ヒューマン
エラー

ep.05 - Tumult

 早くも、パトリックの自宅が事件現場となってから二週間が経過していた。そして事件は何も解決されないまま、脱獄犯は警官により射殺されたという偽情報が世に流され、事件は幕を閉じて行った。
 パトリックの自宅に連邦捜査局の捜査官たちが駆けつけた、あの後。すぐに作戦本部は畳まれたらしい。ノエミは強引ともいえる決着に不平不満を零している。苛立つ彼女は、何かを知っている素振りを見せていたパトリックの携帯電話に何度も何度も連絡を入れており、彼の着信履歴には『ノエミ・セディージョ』の名前が数十件と並んでいた。
 しつこすぎるノエミの追及。それは彼をノイローゼに追い込んでいる。とはいえ、パトリックがノイローゼ気味になっていた理由はそれだけではなかった。
「リッキー、朝食はちゃんと食べたのか」
 お節介な友人、カルロ・サントス医師。過保護と思えるぐらい干渉してくる彼に、パトリックは悩まされても居たのだ。
「今、済ませたところですよ。というか、それ……わざわざ家に押しかけてまで訊くことですか?」
 朝っぱらから新居に押しかけてきた友人を家の中に迎え入れつつ、パトリックは友人にそう毒突く。しかし友人は真剣な顔でこう言うだけだった。
「今のお前が危ういと感じてるからだ。こんな短期間に、様々なトラブルが続けて起きたんだぞ。ただでさえお前は不安定だってのに、そこに決定打を加えかねない爆弾が投下されたんだ。自宅で人が殺されるっていう爆弾が」
「だからって、押し掛けてこなくても……」
 パトリックが事件現場となった家を売り払う手続きを済ませたのは、昨日のこと。五日ほどの安ホテル暮らしを経たあと、ASIが用意してくれた住居に移り住んだ。それなりに綺麗なアパートの一室、前の家よりも広くて快適な部屋に今は寝泊りしていた。
 なにかと口うるさいアイリーン、彼女との共同生活を続行する羽目になったことを除き、今の家にはパトリックも文句がない。広いベッド、使いやすくて広いキッチン、軋まないソファー、オートロック式の玄関ドアなど。備え付けの家具も上等なものばかりである。
 そんな新居にどういうわけか今朝は、カルロ・サントス医師がやってきていた。
「リッキー。お前、眠れてないんだろう。眠れたとしても、悪夢のせいで快眠とはいえない状態なんじゃないのか。顔色は最悪だし、目の下も真っ黒。――一回、受診しないか?」
 新居にずかずかと上がり込むカルロ・サントス医師は、パトリックにそんなことを言う。しかしパトリックは不愉快そうに顔をムッとさせるだけだ。
 そんなパトリックの様子に、カルロ・サントス医師は苦笑う。彼はため息混じりの声で、パトリックを諭すように言った。「俺たちは長い付き合いで、俺はお前のことをよく知っている。そんな俺からの忠告は聞いておいた方が良いとは思わないか」
「まるで子供の頃からの付き合いみたいな口ぶりですけど――誇張しすぎじゃないですか」
 そう言い返すパトリックは記憶を軽く辿る。友人、カルロ・サントス医師と出会ったときのこと。
 彼との出会いは大学時代、十八歳のとき。学生寮に入寮し、同じ部屋に組み分けられたときから、カルロ・サントス医師との付き合いは始まっている。……少なくとも、パトリックのほうはそう認識していた。
「学生の時に出会って、せいぜい八年目ですよ。竹馬の友じゃあるまいし」
 パトリックがそう言うと、カルロ・サントス医師の顔は何かを考えるような複雑な表情に変わる。それからカルロ・サントス医師は含みのあるセリフを言った。
「そうだな。まあ、そういうことにしておいてやるよ」
 低身長であるパトリックよりも圧倒的に背が高いカルロ・サントス医師は、パトリックの頭の上に右手を置く。それからパトリックの頭をわしわしと掴むように撫でた。
 やめてください、とパトリックはその手を払いのける。するとすぐにカルロ・サントス医師は子供扱いを止めたが、過保護な振る舞いはやめなかった。不安そうに眉尻を下げるカルロ・サントス医師は、パトリックにしつこく迫る。「とにかく、今のお前には不安要素しかない。にも関わらずお前は、平気な顔をして職場に行こうとする。医者である以上、俺はお前に休暇を取れと勧めなきゃならない」
「あの、カルロ。あなたは私の主治医では――」
「そうだ。俺はお前の主治医じゃない。それにお前は意固地で強情で、自分の意見をなかなか曲げないことも知っている。だから強制はしない」
 カルロ・サントス医師はしつこく押してきたかと思えば、スッと引いた。しかしパトリックが安心したのも束の間、カルロ・サントス医師は余計なお世話を焼いてくる。彼はパトリックの手を握ると、こう言った。「だから、マジでヤバくなったら俺に連絡しろ。分かったな?」
「ええ、はい。しますよ、いつかね」
「意地を張らないで、カウンセリングを受けろ。いつかは絶対に。そのときは別に俺でなくてもいい。まあ、俺を選んでくれたらそれはそれで嬉しいがな。俺はいつでも話を聞くし、守秘義務がある以上、秘密は守る。仕事上のあれこれは話せないだろうが、ジークリットのことや、その義足の話とか――」
「その話をするつもりはありません」
 義足。その話がカルロ・サントス医師から飛び出た瞬間、パトリックの纏う雰囲気が変わる。どこまでも冷たい目をしたパトリックは、凍てつくような視線をカルロ・サントス医師に向けていた。
 これ以上切り込むと機嫌を損ねそうだと判断したカルロ・サントス医師は、そこで完全に引くことを決意する。彼は両手を上げて降参の意を示すと、こう言った。
「分かった、分かったよ。気が向いたときで良い。だから、一人で抱え込むな。……誰にも相談しないこと、それとすぐに記憶を封印しちまう癖は、昔から続くお前の悪いところだぞ。ちゃんと自覚しておけ」
「……」
「それじゃ、俺は行くよ。これ以上、ここに長居したら遅刻しちまうからな」
 カルロ・サントス医師は最後にそう言うと、玄関を開けて出て行こうとする。――が、彼は直前で躊躇い、パトリックのほうに向いた。すると彼は言う。「すまない、リッキー。言い忘れてたことがある」
「なんでしょうか」
「ノエミは意地でも、お前からイーライ・グリッサムを殺した人間の名前を聞き出すつもりでいる。俺のとこにまで、あいつは連絡をしつこく入れているぐらいなんだ。なにかリッキーから聞いてないか、ってな。あの様子を見るにノエミは本気だ、覚悟しておいた方が良いぞ」
 カルロ・サントス医師はそう言うと、パトリックの新居から出ていく。彼は彼の勤め先に出勤していった。
 そして二人が玄関口で繰り広げていた遣り取りを物陰から盗み聞いていたアイリーンは、カルロ・サントス医師が立ち去った後にひょっこりと顔を出す。彼女はパトリックにこんなことを言った。
「なんか、優しいお兄ちゃんって感じだね。ドクター・サントスって」
 意味深な笑みを浮かべるアイリーンだが、パトリックはそれに無視を決め込むと、先日アイリーンから支給された眼鏡型通話デバイスをサッと着用する。そうして彼は出勤するための支度を整え始めた。





 高位技師官僚がようやく目を覚ました。
 ASI本部局に着いてすぐにその報せを受けたパトリックは、その足ですぐにキャンベラ国立大学病院に出向いた。
 そして彼が出向いた先で鉢合わせたのは、怒りをその目にたぎらせたノエミだった。
「……二週間ぶりねぇ、リッキー。私の電話を全部無視してくれるとは、いい根性してんじゃないの」
 エントランスで待ち構えていたノエミは、パトリックの姿を見つけるなり駆け寄ると、真っ先にそう言った。しかしパトリックはシラを切り通す。「忙しかったんです、すみませんでした」
「本当に~?」
「そうです、忙しかったんです」
 なんとも言えない微妙な空気がふたりの間に流れ、睨みあいが繰り広げられる。そうこうしているうちに、高位技師官僚が居るという病室の前に到着した。
「……」
「…………」
 しかし病室と廊下を遮る扉の前には、先日とは異なり違い要人警護部隊の姿がなかった。代わりに病室内からは、苛立ちに満ちた男二人の声が聞こえている。
「バルロッツィ高位技師官僚、あなたは自分の立場を分かっておられないようだ。警護を解けと言われましても、これは大統領命令で――」
「お前たちの上官に確認しろ。それは本当に大統領命令なのか、と。俺ひとりのために要人警護部隊を三十人も用意させるだなんて、そんな馬鹿らしい事態はプロトコルに則れば起こるはずがない。どこかで何者かが不当に介入し、指揮命令系統を引っ掻き回しているはずだ。それに、調べていけば『身に覚えがない』と言う人間、またはアリバイに矛盾が生じる者が出てくるはずだぞ。俺の警護に人員を割く前に、内部の調査を――」
「警護は解けません。今この場においては、それ以外の言葉など不要です!」
 なにやら物騒な雰囲気だ。パトリックはそう感じながら、病室の扉をノックもせずに開ける。スライド式の扉は右にずれた。遅れてパトリックの暴挙に気付いたノエミは止めに入ろうとするも、時は既に遅い。「ちょっと、リッキー!」
「お取り込み中のところ、失礼いたします。先日の件についてお話を伺いに来ました。連邦捜査局所属特別捜査官、パトリック・ラーナーという者です。こちらはノエミ・セ――」
 強引に押し入るパトリックだったが、しかし扉の内側に待機していた要人警護部隊の隊員らに止められ、追い出されそうになる。しかしパトリックも負けじと応戦し、大柄な要人警護部隊らの隙を突いて小柄な体をねじ込もうとした。
 そんなパトリックを見て、ヤケを起こすノエミも扉前で起こる押し合いへし合いに参戦する。ノエミはパトリックの背中を押し、彼を病室の中へと押し込もうとした。しかし要人警護部隊の隊員らも、彼らの職務を忠実に果たすのみ。侵入者を入れまいと、身を挺してパトリックの進路をふさいでいた。
 扉の前で起こっている攻防。それに気付いた男――上等な紺色のビジネススーツを着用した、要人警護部隊に何らかの関連がある役人らしき人物――は、パトリックらを見ると顔を蒼褪めさせ、ヒステリックな叫び声を上げた。「何をしているんだ、君たち! 今すぐここを出て行きなさい!」
「構わん、入れ」
 紺色のスーツを着る音が取り乱して叫ぶ一方、冷静かつ鋭く尖った声で入室を許可する声も聞こえてきた。
 矛盾する二つの命令に、要人警護部隊の隊員らが当惑する。そうして彼らが隙を見せた瞬間、ノエミがパトリックの背を勢いよく押した。小柄で細身な彼はするりと隙間に滑り込み、中へ入ることに成功した。
 滑り込んだ病室の中でパトリックが見たもの。それは二人の男が睨み合う様子と、パトリックの入室を許してしまったことを恥じて呆然としている要人警護部隊の隊員らの姿だった。
 なによりもパトリックの目を引いたのは、さながら椅子に腰を掛けるようベッドに座っている黒縁眼鏡の男――数日前まで死の淵を彷徨っていたにしては元気そうに見えるペルモンド・バルロッツィ高位技師官僚の姿だ。
 灰色の病衣という、いかにも入院患者らしい装いをしている高位技師官僚だが、その彼が発するオーラはキッチリとした紺色のスーツを着ている役人の男よりも威厳がある。数日手入れをしていないため若干だらしなく伸びている無精髭、整えられていないクセ毛の髪という風貌でありながらも、VIPと呼ばれるだけある貫録を見せつけていた。
 そしてスクエア型の黒縁眼鏡の下からのぞく蒼い瞳。覇気の無い重たい瞼と気怠そうな垂れ目の間で、しかし異様なほどギラギラと光っている彼の瞳に、パトリックは緊張から生唾を呑んだ。――すると高位技師官僚が口を開け、こう言った。
「要人警護部隊、お前たちに用はない、出て行け。それか、せめてこの部屋の外で待機していろ。次にグエン・ヴァン・レー・クアン、お前は帰れ。そして捜査官、お前たちは入れ」
 要人警護部隊の隊員らはその言葉を聞くと、一度は異を唱えるかのように高位技師官僚を見返したが、しかし高位技師官僚に引く様子がないと見るやいなや、隊員のひとりが合図をしたのを機に、彼らは大人しく病室を出ていく。彼らは廊下にて待機するという道を選んだようだ。
 一方、グエンと呼ばれた役人風の男は明確な異を唱えるというアクションを起こす。役人風の男は高位技師官僚を相手に食い下がってみせた。「高位技師官僚、これはあなたが判断すべきことでは」
「お前に用はない。帰れ」
「しかし――」
「お前に用はないと言っている。――それとも、俺に警護がいらないという事実をここで証明してやろうか?」
 高位技師官僚はそのように凄む。彼は独特の威圧感を与えていた。しかし役人風の男も威圧に臆することはなく、自分を邪険に扱う高位技師官僚を訝るように見ていた。
 お堅いスーツを着ているその役人風の男だが、彼も要人警護部隊と縁があるだけはある体格をしている。スーツの上からも、その鍛えられた頑強な肉体は窺えるほどだった。
 対する高位技師官は傷病者であり、万全の状態ではない。まして、彼の肩書きは高位技師官僚。彼は閣僚級の技官で、そしてエンジニアだ。
 パトリックはペルモンド・バルロッツィ高位技師官僚という人物が銃火器などの開発事業に関与していることは知っているものの、彼が武闘派であるというイメージを抱いてはいなかった。だからこそパトリックは思った。仮に高位技師官僚と役人風の男が取っ組み合ったところで、勝つのは役人風の男に決まっていると。
「いいでしょう。――私が勝った場合、要人警護部隊による警護を受け入れてもらいます。あなたが買った場合、我々はあなたの意向に従い、撤収しましょう」
 役人風の男はそう言うと、スーツのジャケットを脱ぐ。それを手近な場所にあったパイプ椅子の上に置くと、高位技師官僚に視線を送った。
 高位技師官僚はその挑発に乗るように、徐に立ち上がる。そして高位技師官僚が顔を上げ、役人風の男を見やると、役人風の男はニヤリと笑った。――が、その直後、勝敗が分かれた。
「これで分かっただろう? 俺に警護は必要ない。警護を付けるのであれば、俺でなく娘のほうにしてくれ」
 全ては一瞬のうちに、常人には見切れない速さで起こった。高位技師官僚が徐に立ち上がり、呼吸を整えたかと思ったその瞬間、役人風の男がひっくり返って床に倒れたのだ。それを見たノエミは息を呑み、パトリックは目を剥く。
 そして高位技師官僚は、床に倒れ、呻き声をあげる情けない男を見下ろすよう傍に寄ると、倒れた男に手を差し伸べる。役人風の男は悔しさの滲む表情を浮かべながら差し伸べられた手を取り、立ち上がるための介助を受け入れた。
 そうして役人風の男が立ち上がったとき、高位技師官僚は彼にとって耳が痛くなるような台詞を放つ。「この程度の足払いも避けられない愚図など、俺の傍に必要ない。却って邪魔になるだけだ」
「どうやら、そのようですね。……約束通り、我々は撤収するとしましょう」
 一瞬で打ち負かされたこと、それが相当ショックだったのだろう。あっさりと負けを認めた役人風の男はそう言うと、脱いだジャケットを回収するなりすぐに退室していく。そして役人風の男が去っていく後を、廊下で待機していた要人警護部隊が追いかけていった。
 幸運なことに、邪魔者がいなくなった。だが邪魔者がいなくなったことにより、むしろパトリックとノエミの緊張は高まっていく。
 要人警護部隊らが立ち去り、病室の扉がゆっくりと閉まった。そして病室が外と完璧に遮断されたとき、高位技師官僚の目がパトリックとノエミの二人を捉える。
「それで、要件はなんだ。簡潔に話せ」
 二人の若者を品定めするように見る高位技師官僚の蒼い目は冷たく、そこに表情や感情らしいものはない。しかし彼の口元には不敵な微笑が浮かべられている。ノエミは高位技師官僚が浮かべる不気味な笑みに、背筋をぶるりと震わせた。
 その横でパトリックはぐっと拳を握る。爪は掌に食い込み、その痛みがパトリックを奮い立たせた。
「……」
 高位技師官僚は薄気味悪いオーラを放っている。彼が常人と一線を画す存在であることは、先ほどの異常な言動から分かっていた。
 だが、パトリックはもっと頭がイカれた犯罪者を今まで相手にしてきている。何も怖がる必要はない。今回だって、大丈夫だ。
 ――彼はそう自分自身に言い聞かせようとするが、しかしうまく言葉が出てこない。すると緊張する若者に、高位技師官僚は更なる追い打ちを掛けた。
「俺の視力ってのは酷いもんでな。この眼鏡があっても、まともにモノは見えやしない。しかしお前たちが緊張から震えていることぐらい、手に取るように分かる。早く終わらせたいんだろう? なら、さっさと要件を言え。何が聞きたいんだ」
 急かすようにそんなことを言う高位技師官僚だが、しかしその声は特に不機嫌だというわけでもなく、彼の表情からも苛立ちは感じていない。――というより、パトリックには彼の考えも感情も何も分からないというのが正しいだろう。
 顎を引くパトリックは、先日ブラッドフォード長官が言っていた言葉を思い出す。長官が高位技師官僚のことを「どうにも好かない」と言っていた意味を、パトリックはこのときに理解したのだ。
 人間らしさがなく、とても気味が悪い。パトリックも、高位技師官僚に対してそう感じた。そして彼は様子を伺うように高位技師官僚を見ながら、勇気を振り絞ってこのように切り出す――高位技師官僚の指定どおり、簡潔にまとめて。
「私どもがお聞きしたいことは、ひとつだけです。バルロッツィ高位技師官僚。犯人の顔を見ましたか?」
 すると高位技師官僚は鼻で笑うという反応を見せる。それから彼はこのように返答した。「いいや、何も見ていない」
「男か、女か、そして年代は――」
「背後から襲われたんだ。見ているわけがないだろう。それに見ていたとしても、俺は視力が悪い。顔や背格好など分かるはずもない」
「なら、声は」
「聞こえたのは銃声と娘の悲鳴くらいだ」
 なんて、やりにくい相手なんだ。パトリックはそう思った。
 パトリックは握りしめていた拳を解放し、嫌な汗で湿った掌を後ろ手に回す。その一方、高位技師官僚は余裕の笑みを浮かべたままであり、無感情な瞳でパトリックらを見ていた。――そして高位技師官僚は白い歯を見せながら、パトリックに突拍子もないことを言う。
「パトリック・ラーナー、お前は先ほど『連邦捜査局所属』と言ったが、それは事実ではないな。お前はASI局員。そして現在はサー・アーサーの使いっぱしりだろう?」
「……!?」
 パトリックは今まで、高位技師官僚と接点を持ったことはない。だからこそ今回は抜擢されたのだとアイリーンは言っていたぐらいだ。
 しかし高位技師官僚はパトリックのことを知っていたらしい。パトリックがASI局員であることも言い当て、更には“サー・アーサー”という具体的な名前への言及すらもあった。まるで全てを見通しているかのように。
 予想だにしていなかった不意打ちに、パトリックは動揺を見せる。すると高位技師官僚は確信を得たように笑った。続けて、高位技師官僚はパトリックに告げる。
「あのバカの目的は分かっている。アーサーに伝えておけ。フィドルでも弾きながら待っていろとな。――それとも、ヤツはその着用型端末を介してこの会話をすべて聞いているのか?」
 全てを見通しているかのような冷たい目。そのような目をパトリックに向けている高位技師官僚は、そう言いながらパトリックが着用していた眼鏡型通話デバイスを指差す。ギクリとパトリックが肩を震わせた直後、彼の耳元でジジジッという小さな振動、および音が鳴る。
 高位技師官僚がたった今、狙いを定めた眼鏡型通話デバイス。それが骨伝導機能を利用して、音声を伝えているのだ。そしてジジジッという音のあと、続けてアイリーンの声がパトリックの耳ないし骨に届く。
『うまく誤魔化して! ASIだっていうことは認めていいから、なんとかアーサーのことは否定して!!』
 どうしても黒衣の男アーサーが関与していることを隠さなければならないのだろう。焦っている様子のアイリーンの声から、そんな事情を察する。そしてパトリックは誤魔化すような言葉を紡ごうとしたのだが。そんな彼の目に、隣で訝しむようにパトリックを見るノエミの顔が映る。その瞬間、サァ……とパトリックから血の気が引いていった。
 信頼関係にあった元相棒を、現在進行形で裏切っている。この状況に沸き上がる罪悪感に、パトリックはグラグラと揺すぶられる。そしてVIP相手に渡り合うことに慣れていないこともあって、彼はボロを出す。あからさまに動揺している様子で、パトリックは見え透いた嘘を吐いてしまった。
「い、いえ、あの、高位技師官僚。たしかに私は、ブラッドフォード長官から特命を受け、現在、単独で動いていますがー……」
「シラを切ろうが無駄だ。俺には通用しない」
 そう言うと高位技師官僚は笑みを消し、完璧に無表情となる。彼は冷たい視線をパトリックに送っていたが……――しかしパトリックはその視線が自分に向けられたものでないことに気付いた。
 パトリックが着用している眼鏡、これを介して“どこか”へと会話およびパトリックが見ている映像が転送されていることに、高位技師官僚は気付いている。ならば高位技師官僚が冷めた視線を送っているのは、パトリックが送った情報を受け取る側の者なのだろう。
「アーサーでもブラッドフォードでも、どちらでも構わないが、忠告はしておこう。連中を刺激するような真似は慎めと。今は特に繊細な時期だ、俺としては事を荒立てたくない。余計な真似はしないでくれ」
 パトリックに向けてそう言う高位技師官僚だが、やはりその言葉はパトリック本人に向けられてはいない。パトリックを介して覗き見ている者に直接向けられているメッセージのようだった。
 そしてパトリックは高位技師官僚の様子から察する。彼は、彼を襲った者が誰であるのかを理解しているのだと。だが高位技師官僚は襲撃者を庇っている。まるで襲撃者の存在が明るみに出ることを恐れているように。
 高位技師官僚は襲撃者の名を意識して発しながらも、しかし彼はその人物が犯人であるとパトリックには言わなかった。……いや、パトリックというより『捜査官であるノエミの前で』と言うほうが正しいのだろう。
「……」
 情報が増えるほど、何が起こっているのかが分からなくなる。そんな気分を覚えるパトリックは、言うべき言葉を見失ったために黙り込む。すると、彼とバトンタッチでもするかのようにノエミが動き出した。
 しかしノエミは高位技師官僚を相手に問答を重ねたわけではなかった。彼女は病室の壁に歩み寄ると、壁に設置されたなにかのボタンを押す。それから彼女は高位技師官僚の腹部を指差しながら、彼に言った。「あの、バルロッツィ高位技師官僚」
「なんだ?」
「……傷口が開いています。それ以上は動かないでください」
 ノエミが押したボタンは看護師を呼ぶための緊急装置、ナースコールだった。そしてパトリックは彼女の言葉を聞いて、初めて気付く。高位技師官僚が着用していた病衣の腹部に血が染みていたことに。
 血が染みている、といってもそれは『ちょっとだけ』だなんて程度ではない。上腹部全体が赤くなっていたのだ。
 しかし当の本人は痛みを感じていないのか、依然平気そうな顔をしている。だが彼の顔色は悪くなっていた。
「……二週間も経っているってのに、傷が閉じていないとはな。若い頃のようにゃいかねぇか……」
 高位技師官僚は冷静な様子でそのようにボヤく。その直後、病室の外が騒がしくなった。
 しかし駆けつけてきたのは看護師ではなく、ノエミの上司でありパトリックの元上司、トーマス・ベネット特別捜査官だった。
 彼はノエミを見て、パトリックを見る。それから高位技師官僚を見やると、呆れ返った声で言った。
「バルロッツィ高位技師官僚。要人警護部隊はあなたのサンドバッグではありません。グエン少佐の足を挫くとは、あなたは彼に何をしたのですか?」
 トーマス・ベネット特別捜査官はそう言うと、重苦しい溜息を吐く。
「悪かったよ。医療費はバルロッツィ財団に請求するよう言っておいてくれ」
 そんなセリフを高位技師官僚が口走ったときだった。高位技師官僚の体がぐらりと揺れ、前に倒れた。彼の体が床に落ちる前に、すんでのところでトーマス・ベネット特別捜査官が受け止める。それと同時に、ちょうど看護師たちが病室に雪崩れ込んできた。
 動かなくなった高位技師官僚の体を看護師たちが引き受ける。その後、パトリックらは看護師によって部屋から追い出された。
「あーあ。結局、収穫ナシね。無駄足だったかも」
 ノエミはそう言うと項垂れ、パトリックは無言になり立ち竦む。トーマス・ベネット特別捜査官は高位技師官僚の血がついた手をハンカチで拭いながら、眉間にぐっと皺を寄せていた。それからトーマス・ベネット特別捜査官は、パトリックに声を掛ける。
「久しぶりだな、パトリック」
 パトリックの名を呼んだ彼の声が、どこか遠くに行きかけていたパトリックの意識を現実に引き戻した。パトリックはハッと顔を上げ、トーマス・ベネット特別捜査官を見る。そしてすぐさま、笑顔を取り繕った。「お久しぶりです、チーフ」
「ASIでの活躍は聞いている。トラヴィスがお前のことを褒めてたぞ」
「いやぁ、それほどでも……」
 パトリックがわざとらしく謙遜するような態度を示すと、彼の横に居たノエミが彼の脇腹を肘で小突いてきた。ノエミは物言いたげに眉根を吊り上げ、彼を睨む。どうやらノエミは、静かな怒りをパトリックに滾らせているようだ。
 そこでパトリックは話題を変える。昔の上司であるトーマス・ベネット特別捜査官と、現在のパトリックの上司であるトラヴィス・ハイドン部長について、彼が気になっていたことを訊ねた。
「そういえば、チーフとトラヴィス部長はお知り合いなんですよね。どのようなご関係なんですか?」
 その問いに対し、トーマス・ベネット特別捜査官ははにかみながら答えた。「トラヴィスは幼馴染だ。まだアルストグランが海の上にあり、名前もオーストラリアだった頃からの仲だよ」
「そうだったんですね」
「ああ。ガキの頃はアイツと二人、ボンダイビーチでサーフィンをよくしたもんさ。それに、俺たちは何もかも同じだった。小学校から大学まで同じで、同じタイミングで連邦捜査局のアカデミーに入り、同時にバッジを手に入れた。だが……あいつは一年もしないうちにASIに引き抜かれていった。パトリック、お前と同じようにな」
「……トラヴィス部長が、連邦捜査局に?」
「ああ、居たぞ。大昔、二〇年近く前の話だけどな」
 トーマス・ベネット特別捜査官はそう言うと、パトリックの肩に肘を置く。そして昔よくしていたように、パトリックの頭を雑にガシガシと撫でるのであった。
 パトリックはその手を昔のように払いのけ、顔を顰めさせる。するとトーマス・ベネット特別捜査官は苦笑いながら釈明した。
「ごめんな、パトリック。悪気はないんだ。だが、その、お前を見るとつい、やりたくなっちまうんだよ」
 そして照れ臭そうに蟀谷を掻くトーマス・ベネット特別捜査官は、こんなことも言った。
「どこかに意識が飛んでるような、心ここにあらずって顔をしているお前を見る度に、どうしても十五年前を思い出す。心配になっちまうんだよ」
 十五年前。そう言われても、パトリックには思い当たるフシがない。そうしてパトリックが首を傾げると、トーマス・ベネット特別捜査官は笑顔を消す。そしてまた彼はパトリックの頭の上に手を置いてきた。
「あぁ、その……――いやぁ、変なことを言った。すまない、今のは忘れてくれ」
 ぽん、ぽん。パトリックの頭を軽く叩いたトーマス・ベネット特別捜査官は手を下ろすと、閉め出しを食らった病室のドアをじっと見る。口角が下がっている彼のその顔は、とても穏やかとはいえない展開を想像しているかのようだった。
 パトリックもまた同じドアを見る。けれども向けている視線は、トーマス・ベネット特別捜査官とは異なっていた。そして彼はこう呟く。「……サー・アーサー」
「ところで、それ。誰のことなの?」
 彼の呟きを聞き落とさなかったノエミは、即座にそう切り込んでくる。しかしパトリックはシラを切り通した。「どうして私に訊くんですか?」
「だって、高位技師官僚がさっき言ってたじゃない。あなたがサー・アーサーの使いっぱしりだって。――もしかして、高位技師官僚を銃撃した犯人がそのサー・アーサーなの?」
 やはりノエミの勘は鋭い。既に彼女は答えに行き付いている。しかしパトリックは真相を明かさない。彼はしらばっくれるような笑顔を浮かべると、無言で彼女らか離れていった。
「ちょっと、リッキー。待ちなさいって!!」
 引き留めるノエミの声に無視を決め込み、パトリックは駐車場へと向かう。ASI本部局に帰還する必要があると考えたからだ。
「……」
 道すがら、黙り込むパトリックは考えを巡らす。黒衣の男アーサーの目的は何なのか、そして高位技師官僚がなぜアーサーを庇うのか、と。
 しかしパトリックにはまだ分からない。彼がそれらの問題を理解するためには、まず彼自身が抱えている問題と向き合う必要があった。


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