ヒューマン
エラー

ep.10 - Duplicity

 アバロセレンとは一体、何なのか。
 君たちは少しでも、そのことを考えたことがある?

 それはアイリーンがASIの局員たちに向けて投げ掛けた言葉だ。すると誰かが答えた。大きなエネルギーを生み出すエネルギー物質ですよね、と。しかしその答えを、アイリーンは首を横に振って否定する。そして彼女は言った。

 あれは質量を持つけど、物質なんかじゃないの。
 その証拠に、物質に必ずあるはずの原子核をもっていないから。
 あれは何も分かっていないの。
 でも、分かっていないのに広く使われている。
 だからとてもタチが悪い。

「……アバロセレンは物質じゃない。なら、なぜ質量を持っているんだ……?」

 アバロセレンは、何もかもを歪めてしまうの。
 あらゆる法則を凌駕し、理をブチ壊してしまう。
 綺麗な言葉を使うなら、無限に広がる可能性そのものって感じ。
 不可能を可能に変える力、ってとこかな。
 でも実際は、そんなにいいもんじゃないわ。

「……なんて、アバロセレン技士でもない人間が、考えても分かるわけないか。はぁーっ。本当に、何が何だか、どうなってるんだか……」

 あれは人が想像できる限りのこと全てを、実現できる。
 勿論、その力は素晴らしいことにも使えるよ。
 その証拠に、この空中要塞アルストグランがある。
 空中要塞は、アバロセレンありきのものだもの。
 でもね。力は所詮、力でしかない。
 力は、つまり道具。要するに意思を持たないもの。
 だから力がどう転ぶかは、使う人次第なの。
 つまり善にもなるし、悪にも転ぶってわけ。
 そして今、とんでもない悪事が冒されようとしてる。
 今この瞬間にも、おぞましい計画が進行中ってわけ。

「……今の仕事を辞めたい。いや、いっそのこと死んじまいたい。このまま屋上に向かって、そこから身でも投げりゃ、一発でころっと……」
 そう言ったアイリーンは局員たちの前で大荷物を漁ると、透明な水槽を引っ張り出した。それから彼女はまた荷物を漁り、今度はアバロセレンの結晶だというものを取り出す。興味津々に結晶を見つめる局員たちに、アイリーンは黒く光る妖しい結晶を見せつけると、それを空っぽの水槽の中に入れた。
 アバロセレンの結晶の大きさは、子供の拳と同じくらいだった。パッと見は、黒水晶にも似ていた。だがアバロセレンの結晶は、その中に光を湛えていた。といっても、屈折や反射光ではない。結晶の中には、恒星のように自ら光り輝くものが封じられていたのだ。そしてアイリーンは言った。この光こそがアバロセレンであり、周りを覆う結晶は見掛け倒しのハリボテに過ぎない、と。
 結晶の中の光は、蒼白かった。まるで夜空に光輝く星。たとえて言うならその光は、おおいぬ座のシリウスにそっくりだった。
 射干玉のような黒い闇に覆われている世界の中に、気高く輝く蒼白い光。その輝きは、美しいという言葉だけでは言い表せないものだ。
 誰もが、その光に見惚れた。誰もが、綺麗だと感じていた。しかしパトリックはその光に寒気を覚えていた。アバロセレンの光はたしかに美しかったが、同時にとても冷たい光であるように思えたのだ。それはまるでアーサーの目の中にあった気味の悪い光のような……――近寄ることさえ許さない高貴な光。だからこそパトリックは、直感でその光を嫌だと感じた。
 何故ならその高貴さは、パトリックが最も嫌うものだったからだ。次第にアバロセレンの光芒が、パトリックの目には邪悪なモノの手に見え始めた。そしてパトリックは理解する。アバロセレン犯罪対策部なんていうものが出来てしまった理由を。人が、未解明な部分も多く危険も多いアバロセレンというエネルギーに、ついつい手を出してしまいたくなるワケも。
 こんな綺麗なものを、欲深な者たちが放っておくわけがない。つまりは、そういうことだ。
「……でも車椅子だし、この身長だ。身投げ以前に、柵を越えられないか……」
 ASI局員たちが呑気にアバロセレン光に見惚れていると、見かねたアイリーンが舌打ちをする。それから彼女は『これから起こる現象を、よく見ていてね』と言った。
 それからアイリーンは、水槽の中にぽつんと置かれた黒い結晶に向かって、こんなことを言った。
『アバロセレンよ、液体になりなさい!』
 すると黒い結晶は一瞬にしてその形を崩した。氷が融けていくさまを早回しにしたかのように、結晶はどろんと溶け、蒼白い光を放つ液体と化したのだ。
 誰もが呆気にとられた。なぜか拍手が起きた。するとアイリーンは眉間に皺を寄せる。そして彼女は言った。
『これは手品じゃない。タネも仕掛けもないの。これが、アバロセレンっていうものなの。だから、よく見てて』
 次にアイリーンは言った。カチカチに冷え固まった氷になれ、と。するとアバロセレンは一瞬にして、中に蒼白い光を湛えた真黒な氷へと変貌した。冷気さえ氷からは立ち上っていた。
 そして次にアイリーンは言う。ジェル状になれ、と。氷になっていたアバロセレンはすぐに融け、今度はプルプルと揺れる真黒なスライムに変化する。さらに続けて、アイリーンは言った。
『いちど飛び跳ねてから結晶化し、それから気化して液体になり、最後に赤いリボンを首に巻いた、黄色い目の白猫の姿になりなさい』
 アバロセレンは、アイリーンの言葉通りに動いた。黒いスライムは水槽の中で一度飛び跳ねると、すぐに黒い結晶になった。そして結晶になったと思った瞬間に、弾けるように消えた。つまり気化したのだ。
 消えちゃったじゃないか。ASI局員たちはざわめく。と、そのときだ。水槽が蒼白く光り輝いたと思った瞬間、水槽のガラスが割れ、あたりに弾けて飛び散る。皆が、水槽のあった場所を見た。そして驚く。そこにはすまし顔でお座りをした猫が居たのだ。
 猫は真っ白な毛並みをしていた。目は黄色で、首には真っ赤なリボンを巻いていた。アイリーンの言葉通りだった。けれども猫はぴくりとも動かなかった。瞬きをしなかった。息をしていなかった。まるで剥製であるかのように動かなかった。けれども猫は、生きているかのような姿をしていた。作り物めいてはいなかったのだ。
 アイリーンは猫の背中に手を置くと、局員たちをじっと見る。そして彼女は言った。
『これで、少しは分かったかな。アバロセレンがどんなものかって』
 彼女によるとアバロセレンというものは、人が頭に思い描くイメージに反応し、イメージ通りの姿になるのだという。液体、個体、気体、プラズマ。その四つの形態は勿論のこと、人が思いつく限りの全てになり変わるのだという。猫も、その例だというらしい。けれども、この情報を知っているのは特務機関WACEと、アバロセレンの発見者である化学者――軍事防衛部門の高位技師官僚ペルモンド・バルロッツィ氏――のみ。情報は公にはされておらず、他に知る者はこの場にいる局員以外、存在しないはず……――なのだという。
 だが、アイリーンは言った。
『……なんだけど、どうやら情報を掴んじゃったヤツらが居るみたいでね。それが、元老院と呼ばれている存在。あくまで俗称ね、元老院ってのは。正式な名前は分からないの。まあ要するに、影で世界を牛耳ってきた連中、陰謀の黒幕みたいな感じ。んでね、よりによってその元老院が、こんなヤバイ情報をつかんじゃったってわけ。どういうルートで知ったのかは、まだ分かってないけど。とにかくそれが原因で、今、大問題が裏で起こってる』
 そう言いながらアイリーンは動かぬ猫の背を撫でる。彼女は言葉を続けた。
『でもアバロセレンには欠点がある。アバロセレンはあくまで姿を模倣するだけ。機械に内蔵された細々とした部品や、生物の臓器までは再現できない。つまり、自力で動く生物にはなれないの。だから、この猫ちゃんをよく見てほしい。今にも動きだしそうなくらいリアルなのに、さっきからぴくりとも動かないでしょ。……今のところは、ね』
 アイリーンは猫の頭を、人差し指でぽんっと叩く。すると猫の形は崩れ、始めの黒い結晶の姿に戻った。そしてアイリーンは言った。
『だから元老院は、アバロセレンの欠点を克服しようとしてる。アバロセレンから生物を造り出そうとしてるの。それが問題のイェラ実験ってわけ。あまり現実的とは言えない研究だけど、騒動の中心にあるのがアバロセレンだもの。まさかっていう展開があっては困る。だから何が何でも、この研究をブチ壊して種まで潰さなきゃならない。それに、奴らは本気なの。だからペルモンド・バルロッツィ高位技師官僚なんていう最悪の大天才を研究主任に起用した。彼の娘を人質に取り、娘の命が惜しければ研究に励めと脅してまでね』
 アイリーンは、結晶となったアバロセレンを大荷物の山の中に戻す。そして咳払いをしてから、言った。
『あなたたちも知っているでしょう。ペルモンド・バルロッツィ高位技師官僚がどれだけクレイジーかを。でも彼はマッドサイエンティストではない。そして彼は今、越えてはならない一線を誰にも踏み越えさせないよう、境界で踏ん張る役をやってくれている。行方を晦ませたり、強引な手法を用いて研究を停滞させているの。でも、そろそろ時間稼ぎもキツくなってきたみたい。だからこそ私たちも動くことになった。――覚悟は良い?』
 あのとき。覚悟を問うアイリーンの声に多くのASI局員らが頷くという反応を見せていたが、パトリックは頷くことも首を縦に振ることもしなかった。
 何もかもが嫌になっていたというのが、あのときの正直な気持ちだろう。そして今も、パトリックはその気分を引き摺っている。
「……はぁ、自分でも何言ってんだかよく分からなくなってきた。あー、クソッ。こんな世界、ぶっ飛んじまえ、ちくしょっ……」
 そんなアイリーンの話も、昨日のこととなっていた。そして今のパトリックが来ていたのはキャンベラ国立大学病院。トラヴィス・ハイドン部長に「行ってこい」と命じられたため、ここを訪れていた。
 高位技師官僚が再び収容された病室に行って、高位技師官僚から、もしくは彼の娘から何かを聞き出してこい。それが今日のパトリックに課せられたミッションである。
 ……しかし病院に来たはいいものの、病室に出向く気が一向に起こらない。とはいえ仕事だ、やらなければいけない。というのはパトリックも理解しているのだが、なんだか今日は異様にやる気が起こらなかった。
「……はぁ……」
 車椅子の体なせいで階段を使えないため、仕方なく乗りこんだエレベーターの中。たった一人だけの密室空間に、パトリックの緊張は緩み切っていた。緩みは独り言を産み、口からは本音がだだ漏れになる。
 あー、クソッ。なんなんだよ、もう。はぁ、あーっ、どうなってんだ。
 溜息が零れて、愚痴が零れる。溜まっていたものがドバドバと放出される。それはダムの放流のように溢れて止まらない。
「……くそったれ。もう任務も仕事も放棄して、樹海にでも行こうかな。車椅子を捨ててさ。見動きも取れないまま……そうだ、それだ。最高じゃないか。ハハハッ……」
 溜息、愚痴、溜息、愚痴……。それを延々と繰り返す。次第に気分がおかしくなり、パトリック自身も妙だと思うことを言い始めていた。
 溜息が愚痴を呼んで、愚痴が最悪な願望を湧き起こす。けれどもパトリック自身、分かっていた。これはただの現実逃避なんだ、と。
 しかし戯言は止まらない。そして遂にエレベーターが止まった。
「よし、この仕事が終わったらユーカリの樹海に――」
「あら、ラーナーさん。ユーカリというと、ブルーマウンテンズに行かれるんでして?」
 三階に到着しました。そんな機械音声のアナウンスと共に、エレベーターのドアが開く。すると目の前には、ふふふっと笑う赤毛の若い女性――高位技師官僚の一人娘である、エリーヌ嬢――が立っていた。
 独り言を聞かれたかもしれない。――目を丸くしたパトリックの思考回路はその瞬間、ショートした。彼の頭の中が真っ白になり、顔から表情が消える。けれども一秒後には、ショートした回路も自動で復旧した。
 パトリックはすぐさま笑顔を取り繕い、会釈程度に頭を下げる。そして車椅子を動かし、エレベーターから出た。それと同時に、エレベーターのドアが閉まる。エレベーターは、上の階へ移動していった。
「あぁ、エリーヌさん。先日は、どうも」
 パトリックは高位技師官僚の娘エリーヌの様子を伺いながら、軽い挨拶を彼女にする。彼女の様子が至って自然であることから“樹海”の前に零したドス暗い言葉は聞かれていないと判断した。
 そうしてパトリックの表情がホッとした心からの笑顔に変わると、高位技師官僚の娘エリーヌの雰囲気も和らぐ。それから彼女はパトリックにこう言った。「こちらこそ、父を助けていただき有難うございました」
「……ん? 私、なにかしましたっけ」
「あの、父が連れ去られて行方不明になったときです。ラーナーさんが発見してくれたから父が助かったと、トーマス・ベネット捜査官が」
「あぁ、あの件ですか! 近頃バタバタと慌ただしかったので、記憶があやふやでしてね。そういえば、そんなこともありましたねぇ……」
 慣れてきた動きで車椅子を動かすパトリックは、病室に向かう廊下を行く。するとパトリックの後ろを追いかけて歩くエリーヌが、こんなことを訊いてきた。「また、父に話を?」
「ええ、そのつもりで来たのですが。……タイミングが悪かったでしょうか?」
「そうなんです。父があまりにもお医者様の言うことを聞かないものですから、先ほど鎮静剤を投与されて……」
「それで今は寝ていると。なるほど、そうでしたか」
「父はすぐに動こうとするものですから傷も塞がらないし、輸血しても血が出て行く一方で。体はどう考えてもボロボロなのに、本人は痛みや疲労を感じないものですから……」
「自分を顧みない、究極の仕事人間ですか。それは困ったお父様ですねぇ」
「そうなんです、本当に……」
 そう言うと溜息を零すエリーヌは、肩を落として歩みを止める。パトリックも車椅子を止めると、くるんとターンし、エリーヌのほうに向きなおった。
「エリーヌさん、どうかされましたか?」
 パトリックがそう問いかけると、エリーヌはあることをパトリックに訊いてきた。
「そういえば、父を撃った犯人は見つからないまま、捜査本部は解体されたんですよね」
 その言葉に、パトリックは気拙そうに顔を俯かせた。パトリックの横に並ぶとエリーヌも、淋しそうな笑みを浮かべて、言う。
「でも、もう良いんです。父が“その人”に対して怒ってないので……」
「その人?」
 彼女の言葉に、どこか引っかかるものを感じたパトリックは顔を上げると、首を傾げる。エリーヌはぎゅっと拳を握りしめると“その人”について話し始めた。
「私は、名前も顔も知らないんですけどね。父が言うには、唯一の友人だったけれど、その人とはひどい別れ方をしてしまったそうで。だから自分は未だに恨まれているし、あれは受けるべき罰なんだって。ついさっき、眠る前に父がそう言っていたんです……!」
 途中までは、とくとくと静かに言葉を紡いでいたエリーヌであったが、言葉の終わりに感情の揺らぎが生じた。言葉が終わるとともに、潤んでいた彼女の目から涙がぽとりと滴り落ちた瞬間、緊張を繋いでいた糸を切られたかのように彼女はその場に崩れ落ちる。遂にその場に膝をついて泣き始めた彼女は、玉粒のような涙を、目からぽろぽろと零していった。
 泣き崩れるエリーヌと、その傍で待機しているパトリック。彼らの横を慌てた様子で駆けて行った看護師は、通り過ぎざまにパトリックを蔑むような目で睨んでいった。そして廊下にて待機している要人警護部隊の隊員も、パトリックに冷めた視線を送り付けている。その隊員は、お前が彼女を泣かせたのか、とでも言いたげな顔をしていた。
 あちゃー、こりゃ完全に誤解されてるな。パトリックは心の中でぼそっと悪態を吐くと、涙を流すエリーヌにハンカチを差し出す。今のパトリックには、それくらいのことしか出来なかった。
 エリーヌはハンカチを受け取り、涙を拭う。赤くなった目でパトリックを見る彼女は、申し訳なさそうな表情をみせた。「……ごめんなさい、ラーナーさん。私、その……」
「あなたのお父様なら、大丈夫ですよ。彼はきっと」
「不死身であるか、もしくは悪運が強いか、でしょう?」
 そう言ってエリーヌは、ふふっと笑う。その笑顔は、あからさまに無理をしているような、やつれきった笑みだった。続けて彼女はこうも言う。
「……殺しても死なないだなんて言われてる人が、そう簡単に居なくなるはずがありませんわ……」
 殺しても死なない。エリーヌが発した言葉に、パトリックは心がざわつく感覚を覚えた。というのも、いつか聞いたアーサーの言葉が思い出されたからだ。
『ご安心を。あの男はくたばりませんから』
 あのときのアーサーの声には、確信があった。あれは冗談の類ではなく、本気で『高位技師官僚は死なない』と信じているかのような口ぶりだった。
 また、死の淵まで行きかけたりはしたが、高位技師官僚は今もまだ生きているという現実がある。銃弾を十四発も撃ち込まれても、大動脈を傷付けられても、即死でもおかしくない失血量でも、彼は耐えた。その後、回復もしていない状態でアーサーに連れまわされ、傷が開いても、彼は耐えた。今もまだ生きているし、彼は回復に向かっている。
 致死量の血を失ってもなお持ちこたえ、回復するような人物を、人間と言っても良いのだろうか?
 そう思ってしまったパトリックも、アーサーと同じ答えに行き着こうとしていた。そんなものはもはや人間ではない、と。何故なら人間は簡単に死ぬ。死んでもなお死なないような者など、まるで……――
「バルロッツィ高位技師官僚。彼は生ける屍(リビングデッド)って感じよね。もう死んでるから、これ以上死ぬことはない、みたいな?」
 そう語る声が、パトリックの背後から聞こえてきた。パトリックは首をひねり、顔だけを後ろに向ける。そこに立っていたのは、どこか不自然な笑みを口元だけに浮かべているノエミだった。
 ノエミはパトリックに手を振り、続けて泣き腫らした目のエリーヌを凝視する。エリーヌはその視線を不愉快に感じたのか、やつれた笑みを崩し、表情を強張らせた。
 しかしそんなエリーヌにこれといった配慮を見せることなく、ノエミは言う。
「パトリック。取り込み中のところ悪いんだけど、うちの上司があなたを呼んでいるの。至急ってことらしいから、一緒に来てくれない?」
「至急? しかし私のもとには一切、連絡が来てないのですが……」
 パトリックはノエミから目を逸らし、後ろに向けていた顔を前に戻す。それから彼は俯きがてらに、黒縁の伊達眼鏡――アイリーンから支給された、眼鏡型の通話デバイス――をサッと素早く装着する。
 その眼鏡を介してコンタクトを試みたのは、眼鏡を渡してきたアイリーンである。すると間もなく耳元から、アイリーンの甲高い声が聞こえてくる。
『パトリック。急に掛けてきて、何の用なの? 今ポンコツの使えないASI局員を相手にしてて、めーっちゃ忙しいんですけどー? ねぇ、ねえー?』
 しかしパトリックは、アイリーンの声を無視する。そうしてしばらくすると、アイリーンが呟く声が聞こえてきた。にゃーるほどね、と。そしてアイリーンの声が止み、通話だけが続行される。
 次にパトリックは携帯電話を取り出すと、メール送信画面を開いた。宛先の欄にノエミのメールアドレスを打ち込み、件名には短い文章を載せた。それから本文には何も書かず、空のまま『Send(送信)』という文字を押す。空のまま送信するかどうかを問う警告文が出てきたが、それを無視して送信した。
 そして、パトリックは祈った。たったこれだけの短い文章だが、きっと本物のノエミ・セディージョなら状況を理解し、なんとかしてくれるだろう、と。
「だって私のもとに、パトリックも一緒に連れて来いって連絡が来たんだもの。あなたのとこに連絡がいく筈がないじゃない」
「そうでしたね。ハリー・キャラハン特別捜査官は、そういう手間を省く人ですもんね……?」
「ええ、そうよ。じゃっ、行きましょ。私が運転するから」
 不自然に振舞う“ノエミ”は車のキーを見せ、誘うように婀娜っぽく笑う。そしパトリックは今の応答で確信した。こいつは絶対にパトリックの知っているノエミ・セディージョではない、と。
 まずノエミは、パトリックのことを『パトリック』と呼ばない。そもそも彼女は基本的に他人を、名前の短縮系で呼ぶからだ。『カルロ』ならば『カール』。『パトリック』なら『リッキー』だ。しかし目の前に居る“ノエミ”は、ラーナーのことを『パトリック』と呼んだ。どう考えても変だ。彼女らしくない。
 それにパトリックは上司の名前として化石映画の主人公を、つまり架空の人物の名前を述べた。だが、どうだろう。目の前の“ノエミ”は、架空の人物の名前に首を傾げたりしなかった。
 ハリー・キャラハンなんて人物は、連邦捜査局に居ない。それにノエミの上司はトーマス・ベネット特別捜査官であり、そもそも彼女は『上司』なんて言葉を滅多に使わない。代わりに彼女がよく使う言葉は、ユニットチーフを意味する『チーフ』だ。それにノエミは婀娜っぽく笑ったりしない。大口を開けて、腹を抱えて、時に手を叩きながら下品に笑う。だからこそ、彼女はそれなりな美人でありながらも、恋愛とは無縁の人生を送っているのだ。
「……」
 しかし別人だと分かったところで、パトリックに残された道は一つだけ。他の選択肢はなかった。
「どうしたのかしら、パトリック」
「あぁ、いえ。その……」
 お前は誰だといった不用意な質問をすれば、どうなることだか分かったものではない。エリーヌを人質に取られるかもしれないし、逃げられるかもしれないし、それ以上に最悪な結末が待っているかもしれない。
 それにここで揉み合ったところで、体格差で負けるだけだ。あと不要な騒ぎが起こるだけ。そうすれば罪なき人間が巻き込まれることになる。
 こんなとき、捜査官はどうすべきか。連邦捜査局のアカデミーでは、このように習った。
「お言葉に甘えるとしましょうかね」
 可能な限り足跡を残しつつ、流れに身を任せて犯人の要求に従え。
 誘拐されることが分かっている場合、事前に他の捜査官にそのことを伝えておくと、なお良し。
「それじゃ、行きましょう」
 パトリックは“ノエミ”にそう言うと、ニコッと笑う。職業柄身に付けた自然な作り笑顔を“ノエミ”に向けつつ、エリーヌに意味深な視線を送り、それから静かに要人警護部隊を見やった。
 視線を受け取ったエリーヌは異変に気付いたようで、顔を蒼褪めさせる。彼女はパトリックの傍を静かに離れると、要人警護部隊の隊員らのもとに駆け寄った。
 そして“ノエミ”は満足そうに頬笑み、パトリックの車椅子を押す。それはパトリックを逃すまいとしているかのようだった。それから“ノエミ”はエレベーターのボタンを押しながら、パトリックにこう言った。
「……それじゃ、行きましょう」
 それと、ほぼ同時刻。エズラ・ホフマン捜索本部に配属されていた本物のノエミは、パトリックから送られてきたメールを見るなり、大声で騒ぎたてていた。
「チーフ! 大変です、チーフ!!」
 そんな風に大騒ぎするノエミに対し、トーマス・ベネット特別捜査官は尋ねる。
「どうした、ノエミ。ホフマン副長官が見つかったのか?」
「違います、リッキーです! メールが!!」
「パトリックから、メール? それがどうかしたのか」
「件名を見て下さいって、ほら!」
「……これから誘拐される。助けてくれ、だと……?!」
 ノエミは携帯を片手にあんぐりと口を開けたまま、呆然と突っ立っている。トーマス・ベネット特別捜査官も目を限界まで見開き、ぽかんとしていた。
 数秒後、トーマス・ベネット特別捜査官は首を左右にぶるぶると振り、現実に戻ってくる。そして彼は捜索本部に設置されていた固定電話の前に立つと、ASIの番号に掛ける。彼は受話器に向かい、怒号に似た叫び声でこう言った。
「連邦捜査局のトーマス・ベネットだ! 至急、トラヴィス・ハイドンに繋いでくれ!! 急げ、早くしろ!」





 パトリックが乗せられた車は、どことなく見覚えのあるバンだった。アイスクリームのイラストが側面に描かれている、実に可愛らしいバン。だからこそパトリックは、胸糞が悪かった。
 それに車は市街地を抜け、鬱蒼とした山奥に入りつつある。奇しくもパトリックがエレベーターの中で思い浮かべていた国立公園の樹海の傍を、車は走っていた。
 しかし観光客向けに整備されたルートからは大きく逸れた道を進んでいる。おそらく、公園を管理するガイドやレンジャーに見つかれば叱責どころでは済まないような、立入禁止区域に侵入している気配がしていた。
 だが運転手にとって法律など些末な事柄でしかないのだろう。なにせ人命すら取るに足らないものだと思っていそうなのだから。
「それで、あなたは誰なんです。あなたがノエミでないことぐらい、こっちは分かっているんですよ」
 後部座席に乗せられた……というより、後部座席に投げ捨てられ、座席から転げ落ちぬようどうにか踏ん張っている状態のパトリックは、運転席に座る者に対して苛立ちに満ちた声をぶつける。すると運転席からは、低く渋い男の声が返ってきた。
「分かっていてもなお、付いて来たのか。複雑でよく分からん男だ、パトリック・ラーナーよ」
「複雑でよく分からんですって? 私はむしろ、その逆。超単純ですよ」
 病院から借りた物であるパトリックの車椅子は、病院の駐車場に捨てられた。そんなわけで今のパトリックには、脚の代わりとなるものがなかった。
 そのうえ、両手首は後ろで縛られている。縄ならまだ活路があったものの、手首にはめられていたのは最新式の複雑な仕組みの錠が採用された手錠だった。
 手錠の鍵はどこにあるのかも分からないし、またパトリックは手錠抜けのテクニックなど身に着けてはいない。状況は絶望的としか言いようがないだろう。
 しかし、そんなパトリックにも唯一自由に動かすことができるものがあった。口だ。
「見ての通り私は小柄だし、脚がない。抵抗したところで勝ち目がないことくらい分かり切っている。ですから、抗わないだけですよ。そうしたほうが私のような非力な人間は生存率が上がりますからね。ほら、それに今だって車椅子を奪われたものですから、後部座席のシートに横たわることしかできないんです。手首に手錠をはめられているし、他にどうすることもできない」
「であるからして、よく回るその舌をべらべらと動かしていると。そういうわけか」
「そうです。よく分かりましたね。私、こうして延々と喋り続けることがお仕事なんですよ。ぺちゃくちゃと、どうでもいいような与太話をし続けて、相手を苛立たせるんです。どうです、イラッとくるでしょう?」
「ああ、そうだな。それに喋り続けていればお前自身、恐怖も紛れる。そうであろう?」
「ご明察! 私、今とても怖いんです。見覚えのあるバンに覚えのある山奥。行先は寂びれたガレージですか? そこであなたは私を、椅子に縛り付けちゃったりするんですか? で、今度は私から何を奪います? 大腿、それとも両手? もしくは、両腕を肩から? あっ、または頭を金槌で叩いちゃいます? それで今度こそ、命を奪うとか」
「それがお前の希望か?」
「いいえ、痛いのは嫌いです。子供みたいに泣いちゃいますよ? でも痛みもなく、一発でころっと逝けるなら、それは本望ですね。あっ、そうだ。どうせなら私を」
「死を望む者に慈悲を与える趣味などない」
 そう言うと男は不気味な笑い声と共に、後部座席のほうに振り向いた。
「生かし続け利用することは……――やるがな」
 小一時間前までは“ノエミ”の姿に見えていたその人物は、今や白髭をたくわえた老人にしか見えなかった。
 上等な背広に、白髪交じりのロマンスグレーな頭。そして男のサンタクロースの如き白髭に、パトリックは見覚えがあった。
「あらあら、まあまあ。さっきまではノエミに見えていましたけど、まさか正体があなただなんて夢にも思っていませんでしたよ。エズラ・ホフマン副長官?」
 老人はブラッドフォード長官の仇、エズラ・ホフマン副長官だった。
 ちっ、とパトリックは不機嫌そうに舌打ちをする。するとエズラ・ホフマン副長官は、髭の下に隠れている口角を吊り上げた。それから彼は前を向くと、ハンドルを回しながらこう言った。
「アーサーは実に厄介だ。手綱を握れない暴れ馬も同然。その暴れ馬が新たに迎え入れたのは、従順でない道化……。ディナダンの名に恥じない男だ」
「お褒めに預かり光栄です、ホフマン副長官。ところで、あなたは誰なんです? エズラ・ホフマンという名前すらも、本名じゃあないのでしょう……?」
 太いゲジ眉を顰めるパトリックは、運転席に座る背中を睨みつける。そんなパトリックは苛立ちと恐怖や焦燥をどうにか抑え付け、冷静さを保とうと必死に努力していた。
 精神衛生という環境からみれば、このバンの中は最悪だ。閉ざされた密室の空間に、暗殺犯といるのだから。誘拐されたというこの状況もマズい。抗う手段がないことも最悪。ただでさえ極限状態だというのに、加えて周囲の環境が嫌でもパトリックの昔の記憶を思い起こさせる。少し前までは頭の奥底に封印していた凄惨な記憶が、気を抜いた瞬間に襲いかかってくるのだ。正直なことを言えば、現実からも記憶からも逃避したい気分だ。
 だが、逃避するわけにはいかなかった。逃げて無の状態になったとき、その瞬間に何が起こるのかが分からない。だからこそ怖かったのだ。
 パトリックの予想が正しければ、きっとその時に彼は殺される。抗うことも、喋ることも放棄した瞬間に、あっさりと殺されるだろう。もしくは、死ぬよりもずっと酷いことが待ち受けているかもしれない。そして今度こそ本当に、再起不能なまでに壊されるだろう。
 そんなことは、もう嫌だった。今だって、首の皮一枚でどうにか自分を繋ぎ止めている状態だというのに。これ以上の何かに耐えられる自信なんて、彼にはない。
「その言葉から察するにあなたは、サー・アーサーをご存知なのですよね。それに私の諸々の事情も、概ね把握しているようだ。なら、あなたは特務機関WACEの関係者ですか?」
 パトリックは毅然とした口調で、運転席の背中に問い掛ける。しかし後ろで縛られているパトリックの手は、緊張からひどく震えていた。
 するとエズラ・ホフマン副長官は、乾いた嘲笑を含んだ声で言う。
「関係者も何も、特務機関WACEは元老院の配下だ。そして我は元老院を成す一柱」
 その瞬間、パトリックは心臓の鼓動が一瞬飛んだのを感じた。驚きのあまり、時間が制止したように感じられたのだ。
 エズラ・ホフマン副長官が“元老院”と関係があることについては、アイリーンの口から曖昧に語られていた。その点については、別に驚いていない。しかし問題は別だ。
 パトリックは知らなかった。特務機関WACEが元老院と繋がりを持っていたことを。それも配下の機関だなんて話は、初耳だった。 
 後部座席のシートに横たわるラーナーからは、男の背中しか見えなかった。それでもラーナーは分かっていた。運転席に座る男が、笑っていることを。
「……WACEが、元老院の配下? まさか、そんなわけが。WACEは、あんたらの罪を暴こうと……」
 気がつけば手だけにとどまっていた震えが、全身に広がっていた。運転席の男は、怯えて混乱して震える小男をせせら笑っていた。パトリックは遂に口を閉ざし、黙り込む。抵抗することを諦めたのだ。
 WACEが、元老院の配下だったなんて……。パトリックは信じていたものに裏切られたような気分になっていた。
「憐れだ。自分自身、そう思うだろう。パトリック・ラーナーよ」
 もう止めてくれ。これ以上、何も聞きたくない。
 限界を迎えたパトリックが、両瞼を閉ざそうとした瞬間だった。視界にかすみが掛かり、バンの中に薄靄(うすもや)が立ち込める。やがて誰も居なかったはずの助手席に人影が浮かび上がり、冷淡で抑揚のない男の声が聞こえてきた。
「手綱を握れない暴れ馬が直々に出向いてやったぞ。喜べ」
 霞が消え、薄靄が去る。視界は晴れた。そしてパトリックは、助手席にいつの間に座っていた男の背中を見つめる。
 枯草色の髪と、イカついサングラス。それと真っ黒の背広。神出鬼没のサー・アーサーの登場だった。
「貴様の言うとおり、私は実に厄介な暴れ馬だ。誰の言うことも一切聞かず、人を背中から振り落とすことが大好きで堪らない。おまけに落馬した人間をわざと踏みつけ、致命傷を負わせる。厄介で凶暴な、暴れ馬だ。獰猛な猟犬さえ、暴れ馬には畏れをなす」
 アーサーはそう言いながら、鼻で小さく笑う。そんな彼の手には、九ミリ口径の拳銃が握られていた。
 そしてアーサーは拳銃をちらつかせながら、副長官に言い放った。「私は貴様の配下ではない」
「……己、アーサー……!」
「そして私の名は“アーサー”でもない。その名で呼ばれることは不愉快だ。それを貴様もよく知っているはず。そうだろう、ケテル」
 ただならぬ殺気を発するアーサーに、副長官は動揺していた。その様子を、動けないパトリックは一言も喋らずに傍観していた。そんなパトリックの頭には、もう馬鹿らしい考えなど残っていなかった。
 今、アーサーが言ったことが全て。アーサーのような人物が、エズラ・ホフマン副長官の言いなりになるとは思えなかったのだ。
 仮に特務機関WACEが元老院の支配を受ける機関であったとしても、魂まで縛られるかは別の話だ。下僕が、必ずしも従順な下僕であるというわけではないはず。
 そしてアーサーは殺意に塗れた声で、エズラ・ホフマン副長官に言う。
「私は、私だ。ペルモンドのようにはいかない。私は貴様の所有物でなければ、貴様と何らかの契約を交わした覚えもない」
 アーサーは九ミリ口径の拳銃を副長官の額に押し当てる。そしてアーサーは撃鉄を起こし、無表情で言い放った。
「私はあくまであのカラスの眷属(けんぞく)だ。私を従えたければ、先にあのカラスを屈服させることだな」
 拳銃の引き金に、アーサーの人差し指が触れる。それと、ほぼ同時だった。後方から、パトカーのけたたましいサイレンの音が聞こえのは。
『連邦捜査局よ! そこのバン、止まりなさい!』
 拡声器を通したノエミの声も、後ろからは聞こえてきていた。
 その瞬間、何を思ったのかアーサーは拳銃を振り上げる。そして彼は拳銃のグリップの底で、副長官の後頭部を殴りつけた。武器は小型の拳銃。とはいえ鉄の塊であることには変わりなく、その威力は侮れない。鈍く重い音が鳴り、副長官はすぐに気を失った。……というより、死んだかもしれない。
 それからアーサーは車を乱暴に停止させると、煙の如く消え失せる。パトリックに一瞥もくれることなく、彼は居なくなった。
「……サー・アーサー、一言ぐらい何か声を掛けてくれてもいいじゃないですか……」
 パトリックは消えていくアーサーを見送りつつ、そう愚痴を零す。
 それからしばらくするとサイレンが近くなり、連邦捜査局の捜査官たちの声が間近に迫ってきた。そして数々の声の中でも、真っ先にパトリックに近付いてきたのはノエミの声だった。
 後部座席横のドアがこじ開けられ、パトリックの顔に直接、かなり傾いた陽光が射す。眩しいと目を細めたパトリックの視界に、逆光で翳った本物のノエミが映り込んだ。
「リッキー! あぁ、良かった。無事だったのね!」
 パトリックを見るノエミの目は、安堵したかのよう。だがそれも、運転席で気を失っている――または死んでいる――男を見るなり、一変する。
 ノエミはエズラ・ホフマン副長官を指差すと、パトリックに訊ねた。「ねぇ、リッキー。副長官はどうして気絶してるの?」
「神風が吹いたんじゃないですか?」
「……ってことは、イーライ・グリッサムのときと同じって人?」
「それについては、ノーコメントです」
「で、どうしてあなたは副長官に誘拐なんかされたの?」
「それはこっちが聞きたいことです。どうして私なんでしょう?」
 きょとんとわざとらしく首を傾げるパトリックは、ノエミの目を見つめ返す。神風が吹いたというコメントについては、まあ、その、アレだが……――誘拐された理由が分からないというのは、本当のことだった。
 副長官が言ったことといえば精々、アーサーが暴れ馬だということと、自分が元老院を構成するうちの一人であるということくらい。パトリックがどうのこうの、という話は出てこなかった。……それは本題に移る前に、アーサーという想定外の邪魔が入ったからなのかもしれないが。
 副長官は何をしたかったのだろうか。パトリックは考えようとするが、答えなど見つかるわけもなく。苛立ちから口をへの字にする。するとノエミが、パトリックに手を差し伸べてきた。
「どうせ、そんな体だから一人じゃ立てないでしょう? だからこのノエミさまが、特別におんぶして、パトカーまで運んで行ってあげる」
 ノエミはそう言いながら、悪戯好きの少女のような笑顔を浮かべた。完全なる子供扱いにパトリックは少しムッとしてみせたが、素直にノエミの手を取った。そして彼は言う。それじゃお言葉に甘えて、と。
 ノエミは掴んだパトリックの手をぐっと引っ張り、彼の上半身を起き上がらせる。それから彼女はパトリックに背を向けた。
「どうしたの、リッキー。ほら、早く」
「……ああ、はい」
 元同僚の、それも女性の背中に……。そう思うと、恥ずかしさと遣る瀬無さが込み上げてくる。けれども、こんな状況だ。仕方がない。
 パトリックは恥ずかしさを殺し、意を決してノエミの背中にしがみつく。ノエミはひょいっと立ち上がってみせた。すると彼女は言う。
「ねぇ、リッキー。あんた、体重が軽過ぎない? 姪っ子を抱っこした時よりも、ずっと軽い気がするんだけど。ちゃんと食べてるの?」
「考えてもみて下さい。私は義足を着用していたとしても、身長は一四七㎝しかないんですよ。そして今は義足もないしんです。そりゃ軽くもなりますって」
「あー、そういうことね。なるほど。……でも、だとしても、軽い気がするのよねー」
 ノエミは実に軽やかな足取りで、ずんずんと進んでいく。ノエミの背中で、パトリックは疲れたような溜息を吐く。するとノエミが訊いてきた。「ねぇ、リッキー。エズラ・ホフマン副長官って、何者だと思う?」
「何者って訊かれましても……」
「エリーヌさんが言ってたの。あなたを連れ去っていったのは私だ、って。でもその時間帯、私は連邦捜査局の本部に居たのよ? これってブラッドフォード長官が殺害された時と、まるでそっくり。副長官が別人になりすましてて、私たちに罪を被せようと……」
「副長官は、光学迷彩でも使えるのでしょうか」
「でも光学迷彩って姿を消すことは出来るけど、別人の姿になり変わることは出来ないでしょう? 声や身長まで変えられないはず。だとしたら、彼は何者?」
 ノエミの問いに、パトリックは黙りこくる。ノエミがそれ以上、追及してくることはなかった。


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