ」
 ノエミは九缶目のビールを空にし、中年男性のようなげっぷをしてみせる。カルロ・サントスは、ノエミから視線を逸らさざるをえなかった。





 少し体を動かすたびに、彼は呻き声を上げる。そんな彼の介抱にあたっていたアイリーンは、呆れきった顔をしていた。
「あんね、サー。あなたはたしかに不死身よ。つーか既に死んでいるだから、これ以上死にようがない。でも無茶をしないで。あなたは驚異の回復力を持つ猟犬と違って、回復力は普通の人間と同じか、それ以下なの。だから無理をしないで、じっとしてて。お願いだからしばらくの間、大人しくソファーで寝ていて」
 アイリーンが「ソファーで寝ていて」と忠告をした相手。それは灰色のラフなジャージを着ていたアーサーである。ワケあってあばら骨を数本折る怪我を負ったアーサーはこの通り、まともに動けない状態になっていた。
 そしてアイリーンは、アーサーが動けなくなった理由を取り上げ、彼を糾弾するのだった。
「サー、今回に関しては自業自得だよ。だって無理があるっしょ。相手はペルモンド・バルロッツィ。元老院の猟犬、腕利きの暗殺者だよ? サンドバッグを顔面で受け止めるほど運動音痴なサーが、拳でぶつかって勝てるわけないじゃん。それに、だからマダムから忠告されてたよね。猟犬と対峙するときは銃っていう武器を使って遠距離から攻撃しなさいって。……サーベル二本で軍の大隊ひとつを壊滅させる能力を持ってるっていう猟犬を相手にして、接近戦じゃあ勝ち目なんて無いに決まってるじゃん。ケイのじーちゃんも、そう思うよね」
 アイリーンは、アーサーが寝転ぶソファーの端に腰を浅く掛け、脚を組んでどっしりと構えていた大男ケイに話を振る。すると大男ケイは無言で首を縦に振り、頷くという反応を見せた。その反応を見て、アイリーンは言う。「ほら、じーちゃんも頷いてる」
「だが、あの時は不意打ちだったんだ。ペルモンドの姿で、丸腰で協力を求めてきたかと思った瞬間、やつは黒狼ジェドに変貌した。大柄の狼に体当たりを決められた。避ける隙もなかったんだ」
 サングラスも着用していなければ、真黒な背広も着ておらず、Tシャツにジャージと非常にラフな服装をしていたアーサーは、天井を呆然と見上げながらそんな言い訳をする。そんな彼が言い訳を紡ぎながら思い出していたのは、人間のように見えていた男が一瞬で姿を狼に変え、狼の姿でタックルを決めてきた瞬間のことだった。
「――久々に死ぬかと思ったぐらいだ」
 弱音を吐くアーサーを、アイリーンはバッサリと切り捨てる。
「大丈夫、サーはもう死なない。既に死んでるから」
 ここは、どこともしれない地下空間に設けられた施設。特務機関WACEの本部(仮)。薄暗い闇の中、安物のソファーの上に横たわるアーサーは、何か言いたげな顔をしているアイリーンにあることを尋ねた。
「アイリーン。ところでラーナーはどうなった。彼は無事か?」
「ちょっと、それがね……」
 言葉を濁そうとするアイリーンを、アーサーは瞳孔の無い薄気味悪い瞳で凝視する。その視線を正面から受け止めぬよう意識し、アーサーから少し視線を逸らしたアイリーンは、ぽつぽつと事の顛末を報告し始めた。「サーのもとに狼が来たでしょ。で、あいつが聞いてきたじゃない。パトリックはどこにいるって」
「ああ。それがたしか、午後の八時頃で……」
「そのときにはもう、パトリックはエズラに捕まってたの。狼は、サーの足止めに来ただけ。で、パトリックは酷い目に合わされてさ。右腕をチェーンソーで、エズラに切り落とされたの。それで今、ドクター・デイヴィスが義手の制作に取り掛かってる」
「……そうか」
「はぁ……――これも全部、私の落ち度だよね。当初は本当に才能があるかどうか、彼をテストするだけのはずだったのに。パトリックがとんでもない情報を、うっかり高位技師官僚から引き出しちゃったもんだからさ。こんな大変な事態に発展して、挙句に彼は……。私がパトリックを見出しちゃったばっかりに、パトリックを酷い目に遭わせた」
 アイリーンは眼鏡を一旦外すと、溢れてきた涙を手の甲で拭う。彼女を責めることも、慰めることもしないアーサーは、今の状況だけを訊ねた。「それで彼は今、どうなっている」
「病院に入院してる。傷の経過は問題ないそうだけど、それ以外が駄目。精神科医のドクター・サントスが、もう無理かもしれないって言ってた」
「というと、どういう状態だ」
「ドクター・サントスが言うには、解離性の昏迷だって。意識はあるけど、反応が返せなくなってるって状態。両親が声を掛けても何も言わなくてさ。本当に、私、悪いことしちゃったなって……」
「……エズラは、ラーナーから何を引き出そうとしたんだ? やはり、あの手帳か?」
「そう。ワイズ・イーグルがずっと持ってた、あの手帳。ブリジット・エローラの日記、五冊。パトリックが手帳をワイズ・イーグルから受け取ったもんだから、狙われちゃったんだ。手帳を出せ、保管場所を教えろって。でもあの時、パトリックは手帳の在り処を知らなかった。だって手帳は、カルロ・サントス医師が持ってたんだもの。それなのに、知らない情報のせいでパトリックは、右腕を……」
 どれだけ涙を拭っても、アイリーンの目から新しい涙が零れていく。流石にこれ以上、訊くのは酷か。そう判断したアーサーは、アイリーンの横に立っていたケイに視線を送る。するとケイは、近くに置いてあったスケッチブックとサインペンを手に取る。スケッチブックの表紙をめくると、ケイはそこにサインペンで文章を書く。それをアーサーに見せた。
『手帳はどうする、回収するか?』
 スケッチブックには、そう書かれている。アーサーはその問いに答えた。
「そうだな、回収すべきだろう。機を見て私が盗んでくる」
 するとケイは、またスケッチブックに文字を書く。
『やめておけ。お前が直々に動くとロクでもないことしか起きない。それとも、また死体を増やすつもりか?』
「そうだよ、それに怪我人なんだから動いちゃダメ。手帳は私が回収してくるから」
 アイリーンは涙を拭うと、我が身を省みない怪我人にそう進言する。すると、怪我人はあっさりとアイリーンの言葉を受け入れた。
「分かった。回収は君に任せることにしよう。……私はしばらく休むことにする」
 アーサーはそう答えたあと、素早くアイマスクを着用し、寝の体勢に入る。薄情なこの男に呆れたアイリーンは、気分を悪くしたのか彼女の居城であるコンピュータールームに消えていった。
 そしてアイリーンが立ち去ると、それに続くように大男ケイもアーサーの傍から離れていく。大男ケイはきっと暇を潰すべく、トレーニングルームにでも向かったのだろう。
「……」
 そうして薄暗い部屋にアーサーひとりだけとなったとき。彼はあばら骨を庇いつつ起き上がると、着けたばかりのアイマスクを外す。それから彼は漠然と、正面を睨んだ。
 薄暗闇の中に、蒼白く光るアーサーの目。彼の目もまた、あることを見通している。
「……弱ったな。どう始末を付けるべきか……」
 アーサーには分かっていた。アイリーンがなぜ『パトリック・ラーナー』という、議場に上がっていなかった人名を上げ、独断でのリクルートを敢行したのかを。そして彼女は何も分かっていないことも。
 アーサーは特務機関WACEに新人を迎え入れるにあたり、幾人かの若者に予め目を付けていた。ノエミ・セディージョ、テオ・ジョンソン、サラ・コリンズなど。少なくともその中にパトリック・ラーナーという名前はなかった。それどころかアーサーは、最も警戒すべきリスクとしてその名を捉えていたぐらいだ。
 捜査機関や情報機関の人員の背景を洗う過程で、アーサーは『気掛かりな爆弾』としてパトリック・ラーナーという存在を見出した。パトリックの来歴には不明点が多く、それは『何者かが何らかの目的のために、彼を公務員に仕立て上げた』としかアーサーには思えなかったからだ。そして何者かとはすなわち元老院に属する何者かであろうと、彼はそのように予測していた。
 対象が子供のうちに目を付け、子供のうちに身体を痛めつけて自我を弱らせ、対象が成人した後にその精神を支配し籠絡するその汚いやり口は、通称『ダコタ・スティル』と呼ばれている元老院の一柱が用いる手法である。――そのような情報をアーサーは前任者から伝え聞いていた。その手法を用いて作られた存在こそペルモンド・バルロッツィこと『アルファルド』であるとも。
 そういうわけでアーサーはパトリックの過去を調べ始めたのだが。その矢先に起きたのが、アイリーンの独断専行。アイリーンが手を回し、パトリック・ラーナーをASIに異動させるという暴挙に出たのだ。
 アーサーがアイリーンに暴挙の理由を問えば、彼女はアーサーに熱弁した。データベースを漁っていた時に偶然見出したパトリックが如何に素晴らしい人材であるかを。渋々アーサーはアイリーンの決断を容認することとなったが……――彼には分かっていた。偶然などないと。
 アイリーンが『パトリック・ラーナー』を見出すよう、何者かが仕組んだはず。アイリーンの嗜好性やクセを知る何者かが故意にデータベースに色を着け、アイリーンが必然的にパトリックを選び取るように仕向けたのだ。
 そのような芸当が出来そうな者は限られている。アーサーには、ペルモンド・バルロッツィ高位技師官僚の顔しか思い浮かばなかった。それに高位技師官僚はそもそも、元老院に飼われている犬である。彼が元老院の指示を受け、アイリーンを惑わす工作を働いたと考えるのが妥当だ。
 そこでアーサーは状況を逆手に取ることにした。パトリックを迎え入れたうえで、パトリックを高位技師官僚に衝突させ、そこで何が起こるかを観察し、高位技師官僚および元老院が何を隠して何を為そうとしているのかを総合的に判断しようとしたわけだ。
 その結果、興味深い連鎖が起こった反面、想定外の事故も発生。バーソロミュー・ブラッドフォードが『ブリジット・エローラの手帳』なる隠し玉を唐突に出してきたことにより状況が大きく掻き乱され、アーサーが想定していなかった障害『手帳を求めるエズラ・ホフマン』というものが突然、降って湧いてきたのだ。
 結局、特務機関WACEは『手帳を求めるエズラ・ホフマン』の対応に追われることとなり、せっかく掴み取った『イェラ計画』というものへの対応はASI任せのおざなりな対応になってしまった。
 アーサーとしては、イェラ計画を潰す方向に力を入れたかったし、あの計画の中枢に囚われているらしいテレーザの救出に集中したかったのだが。しかし、彼はこのザマだ。
「……」
 テレーザ。それは死に別れになった彼の娘である。
 死んだはずの父親が死線の向こう側から戻り、裏社会で暗躍する『サー・アーサー』となっていることも知らずに、彼女は今も死んだ父親の汚名を注ごうと必死にあがいている。そしてテレーザの上司は、あのペルモンド・バルロッツィ高位技師官僚。状況はかなりマズい。
 高位技師官僚は『テレーザを守る』と言っていたが。その言葉を素直に信じられるアーサーではない。
「……あの男、早めに潰しておかないとな」
 そう呟くアーサーが頭に思い浮かべていたのは、二人の男。それは高位技師官僚であり、パトリックだった。





 精神科医長、ブルース・ケレット。彼は受け取った退職願を、びりびりと破き、引き裂く。退職願を提出した人物――カルロ・サントス――は、その様子を冷や汗を手に握りながら観ていた。
 そして医長は言う。「……サントス。正気か?」
「ええ、正気です」
「お前は、今までの努力を捨てるつもりなのか?」
「最悪の場合、医者の道が無くなったとしても、俺には犯罪心理学の道があります。ですから」
「退職は認めん。これはお前のために言っている」
 医長のその言葉に、カルロ・サントスは顔を強張らせる。すると医長は、とある書類をカルロ・サントスの前に差し出した。
 そして医長は、カルロ・サントスに言う。
「ここに、名前を書くんだ。それと自宅の住所、連絡先も」
「……どういう風の吹き回しです?」
 カルロ・サントスは首を傾げる。見たこともない書類だったからだ。
 見た感じは休暇届のようだが……――何かが、微妙に違っている。すると医長は言った。
「退職は認めん。しかし、だ。長期休暇なら許可しよう」
「で、この書類は?」
「お前の特殊すぎる願望は、うちの科に勤める者なら誰でも知っている。だから、だ」
 特殊すぎる願望って……。カルロ・サントスは怪訝な表情を見せるが、書類を見るなり納得した。休暇取得理由の欄には『育児休暇』と書かれていたのだ。
「幼い子供を連れたシングルマザーと婚約したから、一年半ほど育児休暇を取ると申請すれば、誰も疑問に思わない。お前の場合なら。まあ、顰蹙は買うだろうが」
 医長の言う通り、カルロ・サントスはやや特殊な願望を抱いている。それは『子供は欲しいが、自分と血の繋がった子供は欲しくない』というものだ。
 たしかにこれは理にかなっている。カルロ・サントスはそう納得した。そして医長は渾身のドヤ顔を披露しながら、言葉を続けた。
「それに育休なら、少額だが手当も出る。しかし退職してしまったら、手当も出ない。復職も容易ではないぞ。……だとしたら退職より、休暇の方がいいんじゃないのか?」
「医長……!」
 カルロ・サントスはボールペンを取ると、秒速で書類にサインをした。そうして書類を、すぐに医長に提出する。カルロ・サントスは目を輝かせた。
「前から思っていたが、アンタ、最高の上司だぜ!」
 書類を出したカルロ・サントスは、今度は医長に手を差し出して握手を求めた。医長は、差しだされた手を握る。それから医長はカルロ・サントスの目を見て、言った。
「ただ、お前は後期研修医だ。プログラムに空白ができてしまうのも良くはない。そこで週に一度か二度、出勤することになるだろう。まあ、今後のプログラムについては指導医のヘンダーソンを交えて決めていこう」
「承知しました」
「それとだ、サントス。弟分を絶対に治せと、ドクター・デイヴィスが言っていたぞ」
 したり顔の医長は、カルロ・サントスの驚く姿を満足そうに見ていた。弟分。その言葉に反応したカルロ・サントスは、図星だという顔をしている。
 この度カルロ・サントスが休暇を取得した理由を、医長は聞かずとも理解していたのだ。弟分、つまりパトリック・ラーナーの面倒を見るということに。「バレてたってわけですね……」
「君が彼を放っておくとは思えなくてな。案の定、というわけだな」
「はははっ、そうです。まさに、その通り……」
「本来なら叱責すべきなのだが……――クストディオから話は聞いている。君の心情は理解しているつもりだ」
「……父が、ですか。はぁ……」
「君が出勤する日に、代わりに彼を看てくれるひとを見つけるように。分かったな、カルロ・サントス」
「ええ。幸い、アテはあります。安心してください」
 纏っていた白衣を脱ぎながら、カルロ・サントスは言う。それからカルロ・サントスは、左腕の手首にはめていた腕時計を見た。現在の時刻は午前一〇時十四分。アイリーンとの待ち合わせ時刻まで、二十分もない。「医長。ちと時間がないんで、もう帰っても?」
「引き継ぎは?」
「全て済ませてあります」
「そうか、なら急げ」
 カルロ・サントスは手早く荷物をまとめる。そんな彼の背を、医長は励ますように叩いた。
「彼を必ず寛解させろ。しかし病者には、あまり」
「のめり込むな、ですよね。分かってますよ、勿論。それじゃ、また今度」
 そしてカルロ・サントスは、病院を去る。医長はその背中を、黙って見送っていた。


* * *



 早朝のキャンベラ市内。ランニングウェアを着た壮年の男ふたりが、道を走っている。手前の男は無心で、一定のペースで走り続けている。対して後ろの男は、徐々にペースを上げていた。手前の男に、追いつこうとしているようだ。
 やがて後ろの男が、手前の男のすぐ横に並ぶ。後ろの男が、手前の男の肩を叩こうとした……――のだが。
「さっきから尾行をしているようだが、貴様は何者だ」
 肩に指先が触れた瞬間、手前の男は一瞬で振り返り、後ろの男の脚に足を掛け、道端に投げ飛ばした。
 後ろを走っていた男は背中から地に落ち、呻き声を上げる。前を走っていた男は、地面に落ちた男に拳銃を向けた。それから地面に落ちた男の顔を見るなり、彼――未だに長官代行という肩書を背負わされている、トラヴィス・ハイドン部長――は、すぐさま拳銃をしまった。
「誰かと思ったらお前かよ、トム……。怪しまれるような行為は控えろ。襲われるかと思ったじゃないか」
 地面に背中から落ちた男――トーマス・ベネット特別捜査官――は、苦笑う。それから彼はトラヴィス・ハイドン部長の手を借り、ゆっくりと立ち上がった。
「そりゃこっちの台詞だぜ、トラ。お前に殺されるかと思ったよ」
「悪く思うな。これがASI流の挨拶なんで」
「過激な挨拶だな。俺たち連邦捜査局の場合、挨拶はミランダ警告だぞ?」
 まさか、朝一から蹴り飛ばされることになるとは。痛む腰をさすりながら、トーマス・ベネット特別捜査官は呟く。彼は立ちあがると、トラヴィス・ハイドン部長の横に並んだ。
 二人の男は走るのをやめ、同じペースでゆっくりと歩く。それから他愛無い世間話を彼らは始めた。
 先に口を開いたのは、トーマス・ベネット特別捜査官だった。
「そういやノエミから、一年半ぶりにパトリックが復帰したと聞いたんだが。パトリックの調子はどうだ。大丈夫そうか?」
 するとトラヴィス・ハイドン部長は腕を組み、顔を強張らせる。それからトラヴィス・ハイドン部長は、絞り出すような小さな声で言った。
「……そうだな。心配には及ばない。ラーナーは至って、元気だ。すぐに職場に慣れてな。まあ、しかし……」
「ど、どうかしたのか?」
「ラーナーの同僚たちは皆、ラーナーの復帰を待ち望んでいた。私も、そうだった。だが、ラーナーは見事にその期待を裏切ったというか、周囲を幻滅させたというか、うぅむ……」
「裏切った? 同僚の名前を、全部忘れたとか?」
「いや、そうじゃなくてな。一部の記憶が欠落しているが、それ以外はこれといった異常もなく、そこが却って不自然で……」
「なら、どうしたんだ」
「いうなれば今のラーナーは、新生パトリック・ラーナーだ。……かつてのパトリック・ラーナーとは、別人だと思ったほうがいい」
 首を傾げるトーマス・ベネット特別捜査官は、トラヴィス・ハイドン部長の顔を覗きこむ。トラヴィス・ハイドン部長の顔色は酷く、彼はまるで悪魔でも目撃したかのような目をしていた。
 そしてトラヴィス・ハイドン部長は、話を続ける。
「新生パトリック・ラーナーは恐ろしい。延々と喋り続けるぞ」
「……俺が知ってるパトリックは、あまり口数が多くない気がするんだが?」
「ああ、そうだ。だから私は今、ラーナーの扱いに困っている」
「…………」
「饒舌に喋るようになったせいで、尋問の才能には磨きがかかってしまったよ。多分、今のラーナーはASIで一番の尋問官だ。お前もラーナーには、細心の注意を払ったほうがいい」
 はぁ、とトラヴィス・ハイドン部長は重い溜息を吐く。それから彼は、とどめの一言を放った。
「今のラーナーにとって、可愛いのは顔だけだ。中身は悪魔だよ。工作員の鑑だ、あれは」
「悪魔……!?」
「連邦捜査局に居た頃のような正義漢は、今のラーナーにない。今のラーナーは、まさしく狂気だ」
 トーマス・ベネット特別捜査官は背中をぶるりと震わせ、こんなことを呟いた。
「ドクター・サントスがパトリックを治したと聞いたんだが、彼はおかしな方向にパトリックを矯正しちまったのか……?」
 一方、そのころ。ブリーフ姿のカルロ・サントス医師は自宅でくしゃみをしていた。その姿を、パトリックは冷めた目で見つめている。
「早く服を着ろよ、変態。ブリーフ一丁とか、みっともないにも程があるぞ」
「リッキー。お前こそ、さっさと支度をしたらどうだ」
「やってますよ。ただ、ネクタイが結べなくて……」
 鏡の前に立つパトリックは、シャツの襟周りにぐるりと回したネクタイと格闘していた。彼は、彼の利き腕である左手と、一目見ただけでは本物の腕と見間違うような精巧な義肢の右腕をぎこちなく動かし、ネクタイを結ぼうとする。しかし、うまくいかない。結ぼうとするたびに、ネクタイは右手からすべり落ちるのだ。
 鏡には、むっとするパトリックの顔が映っていた。すると後ろから、ブリーフ姿のカルロ・サントス医師が近付く。こっちを向けよ。カルロ・サントス医師はそう言うと、パトリックの首からだらりと垂れたネクタイを掴んだ。そしてカルロ・サントス医師は言う。「完全復活とは、まだまだ言えないか」
「……」
「まっ、それもしゃーないわな。頭を打って、しばらく動けなくなってたんだ。脳機能の回復にはもう少し時間が掛かる」
 カルロ・サントス医師は手早くネクタイを結ぶ。この一年半、ずっと言い続けた嘘をまた塗り重ねると、彼はパトリックの背中を押した。
「ほらよ、行って来い。調子が悪くなったら、すぐに俺に電話するんだぞ」
「……分かってますって」
 パトリックが右腕を奪われた、あの後。彼は通常病棟から精神病棟に移され、そこで二週間ほど様子を見たが、しかし元のパトリックが戻ってくることはなかった。パトリックを受け持ったのはカルロ・サントスの指導医ブレノック・ヘンダーソンだったが、その指導医は匙を投げ、パトリックを見捨てた。あれは治らない、ホスピスへの入所を勧めた方が良いと、指導医は言ったのだ。
 だがカルロ・サントスは指導医に反論した。その結果、指導医は言った。治ると信じるのならお前がやってみたらいい、と。そうしてパトリックは正式に、カルロ・サントスが受け持つ患者となった。
 けれどもパトリックは難敵だった。カルロ・サントスがいくら話しかけたところで、反応は薄い。スタンダードなやり方では寛解どころか、改善すら見込めそうになかった。
 そうして悩み抜いた末にカルロ・サントスが出した結論は、あのとき自分の父親クストディオ・サントスが出した結論と同じだった。
『パトリックにとって過去の記憶は、障害にしかなり得ません。過去を掘り起こせば掘り返すだけ、彼は内に籠ってしまう。……解離というのは本来、防衛本能から起こるものです。この場合、防衛本能に任せて、忘れさせるという選択が最善だと、俺は考えます』
 退院の日の前日、精神病棟に訪れたパトリックの両親に、カルロ・サントス医師はそう告げた。それは精神科医としてではなく、友人のひとりとしての意見だった。
 しかし、彼の母親は泣きながら反論した。
『過去があっての、今なんです。嫌な思い出も含めて、全てが今に繋がっていて、それが彼を作ってるんです。その方法じゃ、戻ってくるのは私の愛した息子パトリックじゃなくなる。十年前に治療をやめたときだって、戻ってきたのは心優しい息子じゃなかった。自分の身を護るためなら他者を平気で脅して傷つけるような子だったんです! パトリックは何も言ってこなかったけど、高校時代に彼がやってきたことを、私はすべて知ってるんですよ。だからパトリックを、元に戻して。私の息子を、返して!』
 けれども彼の父親は、涙を堪えながら言った。
『あの子が抱えているのは、嫌な思い出なんていう生温いものじゃない。つらい出来事、心の傷そのものだ。その傷があるばかりに、息子の笑顔が二度と見れなくなるなんて、俺にはとても耐えられないよ。頼む、息子を治してくれ。完全に、元に戻らなくてもいい。親が見たいのは、子供の笑顔だ。息子のあんな姿を、これ以上見てられない……!』
 時に解離を扱う治療者には、選択が求められる。目の前で苦しんでいる患者に、忘れている過去を思い出させるべきなのか。この防衛本能を、無理矢理に治す必要性があるのか。
 全てを覚えていることが幸せとは、限らない。忘れていたほうが、よっぽど生きやすいことだってある。そのほうが、よっぽど幸せなことだってある。だからカルロ・サントス医師は、忘却という選択肢を選んだ。
 それにカルロ・サントス医師の初恋の相手、詩人だった女性は、かつてこんな詩をカルロ・サントス医師に送ってきた。

 真実が、いつでも幸福な結末であるとは限らない。
 むしろ、そうでない場合のほうが多いともいえる。
 時に真実は、
 納得のいかない筋書きであることもある。
 時に真実は、明白と目に見えていた
 ありのままの現実の姿であることもある。
 時に真実は、何も生まないことがある。
 時に真実は、不幸しか生まないこともある。
 時に真実は、知らなければ良かったことでもある。
 しかし人は真実を追い求める。
 そして大半の人は、真実に呑まれて破滅していく。
 ならば真実を知らないほうが、幸せなのではないか。
 暗闇を覗き見ずとも、人は生きていけるのだから。

 それからカルロ・サントスは、治療の方針を転換した。パトリックの家族にはこう伝えた。彼の過去を記録しているものは、処分しろとまでは言いませんが、彼の目につかない所に隠しておいて下さい、と。そうしてカルロ・サントスは、パトリック・ラーナーの過去を塗り替え、作りかえることにしたのだ。つまり洗脳を施したわけである。
 この冷徹な決断を後押ししたのは、カルロ・サントスがパトリックから奪った『ブリジット・エローラの手帳』だ。ブリジット・エローラという名前から、彼女と敵対していたという、医学部時代の彼の恩師のことを思い出したカルロ・サントスは、袂を分かったつもりでいた師匠に助力を乞うた。
 そして駆けつけた師匠は、パトリックの様子を一目見るなりこう言った。
『過去を消し去れ。過去に関する記録を捨て、記憶を書き換えろ。それしか、もう手段がない』
 カルロ・サントスは師匠の言葉に渋々従い、パトリックの中から彼の身に起きた全ての事件の記憶を消すことにした。両足と右腕がないのは生まれつきだとパトリックに言い聞かせた。イーライ・グリッサムが自宅を襲ったことは言わず、無かったことにした。右腕を切り落とされた事件を思い出させないため、レヴィンの存在も忘れさせた。
 また、パトリックがASIから謹慎を食らった理由は、連邦捜査局のとある特別捜査官に些細な喧嘩を売った――ノエミ・セディージョを「ブス」と罵って挑発した――からだと教え込んだ。
 病院に長期間入院していて、今もこうしてカルロ・サントスの自宅で療養しているのは、階段から足を滑らせて頭を打ち、一時的に昏睡状態に陥っていたからだと説明した。
 パトリックはカルロ・サントスの言葉を全て信じた。彼にとってもそれが都合の良い“真実”だったからだろう。筋も通っていて、モンスターも登場しない。極めて現実的で、納得のいく話だったのだから。
 そうして一年半、カルロ・サントスは嘘を塗り重ね続けた。嘘を真実にすり替えたのだ。
「あぁっと、リッキー。ハンカチは持ったか?」
「持ってます。子供扱いしないで下さい」
 人間に生じたエラーを修復するために、記憶(コード)を一部書き換える。
 倫理という観点から見れば、その行為は決して褒められたものじゃないだろう。パトリックの母親が言っていたように、人間には過去があって、それが今に繋がっている。記憶を消し、過去を断絶してしまうというのは、その人物をなすアイデンティティを否定することに繋がってしまうのだ。
 けれども、そうだとしも。カルロ・サントス医師は、パトリックの父親と同じで、これ以上は耐えられなかったのだ。パトリックの、あんな姿を見せられ続けることに。
 友人としてのカルロ・サントスが見ていたいのは、パトリック・ラーナーの笑顔だった。悲しくて泣いて、目を赤く腫らした顔だった。事件が解決しなかったときに、下唇を噛みしめて悔しがる顔だった。
 それは決して、ぴくりとも動かない姿ではなかった。
「忘れ物はないよな? 必要な書類は全部持ってるか、確認したか?」
「確認しました、大丈夫です」
「本当に?」
「大丈夫ですから。それじゃ」
 パトリックはそう答えると、うんざりとした顔でカルロ・サントス医師を見る。彼は玄関に立ち、ドアに手を掛けた。義手の右腕でドアノブを掴んでひねり、ドアを開ける。
 するとそこには、長いブロンドの髪をなびかせるひとりの女性――否、女装家の男――が立っていた。
「……えっと、どちらさまですか?」
 パトリックはブロンドの人物を見るなり、目元を強張らせる。するとブロンドの人物は、女性によく似た声で言った。「あなたは、パトリックよね」
「ええ、まあ。そうですけど。……どうして、名前を?」
 ブロンドの人物――ラファエル・レヴィン――は、名残惜しそうな目でパトリックを見つめていた。レヴィンの揺れる蒼い瞳は、パトリックの大きな黒い目を見ている。
 そこに、パトリックを見送りにきたブリーフ姿のカルロ・サントス医師がやってきた。カルロ・サントス医師はパトリックのすぐ後ろに立つと、レヴィンを睨むように見える。するとレヴィンは心が痛むような可憐な笑顔を浮かべ、カルロ・サントス医師に頭を下げた。それからレヴィンはパトリックに言う。
「どうして私が、あなたを知ってるのか。あなたは、知らなくていい」
 ごめんなさい。レヴィンは最後にそれだけを言い、立ち去る。レヴィンが一度も振り返ることはなかった。
 パトリックはその背を見送ってから、カルロ・サントス医師を見る。パトリックは首を傾げさせた。
「今の女性は誰ですか?」
 パトリックは尋ねるが、カルロ・サントス医師も首を捻る。そしてカルロ・サントス医師は、また嘘を吐いた。
「知らないな。誰だろう」


続く