ヒューマン
エラー

ep.08 - Penetrate

 ペルモンド・バルロッツィ高位技師官僚。彼は倒れる直前に、こんなことを言っていた。
『ブラッドフォードに言え、以下をモーガンに伝えろと。イェラ実験、あれはケテル肝入りのプロジェクトだ。サンレイズ研究所、XXX(スリーエックス)フロアに……――』
 パトリックは高位技師官僚の意向に従い、高位技師官僚からの伝言をブラッドフォード長官のみに託した。モーガンという人物に伝えて欲しい、という一言も添えて。しかし伝言を託してから丸二日が経過したが、ブラッドフォード長官からの反応は何もない。
 もしかしたら事態はパトリックの手を離れた場所に移り、パトリックは無関係の立場になったのかもしれない。……そんな期待を僅かながらに抱きながら、パトリックはこの日、休日を利用してキャンベラ国立大学病院に来ていた。
「あの、ドクター・デイヴィス……」
「リッキー。私はあなたに、何度も忠告したはずよね」
 といっても、今回は完全なる私用だ。
 高位技師官僚がまたこの病院の集中治療室に戻されたという話は聞いているが、別に彼の様子を見に来たわけではない。ましてや、カルロ・サントス医師に会いにきたわけでもなかった。
 診察室の中、患者用の椅子に座るパトリックは、ドスの利いた低い声で喋る中年の女性医師を前にうろたえる。化粧っけのないベテラン風の医師は冷めた目でパトリックを見つめながら、こう言った。
「適度に歩くことは良いけれど、三〇分以上の運動はダメ。激しい運動は絶対にダメ。ジョギング、マラソンは以ての外。縄跳びやジャンプも禁止。階段の利用もできれば避けること。何故なら」
「体に負荷がかかるから、ですよね。そして私の義足は競技用のものではないため、運動は義足にとっても負荷になり故障の原因にもなると」
「分かっているのに、どうしてジョギングなんてやったのかしら」
「……すみませんでした」
 パトリックはそう謝罪すると肩を竦め、頭を少し下げる。そんな彼は、かれこれ十五年もお世話になっている整形外科に来ていた。
 そしてパトリックは、長い付き合いの整形外科医に言い訳を――ないし嘘を――零すのだった。「むしゃくしゃして、つい夜道を走っちゃったら、このザマで……」
「創部は擦れて発赤してるし、義足の関節部もひどいわ。これは――修理が必要ね。それに、ここ。触ったら痛むんじゃないの?」
「……イタッ!」
「はぁ……。念の為、しばらくは弾性包帯を巻いておくこと。巻き方は分かるわよね?」
「はい。あっ、でも包帯、家にあったかな……」
「なら帰りにでも薬局に寄っていきなさい。それで、何時間ぐらい走ったの?」
「えっと、たしか二時間ちょいだった気がします」
「あー、呆れたわ。……車椅子は嫌だ、義足にしてくれって言ったのは、あなたなのよ? 言いつけを守ってくれないと、義足を外すことになるわ」
「それは困ります!」
「なら、ちゃんとして。それと、病院のを貸してあげるから、二週間は車椅子で生活しなさい。来週の土曜日、午前九時。膝にシリコンを入れる手術をするから、スケジュールを確保しておくように。念の為に、二日間。土日の両方を空けておくこと」
 義足を外したことにより、久々に陽の目を浴びたパトリックの脚。膝関節のあたりは両足共に真っ赤に腫れていた。
「……分かりました」
 パトリックは自分のスケジュール帳を取り出し、来週の土曜日と日曜日の欄を見る。今のところ、予定は何も入っていない。空欄の土曜日に、スケジュール帳に挿んであった赤ペンで、パトリックはレ点を記入する。その横に『整形外科、手術』と書いた。そして日曜日の欄には『入院?』と書きこんだ。
 そうして書き込みをするパトリックの横に、看護師が車椅子を運んでくる。それは体重移動式の、手を使わずに動かせるタイプのものだ。
 看護師の手を借り、パトリックは椅子から車椅子の上に移る。そうして約十五年振りに乗った車椅子に、パトリックは複雑な表情を浮かべた。
 体重移動式のものにある独特の座り心地の悪さ。それと、肘置きに書かれた『ジュニア用』の文字。これには思わず苦い笑みを零してしまう。
 すると整形外科医が言った。
「私の記憶が正しければ、あなたの身長体格は十歳の頃となんら変わってないはず。せいぜい、筋力が付いたか否かの差ね。顔も変わってないし。声は、少しだけ低くなったかしら?」
「……そうです。身長、体格。何も、変わっていません」
「だから、その車椅子を使って。体格に合わないものを無理に使うと」
「体を痛める。分かっています。ただ、車椅子になるのかと思うと……」
「ええ、そう。けれど今度ばかりは、あなたの落ち度よ。責めるなら、うっかり夜道を走った自分を責めなさい」
「はい。本当に、その通りです……」
 パトリックは竦めていた肩を落とす。そうして上半身を前に傾けさせた。すると体重の移動に反応した車椅子が、少しだけ前に動く。パトリックは慌てて体勢を立て直した。
 体勢を立て直すと、それに反応した車椅子は動きを止めた。そしてパトリックは記憶を頼りに、車椅子の動きを完全に止めるロック機能を掛ける。肘置きの裏側、そこに取り付けられたボタンを押すと、カチッ……という音が鳴り、車椅子のタイヤが動かなくなる。
 すると、パトリックの様子を見ていた医者が、ふと独り言を洩らした。「……なんだか、調子が狂うわ」
「どうかされましたか?」
「あぁ、その。見た目はまるで変わっていないのに、中身は随分と変わったわねーって思って。十五年前は手に負えない問題児だったあなたが、今や立派な大人になって……。おばちゃん、どう接していいのかが分からないわ」
 診断書を書きながら、医者はそんな言葉を零す。パトリックは十五年前の自分を思い返しながら、過去のことを恥ずかしがるように鼻の頭を掻いた。それから、少しだけ頭を下げる。「その節は、ご迷惑をおかけしました」
「本当に、いい迷惑だったわ。傷が塞がるほうが先か、舌を噛み切って死ぬほうが先か。あなたには色々と、ハラハラさせられたものね」
「……すみません」
「後にも先にも、あなただけなのよ? 整形外科の患者で、猿轡(さるぐつわ)を噛ませられていたひとなんて。精神病棟でもないのに、十歳の男の子が……――あの時ばかりは辛かったわ。まっ、あんな事件の後だったからね。あれだけ荒れていたのも仕方無いっちゃ、仕方無いわよ」
 パトリックの中にある当時の記憶はあやふや。だが、この病院のベッドの上に居たとき、自分には拘束具が着けられていたことは覚えていた。
 あの事件の直後、パトリックはひどく混乱していた。いや、錯乱していた。誘拐され、山奥で両脚を叩き折られて。連邦捜査局に救出されたかと思えば、次は運び込まれた病院で医者に大腿切断を行う――膝関節より下を放棄する――と言われたのだから。
 そうしなければ壊死が広がり、君は死ぬぞ。医者は脅すような口調でパトリックにそう言ってきた。けれども錯乱したパトリックは医者に向かってこう言った。だったら死んだほうがマシだ、と。そのとき、パトリックの言葉を離れた場所で聞いていた母は、ひどく泣いていた気がする。姉のミランダには頬を一発打たれた記憶がある。
 そして父は医者に言っていた。息子をお願いします、と。
「当時のことはあまり覚えていないのですが……荒れていたような気もします」
「荒れていたわよ、とてもね。ベッドの上でのた打ち回るし、ベッドから落ちるし、若い女性の看護師に怯えるし、夜は叫ぶし。あなたの居る病室は、ナースコールが鳴りっぱなしだったわ。精神病棟に移したほうがいいんじゃないのかって、本気で考えさせられたくらい、あなたは酷かった」
「……記憶にないですね」
「まっ、それも仕方ないわ。――それで、リッキー。仕事は何をしてるの?」
「連邦捜査局の捜査官です」
「へぇ、捜査官……――連邦捜査局の捜査官!?」
「といっても今はデスクワークのほうです。もう現場には出てません」
「つまり、以前は現場に出ていたってことね?」
「そうなりますね」
「いっぱい走ったわね?」
「……はい」
「なるほど。二時間程度走っただけで、あそこまで関節部が損耗するとは思えなかったのよ。積もり積もったものってことか。これで納得したわ。……義肢装具士に伝えておかなくちゃ」
 十五年前のあのとき。父親の一言により、パトリック本人の意思に関わらず手術は行われた。全身麻酔をかけられ、パトリックが意識を失くしているうちに、彼の両脚は切り落とされた。そしてパトリックは、麻酔では抑えられない焼けるような痛みと、もう二度と自分の足で立って歩くことができないという絶望と共に、目を覚ましたのだ。
 パトリックにとって車椅子は、あの日に感じた絶望の象徴だった。だからこそ出来れば乗りたくはないのだが……――今回ばかりは自分のせい。受け入れるしかないのだろう。
「それじゃ、リッキー。痛み止めを出しておくから、受付で処方箋を貰って、それから清算を。それじゃ、来週の土曜日の九時にまた会いましょう。三十分前には病院に来てちょうだいね」
「はい。ありがとうございました」
 パトリックは再び、医師に向かって頭を下げる。すると医師は小皺が目立つ笑みを浮かべて、パトリックに手を振った。
 パトリックは車椅子のロック機能を解除すると、ぎこちない動作で慣れない車椅子を操作し、診察室を後にする。それから受付で払うものを払い、受け取るものを受け取ると、彼はくるりと後ろに振り返る。
 ――そのとき、パトリックの前には険しい顔をしたノエミが立ちはだかっていた。
「ノエミ? どうして、あなたがここに……」
「こんにちは、リッキー」
 ノエミは無表情で言う。すると彼女は手錠をちらつかせたあと、小声でパトリックに告げた。「……私たちもことを荒立てたくないの。だから、大人しく一緒に来て」
「一体、何の真似ですか」
 もしや、バルロッツィ高位技師官僚を拉致し、尋問したあの件の真相がバレたのか? もしくは、バルロッツィ高位技師官僚を撃った犯人を、パトリックが知っていながら黙っていたことがバレたのか? なら共謀罪か? それとも……――
 パトリックは思い当たる節を片っ端から思い浮かべながら、心の中で弱音を吐く。今度こそ終わりだ、WACEなんていう組織に関わったばかりに……と。
しかしノエミは、パトリックの予想の斜め上を行く言葉を放った。
「――パトリック・ラーナー。あなたを、バーソロミュー・ブラッドフォード氏の殺害容疑で逮捕する」
「……今、なんて?」





「……それで、私の容疑は晴れたということでよろしいですね?」
 一時間半に及ぶ取調室での不毛な尋問のなかで、今日の彼自身の足取りおよび行動を正直に全て話したパトリックの身柄は解放され、彼は取調室を出ていた。
 そして彼が今居るのは連邦捜査局内にあるトーマス・ベネット特別捜査官のオフィス。被疑者ではなく重要参考人として連邦捜査局内に留め置かれ、トーマス・ベネット特別捜査官から改めて聴取を受けているというかたちだ。
 そんなパトリックの前には、頭を抱えるノエミと、腕を組むトーマス・ベネット特別捜査官の姿がある。そしてパトリックの横には、急遽ASI本部から連邦捜査局本部に駆け付けてきた直属の上司、トラヴィス・ハイドン部長の姿もあった。
 うんざりとした顔のトラヴィス・ハイドン部長は、トーマス・ベネット特別捜査官を睨むような目で見る。そしてトラヴィス・ハイドン部長は嫌味を言った。
「うちの部下を、裏も取れていない証拠を理由に逮捕するだなんて。連邦捜査局も落ちぶれたもんだ。それに俺の部下を逮捕するなら、上司である俺に事前に通告するのが礼儀ってもんじゃあないのか」
 その言葉に、トーマス・ベネット特別捜査官は反論する。
「しかし、だ。トラヴィス、この映像を見てみろ。どっからどう見たって、こりゃパトリックだ。身長といい体格といい、なんといい。それに顔は、どう見たってパトリックだろ?」
 そう言いながらトーマス・ベネット特別捜査官はタブレット端末を操作し、パトリックを逮捕するに踏み切った決め手だという証拠映像を、トラヴィス・ハイドン部長に見せた。しかしトラヴィス・ハイドン部長は映像を見るなり、ハッと鼻で笑い飛ばして見せる。「お前はラーナーの姿をよく観察していなかったようだな。この映像に映っている、ラーナーに似た男の歩き方をよく見ろ。背筋をしゃんと伸ばして、普通に歩いてるだろう?」
「ああ、まあ。そうだな」
「知っての通り、ラーナーは例の事件以降、義足で生活している。本物のラーナーは脚を庇うように歩くんだよ。しかし、この映像の男を見てみろ。健常者の普通の歩き方だ。どっからどう見てもこいつはラーナーじゃない」
 トラヴィス・ハイドン部長の言葉に、どこか引っ掛かるものを感じつつも、パトリックはその言葉に頷いて見せる。すると頭を抱え込み、黙りこくっていたノエミが、久しぶりに口を開いた。「あーっ、もう! チーフ、この事件どうなってるんですか!」
「そりゃ俺の台詞だよ、ノエミ。監視カメラの映像に映ってるのはどう見てもパトリックだってのに、当の本人のアリバイは完璧。ブラッドフォード長官が殺害された時刻、パトリックは病院の待合室に居たと受付係が証言したし、本人もそう言ってる。それに病院のカメラ映像にも、待合室のソファーで本を読みながら時間を潰しているパトリックが映っている。脚を庇って歩く、本物のパトリックが」
「じゃあ、ブラッドフォード長官を殺した偽リッキーは、誰なんです?!」
「それを調べるのが俺たちの仕事だろう」
「……そうでした、チーフ。すみません」
 ノエミは眉間にぐーっと力を入れ、目元を強張らせる。それから彼女はパトリックのほうに向くと、彼にこう言った。
「とりあえず、あなたが犯人じゃなさそうで安心した。最近、あなたってなんか怪しい言動ばっかりだったし。この間の高位技師官僚の件も、どうしてあなたが彼を見つけられたのかが分からなかったから。もしかしたらって疑っちゃったの。……ごめんなさい」
 むっと不貞腐れたような顔をするパトリックだったが、ひとまず謝罪を受け入れることにする。パトリックは表情を和らげると、小さく頷いた。
 頷くと同時に、パトリックも反省する。ノエミの言う通り、彼は疑われても仕方がない言動を取っていた。それは事実だったからだ。
 そうしてパトリックは肩を竦めると、元上司であるトーマス・ベネット特別捜査官のほうに向く。それから彼は元上司に、このようなことを訊ねた。「それで。長官室の監視カメラ映像を見ることは可能でしょうか?」
「そうだな、お前は見ておくべきだろう。――これが事件当時の映像だ」
 トーマス・ベネット特別捜査官は、先ほどトラヴィス・ハイドン部長に見せていた動画をパトリックにも見せる。パトリックは、その映像を注視した。
 ――そんなこんなで突然起きた『ASI長官バーソロミュー・ブラッドフォード暗殺』という大事件に、連邦捜査局もASIも、その他行政府も大混乱に陥っていた。平静を装っている風なパトリックも、その実はかなり戸惑っていたぐらいだ。
 まして、彼には暗殺事件が引き起こされた理由に思い当たるフシがある。高位技師官僚から託され、ブラッドフォード長官に渡した伝言。事件の原因はもしかしてあの伝言なのではと、パトリックは感じていた。
「……」
 事件が起きたのは、パトリックがちょうど病院の待合室に居たとき。随分と長く待たされていたため、その空き時間を利用してブラッドフォード長官から渡された本のうちの一冊――リチャード・エローラという脳神経内科医が書き残した手記である――を読んでいた間に、ASI本部の長官室ではブラッドフォード長官が襲撃を受けていたのだ。
 犯人はパトリックに扮した、誰か。その正体に辿り着く手掛かりは今のところ一切なく、早々に手詰まりを迎えている。殺害に使われた凶器は、イーライ・グリッサムの死刑に使われる予定だったが、脱獄騒動に乗じて持ち去られ、行方不明になっていた薬品の三点セット――意識を奪う全身麻酔のチオペンタールナトリウム、呼吸を止める筋弛緩剤の臭化パンクロニウム、心臓を止めるための塩化カリウム――だったらしい。長官室の床に投げ捨てられていた三本のシリンジに記されていたそれぞれの品番から、確認が取れたそうだ。
 そしてブラッドフォード長官は全身麻酔で意識を失う直前に、監視カメラに向かって叫ぶように言っていた。
『ラーナー、全てを疑うんだ! 君を狙う刺客は、傍に潜んでいる!』
 ブラッドフォード長官の最期の言葉から察するに、長官は自分を襲った犯人がパトリックでないことを分かっていたようだ。映像を見るパトリックは、ほっと胸を撫で下ろす。しかし同時に、言葉ではうまく言い表せない複雑な感情を煽り立てられていた。
 そんなブラッドフォード長官の遺体は現在、検死局にある。バーンハード・ヴィンソンという監察医が検死解剖を行っていて、連邦捜査局はその結果を待っているところだ。
 なお連邦捜査局の検死官が見出した暫定の死因は、筋弛緩剤による窒息死。塩化カリウムが投与される前にブラッドフォード長官は息絶えていたということらしい。
「それにしてもよ、リッキー。あなたとブラッドフォード長官の関係って何?」
 監視カメラ映像を見終えたパトリックが、押し寄せる後悔から僅かに背中を丸めたとき。ノエミが彼にそう問いかけてくる。彼女が続けてこう言った。「前にあなた、特命の任務がどうのこうのって言ってたけど……」
「すみません、機密事項です」
 パトリックは即座に回答を拒む。そしてパトリックが視線を上げたとき、直属の上司であるトラヴィス・ハイドン部長と目が合った。
 部長は物言いたげな目をパトリックに向け、何かの合図を送るかのように指を動かす――局に帰還次第、その内容を報告しろというサインなのだろう。そこでパトリックは痛感した。長官の一存でパトリックは動いていた以上、長官亡き後は局内にも本当の意味での“味方”は居ないということを。
 パトリックは部長の目を真っ直ぐと見返し、そして静かに瞼を伏せる――部長が言わんとしていることを理解したという意思表示だ。その後パトリックは目を開くと、再度監視カメラ映像に視線を落とす。彼は食い入るような目で、映像の中で力尽きる男の影を見届けていた。
 家庭を持たず、アルストグランに全てを捧げ、果て果てに『穎悟の鷲(ワイズ・イーグル)』と渾名された英傑の最期が、死刑囚に処される薬殺刑と同じだなんて。これ以上に、屈辱的なことがあるのだろうか? ぐっと拳を握り締めたパトリックは、唇を固く結ぶ。
 アルストグラン秘密情報局長官、バーソロミュー・ブラッドフォード。彼とパトリックが関わった時間は、ごく僅かなものでしかない。ほんの数回、数えるほどだ。それでも、分かることはある。
 バーソロミュー・ブラッドフォードという男が、どれだけ偉大だったのか――
「……」
 床に倒れた男と、彼を死に至らしめた点滴たちをそのままに、ひどく歪んだ笑みをパトリックによく似た顔に浮かべる犯人は、静かに監視カメラの死角へと消えていく。映像はそこで終わった。
 そうしてパトリックは再び顔を上げる。するとそのとき、ノエミが拳銃を構えた。トーマス・ベネット特別捜査官も、腰に差していた拳銃を取り出す。
 そしてトーマス・ベネット特別捜査官は、オフィスにいつの間にか入り込んでいたサングラスを着けた黒衣の男に、銃口を向けた。
「そこで止まれ! そして両手を上げろ! ……ったく、セキュリティは何をやってるんだ!!」
 ノエミも拳銃を抜き、トーマス・ベネット特別捜査官と同じ対象に銃口を向けた。しかし銃口を向けられている黒衣の男は、あくまで平然と佇んでいる。
 銃口など気にもしていない様子な黒衣の男を見るなり、パトリックは黙りこくり、息を呑んだ。そしてトラヴィス・ハイドン部長も額に手を当て、天を仰ぐと呟く。
「……なんてことだ……」
 銃口を向けられた黒衣の男は、しかし何も感じていないかのような薄ら笑いを口元に浮かべながら、両手を上げる。そして彼の手からは一封の書簡が落ちた。
 トーマス・ベネット特別捜査官は黒衣の男にゆっくりと近付くと、男の手から落ちた書簡を拾い上げる。その一方、銃を構える捜査官らの背後で待機していたトラヴィス・ハイドン部長は捜査官二人に言った。「お前たち、銃を下ろせ」
「しかし、この男は明らかに怪しッ――」
「特務機関WACEのお方だ。サー・アーサー。名前ぐらい、聞いたことはあるだろう?」
 トラヴィス・ハイドン部長がそう言うと、トーマス・ベネット特別捜査官は静かに銃を下ろす。ノエミも遅れて、ゆっくりと拳銃を下ろした。
 そして男――特務機関WACEの隊員、言動も目的も謎に包まれた上官(サー・)アーサー――は手を下ろしながら、着けていたサングラスを静かに外す。サングラスの下に隠れていた両瞼は、しかし閉ざされていた。
「サー・アーサー……って、高位技師官僚が言ってたあの人?」
 ノエミはパトリックに視線をやると、彼に問う。だがパトリックは答えなかった。
「……そんな名前は今まで一度も聞いたことがないな」
 トーマス・ベネット特別捜査官はそう呟いた。するとトラヴィス・ハイドン部長は呆れたように溜息を吐く。
「おいおい、待ってくれ。お前たち、本当に知らないのか?」
 トラヴィス・ハイドン部長が呆れた目を捜査官二人に向けていた頃、黒衣の男アーサーを見るパトリックは目を丸くしていた。サングラスを外したアーサーの顔、それはパトリックが勝手に抱いていたイメージとかけ離れていたからだ。
 パトリックは今この瞬間まで“アーサー”という人物のことを、こう思っていた。かなりイカつい黒いサングラスを常に着用した、何を考えているのか分からない男だと。ワイルドなオールバックの髪型も相まって、アーサーはかなりキツい顔貌をしているのではないかと思っていた。だがその認識がたった今、崩れた。
 サングラスが取り払われた結果、露わになったのは人が好さそうな温厚な雰囲気だった。薄ら寒く思えていた笑みも、サングラスが無くなってしまえば穏やかそうな微笑みに見えなくもない。
 骨ばった輪郭や少し面長な顔、精悍で自我がそこそこ強そうな眉と、硬く鋭い印象を与えるパーツこそあるが。不思議と、それらは温和なオーラに包まれて穏やかな佇まいを演出している。少なくとも、悪い印象は抱かない目鼻立ちをしていた。
 そしてパトリックは、いつかアイリーンが言っていた『見た目だけは良いから』という言葉を思い出し、納得する。
 アーサーは背も高く、顔も悪くない。サングラスひとつで印象も大きく変えられる。たしかに彼は映える人物であり、組織の顔役を務めるには打ってつけの存在なのだろう。だが――
「……あ、あ、アーサー……」
 しかしアーサーの瞼が開いたとき、またパトリックの中で彼への評価が変わる。パトリックはブルリと背筋を震わせると、アーサーからすかさず目を逸らした。アーサーの目に、彼は寒気を覚えたのだ。
 アーサーの目付きが、獲物を物色するコヨーテのように鋭利だったことも一因だが。一番の理由は、その瞳だろう。
 サングラスの下に隠れていたアーサーの蒼い瞳には、瞳孔が存在していなかった。白い眼球の中には、蒼白く輝く虹彩が嵌めこまれているだけ。その眼球に黒い点は空いていなかった。
 それどころか、虹彩のように見えたその蒼白い部分こそが瞳孔であるようにも、パトリックには思えていた。部屋の眩しさに合わせて調整でもしているかのように、その蒼白い部分が僅かに収縮していたのだから。
 背筋が凍えるような寒気。未知の存在を前にした恐怖を、パトリックは感じていた。
「それで、アーサー殿。この度のご用件は?」
 そうしてパトリックが背筋を震わせていたとき。トラヴィス・ハイドン部長はまるでこういった場面に慣れているかのように、自然にアーサーへ対応していた。
 アーサーのほうもまた、自然に答える。アーサーは再度瞼を閉ざしながら、こう言った。
「その書簡に書かれている通りだ。バーソロミュー・ブラッドフォードの遺言に従い、トラヴィス・ハイドン、君が長官代行となる。正式な通達は追って行われるだろう」
「定められた手順に従うのなら、副長官が代行に繰り上がるのでは? なぜ、私が――」
 アーサーの言葉に、トラヴィス・ハイドン部長が質問を投げたときだ。アーサーは外したサングラスをまた着用すると、このように答えた。
「バーソロミュー・ブラッドフォードを殺害したのは、ASIの副長官を務めていた男、エズラ・ホフマン。イーライ・グリッサムの脱獄を幇助したのも、その男だ。別視点のカメラから犯行を捉えた映像を見せよう。――ルーカン、例のものを出せ」
 アーサーがそう言うと、トーマス・ベネット特別捜査官が持つタブレット端末がひとりでに動き出す――アイリーンが遠隔操作でもしているのだろう。そして端末の液晶画面に、別視点から長官室を撮った映像が映し出された。
 トーマス・ベネット特別捜査官は映像を見る。それからトラヴィス・ハイドン部長に同じものを見せ、尋ねた。
「この男、ホフマン副長官だよな……?」
 トラヴィス・ハイドン部長は無言で首を縦に振り、頷く。続けて、映像を覗き見るノエミが言った。
「さっきの映像のリッキーと、この映像の副長官は全く同じ動作をしていますね。しかしどうして、別人に見えていたんでしょうか? それに、どちらが本物の映像なのか……」
 するとアーサーが小さく笑いながら言う。
「どちらが本物であるか。それを証明する方法は、どこにもないだろう。君たち連邦捜査局がASIから提供を受け、入手した先ほどの映像は、ASIが管理する正式な監視カメラのものだ。しかしASIは、エズラ・ホフマンの手中にあったともいえる組織だ。改竄が行われている可能性がある。だが私たち特務機関WACEが独自のルートで入手したものも、私たちが手を加えている可能性がある」
「なら映像を科学捜査班に回して、手を加えられた痕跡があるかどうかを調べさせれば」
 ノエミはアーサーの言葉にそう返すが、しかし彼女の言葉をパトリックが途中で遮る。パトリックはこう述べた。
「この場合、重要なのはどちらの証拠を信じるかです。信じれば、その証拠は真実になります。本物かどうかの判断は、後世の者に委ねればいいことです」
「法学部卒の人間とは思えない発言ね、リッキー……」
 眉間にしわを寄せるノエミは、訝るようにパトリックを見る。対するパトリックは笑顔でこう返した。
「法学部の出身だからですよ。それに、私は刑務所なんて行きたくありませんもの。ホフマン副長官犯人説を推させていただきます」
 すると、パトリックらの横で困ったように蟀谷を拳でぐりぐりと押していたトーマス・ベネット特別捜査官は、うぅ~んと唸り声を上げる。そして彼はトラヴィス・ハイドン部長を見ると、低い声で言った。
「この件、俺の手には負えないと言いたいが。俺は俺で、長官から直々にこの件にあたるよう任命されちまったからな。……トラ、お前のダチであることを悔やんだのは今日が初めてだよ」
 そうして肩を落とすトーマス・ベネット特別捜査官が言葉の終わりに溜息を洩らしたとき、黒衣の男アーサーはどろんと煙のように姿を消す。それは用が済んだとでも言わんばかりの、あまりに早すぎる撤収だった。


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