ジェットブラック・ジグ

A jack of all trades is master of none.

 真相が閉じ込められていた場所をうっかりこじ開けてしまい、平穏無事な生活という神話が崩れ去ってしまった、あの日。怒りのあまりに気が狂ってしまった死神に左腕を奪われた、あの日。アストレアがアルストグラン連邦共和国を捨て、人類に仇為す片方かたえに行ってしまった、あの日。――大いなる転換点となったあの日から、七ヶ月が経とうとしている。
 あの日にアレクサンダー・コルトの中から“何か”が消え、以来空虚さばかりが彼女を満たすようになっていたが。そんな憂鬱さなど噫気おくびにも出さない彼女は、気丈さを取り繕い続けていた。
「相変わらずだねぇ、アイツは。バッタバタと、ASIの猛者たちを薙ぎ倒していってるじゃないか」
 顰め面で腕を組むアレクサンダー・コルトは、あくまでも“いつも通りのアレクサンダー・コルト”を演じている。ざっくばらんで肩ひじを張らない、少しばかり横暴な自由人という、他者の求める彼女の姿を装い続けていた。それが自分に期待されている役割なのだと、最近はそう考えていたからだ。
 まあ、そんなアレクサンダー・コルトの近況などは重要ではないので、脇に置くとして。
「……それで、アンタの意見はどうなんだい?」
 キャンベラ首都特別地域が、真昼の盛りを過ぎた頃。冬に突入した南半球が、そして空中に浮かんでいるオーストラリア大陸が、例年とは比にならないほど過酷な寒さを迎えている時。暖房が利いていながらも、少し肌寒いと感じられるASI本部局の中。地下二階の訓練場に隣接した、訓練場監督室にて。壁面にずらりと掛けられたモニターに映し出されている一人の男の姿を見つめつつ、アレクサンダー・コルトは自身の左隣に座るオペレーター風に見える若い女性にそう声を掛ける。
 スパイラルパーマの髪を無造作に後ろで束ね、小麦色の若く健康的な肌の上に、年齢に見合わない年寄りめいた厚化粧を塗りたくったその女性は、モニターから目を逸らす。それから隣に立つアレクサンダー・コルトを見ると、彼女はまず簡潔にこう答えた。
「人間じゃないですよ、あんな動き。まるでベンガルトラです」
 彼女の名前は、ヴィクトリア・“ヴィク”・ザカースキー。勤続三年目のASI局員であり、アバロセレン犯罪対策部、情報分析課に所属する心理分析官だ。そんなヴィク・ザカースキーは、多くの時間を誰かから押し付けられた雑用の処理に費やしている。
 それは彼女に、まだ実績が無いからこそ。実績がない故に大役と縁がなく、雑用ばかりを上司から押し付けられ続けている彼女は、それが原因で“実績”という箔付けが一向に為されていない。
 まさに“最悪”というべき悪循環にハマっている。それが彼女の現状なのだ。
 そんな心理分析官ヴィク・ザカースキーに仕事らしい仕事――と呼ぶかどうかは、人によって判断が分かれるであろうが――を与えるために、白羽の矢を彼女に立てたのが、アレクサンダー・コルトだった。
「すまない、言葉が足りなかったね。アタシが訊いてるのは、この間の件だよ。ラドウィグの監督役をしてくれないかっていう、あれについて」
 アレクサンダー・コルトが、心理分析官ヴィク・ザカースキーに任せようとしていた仕事とは、ラドウィグの支援業務、ないし監督役だ。
 支援業務といっても、ジュディス・ミルズなどが担当している配車といった“ラドウィグが円滑に業務を履行していくための、現場レベルでの裏方支援”ではない。早い話、アレクサンダー・コルトが心理分析官ヴィク・ザカースキーに頼もうとしているのは、炊事に洗濯、掃除といった“業務外の場所での裏方支援”ないし“家政婦業”なのだ。
 心理分析官ヴィク・ザカースキーの料理好きは、アバロセレン犯罪対策部に所属する多くの局員が知っている事実。そして彼女の腕前を、アレクサンダー・コルトも知っている――偶に心理分析官ヴィク・ザカースキーは“お弁当”なるものをオフィスに持ってきて、それを局員たちにお裾分けしているからだ。
 なのでアレクサンダー・コルトは、料理上手であり且つ暇を持て余している心理分析官ヴィク・ザカースキーに、相談を持ちかけていた。膨大なエネルギーを必要とするラドウィグのために、膨大な量の食事を作る役を請け負ってくれないか、と。
「んー……」
 アレクサンダー・コルトの言葉に対し、心理分析官ヴィク・ザカースキーは腕を組み、唸るという反応を返した。ノリ気ではない、ということだろう。
 しかし……アレクサンダー・コルトは、心理分析官ヴィク・ザカースキーに重大な隠し事をしていた。これはもう決定事項であるという事実を、彼女に伝え損ねていたのだ。
 この件についてはアバロセレン犯罪対策部を取り仕切るテオ・ジョンソン部長に、もう話をつけてあるし。そしてテオ・ジョンソン部長が、サラ・コリンズ長官の承認を得ている。つまり、心理分析官ヴィク・ザカースキーがノリ気であろうが無かろうが、関係ないのだ。今日か明日には、心理分析官ヴィク・ザカースキーの許に正式な通達が届けられることになっているのだから。
 けれども。可能ならば、正式な通達の前に彼女をノリ気にさせておきたいところ。そこでアレクサンダー・コルトは、ラドウィグの訓練風景――と呼ぶかどうかは、人によって判断が分かれるだろう――を見られる監督室に心理分析官ヴィク・ザカースキーを呼び出していたのだ。
 その目的は一つ。心理分析官ヴィク・ザカースキーの説得である。故にアレクサンダー・コルトは、あれやこれやと喋り倒すのだった。「ザガースキー。アンタとラドウィグの性格は、結構似てると思うんだよ。嫌いなものとか、考え方とかがな。お互い、話せば馬は合うだろう。だから」
「で、でも。相手は、あの“シャドウ・キャット”ですよ。今だって、彼、そこで二十五人の猛者を笑顔で薙ぎ倒してる最中ですし。それに彼、覚醒者なんですよね。そんな人とは、ちょっと……」
 心理分析官ヴィク・ザカースキーが発した言葉、シャドウ・キャット。それはASIにおけるラドウィグのコードネームである。そして、このコードネームは良くも悪くも局内を独り歩きしていて、尾ひれのついた話が局内のあちこちに轟いていた。
 百人力だの、戦闘狂だの、火を噴く男だの、冷血漢だの、暴力的だの、なんだのかんだの。正しい話もあれば、明らかに誇張されているものもあり、そして全くの嘘っぱちも混ざっていたりと、とにかくラドウィグには良くない噂が付きまとっている――当のラドウィグ本人が、その噂に気付いているかどうかは、アレクサンダー・コルトには全くもって分からないが。しかし、少なくともそれがASI局内における彼の実情だった。
 上層部はラドウィグという人材の使い勝手の良さや、その能力を認めていて、大いに彼を活用しているのだが。彼と接点がない人間はというと、そうでもなく。「ぽっと出のくせに、やたらと重用されている!」とラドウィグという存在を快く思っていない人物も居たり、または正体不明の男に恐怖心を抱いている人物も居たりと、ラドウィグが万人に受け入れられていないのは確かだった。
 そして心理分析官ヴィク・ザカースキーは、ラドウィグに怯えているようだ。けれども、それも無理はないとアレクサンダー・コルトは考える。なにせ今モニターに映し出されているラドウィグは、空軍特殊部隊出身の屈強な軍人や、百戦錬磨の傭兵が揃ったASIきっての精鋭二十五人を相手に、一人勝ちの状態を開始からずっと、かれこれ十五分は維持し続けているのだから。……ラドウィグという新人を鍛え上げるために行われた訓練のはずが、どちらが訓練生だか分からない状況を、ラドウィグは作り上げていたのだ。
 それでいてラドウィグは、ずっと楽しそうに笑っている。まるで気軽なチームスポーツで遊んでいるかのように、彼はずっと笑顔を浮かべているのだ。
 そんな彼に対して、怖いという感情を抱く人も中には居るだろう。心理分析官ヴィク・ザカースキーは、まさにそれ。そんな恐怖の対象である男との同棲など仕事だとしても嫌だ、というのが彼女の本音なのだ。
 そして本音は、心理分析官ヴィク・ザカースキーの表情を引きつらせる。口角をピクピクと震わせる心理分析官ヴィク・ザカースキーは、同情を乞うような目をアレクサンダー・コルトに向けていた。――が、アレクサンダー・コルトが返すのは、同情ではなくジョークだった。
「あれはベンガルトラだから、仕方ないよ。ラドウィグ本人はきっと、じゃれついてるつもりなんだろうさ。ただ遊び相手たちが彼と対等じゃないから、じゃれるというよりかは襲われているように見えるだけでな」
 ベンガルトラ。先ほど心理分析官ヴィク・ザカースキーが使った言葉を敢えて引用したアレクサンダー・コルトは、モニターに映るラドウィグの姿を観察しながら、人の悪そうな笑顔を浮かべる。それから彼女は、こう言葉を続けた。
「安心しな。アイツはああ見えて、荒事嫌いだ。今も、ただの手合わせだからノリノリになってるだけさ。あいつ、実戦は大嫌いみたいだしな。それに普段は、のほほんとした穏やかなヤツだよ。DVをするようなタイプじゃあ絶対にない、それは断言できる」
「……さぁ、どうだか。好戦的なことは間違いなさそうに見えますけど」
「いいや、ラドウィグは好戦的な男じゃない。そもそもアイツは、本質的に人間に対しての興味を持ってないからね。能力はちゃんと評価してほしいと願っちゃいるみたいだが、必要以上に他者と張り合う気はないみたいで。手柄を主張するわけでもないし、いがみ合いも基本的には起こさないし、普段はうんと大人しいもんさ。――そこらへんは、アンタも同じじゃないのかい?」
 人間に興味がない。
 能力は評価してほしいが、誰かと張り合ってまで手柄を主張するのは面倒くさい。
 アレクサンダー・コルトが流れで発した言葉に、心理分析官ヴィク・ザカースキーは硬直した。隠しておきたい自分の本性をアレクサンダー・コルトに何気なく言い当てられて、心理分析官ヴィク・ザカースキーは動揺してしまったのだろう。
 目の前に立ち塞がる巨躯のライオンに、精一杯の威嚇をする単独のハイエナのように、心理分析官ヴィク・ザカースキーは隣に立つアレクサンダー・コルトの目を真っ直ぐに見つめ、その視線を逸らそうとしない。この警戒心を好機と見たアレクサンダー・コルトは、これを取っ掛かりに、容赦なく切り込みを始めることにした。
 心理分析官ヴィク・ザカースキーの性格は、ラドウィグの性質とかなり近い。だとしたら、彼女の闘争心を煽る言葉は何かを、アレクサンダー・コルトは考える。そして思いついたのが、実力を見くびるような態度。特に、知性と才能を過小評価するような言葉だ。
「にしてもだ、ザカースキー。今のところアンタは、ラドウィグについて表面的な事実しか見つけられていないようだね。それでも心理分析官なのかい?」
 鼻でフッと笑いながら、アレクサンダー・コルトがそう言ってみれば、心理分析官ヴィク・ザカースキーはすぐさま反応を示した。眉間にしわを寄せ、眉尻を上げ、口角をグッと下げた心理分析官ヴィク・ザカースキーは、アレクサンダー・コルトの言葉に怒りを覚えたらしい。警戒心むき出しだった心理分析官ヴィク・ザカースキーの視線は、アレクサンダー・コルトの狙い通り、闘争心むき出しの迸った目つきに変化した。そして彼女はアレクサンダー・コルトに啖呵を切る。
「分かりましたよ、やってやろうじゃありませんか! 暴いてやりますよ、彼の本性を!」
 自身が望んだとおりに、心理分析官ヴィク・ザカースキーの態度が変化したことに、アレクサンダー・コルトはしたり顔を浮かべる。するとアレクサンダー・コルトは、それまでずっと腋に挟んでいた一冊のリングバインダーを、心理分析官ヴィク・ザカースキーの前に差し出した。それからアレクサンダー・コルトは、心理分析官ヴィク・ザカースキーに対してこう告げる。
「アイツの大学時代の同窓生とか、研究員時代の同僚とか、同じ家で育った義理の兄弟・姉妹とか、それと同じ高校に通っていた連中から聞いた話は、このファイルにまとめてある。手の空いてる時にでも、ざっと目を通しておいてくれ。特に、ピンクの付箋を貼ってあるページをな」
 アレクサンダー・コルトから差し出されたリングバインダーを、不審がりながらも心理分析官ヴィク・ザカースキーは受け取る。それから心理分析官ヴィク・ザカースキーは、迷うことなくリングバインダーを開け、ピンク色の付箋がぴょいんと上から飛び出ているページを真っ先に開いた。
「…………」
 最初から順繰りに……ではなく、重要なところから先に攻めていく。
 心理分析官ヴィク・ザカースキーのそのスタイルは、アレクサンダー・コルトの目にはこう映っていた。全体の詳細よりも、大局を見たうえでの要所の把握を優先するラドウィグと同じだ、と。
 二人の共同生活は何だかんだでうまく行くはずだと確信したアレクサンダー・コルトは、リングバインダーの中に綴じられた情報に夢中になっている心理分析官ヴィク・ザカースキーの頭を見下ろしながら、ニッと笑う。そしてアレクサンダー・コルトは心理分析官ヴィク・ザカースキーの耳元に顔を近付けると、こんなことを囁くのだった。
「それと。……アタシが思うに、あれはチェリーボーイだし、当面はずっとそうだろうよ。心配することは何もないさ」
 突然アレクサンダー・コルトが振ってきた話と、リングバインダーに綴じられている情報に、心理分析官ヴィク・ザカースキーは驚き、黙りこくる。……すっかり蒼褪めてしまっている心理分析官ヴィク・ザカースキーの顔色から察するに、彼女はこの一瞬の間にラドウィグに対する考えをかなり改めたようだ。
 ゴクリと生唾を呑む心理分析官ヴィク・ザカースキーは、次なるアレクサンダー・コルトの言葉を警戒している様子。それは心理分析官ヴィク・ザカースキーが、ラドウィグと自分が“同類である”ことに気付いてしまったからだろう。そしてアレクサンダー・コルトが、ラドウィグと自分が同類であるという事実を見抜いた理由に、おおよその察しが付いてしまったからだ。
 心理分析官ヴィク・ザカースキーが隠しておきたいと願っている、後ろ暗い秘密。それを握っているアレクサンダー・コルトはニヤリと笑い、心理分析官ヴィク・ザカースキーの肩に手を置く。それからアレクサンダー・コルトは、乾いた声でこう言った。
「ラドウィグってヤツはそれほどまでに、人間とか実存とかっていうものに興味を持ってないヤツなんだよ。ああ見えて、形而上の世界でフワフワと生きてるのが、ヤツなのさ。それはアンタも同じだろう、ザカースキー。――アイツもアンタも、形而下に生きる人間の大多数に失望してるんだから。人間嫌い同士、程よい距離感でうまくやれるんじゃないのかい?」
 アレクサンダー・コルトが綴じたリングバインダーの、特にピンク色の付箋が貼られたページ。そこにはラドウィグと心理分析官ヴィク・ザカースキーに共通する、あることが書かれていたのだ。
「……ええ、まあ。なんだか急に、彼に対して親近感が湧いてきましたよ」
 両親の所在が不明で、里親に育てられた過去。曖昧な出自から、派手に虐められた学生時代。理解のある里親家族に恵まれていたものの、その里親も不幸な“事件”によって奪われ――
「確かに、アレックスさんの仰る通りですね。あー……」
 全てお見通しだ、という視線を向けてくるアレクサンダー・コルトから目を逸らしながら、心理分析官ヴィク・ザカースキーはそう呟き、溜息を吐いた。しかし、やはり彼女はノリ気ではない。彼女が保有している“一人を好む気質”が、ロクに話したこともない相手との急な同棲話に、強烈な拒絶を突き付けていたからだ。
 リングバインダーを漠然と見下ろし、頭を抱える心理分析官ヴィク・ザカースキーの様子を見守るアレクサンダー・コルトもまた、腕を組んで考え込む。心理分析官ヴィク・ザカースキーが同棲をゴネているように、ラドウィグの方もゴネているという話を、ラドウィグの相棒だという九尾の狐から伝え聞いていたからだ。
 まあ、片方が異常にノリ気になるのも怖い話ではあるが、どちらも相手を受け入れる気が無さそうなのも、また問題というもの。
「…………」
 説得するための策も尽き、遂に喋るべき言葉もアレクサンダー・コルトが見つけられなくなる。そうしてアレクサンダー・コルトは、モニターに映し出されている無邪気なベンガルトラを黙って見つめることしかできずにいると。そんな空気を換えてくれる人物が、監督室にやってきた。
 監督室のドアをコンコンッと叩くと、その人物は部屋の中に入ってくる。
「ラドウィグの様子はどうだ? さすがのアイツも、二十五人相手じゃ手古摺ってるんじゃ――」
 監督室に入ってきたのは、キャリーカートに乗せた大きめのクーラーボックスを、後ろ手に引きずりながらやってきた、アバロセレン犯罪対策部部長テオ・ジョンソン。彼は監督室のドアを開けると、真っ先に壁面のモニターに視線を向ける。そしてモニターに映るベンガルトラを見るなり、テオ・ジョンソン部長は頓狂な声を上げた。「おいおい、嘘だろ?! あのB小隊が、若造一人に壊滅させられてるのか!?」
「ああ、見ての通り。ベンガルトラが大暴れして、手が付けられなくなってるよ」
 アレクサンダー・コルトはモニターから視線を逸らし、テオ・ジョンソン部長に目を向けると、驚き腰を抜かしている彼にそんな言葉を投げた。そして再度、アレクサンダー・コルトがモニターを見ると、そこには退屈そうに佇んでいるラドウィグの姿が映っている。そしてラドウィグの周りには、床に伏している男たちの背中が転がっていた。
 必死に立ち上がろうとしている屈強な男たちが、ちらりほらりと見受けられることから、ラドウィグの対戦相手たちは死んではいないのだろう。当たり所が悪くて失神させられているのか、足の速いラドウィグを追って走り回ることに疲れ、体力が尽きたのか……まあ、そんなところだろうか。
 そんな惨状に、テオ・ジョンソン部長は肩を落とす。それから彼はボヤいた。
「はぁー、なんてザマなんだ、全く。こりゃコリンズ長官に報告しとかないとな」
 二十五人の屈強な男たちを、たった一人で制圧してみせた上に、余裕の素振りさえも見せているラドウィグの姿には、アレクサンダー・コルトも、テオ・ジョンソン部長も、そして心理分析官ヴィク・ザカースキーも唖然とする他ない。常人を超えている二十五人の男たちを、更に超えてみせたラドウィグは、もはや人間という枠に収めるべき存在ではないだろう。ベンガルトラ、そう譬えるしかない。
 そんなラドウィグという人物を、イザベル・クランツ高位技師官僚の警護役に抜擢したのは正解だったとテオ・ジョンソン部長は確信する反面、彼はある恐ろしい可能性を思い浮かべ、恐怖を覚えていた。
 アストレアという華奢な小娘でなく、ラドウィグという豪物が、もし人類の敵の側に回っていたとしたら? ――そんな未来を想像するだけで、寒気がする。そう感じるのは、テオ・ジョンソン部長だけではないだろう。
 そして彼は、率直に思ったことをアレクサンダー・コルトにぶつけるのだった。
「それにしてもだ、アレックス。特務機関WACEは、なんて男を隠し持ってたんだ。あいつをどこから見つけてきたんだよ、コヨーテ野郎は」
 しかし、当のアレクサンダー・コルトは首を傾げさせるという反応を見せた。どうやらラドウィグが特務機関WACEなんて場所に堕ちてしまった経緯について、アレクサンダー・コルトとASIの間で認識の相違が生じていたらしい。
 テオ・ジョンソン部長は、コヨーテ野郎――現在はアルバと名を改めた男、サー・アーサーのことである――がラドウィグを特務機関WACEに引き入れたと思っているようだが、それは正しくない。寧ろサー・アーサーは、ぽっと出のラドウィグを疎ましく感じていたようにアレクサンダー・コルトの目には見えていたし、間違いなく彼はラドウィグを冷遇していただろう。
 ラドウィグの経緯について、誤解が生じているのは良くない。そう考えたアレクサンダー・コルトは、テオ・ジョンソン部長にざっくりとした事実を明かす――ペルモンド・バルロッツィの頭に銃を突き付けて、それをダシにアルフレッド工学研究所からラドウィグを強引に連れ去った(※これはペルモンド・バルロッツィから指示を受けて、その通りにアレクサンダー・コルトが行動しただけであり、彼女の意思による行動ではない)といった、法に触れかねない詳細は伏せて。
「ラドウィグを隠してたのは、ペルモンド・バルロッツィだ。ペルモンド・バルロッツィが最後の失踪間際に、アタシに託してきたのが、ラドウィグなんだよ。だからラドウィグの件にサー・アーサーは無関係だし、何ならアーサーはラドウィグを邪険に突っ撥ねてたぐらいだ。事実、ラドウィグは一年弱ほど飼い殺しにされてたしね」
「なんだって? 前高位技師官僚が、お前にラドウィグを託しただと?」
「ああ、そうだ。――ここからは、あくまでアタシの推測でしかないが。ペルモンド・バルロッツィには分かってたんじゃないのかい、全て。だから彼は直々に指名したんだろうよ。愛弟子イザベルの守護者に、あのベンガルトラを。ラドウィグは裏切らないっていう確証が、彼にはあったんじゃないのか?」
 アレクサンダー・コルトの突然の告白に、テオ・ジョンソン部長は困惑したようだ。少しだけ顎を引き、腕を組んで眉を顰めさせるテオ・ジョンソン部長は、何かを考え込むように、視線を伏せさせていた。うーん……と唸り声を上げる彼は数秒後、顔を上げてアレクサンダー・コルトの三白眼に宿る緑色の瞳を見る。それからテオ・ジョンソン部長は組んでいた腕を解き、肩を竦めさせながら呟いた。
「そいつも、コリンズに報告しないとならない情報だな。……はー、ASIはなんて人材を引き入れちまったんだ」
「ラドウィグのことかい?」
 聞こえてきたテオ・ジョンソン部長のボヤきに、アレクサンダー・コルトはそうツッコミを入れる。するとテオ・ジョンソン部長は再度腕を組みなおし、こう答えた。「アレックス、お前のことだ」
「アタシが? アタシは、ラドウィグほどぶっ飛んではいないだろうに」
「たしかにお前の場合、能力だけは人並みだろう。能力だけは」
 能力だけは。その部分だけを繰り返し、やたらと強調して述べたテオ・ジョンソン部長は、続けて小声で「ペルモンド・バルロッツィに何かを託されるヤツを、普通とは言わない」と指摘する。するとアレクサンダー・コルトはイマイチ実感が湧かなかったのか、首を傾げさせた。
 そんなアレクサンダー・コルトの反応に、テオ・ジョンソン部長は溜息を返す。それから彼はアレクサンダー・コルトから視線を外し、彼女の隣に座る心理分析官ヴィク・ザカースキーに目を向けた。そして今度は心理分析官ヴィク・ザカースキーに、彼は話を振る。
「あー、それとだ。ザカースキー、例の件はアレックスから聞いたか?」
 部長から振られるような話。それがパッとすぐには頭に浮かんでこなかった心理分析官ヴィク・ザカースキーもまた、アレクサンダー・コルトのように首を傾げさせたのだった。
 そのように反応が鈍い心理分析官ヴィク・ザカースキーに、またもテオ・ジョンソン部長は溜息を零す。そして彼は察しの悪い――というのも、全ては事実を伏せているアレクサンダー・コルトが悪いのだが――心理分析官ヴィク・ザカースキーをジトッとした目で見つめながら、テオ・ジョンソン部長は気怠そうに間延びしたトーンで、こう言い放つのだった。
「明日から、お前にはラドウィグの監督任務に就いてもらう。あの謎多き猫ちゃんの、生態解明に勤しんでくれ。頼んだぞー」
 それを言い終えると、テオ・ジョンソン部長はクーラーボックスを引きながら、監督室から立ち去っていく。監督室には、突然のことに訳が分からず呆然とする心理分析官ヴィク・ザカースキーと、今まで情報を伏せていたことを猛烈に後悔しているアレクサンダー・コルトだけが残された。
 暫くの間、二人の間には静けさだけが居座る。――そして心理分析官ヴィク・ザカースキーが正気を取り戻すと、その沈黙は破られるのだった。
「アレックスさん! あなた、私を騙してたんですか?!」
 それまで座っていた椅子からワッと立ち上がり、顔をすっかり赤くさせ、怒りに満ちた金切り声を上げたのは、心理分析官ヴィク・ザカースキー。怒り狂う彼女は、自分を騙していたアレクサンダー・コルトに詰め寄り、アレクサンダー・コルトが着ていたシャツの胸倉を掴む。
 自分に選択の自由がそもそも無かったという事実が判明し、半ばパニック状態にある心理分析官ヴィク・ザカースキーに対して、アレクサンダー・コルトが出来ることと言えば、どーどーと宥めることぐらい。落ち着け、と伝えるジェスチャーを繰り返しながら、アレクサンダー・コルトはそれらしい言い訳、ないし真っ赤な嘘を咄嗟に紡いでいく。
「決めたのは部長だ。アタシは部長に相談しただけだよ。アタシも今、部長の決定を初めて聞いたとこなんだからさ」
 心理分析官ヴィク・ザカースキーはシャツから手を離してはくれたが、けれども不信感を目一杯に湛えた瞳でアレクサンダー・コルトを睨み付けている。アレクサンダー・コルトの言い分を、心理分析官ヴィク・ザカースキーは少しも信用していないのだ。――まあ、それは正しい裁定をしたと言えるだろう。
 そんなわけでアレクサンダー・コルトが、監督室の中でタジタジとしている時。監督室が見下ろしていた訓練場の仲へと足を踏み入れていたテオ・ジョンソン部長は、退屈そうに突っ立っているラドウィグと、その周囲に伏せる男たちの背中をしかと肉眼に焼きつけ、その迫力に言葉を無くしていた。これをラドウィグが一人でやったのか、ということが彼には信じられなかったのである。
 モニターで見た時には滑稽なワンシーンとしか映っていなかったが、その光景を目前にしてみると……これが現実であるとは、素直に認められないもので。テオ・ジョンソン部長は、唖然とすることしかできなかった。
 そうしてテオ・ジョンソン部長が目を剥いていると、床に伏していた男の一人がよろよろと上体を起こす。それから体を起こした男は、やってきたテオ・ジョンソン部長を見据えると、息も絶え絶えといった風に肩を激しく上下させながら、困惑に満ちた怒号をテオ・ジョンソン部長に向かって上げるのだった。
「おい、ジョンソン! あの男は、一体、何者なんだッ!! 新手の、化け物かァッ?!」
 あの男は一体何者なのか。そんなことを問われたところで、それはテオ・ジョンソン部長の方が知りたいというもの。……しかし、苛立ち困惑している相手にそんな言葉を返せば、余計な諍いが増えるだけだ。
 そこでテオ・ジョンソン部長は簡潔に、現在のラドウィグの肩書を述べることにする。
「ラドウィグは、イザベル・クランツ高位技師官僚専属の用心棒だ。所属は一応、ウチの部の特殊作戦班ということになっていてね」
 論点が微妙にズレているテオ・ジョンソン部長の言葉に、怒号を上げた男は納得がいかないと少し顔を顰めさせはしたものの、何かを理解した様子。フラフラと力なく立ち上がりながら、その男は小声でこう呟いた。
「……高慢ちきなレムナントといい、猛獣アレクサンダーといい、あそこの班はぶっ飛んだヤツしかいないのか?」
 ぶっ飛んだヤツ。悪意を以てそう分類されたラドウィグは、男の呟きに聞かないふりを決め込む。不愉快さを訴える感情をグッと抑え込み、ラドウィグは能天気な笑顔を浮かべた。――テオ・ジョンソン部長が引いて歩いていたクーラーボックスを見つけ、これで場の空気が切り替えられると彼は確信したからだ。
 そうしてラドウィグがニコッと笑えば、テオ・ジョンソン部長も彼の視線に気付く。テオ・ジョンソン部長は自身の横に置いたクーラーボックスの蓋を開けると、その中から一つのサンドウィッチ――アルミホイルに包まれていて外からは中身が分からないが、その正体はラドウィグの大好物である輪切りレモン入りのヨーグルト掛け鯖サンド――を取り出した。
「ほれ、ラドウィグ。差し入れを持ってきてやったぞー」
 間延びした声でそう言ったテオ・ジョンソン部長は、アルミホイルに包まれたサンドウィッチをラドウィグに向かってひょいと投げる。投げられたサンドウィッチを上手くキャッチしたラドウィグは、テオ・ジョンソン部長に「ありがとうございます!」と笑顔で伝えた。
 そうしてラドウィグが、受け取ったサンドウィッチを包むアルミホイルを剥こうとした時。戦闘時の緊張感が抜け、気が緩んだその一瞬の隙に、テオ・ジョンソン部長が距離を詰めてくる。一気にラドウィグの目前へと迫ってきたテオ・ジョンソン部長は、一枚の写真をラドウィグの前へと翳した。
 テオ・ジョンソン部長は、ラドウィグの猫目をじっと見据える。そしてテオ・ジョンソン部長が目前に立ち塞がり、光が遮られたことによって、ラドウィグの猫のような瞳孔は開き、丸く変形した。――そして先ほどの間延びした声を発していた人物とは思えないほどの、低く乾いた声で、テオ・ジョンソン部長はこう訊ねてくる。
「――この写真の人物に、見覚えはあるか」
 テオ・ジョンソン部長が翳した写真には、険しい顔をしたアレクサンダー・コルトに抱き上げられて運ばれる、ひどく痩せ細った男性が映っていた。そしてテオ・ジョンソン部長が訊いているのは勿論、良く知った間柄であるアレクサンダー・コルトのことではなく、痩せ細っている男性のほう。
 猫っ毛かつクセ毛で、茶髪。長く伸びた前髪から覗く、たれ目がちな緑色の瞳。面長の顔。一文字の眉。それから、右目の下の泣きぼくろ。――写真の中の男性は、そのような容姿をしている。
 写真を見たラドウィグは、アルミホイルを剥がそうとした手を下ろし、生唾を呑む。あることに気付いてしまったラドウィグは、静かなパニックを起こしていたのだ。彼の食欲は急激に減衰していき、冷や汗が額から流れ落ちていく。緊張も加わり、ラドウィグの瞳孔はより拡大していた。
 ラドウィグが見せた、あからさまな動揺。テオ・ジョンソン部長およびASIが抱いていた疑念がこの瞬間、確信に変わった。
「この人は、今、どこに……」
 ラドウィグがやっとの思いで絞り出した言葉は、それだけ。その短い言葉に、テオ・ジョンソン部長は簡潔な答えを返す。
「うちの機関お抱えの、例の医療機関だ。お前も覚えてるだろう?」
 全ては一週間前にAI:Lが突然、サラ・コリンズ長官に提供したある情報に端を発していた。
 最初にホムンクルスが作られたアバロセレン工学研究所『サンレイズ研究所』の跡地に出来た、次なるアバロセレン工学研究所『カイザー・ブルーメ工学研究所』。わけあって今は廃墟となっているその場所の地下空間に、ラドウィグの出自に纏わる何かが眠っている可能性があるため、調査をすべきであると、AI:Lは急に言い出したのだ。
 そして提言と同時にAI:Lは、ある映像データをサラ・コリンズ長官に提供した。それは約十一年前の、カイザー・ブルーメ工学研究所内のある研究室を映した監視カメラ映像。それは狭い研究室の中で小規模のSODが発生し、一瞬にして消えた場面を捉えたものだった。そして映像の中には、消える直前にSODが一人の青年を“吐き出した”瞬間が映っていた。
 映像が決定打となり、サラ・コリンズ長官はカイザー・ブルーメ研究所跡地調査の指令を下した。そうして三日前に、アレクサンダー・コルトとジュディス・ミルズの二人は件の研究所跡地に突入していたのである。その際に二人が回収してきたのが、テオ・ジョンソン部長が翳した写真に映っていた例の男。
 例の男の身柄をひとまず預かったテオ・ジョンソン部長は、アレクサンダー・コルトとジュディス・ミルズの二人に、例の男のその後の情報を伝えていないが。テオ・ジョンソン部長ないしASIは、彼女らが連れて帰ってきたその男に必要な治療を施す傍らで、検査と称するデータ収集や調査も行っていた。
 その結果、いくつかの興味深い事実が判明した。
 まずは、彼の身元。長らく行方知れずとなっていて、戸籍上では死亡扱いとなっていた人物だと判明した。名前は、オーウェン・レーゼ。将来を嘱望されていたラグビー選手であったらしいが、不幸な事故に見舞われ、運動機能の大半を喪失。以降、表舞台からばったりと姿を消し、いつからか行方知れずになっていたのだという。
 彼の戸籍から推測される年齢は五十八歳であるが、しかしその容姿および肉体年齢は彼が行方不明となった時期――二十歳前後――から動いていない。彼が発見された場所には、長期凍眠ハイバネーションに使われると思われる装置の残骸が乱立していたこと、そして彼もその装置の一つと思われるカプセルの中から発見されたことから、ASIは三十五年ほどこの装置の中で仮死状態に置かれていたのではないかと推測しているが……これは現段階ではまだ、数ある仮説の一つに過ぎない。
 そして彼の親族には、注目すべき人物が幾人か存在している。まずは彼の兄、ウェイン・レーゼ。兄のウェイン・レーゼはアバロセレン工学界隈では“マッド・サイエンティスト”として名の知れている人物であり、兄のウェイン・レーゼの方もまた十一年前に消息を絶ち、以降行方知れずとなっている――しかし、こちらはサー・アーサーもしくはペルモンド・バルロッツィのどちらかに殺害されたものと、ASIは見ていた。何故ならばウェイン・レーゼには、サー・アーサーの息子であるレーニン・エルトル、及びレーニン・エルトルの妻でありペルモンド・バルロッツィの娘でもあるエリーヌ・バルロッツィを殺害し、その遺体を遺棄した疑いが掛けられていたからだ。またウェイン・レーゼは、エルトル夫妻の養女であるホムンクルスの双子、ユン・エルトルとユニ・エルトルの拉致・監禁の疑いも掛けられている。要するに、ウェイン・レーゼは“真っ黒”な人物だったのだ。
 続いて、兄のウェイン・レーゼの配偶者であるユラン・レーゼ。彼女も“目的のためならば手段を選ばない危険人物”として各方面からマークされていた人物であり、こちらも真っ黒な人物で、そして夫と同様に十一年前から消息を絶っている(夫のウェイン・レーゼと同様の疑惑が彼女にも掛けられていて、彼女もまたサー・アーサーもしくはペルモンド・バルロッツィのどちらかによって消されたと、ASIは見ていた)。
 そして兄のウェイン・レーゼの子供たち、つまり件の彼の甥、姪に当たる人物たちにも、ASIは目を向けている。何故ならば、彼らはラドウィグと深い関係にある人物たちだからだ。
 ウェイン・レーゼの子供である、ヴェルナーとクレメンティーネの双子の兄妹は、ラドウィグと同じ養父の許で育っている。そして彼らの養父は、カイザー・ブルーメ工学研究所の所長であり創設者である、カイザー・ブルーメ。そのカイザー・ブルーメは、ウェイン・レーゼとユラン・レーゼの二人と親しい関係にあったとされている上に、彼らの雇用主でもあった(ホムンクルスの双子が監禁されていたのも、レーニン・エルトルとエリーヌ・バルロッツィの二人が殺害された場所も、カイザー・ブルーメ研究所内であるとされていて、所長であるカイザー・ブルーメはレーゼ夫妻の蛮行を把握していながらも、彼ら夫妻を黙認し続けていたとされていた)。
 更にカイザー・ブルーメは昨年、ペルモンド・バルロッツィが最後の失踪を遂げた日に、サー・アーサーによって銃殺されている――この現場にはアレクサンダー・コルトが立ち会っており、カイザー・ブルーメの死の真相だけはハッキリと詳細が判明していた。またこの日には別の場所で、レーゼ兄妹の妹であるクレメンティーネが、ペルモンド・バルロッツィの手によって存在を消されていた――こちらはラドウィグの目の前で行われたらしく、ラドウィグの話を聞いたアレクサンダー・コルト曰く、クレメンティーネは『ペルモンド・バルロッツィに触れられた途端、輪郭を無くし、水となって消えた』そうだ。
 そして、レーゼ家の生き残りであるヴェルナーだが。彼は現在、カイザー・ブルーメの実娘であるロザリンドと共に、イザベル・クランツ高位技師官僚の許、アルフレッド工学研究所に匿われている。これについてはイザベル・クランツ高位技師官僚曰く「先代が、ロザリンドとヴェルナーの二人だけを招き入れた」とのこと。妹のクレメンティーネを消したペルモンド・バルロッツィは、兄のヴェルナーだけは厚遇で迎え入れたというのだから……――なんとも不思議な話である。
「案ずるな。悪いようにはしていない」
 ――……まあ、要するに。アレクサンダー・コルトとジュディス・ミルズの二人が連れて帰ってきた“オーウェン・レーゼ”という男は、サー・アーサーおよびペルモンド・バルロッツィとの間に因縁を抱えている一族の者というわけなのだ。それに加えて、その一族とラドウィグは奇妙な縁を抱えている。
 というよりもテオ・ジョンソン部長の目には、ラドウィグもその一族の一人であるように見えていた。なにせオーウェン・レーゼという人物とラドウィグは、親子のように似ているのだから。目や眉は似ていないが、しかし鼻筋や輪郭、泣きぼくろの位置、髪色や髪質など、あまりにも似すぎている特徴がいくつか見受けられる。
 それに実際、両者のDNAが示したのは親子という結果。だが、そうすると辻褄が合わないことがあまりにも多すぎた。
「……」
 ラドウィグは、十一年前にカイザー・ブルーメ研究所の中で発生した小規模のSODから飛び出してきた、異界出身の人間だ。――AI:Lは映像を提供する際に、そう断言していた。
 そしてオーウェン・レーゼは、少なくとも三〇年以上は仮死状態にあったと考えられる。対するラドウィグは現在、二十六歳。ラドウィグがオーウェン・レーゼの息子であると仮定した場合、時系列が噛み合わない。オーウェン・レーゼがカプセルの中に封印されている間に、ラドウィグは誕生したということになるのだから。
 それから、ラドウィグの母親は誰だという問題がある。アレクサンダー・コルトとジュディス・ミルズの二人が挙げた報告書の中には『他にも長期凍眠ハイバネーションに用いられるものと思しきカプセルが複数存在していて、人が入っているカプセルもあったが、その中で生きていたのは当該の男性ひとりだけだった』との記述があったことから、別のカプセルの中にラドウィグの母親候補が居る可能性もあるが……――あくまでも可能性の段階。追って調査をする必要があるだろう。しかし、ラドウィグの母親はどこか別世界の人間だという可能性もある以上、あまりこの可能性に拘る必要もないともいえる。
 まあ、仮にラドウィグの母親候補が見つかったとしてもだ。それで父親候補との間にある時系列の矛盾が解決するわけではない。変わらずその問題は残るだろう。
 それに、他にも気になることがある。長期凍眠ハイバネーション技術を用いて仮死状態に置いた人間を複数集めて、カイザー・ブルーメ研究所は何をしようとしていたのか……――まあ、それは追々調べていくとして。
「…………」
 DNAでは親子である可能性が高いとの結果が出ているにも関わらず、親子として繋げるには無理がある二人の男。……厄介な事案に、サラ・コリンズ長官は頭を抱えていた。
 そこで、サラ・コリンズ長官と付き合いの長いテオ・ジョンソン部長は、こう提案したのだ。ひとまずその二人を引き合わせてみてはどうか、と。……これはアレクサンダー・コルト流の、行き当たりばったりの運任せ、というやつだ。
 そしてテオ・ジョンソン部長の読みが当たったというべきか、ラドウィグはあからさまな動揺をしてみせていた。つまりテオ・ジョンソン部長が勘で投げた球が、見事狙った場所に当たったというわけだ。
「まっ、取り敢えずだ。……飯を食いながらで構わん、俺と一緒に来い。分かったな」
 顔を蒼褪めさせて呆然と立ち尽くすラドウィグに、テオ・ジョンソン部長はそう声を掛ける。彼の言葉にラドウィグは無言で頷いてみせたが、その視線はテオ・ジョンソン部長の顔に向くことはなく、ラドウィグ自身の爪先へと落ちていた。
「…………」
 そんなラドウィグの様子を、訓練場の物陰から観察している者が居る。暗闇の中に紛れ込んでいる一羽のカラスは、蒼白く光る瞳をしばしばとさせながら、普段よりもワントーン落ちた静かな声で、こう囁いた。
「……普通ならざる出自ってぇモンは、いつの時代も面倒がられるみてぇだナァ。ケケッ……」


+ + +



 時代は遡り、七十一年前。四二一八年の十一月中旬の土曜日、その昼前のこと。ラドウィグやアストレアなどまだ存在もしていなければ、アレクサンダー・コルトすら誕生していない遥か昔。アバロセレンなるものも創造されておらず、まだボストンという土地が健在していた時代の話。
 ボストン市内の某所、繁華街から数ブロック先の路地に店を構える小さなヴェニュー(軽い飲食を提供する、小規模のコンサートホール)の舞台上では、口汚い罵り合いが発生していた。
「あー、あー、あー、あーっ! なんて酷く、汚い音なんだ! そんな音は、ヴァイオリンとは言わねぇぞ!」
 数日は髪を洗っていないと思われる長い栗毛の髪を振り乱す、中肉中背の若い男――汚らしい無精ひげも相まって四十路のようにも見える容姿をしているが、実際には二十代前半の若い男である――は、正面に立つ小奇麗な容姿の青年に食って掛かる。見た目のように汚い罵声と共に、ヤニくさい吐息を顔に掛けられた青年の方は、松脂汚れの目立つ安物のヴァイオリンないしフィドルを守るように両腕で抱きながら、顔を顰めさせるのだった。
 そして小奇麗にしている青年の方は、その蒼い瞳で相手を憐れむように見つめながら、相手を小馬鹿にしているかのような口調で、こう言葉を返す。
「いや、アンタのはヴァイオリンだろうけど。こっちはフィドルだから。そもそも同じ土俵に立ってないんだけど」
 幼少期は金髪であったものの、成長と共に色が落ち着き、干し草のような枯れた色合いとなった髪を、キザにオールバックにしてみせているその青年は、十八歳時点のシルスウォッド・アーサー・エルトル。愛用している古ぼけたフィドルをわざとらしく抱く彼は、自身に突っかかってきた汚い男に、容赦のない軽蔑の視線をぶつけていた。
 すると、相手の男は眉間にグッと皴を寄せる。ティーンエイジャーに小馬鹿にされたことが相当頭に来たのだろう。顔を真っ赤に染め上げた相手の男は、早口に捲し立て始めた。
「屁理屈をこねるんじゃねぇ、どっからどう見たって同じ楽器だろうが!」
 しかし、図太い神経の持ち主に成長していたシルスウォッドは、相手のペースに呑まれはしない。余裕そうな笑みを浮かべながら、嫌味を返すのだった。
「はいはい。確かにアンタの言う通り、同じ楽器だろうさ。フィドルもヴァイオリンも、英語かイタリア語かの違いだし。ただ音楽のジャンルってもんが――」
 するとまた、相手はシルスウォッドに食って掛かる。……そうして、下らない罵り合いの火蓋が切られることとなった。
「まず、持ち方がなってない。なんだ、そのだらけた姿勢は。ついでに、そのヴァイオリンは何だ。顎当てもついてねぇし、ボディについた松脂も落とさずに放置って……汚ねぇヴァイオリンだなぁ、まったく。それに音色も安っぽい、さらに――」
「安っぽいフィドルで悪かったねぇ? 母さんがお世話になった女性から受け継いだものを、更に僕が受け継いだものなんだよ、これ。無駄に年だけ食ったフィドルなんだ、安物だけど。でもこれは、僕にとって大事なものでね。買い替えるつもりなんか毛頭ないね」
「宝物だろうが何だろうが関係ない。買い換えた方がいいぜ、そんなボロの安物。ショービジネス向けのプロ仕様のものに交換すべきだ」
「…………」
「まっ、それ以前にヴィブラートもロクに出来ない腕前じゃあ話にならねぇってもんだが……」
「――そっちこそ、クラシック音楽で一流になれなくて、アングラ音楽に逃げてきた分際のくせに。なーにを偉そうに語っちゃってるんだか」
「あァン?!」
「三連符をキレよく弾けない程度の腕前のくせに、畑違いのフィドラーにクラシックの奏法を持ち出してケチをつけようとしてるだなんて、哀れという他ないだろう?」
「なんだと、てめぇ――!!」
 やさぐれたヴァイオリニストと、ひねた性格のフィドラーが繰り広げる、見るに堪えない罵り合い。――彼らの周囲に立つ人々は、一様に頭を抱えていた。
 まずは、彼らの罵り合いのキッカケを生み出したヴェニューの店主。元ボディビルダーというだけあり、ヤケに体格のいい店主は、その手に持った楽譜を見つめながら、重たい溜息を零していた。
 そしてやさぐれたヴァイオリニストのバンド仲間である男たちも、仲間の一人が晒している失態に頭を抱えている。しかし怒り狂う仲間に掛けるべき言葉も見当たらず……バンド仲間たちは、やさぐれたヴァイオリニストから目を逸らすことしかできなくなっていた。
 それから、シルスウォッドの友人たちも頭を抱えていた。中でも一番あたふたとしていたのは、シルスウォッドをバンド活動に勧誘した張本人である、ザックことザカリー・レター。
「ウディ、それぐらいにしとけ! 挑発するな、ばかっ!」
 怒り狂うヴァイオリニストを相手に、更に怒りを焚きつけるような煽りを繰り返すシルスウォッドに対して、慌てふためくザックは制止を求める。するとシルスウォッドは一先ず矛を収めた。口を閉ざし、煽り文句を飲み込んだシルスウォッドは静かに数歩下がり、怒り狂うヴァイオリニストから離れる。
 けれども相手を睨み付けることを止めはしないシルスウォッドは、相手を許す気など更々なさそうだ。……というのも、大切にしているフィドルを『ボロの安物』呼ばわりされたことに、彼はかなり腹を立てていたのである。最初こそ全く怒っていなかったシルスウォッドも、この発言ばかりは受け流すことができず、怒りに火が点いてしまっていたのだ。
「…………」
 この『ボロの安物』呼ばわりされたフィドルを、シルスウォッドは一〇年使ってきた。このフィドルは彼の相棒であり、彼の半身である。それを侮辱されて、良い気がするわけがない。
 ましてやこのフィドルを侮辱することは、同じフィドルを好んで使っていた彼の実母を、そしてこのフィドルの本来の持ち主であり、このフィドルを定期的にメンテナンスしてくれているサニー・バーンを侮辱することと同意義。実母はさておき、恩人であるサニー・バーンを侮辱するような行為を許すわけにはいかないのだ。
 ――しかし、だ。そんなことは周囲からすれば「知ったこっちゃない!」というもの。ポリシーやら信念から来る怒りであろうが、そんな事情など知らない周囲からすれば、険悪な空気を作り出す人間は傍迷惑な存在でしかないわけで。怒りを鎮める気配のないシルスウォッドの前に立ち塞がるザックは、怒れるヴァイオリニストから目を逸らすようシルスウォッドに促すのだった。
「いつものお前らしくないぞ、ウディ。あんな負け惜しみなんて気にすんなって」
 そう訴えるザックの困り切った顔を見て、シルスウォッドの怒りは急激に萎えていった。そして冷静さを取り戻したシルスウォッドは、相手を睨むことを止め、目の前に立つザックに視線を移す。それからシルスウォッドは深呼吸を一つして、気を鎮めようと試みた。
 しかし。……グツグツと腹の底で煮えたぎる怒りは、深呼吸の一つや二つで鎮められるほど穏やかなものではない。
「……ごめん、ザック。あの汚い顔が、どうもムカついてさ」
 喉元まで出かかった罵り文句を胃に収め、いつものような軽い笑顔を取り繕うシルスウォッドは、目の前に立つザックに謝るフリをしながら、最後の毒を吐き捨てた。するとザックは悲しそうに目を細め、シルスウォッドの手首を掴む。
「もう止めろよ。キリがないぜ」
 そう呟くとザックは、シルスウォッドの手を強引に引き、シルスウォッドを怒れるヴァイオリニストから引き離すと、共通の友人らが待つ舞台袖へと連れ戻したのだった。
「……」
 この日は定休日ということもあって、ヴェニューに客は入っていない。にも関わらず、なぜ二組のバンド――というよりも、それぞれのバンドに所属しているヴァイオリニスト、ないしフィドラーの二人――が呼び出されたのかといえば、それは店主が持っている楽譜に理由がある。
 その楽譜は、最近話題のシンガーソングライターが次の公演のために書き下ろしたもので、ヴァイオリンパートが記されている。そして、何故そんなものを店主が持っているのかといえば、それはそのシンガーソングライターの次回公演がこのヴェニューで行われる予定だったからだ。
 そのシンガーソングライターの次回公演に差し当たって、ヴェニューはサポートメンバーを求めていた。それが、件のヴァイオリンパートを担当するメンバー。そういうわけでヴェニューの店主は、店に出入りする二人のヴァイオリニストないしフィドラーに、声を掛けたのだ。
 つまりヴァイオリニストとフィドラーは、店主が持っている譜面の演奏権を奪い合っていたということ。そして軍配は、フィドラーであるシルスウォッドに上がっていた。
「…………」
 というよりも、最初からこの譜面はシルスウォッドのものだった。少なくともこの譜面を書き下ろした人物は、シルスウォッドをサポートメンバーとして指名していたし、ロールにトリプレットという指示が数多く書き込まれている譜面は明らかにフィドラーを演奏者として想定している。クラシック音楽で育ったヴァイオリニストに、しっとりと上品に演奏しろと促すような譜面ではなかった。クセの強いフィドラーに、好きなように暴れろと促している譜面だったのだ。
 ――つまりシンガーソングライターの指示に従っていれば、事態がこじれることはなく、今回の下らない罵り合いは発生しなかったはず。しかし何故ヴァイオリニストとフィドラーが罵り合いを繰り広げる事態に発展したのかといえば、これはヴァイオリンにもフィドルにも造詣が深くなかった店主に落ち度があった。
 ヴァイオリンとフィドルの間にある“ジャンルの違い”を理解していなかった店主は、こう考えたのだ。この楽譜を、とりあえず二人いるヴァイオリン奏者に弾かせてみて、しっくりくる演奏をした方にサポートメンバーとして登壇する機会を与えよう、と。というのも店主は、店主の息子と同い年であるキザなフィドラーよりも、数年の付き合いがあるヴァイオリニストの方を贔屓していたからだ。結果次第ではフィドラーではなくヴァイオリニストのほうに楽譜を譲りたいと、店主はそんなことも考えていた。
 そういうわけで先ほど、ヴァイオリニストとフィドラーの二人が対決するというトラブルが発生していたのだが。その結果は、先述の通り。フィドラーのために書かれた楽譜であるのだから、当然フィドラーに軍配が上がった。跳ねて飛んで暴れ回るような、激しく展開するリズムの波を強く求めている楽譜に、一音一音を大切に弾くヴァイオリニストは応えられなかった、というわけである。
 けれどもヴァイオリニストは、その結果を不服とした。そしてヴァイオリニストは、対戦相手のフィドラーを貶すという行動に出たのだ。
「あんなポッと出のガキより、俺の方が上手いはずだ! アンタだって、それを知ってるはずだろ、オーナー!!」
 今だ悔しさ、ないし怒りが収まらないのか、敗北したヴァイオリニストは騒ぎ立てていた。すると、遂に店主が動く。潔く負けを認めない敗者を、店主がピシャリと制した。
「ロワン・マクファーデン、これは決定事項だ。シヴ・ストールバリのライブに上がるヴァイオリン奏者は、ウディ・C。異論は認めん」
「ならせめて教えてくれ、俺のどこがいけなかったのかを!」
「そもそも、今回は向こうさんが直々にウディ・Cを指名してんだ。お前の入る余地はなかったんだよ、ロワン」
「なっ……?!」
「美人のアーティストから指名されたきゃ、まずはその汚らしい見た目をどうにかしろ。ヒゲを剃って、髪を整えるんだな」
 シヴ・ストールバリとは、ニューヨークのほうで最近じわじわと人気になっているというシンガーソングライターのこと。暗くしっとりとした世界観を、低く激しく唸るオーバードライブギターのストラムに乗せ、そして天を真っ直ぐに衝くような高く澄んだ声で歌い上げるスタイルで、当時はさるコミュニティにおいて熱狂的な支持を集めていた。それにこの時は、もうじき彼女がメジャーデビューもするのではないかとの話も出ていて、まさに旬を迎えていたシンガーソングライターだったのだ。
 そんなシヴ・ストールバリが、弱小のヴェニューに来る。そして、シヴ・ストールバリがサポートメンバーを募集しているらしい。……そんな話が舞い込んでくれば、いやでも殺気立つしかないだろう。チャンスをものにしなければと、必死になるはずだ。
 怒れるヴァイオリニストは、まさにそうだった。弱小バンドで燻ぶっていた彼にとって、その話は千載一遇のチャンスだったはず。しかし期待を抱いて挑んだ試合が、既に勝者が決まっていた出来レースだったと知らされたのだから……――腹が立たないわけがない。
「じゃあなんで、俺にその譜面を弾かせて、競わせたんだ!」
 怒れるヴァイオリニストのボルテージは、次第に上がっていく。店主がポロリと零した告白によって、更にその怒りは苛烈なものとなっていた。
 その激しすぎる怒りに、体格のいい店主も怯む他なかった。肩を落とした店主は、小声で怒れるヴァイオリニストにこう話す。
「……一応、お前の実力も見てみたかったんだよ。ウディ・Cよりもお前の方がこの曲に適していると思えた時には、先方にお前を勧めようかと思ってたんだ」
 店主が善意から設けた試合だったが、それは店主の意図しない方向に作用してしまったというわけだ。楽譜の演奏権は作曲者が望んだとおりの人物の手に渡り、勝ち目のない戦いに挑まされた敗者は徒にプライドが傷付けられただけ。胸糞の悪い悲劇である。
 店主に悪意がなかったことを知り、殊更傷付いたヴァイオリニストは、遂に黙りこくった。そしてヴァイオリニストは店主に背を向けると、愛用する楽器を携えてヴェニューから立ち去っていく。怒りと失意に満ちたヴァイオリニストの後を、彼の仲間たちは大慌てで追っていった。
「……あー。なんだかなぁ……」
 後に残された気まずい空気感に、ザックが溜息と共に零した感想はそれ。気まずい空気を生み出すことに加担したシルスウォッドは、そんなザックに冷めた視線を浴びせていた。
 今回の試合は、ヴァイオリニストのプライドが傷付けられただけじゃない。怒れるヴァイオリニストが発した暴言の数々もそうだが、ヴェニューの店主がシルスウォッドを色眼鏡で見ていたことも分かって、とにかくシルスウォッドは不愉快で堪らなくなっていたのだ。
 けれども、ザックを始めとする周囲はその怒りを、不満を表明するなとシルスウォッドに求める。この対応が更に、シルスウォッドの中で燻ぶる火種の数を増やしていた。
 ヴェニューの店主が、丁寧でお上品な演奏をするヴァイオリニストを贔屓していることはシルスウォッドも知っていたが、今まではそのことを特に気にしたことはなかった。同じ楽器とはいえ、フィドルとヴァイオリンじゃあジャンルが違うと、そう自分の中で区別することが出来ていたからだ。
 けれどもヴェニューの店主は今回、異なるジャンルであるはずの“フィドラー”と“ヴァイオリニスト”に同じ譜面を弾かせて、競わせた。その目的は、フィドラーの為に書かれた楽譜を、ヴァイオリニストに与えるため。
 あまりにも露骨すぎた贔屓だ。これにはさすがのシルスウォッドも、不快感を覚えざるを得ない。
 なのに、ザックはその怒りを抑えろというのだ。不平不満を飲み込み、何も言うな、と。
「……」
 そもそもシルスウォッドにとってのバンド活動は、ザックにゴネられて、仕方なく手伝っているだけのものでしかない。このヴェニューに定期的に来ているのも、ザックに来いと言われて仕方なく来ているだけだ。この三年間ずっと、シルスウォッドは善意からザックのバンド活動を“手伝ってあげている”だけ。別に彼はこのヴェニューでよく演奏されているようなロックやメタルなんていう音楽に興味はなかったし、それらを好きだと感じたことも特段なかった。
 それでも、大して演奏が上手いわけでも、歌が上手いわけでも、優れた曲を書くわけでもないザックの仲間たちに付き合い、シルスウォッドはしょうもない音楽に合わせて、フィドルを弾いてやってきた。三年間ずっと、ザックのワガママに付き合ってやってきたのだ。
 それにシルスウォッドは、ウディ・Cだなんていう、ザックが命名した「ウッドチャック(茶色い毛皮の齧歯類、マーモットの一種。北米においては、畑を荒らす害獣として名高い)」由来のクソみたいな芸名を受け入れてやっている。この三年間ずっと、その間抜けな名前で呼ばれ続けてきたのだ。それでも不満は洩らさず、ずっとその名前に耐えてきたというのに。
 それなのに、今回の件が起きた。ヴェニューの店主には不当に虐げられて、ザックにはその不満を表明せずに飲み込めと促されて……――散々、としか言いようがない。
「…………」
 そんなこんなで、シルスウォッドが不満タラタラというような顔をしていると。それに気付いたヴェニューの店主が、シルスウォッドを睨み付けてくる。それから店主は、シルスウォッドの積もり積もった不平不満の山に、新たなる爆弾を投下してきた。
「ウディ・C。シヴ・ストールバリは、お前の荒々しくてガサガサした音色を気に入ってくれてるようだが、俺は気に入ってないからな。それに演奏技術に関しちゃ、圧倒的にロワンが上だ。そこを弁えておけ」
 店主がさも当然のように発した“演奏技術”という曖昧な言葉。これが遂に、シルスウォッドの逆鱗に触れる。
 同じ楽器を扱っているとはいえ、フィドラーとヴァイオリニストでは習得する技術は異なる。そして、それぞれのジャンルが求める演奏スタイルは全く違う。フィドルは跳ねる、ヴァイオリンは歌う、フィドラーはパブで酒に酔う、ヴァイオリニストは舞台で自分に酔う――……そんなジョークもあるぐらいだ。つまりヴァイオリニストが得意とする演奏はフィドラーにはできず、その逆も然りというわけである。
 そんなことも知らずに、この店主は偉そうな顔で両者を比較していたのか? ――そんな不満が、ついにシルスウォッドの中で爆発した。ネチネチとした嫌味となって、それは外へと飛び出していく。
「まあ、そりゃそうですよ。向こうさんはたぶん幼少期から、みっちりとヴァイオリニストになるための英才教育を受けてるわけでしょう? 対するこちらは、パブの酔っ払いに鍛えられただけの野良犬なんでね。というか、それ以前にまずジャンルが違うんですけど」
 だが、シルスウォッドと同じ年頃の息子を持つ店主にとって、その言葉は聞きなれたティーンエイジャーの粋がりでしかない。ハッと鼻で笑う店主は、戦利品の楽譜をシルスウォッドに手渡すと、舞台を降り、何だか騒がしい舞台裏へと向かっていく。ガキの戯言など歯牙にもかけていない、ということだろう。……そんな店主の態度がまた、シルスウォッドの心の中に火種を一つ植え付けていくのだった。
 それでもシルスウォッドは、この燻ぶる怒りを鎮めようと試みた。彼は目を閉じ、呼吸を整えようとする。――が、それを邪魔する声が聞こえてきた。ザックだ。
「……お前が野良犬なら、オレらなんかウッドチャック以下の存在になりそうだな」
 能天気で、単細胞なザックのことだ。その言葉は、ただその時に思ったことを直接口に出してしまっただけで、深い意味など何もなかったのだろう。だが、その言葉を聞いていたシルスウォッドは、ザックと違う。シルスウォッドは単細胞ではなく、それどころか必要以上に物事の意味を深く勘繰り過ぎてしまうタチだ。故に彼には、今のザックの言葉が嫌味であるように聞こえていたのだ。
 エルトル家だなんていう“名の知れた、高貴な家柄”の血を引いている人間が、野良犬だなんて名乗るなと、庶民であるザックは言いたいのか? シルスウォッドの忌むべき出生に関する諸々の事情も知らない、第三者のザックが? ……そんな風に、シルスウォッドは勘ぐってしまったのだ。
 そうしてシルスウォッドが不愉快そうに顔を顰めさせる。が、ザックの友人たち――ザックのバンド仲間であり、ザックおよびシルスウォッドと同じ公立高校に通う同級生でもある、ケビン・アリンガムとデクラン・オキーフの二人――は、あくまでもザックに同意するようなことを言った。
「……良家のお坊ちゃんが、野良犬だとは思えないけどねぇ……」
 そう述べたのは、寝ぐせでボサボサの髪を全く気にしていない様子の、ベース担当であるケビン。敢えて小声で呟くように言ったのは、ケビンなりの配慮なのだろう。良家のお坊ちゃん、というワードは“ウッディ・C”の隠さなければならない秘密であると、ケビンも知っているからだ。
「アー……んんっ。――ウディ・Cが、野良犬なわけがないだろ? どっちかっつーと、ディアハウンドっていうかさ」
 ハイスクールにおけるシルスウォッドの呼び名である“アーティー”と言いかけたのを大慌てで取り消し、さらに失礼な言葉を続けたのは、いかにも気弱そうな本の虫という出で立ちをしているドラムス担当のデクラン。そしてシルスウォッドは、デクランが何気なく発した言葉に軽い怒りを覚える。
 鹿狩りの猟犬ディアハウンド。それは、すらりと細い体躯と硬い毛、垂れた耳を持つ大型犬だ。中世暗黒時代を生きた高貴な人々のささやかな趣味、鹿狩りのお供として愛されてきた犬種であり、つまり高貴さを象徴する犬なのだ。モジャモジャの長い毛に覆われた汚らしい外見に反して、ディアハウンドは実に高貴な歴史を持つ、由緒正しい犬なのである。
 自分の出自に対して後ろ暗い感情しか抱いていないシルスウォッドからすれば、そんな高貴な犬に譬えられることは皮肉や嫌味でしかない。それに実際、デクランの言葉には妬みや僻みといった嫌な感情が滲んでいた。
 さすがのザックも、今のデクランの言葉には引っ掛かりを覚えたらしい。歪んだエルトル家の実情を少しだけ知っているザックは、嫌味なことをわざと言ってみせたデクランの後頭部に強烈な平手打ちを食らわすと、配慮のないデクランを睨み付けた。そしてシルスウォッドも、デクランを睨み付ける。それからシルスウォッドは、こう反論した。
「いいや。僕はパブ育ちの野良犬さ。君らが想像しているだろうあいつらは、僕の家族じゃない。そして僕はウディ・Cでもないし、ウディ・Eでもない。ウディ・Bだ」
 Bとはつまり、BrennanブレナンでありByrneバーンであることを意味する。自分はErtlエルトルではないし、ましてやウッドチャックなんて芸名も受け入れてないと、そうシルスウォッドは言いたいのだ。
 そんな風にシルスウォッドが毅然とした態度で反論してみれば、喧嘩にも言い争いにも慣れていない気弱なデクランはすぐに白旗を掲げた。気まずそうに顔を俯かせるデクランは、シルスウォッドから目を逸らし、ザックには背を向ける。――デクランから謝罪の言葉は得られなかったが、彼は一応、自分の非を認めたのだろう。しおらしい態度になったデクランを、シルスウォッドもザックもそれ以上は責めなかった。
「…………」
 ひとまず口を閉ざしたシルスウォッドは、先ほど渡された楽譜に再度目を通す。
 改めて見てみると、めちゃくちゃな内容が書かれている楽譜だった。勿論、楽曲としては成立している。アップテンポなニ長調で、大部分が八分音符を占めていること、それとファーストポジションで完結している構成から、これがリールから着想を得て作られた楽曲だというのは理解できたが。だとしても、めちゃくちゃだ。
 一小節の中に、平均して三から四ほど入っているロールの指示記号。偶に“気まぐれ”としか言いようがないタイミングで、唐突に入る三連符。それから『三弦でAの音をずっと鳴らし続けろ』という、いわゆる“ドローン音”の指示。――演奏すること自体は不可能ではないが、厄介な楽譜であることは確かだ。
 特にドローン音が面倒くさいことこの上ない。ずっと小指で三弦を抑え続けなければならないのに、ロールも弾けというのだから……とにかく、左手の小指と薬指の筋肉が吊りそうになる。一回、さわりを弾いてみただけでこのザマなのだから、今後繰り返し練習した時のことを考えると、シルスウォッドは憂鬱にならざるを得なかった。これは腱鞘炎になりそうだぞ、と。
「……うーん……」
 そんなことをゴチャゴチャと考えながらシルスウォッドは、目を細めて唸る。あの最高にダサい赤縁の丸眼鏡を着けられない――当時の彼は『丸眼鏡を装着する“文学青年”のシルスウォッド・A・エルトル』と『眼鏡を外した“フィドラー”のウディ』の、二つの顔を切り分けて過ごしていた――今、手元にある楽譜はとても見にくかったからだ。過矯正というやつのお陰で、近視だった目が一転、遠視になってしまっていた当時のシルスウォッドは、手元が見えにくいことに困っていた。
 とはいえ。ほんの少しだけモノの輪郭がボヤけて見えるだけで、何も見えない目になっていたわけではない。先ほども、なんとか楽譜を読み解いて演奏できたのだし、持ち前の記憶力の良さもあってメロディーラインは覚えられている。ただし、指示記号といった細部が見えにくいのだ。
 しかし、まあ、焦って暗譜する必要はないだろう。シルスウォッドはそう判断すると、譜面から目を逸らし、楽譜を半分に折りたたんだ。それから折り畳んだ楽譜をフィドル専用のハードケースの中に入れると、その上にフィドルを置く。そしてケースをパタンと閉め、バックルをパチンと締めた。……そうして一連の動作を終えたとき、ザックがふとこんなことを言ってくる。
「それにしても、凄いよな、ウディ。シヴ・ストールバリ直々に指名されるだなんて」
 すると続けざまに、ぼさぼさ髪のケビンが失礼なことを言い放ってきた。「まっ、ウディの演奏って唯一無二だもんな。あの雑音を音楽として成立させられるのって、お前ぐらいだろうし」
「それ、明らかに褒めてないよね」
 ケビンの嫌味に、笑顔と明るいトーンで切り返したシルスウォッドだったが、内心ではこの思慮が浅く失礼な同級生たちに辟易としていた。
 しかし良くしてくれるザックの手前、それは言い出せないというもの。ザックの友人である彼らを、ザックの前で口汚く罵るわけにはいかないのだ。故に彼は、我慢を続ける。
「もう用件は済んだみたいだし。帰ろうよ」
 楽器ケースを持ち上げると、シルスウォッドはザックとその友人らにそう切り出す。そうしてシルスウォッドの言葉に、ザックが「そうだな」と返事をした時。ずっとガチャガチャと騒がしい音がしていたステージの裏側から、ヴェニューの店主の大声が聞こえてきた。
「デリック! アンプはどうだ、直ったか?」
 デリックというのは、ヴェニューの店主の息子の名前。彼はシルスウォッドらと同い年らしく、エンジニアリングに力を入れている私立高校に通っているらしい。さる噂によると「かなりお高く留まっているキザ野郎」だとか。……しかしヴェニューの常連たちは、父親にこき使われている彼の姿しか見たことがなかった。ちょうど、今のように。
「まあ、なんとかメインアンプだけは応急処置が終わって、とりあえず動くようにはなったよ」
 またもステージの裏側から聞こえてきた大声は、しかしヴェニューの店主ではなく、どうやら息子デリックの方らしい。続けて息子のデリックは、間延びした声でこんなことをボヤいた。「けど正直言うとさ、完璧に壊れるまでは時間の問題って感じ。それにラインミキサーも瀕死だし、スピーカーだってほぼ全部にガタがきてるし、サブウーファーなんか完全に壊れてるし、低音はマジでスッカスカっていうか。こんなんじゃシヴ・ストールバリを迎えられないって。彼女、重低音で広がる響きがウリなのにさ……」
「つまりPA機材を全て買い替えろ、ってことか?」
 息子のボヤきに対し、怒りを以てそう反応するのは父親であるヴェニューの店主。そして苛立つ父親に、息子もまた苛立ちをぶつけた。息子のデリックは、せっつくような早口で毒突く。
「替えの部品の購入すら許してくれなかったツケが、回ってきてんだよ。こいつら全部、俺より年上の機械なのにさ、まともなメンテナンスもされないまま、こき使われ続けてるんだ。ガタが来て当然。ボイスコイルなんか焼き切れてるやつもあるし、コーン紙が破れてるのだってある。ボロボロだよ、うちの機材たちは」
 いかにも機材に関する知識がありそうな息子デリックの発言に、彼と同世代であるシルスウォッドらは感心する。彼が具体的に何を言っているのかはサッパリ理解できないが、なんかすごいヤツなんだな、と。
 だが、父親にとってはイヤというほど聞かされている言葉なのだろう。ヴェニューの店主は、息子の恨み節を一蹴し、怒鳴り声を上げた。「金がうちに無いことぐらい、お前も知ってるだろ!? とにかく、どうにかしろ!」
「いや、だけどさ」
 息子のデリックは何かを言い返そうとするが、しかし父親であるヴェニューの店主は反論の隙を与えてくれない。間髪入れずに、ヴェニューの店主は言い返す。「今はとにかく、金が無いんだよ! だからシヴ・ストールバリのライブに賭けてるんだろうが!」
「だったら尚更、サブウーファーだけは買い替えておくべきじゃ――」
「つべこべ言うんじゃねぇ、デリック! とにかく直せ!!」
 適切な部品、ないし機材そのものの買い替えを主張する息子。そして「直せ!」の一点張りの父親。――傍から見れば、息子の言い分のほうが状況をよく把握できているように思われた。少なくともシルスウォッドはそのように思ったが、とはいえヴェニューの経営が順調であるようにも見えないことから、金が無いという店主の言い分も理解できなくもない。
 しかし、機材トラブル云々にシルスウォッドらは何も関係がない。口を挿むべきでもないだろう。そこでシルスウォッドが再び「帰ろうよ」と友人たちに声を掛けるが……――誰も、その声を聞いていなかった。ザックやその友人たちは、このヴェニューの店主と息子の間で行われる親子喧嘩に聞き入っていたのだ。
 次はどんな一手が出てくるのか。それを待ちわびている友人たちの姿に、シルスウォッドは悪趣味だと呆れた。……そして彼らが待ちわびている次なる一手が、息子デリックから飛び出してくる。
「なあ、親父。俺さ、一応まだ学生なんだよ。なのに勉強の合間を縫って、この店を手伝ってやってんだぞ? なのに、なんだよその言い草は! 自分は一切、機材のことを分かってねぇくせに!!」
「てめぇ、父親になんて口を利いてるんだ!」
「そっちこそギターしか弾けねぇくせに、威張り散らしてんじゃねぇぞ! 税金とかのまどろっこしいことだって全部、母さんに丸投げしてるくせによ!」
「なッ……?!」
「シールドケーブルの断線ぐらい直せるようになってから、俺に文句を言え! 分かったか、クソ親父!!」
 最後に、息子が威勢よく父親に噛みつくと、父親は黙りこくった。どうやらこの親子喧嘩、息子のほうに軍配が上がったようだ。
 そうして舞台裏は静かになると、ザックらは興味を無くしたのか、帰り支度に取り掛かり始めた。……だがその直後に、また状況が変化する。重々しい低い声で、ヴェニューの店主が息子に向かってあることを告げたのだ。
「――お前じゃ埒が明かん。ジャックを呼んで来い、今すぐだ」
 ジャックという名前の機械に詳しい人物が、近隣に居るのだろうか。話を盗み聞いていたシルスウォッドはそんな風に思ったのだが、ことはそう簡単ではない様子。
 ジャックを呼んで来い。そう父親に命令された息子のほうは、一際大きな声で「ふざけんな!」と父親に向かって叫ぶ。面倒なことを押し付けられたことによる怒りと、少しの戸惑いが混じった息子のその声から察するに、ジャックという人物を見つけ出すことは容易なことではないらしい。そして息子のほうは、父親にこう言い返した。
「ジャクリーンは、いつどこに現れるかが分からねぇヤツなんだぞ?! 連絡手段だって無いってのに、ジャクリーンを呼んで来いだって? 無理に決まってんだろうが!」
 ジャックというのは略称で、どうやら省略されていない名前のほうはジャクリーンであるようだ。となると、その人物は女性なのだろうか? ……そのことに疑問を抱いたのか、ザックとその友人らはソワソワとし始める。その技術屋は一体どんな人物なのかという興味が、彼らの中で新たに生まれたらしい。つまり……――シルスウォッドがこのヴェニューから立ち去れるのは、まだ先になりそうだ。
 そうして興味関心が次々と生まれていく思慮の浅い友人たちに、シルスウォッドが呆れて溜息を吐いたとき。ヴェニューの店主である父親から、衝撃的な一言が飛び出してきたのだった。「だったらボストン中を駆けずり回ってでも探してこい」
「おい、親父。正気かよ?!」
「いいか、デリック。ジャックを連れてくるまでは家に戻ってくるな。ジャックを、絶対に連れて帰ってこい」
 話を全く聞かない父親に、今度は息子が圧される。親子喧嘩は遂に、息子の逆転負けという結末を迎えたようだ。
 ヴェニューの店主である父親に向かって、最後に「覚えてろ、クソジジィ!!」と捨て台詞を吐いた息子は、わざとドカドカと足音を立てながら大股で歩き、小声で悪態を吐きながら舞台裏から出てくる。
「……あのクソジジィ、マジでクソだな。ジャクリーンがそんなすぐ見つかるわけがねぇだろ。ジャクリーンの家も、電話番号も、俺はぜんッぜん知らねぇってのに……」
 灰色で無地なフード付きのスウェットシャツに、ふと目でダボダボなデニムパンツと、黒のスニーカーを合わせるそのセンスが、あからさまに“技術オタクギーク”感を滲ませているその青年こそが、ヴェニューの店主の息子であるデリック・ガーランド。のちに電子楽器メーカー“ガーランド・ミュージカル・コーポレーション”を興すことになる人物その人である。
 ――だが。この時点の彼は、単に反骨精神が旺盛な若者にすぎない。全く尊敬できない“ほぼヒモ男”な父親を見下しながらも父親の店を手伝いつつ、バリキャリで稼ぎの良い母親にヘコヘコと媚びへつらい、家事を肩代わりしながら小遣いを稼ぎ、そして学校に通いながら機械いじりの趣味を楽しむような、並みよりかは幾分か恵まれている環境にいるギークの青年でしかないのだ。
 そんなギークな青年デリックと、後に奇妙な縁で結ばれることになるとは、この時点では露ほども知らなかったシルスウォッドは、舞台裏から出てきたデリックに笑顔を向け、軽く会釈をする。それは単に、日ごろお世話になっている――かどうかは、本当のところ定かではないが――店主のその息子には愛想よくしておいた方が良いだろうという、実に打算的な判断から出た行動でしかなかったが。まあ結果的に、好印象は与えられたようだ。
 ギークな青年デリックは会釈に応えるように、強気そうな性格がどこか顔を出しているような笑みを浮かべると、彼は舞台裏を指差す。それからシルスウォッドに対して、彼は励ましの言葉のようなものを言ってきた。
「あのクソジジィの言うことなんか気にすんなよ。あいつ、ギターのことしか分かんねぇような人間だから。――それに俺は、ロワンの悲鳴じみたヴァイオリンよりも、お前のフィドルのほうが楽しそうな感じがして好きだぜ」
 そんな風に、自分の言いたいことだけを一方的に言うだけ言って、ギークな青年デリックはあっという間に走り去っていく。そういうところは、父親であるヴェニューの店主に少なからず似ているようだ。
 そうしてあっという間に走り去っていった青年の背中を見送りながら、シルスウォッドは今日何度目かの「そろそろ帰ろう」をザックらに言う。今回ばかりは彼らも応じ、出入り口の方面へと歩き出してくれた。
 これでようやくヴェニューからもザックたちからも解放されて、バーン夫妻からの頼まれごとに移行できる。シルスウォッドがそう安堵した、まさにその時。先ほど走り去っていったはずのギークな青年デリックが、ドギマギした様子で帰ってきたのだ。そして困惑顔のデリックは、舞台裏にいるはずの店主に向かって、声を張り上げてこう言う。
「親父! ジャックが、来てたぞ」
 ジャックないしジャクリーンという人物を探しに行こうと出ていったはずのデリックだったが、逆にジャックないしジャクリーンという人物のほうが“見事なタイミングで”店に来てくれたということらしい。――それは確かに、驚くしかないシチュエーションだ。
 まあ、でも自分には何も関係ない話。帰ってきたデリックの横を素通りして、シルスウォッドは店を後にしようとした――……のだが、デリックに続いて店の中に入ってきた人物の姿を見るなり、シルスウォッドはその歩みを止めてしまった。そしてそれは、シルスウォッドの後を付いてきていたザックら友人たちも同じ。
「……あっ……」
 それはゴシック・ファッションというべきか、ヴィクトリア朝時代の喪服と評するべきか。
 クリノリンにより、やや裾が広げられた黒いドレスは、手首から先と顔以外の全ての身体部位をすっぽりと覆い隠している。頭に被っているつばの広い真っ黒な帽子からは濃いヴェールを下げ、顔を更に隠していた。その上、真っ黒なレース編みの目隠しで目を隠し、更にその下の瞼は固く閉ざしているのだから……――風変わりとしか言いようがない。更に血の気のなさを演出するように施されている白い化粧は濃く、もはや元々の顔色を判別することは不可能な状態だ。加えて、シニヨンに結われているように見える黒髪は、地毛ではなくウィッグであるように見えていた。
 なんともまあ、奇妙な装いの人物だ。シルスウォッドが抱いた正直な感想はそれだ。そしてこの人物こそが件の“ジャクリーン”なのだろうと予想した上で、彼は更に疑問を抱く。こんな動きにくそうな服装をしている上に目隠しなんか着けている人間が、本当に機材の修理などできるのか、と。――だがその人物が武骨な工具箱を左手に、フェルトペンとスケッチブックを右手に持っていることから、その人こそが技術屋のジャクリーンと見て間違いないのだろう。
 そしてこの予想は実際に当たった。息子の声を聞いて舞台裏から出てきた店主が、黒ずくめの人物を“ジャック”と呼んだからだ。
「よお、ジャック。いいタイミングで来てくれたな。ちょうど今、お前に仕事を頼みたいと思ってたところなんだよ。毎度タイミングが良くて助かるぜ」
 ヴェニューの店主にそう声を掛けられると、ジャックないしジャクリーンという黒ずくめの人物は工具箱をその場に置き、そしてスケッチブックを広げた。それからスケッチブックのあるページに、極太の黒いフェルトペンで文字を走り書きしていく。乱雑だが読めなくはない文字で短い文章を手早く書き終えると、黒ずくめの人物は書いた文章をヴェニューの店主に見せた。
『二〇〇ドル。支払いは二〇ドル札で』
 見せつけられたスケッチブックには、そんな言葉が書かれていた。するとヴェニューの店主は顔を顰めさせ、腕を組む。黒ずくめの人物が要求した金額は、決して安いとはいえないものだったからだ。
 煮え切らない店主の態度に、黒ずくめの人物は口角を下げさせた。それから黒ずくめの人物はスケッチブックをめくり、先ほど使ったページの裏にフェルトペンで文字を書いていく。そして再び、黒ずくめの人物はヴェニューの店主にスケッチブックに書いた文章を見せつけた。
『壊れた機材を全部買い替えるよりは、ずっとお得だと思うけど。例えば、新品のサブウーファーなら一台で五一〇ドルぐらいが相場』
 サブウーファーは通常、二台セットで使う。そんなサブウーファー一台の値段が五一〇ドルぐらいだと提示されてしまえば……――ヴェニューの店主も、黒ずくめの人物が提示した額を呑むしかない。サブウーファー二台を買い替える額の五分の一で、より多くの機材を修理できるなら、たしかにこれは“お得な話”だったからだ。
「分かった、分ぁかった。だが二〇〇ドル分の二〇ドル札なんざ、すぐには用意できねぇ。来週の金曜日までにはどうにかする、それまで支払いは待ってくれ」
 ヴェニューの店主がそう言葉を返したことにより、商談は成立した様子。黒ずくめの人物はスケッチブックを畳むと、足許に置いた工具箱を手に取る。それから黒ずくめの人物は返事の代わりとして口角を上げ、浮かべた微笑をヴェニューの店主へと向けた――しかし目隠しの下にある両目は、固く閉ざされたままだった。
 そんなこんな、黒ずくめの人物が条件を呑んだことに安堵したヴェニューの店主は、再び舞台裏へと消えていく。そして黒ずくめの人物もその後を追って、舞台裏の方へと歩き出した。……と思われたのだが。
「……?」
 未だ立ち止まったままでいたシルスウォッドの傍に来ると、黒ずくめの人物は脇を素通りすることなく、そこで止まった。そして立ち止まった黒ずくめの人物は、再度手に持っていた工具箱を足許に置くと、またスケッチブックを開き、スケッチブックの中にフェルトペンで文章をさらさらと書いてく。
 それから黒ずくめの人物は書きあがった文章を、今度はシルスウォッドに見せてきた。
『牡蠣は止めておいた方が良い。ノロウイルスが発生した店と報道されたくなければ』
 黒ずくめの人物が書いた“牡蠣”という文字に、シルスウォッドは目を疑った。というのもヴェニューを出た後、シルスウォッドは牡蠣を買いにスーパーマーケットに行く予定だったからだ。昨晩にサニーから、牡蠣を買ってこいと頼まれていた為である。それに牡蠣を買うための代金も、サニーから事前に受け取っていた。
「……えっ。なんで、それを知って……――?」
 なぜ相手には、自分が牡蠣を買おうとしていたことが分かったのか。シルスウォッドはそれを黒ずくめの人物に尋ねようとしたが、唐突な出来事に呆気にとられていたあまり、その機会を逸してしまう。シルスウォッドがぼうっと突っ立っている間に、黒ずくめの人物は去っていってしまったからだ。
 そういうわけでシルスウォッドが、舞台裏のほうに向かっていった黒い背中を、ただ見つめることしかできないでいると。そんなシルスウォッドの横に、ザックが並ぶ。そしてザックはこんなことを訊いてきた。
「今のジャックってのは、何者なんだ?」
 しかし、そんなことを訊かれたところでシルスウォッドには答えようがないというもの。今はじめて会った相手なのだから、シルスウォッドがその“ジャクリーン”について何かを知っているわけがないのだ。
 そうして答えることができないシルスウォッドが黙っていると、ヴェニューの店主の息子であるデリックが口を挿んでくる。デリックが代わりに、ジャックないしジャクリーンについて答えた。
ジャック・オブ・オール・トレイズ便利屋。だから、ジャックって皆は呼んでる。ただし本人は“ジャクリーン”と呼べって、いつも言ってるよ。とはいえ、誰も彼の本名を知らないわけだが……」
 ジャックという通称名は、便利屋を意味する言葉から一部拝借したものである。デリックが明かしたその事実から、ジャックないしジャクリーンという人物の職業が判明した。……だが、シルスウォッドの中から違和感は消えない。あんな動きにくそうな服装で便利屋なんかできるものなのか、と。そこばかりが気になって仕方がないのだ。
 そういうわけでシルスウォッドが、“ジャクリーン”という人物が着ていた服装の機能性ばかりに注目している一方。ザックは別のことが気になっていたようだ。それはデリックが最後にさり気なく発した「誰も“彼の”本名を知らない」というワード。
 そして単細胞なザックは、思ったことをすぐに言葉にしてしまう。いつも通りの無邪気さで、思慮の浅い発言をしたのだ。
「彼? えっ、じゃあ、アレって女装なのか? それとも、アレか? 性別がこんがらがってる系のやつ?」
 繊細な性格の持ち主が聞けば、場合によっては深く傷つく可能性すらあるストレートな言葉に、シルスウォッドも、デリックも、それ以外のザックの友人たちも、なんとも言えない気まずそうな表情を浮かべていた。だが、なんとなく立ち込めた気まずい空気感の理由が、当のザックにはさっぱり分からなかったらしい。ザックは不思議そうに首を傾げさせるだけで、反省をするにも理由が分からないから反省のしようがないといった態度を取っていた。
 すると、店主の息子であるデリックが溜息を吐く。それからデリックが“ジャクリーン”の奇妙な服装に関係したある話を明かしてくれた。
「酔狂な客が居るんだとさ。この服を着てくれ、っていうだけの依頼が来るらしい。目隠しも、喋らないっていうスタイルも、その客からの依頼なんだとよ。その客がとんでもない大金積んでくれるから、あいつは渋々オーダーを受け入れてるそうだ」
 そんなエピソードを彼が言い終えたところで、舞台裏からデリックを呼ぶヴェニューの店主の声が聞こえてくる。
「デリック! ジャックが、お前を呼んでるぞ。作業を手伝えとよ!」
 その声を聞いたデリックは、すぐに舞台裏へと走っていった。そうして残されたのは、シルスウォッドとザック、それからザックの友人であるケビンとデクランの四人となる。
「…………」
 ヴェニューの店主ら親子による喧嘩も鎮まり、ジャクリーンという度肝を抜かされる人物も去ったことで、場が静まり返る。今度こそ、帰ることができそうだ。
 そうして止まっていた歩みを、シルスウォッドが再開した時。ザックの友人である、ボサボサ髪のケビンがシルスウォッドの傍に駆け寄ってきた。そしてケビンは小声で、シルスウォッドにあることを囁く。
「――知ってるか、アーティー。さっき話してたオーナーの息子、お前と同じ大学を志望してるらしいぜ。ボストン総合大学って、たしかお前の志望大学だっただろ?」
「……えっ」
 ハイスクールの最終学年に突入していたこの頃、周囲もシルスウォッド自身も、大学入試で気を揉んでいた。シルスウォッドもつい先日、ブレナン夫妻やら学校やらと相談を重ねた上で、志望する大学に願書を送ったばかり。数か月後に送られてくることになるだろう合否判定に、ヤキモキとさせられていた時期だったのだ。
 そんな時に聞かされた話が、それ。……まさか知り合いの中に同じ大学を志望する者が現れるとは考えてもいなかったシルスウォッドは、その言葉を聞いて思考停止してしまった。
 こんなことを言うのはアレだが……――シルスウォッドはなるべく、ザックのような“学力も低いし、親の所得もどちらかといえば低いほうにある人々”と積極的につるむようにしていたし、そもそも人付き合いをあまり広げないように気を配っていた。そしてこれは、なるべく学校外では“ウディ”という名前で過ごすようにしていた理由と繋がっている。――エルトル家の次男が、アイリッシュパブに通い詰めて呑気にフィドルなんかを弾いているということが、中流ないし上流階級の住人にバレたら最後、バーンズパブという逃げ場を父親から奪われかねないからだ。
 ゆえに大学に進学した際には、周囲の学生たちが自分の来歴について“何も知らない”状態であることが彼にとって望ましかったのである。アイリッシュパブで客寄せ役のフィドラーをやっていたとか、父親と兄と犬猿の仲でしょっちゅう怪我を作っていただとか、ハイスクール時代はバンド活動に現を抜かして勉強そっちのけで遊んでいただとか、そんなことを知っている人間が大学の内側に居てほしくなかったのだ。しがない学生としての自分と、ウディという別の自分を、シルスウォッドは分けていたかったのだから。
 だから、シルスウォッドはアレコレと考えた末、思考停止して固まってしまったのだ。
 ヴェニューの店主の息子デリックと、仮に大学で鉢合わせてしまった時。相手に「アーサー・エルトの息子が、フィドラーの“ウディ・C”と同一人物」だということを見破られてしまったら、どうなることか。そして見破られてしまった事実を、言いふらされたりでもしたら、どうなることか。
 ……――しかし、まあ、全てはまだ杞憂の段階。そもそも「大学に合格できるかどうか」という問題があるのだから。
「……それ、すごく、ヤバい」
 茫然自失とするあまり、言葉を選ぶ能力が大幅に欠如したシルスウォッドは、虚ろな顔でそう呟く。するとザックが、そんなシルスウォッドにツッコミを入れるのだった。
「すっげぇ語彙力が下がったな、今。らしくないじゃん」
 そんな調子で、すっかり意気消沈しているシルスウォッドだったが。しかし彼の志望していた大学は、小さな単科大学ではなく州内で最も大きい総合大学。ボストン総合大学だ。
 ボストン総合大学とは、先の大戦でボストンが焼け野原になったことを機に新たに設立された学校。ボストン内にかつて存在していた由緒正しい様々な大学の、残存している限りの破片をすべて取り込み、その結果として世界でも類を見ない規模に進化を遂げたモンスター大学だ。医学、工学、建築学、形式科学、自然科学、社会科学・人文科学の六つのカレッジがあり、更に三〇〇を超える専攻科目が存在している。
 一つ一つのカレッジが巨大であり、その巨大なカレッジが六つも存在しているわけで。つまり、違うカレッジを志望している一人の学生と、大学構内で偶然に鉢合わせる確率などタカが知れているというわけだ。過剰に警戒する必要など、本来はないのである。
「まあ、オーナーの息子は工学カレッジ志望らしいぜ。たしかお前は、人文科学だったろ? なら、まあ、別に……ばったり会うなんてことは、ないんじゃないのか?」
 ザックの友人であるケビンは、そうフォローするが。しかしシルスウォッドはその性格上、警戒するということを止められない人間である。何故ならば、人間が想像できる限りの最悪の展開は、たいてい現実で起こるものだと彼は知っているからだ。
「そう、人文科学カレッジ……」
 すっかり気落ちしているシルスウォッドの耳には、ケビンのフォローなどロクに聞こえていない。適当にそう返事をした直後に発した、彼のボヤきがその証明である。
「――……やっぱバンドなんて手伝うんじゃなかった。身元がバレたら最後、僕の人生は終わりだよ。最ッ悪、あー、もう……」
 バンド活動の全否定とも取られかねないシルスウォッドの発言に、ザックは少し悲しそうな顔をした。しかし、自分のことで頭がいっぱいになっていたその時のシルスウォッドは、ザックの表情など見ていない。溜息を吐いて肩を落とすシルスウォッドは、ひとり先にヴェニューの出口へと足早に歩き出してしまう。
 そんなシルスウォッドの背中に声を掛けたのは、ザックの友人のひとりであるデクラン。
「なあ、アーティー。俺たち今からザックん家のレストランに行くんだけど、お前も来る?」
 しかし、この日はバーンズパブに行かなければいけなかった。ゆえにシルスウォッドは、デクランからの誘いを断る。「誘ってくれてありがとう。でも僕は行けないよ。用事があるから」
「用事って? フェンシングか?」
「フェンシングは明日。今日はこの後にスーパーマーケットに行って、牡蠣を四パウンド購入してから、バーンズパブに行く予定だったんだ。けど、さっき牡蠣は止めとけって忠告されたからね。だから、まあ……買わなかった言い訳を考えながら、とりあえずバーンズパブに行こうかと思ってるんだ」
 デクランからの問いかけに、シルスウォッドは早口でそう答えると。足早にヴェニューを出て、外に停めていた自転車――血縁のない戸籍上の母エリザベス・エルトルから譲り受けた、折りたたみ可能な黒の自転車――に乗る。フィドルの入っている重たいハードケースを、リュックサックのように背負うと、シルスウォッドは颯爽とバーンズパブのある方角へと消えていってしまった。
 そんなシルスウォッドの背中を、遅れてヴェニューから出てきたザックは眉を顰めつつ見送る。そしてザックは、こんなことを呟いた。
「……シヴのライブは三日後だけど、あいつ、あんな調子で大丈夫か?」
 楽譜が渡されたのは今日だが、しかし本番は三日後。それなのに、牡蠣のことやら大学のことやら、別のことばかりに気を取られているように見えなくもないシルスウォッドの姿に、ザックは少しの不安を感じていたのだ。
 あいつ、本番でやらかしたりしないよな、と。


+ + +



 ヴェニューを出た、約一時間後。自転車を飛ばしてきたシルスウォッドが、フィドルと自転車以外を持たずにバーンズパブに帰り着く――という表現が正しいかどうかは分からないが、少なくとも彼にとってバーンズパブは“ボストンで一番落ち着ける、家のような場所”になっていた――と勿論、牡蠣を待っていたサニー・バーンは渋い顔でシルスウォッドを出迎えた。
「……なんで、牡蠣を買ってこなかったんだい」
「受け取ったお代は全部返すよ」
 折りたたんだ自転車を裏部屋に入れ、楽器も二階に置いて、そうして一階のパブスぺースに戻ってきたシルスウォッドは、カウンター裏のシンクで手を洗いながら、不機嫌そうに腕を組むサニー・バーンにそう言葉を返す。
 さほど反省していないかのように、ヘラヘラと笑いながらシルスウォッドがそう言うと、その態度がサニー・バーンの気に障ったらしい。するとサニー・バーンは一段階ほど声色を下げて、もう一度牡蠣を買ってこなかった理由を問い質してきた。
「それは当然だ。だが、なんで買ってこなかったんだい、牡蠣を」
 ピリピリとした雰囲気のサニー・バーンの声に、関係のないライアン・バーンが肩をビクつかせる。床のモップ掛けを無言で行うライアン・バーンは、パブスぺースの隅のほうに控えて妻サニー・バーンの様子を伺っていた。
 しかし怒られている当のシルスウォッドは、ヘラヘラとした調子を崩さない。彼は洗った手についた水気をティッシュペーパーで拭い、そのティッシュペーパーをゴミ箱に捨てると、穿いていたジーンズパンツの腰ポケットに手を伸ばし、ポケットの中から財布――父親アーサー・エルトルの専属運転手となったランドン・アトキンソンから、三年前に貰ったワニ革の財布――を取る。そして彼は財布ごとサニー・バーンに手渡すと、牡蠣を断念した理由を正直に伝えた。
「ヴェニューで会った人に、牡蠣はやめろって忠告されたんだよ。ノロウイルスが出た店って報道されたくなければ、牡蠣を買うなって。それで、買わない方がいいかなって思ったんだ。なんかその人、おっかない雰囲気だったからさ」
 すると財布を受け取ったサニー・バーンは、昨日のうちに渡した分の代金を財布から抜き取ると、財布をシルスウォッドに返す。
「なにも生で提供するわけじゃないんだから、ノロウイルスなんて気にしなくても……」
 財布を返しながらそう言ったサニー・バーンの声は、いつも通りのトーンに戻っていた。
 すると、そんなサニー・バーンの様子に安堵したのだろう。それまで息を潜めていたライアン・バーンが、いつものように余計な一言をねじ込んできた。
「シェイマスのジジィが、牡蠣を楽しみにしてたのにな。お前のせいで台無しだぜ、ウディ」
 シェイマスのジジィ。それはこのバーンズパブの常連客、シェイマス・ブラウンのこと。大酒のみであり、そしてフィドラーであるその人物は、シルスウォッドのことをよく可愛がってくれている常連客のひとりである。シルスウォッドにフィドルのイロハを教えてくれたのも、彼だった。
 そんな人物の名前を出されてしまうと、神経の図太いシルスウォッドも流石に後ろめたさを覚えるしかない。
「ははっ、そりゃ、なんというか……――ごめん」
 そうして苦笑うシルスウォッドは、続けてこんなことを言った。「じゃあ、ロブスターでも買ってくる? そしたらロブスターロールでも僕が作るよ」
「この店には貧乏人しか来ねぇってのに、ロブスターなんて高級品を用意したところで注文するやつがいるか!」
 シルスウォッドとしては冗談のつもりで放った言葉であったのだが、ライアン・バーンは割と真剣に受け取っていたらしい。とてもジョークとは思えない声色で、ガツンと叱責されてしまった。
 しかし、一方で冗談が通じていたサニー・バーンの方は大口を開けて笑っている。目から涙まで流して笑っているサニー・バーンの様子に、夫のライアン・バーンが戸惑っていると。サニー・バーンが、ひとりだけ冗談の通じていないライアン・バーンに状況を簡単に説明するのだった。
「今のは冗談に決まってるじゃないか。アンタ、まさかウディのロブスター嫌いを忘れたのかい?」
 ――……そんなこんな、大学の合否を待つ十八歳になっていたシルスウォッドだが。ここ数年間で彼を取り巻く状況は大きく変化していた。
 まず、変声期。十四歳になる手前ぐらいのころに、喉の違和感を覚え始めたのが最初だった。少し喋るだけで咳が出るようになり……つまり、まあ……風邪でも引いたのかと勘違いしたのである。そうして極力喋らないよう、三ヶ月ほど黙りこくっている期間があった。そして、その黙りこくっている期間があったお陰が、あっという間に変声期は終わり、今となっては随分と落ち着いた低い声に変っている。――因みに「あれは風邪じゃなく、変声期だったんじゃ?」と気付いたのは、十七歳の頃。そんな話をした時、ライアン・バーンには腹を抱えるほどにまで大爆笑されたものだ。
「ああ、ロブスター。そんな話もあったな、そういや……」
 そして次は、学校。ミドルスクールを無事に卒業したシルスウォッドは、叔母ドロレスの強い勧めもあって公立のハイスクールに進んだ。そしてこれは、隣人エローラ家の一人娘ブリジットも同じ。勿論ザックも、同じ公立校へと進学した。
 叔母ドロレスが公立校を強く勧めてきたのには、理由がある。それは「異なる収入世帯に住まう人々と、対等な立場で話すことができる最後の機会が、公立のハイスクールだから」というもの。私立校に進んでしまうと、私立校の高い学費を支払える人々としか関わらなくなり、考え方に偏りが出てしまうかもしれないということを彼女は懸念していたのだ。父親や、血縁のない戸籍上の母親エリザベスは、教会系の保守的な私立校にシルスウォッドを入学させたいと考えていたようだが……――シルスウォッドが選んだのは、公立校。その選択に、少なくとも彼は後悔していない。
 ……が。学校内では“世間からとても嫌われている良家の出身”ということもあって、アメフト部やアイスホッケー部の連中からは、難癖に近い因縁を付けられたり、軽いイジメにあったりはしている。とはいえそれらは、異母兄ジョナサンから受けてきた暴力の数々と比較すればどれも生ぬるいもの。さして問題ではなかった。少なくとも、彼にとっては。
「ロブスター……。あの件は思い出すだけで吐き気がするよ」
 そして、フェンシング教室。以前は毎日のように通っていたものだが、今では週一回、日曜日の午前中だけとなっている。ハイスクールに上がってからは、社会人に交じって趣味程度にやっているという感じだ。しかし未だに、フェンシングのコーチであるラルフ・ライミントンからは悪い意味で目を付けられている。社会人たちの目の前で「お前のはフェンシングじゃない。お前のやってることは、闇雲に突っ込むだけのミサイルだ!」と、未だに怒られていた。
 しかしシルスウォッドは、ラルフ・ライミントンに嫌われているわけではない。現にラルフ・ライミントンは偶に、彼の家族を連れてバーンズパブへと遊びに来てくれるからだ。それにシルスウォッドはラルフ・ライミントンの妻であるコートニーに、ある件のことでとても感謝されているし、そしてラルフ・ライミントンの三人いる息子のうちの一人、長男のダーレンからはとても慕われていた。
 ――というのも、ラルフ・ライミントンの長男ダーレンはロボット製作が好きな気弱な少年であり、そして三年前までは学校でひどく虐められていたのだ。因みにダーレンを虐めていたのは、世界選手権に出場するだけの実力を持つアマチュアのフェンシング選手マティアス・シュミット。そのマティアスという人物は、シルスウォッドと同い年で、ダーレンよりも二つ年上だった。
 そしてダーレンの父親であるラルフ・ライミントンは、フェンシング指導者という己の立場を利用して、善意からマティアスのコーチに「うちに面白い選手がいる」という話を持ち掛け、練習試合の機会を設けたことがある。そうして自分の息子を虐めているフェンシング選手マティアスと、スポーツマンシップの欠片も持ち合わせていない“闇雲に突っ込むだけの、殺意にまみれたミサイル”ことシルスウォッドを、故意にマッチングさせたことがあった。
 その練習試合は、シルスウォッドの完封勝ちで終わった。シルスウォッドが発していた“尋常ならざる威圧感”と、間合いを測ることなく容赦なく一直線に突っ込んでくる好戦的すぎるスタイル――ないし、ルール無視の大暴走――に、マティアスが怯えてしまったことが敗因だ。……そういうわけでシルスウォッドは、敗者となったマティアスに「この無様な結果を世に晒されたくなければ、ダーレンに二度と手を出すな」という約束を取り付けた。以来、シルスウォッドはダーレンにとても慕われているし、ダーレンら三兄弟の両親から信頼されている。……因みにマティアスはその後、コーチからの訓練が過酷なものになったらしく、毎晩涙で枕を濡らしているとか、なんとか。
 そんなこんなラルフ・ライミントンは決して、悪意を以てシルスウォッドを“ミサイル”呼ばわりしているわけではない。しかし……――ラルフ・ライミントンは一度も、シルスウォッドがフェンシングの大会に出場することを許可してくれたことは無いのだが。
「……なぁ、サニー。やっぱりここは、ロブスターを買ってくるべきか?」
 そしてラルフ・ライミントンの弟であり、新聞配達員を経て児童養護施設の指導員となったレーノン・ライミントンとの関係にも変化が生じ、それが原因でシルスウォッド自身も変化しつつあった。
 それはシルスウォッドが十三歳の頃に、シルスウォッドの父親アーサー・エルトルが引き起こした騒動に起因している。あれは十三歳の冬、父親が結局ドロレスとの約束を破り、シルスウォッドを「支援者向けのパーティーに連れて行く!」と騒ぎ立てたときだ。一度きりという約束を譲る気はなかったシルスウォッドは、絶対に行かないと父親に抵抗した。そしてその晩、シルスウォッドは久しぶりに父親からひどく殴られたのである。
 その日は家政婦マリアムが去った後だったこともあって、止めてくれる人もいなかった。そして隣人のエローラ家は、旅行中で居なかった。助けてくれる人が、すぐ近くにはいない状況だったのだ。
 ならばシルスウォッドがどうしたのかといえば……家出だ。ボストンバッグに必要最低限の荷物と数日は着まわせるだけの量の衣服を詰めて、家を飛び出したのである。そうして比較的近所に住んでいるザックの家に、まずは逃げ込んだのだ。
 なぜ、ザックの家に向かったのか。これには『距離的に近かった』以外にも理由がある。父親の専属運転手ランドン・アトキンソンが、ザックの家族が経営するレストランの常連客で、彼ら家族にシルスウォッドの諸々の事情を暴露していたからというのもあるが、一番の理由はそれではない。ザックの家族たちは、その前の年の同じ時期に起きた“アーサー・エルトルの支援者向けのパーティー”でシルスウォッドがどうなったかを、よく知っていたからだ。
 ドロレスが「一度きり」という条件で、シルスウォッドを支援者向けのパーティーに連れて行くことを、シルスウォッドの父親であるアーサー・エルトルに渋々許可をしたのが、前年のこと。そしてそのパーティーの結果は、散々だった。
 人間性も、モラルも、自制心も、思いやりも、へったくれもない人間が集まるパーティーで飛び交う、聞き捨てならない言葉の数々。それはシルスウォッドに向けられた言葉たちではなく、ここには居ない“誰か”に向けられたものばかりであったが、けれどもその言葉たちはシルスウォッドのピリついていた神経を追い詰めていった。その後シルスウォッドがどうなったかといえば……――パニック状態。彼はパーティー会場から逃げ、個室のトイレにこもると、胃の内容物が全てできるまで嘔吐し続けた。やがて吐き気が落ち着くと、次にやってきたのは過呼吸。勝手に会場から抜け出し、トイレなんかにこもっていることが父親にバレたら、きっと殴られるだけでは済まない――そんな想像力ばかりが働いてしまい、パニックがより大きなパニックを呼ぶという悪循環に嵌っていた。
 気が動転したシルスウォッドは最終的に、父親に無断でパーティー会場から逃げ出した(因みに、この時のパーティー会場に豪華なロブスター料理が大量に用意されていたことが、シルスウォッドのロブスター嫌いの原因となっている)。そうしてシルスウォッドは駐車場へと走り、リムジンの中で待機していた運転手ランドン・アトキンソンに泣きついたのである。早くこんな場所から出たい、と。……そうして運転手ランドン・アトキンソンは車を出し、父親に無断でシルスウォッドを別の場所へと連れ出した。その場所こそが、ザックの家族が営むレストラン。あの時にザックの父親が出してくれた真っ白なクラムチャウダーは、パーティー会場に用意されていた高級でありながらも風味がほとんどない料理たちよりも圧倒的に美味しくて……――という話は措いといて。
 悲惨なパーティーがあった翌年の全く同じ時期に、鼻から血を垂らし、左頬に大きな青あざを作った姿で現れたシルスウォッドを見て、ザックの家族はすぐに事情を察した。そうして彼らはすぐさま、警察に通報しようとしたのだが。シルスウォッドはそれを制止し、代わりに電話を貸してもらって、レーノン・ライミントンの勤務先である児童養護施設に直接連絡をした。……それが以前に、レーノン・ライミントンと取り決めた手順だったからだ。
 そうしてシルスウォッドは、レーノン・ライミントンに迎えに来てもらい、二日間だけ施設で過ごすことになった。三日後にはブレナン夫妻がハリファックスから迎えに来てくれることになっていたので、それまでの間、彼はレーノン・ライミントンの勤める施設で匿ってもらったのだ。
 施設で過ごした二日間が、良くも悪くもシルスウォッドの考え方を変えた。悲惨な境遇にいる子供は自分だけではなく、なんならまだ衣食住は保証してもらっているだけ自分はマシな方なのだという事実を知ったからだ。
 それからシルスウォッドは、過剰に未来を悲観したり、自分を無暗に卑下することを止めた。父親の理不尽に対する怒りを、無力感に変えて自分を責めるのではなく、父親への怒りを父親への怒りとして保ち、怒りを燃やして、「いつかあのクソジジィを社会的に抹殺してやる」という復讐心を掻き立て、それを未来への原動力とすることにしたのだ。
 そして、それからは数か月に一度ほどのペースで、休日にレーノン・ライミントンのいる児童養護施設を訪ねるようになった(これはレーノン・ライミントンの兄であり、シルスウォッドのフェンシングのコーチでもあるラルフ・ライミントンからの頼まれごとであったりもしていた)。シルスウォッドは施設にいる子供たちの勉強の面倒を見てやったり、遊び相手を務めたり、絵本や紙芝居の読み聞かせをしている。それはレーノン・ライミントンに偶の休息を与えるためでもあり、シルスウォッド自身が怒りの炎を絶やさないようにするために必要な行為であった。
 それは決して、健全な行いではない。極めて不健全な感情に基づく、偽善的な行いだからだ。それでも多くの人に喜ばれる行いであることも事実。
 ――……なら別に、何も間違っちゃいないだろう?
 そんな風に考えるようになったシルスウォッドは、少しずつだが邪悪な方向に傾きつつあるといえるのかもしれない。その一連の行動は、自分本位な理由から誰かを利用している、ともいえなくはないのだから。
「ひっどいなー。なんだよ、それー……」
 そして、エルトル家の隣人であるエローラ家の一人娘、ブリジットとの関係にも変化が生じていた。
 というのも、シルスウォッドは彼是一年ほど彼女に無視をされている。挨拶をしても、話しかけても、学校でもアパートの中でも街中でも、何をしてもどんな場所だろうとも、無視をされるのだ。しかし、これはシルスウォッドに非がある。彼女の初恋――であるかどうかは、正直なところシルスウォッドには分からない――を、彼が馬鹿にするようなことを言ったからだ。
 シルスウォッドがやらかしたのは、去年の夏のこと。その頃、ブリジットの父親であるリチャード・エローラ医師は、奇妙な患者に手を焼いていた。それは記憶喪失だという、ブリジットやシルスウォッドらと同世代と思しき青年。経歴も不明で、名前も定かでないその青年は、ひとまず周囲から“ウルフ”と呼ばれていたという。そしてブリジットは、その青年に首ったけになっていた。
 その“ウルフ”という青年がどんな人物であるのかは、シルスウォッドはよく知らない。会ったこともないからだ。だが、あのリチャード・エローラ医師を困らせ、かつ普通の人間に興味を抱かないブリジットの興味を引くような人物なのだから……さぞかし、危険な人物なのだろう。シルスウォッドは勝手に、そんなことを思っていた。
 それに“ウルフ”という青年にのめり込んでいくブリジットの姿を横で見ていて、シルスウォッドには思うところがあったのだ。なんだか危険な沼に片足を突っ込んでいるような、そんな気配が彼女からしていたのである。だから彼はブリジットに、こう言ったのだ。「ブリジット、悪いことは言わない。彼はやめておけ」と。――まあ、その言葉の前後に、シルスウォッドは散々な皮肉や嫌味も言ってしまったわけなのだが。
 たぶんその言葉たちが、ブリジットの怒りを買ったのだ。以来ブリジットは、一切口を利いてくれなくなった。挨拶は全て無視され、謝罪の言葉も受け付けてくれなくなった。そしてシルスウォッドはそれから、エローラ家の人々と関わるのが少々気まずくなり、最近はエローラ家に出入りしていない。街中でブリジットの両親とばったり会った時には挨拶をするし、話もするが、それぐらいだ。
 そんなこんなで、ブリジットとはどうにも気まずい関係になっている。だが、そろそろ謝罪の言葉ぐらい聞いてくれたっていいんじゃないのかという不満も、シルスウォッドは彼女に感じていた。あれから、もう一年以上が経過しているのだから。
 そして、ブリジットとの喧嘩の要因となった青年“ウルフ”だが……――風の噂によると彼は二ヶ月ぐらい前に失踪したっきり、行方知れずとなっているそうだ。学校で見かけるブリジットの顔が最近どこか暗いように見えるのは、たぶんこの件がキッカケだろう。
「そうさ。意地悪なことを言うんじゃないよ、ライアン。ウディが可愛そうじゃないか」
 それから、エルトル家の中には大きな変化が起こっていた。
 まずは、シルスウォッドについて。
 彼はハイスクール進学を機に、血の繋がりのない母親エリザベスから許可をもらい、アルバイトを始めた。これには「ハイスクール卒業を機に家を出たいから、そのための資金を作っておきたい」という理由がある。父親でなくエリザベスの許可を求めたのも、エリザベスが自分をこの家から追い出したいと願っていることを知っていたからこそ。シルスウォッドを家に閉じ込めておきたいと願っている父親は、絶対にアルバイトなど許してはくれないだろう。だがシルスウォッドを家から追い出したいエリザベスならきっと快諾してくれるだろうし、それにエリザベスに大きな負い目がある父親は、エリザベスの決定に異論など言える立場ではない。だから彼は、エリザベスに許可を求めたのである。
 そしてエリザベスはアルバイトを認めると同時に、彼女がもう使っていない自転車をシルスウォッドに譲ってくれた。……それが十五歳のときのこと。そして自転車を入手して以来、シルスウォッドの行動域は広がり、運転手ランドン・アトキンソンの助けは不要になった。
 そんなこんなで、アルバイトが解禁になったわけだが。アルバイトをしているといっても、現状はザックの家族が営むレストランだけ。木曜日を除く平日と土曜日は、ザックの家族が営むレストランで働かせてもらっている。平日は午後五時から午後八時まで、土曜日は朝十時から午後六時まで、配膳や皿洗いをやっているのだ。
 そしてザックの家族が営むレストランでの就業を終えた後、決まってシルスウォッドはバーンズパブへと向かう。そこで夜の十時まで、店の手伝いをするのだ。――それが、ハイスクール時代のシルスウォッドの日課といったところ。
 あとエルトル家の住人が誰もいない日曜日の朝には、家政婦マリアムが料理を教えてくれていた。彼女は業務において必要ではないことは何も言いはしないが、けれどもシルスウォッドがエルトル家を出て行くことを応援してくれているらしい。料理の他にも、掃除や洗濯といった一人暮らしに必要な家事のスキルを彼女が教えてくれているのが、その証拠。エルトル家の裏の顔に知らん顔を決め込んでいる家政婦マリアムだが、実際のところ彼女は多くのことを知っているのだ。
 続いて、異母兄ジョナサン。こちらは大幅に変化している。
 かつては外でも内でも暴力的で“底意地の悪い野郎ジャーク・ジョン”だなんてあだ名も付けられていたジョナサンだが、今ではその暴力性は鳴りを潜めている。それはひとえに、薬物のおかげだ。
 ジョナサンは今、ジャンキーとなっている。咳止めシロップや頭痛薬から始まり、それが大麻やケタミンを経て、徐々にコカインやヘロインに移行し、今では覚醒剤や、名前や配合物さえも定かでない“ヤバい”薬物に手を出していて……つまり、ジョナサンはもはや人間と呼ぶに相応しい姿をしていない。家の中はお陰で滅茶苦茶な状況であり、父親もエリザベスもこの事実が世間に知られることを恐れているし、そしてお互いにその責任を擦り付けあっていた。
 だが、ジョナサンがジャンキーないし廃人になってしまった理由は、両親のどちらにも等しく責任がある。ジョナサンは明らかに早い段階からサインを発していたし、そのサインを汲まずに世間体ばかりを優先して、ジョナサンの惨状を放置し続けたのは、父親はもちろんのこと、エリザベスもそうだったからだ。
 ジョナサンの学力に問題があったのは、六歳の時点で既に分かっていたこと。それにラテン文字を正しく書けず、左右反対に書き間違うことが一〇歳の時点で頻発していたことは、両親のどちらも把握していたはずだ。さらにジョナサンは十二歳の時点で掛け算も割り算もまともに出来ていなかったし、十五歳になった時点でも「予算内に買い物を済ませる能力」すら持ち合わせていなかった。それを両親のどちらも、知っていたはずだ。父親がそれら問題を挙げながらジョナサンを怒鳴りつけていた光景を、シルスウォッドは何度か見ているのだから。
 だが、両親のどちらもジョナサンが普通でないことを認めたがらなかった。
 ジョナサンのような子供の専門家である人物が、隣に住んでいるにも関わらず。両親のどちらも、外部に助けを求めたことが一度もなかった。
 父親の見栄っ張りさが、全てを邪魔していた。お陰でシルスウォッドは、とばっちりを食らい続けてきた。だが、父親は全てに目を背けてきた。エリザベスも、問題は全てシルスウォッドに押し付けて、何もしてこなかった。そしてシルスウォッドは、ずっとジョナサンから逃げ続けた。誰も、ジョナサンの問題と向き合わなかったわけである。
 それどころか父親は、愚行を重ね続けた。自分の見栄のためだけに、ジョナサンを犠牲にし続けた。自分の母校に、ジョナサンを通わせたのだ。そうして学力の乏しいジョナサンを、あろうことかロースクールに入れた。金とコネクションによって、ジョナサンを強引に難関大学へとねじ込んだのだ。
 当然、ジョナサンがロースクールの内容についていけるわけがない。そしてジョナサンは、学生たちから白い目で見られた。今までは親の地位と暴力によって周囲をねじ伏せてこられたが、ロースクールではそれは通用しない。どの学生たちも、それなりのステータスを保有していたし、それどころかアーサー・エルトルとは比較にならないほどの権力を持った人物を親に持っている学生すらボチボチ居たからだ。
 落ちこぼれという現実を、イヤというほど見せつけられたジョナサンが、何に慰めを求めたのか。それが薬物というわけだ。
 そんなこんなで廃人になってしまったジョナサンだが。そのとばっちりを、シルスウォッドはまた喰らっている。自分の下の世話すらできなくなったジョナサンの面倒を、シルスウォッドは押し付けられているのだ。父親に髪を引っ掴まれ、鳩尾を殴られて脅されたのち、嫌々ながらも介護の講習会に参加させられたのが運の尽き。あの講習以降、シルスウォッドは毎晩、ごみ溜めとなったジョナサンの部屋の中に入れられ、異臭に耐えながらもジョナサンの下の世話をさせられている。
 大嫌いな異母兄の下の世話を、毎晩、毎晩……――最悪だ。シルスウォッドは正直なところ、嫌悪感しか覚えていない。けれども、彼は負わされた任務から逃れることができないのだ。エルトル家から脱出するまでは、ずっと。
 それから、ジョナサンの母であるエリザベス。彼女の情緒が不安定な状態になりつつあることを、少なくともシルスウォッドは察しとっていた。
 エリザベスがエルトル家の中で置かれている状況は、常に悪い。それはシルスウォッドがエルトル家に連れてこられるよりも前からそうであったらしい。
 ライアン・バーン曰く、エリザベスというのは「エルトル家に売り払われた女性」なのだそうだ。エリザベスの祖父は、エルトル家の先々代に莫大な借金をしていたらしい――簡単に言うと、エルトル家の開催していた闇賭博で、エリザベスの祖父は大負けしていたのだ。そうしてエルトル家の先々代は、借金をチャラにする代わりに、自分の孫(つまり、シルスウォッドの父親であるアーサー・エルトル)の許嫁として、お前の孫娘(エリザベスのこと)を寄越せと、エリザベスの祖父に要求したのだとか。そうしてエリザベスは、祖父の借金のカタとしてエルトル家に売り払われたそうだ。
 だが、エリザベスの不幸はそれだけではない。なんとエリザベスの両親は、この結婚に反対したせいで暗殺されているのだ。更に、当時エリザベスと婚約していた別の男性も、駆け落ちを試みたばかりに、エルトル家の先々代が雇ったヒットマンによって殺害されている。――エリザベスに逃げ場は無く、彼女には拒否権も与えられていなかったのだ。
 エリザベスは、自分の人生を諦めた。彼女は判事として着々とキャリアを積み重ね、世間から信頼される人間になることを望んでいたが、その未来をエルトル家が理不尽に奪ったからだ。
 そうして彼女は仕事を辞め、家庭に入り、様々な苦痛と心理的な虐待を乗り越え、出来の悪い息子をひとり設けた。そして息子の出来の悪さを夫は全部、妻の責任にした。その上、夫は別の女が産んだ子供を連れて帰ってきた。それも圧倒的に出来がいい、賢い少年を。
 ――叔母ドロレスがエリザベスに対してだけ同情的だったのは、つまりそういうことなのだ。
 エリザベスは、気が狂っても仕方がない環境に置かれている。長いこと、ずっと。それでも彼女は正気を保ち続け、最低限の理性を守っている。だが、それも限界が近付いているのだろう。ここ数年で彼女は痩せこけたし、夜中にひとりで泣くことも増えていたのだから。
 故にシルスウォッドは四年前に、エリザベスの置かれている状況を“ほんの少しだけ”隣人のエローラ家に打ち明けた。父親にDVされているとか、ジョナサンが手に負えなくて参っていることなどを、ブリジットの母であるリアム・エローラに伝えたのだ。そしてリアム・エローラは今、シルスウォッドには出来ない配慮をエリザベスにしてくれている。リアム・エローラが開催している就学前の児童向けの英語教室が予定されていない日の昼間は、リアム・エローラがエリザベスを家に招き、お茶をしながらエリザベスの愚痴を聞いてくれているのだ。――リアム・エローラがお茶会を開くようになってからは、エリザベスの気分は少しだけマシになったようだ。
 それにリアム・エローラの方も、エリザベスが才気あふれる聡明な女性であることを知り、会話が楽しくて仕方ないといった様子。大昔のいがみ合いが嘘であったかのように、エリザベスとリアム・エローラの関係はとても良好なものになっていた。……なお、彼女の夫たちの関係は言うまでもない。リチャード・エローラ医師は、まだアーサー・エルトルを許していないのだから。
 そして父親アーサー・エルトルに関してだが。こちらは、至って変化なし。相変わらず人間のクズで、周りのことをなんとも思っていない。だが変化していく他の家族に、少しだけ振り回されている。
 まず、父親アーサー・エルトルとエリザベスの関係。こちらはかなりピリついているし、普通の夫婦なら、とっくに離婚訴訟に踏み切っているだろうという段階に突入している。だが、どちらもそれに踏み切っていないのには、理由がある。それがどうしても出来ないからだ。
 アーサー・エルトルがエリザベスを捨てれば、エリザベスが“隠すべき秘密”を世間に暴露するかもしれない。エリザベスがアーサー・エルトルを捨てれば、彼女は“口封じ”として命を奪われるかもしれない。――その危険を、どちらも冒せないというわけである。
 それから、父親アーサー・エルトルと息子ジョナサンの関係。これは、とても拗れている。かねてから父親はジョナサンのことを“出来損ない”と言い続けていたが、ジャンキーとなった今、その侮蔑はより過酷なものとなっていたし。そしてジョナサンの方は、罵倒されるたびに使用する薬物の量を増やしていく。まさに泥沼の悪循環が展開されていた。
 いずれジョナサンは、間違いなく薬物の過剰摂取で死ぬだろう。もしくは、薬物を常用していたことで体にガタが来て、ある時ぽっくり逝くはずだ。……傍から見ているシルスウォッドは、そうなる未来を確信していた。
 それから、父親アーサー・エルトルとシルスウォッドの関係。こちらは常にバチバチと火花を散らしている状態である。何故ならば、最近は父親から何かをされた時には必ず、シルスウォッドはやり返すようにしているからだ。
 ジョナサンがジャンキーになって、まるで使い物にならなくなったことにより、父親はシルスウォッドを正式に『エルトル家の跡継ぎ』として指名するべく、ここ数年は画策を続けている。そしてシルスウォッドは父親に従っているように見せながら、いつも父親を裏切ってきた。……そんな静かな戦争を、父親とシルスウォッドは繰り広げているのだ。
 たとえば、年末に開かれる、父親の支援者向けのパーティー。結局シルスウォッドは、このパーティーに毎年出席させられている。そして毎年毎年その時期が近付くと、セシル・ローレンスの爺さんが営む仕立て屋にシルスウォッドは連行されていた。
 けれども、成長したシルスウォッドは昔のような反抗はせず、大人しく父親の指示に従って、パーティーに出席していた。それにセシル・ローレンスの採寸にも、大人しく応じている。……けれども、彼が大人しく従うのはそこまで。その後は、彼の好きなように振舞っていた。
 セシル・ローレンスが仕立てた最高の燕尾服を着用する時、シルスウォッドは必ずそれを台無しにするよう心がけていた。蝶ネクタイは白が鉄則とされているのが燕尾服であるが、シルスウォッドは絶対に白を着用せず、赤いものを着ける。それに黒にするべきだと言われている靴下についても同様で、シルスウォッドは絶対に黒など選ばない。緑と黒を基調としたアーガイル柄の靴下を、絶対に選ぶようにしていた。さらに革靴も黒ではなく、茶色や灰色のもので、且つバックル付きのものを選ぶようにしている。ドレスコードから外れた装いを、彼はあえて選択するのだ。
 ドレスコードから外れた装いをしているのだから当然、シルスウォッドは出席者たちから冷めた目で見られることが多い。だがシルスウォッドは、そんな視線など気にしない。それは父親の評判を下げるために、敢えて行っていることだからだ。シルスウォッド自身の評判など、彼にとってはどうでもいいのである。
 更にシルスウォッドは、パーティー会場における立ち居振る舞いにおいて、好き放題にしている。彼は好きなことを好きなように話し、場の空気を読む努力を一切しない。普段以上にズケズケと言いたいことを言い、頭がガチゴチに固まっているパーティーの出席者たちを次々と不愉快な気分にさせている。そして何より、彼はその行為を心の底から楽しんでいた。何人の出席者を不愉快な顔にさせられるか、そんなゲームを一人でやっているといった感じなのだ。
 また彼は、パーティー会場で父親の悪口を大声で語った。最近起こったアーサー・エルトルとエリザベスの夫婦喧嘩の内容を暴露した。父親がここ一ヶ月で何回自分を殴ったかを、同世代の出席者に話した。そして“名門エルトル家の次期当主となるかもしれないシルスウォッドに擦り寄ってくる、玉の輿狙いのご令嬢たち”に失礼な言葉をこれでもかとぶつけ、大泣きさせることもあった。ご令嬢の両親に罵倒されても、ヘラヘラと笑い、今度はその両親を「こんな狭く、気違いだらけのコミュニティに子供を閉じ込めておくだなんて、アンタらは頭がおかしい!」だの「寄生虫みたいな人間に娘を育て上げるだなんて、お宅はどんな教育をしているんだ!」だのと言い返したりしたこともあった。
 ――……勿論、シルスウォッドは分かっている。自分がどれほどクズな行いを重ねているかを。だが、先に書いた通り、彼にとって自分の評判などどうでもいい事柄。彼は、父親のメンツを台無しにできれば、それでいいのだ。自分がどう評価されようと、どうだっていい。
 目的さえ果たせればいい。目的の為ならば、自分すらも道具の一つと考えるのが、彼という人間なのだから。
 だが、本当のことを言うとだ。これはとても、疲れる。父親絡みのゴタゴタに、彼はもう巻き込まれたくなかった。でも父親が、有無を言わさずにシルスウォッドを巻き込んでくるのだ。だから彼は、反抗するまでのこと。父親が自分に干渉してくるのを辞めるまで、シルスウォッドは子供じみた反抗を辞めるつもりはなかった。
「……」
 まあ、ここ数年の間に起きた変化はざっとこんなものだろう。要するに、青年となったシルスウォッドの性格は随分とひねたものになってしまった、というわけだ。元よりシルスウォッドはひねくれていたが、それがより悪化していたのだ。それも、とても悪い方向に。
 シルスウォッドは確かに、ドロレスが望んでいたようなタフさを手に入れていた。だがシルスウォッドは同時に、ローマンが危惧していたような不健全さも身に着けてしまっていたのだ。
「…………」
 そんなこんなで、話は戻って。ロブスター料理のトラウマを思い出し、イヤな気分になっていたシルスウォッドは、腕を組みながら、ニタニタと嫌味に笑うライアン・バーンに冷たい視線を送りつけていた。ロブスターだけは本当にごめんだと、彼は無言で訴えていたのだ。しかし嫌味な笑みを消さないライアン・バーンは、本当にロブスターを買ってきそうな雰囲気をそこはかとなく出している。
 そんなライアン・バーンをチラリと見やり、サニー・バーンは呆れが混じった重たい溜息をひとつ吐いた。それから場の空気を切り替えるように、サニー・バーンはシルスウォッドにこんな話題を振る。「……それで。ヴェニューであんたに忠告をくれたのは、どんなヤツなんだい?」
「ジャックとか、ジャクリーンとかって呼ばれてる人だったよ。古い時代の喪服みたいな変わったドレスを着た、ちょっと気味の悪いやつだった」
 シルスウォッドがそう証言すると、途端にサニー・バーンは顔を顰めさせた。そしてライアン・バーンも同様に、表情を険しくさせている。
「ジャック、だって……?」
 サニー・バーンがそう呟いた、その時。何かを思ったライアン・バーンが、シルスウォッドに詰め寄ってくる。ライアン・バーンはシルスウォッドの胸倉を掴み上げると、彼は怒鳴りつけるかのような調子で、シルスウォッドを問い質したのだ。「お前、ジャックに何かされたのか?! それか、何かを言われたか!?」
「い、いや、別に。牡蠣のこと以外は、何も言われてないけど……」
 シルスウォッドがそう打ち明けると、ひとまずライアン・バーンは安心したようだが……しかし、彼の表情はまだ不安げだ。シルスウォッドがジャックと遭遇したという事実が、彼の不安の源であるようだ。
 すると顔を俯かせたサニー・バーンが苛立ちから、パサパサになっている赤毛の髪をかき乱した。そして彼女は、あることを口走る。それが以下のこと。
「――ジャックは、アネモネが最近買い始めた犬らしいね。二ヶ月前だかに港で拾った、随分と凶暴な犬っころだとか、そんな話を知り合いから聞いたよ」
「へぇ、そうなんだ。港で……」
「そんでアネモネってのは、その昔、ブレアを娼婦として雇っていた女だ。つまりジャックは、娼館の番犬であり、アネモネの用心棒ってわけさ」
 ジャックとは、娼館の番犬。そして娼館の主“アネモネ”という女性は、その昔ブレアを娼婦として雇っていた。――サニー・バーンが漏らしたその話は、時間差でシルスウォッドを驚かせた。
「えっ、あっ……――ブレアって、その、僕の、母さんだよね? その、雇用主?」
 そうしてシルスウォッドが驚くと、遅れてライアン・バーンも唖然とする。ライアン・バーンは大慌てで、口を滑らせた妻サニー・バーンを止めにかかった。「サニー、その話は――」
「いつまでも、ブレアのことを隠していられないだろう? ウディに対しても、アネモネに対してもだ。それにアネモネが嗅ぎ付けたかもしれないなら……ね。それにジャックの目は、何でも見通すって噂があるじゃないか。過去も今も、未来に起こることすら見破ってみせるって」
 しかしサニー・バーンは冷静だったし、いつまでも過去と向き合おうとしないライアン・バーンとは違い、彼女は過去をちゃんと理解していたし、だからこそ先のことを幾つか予測していた。そして彼女は、実現する可能性が最も高いシナリオを想定していたからこそ、シルスウォッドに必要最低限の情報を洩らしたのだ。
 そして彼女は、言葉を続ける。ライアン・バーンに対して、観念することを諭すような言葉を。
「それに、ジャックの予言なら仕方ない。ジャックの予言は外れなしって評判だ。牡蠣は諦めるしかないよ。アタシも、この店でノロウイルスなんか出したくないしね」
 ライアン・バーンは異論があるというような表情を見せていたが、しかしサニー・バーンの言葉のあとに彼は肩を落とすという反応を見せた。そしてライアン・バーンは、妻の言葉に反論をしない。代わりに彼は「分かった」と小さく呟くだけ。
 そんな穏やかならざるバーン夫妻の様子に、シルスウォッドは久しぶりに肝が冷える思いをしていた。うっかりジャックという人物と遭遇してしまったせいで、こんな事態に発展することになるなど、彼は全く想定していなかったからだ。
 そういうわけで、シルスウォッドは自分の軽率な行動を省みる。
「…………」
 ザックの付き合いでバンド活動なんかをしなければ、あのヴェニューに行くことになってさえいなければ、今回の件は発生しなかったのだ。それにあのヴェニューの機材はボロボロで、今後も定期的に修理が必要になるだろう。そうして修理の度にヴェニューの店主は、腕を信頼しているジャックを頼るはず。
 ……となると、考えられる策は一つ。もう二度と、あのヴェニューに行かないこと。それがシルスウォッドに取れる、最低限のジャック対策だ。
「――ジャックは、ヴェニューの店主と知り合いみたいなんだ。だから、もうあのヴェニューに顔を出さないほうがいいかな?」
 恐る恐る喋るシルスウォッドは、バーン夫妻にそう問うが。しかし返ってきた言葉は、シルスウォッドの良そうに反するものだった。
「有名な歌手から、ご指名を受けていたんじゃなかったのか?」
 そう言ってきたのは、ライアン・バーン。それに対して、シルスウォッドはこう返す。「いや、でも、何も僕じゃなくてもって……」
「あんた、ドロレスの顔に泥を塗りたいのかい」
 そんな言葉を投げてきたのは、サニー・バーン。突然飛び出してきた叔母ドロレスの名前に、シルスウォッドは戸惑った。そのシルスウォッドの様子を見て、サニー・バーンは彼が経緯を知らされていないことを察したのだろう。サニー・バーンはある事実を、シルスウォッドに明かしてくれた。
「その歌手の名前は忘れたが、彼女にアンタを紹介したのはドロレスだって聞いてるよ。ドロレスのお得意様の一人が、その歌手さんなんだってね。彼女の子供のために、毎月ドロレスが絵本を二冊ぐらい選んで郵送しているらしい。その縁で、ドロレスが彼女にアンタを紹介したと聞いてるよ」
 最近のロック音楽シーンにてんで興味がないシルスウォッドは、実のところシヴ・ストールバリの楽曲を何も知らない。ヴェニューの店主から誘いがかかるまで、シヴ・ストールバリという名前すら聞いたことがなかったぐらいなのだから。そんな彼が、シヴ・ストールバリが子持ちの女性であるということを知っているわけがなく、そうであれば叔母ドロレスとの接点など分かるはずもない。
 そして今、サニー・バーンの言葉によって情報の空白が補われ、シルスウォッドの中で点と点が繋がり、おおよその答えが出た。
「おかしいと思ってたんだ。僕みたいな無名の若造が、なんでシヴ・ストールバリから直々に指名されたんだろうって、ずっと疑問だったんだよ。なるほど、ドロレス叔母さんか……」
 となると、厚意を無下にするのは失礼というものだ。シヴ・ストールバリに対して失礼に当たるし、叔母ドロレスに対しても同じ。つまり、ヴェニューには暫く通わなければならなさそうだ。
 そうなると、シルスウォッドに出来ることは本当に何もない。ヴェニューにある機材が故障しないことを、そして街中で偶然ジャックに遭遇しないことを祈ることぐらいしか、彼には出来ないのだ。
「……はぁー。今度ヴェニューに行ったとき、ジャックが現れないことを願うしかないかぁ」
 諦めに近い感情をこめて、シルスウォッドがそう呟いた時。閉めてあったはずの、パブの出入り口扉が、錆びた蝶番の軋む音ともに開く。扉に背を向けていたシルスウォッドは驚き、咄嗟に振り返ってしまった。そして彼は、言葉を失う。
「……?!」
 パブの外には、確かに『CLOSED閉店中』の札が下がっていたはずだった。にも関わらず、関係者以外が勝手に閉店中のパブの中に入ってきたのだ。それも一人ではなく、二人。
「やあ、ライアン、それとサニー。久しぶりだね」
 気だるそうにそう挨拶をしたのは、ダークブラウンのチェスターコートをだらしなく着崩した、中年の女性。長い黒髪――ただしその黒髪は生まれつきのものではなく、染髪したと思われる人工的な色合いをしていた――を後ろで適当に結ったその女性は、黒に近い青紫色の口紅を引いた唇に、人情がまるで込められていない冷たい微笑を湛える。そして彼女は外套を脱ぎながら、真っ黒な瞳でシルスウォッドを見据えた。それから、彼女は言う。
「それと、初めまして。セイン」
 脱いだ外套を軽く畳むと、その女は後ろに控えていた青年にその外套を手渡す。彼女の後ろに控えていたのは、昼前にヴェニューで見た“ジャック”ないし“ジャクリーン”その人。女ものの喪服を着用し、徹底的に顔を隠しているそのスタイルは、昼前に見た姿と何ら変化していない。ただ唯一違うのは、武骨な工具箱を持っていないという点だろう。しかしスケッチブックとフェルトペンは、変わらず携帯していた。
 ……まあ、ジャックのことは措いといて。閉店中のバーンズパブに押しかけてきた二人組のうち、主人と思しき女はシルスウォッドにそう挨拶してきたわけだが。シルスウォッドはその言葉の意味を咄嗟に理解できず、首を傾げさせてしまう。女はシルスウォッドに向かって挨拶をしてきていたが、しかし女が発した名前は自分の名前ではなかったからだ。
「――……セイン?」
 シルスウォッドが不思議がるように呟くと、女もまた首を傾げ、こう問いかけてきた。
「慣例通りなら、エルトル家の次男坊の名は“セイン”のはずじゃないのかい?」
 そんな話を、仕立て屋のセシル・ローレンスの爺さんから、そしてライアン・バーンから聞いたことがあったような気がする。シルスウォッドがそんなことを思い出したのは、女のその言葉を聞いた直後のこと。
「あっ……」
 だがシルスウォッド本人が訂正するよりも前に、女の後ろに控えていたジャックの方が動いていた。
 右腕に女の外套を下げるジャックは、左手にフェルトペンを持ち、スケッチブックにさらさらと文字を書いていく。そして一連の文章を書き終えると、前に立つ女の肩を叩き、そして振り返った女にスケッチブックの文面を見せつけた。
『彼の名前は、シスルウッド。セインではない』
 シルスウォッドという誤ったスペルで登録された戸籍上の名前でなく、実母が決めた本名である“シスルウッド”の方を書いたジャックに、シルスウォッド本人は勿論のこと、バーン夫妻も息を呑む。
 シルスウォッドも、バーン夫妻も、明らかに動揺していたのだが。意外にも、ジャックの前に立つ女はそのことに気付きはしない。
「シスルウッド。それで、ウディってわけか。――こりゃまた、変わった名前だね。随分と復讐心が強そうな名前じゃないか」
 シルスウォッドをじっと見つめるその女は、じりじりと距離を詰め、シルスウォッドに近付こうとしていた。そして女が手を伸ばし、シルスウォッドの肩に触れようとした時。サニー・バーンが二人の間に割り込み、女が伸ばしてきたその手を叩き、払い除ける。
 女の前に立ちはだかるサニー・バーンは、相手をギリリと睨みつけた。それからサニー・バーンは威圧感に満ちた低い声で一言を放つ。「……アネモネ。用件は、何だ」
「そんな畏まらなくたっていいじゃないか、サニー」
「用件は、何だ」
 アネモネ。――サニー・バーンがそう呼んだ女は、硬い態度を崩さないバーン夫妻を見て、溜息を吐いた。それからアネモネという女は、呆れたという感情をオーバーなリアクションで表現すると、サニー・バーンを呆れ顔で見て、次に同じ視線をライアン・バーンに向ける。最後にアネモネはシルスウォッドを凝視すると、ニヤリと笑って、言った。
「アンタたちがエルトル家の次男坊を可愛がっているってな話を、ジャクリーンから聞いたもんでね。興味深いと思って、見に来たわけさ。――どうやら、その話は事実だったようだね」
「……」
「坊や、アンタの噂は聞いてるよ。父親の評判を落とすために、各所で暴れまわってるんだってねぇ?」
 アネモネという女は、意味ありげな目配せをシルスウォッドに向けてするが、シルスウォッドは表情を強張らせて数歩下がるだけ。何も言葉は返さず、アネモネとの距離を徐々に開けていく。
 代わりにアネモネとの距離を詰めるのは、サニー・バーン。彼女はアネモネの目前に迫ると、腕を組み、意図的に圧迫感を強めていった。そしてサニー・バーンは、アネモネに言う。
「この子に構うんじゃないよ。大した用がないなら、とっとと帰りな」
「今日は随分と冷たいじゃないか、サニー。一体全体、どうしたんだい?」
「何も話すことはないよ。帰りな」
「私は、なぜアンタたちが――」
「何度も言わせるんじゃない。帰れ、アネモネ」
「私は、なぜアンタたちが、エルトル家の次男坊なんかを可愛がってるのかっていう理由を聞きに来たのさ。アンタたちこそ、何が目的なんだい?」
 もしかしてだが、このアネモネという女性は致命的に空気が読めない人物なのか? それとも、相当に図太い神経の持ち主なのか?
 ……サニー・バーンとアネモネの押し問答を横目で見ながら、シルスウォッドはそんなことを感じ始めていた。このアネモネという女性は、もしかすると凄く単純な性格なのではないのかと、そういう気がしてきていたのだ。豪快で細かいことを気にしない性格を演じているというよりも、彼女は素でそういう性格なのではないのかという雰囲気が、それとなく言葉の節々から滲み出ていたからだ。
 そんな風にシルスウォッドは、どうでもいい言葉の節々やボディランゲージにばかり注目していたのだが。ライアン・バーンが傾聴していたのは、アネモネの語る言葉たち。そしてライアン・バーンは、アネモネの発した“目的”という言葉に噛みつく。
「目的なんかねぇよ。俺たちにとって、ウディは息子みたいなもん。それだけだ」
 取り付く島もないサニー・バーンと違い、反論するという行動をとってみせたライアン・バーンに、アネモネは目を輝かせた。そしてアネモネは矛先をライアン・バーンに移し、問い詰めていく。「なら、そうなったキッカケは?」
「ドロレス。彼女が一〇年前だかにウディを、ここに連れてきたんだ。こいつだけエルトル家の中で虐待されているから、ここで匿ってくれとな」
「なるほど、ドロレスか。そういやここ数年、彼女は旦那と共に、頻繁にボストンに――」
「だとしたら、何だってんだい。アンタには、何も関係がないことだろう」
 しかしライアン・バーンという糸口も、サニー・バーンという妨害によって断たれる。それでもアネモネは折れることなく、ガードの固いサニー・バーン相手に食い下がるのだった。
「昔のよしみで、教えてくれたっていいじゃないか」
 そのようにバーン夫妻とアネモネが膠着状態の問答を続けている裏で、シルスウォッドはその場から逃げ出そうと機会を伺っていた。アネモネとジャックの視線が自分から逸れた隙に二階に逃げて、ヴェニューでもらった楽譜の練習でもしようかと考えていたのである。
 しかし、だ。忙しないアネモネとは反対に、彼女の後ろに控えていたジャックの方は全く動かない。
「…………」
 ジャックには、シルスウォッドの考えが読めているようだった。故にジャックは、シルスウォッドから少しも顔を逸らさない。ジャックの両目は目隠しで隠されているため、彼の視線は読めないが。けれどもシルスウォッドは、ジャックからの視線を確かに感じていた。
 そして遂に、ジャックが動き出す。彼はシルスウォッドに近付いてきた。
「…………!」
 バーン夫妻がアネモネに気を取られているのをいいことに、ジャックは店内に入っていき、あっという間にシルスウォッドの横に着く。それからジャックはスケッチブックを開き、そこにフェルトペンで文字を書いていった。
『私は、彼女に黙っておいてあげてるんだ。あなたの母親が誰であるかを』
 ――ジャックが書き上げた文章は、それ。そして文面をシルスウォッドに見せつけるジャックは、妖しい笑みを口許に浮かべていた。
 それはさながら、何か見返りをシルスウォッドに要求しているかのよう。
「……何が望みだ」
 バーン夫妻には聞こえぬよう、シルスウォッドが小声でジャックにそう問うと。ジャックはスケッチブックの中から何かを取り出すと、それをシルスウォッドに手渡してきた。
 それは『手話入門』と書かれた、何の変哲もない一冊の本だった。一応シルスウォッドはその中身を確認したが、やはりそれは手話を取り扱うだけの本でしかなく、中に脅迫文が書かれた栞が挟まれているだとか、ヤバい薬物の包みが隠されているだなんてことは一切無かった。
 ただの本を手渡されたところで、何をどうしろというのか。……ひとまず本は受け取ったシルスウォッドだったが、彼はその対応に困っていた。するとジャックは、再びフェルトペンで文章を書く。
『それ、覚えて。あなたなら出来るでしょう?』
 その文章をシルスウォッドに見せた後。ジャックは目的を果たして満足したのか、シルスウォッドから離れてアネモネの許へと戻っていく。
「…………」
 シルスウォッドの手には、手話の本と、ジャックという謎めいた存在への漠然とした恐怖感が握られていた。





 時代は進んで、四二八九年。アルストグラン連邦共和国、首都特別地域キャンベラの某所。ASIが管理運営する病院施設の病棟にて。
 七ヶ月ぶりにこの場所を訪れたラドウィグは、ひどく緊張していた――彼の緊張は、この日の昼過ぎにテオ・ジョンソン部長が見せてきた一枚の写真が原因である。
「……」
 あの話の後、ラドウィグはテオ・ジョンソン部長に腕を掴まれ、この場所へと連れてこられた。シャワーを浴びる余裕は勿論、着替える隙すら与えてもらえなかったラドウィグは、訓練の際に着ていた戦闘服を着用したままの姿で、廊下を歩いていた。
 前を歩くテオ・ジョンソン部長の背中を無心で追いかけていた彼は、通りすがりの看護師たちが自分をちらちらと見ていることを、もはや気にも留めていない。普段なら、必要以上に気を配る――それが彼の仕事だからだ――はずの視線が気にならなくなるまで、ラドウィグの精神は追い詰められていたのだ。
「…………」
 実のところ、ラドウィグを取り巻く環境は特異だし、彼自身も特異な存在だ。故に彼自身も、自分に纏わる事柄を正確には把握できていないのが実情というもの。
 そもそもラドウィグが自分の記憶を取り戻したのは、つい最近の話。それこそ、一年だか二年前ぐらいなのだ。アレクサンダー・コルトに誘拐され、特務機関WACEという場所に引きずりこまれ、それからサー・アーサーという男と会った瞬間に、まるで封印が解けたかのように記憶が蘇ったという経緯で……――とにかく、ラドウィグ自身も「訳が分からない!」という状態なのである。
 だから、つまり、彼は混乱していた。
 特に、今回飛び出してきた情報はサッパリ意味が分からない。なにせテオ・ジョンソン部長が持ってきた情報は、ラドウィグが立てていたこれまでの仮説を綺麗にひっくり返して、全てを無かったことにするだけの威力を持っていたのだから。
「…………」
 自分の父親に良く似た姿をした人物が、なぜアルストグラン連邦共和国に居る? 父親も母親も、その他すべての知り合いたちも、故郷と一緒に吹っ飛んで消えてしまったはずでは?
 だって、全てはキミアが創り出した幻だったはず。本来存在してはならない、虚構の世界から唯一引きずり出されて、実体化することを許されたのは、自分だけではなかったのか?
 ……そんなことをグダグダと考えていたラドウィグは、ふと自分の仮説の穴を見つけ出した。
「……あっ……!」
 自分だけが、あの虚構の世界から抜け出したとしたら。相棒である神狐リシュや、竜神カリスの説明が付かなくなる。
 神狐リシュは、キミアという神があの実験騒動を起こす前から存在していた神だ。そして神狐リシュは前に言っていた。故郷の集落を追い出されて、あてもなく人里を彷徨い続けていた時に、運悪く“何か”に足を掴まれて、SODと思しき時空の穴に引きずり込まれた結果、ラドウィグがかつて過ごしていたあの世界に転送されたと。そしてリシュはラドウィグと一緒に、キミアと相対する女神に助けられて、元居た場所へと無事帰されている。……もしかしたら、あの女神はもっと多くの人々を助けていた可能性もあるわけだ。単にその事実を、ラドウィグが把握していないだけで。
 それに竜神カリスは確か、キミアの奸計を察知して、それを阻止するために特攻を決めたものの、キミアのほうが一枚上手で結局阻止できず、それどころか自分も騒動に巻き込まれて、良いように利用されてしまったとか、そんなことを言っていたような……。その竜神カリスも、結局キミアと相対する女神に助けられて、あの世界から抜け出していたはずだ。
 となると、もしかすると……――?
「どうした、ラドウィグ」
 突然立ち止まり、何かに驚いたような声を上げたラドウィグを、テオ・ジョンソン部長は怪しむ目で見ていた。
「あっ、いえ、何でもないっス。ちょっと考え事してただけで、あぁっと、その……」
 大慌てでラドウィグはテオ・ジョンソン部長に弁解しようとしたが、しかし言い訳や嘘を咄嗟に出す頭は今一つ足りないのがラドウィグという男。それらしい言葉は思いつかず、結局ラドウィグは挙動不審に慌てることしかできなかった。
 テオ・ジョンソン部長は怪しむような視線を変えてくれなかったが、しかし彼は特に追及をしてこなかった。というのも、テオ・ジョンソン部長はこう考えていたのだ。――戦闘服なんて格好で見舞いに来るヤツなんて普通はいない、そのことに今さら気付いて大慌てしているのではないか、と。
 故に用意の良いテオ・ジョンソン部長は、彼が左手に携えていた大ぶりの紙袋をラドウィグに差し出す。それからテオ・ジョンソン部長は、こう言った。
「着替えなら持ってきてある。そこの空いてる個室で、サッと着替えてこい」
 テオ・ジョンソン部長から渡された紙袋を受け取るラドウィグだったが、ラドウィグは紙袋の中身をざっと覗き見ると、首を傾げさせた。そして彼は、テオ・ジョンソン部長に訊ねる。「――わざわざ着替える必要なんてありますかね?」
「いや、その服装はちょっと、なあ……」
 紙袋の中に入っていたのは、既製品の安物であるメンズスーツ。他にもワイシャツにネクタイ、靴下、革靴と、スーツスタイルに必要な最低限のものが親切にも揃えられている。
 しかし、ラドウィグにはこれに着替えなければならない必要性が全く感じられなかった。
「どうしてですか? 泥で汚れてるわけでもないし、大丈夫だと思うんスけど」
 畏まる必要がある場所に行くわけでもないし、権力者と会うわけでもないのに、何故?
 ……つまり彼には、分からなかったのだ。なんとなくの雰囲気だとか、そういうのが常識だろうとか、そのような曖昧な空気感というものが、彼には理解できなかったのである。
 これは彼が異界出身だということも、少しは関係しているのかもしれないが。――否、これは性格的な問題だろう。常識だとか、ドレスコードだとか、マナーだとか、そういう細かくて下らない上に合理性のカケラもないしがらみがラドウィグは大嫌いなのだ。
 だが、意地になってゴネるのはもっと合理的でないことを、ラドウィグは経験から知っている。どうせゴネたところで返答は決まっているし、結末は変わらないのだ。「そういうものだから従え」だの、「大人になれ」だのと訳の分からない論理の下で諭されて、最後は半ば強制的に無駄な慣例に従わされることになるのがオチ。どうせいつも、そう。どこの世界でも、人間というのはそういうものなのだ。
「いや、そういうことじゃない。ラドウィグ、とにかく着替えてこい」
 テオ・ジョンソン部長から返ってきた言葉は、やはりラドウィグの予想した通りのものだった。そういうわけでラドウィグはそれ以上ゴネるのを止め、大人しく上司の指示に従うことにする。
「……イエス、サー」
 ラドウィグは、わざとらしく間延びした声で返事をして、不服であることをガキっぽくアピールする。それからラドウィグは受け取った紙袋を持って、空室という札の入っている個室の戸を開けるのだった。
 ――そのように少しばかり幼稚な態度を見せるラドウィグの姿を、ワタリガラスの姿を騙る神キミアは、病院敷地内の木に留まりながら見ていた。そしてカラスは“こちら”側に語り掛ける。
「いつの時代も“深く考えすぎる若造”ってェヤツは、どうもガキっぽく見られるようだなァ。ケケッ」


+ + +



 それは四二一七年の十一月下旬の土曜日、空気が冷え冷えとしていた朝のこと。
 顔にはウンザリとした感情を滲ませながらも、しかし大人しく採寸に応じているシルスウォッドが居たのは、テイラー・ローレンス。毎年恒例のあの行事――クズで外道な父親が、自分の支援者向けに開くあのクソったれみたいなパーティーである――が近付いてきており、それに合わせてシルスウォッドが着用する燕尾服の仕立て直しが必要になっていたからだ。
「そっれにしてもだぁ。次男坊は本当にオブライエン家の人間なのかね?」
 シルスウォッドの肩幅を測りつつ、瓶底眼鏡を掛けた顔でシルスウォッドの全身を舐めまわすように観察する店主のセシル・ローレンスは、そうボヤく。すると店の隅で控えていたシルスウォッドの父親アーサー・エルトルが、くぐもった声でこんな言葉を返した。
「これは私の息子で、跡継ぎッ――」
「こんなクソみたいな家、僕は絶対に継がないって何度も言ってるだろ」
 不機嫌そうな刺々しさが混じる声に乗せ、シルスウォッドは父親にそう言う。続けて彼は苛立ちに任せて、度を越した暴言を放った。「アンタの内耳神経、腐ってんじゃないのか?」
「なんだと?」
「あー。今にも壊死した脳味噌が鼻から溶け出してきそうな顔をしてやがる。こりゃ手遅れだぁー」
「貴様、父親になんて態度を……――!」
「うるせぇ。黙れ、クズ野郎。その禿げかかった頭に洗濯のりをぶちまけて、死にかけの毛根にトドメをさしてやろうか?」
 髪が薄くなりつつある父親の頭を睨み付け、シルスウォッドは父親を罵倒する。最近の悩みである薄毛を持ち出された父親は、恥ずかしさと怒りから顔を真っ赤に染め上げ、罵倒に罵倒を返そうとしたが。父親が言葉を発する前に、店主であるセシル・ローレンスが仲裁に入った。
「親子喧嘩もそれぐらいにしておけ。まったく、見苦しいったらありゃしない」
 醜い言い争いをピシャリと断ち切る老齢の店主セシル・ローレンスは、父親を睨み付けるシルスウォッドの頭を軽く叩くと、シルスウォッドに対して「顎を引いて姿勢を正せ」と注文を付ける。シルスウォッドは無言で、店主の指示に従った。彼は少しだけ顎を引き、前に倒れかけていた首を正す。とはいえ視線は、依然父親を睨み据えたままだった。
「……」
「おい、次男坊。いつまで父親を睨んでいるつもりかね」
「……アイツが僕の視界から消えるまでかな」
「……はぁ。強情な坊っちゃんだ」
 シヴ・ストールバリのライブを終えたのが、四日前のこと。幸いにもミスをすることなく、なんとか自分に与えられた役を終えたシルスウォッドは、久々に開放感と達成感を覚えていた。
 ……しかし、幸せはいつだって一時的なものだと決まっている。それにシルスウォッドの場合は、それを噛み締める余韻すら与えられないのだ。
「仕方ない。――おい、アーサー。今日は採寸だけなんだ。お前さんは先に帰っておれ」
 公演を終えた後、シヴ・ストールバリはシルスウォッドに称賛を与えてくれた。
 ブレナン夫妻が言っていたよりもずっと荒々しい演奏で、本当に気に入ったよ。――シヴ・ストールバリはそう言ってくれたのだ。勿論、それはお世辞である可能性もある。だが、だとしてもシルスウォッドはその言葉を聞いた時、素直に“嬉しい”と感じた。ここ最近はケチをつけられてばかりだった自分のフィドルを気に入ってくれる人が現れてくれたことが、本当に嬉しかったのだ。
「しかし、セシル」
 それに、もう一つ嬉しい発見があった。それはシヴ・ストールバリの公演を『ウディ・C、つまりシルスウォッド目当てで』観に来てくれていた客、それも女性客がチラホラ居たことだ。……というか、シルスウォッド自身が気付いていなかっただけで、前からそういった客は居たらしい。
 正直な本音を言うと……自分に向けられている黄色い歓声を聞くのは、悪い気分はしなかった(しかし、バーン夫妻にその話をした際にはライアン・バーンに「どうせ小汚い連中が揃う中で、お前が比較的マシだったからチヤホヤされているだけだろう!」「昔からバンドマンは汚い、品がない、教養がないという“三つの『ない』”が揃ってると決まってるからな!」と核心を突かれ、更に頭を平手で叩かれたが……)。だが、少しの嬉しさと恥ずかしさの後に得られたのは、軽率な自分自身に向けられる怒りと後悔だった。
 黄色い歓声が向けられる存在だったということは、つまりシルスウォッドはあのヴェニューの中で目立つ存在になっていたということ。それは、最も彼自身が望んでいなかったことであるはず。――そして後悔は最悪な結果となって、シルスウォッド自身に帰ってきた。
 公演終了後にシヴ・ストールバリが行ったファンサービス、サイン。そこに集まっていたシヴ・ストールバリのファンの中には興奮気味の少女がひとり居て、偶然その少女とシルスウォッドは目が合った。そして彼女が同じハイスクールに通っている同学年の女子生徒――スーザン・ノースという名前の、演劇クラブに所属している内気な生徒――だとシルスウォッドが気付いた時には、既に事態は手遅れとなっていた。
 偶然にも目が合ってしまったことを、スーザンは何かのチャンスだと思ったのだろう。はにかみ笑いを浮かべつつスーザンは、シルスウォッドに近付いてきたのだ。そして彼女はこう話しかけてきた。
 ――あなた、ザカリーやケビンとかのバンドに協力してくれてる人だよね。
 ――外部のハイスクールの人だってケビンから聞いたけど、どこの学校なの?
 シルスウォッドは返答に困った。下手な嘘を吐いて詮索されても困るし。下手なことを言えば、声で身元がバレるかもしれないというリスクがあったからだ。
 だが、彼はこうも考えた。ダサい文学青年である“シルスウォッド・A・エルトル”を象徴する赤縁の丸眼鏡を掛けていない今、もしかしたらスーザンの目を誤魔化せるかもしれないと。前髪を掻き上げている今の髪型は、普段のブラシで軽く梳いただけのものと違っているし。今まさに着ているシンプルな服と粗暴なデニムジャケットは、ダサい文学青年の時なら絶対に選ばないものだ(尚、これら服装は友人であるザックの、その父親から借りたものである。ザックの父親とシルスウォッドは比較的体格が似ていた為、ザックの父親は彼が着古した服をシルスウォッドによく貸してくれていたし、時には譲渡してくれていた)。
 故にシルスウォッドは、イチかバチかの賭けに出た。スーザンの質問に答えることはせず、話を逸らすような質問を相手に返して、反応を見るという策を打ったのだ。
 ――あんなアマチュアバンドを覚えてくれている人がいるなんて、驚いたよ。
 ――君、このヴェニューにはよく来るのかい?
 気弱な文学青年的な話し方は避け、調子に乗っている傲慢な若者っぽい話し方をするよう、シルスウォッドは努めたつもりだった。だが、最後に誤魔化しの作り笑顔を浮かべてしまったことが失敗だった。
 声を聞いた時には何も気付いていなかった様子のスーザンだったが、シルスウォッドが作り笑顔を浮かべた瞬間に彼女の表情は一変した。見つけてはならない真実に気づき、すっかり怯えきった顔になった彼女は、小声で恐る恐る訊ねてきたのだ。
 ――もしかして、あなた、アーティーなの?
 向こうからすればシルスウォッドは、嫌われ者であり恐れの対象でもあるエルトル家の次男坊でしかない。そんな人間に迂闊に近寄ってしまったことに、スーザンは激しく後悔している様子だった。そして彼女はすぐに、その場から立ち去ろうとした。
 対するシルスウォッドは、そのとき酷く動揺していた。そして彼は逃げようとしたスーザンの腕を咄嗟に掴み、引き留めてしまった。……悪手に悪手を重ねてしまった、というわけである。
 スーザンからすれば、その瞬間は恐怖でしかなかったに違いない。異性に腕を掴まれるだけでも怖いだろうし、ましてやそれがあのエルトル家の人間となれば恐ろしいことこの上なかったはずだ。けれど動揺するシルスウォッドには、恐怖を軽減するような配慮をしていられる余裕がなかった。そして混乱していた彼は、小声でスーザンにこう懇願した。
 ――絶対に、このことは誰にも言わないでくれ!
 ――冗談抜きに、親父に殺される!!
 そう頼み込んだシルスウォッドがスーザンの手を離すと、彼女は小さく頷いてくれたが。怯えた様相でヴェニューを飛び出していった彼女の反応からして、シルスウォッドは希望を抱いていなかった。しかし、まあ……あれから四日が立った現在、スーザンがシルスウォッドの秘密をバラしたという話は聞かない。今のところ彼女は、黙ってくれているようだ。
 だが、シルスウォッドは気が気でない。あの日からずっと、スーザンの怯えきった顔が頭の中から離れてくれないのだ。こうして粋がっている今でさえ、彼は不安で不安で仕方がない。
 スーザン、頼むから黙っててくれ。お願いだから、スーザン!! ――彼の頭の中をグルグル回り続けているのは、情けないとしか言いようがない懇願ばかり。元はといえば、自分が蒔いた種であるわけなのだが、それでも……。
 まあ、そういうわけで。この時期はロクでもないことばかりがシルスウォッドの身の回りで頻発していた。この時期に起きた唯一の幸運な出来事といえば、それは食中毒騒動をバーンズパブが逃れられたことぐらいだろう。
 シルスウォッドがジャクリーンの忠告を守って牡蠣を買いに行かなかった日の、その翌日。なんと食中毒がボストン市内で多発したのだ。それも原因は、スーパーマーケットにて販売されていた牡蠣だとのこと。ノロウイルスを溜めこんでいた牡蠣に触れた店員ないし客たちが、その汚染された手で店内の他の売り場を触れて回り、店中がノロウイルスまみれになっていたとかで……ボストン市内の病床が逼迫するほどの大騒動が、牡蠣によって巻き起こっていたのだ。
 ジャクリーンの予言に従い、牡蠣を買いに行かなくて正解だった。シルスウォッドもといバーン夫妻は、そう心の底から安堵した。食中毒の発生源であるスーパーマーケットは、まさにシルスウォッドが行こうとしていた場所だったのだから、尚更に。
 ――まあ、そんな話は一先ず措いといて。
「お前さんが居ると、次男坊の気が立って始末に負えない。そして次男坊の気が立つと、わしの気が散る。だから、アーサー。分かるな?」
 シルスウォッドと父親がバチバチと散らす火花を鎮めるべく、仕立て屋の店主セシル・ローレンスはそう釘を刺す。シルスウォッドに冷たい視線を浴びせたのち、父親アーサー・エルトルにも同様の視線を送りつけた店主セシル・ローレンスは、父親に「今日はもう帰ってくれ」と促す。すると父親は少し渋ったものの、シルスウォッドの敵意に満ちた顰めっ面を見るなり、気まずそうな表情を浮かべてみせた。それから父親は、店主にもシルスウォッドにも何も言わずに店を去っていく。――去っていく父親の背中は、もはや修復不可能なまでに険悪になり果てた親子関係を、第三者であるセシル・ローレンスを介して見せつけられたことに、どこか愕然としている様子だった。
「まったく、お前さんら親子はどうしてこうも険悪なのかね。もうちと歩み寄りはできんのかぇ?」
 父親が店を出た直後に、店主のセシル・ローレンスはシルスウォッドにそう毒突いてきた。シルスウォッドの行動が幼稚であると、店主のセシル・ローレンスは言いたいらしい。だがシルスウォッドの言い分は違っている。
「歩み寄りをする余地も、義理も、僕にはありません」
 シルスウォッドが冷たくそう言い放つと、店主のセシル・ローレンスは大袈裟な溜息を零してみせた。続いて店主のセシル・ローレンスは採寸用のテーラーメジャーをピンと伸ばすと、メジャーの始点をシルスウォッドの右肩の付け根に当て、右腕の手首までの長さを測る。そしてセシル・ローレンスは計測によって得た数値を採寸表に殴り書きつつ、へそ曲がりなシルスウォッドを諭してきた。「セイン。お前さんが後を継いでくれないと、オブライエン家は滅亡してしまうんだぞ。そうなれば、我々のコミュニティまでもが巻き添えに――」
「知ったこっちゃないですよ、そんなこと。付き合いでパーティーに出席してやってるだけ、褒めてもらいたいってもんです。それに僕はセインじゃない、シルスウォッドです」
 店主のセシル・ローレンスは、シルスウォッドという妙ちくりんな名前を覚える気が更々ないのだろう。彼は決まって、シルスウォッドのことを“セイン”と呼ぶ。シルスウォッドが何度それを正そうとも、セシル・ローレンスはそれを変えてくれた試しがない。
 そうして今年もまた飛び出してきた“セイン”という名前をシルスウォッドがまた正すと、店主のセシル・ローレンスはウンザリとした顔で、無茶苦茶なことを言い返してくるのだった。
「お前さんの名前はセインだ。少なくともこの店の中ではな。そしてこの店の主人が誰であるかは、お前さんも分かっておろう」
 そんなセシル・ローレンスが言うところの“我々のコミュニティ”とは、シルスウォッドの友人であるザックの言葉を借りるなら“超保守派の差別主義者で、移民とゲイと有色人種をこの国から追い出せーっていつも騒いでる、あのカルト宗教信者たち”であり“未だに地球が平面だと信じてるアホな連中”のこと。そしてシルスウォッドは、過去にザックが発したその言葉に概ね同意していた。
 シルスウォッドの父親やセシル・ローレンス等が所属しているコミュニティとは、時代遅れのカルト宗教を信じるアホどもの集まりであり、どうしようもない差別主義者の掃き溜めである。自分たちとは異なる背景を持つ者たちに理解を示さず、それどころか見下し追いやろうとする傲慢で狭量な連中ばかりなのだ。――そんな連中たちの中に自分も加わるだなんて未来を、シルスウォッドは想像することすら嫌だった。彼は父親のような人間になど絶対になりたくなかったのである。
「…………」
 叔母のドロレスが何故エルトル家を捨て、ボストンから逃げ去ったのか。その理由が、今のシルスウォッドには嫌というほど理解できる。
 ボストンは、決して悪い街じゃない。冬場にはドカ雪がこれでもかと降る割には、交通網は寸断されることなく動き続ける街だし。教育の水準は高く、世界中から様々な人々が知識と文化を求めて集まる街だ。それと、ぼちぼち美味しい食べ物があり、それなりに楽しい娯楽もある。ボストンは、ちょうどいい街である。
 だがエルトル家やエルトル家が所属するコミュニティの中に閉じ込められると、ボストンという街の恩恵に預かれなくなるのだ。冬場だろうが夏場だろうが家に閉じ込められて自由な外出を禁じられるし、偏った教育だけを受けさせられて、多様性のない狭いコミュニティの中で雁字搦めにされる。ジャンクフードは見るだけのものだし、一流でないレストランは嘲笑すべきものだし、パブ遊びは以ての外だし、庶民の娯楽は“悪魔の誘惑”呼ばわりだし……。こんな小さく偏った世界では、歪んだ人格しか形成されないだろう。
 だから自由な魂の持ち主である叔母ドロレスは、この街から逃げ出したのだ。そしてドロレスの下で幼少期を過ごしたシルスウォッドも同様に、この街から逃げ出したくて堪らずにいる。
 でも、そんな生活もあと一年で終わる。大学に進学できれば、全ては変わるはずなのだ。だから、あと一年の我慢。あと、もう一年だけ……。
「ええ、たしかに店主はあなただ。だが店主が客の名前を勝手に定めていいだなんて法律を、僕は知らないんですがね」
 そんなことをゴチャゴチャと考えつつ、イヤな態度の店主にシルスウォッドが嫌味を返してみれば、店主は不機嫌そうな顔をしてみせる。
「青二才の分際で、減らず口ばかりを叩きおって……」
 そうボヤく店主のセシル・ローレンスは、続いてシルスウォッドの左肩の付け根にテーラーメジャーの始点を当て、左腕の長さの測定を始める。……が、その前に店主のセシル・ローレンスはシルスウォッドの右肩を軽く小突いた。それから店主は、嫌味を返してくるのだった。
「お前さんは全くもってオブライエン家らしくない。顔つきといい、身長といい、肩までも。……ここまで撫で肩が過ぎる者は今まで、オブライエン家に存在していなかったはずだ」
 店主のセシル・ローレンスが指摘した、シルスウォッドが持つオブライエン家(=エルトル家の旧名)らしくなさ。そのうちの一部は、シルスウォッドが少しコンプレックスに思っていることだった。
 野暮ったい丸顔をした父親の面影は微塵もない、実母に似た少し骨ばっている顔立ちを始め、シルスウォッドにはエルトル家らしい特徴があまり見られない。意志が強そうだとか、強情そうだという第一印象を与えることが多いシルスウォッドの鋭く威圧感のある目つき――この強気に見られがちな目つきの印象をぼかすために、丸眼鏡を掛けているという節もある――も、大人しそうな第一印象を与えることが多い『エルトル家らしさ』には当てはまらないだろう。そして六フィート二インチ(約一八八㎝)をちょっとだけ超えたシルスウォッドの身長も、大抵は五フィート八インチ(約一七三㎝)以内に収まるとされている『エルトル家の特徴』に該当しない。
 そして、最もエルトル家らしくないのは肩だ。店主のセシル・ローレンスが指摘した通り、シルスウォッドは度を越した撫で肩の持ち主。いかり肩の多いエルトル家とは正反対ともいうべき特徴を、シルスウォッドは有しているのだ。そしてこの撫で肩こそが、シルスウォッドにとっての小さなコンプレックスであり、実母から受け継いだ身体的特徴の中で唯一嬉しくないと感じるものである。
 肩掛けカバンやリュックサック、サスペンダーは傾斜が急な肩からずり落ちていくし、それらが落ちないように気を配ることがストレスになるし。そのうえ撫で肩は、ただ撫で肩であるというだけで肩が凝る。そもそもの骨格が原因で肩の筋肉が付きにくいからだーとか、常に筋肉が緊張状態に置かれるせいだー等々と理由は色々あるらしいが、とにかくシルスウォッドは撫で肩のせいで慢性的な肩凝りに悩まされていた。フェンシングのコーチであるラルフ・ライミントンから『撫で肩の改善に効果があるストレッチ』とやらを前に教えてもらったことがあるが、それすらも頑固な肩こりに阻まれて行えなかったほどだ。
 それに、重度の撫で肩に似合う服は限られている。柄物のシャツにダサいベストを合わせて、ダサさの塊になって撫で肩から目を逸らさせるか。ストールやマフラーで肩ごと隠すか、フード付きのスウェットで誤魔化すか。それぐらいしか対応策がないのだ。
 故に、ザックの父親から譲ってもらう服の大半が、この撫で肩のせいで着こなせずにいた。……これが当時のシルスウォッドが抱えていた、小さな悩みのひとつだった。
 そしてこのコンプレックスを、店主のセシル・ローレンスはせっせと突いていく。
「お前さんがまだガキんちょだった頃から、この撫で肩は気になっちゃあいたが。成長すれば多少は良くなるだろうと思っとった。しかし見立てが甘かったわい。よもや撫で肩の度合いがより酷くなるとはのぉ。去年よりも酷くなってはおらんかね?」
「……」
「本当に、イタ公よりもひどい撫で肩だ。……こりゃ肩パッドを詰めるだなんていう姑息な手を打つよりも、思い切ってシルエットそのものを変えた方が早そうだ。となればシャツもベストも……」
「…………」
「それから。正装を知らない坊っちゃんには、タイと靴下、ポケットチーフも用意してやらんといけんな」
 撫で肩への執拗な攻撃が終わったと思えば、次に店主のセシル・ローレンスから飛び出してきたのは、別の角度からの攻撃だった。
 ドレスコードを頑なに守ろうとしないことを始めとした、シルスウォッドの腐りきった態度。それを店主のセシル・ローレンスはネチネチと責め立て始める。
「セイン。お前さんの悪評は聞いておる、耳にタコができるほどにのぉ。……毎年毎年、パーティー会場で散々に暴れまわって、父親の評判を落とそうと画策しておるようだな」
「ですから僕はセインじゃなッ――」
「反抗期真っ盛りで、父親に一矢報いてやりたいというのは分からんでもないが。しかし他の者たちに八つ当たりするというのは、頂けない。まして娘たちを罵倒し泣かせるなど……」
「反抗期でもないですし、八つ当たりはしていない。ただ、場違いな人間が場違いな場所に置かれたために、そういう状況が必然的に発生しているだけですよ」
「いつまでも子供じみたことを言うんじゃあない、セイン。その名前に見合う高貴な振る舞いを、お前さんは一刻も早く身に着けなければ――」
「だからセインじゃないんですよ、僕の名前は。それにあなた方が言う“高貴な振る舞い”ってヤツが一般市民を見下す高慢ちきな態度のことなら、僕はそんなもん身に着ける気はないですから」
 セイン。その人名の由来は諸説あるが、一般的には『それなりの地位を持つ人物』ないし『位の高い人物に仕える者』という意味を持つ名前だとされている。貴族か豪族か、それに仕える城代か、家士か家臣か、もしくは実力で成り上がって権力を掴み取った戦士か……――まあ、そんなところだ。
 たしかにこの名は、良家の次男には相応しいものだといえる。当主たる長子を支える役を担う次子に付けるには、うってつけの名前だろう。
 だがシルスウォッドの名前は、セインではない。それから彼はエルトル家を支える者になるつもりはないし、家を継ぐつもりもないし、高貴さを身に着けるつもりもない。コミュニティなんていう下らないものに帰属するつもりもなく、カルト宗教に関わっていくつもりもなかった。
 遥か年上のセシル・ローレンスに何を言われようとも、シルスウォッドは彼自身のスタンスを曲げるつもりはなかった。だがシルスウォッドの考えに、セシル・ローレンスが理解を示すことはない。
「お前さんの信条は知らんが。しかしドレスコードを逸脱する装いは、仕立て屋として見過ごせん。燕尾服に色付きのタイや柄物の靴下を合わせるなど、言語道断。それは自らを従僕だと宣言するようなものだぞ。お前さんの行いが、どれだけオブライエン家の名に泥を塗っているかを――」
 店主のセシル・ローレンスがぶつけてきた嫌味、ないし世間知らずの青二才を諭そうとする言葉を、シルスウォッドはロクに聞きもせずに跳ね除ける。そしてシルスウォッドは尊大な態度をサッと取り繕うと、軽蔑の念をあからさまに表した声で、見当違いの期待を自分に向けてきているセシル・ローレンスにこう宣言するのだった。「だったら僕は、階下の従僕フットマンでいいです。意地の悪い代理人スチュワードより、そっちの方が遥かにマシだ」
「従僕かぇ。……どこまでもオブライエン家らしからぬ坊っちゃんだ」
「僕は“娼婦の息子”ですから。一流の紳士にはなり得ません。従僕でいいんです」
 極々ありふれた罵り文句を、自嘲の為に発したシルスウォッドのその棘のある言葉に、セシル・ローレンスは顔を顰めさせる。冗談の類とは思えない真面目な調子で、シルスウォッドが“娼婦の息子”と自称したことに、セシル・ローレンスは何かしらの違和感を覚えたようだ。
 それは、ただ『どうしようもないクソ野郎だ』と自称しただけなのか。周囲から与えられ続けた蔑称が、さも当たり前のように飛び出してきただけなのか。それとも、単に事実を述べただけなのか。
「せめて執事バトラーぐらいにしといたらどうかね」
 よく言えば控えめ、正しく言えば自虐の度が過ぎているシルスウォッドに対し、セシル・ローレンスは「使用人を名乗るなら、せめて上級の使用人だと言え」と提案するが。それに対してシルスウォッドは鼻で笑うという態度を返した。そしてシルスウォッドは言う。「僕は、エルトル家に仕える従僕です。それで良いんですよ。事実、僕はあの人たちと対等ではないんですから」
「…………」
「それに、エルトル家の持っている影響力なんて受け継ぎたくはない。それから僕には野心もない。平均的な生活さえ手に入れば、それでいい。なのでエルトル家からは出て行くつもりでいます」
 シルスウォッドの左腕の長さを測り終えた店主のセシル・ローレンスは、採寸表にその数値を殴り書くと、一度テーラーメジャーを巻き取って回収する。それからセシル・ローレンスは溜息を吐いた――良家の子息にしては性格が捻くれすぎているし性根が腐りきっているうえに、強情っぱりでありながらも節々で冷静さと諦念を滲ませてくる、この扱いが難しい青年の相手に疲れてきていたのだ。
 そしてふと、セシル・ローレンスは思い出す。シルスウォッドの父親であるアーサー・エルトル、彼がまだ若かった頃のことを。
「ふむ……」
 妹のドロレスと共に彼らの父親に連れられて、毎年決まった時期にこの仕立て屋を訪ねていた若かりし日のアーサー・エルトルは、思い返してみればいつも妹のドロレスに「クソ外道野郎」だの「恥知らずの醜男」等と散々に罵倒されていた。
 そういえば妹のドロレスは兄のアーサーだけでなく、彼らの父親である故セイン・エルトルをも口汚く罵っていたし。彼女は常に、兄と父親を冷たく睨み付けていたような気もする。そして時には店主であるセシル・ローレンスにも、彼女はその冷たい眼差しを向けてきたが……しかし誰も、ドロレスの言葉に耳を貸さなかった。世間知らずの若者の粋がりだとして切り捨てていたのだ。
 そんなドロレスは州外の大学に進学したことを機に、エルトル家から離別したとか、なんとか。それきりセシル・ローレンスは“世間知らずの理想主義者ドロレス・エルトル”の噂を耳にしていなかったのだが。――醒め切った目をしたシルスウォッドの横顔を見て、セシル・ローレンスはある可能性を考えてしまった。
「もしや……――お前さんはアーサーじゃあなく、ドロレスの息子か?」
 セシル・ローレンスは今までそのことについて首を突っ込んではこなかったが、しかし違和感は覚えていたのだ。常連客アーサー・エルトルがある年に突然連れてきた“次男坊シルスウォッド”に対して。そしてその違和感は“シルスウォッドがドロレスの息子である”と仮定した時、スムーズに解れていく。
 長男ジョナサンを見限ったアーサー・エルトルは、妹であるドロレスの子供を奪い取り、その子供を自分の次男であるとしたのではないか。――セシル・ローレンスが導き出した仮説は、これだった。
 だが、この仮説は決して正しいとは言えない。かといって、真実を明かすわけにもいかない。故にシルスウォッドは、セシル・ローレンスに真相の一端だけを明かすのだった。「まあ、そうとも言えますかね。物心がつくまでの間は、叔母の下で、叔母の息子として育てられたわけですから……」
「またどうして、そんな厄介なことになったんだ?」
「さあね、僕は何も知りません。なんせ物心が付くより前の話なんで」
 適当な言葉で話をぼやかし、シルスウォッドはその話題を打ち切る。そうしてシルスウォッドがわざとらしく溜息を吐いてみせると、店主のセシル・ローレンスはそれ以上の追及を止め、彼の仕事へと戻っていった。
 再びテーラーメジャーをビッと伸ばしたセシル・ローレンスは、中断していた採寸作業を再開しようとする。……だが丁度そのとき、仕立て屋には邪魔者が現れた。
 店舗の出入り口である扉がゆっくりと開けられ、店舗内側の扉に取り付けられた真鍮のドアベルが高く澄んだ音をチリンと鳴らす。この店に、人が来たようだ。
 採寸中に別の客が店にやってくるというのは、シルスウォッドにとっては初めてのこと。そうして好奇心からシルスウォッドが振り返り、出入り口の方を見やってみれば……なんとそこに居たのは、見覚えのある人物。だが、それは父親ではない。
「――ジャクリーン?!」
 暗い色合いばかりが揃った高級感あふれる布生地を幾束か抱え、仕立て屋の中に入ってきたのは、黒服を着た便利屋のジャクリーンだった。
 中世ヨーロッパを思わせるのっぺりとした外形の黒いドレスと併せて、いつも通りの目隠しと黒髪のウィッグを装着している彼の姿は、赤レンガの街並みの中で異彩――ないし、大いなる違和感――を放っている。そんなジャクリーンは店の中にひとまず上がり込むと、店内の片隅に置かれていたアンティーク調の机の上に、抱えて持ってきた布の束を乱雑に置いた。するとセシル・ローレンスは不満そうな表情を浮かべ、こう呟く。
「……まったく、これだから野良犬は……」
 セシル・ローレンスの小言を知ってか知らずか、ジャクリーンはとぼけたような笑みを口元に浮かべている。そうして笑顔のジャクリーンは空いた手を、シルスウォッドに向かって小さく振ってみせた。
 そのように、驚いているシルスウォッドとは反対にジャクリーンの反応は自然体そのもの。まるでシルスウォッドがこの店に来ていることを事前に知っていたかのように、彼は振舞っている。そんなジャクリーンに対しシルスウォッドは、挨拶の代わりに質問を投げかけるのだった。
「今日は随分と古風な装いを決めてるみたいだけど……君はどこでそんな衣装を手に入れてるんだ?」
 するとジャクリーンは肩を竦めさせ、ジェスチャーで『分からない』と伝えてきた。続いてジャクリーンは手話を通して、シルスウォッドにこう返事をする。
『アネモネが渡してきたものを、ただ着てるだけだから。これの入手経路は一切知らない』
「へぇ、彼女が……。まあ、今日の君もよく決まってると思うよ」
 ジャクリーンに奇抜な装いをさせているのは、娼館の主人であるアネモネらしい。……想定の範囲内ともいえるそんな情報が飛び出してきたところで、シルスウォッドは適当な言葉を返す。会話の内容をセシル・ローレンスに悟られないような、極力無難なセリフを選び取った。
 だがその無難な言葉は、ジャクリーンを不快な気分にさせたようだ。シルスウォッドの言葉の後に、ジャクリーンは唇をへの字に歪めて不服を露わにする。
『個人的には趣味じゃない格好だし、動きにくい服も邪魔くさい目隠しも化粧も嫌いだから、こいつらを褒められたって嬉しくはないけど。アネモネには取り敢えず伝えておくよ』
 かなりオーバーな表情変化を交えつつ手話でそう表現するジャクリーンの様子から察するに、彼は強いられている奇抜な装いを嫌っているのかもしれない。これは意外な事実だ。
 そんなこんなでシルスウォッドとジャクリーンが遣り取りを交わしていると、店主のセシル・ローレンスの表情は怪訝なものとなっていく。そして不機嫌そうなセシル・ローレンスは呑気にジャクリーンとコミュニケーションを取っているシルスウォッドの肩を掴むと、少々強引なやり方でシルスウォッドを正面に向かせ、ジャクリーンから目を逸らさせた。それからセシル・ローレンスは、シルスウォッドに耳打ちをする。
「……友人は選ぶべきだな、セイン。あんな乞食まがいの汚れたシーメールなんぞとは、関わるべきじゃあない。それともお前さんは、あれからシラミでも譲ってもらいたいのか?」
 悪意と不当な侮蔑に満ちたセシル・ローレンスの言葉に、今度はシルスウォッドの方が顔を顰めさせた。便利屋ジャクリーンの背景などは全く知らないシルスウォッドであるが、しかし今の言葉はないだろうと彼は感じたのだ。そして咄嗟に何かしらを言い返そうとしたが……シルスウォッドはそれを止める。その代わりに、何も言わずに黙り込み、ただ横目でセシル・ローレンスに冷たい視線を浴びせつけるという行動を選択した。
 だがシルスウォッドの冷めた眼差しを、セシル・ローレンスが真に受けることはない。エネルギーを持て余した若者がスリリングな遊びにでも手を出したが為に、便利屋ジャクリーンなんていう“野良犬”と出会ってしまったのだろうと、セシル・ローレンスはそう見当をつけていたからだ。
 ――つまり、セシル・ローレンスは自分の発言のどこに非があるかを把握すらしておらず、何にシルスウォッドが怒りを表明しているのかも分かっていないというわけである。彼の目にはシルスウォッドの姿が『年寄りに火遊びを指摘され、苛立っている若者』としか見えていなかったのだから。
 どこまで行っても、平行線にしかならない二つの世界軸。それを察しとったシルスウォッドは最後に溜息だけを零すと、セシル・ローレンスを睨み付けるのを止め、醒めた視線を正面に移した。そしてセシル・ローレンスもまたシルスウォッドから目を放し、今度は背後で暇そうに突っ立っている便利屋ジャクリーンに目を向ける。それからセシル・ローレンスは受付を指し示すと、ジャクリーンにこう告げた。
「ジャック。代金は受付においてある。受け取れ」
 セシル・ローレンスの言葉を受け、便利屋ジャクリーンは動いた。ジャクリーンは受付の方に向かうと、カウンターの上に一枚だけ置かれていた二〇ドル札を見つけ、それを手に取った。続いてジャクリーンは、不服を申し立てるように腕を組む。それからジャクリーンは手と唇を動かして、音のない抗議を店主にした。
『チップは無いの? 払えないっていうなら、頼まれてた物は持って帰るけど。アンタ、それでいいんだね?』
 シルスウォッドの目の前に偶然にも置かれていた鏡に、左右反転された姿で映し出されたジャクリーンが手話で訴えていたのはその文言。本のお陰で、少しは手話を理解できるようになったシルスウォッドにはジャクリーンの意図を読み取れたのだが。そんな技術は持っていないセシル・ローレンスには、何が何だかサッパリ分からないというもの。
 不満げなジャクリーンの表情や仕草から、ジャクリーンが何かしらの不服を訴えているのはセシル・ローレンスにも伝わっていたが。それが何に対しての不満であるのかが、彼には分からなかったのである。……そこでシルスウォッドは仕方なく、店主のセシル・ローレンスに助け船を出すことにした。
「チップは無いのか、と彼は言ってます。チップを払ってくれないなら布は持って帰るそうですよ」
 ジャクリーンの手話を、シルスウォッドがそう翻訳すると。セシル・ローレンスは表情を強張らせた後、彼は渋々チップの支払いに応じた。受付のカウンターの裏に回ったセシル・ローレンスは、カウンター内側に隠した金庫を開けると、そこから一ドル札を二枚ほど取り出したのだが……――ジャクリーンは不満を表現するように、チッチッチッと舌を鳴らす。それからジャクリーンはまた手を動かし、セシル・ローレンスに文句を付けた。
『皮と骨だけみたいなジジィの代わりに、クソ重たい荷物を持ってきてやったんだよ? それから、クソみたいな罵りを受けても怒りをグッと堪えて、殴らないでやっているんだ。だから、分かってるでしょう?』
 そしてジャクリーンの通訳をシルスウォッドは行う。過激で下品な要素を、幾分か取り除いて。
「重たい荷物を、あなたに代わって持ってきてやった。それから不当な誹りを受けて怒り心頭だけれども、殴らないでやっている。だから、もっと出せ。――と、彼は言ってますよ」
『最低でも一〇ドルは払うべき』
「最低でも一〇ドルだそうです」
 一〇ドルと強気に出たジャクリーンの意思を、シルスウォッドはそのまま伝える。すると意外なことに、セシル・ローレンスはそれに応じた。金庫から予め取り出していた二ドルに加え、新たに一ドル札を八枚取り出す。……高慢ちきの老人も、気の立った若者には殴られたくはないようだ。
 そうしてセシル・ローレンスは大人しく一〇ドルを追加でジャクリーンに手渡すが、やはりそこはプライドの高いカルト宗教信者である。捨て台詞は忘れない。
「……これだから卑しい野良犬は……」
 面と向かって“卑しい野良犬”と罵られたジャクリーンは、セシル・ローレンスからふんだくるように追加の一〇ドルを奪い取る。それからシルスウォッドの方を向いた。
そしてジャクリーンはシルスウォッドに、こんなことを伝えてきた。
『乞食まがいの汚い野良犬はサヨナラするよ。それじゃ』
 踵の高い靴をカツカツと鳴らし、不機嫌そうなジャクリーンは仕立て屋を立ち去っていく。再びドアベルがチリンと鳴り、開けられた出入り口が閉まると、セシル・ローレンスは即座にシルスウォッドに対して悪態を吐くのだった。
「お前さんは一体どこで、あのような品のない人間と出会ったのかね?」
「レストランですけど」
 セシル・ローレンスの悪態に、シルスウォッドは嘘で応答すると。ジャクリーンと同じぐらい、もしくはそれ以上に不機嫌になっていたセシル・ローレンスは、シルスウォッドに大人げなく突っかかってくるのだった。「そのレストランとやらは、どこの店だ」
「言う必要ありますか、それ」
 シルスウォッドはセシル・ローレンスを冷たく跳ね除けるが。セシル・ローレンスによる嫌味の応酬は止まらない。
 セシル・ローレンスは出入り口付近に立てられたポールハンガーに掛けられた、シルスウォッドのモッズコート――ダークオリーブ色のコートで、ザックの父親から譲ってもらったもの――に焦点を合わせると、彼はシルスウォッドに問いかけてきた。「……あのコートは、誰に貰ったのかえ?」
「友人の父親が、譲ってくれました」
「こんな似合ってもいない安物を着ている息子を野放しにするなど、アーサーは自分の息子の何を見て……――」
 ザックの父親から譲ってもらったコートがシルスウォッドに似合っていないことにはシルスウォッドも同意するが――撫で肩が邪魔して、雰囲気が締まらないのだ。しかし悪意を以て“安物”と呼ばれたこと、これに関しては同意できなかった。
 そりゃ勿論、セシル・ローレンスが仕立てるような“最高級のテーラーメイド”とは比較するまでもないし、比較するべきでもない。ザックの父親から譲ってもらったモッズコートは明らかに安物だ。既製品だし、低価格の汎用品だ。セシル・ローレンスの創り出すものとは、同じ土俵には立っていない安物だろう。
 しかしだからといって、必要以上に馬鹿にする必要があるのか? どうしてここまで、理不尽な悪意を向けられなければならないのか? ……それがシルスウォッドには納得できなかったのだ。
 とはいえシルスウォッドが何かを言い返したところで、セシル・ローレンスに話が通じないことなど目に見えている。故にシルスウォッドは諦め、黙りこくった。暫くセシル・ローレンスの小言が続くことを覚悟して。
 だが、意外なことが起こった。セシル・ローレンスが次に発したのは、小言ではなかったのだ。
「お前さんの父親は、コートすら用意してくれないのか? もうじき十二月になるというのに……?」
 知人から譲渡された、似合ってもいない安物のコート。それを恥ずかしげもなく着ているのは、父親と険悪な関係にある良家の子息……――。
 そこからセシル・ローレンスが弾き出したのはどうしようもない小言ではなく、正しい分析と、それに伴う戸惑いだった。そしてシルスウォッドが無表情で頷いてみせれば、セシル・ローレンスは頭を抱え、こんなことを言う。
「そりゃあ息子がグレて当前だわなぁ! はぁ、こりゃまた……オブライエン家も地に落ちたもんだ」
 そう言い終えるとセシル・ローレンスは、シルスウォッドの急斜面な肩をバシバシと叩いた。それからセシル・ローレンスは、何かを企むようにニヤリと笑うと、シルスウォッドにある提案を投げかけてくる。「ついでだ。この撫で肩をカバーするコートも仕立ててやろうかね」
「あっ……えっ?! いや、でもそんなこと急に言われても――」
「ワシがあのみすぼらしいコートを許せないだけだ。お前さんが後ろめたさを感じる必要はない」
 その後セシル・ローレンスは「ちと待っておれ」と言い残すと、シルスウォッドを置いて作業場へと消えていく。その数分後に戻ってきたセシル・ローレンスは、まだ仮縫いの段階と思われるチャコールグレーの立て襟付きケープを携えていた。そして彼はそのケープをシルスウォッドの肩にガサッと掛けると、ひとり納得したようにほくそ笑んだ。それからセシル・ローレンスは言う。
「撫で肩はケープで覆い隠せば良い。つまりインバネスコート、それ一択のみだ」
 満足そうなセシル・ローレンスはシルスウォッドの肩からケープを取り払うと、また作業場へと戻っていく。セシル・ローレンスの足取りはどことなく軽く、まるで浮かれているかのようだった――近頃マンネリに悩まされていた老練の職人の許に、久方振りに降りてきた“インスピレーション”が、そうさせていたのだ。
 そういうわけで、支払者であるシルスウォッドの父親が不在の状況で決まったコートだが。父親は当然、いい顔をしなかった。セシル・ローレンスがぼったくりでもしたのか、それともそれが相応しい価格であったのかは定かではないが……そのコートが、高級車とほぼ同等の価格であったからだ。
 しかし父親は渋りながらも、最終的には支払いに応じた。というのも父親は支払いに際してセシル・ローレンスに「オブライエン家の恥晒し」と罵られ、更に「オブライエン家を終わらせたのは次男坊ではなく、お前さん自身だ!」と指摘され、加えて「次男坊への贖罪だと思って、支払いに応じろ!」と叱られたとかで……――要するに父親は長年にわたり世話になっていた仕立て屋セシル・ローレンスによって、プライドにトドメを刺されたというわけだ。憎き妹ドロレスや忌々しき息子シルスウォッドから罵倒されるならまだしも、親しい間柄にあった第三者に見限られたという事実には、父親も堪えたのだろう。
 ――そうして成り行きで手にした漆黒のインバネスコートは、アルバと名を改めた今でも彼の手元に残っている。まあ、それも当然だろう。高級車一台を買うことすらできる額のコートだ、貧乏性である彼が捨てられるはずもない。
 だがこのコートを彼は、故あって一度手放している。しかしそれは、まだ先の出来事だ。





 シドニー某所にて、ラドウィグが黙々と安物のスーツに着替えている時。一方その頃、マンハッタン某所に居るアストレアはどうしているかというと。
「……ほーい、ほい。ニャーニャーっと……」
 深夜のマンハッタンでは、眠気と戦うアストレアが居た。そして彼女は今、自室ではなくアルバの使っている住居スペース、そのリビングルームに勝手に押し入っている。そんなアストレアは緑色をした長いリボンを手に持ち、そのリボンを始終ひらひらとさせていた。これを彼是三〇分ほど、彼女はずっと続けている。
 そんなアストレアの足許では、ちょこまかと動き回る子猫三匹が居た。
「……元気だなー、お前たち。そろそろ寝かせてほしいんだけど。お前らの母ちゃんだって、そこでもう寝てるんだぞ……?」
 ひらひらと踊るリボンを追いかけて、ピョンピョンと飛び跳ね続ける子猫たちは、いつの間にか成長を遂げ、今では成猫と変わりない体格をしている。現に子猫たちの今の大きさは、この部屋の隅で体を丸めて眠っている彼らの母猫――ぽっちゃり気味のキジトラ猫であり、アルバはこの猫のことを『チャンキー(=ずんぐりむっくり)』と呼んでいる。その呼び名が原因かどうかは知らないが、この猫はアルバを基本的に敵視しており、今のようにアルバが留守にしている時にしか姿を現さない――と遜色ない。
 成長していく子猫の姿は微笑ましくもあるが、同時にアストレアに憂鬱さを与えていた。
「…………」
 子猫たちを見ていると、時間の流れを感じさせられるのだ。もうあれから七ヶ月も経っているということを、イヤでも実感させられる。もう後戻りすることはできないだけの時間が流れているのだと、アストレアに突き付けてくるのだ。
 それに成長していく子猫の姿は、アストレアとまるで正反対だ。子供の姿のまま、時の流れに取り残されているアストレアと違って、子猫たちは着実に成猫へと近付いていっている。けれどもアストレアは、この先もずっと子供のまま。半永久的に、この姿のまま……――
「……ねぇー、もう終わりにしていい? 眠いんだけどさ~」
 そう呟いたアストレアは、リボンを振る手を止める。すると子猫のうちの一匹、茶トラ猫のソイが不満を露わにした。茶トラ猫のソイは鼻を膨らませると、茶色い尻尾で強く床を叩きつけてみせたのである。するとその音に、兄弟猫のキジトラ猫ミソはビックリし、部屋の隅にいる母猫の許へとすっ飛んで逃げてしまった。
 そんな中、一匹だけきょとんとしている猫が居る。それはサバトラ猫のマッカレルだ。サバトラ猫マッカレルは、動きの止まったリボンをちょいちょいと前足で触ると、動かぬリボンを不思議そうに見ていた。――どうやらサバトラ猫マッカレルはリボンだけを注視していたようで、そのリボンを動かしていたアストレアという存在を見ていなかったらしい。そのおかげで、アストレアが手を止めたからリボンの動きが止まったのだという関連性を、茶トラ猫ソイと違って導き出せなかったようだ。
「今日は終わり! ほら、お前たちも母ちゃんと一緒に寝てこい!」
 リボンを巻き取り回収するアストレアは、不満げな茶トラ猫ソイと遊び足り無さそうなサバトラ猫マッカレルにそう捲し立てる。するとサバトラ猫マッカレルは諦めて寝床に向かっていったが、茶トラ猫ソイは動かなかった。茶トラ猫ソイは不満そうな目つきで、アストレアを睨み付けている。だが、これしきのことでブレるアストレアではない。
「ゴネたって無駄だよ、ソイ。今日はもう終わりだからね」
 遊び好きで賢くもあるが高慢ちきなところもある茶トラ猫のソイ、臆病だがヤキモチ屋で甘えん坊なキジトラ猫のミソ、少々お間抜けであり常にマイペースなサバトラ猫のマッカレル。そして、アルバのことが大嫌いで食べることが大好きな母猫のチャンキー。そんな猫たちの個性をアストレアが把握できたのは、つい最近のこと。それに伴い、猫たちに愛着が湧き始めてきたのも最近のことだった。
 不思議なことではあるが、今ではもう猫のいない生活など考えられないくらい、アストレアの心は猫に支配されている。アストレアはアルバの企んだとおりの、猫の立派な下僕になってしまっていたわけだ。――しかし、かといってアストレアが猫たちを“猫っ可愛がり”することは決してない。アストレアは如何なるものに対しても、ドライな態度を変えることはないのだ。彼女の無駄に高すぎるプライドが、それを許さないのだから。
「ソイ。だから、終わりなんだって」
「ヴゥゥ……」
「もう夜も遅いんだよ。ガキはママと同じベッドで寝る時間だ。ほら、行った行った」
「ゥゥゥゥゥ……」
 ……いや、彼女が猫とドライな付き合いをしているのには、ある理由がある。それはアルバという男の存在。単刀直入に言うと彼女は、アルバに引いていた。
 あの男は、この猫たちにベタ惚れしている。特に、甘えん坊なキジトラ猫ミソと彼は相思相愛といった雰囲気。キジトラ猫ミソは彼の肩の上にやたらと乗りたがるし、彼もそれを許していた。
 とはいえ、アルバは特別にキジトラ猫ミソだけを贔屓しているわけではない。猫たちに対する彼の愛情の注ぎ方は平等であり、現に母猫チャンキー以外の猫たちは彼にとても懐いている。彼は全ての猫に対して平等にベタ惚れしていて、全ての猫に対して赤ちゃん言葉で接するのだ。アストレアが傍に居ない時に限って、ではあるのだが。
 しかしアストレアは、猫に対して赤ちゃん言葉を使うアルバの姿を何度か目撃している。そして彼女は、そんなアルバの姿にドン引きしていた。――だが気の利くアストレアは、それについて知らないふりをし続けている。
「……ソイ。何度も言わせないで。もう終わりだから」
 そんなわけでドライな態度を貫くアストレアは、不服気に睨んでくる茶トラ猫ソイを睨み返すのだが。それに対して茶トラ猫ソイは、再度尻尾で床を強く叩くという反応を見せる。けれどもアストレアが心を変えることはなかった。
 アストレアは纏めたリボンを、猫のオモチャ置き場としている箱の中に入れる。これは「遊びは終わり」という意思表示だった。すると遂に茶トラ猫ソイは諦め、姉妹猫と母猫が居る場所へといそいそと向かっていく。しかし茶トラ猫ソイのその背中は依然、不満タラタラといった感じだった。
「ふぅ。これで、やっと寝れる……」
 そう呟いたアストレアは、眠気から欠伸を零す。はしゃぐ猫たちの騒ぐ音も無くなり、すっかり静かになった部屋には、しんとした空気だけが立ち込める……――はずだった。
 アストレアがこの部屋から出て行こうと、玄関へと向かおうとした時。彼女は、徐々に近づいてくる騒がしい音をキャッチした。
 それは廊下の方から聞こえてきていた。体格の小さい何者かが、ドタバタと走ってくるような、そんな足音。聞こえてきたのは、そんな音である。だがアストレアには、その音に心当たりがない。
 その足音は、少なくともアルバでないことは確実だった。何故ならば、彼は下品に足音を立てながら歩くことはしないタチだからだ。あえて自分の存在を主張したい時だとか、相手を威圧したい時ぐらいしか、彼は足音を立てない。
 それに今聞こえてきた足音は、無邪気に走り回る子供のそれに近い。小さな体格と軽い体重を目一杯に使って、ドタバタと騒がしい音を立てているというような、そういう感じだ。ならば、大柄の成人男性であるアルバは、候補から必然的に外れる。
 となると当てはまりそうなのは、子猫たち三匹ぐらいだが。その子猫たちは全て、アストレアのいる空間に揃っている。その母猫も然りだ。けれども廊下からは確かに、何者かが走り回る足音が聞こえてきていたのだ。
「……?」
 なら、何者かがアパート内に侵入したのだろうか?
 その可能性を検討したアストレアは、この住居スペース内の玄関前に向かうと、玄関扉の横に立てかけてあった金属バットを手に取る。そしてアストレアは金属バットの柄を利き手に握りしめると、静かに扉を開けた。それから彼女は足音と気配を殺して、そっと廊下に出ると、音を立てぬようにゆっくりと扉を閉める。
「…………」
 アストレアは金属バットを構え、周囲をキョロキョロと見渡した。――……その時だ。
「わたし、それ、ずかんでみたことある! やきゅうのバット!」
 アストレアの後ろから聞こえてきたのは、幼い子供が発した大きな声だった。聞き覚えのない子供の声に、アストレアの頭の中は一瞬にして真っ白になる。そして彼女は振り向きざまに思わず、金属バットを手放してしまった。
「わっ……?!」
 一キログラムはあるだろう金属の塊が床に落ち、カンッという硬い音が鳴る。だがアストレアは自分が金属バットを手放したことにも気付いておらず、そして金属バットが彼女の足の甲にぶつかっていたことにも気付いていなかった。
 なぜアストレアが、パニックを起こしたのか。それはその子供が、アストレアの方に向かって突進してきていることもあるが。一番の原因は、その子供の容姿だろう。
 白いヘンリーネックのTシャツと、ボーイッシュな黒のカーゴパンツを着用し、素足にサボサンダルを履いているその子供は、パッと見は人間の女の子のようだった。金髪で、青い目で、肌は異様に白くて――まるで人形のように可愛い、可憐な少女。パッと見ただけでは、そういう印象を受けるだろう。
 だがアストレアが気になっていたのは、その少女の耳だ。フェネックのように長く尖った耳の形は、丸みを帯びた短い人間の耳とは違う。例えていうならそれは……幻想の世界で語られる存在、エルフ。それに近いだろう。
 とはいえ耳の形が風変わりなだけなら、それはまだ人間の域を出ない。ここまでのものは滅多にないだろうが、まあ耳の変形自体はそれなりに見られる先天的特徴であるからだ。だが……――アストレアはその少女を“人間ではない存在だ”と感じていた。
「…………!!」
 それは野生的な直感のようなもの。これといった根拠はない。だが、直感が鳴らす警鐘は信用に値すると思えた。
 しかし、その警鐘のせいでアストレアはパニックを起こし、動けなくなっている。
「あっ……えっ……――痛ッ?!」
 戸惑うアストレアが遅れて足の甲の痛みに気付き、その場に座り込んだとき。人間でないと予想される子供が、アストレアのすぐ傍に来る。そしてアストレアが落とした金属バットを、その子供は奪い取った。
 金属バットを取った子供は、とても嬉しそうに飛び跳ね始めると、それを携えて来た道を戻っていく。無邪気に声を張り上げながら、子供はドタバタと廊下を駆け抜けていった。
「アルバ、みて! バット!!」
 廊下を駆け抜けていった子供は、突き当りを曲がり、アストレアの視界から消える。そうしてアストレアだけが一人、混乱の中に残された。
 ――と、思いきや。その数秒後、慌ただしい足音がピタっと止まる。と同時に、柄にもなく慌てているアルバの、やや上ずった声が聞こえてきた。
「やめなさい、ライド! そんな危ないものを振り回しながら、走るんじゃない!!」
 その声や口調は完全に、聞かん坊に振り回される保護者そのもの。それに続いて聞こえてきたのは、駄々をこねる子供の泣き声。
「やぁ~だぁ~! ライドのバット、かえして~!!」
「……駄目だ。これは子供のオモチャじゃない」
「やだ! ヤダヤダ、ヤーダァーッ!!」
 どうやら、ライドというのが先ほどの子供の名前であるようだ。
 そのことを把握した後、アストレアはふと我に返る。ジンジンと唸る足の甲の痛みを堪えて立ち上がりながら、彼女は子供が走り去っていった廊下の突き当りをジッと見つめた。そしてアストレアは考える。先ほどのライドという子供と、アルバの関係性を。
 ライドという子供は、見たところアルバにかなり懐いている様子。ライドは、彼女が見つけた“危険なオモチャ”をアルバにわざわざ見せに行こうとしていたのだから。それにアルバの方も……。
「…………」
 イヤな予感しかしない。――アストレアが弾き出した結論はコレだった。
 アルバが初めて“ギル”の名を口走った時に覚えた恐怖感が、再びアストレアの背中を撫でている。今度こそ本当に、あの男は気が違ってしまったのではないか。アストレアにはそう思えてしまって仕方がなかった。
 「……あのクソジジィ、何を企んでやがるんだ……?」
 ぼそりとそう呟き、アストレアは腕を組む。それから彼女は目を細めさせた。そろそろ廊下の突き当りから姿を現すだろう男に、とびきり冷めた視線を浴びせるために。そして彼女は黙って廊下に立ち、じっと待つ。
 アルバがアストレアの前に姿を現したのは、数分が経過してからのこと。駄々っ子が泣き止み、静かになったタイミングで、彼は現れた――まだ泣きべそをかいている子供を宥めるように抱き上げながら、そして宙をフワフワと漂う金属バットを伴った姿で。
 やつれ切った顔と真っ白な髪が合わさり、まさに“グランパ”といった風体を醸し出しながら現れたアルバは、腕を組んで待ち構えているアストレアを見るなり、一瞬だけ気まずそうな表情を浮かべた。そしてアストレアがこう問い詰めると、彼は珍しく動揺してみせる。
「その子、人間じゃないよね。これは一体、どういうことなの?」
 無駄を削ぎ落し、核心のみを狙って乱暴に切り込んでくるアストレアの指摘に、アルバは肩を震わせた。そして彼は、わんわんと泣き喚く子供が今のアストレアの言葉を全く聞いていなかったことを確認すると、一瞬だけ安堵の表情を浮かべる。だがすぐにその顔は、緊張した面持ちへと変わった。
 そのように狼狽しているアルバの姿に、嘘は無い。どうやら彼は、このことをアストレアに知られたくなかったようだ。
「答えて。アンタはどういうつもりなの?」
 再度アストレアがピリピリと張りつめた声で問い詰めてみれば、その声が纏った緊張感に当てられた子供は、泣き声を増大させていく。アルバにオモチャを取り上げられたことに対する抗議の涙は、怒るアストレアに対する怯えの涙へと変わっていた。
 あっという間に悪役へと仕立て上げられたアストレアは、気まずさから黙りこくるしかなくなった。理不尽すぎる子供の泣き声に、アストレアは苛立ちと不信感を余計に募らせていたが、しかし彼女はそれを今は堪えることしかできない。
 そのようにアストレアを追い詰めた子供の泣き声は、反対にアルバを利することとなる。アストレアが沈黙したのをいいことに、アルバはこう言って逃げおおせようとしたのだ。
「――詳細は後で話す」
 外行きの調子のいい笑顔を浮かべて、アルバはそう言うと。彼は子供を抱き上げたまま、アストレアに背を向けて来た道を戻っていく。その歩みはとても早く、アストレアが追いかけることも敵わないような速さだった。
 あっという間に消えていったアルバに、アストレアは唖然とする。初めて見る彼の情けない姿に、アストレアは呆れ返ってしまっていたのだ。
「……なんなんだよ、あのクソジジィ」
 今起こった出来事の衝撃は、以前に見た『猫に対して、赤ちゃん言葉で話しかけるアルバの背中』をゆうに超えているし、彼に対する幻滅や不信感も今の出来事のお陰でより一層深まった。……まあ、そもそもアストレアは彼のことを信用していたわけではないし、期待をしていたわけでもないのだが。
 とはいえ――……それはそれ、これはこれ、というもの。
「……はぁーっ……」
 アストレアは組んでいた腕を解き、吐き出した溜息と共に細めていた目の緊張を緩める。彼女はアルバにとても失望していたのだ。
 アストレアの知らないところで、アルバが何かしらの“壮大な計画”を進めていることは、なんとなく彼女も知っていたが。その壮大な計画とやらは、薄汚れた人間から金を巻き上げて殺したり、どこか都市部のビル群を爆破して吹っ飛ばしたり、そういうものだと彼女は思っていた。
 ……いや、アストレアは分かっていたはずだ。壮大な計画とやらの真相を。ただ彼女は、たった今目にしたその断片を受け入れられていないだけ。
 卑しき人類を葬り去り、新世界の夜明けを創る。――そんな風に仰々しく言えば、聞こえはいいが。結局のところアルバが求めているのは“無垢な子供”なのだろう。彼に敵意を向けず、彼を慕い、頼って求めてくるような、そういう存在を、そういう世界を、彼は創りたいだけ。それは壮大な現実逃避であり、彼の“奪われた人生”を奪還するための作戦なのだろう。
 となれば。彼が目的を果たしたとき、アストレアはどうなるのだろうか。薄情な彼のことだし、連れ合いを切り捨てることなんて簡単なはず。幼馴染を見捨て、親友を散々痛めつけ、最も彼が信頼していた相棒であったはずのアイリーン・フィールドすらも惨たらしく殺してみせた男なのだから。
 ――そんなことを考え始めたアストレアは、頭がずーんと重くなる感覚を覚えざるを得なかった。
「…………」
 しかし、これらは所詮アストレアの杞憂でしかない。アルバの本心を、本懐を、ロクに知らない彼女が勝手に想像を巡らせているだけのこと。
 そうしてアストレアがひとり肩を落とし、溜息を零していると。そんなアストレアの背後から、ゆっくりと近付いてくる影が現れる。大きな丸っこいフォルムのお尻をプリプリと振りつつ、よちよちと不器用に歩いている海鳥の影ギルだ。
 海鳥の影ギルはアストレアのすぐ足許にまで近寄ると、彼女にこう声を掛けてきた。
『アルバを狼狽えさせられる者が、モーガンの他にも存在していたとは……。ちょっと意外です』
 気配も物音もなく近付き、いきなり声を掛けてきた海鳥の影ギルに、アストレアは驚き一瞬黙り込んでしまったが。すぐに彼女は気を取り直す。声を掛けてきたギルに、彼女は簡潔に要点だけをまとめた質問を返した。
「……今のは何? アンタは何か知ってるの?」
 すると海鳥の影ギルは、自らの翼の付け根のあたりを嘴でつつき始め、毛づくろいの真似事を始める。火の粉に似た黒く小さな影を体から飛散させるギルは、何から語ればよいのかを検討中である様子――これはギルが思考整理の際にみせる癖なのだ。
 そうして海鳥の影ギルを待つこと二〇秒。毛づくろいを止めた海鳥の影ギルは、たどたどしい口調で語り出す。『あれは、その……見た通りですよ。エルフみたいな耳の、ホムンクルスです』
「やっぱり。あの子供、ホムンクルスだったんだ」
『ええ。あれはアバロセレンから人工的に創り出された生命体であり、自然の産物ではありません。そして先ほどまで騒いでいたライドの他にも、似たようなものが三体いますよ。ギョーフ、ユル、イングという、それぞれ個性の違ったホムッ――』
「は? 三体? ……――いや、四体いるってこと?!」
 ライドという先ほど騒いでいた子供の他にも、まだ三体いる。つまり、ライドを併せて四体のホムンクルスが存在している。……海鳥の影ギルがさり気なく明かした情報に、アストレアは度肝を抜かした。
「よ、よんたい……?!」
 一体だけならまだしも、まだあんな“子供のような何か”が存在しているなんて!
 猫たち四匹の世話でもてんやわんやの毎日なのに、更に子供のような何か四体の面倒まで見ろと言われたら……――完全にアストレアのキャパシティーを超えてしまう!!
「……え、うわっ、えぇ……」
 そのように露骨に戸惑うアストレアだが、情緒に疎い海鳥の影ギルがそれを汲むことはない。
『彼は気が早すぎるのですよ。まだ人類を滅ぼしてすらいないというのに、新種属を創ろうとしているのですから……』
 海鳥の影ギルはそのように、淡々と話を続ける。……というのも、海鳥の影ギルもまた戸惑っていたのだ。アルバの行動ペースが駆け足気味であること、加えてその裏で起こっている彼の変化に、ギルはついていけていなかったのだから。
『彼は己の理想とする世界を現実に近付けるのではなく、己の理想に近付けるべく現実の方を捻じ曲げ、摺り合わせようとしているのです』
「えっと、ギル。それってつまり……どういう意味?」
『あらゆる“法則”を、彼は捻じ伏せようとしているんですよ。そして彼には、それを可能にする力、即ち“可能性を司る神キミアの能力アバロセレン”がある。――最高でしょう?』
「ハハッ。……その“最高スレイド”って、どういう意味なの?」
『以前アルバが使っていた言葉を、私も彼と同じようなシチュエーションで使ってみただけですよ。私にも、その言葉が何を意味しているのかが分かりません』
 以前、海鳥の影ギルが欲していた『サー・アーサー』は、既に消えている。海鳥の影ギルが手に入れたのは『予測不能なアルバ』であって、『冷徹であり怒りに満ちたサー・アーサー』ではないのだ。
 この違いが、何を意味するのか。――海鳥の影ギルはかつてこの差異を軽く見ていたが、今ではその認識を改めている。サー・アーサーとアルバは異なる性質を持った、もはや“別人”として扱うべきだと、海鳥の影ギルは考えているのだ。
 というよりも、そもそも『サー・アーサー』だった頃の彼が異常だったわけで。情緒がやや不安定であり、何を仕出かしてくれるのかが予測不能で、そして何だかんだで女性に弱いこの状態こそが“彼”なのだ。
 サー・アーサーという名の頃に付いていた枷が外れ、徐々に本来の彼自身に戻りつつある。――それが“アルバ”という男の正体なのだろう。だが、これは海鳥の影ギルにとっては歓迎できない事態である。行動が予測不能であることは、計画遂行において障害にしかならないからだ。
 けれども海鳥の影ギルには、アルバの性格を変えることなどできない。もどかしいが、ギルには記憶改竄といった類の能力は与えられていないのだから、こればかりは仕方がないこと。変化しつつある彼を、そのままギルは受け入れるしかないのだ。だが、やはり……――
『……最高、ねぇ。一体、何が素晴らしいのでしょう? 私には分かりませんよ』
 混乱する海鳥の影ギルは、そう呟きながら輪郭を震わせる。それは海鳥の影ギルが抱える、戸惑いと混乱の表れだった。
「……はぁぁ……――クソッ、意味が分からないよ、あのクソジジィ……」
 しかし。対するアストレアもまた、自分のことで精いっぱいとなっている。今のアストレアには、ギルの困惑を汲める余裕はない。そんなわけで取り乱すアストレアは、困惑している海鳥の影ギルを容赦なく問い詰めて行くのだった。「ねぇ、ギル。つまり、こういうこと? あのクソジジィは、忌み嫌ってたアバロセレンを使って、心の底から憎んでいたはずのホムンクルスを作ってる。そして、それを量産化するつもりなの? ホムンクルスを量産しようとしてた施設を、研究員ごと爆弾で吹っ飛ばして、その施設の所長を処刑スタイルで銃殺した男が?」
『そうですね。その理解で、大筋は合っているかと私は思ッ――』
「いや、ちょい待て。ホムンクルスを作った? ――あのクソジジィ、いつの間にそんな設備を?!」
 自分で口走った言葉に違和感を覚えたアストレアは、自分の発言に自分でそうツッコミを入れる。よくよく考え直してみれば『アルバがホムンクルスを作った』という事実は、軽く受け流すべきではない重要なキーワードだったからだ。
 アバロセレンからホムンクルスを創り出すにあたって、必要とされているのは『大量のアバロセレン』『培養槽といった装置』『それらを隠匿できる敷地と権力』の三つだと基本的にはされている。アストレアは特務機関WACE時代に、アイリーン・フィールドからそう教わった。そしてアストレアが思うに、アルバはそのどれも保有していないはず。というか、彼はそれら三つを破壊し尽くすことに執念を燃やしていた男だったはずだ。
 そんなアルバが、ホムンクルスを作った? 一体、どうやって?
「ま、まさか、このアパートのどっかに大量のアバロセレンが眠ってるの……!?」
 ひとりパニックを起こすアストレアであるが。その一方で海鳥の影ギルは、慌てふためく勘の悪いアストレアを憐れむように見つめていた。そして呆れかえる海鳥の影ギルは、アストレアに答えを与えるのだった。『ホムンクルスを創り出す際に、設備なんていうものはそもそも必要ないのですよ。少しのアバロセレンと卓越した想像力さえあれば、それだけで可能なのです』
「……ほへ?」
『寧ろ、間に機械や設備なんていう余計なものを挿まないほうが良いのです。それらはホムンクルスを不安定にさせるだけなのですから。……現に彼は、自分の手首を切って血を流し、その血を杯に集め、そこからあれらホムンクルスの“素”を創り出していました。アルバの血液は、液化アバロセレンに限りなく近い性質を持っていますからね』
 拍子抜けするほど簡単で単純に思える、ホムンクルスの創造方法。それはアストレアの中で常識となっていた概念を、簡単にぶち壊していった。
「えっ、じゃあ、今までぶっ壊してきた施設たちの存在って……?」
 複雑な設備も、大量のアバロセレンも必要ない。それでもホムンクルスは作れるし、実際にアルバは作ってみせた。ならば海鳥の影ギルの発言は正しいのだろう。……だが、だとしたら疑問が残る。
 アルストグラン連邦共和国のいかがわしいアバロセレン工学研究所たちが試みていた、あれら計画たちは一体、何だったのか。彼らは何を根拠にしてあの設備を作り、膨大な量のアバロセレンを必死こいてかき集めていたのだろう?
 ――アストレアが抱いたその疑問に、海鳥の影ギルはこう答えるのだった。
『その昔、ホムンクルスを完成させたくなかったペルモンド・バルロッツィは、人工子宮や培養槽といった“まやかし”を用いて、計画を停滞させながら人間たちの目を欺きました。それら設備がないとホムンクルスを作れないという先入観を、彼は人々に植え付けたのです』
「せっ……先入観?!」
『ええ、先入観。哀れなことに人々は踊らされ続けているのですよ。ペルモンド・バルロッツィが作ったまやかしに、彼の亡き後も。――なので未だに、ユンとユニという名のつけられたホムンクルスの双子の他には、安定した個体が誕生していません。ホムンクルスのほぼ全てが、数日も人型を留めておくことが出来ず、あっという間に消散してしまうのは、つまりそういうことなのです』
 疑ったこともない大前提が、誰かの作り出した“まやかし”に端を発する先入観でしかなかっただなんて。なんと不条理でバカげた話だろう。
 呆気にとられる話続きに、アストレアはすっかり言葉を失った。もともと眠気に苛まれていた頭は遂に停止し、彼女の思考力は完全に失われる。
『そういえば。唯一の成功例であるホムンクルスの双子は、アルバの娘が創り出したものでしたね。父親にそっくりだったあの娘が創れたのであれば、その父親である彼もホムンクルスを創造できて当然というわけですか……』
 海鳥の影ギルが発した言葉を、アストレアは全く聞いていなかった。海鳥の影ギルの発した言葉は耳には入っていたものの、その言葉の意味を彼女の脳は処理分析することなく、右から左へと受け流していたのだ。
 そんなアストレアは、海鳥の影ギルにこう言葉を返す。
「あー、うん。なんか、もう、全然分かんないけど……とりあえず、寝る。おやすみ」
 それだけを言うとアストレアはその場を立ち去り、彼女の部屋へと戻っていく。この日のアストレアにはもう余力は残っておらず、ベッドに辿り着くや否や、気を失うように倒れ込んだという。


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 そして時代はまた遡って、四二一七年の十二月下旬の水曜日の夜。シルスウォッドが苦行――つまり、父親が支援者向けに開催するパーティーへの参加――を乗り越え、帰宅していた。
 送迎役は勿論、父親の専属運転手であるランドン・アトキンソン。パーティーが終了するよりも一時間ほど早く、彼はシルスウォッドを自宅へと送り届けてくれた。父親と一緒ではなく、シルスウォッドだけ先に。
 このような配慮を運転手ランドン・アトキンソンにさせてしまうのも、今年が最後。今年で、この苦行も最後。そう、最後……。
 本来なら喜びたいところなのだが。帰宅した直後のシルスウォッドは疲弊していて、どうにもそんな気分が湧いてこなかった。それは今回のパーティーで起きた、ある出来事に起因している。
「戻られましたか、シルスウォッドさま。……ご無事で何よりです……」
 玄関ドアを開けてシルスウォッドが出迎えてくれたのは、エルトル家に家政婦として雇われているマリアム・ダーシー。心配そうに蒼ざめた顔をした家政婦マリアムは、シルスウォッドの背後を注意深く観察している。おそらく彼女は、父親の気配を警戒しているのだろう。
 というのも、家政婦マリアムがシルスウォッドのことを丁寧に呼ぶのは、エルトル家の人間が居る場のみ。周囲にエルトル家の人間が居ない時、家政婦マリアムはシルスウォッドを単に“アーティー”と呼ぶ。畏まった関係になるのは嫌だからと、シルスウォッドがそう頼んでいたからだ。そんな家政婦マリアムがわざわざ丁寧に“シルスウォッドさま”と呼んだのは、周囲にエルトル家の人間が居ることを警戒してのこと。
「僕だけ先に帰ってきたんだ。父さんはまだ会場にいるよ」
 シルスウォッドは家政婦マリアムにそう伝えると、彼女はホッとした表情を浮かべた。それからシルスウォッドは着用していた新品のインバネスコートを脱ぎながら、家の中に立ち入り、玄関の扉を閉めた。そうして閉めた扉の施錠をシルスウォッドがしていると、彼が左腕に掛けていたインバネスコートを家政婦マリアムが取る。すると彼女は小声であることを、シルスウォッドに伝えてきた。
「……消化の良い豆料理を用意していますよ。後でお部屋にお持ちしましょう」
 例年、この時期になるとシルスウォッドの消火器官は不機嫌になると決まっている。パーティー前の数日は胃が痛くなって食欲はガタ落ちし、パーティー後は数日以内に必ず一度は嘔吐する――それが定番になっていた。
 なのでこの時期は、シルスウォッドだけ別の食事を家政婦マリアムが用意してくれる。
 エルトル家の面々がチーズべっとりの重たいマカロニ料理や、脱皮直後の柔らかいワタリガニの揚げ料理、チリスープを食べている時、別室でシルスウォッドはあっさりした味付けの豆と海藻と鶏肉のスープや、大豆肉のステーキのような何かを黙々と食べている――というのは、十二月にエルトル家でよく見られる光景だ。
 シルスウォッドだけ一人、質素で貧相な飯を食べさせられて可哀想に……――とも見られなくはないが。この質素に見える料理でないと、シルスウォッドの貧弱すぎる胃腸が壊れてしまうというのが悲しき現実なわけで。寧ろシルスウォッドとしては、このような気遣いを家政婦マリアムにさせてしまっていることを心苦しく思っていた。
「ありがとう、マリアム。昼から何も食べてなかったから――」
「ところで、アーティー。……あなたは、エルトル家を継ぐことにしたのですか?」
 少し恥ずかしがるようにはにかみ笑いを浮かべるシルスウォッドの言葉を途中で遮り、家政婦マリアムが彼に訊ねてきた、あること。それがシルスウォッドのはにかみ笑いを、緊張感に満ちた引き攣った笑みに変える。
「今のところ、僕の心は変わってないけど……急にどうしたの?」
 引き攣った笑みを浮かべつつ、シルスウォッドがそう訊ね返すと。家政婦マリアムは腕に抱えたインバネスコートを見やり、小声でこう告げた。
「……このコート、とても高価なものと見受けられます。このようなものをお受け取りになられたということは、つまりそういうことなのかと……」
 セシル・ローレンスが気まぐれで仕立てた、べらぼうに高価なインバネスコート。それを不安げに見ていた家政婦マリアムに、シルスウォッドは首を横に振って否定するという反応を見せる。改めてエルトル家を継ぐことを否定したシルスウォッドに、家政婦マリアムは安堵の表情を見せた。
 そうして勘違いがひとつ解消された後、顔を見合わせた二人がお互いに気まずそうな苦笑いを浮かべたとき。居間の方から声が聞こえ、近付いてくる足音も届いてきた。
「マリアム。あなたは一体そこで何を悠長に――」
 静かで落ち着いた声と足音と共に、玄関に連なる廊下に姿を現したのは、やつれ切った顔をしたエリザベス・エルトル。いつまでも玄関から戻ってこない家政婦マリアムの様子を見に来たエリザベスは、家政婦マリアムの傍に立つシルスウォッドに気付くと、表情を強張らせる。――きっとエリザベスは、夫であるアーサー・エルトルも共に帰ってきていたのかと思っていたのだろう。だがそこに家政婦マリアムと共に立っていたのは、不義の子であるシルスウォッドだけ。
 そんなシルスウォッドとエリザベスの視線が、偶然にも交錯する。エリザベスは強張らせていた表情に険しい皴を数本増やし、シルスウォッドはその威圧感に生唾を呑む。
「…………」
 エリザベスから、何を言われるのか。――シルスウォッドはそう身構えた。だが彼女から飛び出してきたのは、予想など到底不可能と思える意味の分からない言葉だった。
「これは見事な鸚鵡おうむですこと」
 シルスウォッドの目を見て、エリザベスは『鸚鵡』と言うと。彼女は踵を返し、シルスウォッドの前から姿を消す。
「――……鸚鵡って、僕のこと?」
 そう呟くシルスウォッドは、少しだけ首を傾げさせる。
 どんな意図があって、エリザベスはそんな奇妙なことを言ったのか。そればかりは、エリザベス本人にしか分からない。
 鸚鵡といえば賢い鳥であり、発達した舌を巧みに扱い人語を真似ることができるというイメージが強いが。それ以外にもカラフルな羽を持つものが多いという特徴もあるし、鸚鵡の一種であるキバタンが持つような勇ましい冠羽を思い浮かべる人も居るだろう。それと鸚鵡は鳥にしては珍しく繊細な動きが可能な趾あしゆびを持っていて、器用な鳥というイメージを持つ人もいるはず。
 ――だが。シルスウォッドがどれほど考えを巡らせても、エリザベスの真意は分からなかった。
「さあ、私には分かりかねますが……――お部屋に戻られては如何でしょう?」
 エリザベスの発言に関しては何も言えることがない家政婦マリアムは、ひとまずシルスウォッドにそう促す。彼は家政婦マリアムの言葉に従い、自室に戻ることにした。もしかしたらエリザベスの先ほどの発言は「よく喋るうるさい鸚鵡は、部屋に引っ込んで黙ってろ」という意味だったのかもしれないという可能性を、彼は思い浮かべたからだ。
 そうして窮屈な白いタイを外しながら、家政婦マリアムと別れたシルスウォッドは廊下を歩いて自室へと戻っていく。その途中で彼は、ぴっちりと綴じられた異母兄ジョナサンの部屋の扉をチラリと見やる。
「……」
 サービングカートに乗せられた、銀色のドームカバーで覆われたプレート。それがジョナサンの部屋の前に、ポツンと置かれている。きっとそれは、家政婦マリアムが用意した食事だろう。そして異母兄ジョナサンは、まだそれに手を付けていない。家政婦マリアムが帰宅し、エルトル家の面々が寝静まって静かになるまでは、あの部屋から出てくることもない。特に今日のジョナサンは、出てこないだろう。
 すっかり落ちぶれた異母兄ジョナサンの姿は、この時期ばかりは哀れに見えて仕方がない。だが、かといってシルスウォッドが異母兄に同情するかといえば、そうでもなく。
「――……全員、溺れて死ねばいい……」
 エルトル家は、沈没間近の船だ。船体には大穴が開いていて、浸水の度合いは酷いし、もはや復旧は不可能。だからシルスウォッドは、ここから出て行く。道連れになるつもりはない。
 異母兄ジョナサンの部屋を冷たく見据えつつ、そう呟いたシルスウォッドは自室へと戻り、扉を閉める。ランタンの蝋燭に火を点け、最低限の明かりを確保すると、外したタイを右手に握った。それから彼は父親がこの部屋に設置した姿見鏡を見やると、そこに映る自分の姿を睨み付ける。燕尾服で着飾った、間抜けな自分自身の姿を。そしてシルスウォッドはその鏡に映る自分に向けて、握りしめたタイを投げつけるのだった。それからジャケットを脱ぎつつ、彼は自分自身に悪態を吐く。
「なるほど、こりゃ確かに鸚鵡だ。キバタン、ってわけかぁ……」
 この日は終始、最悪だった。
 早朝に胃痛と共に目覚めたシルスウォッドが、気配を消して洗面所に向かえば。彼がボーっと歯磨きをしていた時に、タイミングを狙って父親が現れて……彼は、父親に捕まった。そうして現れた父親は、シルスウォッドに剃刀の刃を向けてきた――シェービングフォームと共に。
 いや、昨日、剃ったから! ……だなんてことは、父親には言うことが出来ず。ただただ父親に刃物を向けられているという恐怖に怯えることしか、彼にはできなかった。そうして彼は緊張からガチゴチに固まってしまい……後のことは、よく覚えていない。日中のことは、何も。
 記憶があるのは、午後の一時過ぎぐらいから。それぐらいの時間帯に、心配そうな顔をした家政婦マリアムがシルスウォッドの部屋に来て、彼に簡単な軽食と共に胃薬と水を持ってきてくれたのだが。シルスウォッドの記憶は、そこから再開されていた。それ以前のことは、不思議なぐらいに何も覚えていなかったのだ。
 その時の家政婦マリアム曰く、その日のシルスウォッドは「異様なくらいずっと黙りこくっていて、ひどく不機嫌そうに見えた」とのこと。それに加え、シルスウォッドは午前中に父親と口論を起こし、小一時間ほど家を出ていたのだとか(後日判明したことだが、どうやらこの時にシルスウォッドが向かったのは、友人であるザックの家族が営むレストランだったようだ。そしてザックが言うには「紅茶に角砂糖を六個ぐらいぶち込んで、パンケーキには『アホかよ!』っていう次元の量のメープルシロップをぶっかけていた」上に「ずーっと『パーティーに行きたくない』やら『あんなクソみたいな連中の顔なんか見たくない』って、オレの姉貴に愚痴ってたし。姉貴は興味津々そうにその愚痴を聞いてた」らしい。しかしこの時の記憶は、シルスウォッドの中に全く残っていない)。――シルスウォッドが不機嫌そうにずっと黙りこくっていたというのは、その帰宅後。父親から何を言われても無視で、ほとんど自室にこもっていたのだとか。
 要するに……その日の午前中は緊張と苛立ちと警戒心で、気が立ちすぎていたのだろう。それも家政婦マリアムによって、幾分か解れたのだが。だからといえ、何かが解決されたわけではなかった。
 午後の五時頃になると、身支度がどうのと騒ぐ父親がシルスウォッドの部屋に押し入ってきて、あーだこーだとシルスウォッドをせっついてきた(父親がその時に何を言っていたのかを、シルスウォッドはよく覚えていない。なぜなら、彼は父親の言葉を聞き流していたからだ)。だがシルスウォッドは父親の言葉をロクに聞かず、その結果として父親は機嫌を損ね、シルスウォッドの腕を掴んで部屋の外に引き摺り出すという行動に出た。
 そうして父親がシルスウォッドを連れて行った先は、バスルーム。父親はバスタブに冷水を溜めると、シルスウォッドの髪を掴み、彼の頭を冷水の中に一度じゃぼんと沈めてみせた(一度で済んだのは、家政婦マリアムが駆けつけ、父親の暴走を止めてくれたからだ)。そんなこんなでびしょ濡れになったシルスウォッドの髪を、父親は有無を言わさず勝手にスタイリング。されるがままのシルスウォッドは、鼻に入った冷水が喉に残したヒリつく感覚に顔を顰めさせ続けていた。
 その後もシルスウォッドは、父親から文句や罵倒を受け続けながら、ヤジを飛ばされながら、手を出されながらも、黙々と身支度を進めていった。タイの結び方ひとつにケチを付けられ、シャツの皴に文句を言われ、たかがハンカチ一枚にもギャーギャーと捲し立てられ……――身支度が全て終わり、インバネスコートの袖に腕を通した時点で既に、シルスウォッドの気力は尽きていた。
 現に、午後六時頃にシルスウォッドと父親をリムジンで迎えに来た運転手ランドン・アトキンソンは、心理的に疲弊していたシルスウォッドの顔を見るなり唖然とし、こう問いかけてきたぐらいだ。
『青年。随分と顔色が悪いが……――今日は無理をしないで、家で休んでいたらどうだ?』
 それは先にシルスウォッドだけがリムジンに乗り込んだ際に、運転手ランドン・アトキンソンが掛けてきた言葉。だがシルスウォッドが返答するよりも前に、父親がリムジンに乗り込んできた為、何かしら言葉を返すことは叶わなかった。
 そんなこんなで、例年通り“強制的に”参加させられたパーティーだが。シルスウォッドはこのパーティーのことを、殆ど何も知らない。これがディナーパーティーというヤツなのか、それともカクテルパーティーなのか、もしくはビュッフェスタイルのカクテルパーティーなのかも知らないし、彼はそんなことに興味がなかった。
 シルスウォッドの仕事は、ただ二つ。次から次へと父親に挨拶をしに来るゲストたちに、余計なことは言わず、笑顔で応対して、お飾りとしての役を全うするだけ。あと、ウェイターがよく分からない飲み物を進めてきたら、取り敢えずそれを受け取るだけ……――だったはずだが。今年は、それだけでは済まなかった。
 それは父親に挨拶をしに来るゲストの数がグンと減った頃合いだった。シルスウォッドがそろそろパーティー会場を抜け出そうと、頃合いを伺っていた時。例年なら、キラキラと目を輝かせた無垢な――ないし、極めて無知な――同世代の少女がシルスウォッドの許にやってきて、キツい香水の匂いと媚を振り撒いてくるのだが。この日は、様子が違っていた。
 シルスウォッドと父親の前に現れたのは、生粋の上流階級の人間という気品と傲慢さを纏った中年の夫婦と、不機嫌そうに唇を尖らせていたシルスウォッドと同世代と思しき少女――両親に用意されたドレスを強制的に着させられているといった雰囲気を醸し出している少女は、ドレスや髪型こそ気品に溢れていたものの、彼女自身が行ったと思われる化粧はそれらとミスマッチしていた。黒さばかりが印象に残るその化粧は、ひねた性格のパンクガールという印象を滲ませていたのだ――だった。
 その少女は「このクソったれなパーティーには来たくなかったけど、両親に無理やり連行されたんです!」という無言のアピールを周囲に振り撒いていて、主にその矛先をシルスウォッドに向けてきていた。黒いアイメイクに覆われた目で、ジトーっと睨み付け続けてくる少女の様子を、シルスウォッドが不思議がっていると。そんな彼らの横で、彼らの親同士は握手を交わし、何かを話し込んでいた。
 一体、何の話をしていたのか。それは他のゲストたちの喋り声や足音といった騒音にかき消され、シルスウォッドには殆ど聞こえてこなかったが。少女の母親らしき女性が放った言葉の一部だけは、しかと聞き取れた。
『やっとあの子を、厄介払いできる』
 一際その言葉だけがよく聞こえたのは、そこにとびきり強い悪意や憎悪が込められていたからなのか。そればかりは、シルスウォッドには分からないが。
『…………』
 厄介ものと母親に断定された少女にシルスウォッドが目をやれば、彼女は俯き、悔しそうに下唇を噛み締めていた。――どうやら彼女はシルスウォッドと同じく、高貴な家族から冷遇されている“卑俗の子”という立場であるようだ。
 ならば両親から冷遇されている卑俗の子が、なぜこんな場所に連れてこられたのか。
『あの、何の話をされているんですか……?』
 父親と少女の両親が話し込んでいる場所に、シルスウォッドが思い切って割り込み、そう質問を投げかけてみると。父親は平然とした様子で、シルスウォッドにこう返した。
『あの子は、お前の許嫁だ』
 父親からの唐突な告白は、シルスウォッドを珍しく動揺させた。父親の仕出かすだろう物事の大半は予測できると自負していたシルスウォッドだが、この展開ばかりは彼の予想の範囲を超えていたからだ。
 そうして困惑したシルスウォッドは、素の舐め腐った本性を露呈してしまった。それもかなりの大きな声で、彼は愚かにもボロを出してしまった。
『ついにボケたのか、クソ親父。平行世界の幻でも見てんのか? 許嫁だなんて、そんな話は聞いてないし、受け入れた覚えもない。第一、エルトル家を継ぐつもりは一切ないと何度言えば――』
 その瞬間、会場全体がしんと静まった。ゲストの誰もが、シルスウォッドの舐め腐った言葉を聞いたからだ。主催者の息子が、父親である主催者を幼稚な言葉で下品に罵った場面を目撃し、その息子が家を継ぐことを明確に拒否した言葉を聞いた。
 冷たい視線がシルスウォッドの許に集まると、徐々に静けさが消え、コソコソと繰り広げられる噂話によるざわめきが広がり始めた。そして父親は頭を抱え、少女の両親は『約束が違う』とばかりに父親を睨み付ける。……だが一人だけ、異なる反応を見せた人物が居た。母親には厄介者と罵られていた、あの少女だ。
『……なんだぁ。あのエルトル家のお坊っちゃんっていうから、きっと頭の固いクソッたれなんだろうなって思ってたけど、いい意味で裏切られた。気が合いそうじゃん』
 露呈したシルスウォッドの本性を、嬉々として受け入れたのは彼女だけ。そして彼女はシルスウォッドの傍に歩み寄ると、ぶっきらぼうに手を伸ばし、握手を求めてきた。それから彼女は、自分の名を名乗る。
『あたし、レベッカ。ベックって呼んで。それで、アンタは……――セインだっけ?』
『違う。僕は――』
 シルスウォッドという世を忍ぶ仮の名は、そのとき彼の口からスムーズに出てはこなかった。代わりに出てきたのは、彼の隠すべき本名。
『――シスルウッド。だから、まあ、ウディってとこかな』
 自分の本名を名乗ったシルスウォッドはベックが差し出してきた手を握り、軽い握手を交わすと、ゲストたちの下世話な視線は彼らから離れていった。代わりに始まったのは、シルスウォッドの父親を、ベックと名乗った彼女の両親が詰る時間。……そうして二人の親たちが子供たちへの関心を失っている隙に、シルスウォッドとベックの二人は、誰もいないバルコニーの方へと一先ず逃げることにした。
 バルコニーで二人は、小一時間ほど会話を楽しんだ。お互い似たような境遇であること、そして似たような価値観、似たような趣味趣向を持っていたこともあって、予想以上に話は盛り上がった。
 ベックは、パンクやロックといった音楽が好きなパンクガールであり、加えて彼女はボードレールやヴェルレーヌ、ランボーといった偏屈な詩人を好むという一風変わったセンスの持ち主であった。そんな彼女は「今まで、詩人の話ができる人が身近に居なかったから、話ができて楽しい」と零すと、その日一番の笑顔を見せて、シルスウォッドにこう告げてきた。
『大海の王者アルバトロスは、そろそろ反撃を始めるわ。いつまでも頭の悪い水夫に弄ばれたりしない。然るべき呪いを、奴らに返してやるんだから! 惨めなヨチヨチ歩きしかできない間抜けな鳥だなんていう立場に、あたしは甘んじるつもりはない! ――あなたも、そうよね?』
 自分を巨躯の海鳥に譬え、威勢よくそう言ってのけたベックだったが。すぐにその威勢は消え、弱気な本音が飛び出してくる。
『あたし、ボストンから出たいの。でも、どうすりゃいいのかが分からない。……子供のころからずっと軟禁されててさ。兄と違って学校にも行かせてもらえなかったから、友達もいない。家庭教師の他に、知り合いらしい知り合いもいないんだ。更にあたしには、自由に使えるお金も貯蓄もない。それに親はあたしを、どこかの名家に嫁がせる気しかないんだ。なんつーか、その……あらゆる手段を塞がれててさ。一体、何をどうしたらいいんだろ』
 ベックのその声に、嘘は無さそうだった。シルスウォッドとベックの関係は、たった一時間話しただけのものでしかなかったが、彼女がかなり彼に対して心を開いてくれていることは、その声で分かった。
 勿論、シルスウォッドは別の可能性も考えていた。彼女は、父親が仕込んだ役者であるかもしれない。シルスウォッドに探りを入れるために、父親は彼女を遣わせたのかもしれない。……その可能性は十分にあり得たし、彼はもっと警戒するべきだったのかもしれない。
 けれども、シルスウォッドは彼女の言葉を信じたし、彼女の母親が悪意を込めて放った言葉を疑わなかった。
 だから彼は、彼女に状況を打開してくれるかもしれない鍵を与えた。
『……ベイビレッジに、小汚いアイリッシュパブがある。バーンズパブっていう、緑色の外壁がやたら目立つ店だ。そこのオーナー夫妻は、僕の叔母の友人で、叔母のボストン脱出を手引きした人たちだ。だから君が本気でボストンを抜け出したいなら、彼らを頼るといい』
 ――そんな話の他にも、彼らは色々と言葉を交わしたが。一番押さえておくべき事実は、二人は『許婚なんてクソくらえ、お互い自由恋愛をしよう』という合意を結んで、代わりに二人は『友人としては最高かも』という結論を見出した、ということだろう。それから『またどこかで会おう、友人として』という約束も交わして、ベックとシルスウォッドは別れた。ベックの父親が彼女を探して、バルコニーに来たからだ。
 ベックと別れた後、シルスウォッドはいつものように気配を消してパーティー会場を出て、クロークでコートを受け取ると、運転手ランドン・アトキンソンが待っている駐車場へと向かっていった。
『今日は珍しく長居をしていたようだが……まさかトイレで気を失っていたのか?』
 シルスウォッドがリムジンに乗り込むと、真剣そうなトーンで運転手ランドン・アトキンソンはそう言ってきた――強烈なクミン臭を放つサルサソースが大量に掛けられたタコスを、貪るように食べながら。
 シルスウォッドは運転手ランドン・アトキンソンの疑念を否定したが、しかし運転手ランドン・アトキンソンはシルスウォッドの言葉を信じてはくれなかった。
『顔色が良くない。冷や汗だって、半端ないぞ』
 そう言いながら運転手ランドン・アトキンソンはエンジンを掛け、車を出してくれたが。彼はその道中、ずっとシルスウォッドを問い質し、諭すような真似をし続けていた。
『行きもお前はかなりピリピリしてて、神経尖らせてたよな。議員と睨みあって、罵り合いをしてたし。あと昼間に、レターズダイナーでヤケ食いしてたと聞いたぞ。あそこの姉弟に、今日のパーティーの愚痴を零してたそうじゃないか。それに弟の……ザックだったか。彼から、最近お前がずっとイラついてて情緒不安定気味だと聞いた。それでだ、前から言おうとは思っていたんだが……――なあ、青年。一度、カウンセリングを受けてみるのも悪くないんじゃあないのか? あんな環境だ、ストレスが溜まるのは当然だし、体調を崩してない方がおかしい。だから……』
 だが、シルスウォッドはその言葉を聞き流していた。運転手ランドン・アトキンソンが自分のことを心配してくれていることは分かっていたが、その心配は何もシルスウォッドの役に立たないことを、もう十分というほどに知っていたからだ。
 だからシルスウォッドは、大丈夫だとその一点張りを繰り返していた。そして、この遣り取りを最後に運転手ランドン・アトキンソンとの会話を打ち切った。
『明日にはドロレスとローマンの二人が迎えに来てくれるし。だから……ハリファックスに帰ったら、猫たちに癒してもらうよ。ボストンを一旦出れば、ピリついた精神も落ち着くと思うし』
『猫か。……そりゃ最強の癒しだな』
 ――そうして運転手ランドン・アトキンソンに自宅アパート前まで送ってもらい、帰宅したのが先ほどのこと。
「……はぁー。もう嫌だ、何もかも全部……」
 姿見鏡に映る自分の姿を睨み付けることにも飽きたシルスウォッドは、そう呟くと。脱いだジャケットをベッドの上に投げ捨て、自分もベッドへと背中から倒れ込んだ。そして吐き出した言葉を、再度脳内で繰り返す。何もかも全部が嫌だ、と。
 家族のこと。父親のこと。それだけじゃない。最近の自分の言動、それが全て嫌だった。
「……」
 これは本当に不思議な感覚だが……――この時期の彼は、自分自身がコントロールできない感覚にしばしば見舞われていた。咄嗟に出てしまう幼稚で汚い言葉の数々、上手く抑えられずに度々爆発しそうになる怒り、衝動的になって突然自分でも予想外のことを仕出かしてしまうことなど。こんな自分が情けなくて仕方なかったが、だからといえコントロールは出来なかった。
 理性では、彼も分かっていた。多分自分は運転手ランドン・アトキンソンが言うように、カウンセラーといった専門家を頼るべきなのかもしれない、と。どう考えても一人では抱えきれない量のストレスを彼は背負い続けているし、それらが心身を蝕んでいることを彼が一番理解していた。
 理性がシルスウォッドに事実を突き付けてくる度に、彼は自分自身が情けなく思えて、悔しくて堪らなくなるが。だが、それらの感情は悲しみや涙に変換されることなく、怒りを燃やし続ける火室にぶち込まれのだ。そうして生み出されるのは、怒り、憎悪、恨み節。――健全な状態とは、言い難いだろう。
 故に、彼は努力していた。怒りを飲み込め、幼稚な反抗はするな、人を睨むな、敵意や悪意を露わにするな……――そう自分自身に言い聞かせ続けていた。
 だが努力と比例するように、胃痛も増していた。そして胃痛が湧いてくるたびに、虚無感も湧いてくる。
 怒りを呑み込むことは自分自身の感情を否定することで、つまり自分を否定しながら生きていくことを意味していた。そして体は、怒りを呑み込むたびに胃痛という反応を返し、怒りを消化した結果として虚無感というドロドロとしたものを排泄する。
 そのようにして出てきた虚無感は終わらぬ自問自答を始め、首を絞めてくるのだ。
「…………」
 自分を否定しながら生きる人生に、果たして何の意味がある? 自分が溜め込んだ怒りによって燃やし尽くされた後、灰のように遺される“自分”は何だ? 周囲の思惑に流されるだけの、ちっぽけな木の葉か、それとも藁くずか?
 ――そうして虚無感に呑まれた後に生まれるのは、理不尽に対する新たな怒り。ポッと噴き出したその怒りは、理性によって制御されることなく表出化し、幼稚な言動となって顕れて、そうしてまた自分自身に対するやり場のない怒りが生まれていく。
 このように負の感情ばかりが無制限に増殖していく悪循環が、延々と続いていた。
「……いっそ死ねたら……――ッ!」
 キリキリという胃痛によって押し上げてきた負の感情に揺られるがまま、彼が思ってもいない言葉を零した、そのとき。胃痛が一瞬途絶えたと感じた瞬間、それと入れ替わるように急激な吐き気が込み上げてきたのだ。
 シルスウォッドは大慌てで跳び起きると、駆け足気味で自室を出て、バスルームへと向かう。……その彼の背中を、キッチンで食器洗いに勤しんでいた家政婦マリアムは見ていた。
「まさか……――!!」
 洗い途中の食器をそのまま流しに放置すると、家政婦マリアムも大慌てでバスルームへと駆けていった。そして彼女は便座の前に跪いていたシルスウォッドを見つけると、彼の傍に膝をついて、彼の背に手を置いたが……――その後すぐに彼女は混乱状態に陥り、悲鳴のような声を上げてしまう。立ち上がった家政婦マリアムは、あたふたとシルスウォッドの周囲を歩き回ることしかできなくなっていた。
 家政業も長く、そしてエルトル家に出入りするようになって随分と立つ家政婦マリアムだったが、こればかりは初めてのこと。彼女は混乱してしまい、咄嗟の対応が出来なかった。何故ならば、シルスウォッドはただ嘔吐したわけではなかったからだ。
 それは嘔吐というより、吐血に近い。血雑じりの嘔吐ではなく、血液が出てきていたのだ。それも、見た者が軽くパニックを起こしそうな量が――とはいえ、すぐさま生死に関わるような失血量ではなかったが。
「彼が、この時期に嘔吐を繰り返すのはいつものことでしょう」
 そう言ったのは、家政婦マリアムの悲鳴を聞いてバスルームへと来たエリザベス・エルトル。そう冷たく言い放った彼女の目には、いつも通りの光景しか映っていなかった。
 便座の前に座り込んで嘔吐を繰り返す不義の子と、その彼を介助する家政婦。エリザベスにとってこれらは、毎年十二月末によく見られる景色でしかない。
「なにもそこまで大袈裟に騒がなくとも……」
 よもやシルスウォッドが血を吐いているとは思ってもいなかったエリザベスが、追い打ちをかけるような言葉を続けると。ひとまず吐き気が収まったシルスウォッドに対し、口元を拭うためのトイレットペーパーを切り分けて手渡す家政婦マリアムは、雇用主であるエリザベスを睨み付けた。それから家政婦マリアムは、毅然とした態度で宣言する。
「私が、彼を病院へとお連れ致します」
「マリアム。ただの嘔吐で病院なんて、あまりにも馬鹿げて――」
「馬鹿げてなどいません!」
 便座に出した吐瀉物を流して捨て、よろよろと立ち上がったシルスウォッドは、家政婦マリアムとエリザベスのやり取りを聞きながら、洗面台へと向かった。彼は洗面台に着くと、胃酸で焼けた喉と鉄臭い血の味で充満した口内を少しは軽減させるべく、水で口をゆすぐ。そうして濡れた口元を、乱雑に引っ張り出したティッシュペーパーで彼が軽く拭った後、彼の腕を家政婦マリアムが掴んだ。
「行きますよ、アーティー」
 そのようにしてシルスウォッドは、息つく間もなく家政婦マリアムによって家の外へと連れ出される。
 その際に家政婦マリアムは、よたよたと歩くことが精一杯なシルスウォッドの肩に外套を被せてくれたし。彼女はシルスウォッドに肩を貸して、歩行を支えてくれた。――赤の他人だというのに、実の親以上に介抱をしてくれる家政婦マリアムに対してシルスウォッドが覚えたのは、感謝よりも気まずさだった。
「……ごめん、マリアム。心配かけちゃって。でも大丈夫だから。エリザベスの言う通り、大袈裟に騒ぎすぎだって。だから……」
 玄関扉を閉め、アパート内の廊下へと出たときに、シルスウォッドが家政婦マリアムに対して向けた言葉はそれ。それに対し家政婦マリアムは即座に反論する。
「アーティー、大丈夫なわけがないでしょう! ただの嘔吐じゃありません、あなたは血を吐いたのですよ、それも決して少量とは言えない量を!!」
 神経をピリピリと尖らせていたからだろうか。そう反論した家政婦マリアムの声は、アパート内の住民の大半に彼女の声が届くほどにまで大きかった。
 その言葉の後、家政婦マリアムが不安げな視線をシルスウォッドに送りつけてきたとき。エルトル家と隣りあう家の玄関扉がガチャと開けられ、ひょっこりと隣人が顔を出してきた。
「――今の話は本当なのか?」
 それは帰宅したばかりと思われる格好をした、リチャード・エローラ医師。雪が肩に掛かっているダウンジャケットとスノーブーツという、防寒対策がバッチリ決まっている姿で現れたリチャード・エローラ医師は、心配から青ざめた顔をしている家政婦マリアムと、貧血から青ざめた顔をしているシルスウォッドを見るなり、息を呑む。それからリチャード・エローラ医師は一度自宅の中へと戻ると、居間でくつろいでいるだろう妻リアムに向かって、大きな声でこう告げた。
「リアム、すまない! 夕食は私抜きで済ませてくれ、私は職場に戻る!」


+ + +



 書店内のカフェスペースの壁面に設置された、キャットウォーク。そこをテクテクと歩いている黒白はちわれ猫は、ふと道の途中で立ち止まって、そこに座る。するとその黒白はちわれ猫は、カウンターの内側にて特製ブレンドコーヒーを淹れている最中の男――シルスウォッドの叔父であるローマン・ブレナン――に向かって、挑発するような鳴き声を発した。
「にゃーお!」
 その黒白はちわれ猫は、半年前にブレナン夫妻に保護された子猫で、名前をボンボンという。この猫は、あるとき書店に迷いこんできた野良の母猫が、ドロレスに託してきた子猫のうちの一匹なのだそうだ(他に“スール”と“モーネ”という名の二匹の兄弟猫がいたが、その二匹は歌手のシヴ・ストールバリに引き取られたそうで、彼女の家族に可愛がられているという)。
 そんなこんなでキャットウォークからローマンを挑発する子猫ボンボンだが、しかし目の前にある仕事から手を離すわけにはいかないローマンは、子猫ボンボンを微笑まし気に見るだけで、その挑発には乗らない。そんなローマンの姿を見て、遊んでもらえそうにないと判断したのだろう。子猫ボンボンはキャットウォークを駆け降りると、カフェスペース内の日の当たる場所に置かれた猫用ベッドで居眠りをしていたブチ猫パネトーネに喧嘩を吹っ掛けに行った。
「ぅにゃおぉぉぅあっ!」
「……――フシャーッ!!」
 眠りを邪魔されたブチ猫パネトーネは、突っかかってきた子猫ボンボンに怒りと共に強烈な猫パンチを食らわせるが、しかしそれは元気盛りの子猫を喜ばせただけだった。やっと構ってもらえた嬉しさから尻尾をピンッと真っ直ぐに立てた子猫ボンボンは、二度目の襲撃をブチ猫パネトーネに仕掛ける。そうしてブチ猫パネトーネは、やんちゃな子猫のお守りをさせられることとなっていた。
 その頃、もう一匹の看板猫であるサビ猫オランジェットはというと。
「……」
「……オーリーも、ボンと遊んで来たらどうだい?」
「にゃっ」
 カフェスペースの隅、その奥まった薄暗い場所の席に座り、テーブルの上に突っ伏してぐったりとしていたシルスウォッドの顔のすぐ傍に、サビ猫オランジェットは居た。
 シルスウォッドの手足がときおり不随意に震える様子を不思議そうに見つめ、偶にその手をザリザリと舐めてくるサビ猫オランジェットは、先ほどのシルスウォッドの提案に「断る」と伝えるかのように短く鳴く。それからサビ猫オランジェットはテーブルの上に伏せると、毛むくじゃらの頭をシルスウォッドの額にすりつけてきた。どうやらサビ猫オランジェットは、ここを離れたくないらしい。
「本当に犬みたいな猫だよなぁ、お前……」
 すり付いてきたサビ猫オランジェットの頭を自分自身の顔から引き離しつつ、シルスウォッドはサビ猫オランジェットを撫でる。なんとなく動かしにくいような気がしなくもない右手を、不器用に動かしながら。
「あー……ここか、ここを撫でてほしいのか……」
 この日は四二一八年の三月上旬、日曜日。ハイスクールの冬学期が終わり、春休みに突入していた頃のこと。四月に春学期が再開されるまでの間、約ひと月はあるこの長期休みを利用して、シルスウォッドはブレナン夫妻のいるハリファックスに帰ってきていた。だが、この通りシルスウォッドの体調は優れていない。
 この体調不良は、その前年の末頃に起きたシルスウォッドの父親のパーティーから続いていた。
「…………」
 パーティーから帰宅した直後、シルスウォッドは吐血し、家政婦マリアムと隣人のリチャード・エローラ医師によって病院に連れて行かれたわけだが。そこで下されたのは、胃潰瘍という診断。加えて、速やかな処置が必要だと宣言されたが――……そこで一度、シルスウォッドの記憶がプツッと途絶えている。家政婦マリアムから聞いた話によれば、これは内視鏡検査の際に投与された麻酔のせいらしい。シルスウォッドは体質的に麻酔の効きが悪いらしく、やや強めな麻酔を静注されたとかで、記憶の欠落はその影響ではないかと家政婦マリアムは言っていた。
 シルスウォッドの記憶が再開されたのは、処置が終わってから三〇分が経過した頃のこと。リチャード・エローラ医師の配偶者であるリアム・エローラの声と、続けて聞こえてきた家政婦マリアムの声で、彼は目を覚ましたのだ。
『リチャードと同棲を始めた頃は、もう驚きの連続だった。でも、そうね、一番驚いたのは……彼の冷蔵庫に、ブロッコリーしか入っていなかったことかしら。毎朝毎晩、茹でたブロッコリーしか食べてない、学生時代からずっと、だって面倒くさいから――っていう話を彼から聞かされた時には、度肝を抜かされた。それに、あのブロッコリー臭がすごかった冷蔵庫、あれも中々の衝撃よ』
『ブロッコリーは栄養価の高い食物ですから、まあ合理的ではありますが。しかし、毎日ですか。それは……――とても風変わりな方なのですね、エローラ先生は』
 リチャード・エローラ医師の奇妙な生態の一端を聞かされた家政婦マリアムが、必死に笑いを堪え、言葉を濁していた時に目を覚ましたシルスウォッドは、彼女たちから処置が無事に終わったことを伝えられた。それから、予後を見るために三日ほど入院することになったということも、彼女らから聞かされた。
 そんなこんな、胃潰瘍そのものは良好な予後を辿り、吐血が繰り返されることや、胃痛は収まったのだが。それ以外で幾つかの問題が起きたのだ。
 まず、家政婦マリアムの処遇。パーティー会場でシルスウォッドによって恥をかかされ、お冠になっていた父親は、この怒りの矛先をあろうことか家政婦マリアムに向けた。そうして父親が何をしたのかと言えば……――病院で、家政婦マリアムを殴りつけるという暴力行為。騒ぎに気付き、駆けつけてくれた看護師数名によって父親は止められたことと、身を挺してシルスウォッドが彼女を庇ったことで最悪の事態は免れたが、家政婦マリアムは頬骨を折る怪我を負った。シルスウォッドもあちこちに打撲傷を負ったが、しかしそれは家政婦マリアムの負った怪我と比べられる程度ではない。
 この一件によって家政婦マリアムが所属していた家政士紹介所は、父親を訴えることを決め、エルトル家との契約は打ち切られた。以降、シルスウォッドが家政婦マリアムと会うことはなかったし、彼女がエルトル家を訪ねてくることもなくなった。
 なぜ父親が、家政婦マリアムを殴ろうと思ったのか。その理由は、シルスウォッドにはよく分からない。だが父親は未だ、自分に非はないと考えているようだった。どうしたらそんな答えが出てくるのか、その思考回路もシルスウォッドには理解できなかったが……――そんな理解できない言動を繰り返す男の息子であるという事実が、シルスウォッドには何よりも恨めしかった。
 そして“あの男の息子であるという事実”は、意外なかたちでシルスウォッドに降ってくることになる。それは友人であるザックが見舞いに来てくれた後に、リチャード・エローラ医師が持ちかけてきたある提案に、シルスウォッドが軽く乗ったことから始まった。
『かねてから私は、君の記憶力に興味があってね。そこで君の脳を、ちょっと調べさせて欲しいんだ。具体的に言うと、P……あぁ、つまり、君の脳画像を撮影させて欲しいんだよ。あと、血液検査もしたいんだ』
 この提案は、エキセントリックな宇宙人の知的好奇心によるものだと思っていたシルスウォッドは、二つ返事で承諾したのだが。リチャード・エローラ医師の真意は、残念ながら異なっていた。
 リチャード・エローラ医師がシルスウォッドの記憶力に興味を抱いていたのは事実だが、これはあくまで口実。リチャード・エローラ医師にはシルスウォッドに対して思うことがあり、加えてある仮説があり、それを証明するために検査を受けさせたかったのだ。
 リチャード・エローラ医師が嘘を吐くような真似をしたのは“真実を伝えれば、変なところで強情な節があるシルスウォッドは検査を受けてくれないだろう”という懸念を抱いていたからこそ。しかし変なところで素直なシルスウォッドは“協力してほしい”と頼めば迷うことなく手を貸してくれるはずだと、リチャード・エローラ医師は踏んでいた。だから彼はシルスウォッドに嘘を吐いたのだ。
 それについてリチャード・エローラ医師は多少、良心の呵責に苛まれたが。それでもこれはやらなければならないことだと、彼の直感は囁いていた。だから彼は決行した。
『勿論、これは任意の検査だ。君が嫌だと言うのなら、私は君の意思に従う。しかし、まあ、可能な限り協力してくれると有難いんだがぁ……』
『いいですよ。検査、受けます』
『本当か?! そりゃ助かった。じゃあ私は準備をしてくる。三〇分後ぐらいに看護師か技師が君を呼びにくるだろうから、彼らの指示に従ってくれ! 頼んだぞ!』
 なぜリチャード・エローラ医師が、こんな行動をしたのか。これにはちゃんと訳がある。簡単に言うと、シルスウォッドを見舞いに来た際に友人であるザックが、リチャード・エローラ医師に対して“最近のシルスウォッドの様子”を密告したのだ。
『最近のアーティーは様子が変だった。なんだか怒りっぽかったし、情緒不安定な感じでさ。すぐ喧嘩を買うし、暴言を吐きまくるし……――昔のあいつじゃ、あんなこと絶対しなかったのに。やっぱアーティー、ストレス溜めこんでると思うんだよ。ねぇ、先生もそう思うっしょ?』
 だが、そんな裏事情など知りもしないシルスウォッドは、リチャード・エローラ医師の行う“よく分からない検査”を大人しく受けた。脳画像撮影らしいものを受けさせられたと思えば、次は別室でよく分からない装置を頭に被せられて、延々と写真を見せられるといったよく分からないテストに付き合わされ……――数時間ほど、その検査とやらで潰れたことだろう。
 そうして翌日、リチャード・エローラ医師は検査結果と共に、別の医師を連れてシルスウォッドの前に現れた。そして彼はシルスウォッドに、こう告げた。
『彼女は、私の同僚のインゲ・ヘリュック医師。器質的なことに関しては君が望めば後で私が話すが……ひとまず先に、彼女の話を先に聞いて欲しいんだ。これからは彼女が、君の担当医になるからね』
 それは退院日の朝のこと。精神科という名札を首からぶら下げた医師が、穏やかな笑みと共にシルスウォッドの前に現れ、こう告げてきた。
『まだあなたは、診断名がつくステージに居ない。このことを、よく覚えていてほしい。ただ将来的に、そのステージに移行するリスクが高いというだけ。つまり、これから行うのは発症させないための予防措置。対処が早ければ早いだけ、リスクを下げられるからね』
『それで、単刀直入に言うと……――双極性障害や、統合失調症。将来的に、これらの病を発症するリスクが高い。もう一度言うけど、まだリスクが高いっていう段階だからね』
『少し前に、こんな感覚はなかった? 見えている世界に現実感がないとか、なんだか景色が色褪せて見えるとか、草木がハリボテに見えてそこにある生命を感じられないとか。――……やっぱり、そうよね? こういう感覚は一般的に離人感と呼ばれているんだけれども、これはドーパミンD2受容体というものが関係しているの。この受容体の密度が高いと、離人感が引き起こされやすいとされていて、あなたもその例を漏れていない。エローラ先生の検査の結果、あなたはこの受容体の密度が高く、受容体の数が多いことが分かったわ』
『あとここ最近、離人感があまり気にならなくなっていたんじゃない? その代わり、怒りや焦りに流されたり、なんだか思考がゴッチャゴチャになっちゃったり、眠れなくなったり、音とか光といった刺激にすごくイライラしたり……。これらはセロトニン濃度が減少して、ドーパミン濃度を制御できなくなったことが原因で引き起こされているのよ』
『あー……難しい話は省くと、つまり今のあなたはドーパミンがちょっと多すぎる上に、ドーパミンが結合する受容体が多く、要するに興奮しやすい状態にあるの。だから、これから暫くの間、ドーパミンが受容体と結合することを阻害するお薬を出します。それでまずは一週間、様子を見ましょう』
『それから、これだけは絶対に守ってほしい。勝手に断薬をせず、出されたものは確実に呑んで欲しい。私の指示には絶対に従うこと。いいわね? ――……それじゃあ、質問はエローラ先生にお願いするわ。私は処方箋を書いてくるから』
 質問する隙も与えてくれぬまま、インゲ・ヘリュック医師はせっかちな早口でそう伝え、去っていった。統合失調症、双極性障害という重たいワードを置き去りにして、シルスウォッドに咀嚼する時間も与えぬまま、パパッと無情にも彼女は去っていったのだ。
 そういうわけでシルスウォッドは抱いた疑問や質問を、リチャード・エローラ医師にぶつけたのだが。リチャード・エローラ医師の語る言葉は専門用語ばかりで、正直のところ九割も理解できなかったし。加えて彼は、慰めらしい言葉を一つも掛けてくれなかった。
 まあ、良くも悪くも情緒のないリチャード・エローラ医師のお陰で、シルスウォッドは必要以上に取り乱さずに済んだ。彼のお陰で却って冷静に、自分の置かれた状況を理解できたのだ。
『セロトニントランスポーターのメチル化がやや見受けられてなぁ。これが私およびへリュック医師が気になった点なんだ。セロトニントランスポーターのメチル化が進むと、双極性障害や統合失調症のリスクがドカンと跳ね上がるんだ。因みに、このセロトニントランスポーターのメチル化が原因で嘔吐が起こっているのではないかと私は見当を付けている。というのもセロトニンというのは、その大半が腸に――』
『あぁ、でも君の海馬と偏桃体の体積はその年頃の男の子の平均値の二倍はあってねぇ、こんな例もあるんだなぁと感心させられたんだよ。双極性障害や統合失調症の場合は逆に、海馬と偏桃体が委縮するケースが多いからね。委縮が見られなくて良かった。それから――』
『メチル化のしやすさ、それと平均より大きい偏桃体の体積が遺伝によるものだとするなら、君の父上が異常に喧嘩っ早い割には上院議員なんて仕事を全うできていることの説明がつく。怒りを抑えることはヘタクソだが、表向きはそれを隠して取り繕うことができるだけの社交性を持っているってことだ。ただ君と違って父上の場合は、前頭葉に何らかの問題があるかもしれないな。しかし……根っからのクズ野郎に違いないとあの男を貶したい気分だが、生育環境の所為で前頭葉の正常な発達が得られなかった可能性も無きにしも非ずだ。これはなんとも……うーむ……』
『あぁ、そうそう! 君の前頭葉と海馬は興味深い繋がり方をしていて、これがもしや記憶力の源泉なのではないかと私は睨んだのだが……――結局なにが何だか分からなかった! いやはや、記憶というのは本当に興味深いテーマだよ! そういえば記憶というと――』
 このようにリチャード・エローラ医師の言葉は、知識のない人間からすれば解読不能な暗号文でしかない(父親からの遺伝というワードだけは、シルスウォッドも明確に理解できたが……)。
 そんなリチャード・エローラ医師もインゲ・ヘリュック医師と同様に、繰り返しこう強調していた。まだ発症すると決まったわけではない、そこまで心配するな、と。
『言うなれば……君の手元には、組み立てさえすれば射出可能な拳銃が出来るパーツたちと、組み立てさえすれば弾丸が完成する素材が揃っている。だが、まだそれらパーツはバラバラで、拳銃や弾丸としては使い物にならない状態にあるんだ。だから組み立てが完成しないように、バラバラの状態を維持させようってわけだよ。しかし一部のパーツで組み立てが進みつつあるから、その進行を抑えるために、そして抑制をクセづけるために薬を使うんだ。……とはいえ、まあ、一番の目的は繰り返される嘔吐をひとまず抑え込むことではあるんだがね。機序の話は長くなるから省くが』
『拳銃や弾丸は、バラバラの状態である方が創造的な結果を生み出せるだろう? 例えば弾丸に使われる火薬は、傷口を焼いて止血する際に使える。真鍮の薬莢は、熔かして鈴やアクセサリーに作り替えてもいいだろう。拳銃のプラスチック部分も、溶かして接着剤の代わりにできるし、簡易的な食器や容器を作り出すことも可能だ』
『だがそれら創造的な手段は、パーツの組み立てが完了してしまうと失われてしまう。完成した拳銃と弾丸は、単に怒りを打ち出すだけの武器にしかならないからね。そして私は君を、そのような状態にしたくはない』
 そのようにリチャード・エローラ医師は語った一方で、彼はインゲ・ヘリュック医師が提示した治療方針への懸念をシルスウォッドに打ち明けてきた――それと、リチャード・エローラ医師自身の意外な過去も。
『ただ私は、君に必要なのは投薬治療よりもハリファックスでの休息だと考えている。あと、正直に怒りを表現できる機会だ』
『私が思うに……君は最近、不満を溜め込みすぎてたんじゃないのか? 誰も話をまともに聞いてくれない、理解を示してくれない、そんな周囲に更に不満が募る、だけど誰も怒りを理解してくれない、というような悪循環を繰り返していたんじゃないのかね』
『私も君と同じで、物事を必要以上に深く考えすぎるタチだったからな。リアムと出会うまでは周囲に理解者はゼロで、周囲からは狂人扱いをされ、そんな周囲に苛々して、若い頃はいつも胃を痛めていたよ。挙句、両親に統合失調症だと疑われて精神科に連れて行かれ、精神科医にもそう診断されて、ひどい薬を呑まされた時期もあった。――あの時期は本当に、生き地獄だった。体と頭の自由が利かなくなって、精神が闇に侵食される。だから私は、投薬治療を君に勧めたくはない』
『へリュック医師にもそう伝えたんだが……彼女はこの病院の精神科医の中で、一番のヤブ……――んんっ、頭が固い人物でな。投薬治療以外の選択肢は無い、その一点張りだ。実は、今朝も君の治療方針について彼女と大揉めしたばかりでな。さっき彼女がピリピリしてたのも、まあ私の所為なんだよ。彼女とは本当に相性が悪くてなぁ。ハハッ』
『だから私は、処方された薬を君が呑まなかったとしても怒らないぞ。ただし呑まない場合は、ハナから呑まないことを約束してくれ。途中で、自己判断で断薬をしてしまうと、かなりキツい離脱症状が起こるからな。……これは、私の経験から言っていることだ。自己判断の断薬は、本当に辞めた方が良い。冗談抜きに、しんどいぞ』
 そのようにリチャード・エローラ医師は、彼自身の経験を元にした助言をシルスウォッドに与えてくれていたわけだが。結局シルスウォッドが選んだのは、頭の固いインゲ・ヘリュック医師だった。何故ならば、インゲ・ヘリュック医師が怖かったからである。リチャード・エローラ医師がシルスウォッドの許を去った後、改めてやってきたインゲ・ヘリュック医師はシルスウォッドを「リチャード・エローラなんて狂人の戯言を真に受けるな、薬は絶対に呑め、でなければ最悪の未来が待ってるぞ」といった具合に脅してきたのだから、彼はそれに従わざるを得なかったのだ。
 そうしてシルスウォッドは、制酸剤とドーパミンD2受容体の結合を阻害する薬とやらを携えて、迎えに来てくれたブレナン夫妻と共に退院していった――尚、諸々の請求書類は全て、叔母のドロレス・ブレナンが怒りに任せて書いた罵詈雑言の手紙と共に、父親の事務所に送りつけたとか、なんとかと聞いている。
 そんなこんなで波乱が尽きなかった冬休みだが。今年度の冬休みは結局、ハリファックスに帰ることがなかった。一週間置きの精神科通院があった為、ボストンを出るわけにはいかなかったのだ。
 故にシルスウォッドおよびブレナン夫妻と夫妻の連れてきていた三匹の猫たちは、冬休みの間はバーンズパブに居候していた。元気盛りで騒がしかった子猫ボンボンのお陰で、それはまあ賑やかな冬休みだったが……――インゲ・ヘリュック医師の処方した薬剤のお陰で、シルスウォッドは常に蚊帳の外にいた。リチャード・エローラ医師の言う通り、それはまさに生き地獄だった。
 だるくて、なんだか頭が動かない感覚。オマケに体も、少しだけ動かしにくい。あと時折、急に手足がプルプルと震え始める。――薬剤は確かに過剰な負の感情を取り除いていったが、それ以外の活力を少しずつ奪い取っていったのだ。
 加えて、最悪なことが起こる。そんな体調を引きずったまま学校が再開し、エルトル家に戻る羽目になったのだ。……騒動が起きたのは、ブリジットに支えられつつ――丸一年続いた険悪な関係は終わり、冬休みの間にどうにか関係を修復することができた――フラフラの状態でシルスウォッドが学校から帰宅した時だった。それは冬学期が始まった、その初日の晩だっただろう。
『この腰抜けの、出来損ないがァッ! 目障りで仕方がないだろうがァッ!!』
 あらゆる動作が緩慢になっていたシルスウォッドに、父親は機嫌を損ねた。グズだの、ノロマだの、出来損ないだの、知恵おくれだの、散々な罵倒を浴びせられたものだ。
 更に悪いことも起こった。家政婦マリアムが居なくなったことを機に、鳴りを潜めていた父親の暴力性が復活していたのだ。その上、パーティーでの騒動を機にシルスウォッドを見限った父親は、長男であるジョナサンに再度目を向け、ジョナサンの更生に力を入れていた。そしてシルスウォッドが自宅に戻った時、ジョナサンは素面に戻っていた。――元々あの家にシルスウォッドの居場所は無かったが、その状況にも遂にトドメが刺されたというわけだ。
 シルスウォッドは帰宅早々に父親から罵倒を浴びせられ、殴られ、突き飛ばされ、腹を蹴られた。彼は薬剤によって俊敏さを奪われていた為に父親の攻撃を避けることも出来ず、それらをもろに食らい続けた。そして異母兄ジョナサンは父親に加勢し、血の繋がりがない戸籍上の母エリザベスは隣人に助けを求める為に逃げ出した。誰もシルスウォッドを助けなかったのだ。
 この時の記憶は、薬剤の影響もあって非常に曖昧だ。父親とジョナサンに散々殴りつけられた後、たしかシルスウォッドは再び血を吐いた。そして父親は、冷水を張ったバスタブにシルスウォッドを突き落とし……――次に目覚めたときにシルスウォッドが見たのは、白衣を着たリチャード・エローラ医師と、彼の後ろを忙しそうに往来する看護師たちの姿。つい最近退院したと思った矢先、すぐにまた戻されたというわけである。
 二度目の入院はかなり長引いた。それに伴い長引いた絶食生活のお陰でシルスウォッドはゲッソリと痩せ、体力もガクンと落ちた(入院が長引いたのは胃に穴が開いて軽度の腹膜炎を起こしていた所為だと、外科医は言っていた)。――そんな長い入院期間の間に、父親およびエルトル家の面々が来たのは一度だけ。搬送された直後だけだ。代わりに毎日交代で来てくれていたのはバーン夫妻。それとブレナン夫妻も書店の定休日を利用して、週一ぐらいのペースでボストンまで来てくれていた。
 この出来事を機に、シルスウォッドは悟った。自分はエルトル家に捨てられたのだ、と。その印象を特に深めたのは、仕立て屋セシル・ローレンスの言葉だった。
 ある時セシル・ローレンスが、入院中のシルスウォッドを見舞いに来たのだ。その時に彼が手土産として携えていたのは、エルトル家にシルスウォッドが置いていったインバネスコート。そして彼はシルスウォッドに、このインバネスコートが再び製作者の許に戻ってきたワケを教えてくれた。
『一昨日にな。アーサーが、ぼんくらのジョナサンを連れて店に来てな。このコートをジョナサンに合わせて仕立て直せと、ガーガー騒ぎおった。まあ、表向きは請け負ったふりをしたものの……――このコートに手を入れる気が起きなくてのぉ』
『これはお前さんの体格に合わせて創った、お前さんのコートだ。ワシもこの出来は気に入っておる。最高傑作の部類に入ると言ってもいいほどにな。故に、このコートは正当な持ち主に返却する。……ひとまず、ここに掛けておこうかね』
 セシル・ローレンスが誰から情報を聞き、シルスウォッドの居場所を突き止めたのか、それは分からない。何故なら彼はコートを返却した後、すぐに立ち去ってしまったからだ。最後に、この言葉だけを残して。
『お前さんは新しい世界へ行け。もう二度と、旧世界に戻ってくるんじゃないぞ』
 そうして一つの生き地獄が終わった。抑圧され続けたエルトル家での生活が、幕を閉じたのだ。
 退院した後もシルスウォッドは自宅に戻らず、代わりにバーンズパブでの生活を始めた。新生活を始めると共に通学も再開し、どうにかこうにかで冬学期を乗り越えることもできた。
 シルスウォッドを取り巻く状況は一変し、かなりマシになったようにも思える。――だが嵐が去った後に来るのは凪ではない、次なる嵐だ。
 インゲ・ヘリュック医師から処方される薬。これはリチャード・エローラ医師がかつて言っていた通り、精神を侵食する闇だった。最初の二週間は、少し動きが鈍くなるぐらいでしかなかったが。次第に日が経つにつれ倦怠感が増していき、思考の靄も濃くなっていき、手足の痙攣も頻度が増えていった。何をするにも不自由が付きまとう生活が、新たに始まったのである。
 リチャード・エローラ医師の助言を聞いていればと幾度となくシルスウォッドは後悔したが、自己判断で断薬する度胸は彼になかった。インゲ・ヘリュック医師が繰り返し何度も言っていた、強烈な離脱症状とやらが怖かったのだから。
 段階的に量は減らしていく、断薬は六月ごろを予定している、卒業する頃には元に戻るだろうし、大学が始まるぐらいには元気になっているはず。――そう言っていたインゲ・ヘリュック医師の言葉を、彼は信じるしかなかった(リチャード・エローラ医師とインゲ・ヘリュック医師が、シルスウォッドの治療方針を巡って言い争っている姿を見るたびに、インゲ・ヘリュック医師への信頼度は少しずつ減っていってはいたが……)。
 だが体調は悪化していくばかり。不安感は増していくし、気は塞いでいく。
 学校ではブリジットから「ねぇ、大丈夫なの?」と心配され――彼女は、彼女の父親であるリチャード・エローラ医師からは特に何も聞かされておらず、シルスウォッドの抱えている事情を知らなかったようだ――、ザックからは「魂、どっかに落っことしたんか?」と聞かれ、他の生徒たちからは気味悪がられる上に、ぼやっとした頭のお陰で学業成績はガクンと下がった。それにバーンズパブに居ても、バーン夫妻から常に体調を不安視されるが為に居心地は悪い上に、フィドルを弾く気力も器用さも薬によって削がれた為に何もやることがなく、更にぎこちない歩き方や生気を失くした姿を常連客から気味悪がられる始末。そのため自然と、バーンズパブの二階に閉じこもる時間が増えた。
 そうして時が淡々と流れ、身体的にも精神的にも堪えるボストンでの日々が、冬学期の終了と共に中断された折。この春休みを利用して、ひとまずシルスウォッドはハリファックスにいるブレナン夫妻の許に帰ってきたわけだが。ズタボロの心身では、どこにいても楽しくはない。
「……はぁ……」
 そんなシルスウォッドの心を、なんとなく理解しているのだろうか。ハリファックスに帰ってきてからというもの、サビ猫オランジェットはずっとシルスウォッドに付き纏っている。ブチ猫パネトーネは叔父のローマンが見当たらない時にだけシルスウォッドに寄ってくるが、サビ猫オランジェットはそうではなかった。四六時中ずっと、シルスウォッドにピタッとくっついて離れないといった様子なのだ。
 ブレナン夫妻が営む書店に来ても、サビ猫オランジェットはその行動を変えない。子猫ボンボンは好き放題に遊びまわり、ブチ猫パネトーネはいつもの定位置で居眠りをしているが。サビ猫オランジェットだけは、カフェスペースの隅でグデッとしているシルスウォッドの傍にずっと居座っている。シルスウォッドが突っ伏しているテーブルの上にサビ猫オランジェットは載り、彼のすぐ傍を陣取っているのだ。
 サビ猫オランジェットはシルスウォッドから暖を取っているだけ、という可能性はある。忙しく動き回るドロレスや、立ち仕事の多いローマンと違って、シルスウォッドはあまり動かない。だから暖を取りやすいだろうし、その可能性は十分に高い。しかし憐憫に満ちたサビ猫オランジェットの黄色い瞳からは、人から暖を取っているだなんていう身勝手な理由は想像できなかった。
 それにサビ猫オランジェットは甲斐甲斐しく、シルスウォッドのガタガタと震える手をザラついた舌で舐めてくる。……つまりは、そういうことなのだ。猫というのは自己中心的な生き物と思われがちだが、意外と社会性のある生き物だし、思いやりを持った生き物なのである。
 しかし猫という生き物は、嗜好品の誘惑にはとても弱いもので……。
「――オーリー、パネトーネ、ボンボン。おやつの時間だよー」
 叔父のローマンがそんな言葉を発した直後、サビ猫オランジェットは無情にも立ち上がると、テーブルの上から飛び降り、叔父のローマンがいるカウンター方面へと駆けていってしまう。そうしてエサ皿のあるカウンター裏へと、猫たちは消えていってしまった。
 その後、缶詰を開ける音が鳴り、猫たちの甘えた鳴き声が続けて聞こえてきた後、シルスウォッドの許に強烈なカツオ臭が流れてくる。……今日の猫たちのおやつは、カツオを主軸に置いた魚介系のウェットフードであるようだ。
 コーヒーの香ばしい香りと共に、カツオの生臭いにおいが立ち込めるという混沌とした空気が、カフェスペースの中を満たす。叔父のローマンはこのにおいを特に気にしていなかったようだが、倦怠感を背負っていたシルスウォッドにこのにおいは堪えた。
 それまで机に突っ伏していたとはいえ、顔は上げていたシルスウォッドだったが、このにおいに耐えかねて遂に顔を伏せさせる。
「…………」
 すると、この行動が叔父のローマンの目には“眠たそう”だと見えたらしい。猫たちへの給餌を終えたローマンはカウンター裏から、シルスウォッドに話しかけてきた。「ウディ。眠るなら、書店スペースのソファーにしたらどうだい。その姿勢じゃ、首と肩が凝るだろう?」
「移動するのもだるいから、ここでいいよ……」
「なら抱っ――」
「分かった。移動する」
 なら抱っこで運んであげようか? ――ローマンならそう言いかねないと察したシルスウォッドは、ローマンの言葉を遮るようにそう言うと。プルプルと痙攣する足でなんとか椅子から立ち上がり、小幅な歩みでフラフラと移動を開始する。
 と、そのとき。書店に人がやって来た。出入口扉が開き、ドアベルがチャリンと音を鳴らすと、その後にはシルスウォッドにも聞き覚えがある声が聞こえてくる。
「こっちに来たって聞いたよ、ウディ。久しぶりだね、元気にし……」
 それは以前、許婚だとして急に紹介された少女ベックの声だった。
 というのも、あのパーティーの翌日に早速ベックは家を抜け出し、バーンズパブに逃げ込んだそうだ。そうしてバーン夫妻の知り合いによる手引きの許、彼女はハリファックスに逃亡したのだという。
 ハリファックスで彼女は“ベック・アッシャー”という新しい名前での新生活を開始し、バーン夫妻が紹介した賃貸物件で暮らしつつ、コンビニエンスストアのアルバイト店員として働いているそうだ。――かつての人生“ジェームズ・アリステア・マカリスターの娘、レベッカ・アンナ=エデン・マカリスター”を捨て去り、無名の一般人として生きていくことを彼女は選んだというわけである。
 そんなこんな、店を訪ねてきたベックにすっかり気を取られたシルスウォッドは、体勢を崩した。プルプルと震える足は直立するということが苦手なようで、いとも簡単にバランスを乱し、その場に倒れ込んでしまう。
 シルスウォッドは床に手を突き、どうにか独力で立ち上がろうとしたが、体重を支えようとする腕もプルプルと震えている以上、うまく力が込められず、また体を支えることすらできない。……そんな状態の彼にベックはタタッと駆け寄ると、プルプルと震えていた彼の腕を掴み上げ、立ち上がる補助をしてくれた。それからベックは彼に声を掛ける。「――元気、とは言えそうにないね。大丈夫?」
「見ての通り、ズタボロさ」
 ベックの補助のお陰で、なんとか立ち上がれたシルスウォッドは、そんな無様な自分の姿を嘲るようにそう言った。それに対してベックは否定することなく、代わりに「たしかに、ズタボロだね」と同意してみせる。続けて彼女はこう訊いてきた。
「痩せてるし、体も震えてる。なんか病気でもしたの?」
「まっ、そんなとこかな……」
 シルスウォッドがそう答えたタイミングで、叔父のローマンが駆けつけた。ローマンはベックと場所を変わると、シルスウォッドの肩の下に彼の肩を入れる。そうして結局ローマンに担がれる形で、シルスウォッドは書店スペースに設置されたソファーへと連れて行かれたのだった。
 そんなわけで、立ち上がるのも介助され、歩行も介助されたシルスウォッドだが。最後には着席すらも介助される羽目になる。ローマンによって慎重に、ゆっくりとソファーに座らされたシルスウォッドは、このなんとも言い難い屈辱に肩を竦めさせた。しかしローマンは更に、悪意無く屈辱の上塗りを重ねてくる。
「体調が良くないんだから、無理をしないで人を頼りなさい。強情っぱりなのは、お前の悪いところだぞ」
 言うことを聞かない子供を諭すようにローマンはそう言うと、彼はシルスウォッドの頭をガシガシッと撫でてきた。幼い子供にやるような行為を、今年で十八歳になる青年に対して、それも同世代の人間も見ている場所で……!
「……別に、意地を張ってるわけじゃないって……」
 幸いにもベックはそのことを揶揄してくることもなく、気にしている様子もなかったが、シルスウォッドはこの子供扱いにかなりショックを受けていた。そして恥ずかしさから、堪らず顔を俯かせる。
 ハリファックスに帰ってきてからはずっと、叔母のドロレスも叔父のローマンもこの調子で、シルスウォッドをいつも以上に子供扱いしてくる。そんな二人に悪い影響を受けているのかどうかは分からないが、シルスウォッドの体調もめきめきと悪化していっていた。
 少なくとも学校に通っていた時のシルスウォッドは、不安定ながらも一人で歩けていたし、手足の震えも一日に数回あるかどうかだったし、頭の靄もなんとなくボーっとする程度。バーン夫妻からあれやこれやとお節介を焼かれることはあったが、それでも最低限のことは自分でこなせていた。
 それがハリファックスに帰ってきた途端、今まで出来ていたはずのことが何故か途端にできなくなっていたのだ。手足の震えは時たまではなく、常時。そのおかげで一人では立って歩くこともままならず、どこに移動するにしても常に誰かの手を借りなければならなかったし。財布を開けて小銭を出す、シャツのボタンを閉める、靴紐を結ぶといった手先で行う細やかな動作にも大きな支障をきたしていて、これらも人の手を借りなければならない場合があった。となれば食器類をうまく扱うこともできず、食事することすら嫌になってくる始末。
 そんなこんなで、ポンコツに成り下がった自分自身に不満や苛立ちが募っているのだが、その不満を言葉にしようにも頭が回らず、うまく言語化ができない。常に眠たくて、思考することができないのだ。その為モヤモヤとした不快感だけが内側に溜まっていく。その上、仮に言語化が出来たとしても呂律が回らない時があるものだから……もう何をやってもストレスにしかならないのだ。
 ならいっそのこと、家のベッドでずっと寝ていたいのだが。ドロレスとローマンが、それを許してくれない。というより彼らは、シルスウォッドをひとり自宅に置き去りにすることが怖いようだ。
『私たちが家にいない間に、あなたが怪我をしたなんて事態が発生したら困るからよ! だから猫たちと一緒に、あなたも書店に連れて行くの。店内にはソファーとかハンモックも置いてあるし、眠いならせめてそこで寝て。いいわね?』
 叔母ドロレスの言い分は、これ。これに対しシルスウォッドは、自分なら大丈夫だと胸を張って言うことが出来なかった。二人を心配させても仕方がないほど、自分の体調が悪いことは彼も自覚していたからだ。
 しかし。自覚があるからといって、現状の扱いを受け入れているかどうかは別の話。今まで多くのことを独力でこなしてきたシルスウォッドの高すぎるプライドは、ブレナン夫妻が無自覚に行ってくる子供扱いに甘えることを、彼自身に許していなかった。
「そういう態度を、強情っぱりって言うんだ。自分をあんまり過信するんじゃない。だから体を壊したんだろうに」
 肩を竦めて不貞腐れるシルスウォッドに、再びローマンは意固地な子供を諌めるような言葉を投げかける。そんなローマンの言葉も、今回ばかりはシルスウォッドに効いた。だから体を壊したんだろうという指摘に、思い当たる節しかなかったシルスウォッドは、竦めさせていた肩を落とす。
「…………」
 自分は大丈夫だと耐え続けた結果がこのザマなのに、それでもまだ自分は大丈夫だと思い続けようとしているのだから、確かにこれは滑稽としか言いようがない。
 観念したシルスウォッドは遂に黙り込み、大人しくなった。そんなシルスウォッドの様子を見た叔父のローマンは安心し、シルスウォッドから離れてカフェスペースに戻っていく。
 そうして持ち場に戻っていったローマンに、ベックがひそひそ声で話し掛けた。そこから二人の、小声での会話が続く。
「ウディが頑固くんだったなんて、なんか意外」
「ああ。あの子はかなり頑固だし自立心の塊だ。子供の頃からずっとね」
「彼のこと、軽くてチャラくて、夜遊びとかしてそうなタイプだと思ってたけど、実際はそうでもないんだね。パーティーで会った時の彼って、そういう雰囲気があったんだけど」
「夜遊び……? ま、まあ、彼もパブの手伝いを長くやっているからねぇ。そう見えてしまうのも無理ないのかもしれないが、うーん……――浮ついた話は聞いたことが無いし、彼はかなり真面目な性格をしていると、親目線では思うけどねぇ」
「へぇー。彼、ガールフレンドとかも居ないんだ? それはすごく意外~。女の子の扱いに慣れてそうな感じだったのに」
「女の子の扱いには慣れているだろうね。十二歳ぐらいまでは、友人がブリジットっていう女の子だけだったみたいだから」
「な~る~。そういうことね。……それで、彼、何かあったの? 体調がすごく悪そうだけど」
「胃潰瘍で搬送されたんだよ。短期間に二回も。それが三ヶ月前かな。あれから体調がどうにも戻らないみたいでね」
「ありゃまあ、そりゃ大変。だからあんなに痩せてたんだ」
「一時は体重が八〇パウンドぐらい(=約三十六㎏)にまで落ち込んだから、あれでも回復した方なんだよ。それでもまだ一〇八パウンド(=約四十九㎏)だけどね」
「うっそ、マジで?! あの身長で、あたしより二〇パウンドも軽いの!? 信じらんない……。あたしもダイエット頑張らなきゃ」
「ウディは不健康なやせ方をしてるんだ、そんな彼と張り合うんじゃない。第一、君は肥満体でもないんだから、ダイエットなんかする必要ないだろうに」
「真に受けないでってば、ローマンおじさん。今のは冗談だよ、冗談。――ところで、大学はどうなった? ウディ、受かった?」
「合否判定はまだ先さ。まあ、彼のことだ。受かるに決まってるよ」
「まだ先なのかー。じゃあ、結果が分かったらあたしにも教えてね! ……あっ、そうだ。ドロレスおばさんに伝言を預かってたんだ。頼まれてたフローズンヨーグルトを仕入れといたって、店長が言ってたよ。ブルーベリー味のやつ。だから気が向いた時に買いに来てね」
 叔父のローマンは、シルスウォッド当人の許可を得ることなく、明け透けにシルスウォッドの情報をベックに明かしていく。彼らの会話は小声で行われていたが、それでも離れた距離に座っていたシルスウォッドの耳には、その会話の内容全てが届いていた。
 内容の是非を問わず、傍で自分の噂話をされるという行為は実に不愉快なものだ。自分に関する話であるにもかかわらず、自分はその会話において部外者であるのだから。そこに悪意は少しもないとしても、勝手に憶測を連ねられたり、過去や実情を他者に洩らされたりするのは、気分が良いものではない。
 だが不幸なことに、シルスウォッドにはこの不満を伝える術がなかった。大きな声で嫌味を言う気力もなければ、このモヤモヤとした不満を的確に言い表す言葉が見つからないのだから、シルスウォッドは黙り込むしかない。
「ありがとう、ベック。彼女が帰ってきたら、そう伝えておくよ」
 ベックの言葉に、叔父のローマンがそう返答する声を聞きながら、シルスウォッドはソファーの背もたれに体重を預ける。上体をのけぞらせて、シルスウォッドは天井をボーッと見つめた。
「…………」
 プロペラファンがくるくると回り続ける、シーリングファンライト。その穏やかな暖色の電灯を、シルスウォッドは無の境地といった生気のない瞳で眺める。回り続けるプロペラファンと、同じように回り続ける天井の影を、ただ無心で、ずっと――。
「それじゃあ用も済んだし、今日は帰るよ。じゃあね」
 ……無の境地に至っていたシルスウォッドは、ベックが店を去っていったことにも気付かなかった。そんな彼の意識が再び現実に引き戻されたのは、ベックが去ってから約十五分が経過してからのこと。おやつを食べ終えたサビ猫オランジェットが、再びシルスウォッドの傍に戻ってきたときだ。
「にゃんおーあっ!」
 シルスウォッドが座っているソファーの上にサビ猫オランジェットは飛び乗ると、サビ猫オランジェットは彼の右隣にちょこんと座る。だがシルスウォッドは、サビ猫オランジェットに気付かなかった。そこでサビ猫オランジェットは、大声で鳴くというアクションを起こしたのだ。
 しかし、シルスウォッドは全く反応を見せない。……だが代わりに釣れた人間が居た。滅多に大声で鳴かないサビ猫オランジェットを不思議に思った叔父のローマンが、サビ猫オランジェットの様子を見に来たのだ。
「どうした、オーリー。蜘蛛でも見つけたのかい?」
「にゃうーあッ、うにゃっ!」
 サビ猫オランジェットの様子を見に来たローマンに対して、サビ猫オランジェットは大きな鳴き声を上げる。そんなサビ猫オランジェットの様子は、ボーっと天井を眺めたまま固まっているシルスウォッドが何か変だと、そう訴えているようだった。
「――ウディ、どうした?」
 サビ猫オランジェットの思いは、ローマンにちゃんと伝わったようだ。ボーっとしているシルスウォッドの異変に気付いたローマンは、シルスウォッドにそう声を掛けるが。やはりサビ猫オランジェットの時と同様、彼は全く呼びかけに応えない。
 ボーっとしているというより、どこか具合が悪そうにも見えるシルスウォッドの様子に、ローマンは一抹の危機感を覚えた。服用している薬が薬なだけに、意識の方に変調をきたしているのではないかと、そんな懸念をローマンは抱いたのだ。
 しかしその一方で、ローマンはこうも考えていた。――シルスウォッドが物思いにふけって上の空になるのは、昔からまま見られる傾向。いつものように、可能性の世界に夢中になってしまって、目の前の現実を見落としてしまっているだけなのではないか?
「おーい、ウディ。……反応なし、か」
 ローマンは再度シルスウォッドに声を掛けてみるものの、案の定シルスウォッドは反応を示さない。彼の顔の前でローマンが手を振ってみても、無反応だ。
 あまりにも無反応なシルスウォッドに、流石のローマンも不安になった。そこでローマンは、シルスウォッドの首筋にそっと触れてみることにする――念の為に、シルスウォッドの体温を確認したのだ。そうして得られた体温は、平常時よりもやや熱いようにもローマンには感じられた。
「体温がちょっと高いな。……ウディ、大丈夫かい?」
 シルスウォッドの体温が少し高くなっていたことから、意識に変調をきたしている可能性を再度検討したローマンは、シルスウォッドの肩を少し強めの力で掴むと、シルスウォッドの体をぐらぐらと揺する。――そこで漸く、シルスウォッドの焦点が“どこか”から現実に引き戻された。
「あっ、うん、大丈夫。ちょっと考え事してただけだから……」
 実際には考え事などしておらず、ただボーっとしていただけなのだが。シルスウォッドが咄嗟に言い繕った嘘を、ローマンは信じたようだった。そんなローマンは、空いていたシルスウォッドの左隣に腰を下ろし、同じソファーに座る――どうせならじっくり話を聞こうか、というようなオーラを彼はそこはかとなく漂わせていた。
 何かしらの言葉を、シルスウォッドは話さなければならない。そんな無言の圧をローマンから感じたシルスウォッドは、背凭れに預け切っていた背中を起こすと、ひとつ溜息を吐く。それからシルスウォッドは背中を丸めて少しだけ前のめりな姿勢になると、鈍くなっていた思考回路を必死に回した。
「あー、その……えっと……」
 考え事らしい話のタネ。その単語を鍵とし、シルスウォッドは手当たり次第に直近の記憶をこじ開けていく。しかし薬の所為で遡って参照できる記憶に限りがあり、結局ここ三ヶ月ほどの記憶しかほじくり返せなかった。
 そんな記憶の中でやたらと鍵に引っ掛かるのは、偉大なる奇人の言葉たち。心優しき宇宙人、リチャード・エローラ医師の発言の数々だ。――そこでシルスウォッドは閃く。リチャード・エローラ医師の言葉を引用すれば、それっぽい話が捏造できるかもしれない、と。そして彼は、その作戦を実行することにした。
「何を以て現実とするのか、ってことだよ。……リチャードさんは前に言ってたんだ、現実っていうものは脳が生み出している錯覚に過ぎないって。目の前に確かに存在しているって思えるものも、所詮は脳が都合よく解釈して作り出した錯覚にしか過ぎないんだ。錯覚っていうか、殆ど幻覚だよね」
「……」
「だから強く望めば、何だって見えるようになるし、聞こえるようになるし、感じられるようになるんだってさ。壁を這う蜘蛛も、床を走り回るネズミも、真夏の雪も、目に見えるようになる。周囲に誰も居なくたって自分を誹る誰かの声が聞こえるようになるし、電話線を引き抜いたって着信音が聞こえてきたりする。幽霊の気配だって望めば作り出せるし、右腕を失くした現実を否定すれば疑似的な右腕の感覚が復活することもある。――なら、現実って何?」
 それらしい言葉で、ローマンを上手く騙せたかとシルスウォッドは思ったが。逆にあまりにも話が出来すぎていた為に、ローマンからその内容を疑われてしまう。
「本当に考えてたのは、それなのかい?」
 そう聞かれたところで、返せる言葉をシルスウォッドは持ち合わせていなかった。なにせ彼は何も考えていなかったのだから。
「…………」
 ごめん、実は何も考えてなかったんだ。
 シルスウォッドが正直に、そう言おうとした時。止めていたネガティヴ思考が再開され、あっという間にそれがシルスウォッドの鈍った頭を支配した。そしてそれは、すぐに表出化する。倦怠感から晴れていなかっただけのシルスウォッドの表情が一転、憂鬱に沈んだ暗いものに変わったのだ。
 思い出されたのは、最後に聞いた父親の声だった。それは二度目の胃潰瘍で搬送された時に、父親が吐き捨てた暴言。意識が朦朧としていたシルスウォッドに吐き捨て、周囲に居た者たちをゾッとさせた言葉である。
『貴様は生まれてくるべきじゃなかった! あの時に、死んでいれば良かったんだ!!』
 ――勿論、叔父のローマンはその変化を見落とさなかった。シルスウォッドのことを軽く肘で小突いてくるローマンは、正直に思っていることを言えとシルスウォッドに無言で伝えてくる。そしてシルスウォッドは観念した。
「振り払えなくてさ、今まで言われてきた言葉が……」
 肩を落とし、顔を俯かせつつ、シルスウォッドがそう呟くと。その言葉を皮切りに、嫌な思い出の数々が彼の中で次々と息を吹き返していく。当時に投げつけられた言葉も、その当時に沸き上がった感情も、その時に目にした光景も、全てがありありと蘇ってきたのだ。
 その結果、彼が望まずとも勝手に言葉が溢れ出ていった。悲しみや無力感、虚無感、そういった感情が綯い交ぜになった言葉たちが、不思議なぐらいにスラスラと彼の口から零れ落ちていく。
「あの家から出られたのは、まあ嬉しいけど。なんていうかさ、あの人らから“お前なんか無用の長物だ”っていう烙印を押されて、野に放り捨てられたって感じだったから。なんかよく分かんないけど……プライドが傷付いたのかも。あれから、自分が分からなくなったんだ。自分の価値も、なんで生きてるのかって理由も。だから、とにかく……」
 とにかく、消えてしまいたい。――そんなネガティブな本音が出かかった瞬間。ここ最近は封印されていた怒りの火室が、その大きい口を開ける。黒ずんだ悲哀と絶望が、憎悪の炎の中に投げ込まれたのだ。そうして暫くぶりに滾る怒りが、激情という熱を生んだ。
 飲み込まれた言葉は蒸気となって消え、代わりにグツグツと煮える岩漿マグマが喉元まで込みあがってくる。そして岩漿が放つ熱波は、いとも簡単に気をれさせた。怒りと共に、何故か笑いまでもが浮かび上がってきたのだ。
 顔を俯かせていたシルスウォッドは、クツクツと薄気味悪い笑い声を立て始めた。続けて彼は、呪詛を唱えるように言う。
「――あの家の連中を全員、地獄に突き落としてやりたい。奴らが全員破滅するまで、地の果てまで追いかけてやりたいんだ」
 しかし地中を飛び出し外気に触れた岩漿は、あっという間に冷えて固まってしまうものだ。
 言葉として長年抱え続けてきた怒りを、恨みを、憎しみを表現して排出したシルスウォッドは、引き攣った笑みと共に顔を上げたが、横に座る叔父のローマンがどこか怯えているようにも見える怪訝な表情を浮かべていることに気付くと、はたと我に返る。今の言葉は言うべきではなかったと、彼はすぐに反省した。……だが。
「……分かってるさ、勿論。僕は間違ってる。こんな考えを持っちゃいけないんだ。普通の人間はどんなに怒っていても、こんな思考には至らないんだから」
 だが久方ぶりに口を開けたシルスウォッドの怒りの火室は、飢えていた。故に湧き出してきたあらゆる感情は、全て火室へと投げ込まれて、怒りの炎に変換されていく。
 自省を表明したシルスウォッドだったが。その言葉には、抑えられない怒りが滲んでいた。自分は間違っている、そう言いながらも、彼はその言葉に怒っていたのだ。そしてより明確な怒りが、続々と湧いてくる。
「この怒りは封じてなきゃいけない。そうでしょう? だって僕は異常で、間違っている存在だから。だから僕は我慢しなきゃいけないんだ、この怒りを。他の誰かの為に、ずっと。僕さえ我慢し続ければ、他の人たちは幸せに過ごせるからね。争いごともなく、喧嘩もなく、物騒なこともない。僕さえ何もせず、大人しく黙りこくっていれば」
「……ウディ……」
「――でもそういうことを考え始めるとさ、無性に腹が立ってくるんだよ。なんで僕ばかりが耐えないといけないのかって。不公平だよ。大した傷も負ったことがない連中が、何も事情を知らない連中が、デカい顔をして僕に我慢ばかり強いてくる。我慢しろ、耐えろ、大人になれ、ってさ。奴らのやってることは理不尽だ、だけど誰もその理不尽に気付かないし、反省しない。それなのに僕だけがバカみたいに『自分が間違ってた、ごめん』って繰り返し言わされてさ」
「…………」
「それに生まれてこの方、親のことで責められてばかりだ。父親がアーサー・エルトルだってだけで虐められるし、嫌味を言われるし、単位を不当に落とされたことだってあった。その父親からは、母親のことで散々に罵られてさ。殺人鬼の息子だの、悪魔だの、お前なんか母親と共に死んでいれば良かっただの。僕ばっかり、いつもこうだ。……僕だって、好きで生まれてきたわけじゃない。それにあいつが母さんに何もしていなければ、僕が存在することもなかったのにさ。なんで僕が、あいつに責められなきゃいけないんだよ。悪魔なのは僕じゃない、あいつの方なのに。……本当に、意味わかんないよ。なんであんな奴が、のうのうと生きていられるのさ。あんな奴、死ねばいいのに……」
 大声で叫ぶわけでも、怒鳴り散らすわけでも、泣き叫ぶわけでもない。気の狂れた笑みと共に、乾いた声で、怒りが込められた呪いの言葉たちが矢継ぎ早に放たれていく。
 以前ならばこれぐらいのタイミングで胃痛や嘔吐が起きて、シルスウォッドの思考を止めてきたものだが。薬物によってそれらを起こす神経回路を阻害されている影響もあってか、怒りにブレーキを掛ける指示が一向に掛からない。
 そうして怒りのボルテージが限界まで上がりきった時、変化が起きる。言葉が帯びる攻撃性が増していく度に、声が揺らぎ始め、起こしていた首がまた下がっていったのだ。
「こんな世界、何もかも間違ってる。天変地異でも起きて、全部吹っ飛べばいい」
「ウディ、落ち着きなさい。落ち着いて、深呼吸を――」
「全部、ぶっ壊れて、消えればいい。みんな死ねばいいんだ!」
 とびきり強い害意がこもった言葉がシルスウォッドから飛び出したとき、同時にボタボタと涙が零れ落ちる。――その次に出てきた言葉は、攻撃の矛先を変えていた。
「……こんなガキみたいな自分も、大ッ嫌いだ……」
 そしてこの言葉を発した直後、堰を切ったようにシルスウォッドの目からは涙があふれ出してきて、止まらなくなる。外界に対する怒りへと、強引に捻じ曲げ続けた“数年分の自己嫌悪”が一斉に押し寄せてきて、彼自身を呑み込んだからだ。
「……もう嫌なんだよ、何もかも全部……!!」
 誰も彼の誕生を望まなかったように、彼自身も人生を望んでいなかった。彼となる種を蒔いた父親が、芽吹いたものを何度も踏みつけ、潰して殺そうとしたように。彼を身ごもった母親が、宿したものを道連れにしようとしたように。彼も自己嫌悪という火で、何度も何度も自分自身を炙り続け、殺そうとした。
 でもその度に、誰かが邪魔をするのだ。ブレナン夫妻、ライミントン兄弟、エローラ家、バーン夫妻、友人たち。中でもとびきりウザったらしくて仕方がないのは、友人のザックだ。彼はあの手この手で、シルスウォッドを助けようとしてくる。ザックの一方的な善意、ザックの押しつけがましい正義感、ザックのなんてことない親切心……――それをシルスウォッドは疎んでいた。そしてザックに助けられていながら、彼をどこかで疎んでいる自分が、何よりも大嫌いだった。
 だから、彼は消えたかった。死にたかった。けれども、そう思う彼がいる一方で、自害を望む彼を嫌っている“もう一人の彼自身”がいた。なんで自分が消えなければならないんだ、他の連中こそ消えるべきだろうと、そう叫んでいる彼がいた。そんな“もう一人の彼自身”が、彼は大嫌いだった。
 ならば、さっさと首を括ればいいだけ。にも関わらず、それをしていない自分自身も、彼は大嫌いだった。どこかでまだ希望を求めてる自分が、彼は大嫌いだったのだ。
「そんなこと言うなって、なあ……」
 途方に暮れたような声でそう語り掛ける叔父のローマンは、らしくない姿を唐突に見せつけてきたシルスウォッドへの対応に困り果てている様子。ローマンとしても、シルスウォッドに対して後ろ暗さを覚えていた為に、偉そうに諭すような言葉を掛けることも出来ず……――となれば何も言えることが無かったのだ。
 彼に出来ることと言えば精々、シルスウォッドの横にただ座ることだけ。
「ウディ。もう終わったんだよ、全部。だから、あの家の連中のことは忘れるんだ。そうすれば――」
「忘れられないから、困ってんじゃん!」
「なら忘れる努力を――」
「できないんだよ!! なんにも分かってないくせに、偉そうに指図してこないでほしい。もう黙っててよ……!」
「分かった。黙るから、そう怒るなって……」
 幼少期には「嫌だ、嫌だ」と駄々を捏ねたことが一度もなかった“物分かりのいいシルスウォッド”が、初めて見せつけてきた“幼稚で、自己中心的で、且つ他者からすれば何をどうしたらいいのかが分からない『怒り』の感情”に、ローマンは何もすることができなかったのだ。
「…………」
 そんな調子でローマンを拒絶する一方。そのローマンの反対側にちょこんと座り、シルスウォッドの腕や脇腹にすり付いて毛を擦り付けてくるサビ猫オランジェットのことを、シルスウォッドは受け入れているようだった。怒りに任せて呪詛を吐いていた時も、自己嫌悪から泣いていた時も、ローマンに八つ当たりをしている今ですら、シルスウォッドは片手間にサビ猫オランジェットの頭を撫で続けていたのだから。
 なら、ここはサビ猫オランジェットにシルスウォッドのことを託そう。――そう判断を下したローマンは、ゆっくりとソファーから立ち上がる。そして立ち上がりざまにもう一度、ローマンはシルスウォッドに声を掛けた。「パンケーキでも焼こうか?」
「……うるさい、放っといて」
「つまり『いらない』ってことだな。了解。……でも昨日の夜、寝る前に薬液を飲んだっきり、何も口にしてないだろう。そろそろ何か食べた方が良いんじゃないのか? でないと、また胃を痛めるぞ」
「…………」
「はぁー……とりあえず作っとくよ、パンケーキ」
 パンケーキを焼く。そう言ってカフェスペースに戻ったローマンだが。彼はカフェスペースに戻った瞬間、あることを思い出した。
 それはざっと二時間前のこと。店の定番商品であるガトーショコラを彼が作っていた時、小麦粉と鶏卵が切れてしまったのだ。そのときに彼は、ちょうど買い出しの支度をしているところだったドロレスにこう頼んでいたのである。ついでに小麦粉と卵も買ってきて欲しい、と。
 要するに今、ローマンの手元には小麦粉と卵がないのだ。ドロレスが帰ってこない限り、彼はパンケーキを作ることができないのである。
「……そうだ、小麦粉と卵きらしてたんだった。あー、なんてことだ……」
 自分の凡ミスを嘆きつつ、ローマンはカフェスペースのカウンターから書店スペースを眺め、シルスウォッドとサビ猫オランジェットの様子を伺った。
 シルスウォッドの膝の上にいつの間にか移動していたサビ猫オランジェットは、そこに安定感を見出したようで、香箱座りを決めてウトウトとし始めている。そんなサビ猫オランジェットの頭や顔を、未だ気が立っているようにも見えなくはないシルスウォッドはモニモニと揉み、マッサージを施していた。
 無償のマッサージを受けるサビ猫オランジェットは気持ちよさそうな顔をしつつ、ゴロゴロゴロ……と喉を鳴らしている。その音は“猫の甘え声”というよりかは“小さなモーターの駆動音”に近く、それなりに離れた距離にいるローマンの耳にも届くほどだった。
 そんなこんなで、サビ猫オランジェットを撫でているシルスウォッドだが。まだ不機嫌そうな彼は、朝食兼昼食を求めていそうな雰囲気を全く発していない。昨晩からまともに食事らしい食事を摂っていない彼だが、しかし「今は何も食べたくない、そういうことも考えたくない」という感じである。となれば、焦ってパンケーキを焼く必要もないだろう。
 なら気長にドロレスが帰ってくるのを待ちつつ、コーヒーゼリーでも作ろうか。……そう方針を決めたローマンが、スパイスラックから粉ゼラチンの入った瓶を取り出したとき。ちょうどそのタイミングで、ドロレスが店に戻ってきた。
「ただいまー、遅くなってごめんねー。もうパスタと小麦粉が重すぎて、足がフラフラ~」
 大荷物を両腕に抱えたドロレスは千鳥足で歩きながら、店内へと入っていく。そんな彼女の後ろには、両手の塞がっていた彼女に代わって扉を開けてくれた恰幅の良い中年男性が立っていた。
 店内に入ったドロレスは猫の脱走防止用に設置された二重扉の前で一度立ち止まると、抱えていた荷物を床に置く。それから彼女は出入口の方へと振り返ると、続いて店内に入ってきた男性を見た。そして彼女は夫であるローマンに、彼女が連れてきた男性を紹介する。
「さっき、そこの道の角でエローラ先生と会ったのよ。取材のついでで、ウディの様子を見に――」
 ドロレスと共に来店したのは意外な人物。エルトル家の隣人であり、脳神経内科医のリチャード・エローラ医師だった。
 彼は出入口をキッチリと閉めた後、店内に設置された二重扉を開けると、カウンターに立つローマンに軽く挨拶をする。それからリチャード・エローラ医師はドロレスが床に置いた荷物を代わりに持ち、それらをローマンの許に届けると。リチャード・エローラ医師は突然ローマンにグンっと近寄り、ローマンにこう詰め寄った。
「シルスウォッドくんの様子はどうですかッ?! 錐体外路症状は!?」
「すいたいがいろ――?」
 急に面前へと迫ってきたリチャード・エローラ医師が早口にバババッと口走った、小難しい専門用語のような何か。突然ワケの分からない言葉をぶつけられたローマンは困惑し、首を傾げることしかできない。
 唐突に振られた理解できない言葉に困惑する一般人の姿を見て、流石のリチャード・エローラ医師も自身の失錯に気付いた様子。彼は大慌てで言葉を訂正し、より分かりやすい表現で言い換えた。
「あぁっと、つまり振戦やジストニアといった不随意運動やアカシジア、または固縮……――んんっ、手足の震えや体が固くなって動かしにくくなるといった症状や、わけもなく苛立って手足をバタバタと動かしたり、目的もなく歩き回ったり足踏みを繰り返したり、体を掻きむしったりという状態のことです。そういった症状が彼に出ていますか? それから、会話は正常に行えてますか? あと錯乱や興奮によって暴れるといった行動変化などは見られますかね? それと食欲の方はどうですか?」
「会話なら、まあなんとか行えてますよ。暴れることもないです。ただ、手足の震えがなかなか収まらないみたいで、一人で歩くことが難しいようなんです。体の動きも、少し固いというか……。それと食欲もあまり無いみたいで。人から勧められない限り、自分からは何も食べようともしないですし、水分も摂ろうとしないんですよ。食べる量もすごく少ないし、そこは気掛かりで……」
 早口で喋るリチャード・エローラ医師の言葉から、重要らしきものを選び取ったローマンは、それに対し回答をした。するとローマンの回答を聞いたリチャード・エローラ医師は眉を顰めさせる――リチャード・エローラ医師は何かに引っ掛かりを覚えたようだ。
 そんなリチャード・エローラ医師はカウンターに立つローマンに対し、ややトーンダウンした声でシルスウォッドの居場所を尋ねる。「それで、彼は何処に居ますかね?」
「ウディなら、あそこのソファーに」
 ローマンは書店スペース内に設置されたソファーを指し、シルスウォッドの居場所を示した。そうしてシルスウォッドの居場所を確認したリチャード・エローラ医師は、シルスウォッドの許にすっ飛んでいった。
 そんな奇人リチャード・エローラ医師に当惑したブレナン夫妻は、顔を見合わせる。しかし慌ただしい脳神経内科医の目には、困り顔の夫妻が見えていない。
「やあ、シルスウォッドくん。体調はどうかね?」
 ドタバタと駆けてきて、スライディングと共にシルスウォッドの前に現れたリチャード・エローラ医師は、俯かせていたシルスウォッドの顔をしたから覗き込み、そう挨拶をする。一方、ブレナン夫妻の話など全く聞いておらず、リチャード・エローラ医師が来店していたことに全く気付いていなかったシルスウォッドは、突然視界に割り込んできたリチャード・エローラ医師に驚き、肩を僅かにビクつかせた。
 そしてシルスウォッドの膝の上でくつろいでいたサビ猫オランジェットもまた、突然目の前に現れた見知らぬ男の奇行に驚き、逃げてしまう。シルスウォッドの膝の上から降りたサビ猫オランジェットはソファーの座面に降りると、シルスウォッドの背中と背凭れの隙間に強引に体をねじ込み、その狭いスペースの中に隠れてしまった。
「あぁ、すまない、サビ猫ちゃん。驚かせてしまったようだね」
 シルスウォッドの背後に逃げ隠れてしまったサビ猫オランジェットに、リチャード・エローラ医師は優しくそう声を掛けると。その声に反応したのか、シルスウォッドの背後からニュルッとサビ猫オランジェットが顔を出す――サビ猫オランジェットは、リチャード・エローラ医師という奇人に対する警戒心を少し解いたようだ。その様子を確認すると、リチャード・エローラ医師は少しだけ頬を綻ばせる。それから彼はすぐに視線を切り替え、シルスウォッドに目を向けた。
 久々に遭遇した猫という生物の、この柔らかくモフモフとした毛並みを撫でくり回したい……――という本音は呑み込み、仕事モードのスイッチを入れたリチャード・エローラ医師は、虚ろな目をしたシルスウォッドの顔を再度覗き込んで情報を集める。その傍らで彼はシルスウォッドの首筋に触れ、ざっくりとした体温の情報も得た。
「充血はしているが、目の色は正常のようだ。高熱も出ていないようだね。しかし泣いていたようだし、微熱がある。何かあったのかい?」
 シルスウォッドの目が充血していたこと、それと目の周囲が少し腫れていたことから、泣いていたのだろうと予想したリチャード・エローラ医師は、その理由をシルスウォッドに訊ねるが。問われたシルスウォッドは答えることはせず、代わりに目を逸らして唇を固く閉ざすという反応を見せる。これが「答えたくない」という意思表示であることは、鈍感なリチャード・エローラ医師にも理解できた。
 しかしリチャード・エローラ医師は、答えたがらないシルスウォッドを責めはしない。というよりも、それは重要な事項ではなかったからだ。リチャード・エローラ医師が確認したかったのは理由ではなく、また別のこと。
「まあ無理に答えなくていい。私の発した言葉の意味をちゃんと理解できているということさえ確認できたのだから、それで十分だ」
 リチャード・エローラ医師がここを訪ねる理由であった『重篤な副作用の懸念』は、幸いにも否定された。ここに来るまでの道中で叔母のドロレスから聞いた話、先ほど叔父のローマンから聞いたこと、今のシルスウォッドの覇気のない状態から、処方薬による副作用が出ていることは確認できたが……とはいえこれらは想定の範囲内のもので、急を要するものではない。
 そうしてひとまず安心したリチャード・エローラ医師は、脇に抱えていたカバンから一本のアルミ缶を出してその栓を開けると、それをシルスウォッドの前に差し出した――それは道中にあった薬局でリチャード・エローラ医師が購入した経口補水液である。
「……これを飲みなさい。ゆっくりでいいから、今日中に全部飲み切ること。それと食事もちゃんと摂ることだ。胃腸の方はもう大丈夫なはずだからね」
 指摘と共に差し出されたアルミ缶を、シルスウォッドは受け取る。するとシルスウォッドの背後から、ニュルッとサビ猫オランジェットが這い出てきた。そしてサビ猫オランジェットはシルスウォッドの膝の上に前足を掛けると、身を前へと乗り出し、毒見をするようにクンクンとアルミ缶の匂いを嗅ぎ始める。すると、ほんのりとブルーベリーの香りがするその経口補水液をサビ猫オランジェットは気に入ったようで、暫くその匂いを嗅ぎ続けていた。
 やがてサビ猫オランジェットが匂いを嗅ぐ行為に飽き、スッと身を引くと。そのタイミングと同時にリチャード・エローラ医師はカバンの中から、個包装された麦稈製ストローを取り出した。白い包み紙をペリッと破り、中から茶色っぽいストローを抜き取ると、リチャード・エローラ医師はそのストローをシルスウォッドに渡したアルミ缶の飲み口にストンと挿す。それからリチャード・エローラ医師は破った包み紙をカバンの中へ乱雑に放り込むと、彼は再度シルスウォッドの首に触れ、こんなことを呟いた。
「……微熱だが……うむ……ここは様子見をすべきか、否か……」
 そんなリチャード・エローラ医師には気になっていることがあった。それは彼が、ここを訪ねる理由となったある話に起因している。
 実は先日、同僚であるファーガス・リース医師から、シルスウォッドの担当医であるインゲ・ヘリュック医師に関するあることをリチャード・エローラ医師は聞かされたのだ。それはインゲ・ヘリュック医師が、シルスウォッドに処方している薬を増量したというもの。これはリチャード・エローラ医師とインゲ・ヘリュック医師が当初に合意した「投薬を微量から始めて、様子を見つつ漸減していき、三ヶ月から半年ほどで断薬をする」という治療方針に反するものだった。
 リチャード・エローラ医師はインゲ・ヘリュック医師を問い詰めた。何を根拠に増量したのか、と。しかし彼女の答えは曖昧なもの。改善が見られなかった、そうとしか彼女は答えなかったのだ。
 何を以て“改善が見られない”という判断を、インゲ・ヘリュック医師が下したのか。それはリチャード・エローラ医師には分からない。しかし彼には、大方の予想がついていた。
「…………」
 紋切り型の問診を繰り返し、ロクに患者の様子を観察しなければ話も聞かないヘリュックのことだ。患者が発した「なんとなくイライラする」といった曖昧な不快感を表す言葉の上っ面だけをなぞって、その裏側にあるものを探ることなく「じゃあ薬を増やしましょう」とでも安易に結論付けたのだろう。そのイライラといった不快感が、薬源性のもの、つまり副作用であるとは考えずに!!
 そもそもシルスウォッドに処方していた抗精神病薬に期待していたのは『制吐剤』としての役割だったはず。吐き気が改善されたのならば、ここは一度薬を断って様子を見るべきだったのだ。それなのに、何を以てして“改善が見られない”とへリュックは判断したのか……――ッ?!
「へリュックから出された薬は今後一切呑まなくていい。というより、呑むんじゃないぞ、決して。それから担当医もリースに交代を打診しておこう。へリュックは君をより悪い状態にするだけだ」
 ……リチャード・エローラ医師がそんなことをグルングルンと考えているとは思ってもいないシルスウォッドは、リチャード・エローラ医師に投げかけられた言葉の意味を咄嗟には理解できなかった。薬を呑むなという単純なオーダーは、それがあまりにも単純すぎるが故に、大きな戸惑いをシルスウォッドに齎したのだ。今までのこの苦痛は何だったのか、と。
 そうしてシルスウォッドが愕然としていると、離れた場所からリチャード・エローラ医師の奇行を見守っていたブレナン夫妻も何かを察しとったようで。カフェスペースのカウンターから、不安そうな面持ちをしたドロレスがリチャード・エローラ医師にこう問いかけた。「あの、エローラ先生。ウディの身に、何か悪いことでも起きてるんですか……?」
「ええ、まあそんなところです」
「えっ……?!」
 悪いことが起きているのか。その問いかけに対して、あっさりと認めるという行動をしてみせるリチャード・エローラ医師に、ブレナン夫妻は狼狽する。シルスウォッドの身に何か深刻な事態が起こっていたにも関わらず、自分たちはそれを見落としていたのか、と彼らはひどく焦った。
 しかしその一方で、リチャード・エローラ医師は薄気味悪いぐらい淡々としている。非常事態に焦っている様子も見られないリチャード・エローラ医師の捉えどころのない姿に、ブレナン夫妻はより一層困惑を深めた。平常そのもののリチャード・エローラ医師から何を読み取れば良いのか、と。
 そうして戸惑っているブレナン夫妻をよそに、リチャード・エローラ医師は淡々とした口調を崩さない。冷静な態度を維持する彼は、無感情に話を続けた。
「増量前の量に戻すという手もありますが……――ここは一度、思い切って薬を断ち、暫く様子を見ましょう。その後に前駆症状が見られなければ、投薬治療は終結します。今後は生活面の指導といった、カウンセリングを主軸とした方針に切り替えていければと思っているのですが、それはまあ彼がボストンに戻ってから話し合うことにしましょう。……まずは薬が離脱症状もなくスムーズに抜けてくれた上で、悪性症候群が起こらなければいいんだが……」
「…………」
「ああそうだ。処方薬の量は把握されていますか? 何㎎であるかとか……」
「それなら、たしか六㎎……って、書いてあったような」
「六㎎ですか。――……六㎎だって!?」
 ローマンが答えた“六㎎”という言葉に、リチャード・エローラ医師は今日初めての動揺を見せる。ややオーバーに驚いてみせたリチャード・エローラ医師は、目をひん剥き、やや上ずった声で驚きを再度表明した。「何をどう判断すれば、当初の十二倍の量になるんだ?!」
「あの子は代謝が良すぎて、それが原因で麻酔や薬の効きが悪いって話を、前に消化器外科のカーライル先生から聞きました。それでへリュック先生も増量の判断をしたと、そうウディから聞いてます」
「それは、初耳ですね。後でカーライルに確認をしておきますが。だとしても、六㎎は多すぎますよ。制吐目的で出す量では決してありません。……まさか幻聴や幻覚が起こってひどく暴れたとか、そういうことが起こっていたんですか?」
「いいえ? ウディ本人からも、それからライアンとサニーの二人からも、そんな話は一切聞いていませんが……」
「急性期症状も出ていないのに、六㎎? ……理解に苦しむな……」
 ひとまず落ち着きを取り戻したリチャード・エローラ医師はそう呟きつつ、腕を組み、顔を顰めさせる。ローマンが語った幾つかの追加情報を加味しても、リチャード・エローラ医師には腑に落ちない点が多いと感じられていたのだ。
 それから腕を組んだ状態で、リチャード・エローラ医師はしばし考えこむ。そうしてリチャード・エローラ医師が黙り込むこと数分。小難しそうな顔を維持したまま、腕組みを説いたリチャード・エローラ医師はこう語りだした。
「先ほども言いましたが、断薬し、暫く彼の様子を見ましょう。六㎎からの断薬ですので、離脱症状が出る可能性が考えられます。本当ならば慎重に行きたいところなんですが……新学期のことを考えると、ね。それと大学が始まるよりも前に、調整期間を設けたいところですし」
「はい、分かりました……」
「私は一週間ほどハリファックスに滞在する予定でいますので。明日もこちらに伺う予定ですが……何か気になることがありましたら、遠慮なくご連絡ください。番号は、以前にお渡ししましたよね? それから、何か彼の体調に変化が見られた場合には、迷わず受診を――」
 ――と、そのとき。言葉の途中で、リチャード・エローラ医師が肩から背負うカバンから電子音が鳴った。ピピッ、ピピッ、と高い音がカバンから漏れ出ると、リチャード・エローラ医師は焦った様子を見せた。そして彼は早口にこれだけを言うと、大慌てで店を出て行く。
「ひとまず今日は、彼に水分を多めに摂らせてください! コップ一杯程度を一時間おき、それを目安に! ――それでは、失礼!」
 カバンの中から、固定電話の受話器のようなもの――徐々に復旧されつつあったテクノロジーによって作られた『過去から蘇った遺物』。肩から背負うタイプの、とにかく重たい携帯電話――を取り出しつつ、リチャード・エローラ医師は店から出ていくと。彼は店から少し離れた場所で立ち止まり、手に持った受話器で通話を開始した。
「……ああ、どうも、マッキンリーさん。ちょうどハリファックスに到着したところです。これからそちらに……――」
 そうして去っていったリチャード・エローラ医師を遠くから見守りつつ、ドロレスは感嘆する。
「へぇ~、携帯電話かぁ。あんなに大きいのねぇ」
 その一方で、シルスウォッドを見やるローマンは、不安そうに顔を曇らせていた。





 時代は進んで、四二八九年。マンハッタンにてアストレアがベッドに倒れ込んでいた頃、シドニー某所の病棟では安物のスーツに着替え終えたラドウィグが神妙な顔をしていた。
「例の人物が居るのは、この先の部屋だ」
 ラドウィグの前を歩くテオ・ジョンソン部長は、ある個室の前で立ち止まると、その扉を指し示し、小声でそう言った。例の人物とはつまり“オーウェン・レーゼ”という名前の、ラドウィグとの関連性を疑われている男性である。簡単に言うと、彼はラドウィグの父親である可能性が高いというわけなのだ。
「…………」
 ラドウィグとしても、思い当たる節がないわけではなく、それが原因で彼の足は竦んでいた。そしてラドウィグをこんな場所に連れてきたテオ・ジョンソン部長も、彼ら二人を引き合わせることを躊躇っているように見えていた。
 個室と廊下を遮る扉の前に立っているテオ・ジョンソン部長だが、彼が扉に手を掛ける気配は無い。扉を指し示した後に腕を組んだテオ・ジョンソン部長は、まだこの扉を開けるつもりはないようだ。
 そんな彼の様子を不思議に思いながらもラドウィグは、同僚のジュディス・ミルズから貰ったサングラスを装着し、異形の目を覆い隠す。ラドウィグが持つ光に弱い猫のような目が、廊下の光が眩しすぎて堪えると訴えていたからだ。
 黒色を帯びたレンズによって暗くなった視野は、光が発する強い刺激を軽減する。それにより、やや興奮気味になっていた神経が少し鎮まり、冷静になれる余裕がラドウィグに戻ってきた。
「…………」
 ラドウィグが断片的に取り戻している“故郷の記憶”だが。その中に、父親との思い出はあまりなかった。父親に関する事柄だけやたらめったら記憶が欠落している、というわけではない。彼は父親との関わりがそもそも薄かったのだ。仕事に生活の大半を捧げていた――ラドウィグの父親は、そんな人物だったのだから。
 とはいえ父親に悪印象があるわけではない。父親だった男性がとても優しくて穏やかな人物であったことは、ラドウィグも覚えている。だが敢えて言うならば、それ以上の印象が無いのだ。
 だから彼は、困っていた。父親である可能性がある人物と会ったとして、自分は何を話せばいいのか。それが分からないのだから。
「――あの、部長」
 件の人物に会ったとして、オレは何を話せばいいんでしょう? ――困り果てたラドウィグが、テオ・ジョンソン部長にそう訊ねようとした時だった。腕を組んでいたテオ・ジョンソン部長もまた、困り顔していることにラドウィグは気付く。彼は発しようとしていた質問を飲み込んでしまった。
 そうして質問することをやめたラドウィグが少しばかり顔を俯かせたとき、テオ・ジョンソン部長が組んでいた腕を解く。それからテオ・ジョンソン部長は、何かを懸念しているような表情を浮かべると、ラドウィグの方を向き、小声でこう告げた。「ただ……ひとつ、注意事項があってだな」
「何か問題があるんですか?」
「彼はどうやら、英語がイマイチ……いや、全く理解できていないらしい。だから看護師たちも身振り手振りで彼との意志疎通を図ろうとしているんだがなぁ、それもうまく行ってないと聞いている」
「へぇ……」
「というか、まあ……相手の反応が薄い上に、態度からは感謝やら誠意やら戸惑いやら、つまり感情らしいものが何ひとつ汲み取れないそうでな。看護師たちも、コミュニケーションの取りようがなくて困っているらしい。そこらへんはお前にソックリだな。――そのうえ、今のところ誰一人として、彼の喋る言葉を誰も理解できていないんだよ。膨大な辞書データを保有しているはずのAIアイ・:Lすら、通訳できないと匙を投げたぐらいだ。あれが言うには、地球上に存在しない言語らしくてな」
「地球上に存在しない言語?」
「ああ。意味のない音かもしれないが、法則性があるように思われることから、何らかの言語である可能性はあるそうだが。それ以上は分かっていない、現状はな」
 件の人物が、英語を理解していないということ。
 そして件の人物は反応が薄く、コミュニケーションに難があるということ。
 それと件の人物が、地球上に存在しない言語を扱っているということ。
 ――それらを聞いて、ラドウィグは確信に限りなく近い直感を得る。頭が少々弱かったこと、それと基本的に無表情で、感情も基本的に平坦だという特徴は、ラドウィグの記憶の中にある父親にも共通していた事項だったし。地球上に存在しない言語とは、つまりラドウィグの母語である可能性が高いように思えたからだ。
 まさか本当に、件の人物が自分の父親と同一人物なのか……? そんな予感に、ラドウィグは背筋をぶるりと震わせる。と、そのとき彼は同時に、あることに気が付いた。先ほどテオ・ジョンソン部長が「そこらへんはお前にソックリだな」と、それとなく言っていたことに。テオ・ジョンソン部長が言うところの“お前”とは、つまりラドウィグのことである。「あの、部長。今、何気にオレのことを――?」
「さぁな。何のことだ?」
 すっとぼけた声でテオ・ジョンソン部長は、即座にそう切り返す。しかし意味ありげにラドウィグに視線を送りつけてくるテオ・ジョンソン部長の様子から察するに、彼は日ごろからラドウィグに思うところがあるようだ。
「……えー、なんすか、それ。怖いんですけど……」
「ラドウィグ、そういうところだぞ」
「そういうところって、何がですか」
「……まったく、コレだからお前は……」
 テオ・ジョンソン部長の視線は、普段ラドウィグが意識的ないし無意識的に行っている『どうせ部長は気にしないし、こんなもんでいいだろ』という手抜き作業や適当な返事の数々を糾弾していたのだ。毎度毎度同じ文言をテキトーに使いまわしている終業報告に、挨拶の際のテキトーな笑顔やら、テキトーに打っている相槌の数々など、ラドウィグの手抜き癖ないし『適切なショートカット』を、テオ・ジョンソン部長は評価していないということだ。
 しかし、ラドウィグとて言いたいことはある(立場上、言いはしないが)。お堅い組織が大嫌いなこのラドウィグが、どうにか折り合いをつけてASIに留まってやっているのだ。そこはASIにもある程度譲歩してもらって、それなりの理解を求めていきたッ――
「クソみてぇな組織に表向きは大人しく従ってやってンだから、それ以上は求めてくれるんじゃねぇ、面倒くせぇな、クソが……――って顔をしてやがるな」
「そんなことなッ――」
 チクリ、と刺してきたテオ・ジョンソン部長の一言。ラドウィグは咄嗟にその言葉を否定しようと「そんなことはない」と言おうとしたが、しかし途中で考えを改めて、その言葉を飲み込んでしまう。代わりにラドウィグは、テオ・ジョンソン部長にバカ正直な本音を返すのだった。「……いや、完全に思ってました。なんで分かったんすか?」
「お前みたいな規格外の問題児を相手にするのは、これが初めてだというワケじゃあないからな。そういった人種の考えそうなことは、大方予想がつく」
 ため息交じりにそう零したテオ・ジョンソン部長は視線をラドウィグから外し、彼の正面に聳える扉へと移す。そして遂にテオ・ジョンソン部長は扉に触れ、閉め切られていた個室に立ち入ろうとしていた。
 しかし、ラドウィグが寸前でテオ・ジョンソン部長を引き留める。ラドウィグには最後に一つだけ、テオ・ジョンソン部長に聞いておきたいことがあったのだ。「えっと。それで……一対一で話すことは、可能ですかね? オレとその人だけっていうのは」
「それは許可できないな」
 ラドウィグの申し出に、テオ・ジョンソン部長はそう即答する。迷いなく却下したテオ・ジョンソン部長は振り返ることなく、横目で再度ラドウィグを見やると、不審がるように眉間にグッと力を込めつつ、ラドウィグにこう訊ね返してきた。「お前は、第三者に聞かれて困るような話でもするつもりなのか?」
「いや、別にそういうわけじゃないっスよ。単に、その……誰かに見張られながら会話をする状況って、気分悪いじゃないですか。だから、イヤなだけです。フラットな気分で話せないっつーか。向こうさんだって、同じことを思うんじゃないでしょうか」
「ふむ。……お前は意外と、プライバシーを重んじるタチか?」
「んー、まあ。どっちかといえば、そうっスね」
「なら諦めろ。ASIなんて組織に所属している時点で、プライバシーなんてものは存在しない。俺にも、お前にも。そしてASIなんて組織に関わった時点で、その対象にもプライバシーなんてものは存在しない」
 テオ・ジョンソン部長は冷たくそう言い放つ。その冷たい言葉の意味を理解したラドウィグはゴネることをせず、大人しく従うことを選んだ。そしてテオ・ジョンソン部長もそれを確認すると、手を掛けていた扉を開け、その部屋の中へと踏み入っていった。
 ラドウィグもその後に続いて、その部屋の中へと入っていく。
「…………」
 入室した際に、まずラドウィグらを迎え入れたのは風に揺れる白のカーテンだった。閉め切られていたカーテンは、開けられていた個室の窓から吹き込む風に揺られ、ひらひらとはためいている。そうして揺れるカーテンには、その内側にいる人物の影が映し出されていた。
 ベッドの上にいるその人物は、眠っているわけではないらしい。上体を起こしていることは、影の形から確認できていたからだ。しかし、かといって何かをしているわけではなく。ただボーっとしているような、そういった雰囲気だ。
「なにをボサッとしているんだ。早く行って来い」
 カーテンに映る影を凝視して息を呑むラドウィグの背を、テオ・ジョンソン部長はポンッと押し、そう声を掛ける。どうやらテオ・ジョンソン部長は“同じ部屋で待機する”だけで、同伴はしてくれないらしい。
 少しの不安を覚えつつもラドウィグは苦笑いをテオ・ジョンソン部長に返すと、カーテンに手を掛けた。そしてラドウィグはゆっくりとカーテンを開け、中にいる人物に控えめな声量で挨拶をする――……のだが。
「どうも。ASIから派遣されてきました、ラドウィグって者ですが……」
 先に当該人物の写真を見せられていたとはいえ、ラドウィグはすぐにその現実を受け入れることができなかった。そこに居たのは――かなり痩せ細っているとはいえ――ラドウィグの記憶の中にある、若い頃の父親に酷似していたのだから。
 しかし、その一方で当該人物は何にも気付いていない模様。それどころか当該人物は、ラドウィグが発した言葉の意味を理解できていないように小首を傾げさせている。やはり英語が理解できないというのは、本当だったようだ。
 そこでラドウィグは、ひとまず試してみることにした。そしてラドウィグは、この博打に必要な道具があるかどうかを、テオ・ジョンソン部長に訊ねる。「――部長。なにか書くものとか、持ってたりします?」
「メモ帳はあるが……」
「じゃあ、それ貸してください」
「……お前は筆記用具すら持ち歩いてないのか?」
「だって護衛任務に筆記用具なんて必要ないんですもん。いいから、早く」
「まったく、それが目上の人間にモノを頼む態度か?」
 当該人物がラドウィグの父親と同じ記憶を有しているならば、もしかしたらラドウィグの故郷の言葉が扱えるかもしれない。
 その可能性を攻めてみようと考えたラドウィグは、後ろに控えていたテオ・ジョンソン部長から筆記用具――鉛筆と、メモ帳から切り離された真っ新な一ページ――を受け取ると。そのメモ紙に鉛筆で、角々とした記号めいた文字を書き連ねていく。
「なんだ、そのムーン文字とルーン文字を足して二で割ったような記号は」
Foriフォリ・ Sihalaシハラ・ loodiaルーディアといって、故郷の文字です。……慣れ親しんでたGa Foriガ・フォリ(素早い筆記に適した、うねうねとした旧字体)と違って、Je Foriジェ・フォリ(角張った新字体)は書くのが久しぶりなんですよ、集中させてください。だから部長、黙ってて」
「…………」
 そうしてひとつの文章を書き上げると、ラドウィグはそのメモ紙をベッドの上にいる当該人物へと差し出す。それからラドウィグは当該人物に、こう問いかけた。
「これ、読めますか?」
 ラドウィグからメモ紙を受け取った当該人物は、その内容に目を通す。
Erol wa bateliinエロール・ワ・バーテリン・ ageiti setrannアゲイティ・セトラン? ?
 この文章を、あなたは理解できますか? ――ラドウィグが、彼の母語で書いてみせた文章は、そんな意味を持っていた。
 そんなわけでラドウィグが文面で伝えたその問いかけに対する返答は、すぐに得られる。当該人物は今日初めて口を開き、このような言葉を発したのだ。「……Isaイーサ、, Ma erol bateliinマ・エロール・バーテリン(ああ、分かる)」
Guededグーデッド!Cenloセンロゥ、, Sieta erol kuii inasシェタ・エロール・クィーナス・ Je sihalanジェ・シハラン(よかった! なら、新シアル語で会話できますね)」
 ラドウィグが精一杯の笑顔と共にそう言葉を返すと、当該人物はゆっくりと首を縦に振り、頷いてみせた。――間違いなく、彼にはラドウィグの故郷の言葉が通じていたのだ。そして当該人物の固かった表情は、少しだけ穏やかなものに変わる――ようやく巡り合えた“同じ言語の話者”の存在に、安心感を覚えたのだろう。
 その一方で、ラドウィグの胸中は複雑である。疑念が確信に変わりつつあるからこそ、彼の気は滅入りつつあった。
 当該人物がラドウィグの父親と同じ記憶を持っていて、ラドウィグという存在に気付いた場合。少しの嬉しさは覚えるだろうが、ラドウィグはどう接すればいいのかが分からず、戸惑うことだろう。それに当該人物に過去の記憶がなく、ラドウィグに対して何の感情も抱かなかった場合にも、ラドウィグは少しの気まずさと寂しさを覚えるはずだ。
 それに、当該人物がラドウィグの父親と同じ記憶を有していたとしても、ラドウィグという存在に何の感情も抱かなければ、それはそれで……――
Loken raa iskaneii.ロケン・ラー・イスカネイー。 Wai lugana lauワイ・ルガナ・ラウ・ "Owen Leseオーウェン・レーゼ、", isakiaaイサキアー?(まず、これを確認させてください。あなたの名前はオーウェン・レーゼで合っていますか?)」
 考えたところでどうしようもないことをゴチャゴチャと考えつつ、ラドウィグは攻めの一手を繰り出す。テオ・ジョンソン部長から事前に伝え聞いていた当該人物の名前“オーウェン・レーゼ”が本当に正しいのかどうかを、本人に確認したのだ。
 すると当該人物は、ラドウィグの言葉に小首を傾げさせる。オーウェン・レーゼなどという名前には聞き覚えがない、といったような様子だ。そして当該人物はラドウィグに、こう答えを返す。「Niatニアト。. Mai lugana lauマイ・ルガナ・ラウ・ Wens Shanemベンス・シャネム(いや……。俺の名はベンス・シャネムだが)」
 ベンス・シャネム。当該人物が発した名前は、ラドウィグの父親と全く同じ名前だった。
Jakl wab dakha yiginジャクル・ワブ・ダッカ・イギン。. Madii isakiaii waiマディー・イサキアイー・ワイ・ brigsea tokhsブリグセア・トクス(ご回答ありがとうございます。あとで情報を修正しておきますね)」
 その答えを受け取ったラドウィグは、ひとまずそう言葉を返すが。彼が浮かべていた笑顔は、いつの間にか引き攣ったものへと変わっている。
 間違いなくそこにいる人物は、ラドウィグの父親と同一人物であるか、またはラドウィグの父親と同一の記憶を有している人物であった。抑揚の少ない喋り方も、表情の変化が少なくて常時ボーっとしているように見える顔も、正規の発音では“ウェンス”となる己の名を“ベンス”としか発音できないその訛りも、全てが父親と同じ。――ここまで同じであると、ある種の恐ろしさをラドウィグは感じざるを得なかった。
 そうして混乱するラドウィグは、父親の名前を無意味に繰り返す。それから助けを求めるように、背後で待機していたテオ・ジョンソン部長の方を向いた。
「……ベンス・シャネム……」
 その一方、ラドウィグらが会話を交わしている光景を観察していたテオ・ジョンソン部長は、驚きのあまり息を呑んでいた。ラドウィグらの語る言葉はテオ・ジョンソン部長にはサッパリ理解できていなかったものの、彼らが意志疎通できていることだけはテオ・ジョンソン部長も把握できたからだ。
 そしてテオ・ジョンソン部長は、ラドウィグにこう確認する。「……会話ができたのか?」
「え、ええ。オレは彼の言葉が理解できますし、彼もオレの話を理解してくれてますね」
「それで今、お前たちは何を話していたんだ?」
「確認です。同じ言語を扱えますか、って。あと名前を聞いてました。彼自身が認識している彼の名前は『ベンス・シャネム』だそうです。オーウェン・レーゼではないみたいですが」
「ベンス・シャネム、か。情報分析官にその名前を回しておこう」
 名前を情報分析官に回したところで、ベンス・シャネムという人物に関する情報が得られるとは思えないし、たぶんAIアイ・:Lを以てしても無理なのでは? ――とラドウィグは感じたが、その思いをテオ・ジョンソン部長に対して表明はしない。というのも、急に飛び出してきた奇妙な名前に顔を顰めさせているテオ・ジョンソン部長は、『ダメ元で調べさせる』という雰囲気を放っていたからだ。となれば、敢えて指摘するのは野暮というもの。ラドウィグとて、そこまで空気の読めない人間ではない。
 となると……ここは本人から情報を引き出していくしかないが。しかしASIに入局して日が浅く、且つイザベル・クランツ高位技師官僚の護衛に専従しているような状態のラドウィグは、情報局員らしい訓練を未だ受けていない。特務機関WACE時代も、サー・アーサーにいびられ続けていたお陰で銃撃以外にはこれといったスキルも身に着けられていない。尋問なんて、習ったことがないのだ。
 そこでラドウィグが頼るのは、情報局員らしい風体をしているテオ・ジョンソン部長。
「あの、部長。何か彼に聞くべきことって、ありますかね?」
 だがテオ・ジョンソン部長はラドウィグの質問に答えない。手元のタブレット端末を操作しているテオ・ジョンソン部長は電子メールか何かを書いていて、その作業に集中している様子。どのような指示を出すことが最善であるかを悩んでいる彼は、ラドウィグの声を聞き落としていたのだ。
「…………」
 味方がいない。そんな気分がして急に心細くなったラドウィグは、困ったような苦笑いを浮かべる。そしてその顔のまま、再度ベッドの上にいる当該人物を見やった。
 だがその当該人物は、やはりラドウィグの記憶にある父親と同じで、ラドウィグよりも情緒に疎くそして鈍いし、寡黙だ。ラドウィグの困り顔には気付いていないようだし、それに自ら積極的に話すような素振りも見せない。何をするわけでもなく、ただボーっとしている、そんな感じだ。
Karpeii na Dharカルペイー・ナ・ダル……(ちょっとお待ちください)」
 ラドウィグがそう声を掛けたところで、当該人物は小さく頷くのみ。話を聞いているんだか、いないんだか、理解しているのかそうでないのかが掴みにくいこの調子に、ラドウィグは更に確信を深めていった。この人物は間違いなく自分の父親と同一人物だ、と。
 ……と、そのとき、当該人物の眉間に皴が寄る。彼は何かを凝視している様子だった。その視線の先はラドウィグの背後、その床。床をしばし見つめた後、当該人物の視線はラドウィグの顔へと戻る。その表情には驚きが満ちていて、次に当該人物が発した声も驚愕から少しだけ上ずっていた。
「――Ludwilルドウィル!?」
 ラドウィグが父親に気付いたように、また父親のほうも目の前に立つラドウィグ――正式名はLudwil Shanemルドウィル・シャネム――が自分の息子であると気付いたようだ。ただ、残念なことに父親はラドウィグの顔を見て、ラドウィグこそが自分の息子であると気付いたわけではない様子。
『ようやっと気付いたのか、この木偶野郎は。相変わらず、動体視力の他にゃ取り柄が無い男だぜ』
 ラドウィグの背後かつ足許の方から聞こえてきた、その呆れ交じりの声。はたとラドウィグが振り返ってみれば、そこには相棒である九尾の神狐リシュが鎮座している。――つまり父親はこの神狐リシュを見て、まさかの可能性を考えた、というわけなのだ。
 神狐リシュと行動を共にする人間は、二人しかいない。彼の息子か、彼の妻だけ。そんな神狐リシュの傍に居るのが男なら、それは即ち……――
「えっ。リシュ、居たの?!」
 断定のプロセスはさて措き。神狐リシュが自分の後をついて来ていたこと――実は局を出る時からずっと、神狐リシュはラドウィグの後を追ってトコトコと歩いていたのだが――に全く気付いていなかったラドウィグは、うっかり大声で思っていたことを洩らしてしまった。三次元世界に生きる人間が居る傍で、やらかしてしまったのである。
 ヤッベ、やっちまった、と後悔したところで後の祭り。
「リシュ? なんだ、そりゃ」
 タブレット端末に向けていた視線をラドウィグに移していたテオ・ジョンソン部長は、妙なことを口走ったラドウィグに怪訝そうな顔を向けていた。
「部長ッ?! あぁッ……!!」
 父親がラドウィグの正体に気付いたこと。テオ・ジョンソン部長の前で、要らぬことを言ってしまったこと。これら二つによって取り乱すラドウィグは、それらしい言い訳を即座に取り繕うことができなかった(そもそも彼には、そのような狡賢さや機転が備わっていないのだが……)。
 そのようにラドウィグが取り乱していれば、ラドウィグによってうっかり存在をバラされてしまった神狐リシュの方も、慌てふためく。真っ白な毛並みを逆立てる神狐リシュは、ラドウィグにこう噛みついた。
『バカッ! 余計なこと言うんじゃない、ルー!!』
 そうして神狐リシュもまた、余計なことを言ってしまう。黙ってさえいれば、神狐リシュの存在はバレなかったかもしれないが、神狐リシュはそれをしなかった。それにより起こったのは、存在の露呈。
 ここに、何かが居る? ――そう神経を尖らせていたテオ・ジョンソン部長は、神狐リシュの声を捉えてしまう。そして彼の認知は、そこに居た別次元の存在を認めてしまった。
「――……なァッ?! なッ、なんだ、この狐!?」
 ちょうどラドウィグとテオ・ジョンソン部長の中間地点、そこの床に立つ九尾の狐を、テオ・ジョンソン部長は発見した。真っ白な体に、炎を象った朱色のエキゾチックな文様を持つ神族種なるモノを、彼は視てしまったのだ。
『あー、もうっ。ルー、お前が余計なことを口走るから!』
 神狐リシュはラドウィグの幼少期の呼び名“ルー”を持ち出し、真っ黒な鼻を膨らませながらラドウィグにそう不満を垂れる。幼少期の頃の呼び名がさりげなく飛び出してきたあたり、この神狐リシュの戸惑いや動揺も半端なものではないようだ。
 しかしテオ・ジョンソン部長とて、困惑しているのは同じ。まして、急に視えるようになった得体の知れない生物が人語――人語のようにヒトの耳には聞こえるが、厳密にはそうではなく、言うなれば“思念を直接的に使えるテレパシー”のようなもの――を扱い、且つその生物が彼の部下であるラドウィグに向かって文句を言っている場面を目撃したのだから……困惑を深めずにはいられないだろう。そんなテオ・ジョンソン部長が困惑のあまり起こしたのは、ラドウィグを尋問するという行動。
「どういうことだ、ラドウィグ。この化け物は、お前とどういう関係にあるんだ?」
『テメェ、人間の分際でこの俺様を“化け物”呼ばわりするたァどういう了見をしてやがンだ?』
 だが困惑のあまり飛び出した『化け物』という侮辱的な言葉が、神族種の怒りを買ってしまう。
 怒りを露わにした神狐リシュは威嚇をするように身を低くすると、唸り声と共にテオ・ジョンソン部長にそうがなり立てた。そんな神狐リシュの様は野生の狐さながらで、テオ・ジョンソン部長を自然と畏怖させた。
 エキノコックス!! ――といった具合に。
『テッメェ、おい! 今、寄生虫の心配をしてやがったな?!』
 テオ・ジョンソン部長の心の声を嗅ぎ取った神狐リシュは、再度がなり立てた――毛並みをより一層逆立てて、牙を剥きながら。
 そのように露骨な怒りを向けてくる神狐リシュの対応に、テオ・ジョンソン部長は困り果てる。そうして彼は、この神狐リシュの対応を押し付けるような視線をラドウィグに向けた――お前はこの狐の飼い主なんだろう、どうにかしろ、という無言の圧をかけながら。しかしラドウィグは笑って誤魔化すのみ。……というよりラドウィグは、神狐リシュを敢えて“そのまま”にした。万物の霊長として思い上がっている人間に、神族種からお灸を据えてもらおうと、そう考えたのだ。
「あー、えっとー、そのー……とにかく、詳しい話は局に戻ってからします」
 というのも神狐リシュには、怒るとなぜか饒舌になるという特徴がある。なのでここは神狐リシュに、面倒くさいテオ・ジョンソン部長の相手をしてもらおうと、ラドウィグはそう企んでしまったわけだ。
『目ェ逸らしてンじゃねぇぞ、オラァ!』
 案の定、ラドウィグへと視線を逸らしたテオ・ジョンソン部長に対し、神狐リシュはそう吠えたてる。そうしてテオ・ジョンソン部長のフォーカスが神狐リシュに再度戻ったところで、ラドウィグは彼らから目を逸らし、父親と思しき人物の方に向き直った。それから彼は一呼吸置いた後、父親に対して再会の挨拶をする。
「……Gatie'La bemselガティエッラ・ベムセル、, davadダヴァッド(ひさしぶり、父さん)」
 Gatiell lau beie amselガティエル・ラウ・ベイエ・アムセル。それを省略した口語表現、Gatie'La bemselガティエッラ・ベムセル。それは長い空白の期間を経て、久しぶりに再会した相手に投げかける言葉だ。
 ラドウィグはこのフレーズを知識としては知っていても、たぶん故郷では一度も発したことはなかった。父親の同僚たちの他には知り合いもなく、同世代の友人なんて一人もいなかった彼には、しょっちゅう顔を合わせる相手しか周囲に居なくて、そんな哀愁を抱くような機会もなかったのだから。
 そういうわけで少し照れくさそうな顔をしていたラドウィグだが、ラドウィグを遥かに超える鈍感さの持ち主である彼の父親は全くそれを汲んでくれやしない。ラドウィグが発した挨拶を、ただの挨拶として聞き流した父親の視線は、牙を剥いて怒りを露わにしている神狐リシュのレアな姿に釘付けだった。
 そして父親は神狐リシュを、次にテオ・ジョンソン部長を見つめながら、ラドウィグにこう訊ねるのだ。「Cablv lauカブルブ・ラウ・ ageiti davaアゲイティ・ダバ・ lagraa tajuラグラー・タジュ・ richeリシュ?(あそこの男は何故、リシュに腹を立てているんだ?)」
Nitzaaニトザー。. Va lau loken pujeieヴァ・ラウ・ロケン・プジェイエ(違うよ。彼はただ混乱してるだけ)」
Etaaceabhエターケアブ、, Cea lau cam davaケア・ラウ・カム・ダバ?(ところで、あの男は何者だ?)」
Mai namsetaa kajuugaマイ・ナムセター・カジューガ。. Niihafteaa inasニーハフテアー・イナス・ vai bradヴァイ・ブラド……(今の上司だよ。頭の固い人でさぁ)」
「…………?」
 上司や上官を意味する『Kajuugaカジューガ』という言葉をラドウィグが発すると、父親は少しだけ首を傾げさせた。ラドウィグにはその理由が分からなかったが、どうにも父親にはその“上司”という言葉がピンと来ていない様子。
 まさか、この語彙を知らないのか? ……そう考えたラドウィグは、ひとまず鎌をかけてみることにする。
「――Ekhin va lauエキン・ヴァ・ラウ・ gueded kajuugaグーデッド・カジューガ・ zakha Pavalザッカ・パヴァル. (まあ、パヴァルよりは圧倒的にマシな上司だけどね)」
 父親のかつての上官であり、父親とラドウィグその両方に武術を仕込んだ男“パヴァル・セルダッド”――邪悪としか言いようがない残忍さを持った男で、ラドウィグらの故郷をぶっ飛ばした行為に加担した人物でもある――の名前を上げ、ラドウィグは様子を伺った。すると父親はパヴァル・セルダッドという邪悪な男のことを思い出したのか、小さな苦笑いを浮かべる。
 その後、父親は先ほど首を傾げた理由らしきものを明かした。彼はラドウィグに、こんなことを訊ねてきたのだ。「Flayii ciba ganaa wa faフライー・キバ・ガナー・バ・ファー。. Cana lau waiカナ・ラウ・バイ・ yakan namsetaヤカン・ナムセタ?(少し見ない間に随分と成長したように見えるが。お前はいくつになったんだ?)」
ZewiRee yakanゼウィリー・ヤカン。. Dafbeiダフベイ(二十六だよ、たぶん)」
 二十六歳――正確な年齢は不明だが、少なくともラドウィグ自身の自己認識ではそうなっている――だという事実を明かしたとき、解れていた父親の顔は一瞬にして固いものに変わった。まあ、それも無理はない。ラドウィグと父親が最後に会ったのは、ラドウィグが十六歳のときなのだから。その間にラドウィグの身長や体格が大きく変わったことは、言うまでもない。
 時間の流れに、父親は戸惑っているのか。――ラドウィグはそう考えたのだが、どうやらその考えは違っていた模様。眉を顰めさせた父親が疑問に思っていたのは、ラドウィグの発した別の言葉だったようだ。
「……Dafbeiダフベイ?(たぶん?)」
「え? そこ?」
 まさかの着眼点に、ラドウィグは思わずそう零してしまった。だが父親の顔は至って真剣そのもの。なぜラドウィグが言葉の最後に『たぶん』と付け加えたのか、父親はその理由を知りたがっているようだった。一〇年の空白よりも、彼自身が置かれていた状況よりも、ラドウィグがなんとなく付け加えた『たぶん』という単語の意図が気になるらしい。
 こんな変な展開になるぐらいだったら、余計な言葉を付け加えるんじゃなかった。――ラドウィグはそう後悔する。それから彼は父親に、言葉の最後に『たぶん』と付け加えた理由をそれとなく濁しつつ伝えるのだった。
Dena kediasデナ・ケディアス・ lau meish nitzaaラウ・メシュ・ニトザー・ hella Shanlaiaaヘッラ・シャンライアー。. Eto ma erol nieエト・マ・エロール・ニー・ kineii etaazaishキネイー・エターザイシュ・ zoinaaゾイナー(こっちの世界は故郷シャンライアと全然違う。だからオレには何も断言できないんだ)」
 本当のところ、ラドウィグが語尾に『たぶん』と付け加えたことには深い意味などない。というのもそれは、彼の口癖のようなものなのだ。断定したり断言することが嫌いなラドウィグは、『たぶん』といった含みを持たせるワードをついつい使いがち。それでいつものように今回も、なんとなく『たぶん』と付け加えてしまっただけのこと。
 そんなまどろっこしい言葉など付け加えず、年齢ぐらいスパッと断言すれば良かっただけの話。とはいえ父親は、その話でひとまず納得してくれたようだ。
MaB'telマブテル(なるほど)」
 口先では、理解したと述べた父親だが。その表情は相変わらず変動がなく、本当に理解しているかどうかは不明。ラドウィグも、そこには期待をあまり抱いていなかった。
 まあ、でも、うまくやり過ごせたなら、それで良い。――ラドウィグがそう思った時だ。父親がまた首を捻り、新たな珍発言をブッ込んできた。
「……La'nieラニー・ dena Shanlaiaaデナ・シャンライアー?(……ここはシャンライアじゃない?)」
 この発言にラドウィグは唖然とし、思わずため息を零してしまった。父親が察しの悪い人間だということは分かっていたが、ここまでだとは彼も思っていなかったからだ。
 誰にも言葉が通じない上に、誰の言葉も理解できないこの状況。加えて、地球の人類史で言うところの十七世紀後期に近い文明レベルだった故郷と、四十三世紀も後期に差し掛かったアルストグラン連邦共和国とでは医療設備に雲泥の差がある。これらの“異様な”環境から、父親は何かしらの異変を感じ取っているかと思っていたが……――そうではなかったようだ。
 そうして遂にラドウィグは呆れから、こんなことをワーッと言い放ってしまった。
MeishGa kineiiメシュガ・キネイー・ Englishイングリッシュ・ yianイアン?! Niat zoina cibaニアト・ゾイナ・キバ・ wa bradii fihaw gatiellワ・ブラディー・フィハウ・ガティエル、, den'la nie Shanlaiaaデンッラ・ニー・シャンライアー!(ここの人たちはみんな、英語を喋ってたでしょう?! どう考えたって、ここはシャンライアじゃないって!)」
 あまりに強すぎた呆れの感情から、その声量はラドウィグにしては大きいものとなっていた。それでもラドウィグの思いは、さほど父親に伝わっていないようだ。先ほどとは反対の方向に首を傾けさせた父親は、ラドウィグの言葉にピンと来ていないらしい。
 そしてラドウィグは再度、重たい溜息を零した。それはこの先の展開が危ぶまれていたからこそ。
「はぁー、マジかぁ……――何から説明すりゃいいんだ、これ……」
 ラドウィグの父親――正しくは『ラドウィグの父親と目されている人物』なのだが――には、これから聞くべきこと、それと説明すべきことが山ほどある。
 まずは彼の正体。彼はASIの睨んでいる通り“オーウェン・レーゼ”という人物なのか、だとしたら彼の中にある“ベンス・シャネム”という人物の記憶はどういう経緯で得たものなのか。そこを明らかにする必要があるだろう。また、特務機関WACEワースによって破壊された工学研究所施設跡地で彼が発見された理由、それも突き止めなければいけない。あのような場所で、彼は何をされていたのかを、本人から聞き出さなければならないのだ。
 だが……――当の本人が、この調子である。ラドウィグには、それら情報収集をASIがスムーズに果たせるとは思えなかった。
「ラドウィグ? どうしたんだ、急に大声なんて上げて……」
 そうしてラドウィグが肩を落とした時、テオ・ジョンソン部長がラドウィグにそう声を掛けてきた。それに対してラドウィグは、振り返ってテオ・ジョンソン部長を見やる……ことはせずに、テオ・ジョンソン部長に背を向けたまま「こっちの話です」とだけ告げた。テオ・ジョンソン部長にそう言ったあと、ラドウィグは続けて父親に対しこう伝えた。
Madii fubpeiマディー・フブペイ・ Je sihalanジェ・シハラン・ raaラー・ Laiレイ。. Tokhs denaトクス・デナ、, vean sagヴェアン・サーグ・ Laiレイ。 camsn wa gii naカムスン・ワギー・ナ・ kuinis tajuクイニス・タジュ・ wafpaa daaワフパー・ダー(レイってやつに新シアル語を教えておくよ。だから今後は、そのレイを通して他の人たちと会話を行ってほしい)」
「……Fa Waファ・バ?(……お前は?)」
Ma'km lyuniaaマクム・リュニアー。. Ziwiジウィ。(忙しいんだ。ごめん)」
 今のラドウィグにとっては、イザベル・クランツ高位技師官僚の護衛が最優先事項。ゆえに彼は、父親を冷たく突き放した。それからラドウィグは父親に背を向け、今度はテオ・ジョンソン部長の方へと向く。
「部長。彼が扱う言語は、あとでレイに教えておきます。レイならすぐに辞書を作成して、通訳も出来るようになるでしょうから。なので暫くの間、レイをここに派遣してもらえませんかね?」
 テオ・ジョンソン部長の傍へと戻りながら、ラドウィグは早口にそう伝えた。するとテオ・ジョンソン部長は頷き、ラドウィグにこう返答した。「ダルトンが開発中だとか言っていた、AIアイ・:Lが遠隔操作できる自立歩行可能な人型ロボットを、試験がてらここに持ってこさせよう」
「えっ、いや、部長。あの不気味な黒いヤツじゃなくて、レイの本機のことを言ってるんですけど」
「本機だと? あんなもの、外部に持ち出せるわけがないだろうが」
 AIアイ・:Lの本機とはつまり、人間にそっくりなあのボディのことを指している。レイ・シモンズという名前でかつてモデル業をさせられていた、あのボディだ。ラドウィグはその人間らしい見た目をしたAI:Lをここに派遣してほしいと頼んだのだが、その要望はピシャリと跳ね除けられた。
 まあ、それも無理はない。レイ・シモンズという“架空の人物”はアルストグラン連邦共和国において、それほどまでに有名なのだから。
「……分かりました。じゃあ、あの黒くて気味の悪いヤツでお願いします」
 不貞腐れるような態度で、ラドウィグはそう言葉を返す。しかしそう言いながらもラドウィグは、チラッと神狐リシュを見やっていた。
 その視線の意図を察したのだろう。不機嫌な神狐リシュは、抱えていた怒りの矛先をテオ・ジョンソン部長からラドウィグへと逸らした。それから神狐リシュは吠える。
『木偶野郎の相手をしろと? この俺に? ……いやだね、それだけは絶対にな。俺は番犬じゃねぇんだ。頼むんだったら黒狼にしろ。あいつ、鏡の世界で暇こいんてンだろ?』
「おいおい、まだ他にも化け物がいるってのか? 冗談きついぞ」
 神狐リシュの言葉に、そう水を差したのはテオ・ジョンソン部長だった。すると神狐リシュの怒りの矛先がまたテオ・ジョンソン部長へと向けられる。神狐リシュはまた毛並みをウワッと逆立てると、テオ・ジョンソン部長に対して牙を剥き、再度がなり立てるのだった。『この堅物野郎、黒狼すら知らねぇのか? お前、情報機関とやらのお偉いさんなんだろ? あとコルトやモーガンとも関わりがあって、コヨーテ野郎とはバチバチやりあってる間柄なんだろ? ぺルモンド・バルロッツィとだって関わったことがあるんだろ? それなのに黒狼ジェドを知らないだって? ……そっちこそ冗談きついぜ』
「なっ……」
『ぺルモンド・バルロッツィの体を乗っ取って、邪悪なことをして回ってたのが黒狼ジェドだ。あの男が持ってた邪悪の側面は、あいつじゃなく黒狼のものなんだよ。そんであの男が死んだ際に、自由の身になっちまってた黒狼をルドウィルが鏡の世界に封じたんだ』
 ……だが神狐リシュはテオ・ジョンソン部長に向かって散々吠えたてた後、急に静かになった。その様子は、何かを疑問に思い、考えこんでいるよう。
 リシュはどうしたんだろうか? ――ラドウィグがそう疑問に思った瞬間だ。神狐リシュが身を翻してラドウィグの方を向き、そしてラドウィグの目をギリッと睨み付ける。すると神狐リシュは突然、ラドウィグに向かってキャンキャンと吠え始めたのだ。
『おい、ルドウィル! お前のサボり癖が、こういう不要な齟齬を生むんだぞ! 分かってンのか! 黒狼ジェドのことぐらい上司に伝えておけよ、このバカ野郎がァッ!! あン野郎は、俺たちみてぇな無害な中位の神とは全く違う存在なんだぞ?!』
 テオ・ジョンソン部長に話が通じないのは、ラドウィグが情報の伝達および共有を怠っているからだ。――神狐リシュはその答えを導き出したのだ。それで神狐リシュは、ラドウィグに怒りの矛先を戻したのである。
 しかし正当な指摘をされようが、自分の在り方は捻じ曲げようとしないのがラドウィグという人物である。彼はちっぽけな指摘ごときでは反省などしない。そんなラドウィグは、あくまでも舐め腐った態度を貫きとおした。
「でも、あれは《玉鏡ディドル》に閉じ込めたじゃん。つまり終わった件っしょ?」
『ハァッ?! 閉じ込めただけで消滅もしてねぇってのに、終わっただァ!?』
「でも閉じ込めたんだ、誰かが故意に封印を解かない限りアイツは出てこられないだろ。だから別に、ジョンソン部長に報告とかはしなくていいかなーって思ったんだけど。それにカリスならまだしも、ジョンソン部長に報告って……――寧ろ、なんでする必要があるの?」
「報告する必要があるかどうかを決めるのはお前じゃないぞ、ラドウィグ!」
 神狐リシュに睨まれ、テオ・ジョンソン部長に怒号を飛ばされるラドウィグは、それでもヘラヘラとした態度を崩さない。怒りと混乱が綯い交ぜになり、すっかり血の気が失せた顔をしているテオ・ジョンソン部長を見ても尚、ラドウィグは態度を改めなかった。
 そんなラドウィグの態度が遂に、ASIにおいては比較的『穏健で寛容かつ物腰柔らか』な部類に入るテオ・ジョンソン部長の怒りを買う。テオ・ジョンソン部長は舐め腐ったラドウィグの首根っこを掴むと、ラドウィグを引き摺って個室の外へと出たのだ。そしてテオ・ジョンソン部長は早足で歩きながら、ピリピリとした声でラドウィグにこう言う。「今日と明日、お前は非番だったよなぁ?」
「まぁ、そうッスけど。でも部長、だからってオレ、暇っていうワケじゃ――」
「お前の都合なんぞ知ったことか!!」
「……?!」
 父親に別れの挨拶すらもさせぬまま、テオ・ジョンソン部長はラドウィグを外へと連れ出していく。二人の後を追いかける神狐リシュも、後ろからテオ・ジョンソン部長に加勢するようにキャンキャンと吠え続けていた。――そうしてラドウィグは、テオ・ジョンソン部長を敵に回してしまったわけである。問題だらけの局員たちの腐った性根を次々と叩きなおしてみせた男、テオ・ジョンソンを。
「お前が持ちうる限りの情報を絞り尽くしてやる、尋問室でな。……――覚悟しておけ、この青二才が!!」
 そんなこんなで怒りに震えるテオ・ジョンソン部長の横顔を、病棟の外から観察していた者が居た。高くそびえるユーカリの樹の枝に留まっている、一羽の大きなカラスである。
 するとカラスの視線が“こちら”へと向く。ケケッと乾いた笑い声を上げた後、カラスは“こちら”に向かって話しかけてきた。
「住む世界の違いゆえの衝突ってェのは、傍観者からすりゃァとぉっても興味深いテーマなのヨ。ケケケッ!」


+ + +



 それは四二一八年の四月下旬のこと。ハイスクールの卒業も近くなっていたこの頃、浮足立っている同級生とは反対に、シルスウォッドはずっと暗い顔をしていた。その理由は、この二人にある。
「……そこどいて、レター。邪魔」
「なんだよ、サイコ。一年間もアーティーのこと無視しといて、急に友人ヅラすんのか?」
 幼馴染のブリジット、それと友人であるザック。この二人は、体調不良を未だ引きずっているシルスウォッドに甲斐甲斐しく世話を焼こうとするのだ。そして二人とも、シルスウォッドにとっての一番の友人であろうとしていた。だからこうして二人は、顔を合わせるたびに軽微な罵り合いを繰り広げている。
 というか、この状況を作り出しているのは主に視野の狭いブリジット。彼女は『哀れなシルスウォッドは皆から虐められていて、彼には自分しか友人がいない』という認識を八歳ぐらいから更新していないし、一〇年経った今も更新する気はないようだ。故に『ザカリー・レターという青年は、シルスウォッドの友人である』という現実を彼女は認めることが出来ずにいる。これは『自分にはシルスウォッドしか友人がいないが、彼はそうではない』という現実を彼女が認めたくないからだろう。
 そんなブリジットの被害を受けているのは、主にザック。
「アンタこそ、何よ。五年以上も彼のことを虐めておいて、何を一丁前に友人顔してるの?」
「オレがいつアーティーを虐めたって?!」
「いつも彼のノートを奪ったり、彼をアメフト部の連中に突き出したりしてるじゃないの」
「ハァ!? いや、ノートはたしかにいつも借りて丸コピしてっけど。でもアメフト部は違ぇから! オレが奴らにアーティーを突き出してンじゃねぇの、連中に絡まれてるアーティーをオレは助けてやってんの。そこ誤解すんなって」
「さぁね、どうだか。十代の学生の間で発生する虐めの八割は、友人顔した人間が引き起こすって言われてるし」
「言いがかッ――」
「あなたがそうじゃないとは言いきれないわ。そうでしょう?」
「……いけ好かねぇやつだなぁ、ホント。だから友達も彼氏も出来ねぇんだよ、お前……」
「なんですって?」
 この通り相性が良くない二人は、このような会話をシルスウォッドの傍で延々と繰り広げていた。学校内ではいつも、そんな感じ。そんなわけで他の生徒たちからは白い目で見られることが多く、シルスウォッドの気は重くなっていく一方だった。
 シルスウォッドはどちらのことも“友人”だと思っていたし、そこに優劣の基準を設けてなどいなかったのだが。当人の思いとは裏腹に、友人ふたりはそれぞれが「自分こそは!」と言い張って譲らない。
 実に不毛、それが率直な彼の感想だ。
「お二人さん、すごくうるさいんだけど。食事のときぐらい静かにしてくれないかな」
 堅物かつ真面目でお高く留まっているフシのあるブリジットと、お節介焼きでありながらも不真面目で庶民的なザック。そんな噛み合わない二人の睨み合いに、シルスウォッドがそう釘を刺したのは、ある日のランチタイム。シルスウォッドの正面の席にどちらが座るか、そんな下らないことで争っていた二人に、シルスウォッドはその言葉と共に冷たい視線を浴びせていた。
 それでもブリジットとザックの二人、まだ睨み合いを止めない。すると呆れたシルスウォッドは足許に置いていたリュックサックを手に持つと静かに席を立ち、別の空いているテーブルへと移っていった。その後をすかさずザックは追いかけようとしたが、しかしシルスウォッドはそれを制する。
「もう今日は僕に構わないでくれ。君らのいがみ合いに巻き込まれるのに疲れたんだ」
 この時のシルスウォッドの体調は、まだ万全とは言い難かった。
 リチャード・エローラ医師の下、断薬に踏み切ったのが春休みのこと。あの後は離脱症状というやつのせいで、ボチボチ悲惨な状態に陥っていた。ワケもなく強い不安感に苛まれて、眠れない夜が三日ぐらい続いたし。体のあちこちが無性に痒くなって、かなり掻きむしったし。小さな物音にもひどくイライラしたり等、とにかく気分は最悪だった。
 そういうわけで、それなりにしんどい離脱症状に苦しめられた一週間だったが……――その苦しみもリチャード・エローラ医師に言わせてみれば「まだマシな部類」であったらしい。
 とはいえ、それもリチャード・エローラ医師のアドバイスがあったからこそ。『気が立っていると感じた時には、気を紛らわすために立って歩け』、『朝食時にはヨーグルトも一緒に』、『牛肉といった、ナイアシンの摂取を心がける食事を』、『夕食後から就寝前のどこかのタイミングで、バナナを食べるといい』等々……――そういった助言を実践していたことが、少なからず活きていたのかもしれない。まあ、真相は不明だが。
「アーティー? いや、オレは別にいがみ合いなんて……」
「近くで騒がれるのが嫌なんだよ」
 この時には、断薬をしてから一ヶ月以上が経過していたが。幸いにもシルスウォッドは、あれから嘔吐を一度もしていない。ザックやブリジットが傍でギャーギャーと言い争いをしている時を除いて、気が立つことも無くなった。以前はあった平静さを、彼は少しずつだが取り戻せていたのだ。
 しかし、いくつか気掛かりなことを彼は抱えていた。
 まず一つ目は、ザックに絡まれるようになってからは薄らぎつつあった『現実感の無さ』が再び彼を支配したこと。インゲ・ヘリュック医師の言葉を借りるなら『離人感』というその世界に、シルスウォッドは揺り戻されていた。街中の草木が生命の宿らぬ紙粘土細工に見えたり、見えている景色の奥行きを感じ取れなかったり、なんとなく全てが色あせて見えるといったその奇怪な感覚が、彼の許に返ってきていたのだ。
 居心地の悪さを常に感じざるを得ない、この離人感という名のヴェール。これが彼を現実から引き剥がす一方で、彼の正気を維持する役割を果たしているのなら。このヴェールが次に外れた時には、一体どうなってしまうのか。……そのことが、シルスウォッドを不安で堪らなくさせていた。
 そして二つ目の気掛かりは、思い出してしまった記憶のこと。ブレナン夫妻の許で過ごした最悪の春休みが、彼の封印していた“幼少の記憶”をほじくり返したのだ。分離不安が強くて常にブレナン夫妻にくっついていた、ひどく寂しがり屋の子供時代を彼は思い出してしまったのである。加えて、その記憶にはオマケがあった。なぜ子供時代の自分がそんな性格をしていたのか、その理由となる記憶も付いてきていたのだ。
 それは母親の胎から彼が取り出された直後の記憶であり、人生で最初に経験した恐怖の記憶でもある。その記憶は、実母が死の直前に最期の力を振り絞って喉からひり出した声と、実母の苦悶と怒りに歪んだ顔、それと彼女の背景に広がる血の海に覚えた恐怖心と強い孤独感で満たされていた。

  Is leamsa e.
  Thoir air ais e dhomh ...!!

 刑務官の腕に抱かれたシルスウォッドに向かって手を伸ばし、実母は潰れた喉で必死にそう訴えていた。刑務官の腕に抱かれていたシルスウォッドは、実母の声に呼応するように泣いていた。得体のしれない漠然とした恐怖に怯えて、彼は泣いていたのだ。
 そしてその泣き声は、実母の腕がガクンと床に落ち、それきり実母が動かなくなったことを機に大きくなった。多分、赤子ながらに彼は分かっていたのだろう。その女が母親であり、母親である女はたった今ここで死んだのだ、と。
 その記憶を引き摺っていた幼少期のシルスウォッドは、ずっとブレナン夫妻に捨てられることを恐れていたのだ。だからブレナン夫妻に気に入られるために必死で賢さを身に着け、良い子であろうと努めていた。読み書きのできる聡明な子供、どんな大人や子供に対しても愛想よく振舞える愛嬌のある子供、我儘を言わない物分かりの良い子供……――そうあろうと努力し続けていたのだ。
 そんな虚しい努力を続けていた子供であったからこそ、その期待が裏切られた時には酷く取り乱して泣いていた。なんてことない些細なことでも、ギャン泣きしていたものだ。
 一番ひどかったのは、ローマンがかなり長めに取得していた育児休暇期間を終え、復職した日だろう。日中にローマンが家に居ない理由が理解できなかったシルスウォッドは、彼が帰ってくるまでずっと泣き続け、そのせいでドロレスを軽いノイローゼに追い込んだことがあった。それが多分、生後八ヶ月ぐらいの頃のこと。
 その他にも、かなり下らないことで幼少期のシルスウォッドは泣いていた。例えば出先のトイレで、ドロレスとローマンの二人が別れたとき。トイレは男女別なのだから性別の異なる二人が別行動になるのは当然のことなのだが、二歳になるぐらいまではこの些細な“分離”すら嫌だった。ドロレスとローマンのどちらかが目の前から居なくなること、それがどうしても怖くて堪らなかったのだ。
 まあ、幼少期の恥ずかしい記憶はさて措き。
「…………」
 ザックとブリジットの二人から離れた場所で席を確保したシルスウォッドは、そこに座り、すぐ傍の床にリュックサックを置いた。そこは周囲に誰もいない区画で、テーブルはガラリと空いている。誰の邪魔にもならず、誰にも邪魔をされず、少し仮眠を取れそうな場所だったのだ。
 そこを確保したシルスウォッドはテーブルに突っ伏して、眠る体勢を取る。そんな彼は、昼食を取ることはしない(彼は今まで一度も、学校で昼食というものを食べたことがない。父親が一度もシルスウォッドに昼食代を持たせてくれなかったことが原因である。その所為で昼食を取らないこと自体が習慣化してしまい、エルトル家を逃れた後も、ハイスクールを卒業するまではその状態が続いていた)。次の授業が始まるまでの間、少しだけでも休んでおこうと、彼はそう考えていた。
 そうしてテーブルに突っ伏したシルスウォッドが、ちょうど目を閉じた時。彼の傍を通り抜けていく誰かの足音がした。それから足音に続き、シルスウォッドに何かを訊ねる声が聞こえてくる。
「あの、アーティー。ここ、座っていい?」
 それに対し、相手の言葉をまともに聞いていなかったシルスウォッドは、適当な相槌を返した。
「お好きにどうぞー……」
 そんなシルスウォッドの適当な返事を聞いた相手の生徒は、その中身のない返事を肯定的に捉える。その生徒は、だれているシルスウォッドの横の席に座り、テーブルの上に昼食を乗せたプレートを置いた。
 すると、相手の言葉をまともに聞いていなかったシルスウォッドは、誰かが自分の横に座ったことに驚いた。そんな彼は顔を上げ、自身の横に座った人物を見る。――そこに居たのは、演劇部に所属する同学年の女子生徒スーザン・ノースだった。「……スーザン?!」
「久しぶり」
 昨年十一月にヴェニューで遭遇して以来、約五ヶ月ぶりに会う相手。大慌てで姿勢を正すシルスウォッドは、穏やかに微笑みかけてくるスーザンとは反対に、引き攣った笑みを浮かべていた。
「あっ、ああ。久しぶり、だね……」
 するとシルスウォッドの緊張を察しとったのか、スーザンの表情は気まずそうなものに変わる。彼女の友好的な態度も一転、固く緊張したものへと変化した。
 そんなこんなで両者ともに、何とも表し難い気まずさからガチゴチに固まってしまったわけだが。そのムードの融和を試みたのは、シャイで気弱なフリをすることが得意な図太い神経の持ち主シルスウォッドではなく、どちらかといえば臆病でシャイな性格であるスーザンの方だった。
「体重、戻ったんだね。前に会った時のあなたって骸骨みたいに痩せてたけど、今は人間に戻ったって感じ」
 それは彼女なりに精一杯ひねり出したユーモアだったのだが、それを受け取る側に余裕がない今、その言葉は空気に熔けて消えていく。笑顔を引き攣らせたままのシルスウォッドは、彼女の冗談を完全にスルーし、さほど重要でない言葉尻に注目していた。そんなシルスウォッドはスーザンに、こう言葉を返す。「――ヴェニューで会った時、そこまで痩せてなかったと思うけど?」
「あーっ……会ったって言うと、語弊があったかな。その、要するに、私はお見舞いに行ったの。私が行った時、あなたは熟睡してて。それであなたの叔母さんだっていう人に私は本を預けて帰った、って感じ?」
 スムーズに会話が進まないこの硬い雰囲気に、融和を試みたスーザンも苦い表情になる。それに吊られて、より一層シルスウォッドの笑顔も引き攣っていった。
 しかし背筋が硬くなっていく感覚を覚えながらも、シルスウォッドはあることを思い出していた。
 それは二度目の胃潰瘍によって入院する羽目になっていた一月のこと。あの頃の記憶はひどく曖昧であるため、具体的な時期は忘れてしまったが……――叔母のドロレスがある時、シルスウォッドに二冊の本を渡してきたのだ。
 一冊目は、幾人かの考古学者が共同で執筆したという『神話の時代の考古学』という本。考古学といえば、二十八世紀後期から三十二世紀前期までの“曙光時代”と呼ばれる区分、および三十二世紀後期から三十五世紀前期までの“黄金時代”と呼ばれる区分に存在したとされている、今では失われた高度なテクノロジーを掘り返すための学問というイメージがすっかり浸透している四十三世紀において、それは珍しいテーマを扱っていた本だった。
 人の生活をより良いものへと変えるテクノロジーを掘り起こすわけでもなく、ただ太古の時代を生きた人間を研究し、人間の本質とやらに迫ろうとするその本は、偏屈なシルスウォッドの興味を惹いた。その本に関しては、ボーっとしていた頭でも必死に読もうとしたものだ――結局読み終えたのは、薬を断ったことにより思考がクリアになった後のこと、それもつい昨日のことなのだが。
 そして二冊目は、ジェイミー=カーステン・シュナウザーという三世紀前の時代を生きた小説家の遺作『草原の狼』という小説だった。アメリカ開拓時代を舞台に、ハードボイルドなタッチで神秘主義的な世界観を描いた奇作であり……――正直、シルスウォッドにはあまりハマらなかった。
 その物語の主人公は、カウボーイの白人男性。強制移住法によりオクラホマ居留地に強制移住されたアメリカ大陸先住民“スー族”の多く住まうエリアに侵入し、そこで牛追いをしていた主人公は、その際に近隣でバッファロー狩りをしていたスー族の戦士を『なんとなく目障りだったから』という身勝手すぎる理由から射殺するのだが。そのスー族の戦士は死の間際に、主人公に呪いを掛けるのだ。
『コヨーテのように気まぐれな白人(ワシチュー)、お前はいずれコヨーテとなる。そしてお前が悔い改めなければ、お前の身には裁きの稲妻が落ちるだろう』
大いなる神秘(ワカン・タンカ)の下に全てが平等であることを学ばぬ限り、この呪いが解けることは決してない』
 しかし舞台は西部開拓時代だ。黒人奴隷を解放したところで白人至上主義は依然として存在していた時代のアメリカでは、先住民の地位など無いに等しく、もはや同じ人間として扱われていないわけで。主人公はスー族の戦士の言葉を鼻で笑い、愚かにも呪いの存在を信じなかったのだ。
 そんな愚かな主人公は、捕獲した牛を連れて大陸横断鉄道を目指す旅に出る。旅の途中、主人公を砂嵐やバッファローの大群による襲撃といった困難が襲うが、まあそれをどうにか乗り越えて、主人公は駅へと辿り着く。しかしその時には既に主人公の容貌は“草原の狼(コヨーテ)”へと変化していた。そうしてコヨーテに変貌していた主人公は、同じ駅舎に辿り着いていた別のカウボーイに『なんとなく目障りだったから』という軽い理由で射殺され……――物語は幕を閉じる。
 物語の本筋はざっとこんな感じだが、加えてこの小説には『スー族の末裔である女性が恋人に向けて、一族に伝わる伝承を語っている』という設定があるらしい。……しかしシルスウォッド本人はこの小説を読んでいないので、本当のところは分からない。これら物語の本筋は、代わりにその本を読んだ叔母のドロレスから聞いたものでしかないのだから。
 彼もさわりの部分だけ、その小説は読んだのだが。主人公が『白人至上主義者を地で行く、どうしようもないクソ外道野郎』という物語を、彼は読み終えることができなかった。主人公がスー族の戦士を射殺した時点で、彼はその本を閉じてしまったぐらいだ。大嫌いな父親アーサー・エルトルの顔が、言葉が、どうしても脳裏に浮かんでしまって……――あんなことがあったばかりだった当時は特に、とてもじゃないが読み切れる心境には無かったのだ。
 まあ、本の内容はさて措き。
「もしかしてだけど、君が置いていったのは『神話の時代の考古学』と『草原の狼』っていう本?」
 シルスウォッドがそう確認を取ると、スーザンは頷く。
「そう、その本」
 ちなみに、適当で大雑把な性格をしている叔母のドロレスはそれら本に関して、『あなたの友達が置いていった』としかシルスウォッドに伝えていなかった。故にシルスウォッドは勘違いしていたのだ。その友人というのは、ザックかブリジットのどちらかだろうと。
「あの本を置いていったのは君だったのかぁ。……叔母は『友達が置いていった』としか言ってなかったから、てっきりザックかブリジットだと思ってたんだよ。気付けなくてごめん」
 シルスウォッドが正直に思ったことを述べると、スーザンは「別にいいの。気にしないで」と言葉を返す。しかし残念さを匂わせているスーザンの顔は、言葉とは全く逆の心境を表していた。シルスウォッドが定義する“友人”の中に自分が含まれていないという事実に、彼女は少しだけ傷ついたようだ。
 そんなスーザンの心境をシルスウォッドは察しとっていたが、けれども彼にはスーザンとの間にある距離を詰めるつもりはなかった。それは交友関係を広げたくないからこそ。故に彼は、わざと距離を取るような、冷たく、それでいて礼を欠いた言動をするのだった。「あっ。本、君に返すよ。一冊は持ってきてるんだけど、もう一冊は家にあってさ。そっちは明日にでも――」
「えっ? いえ、別に、それはあなたにあげッ……」
「借りっぱなしは嫌なんだ。だから返す。それでいいよね?」
 何が『それでいい』のかは、その言葉を発したシルスウォッド本人にも分からなかったが。ひとまずシルスウォッドはその言葉でスーザンを丸め込み、彼女の言葉を塞ぐ。それから彼は足許に置いていたリュックサックを開け、その中から偶々学校に持ってきていた『神話の時代の考古学』という本を取り出すと、それをテーブルの上に置き、スーザンの傍へとスライドさせた。するとスーザンは苦笑いと共にその本を受け取り、彼女の膝の上へと置く。そうしてシルスウォッドは本の返却を果たしたのだった。
 本音を言うと、その本は手元に残しておきたかったが。けれども気に入ったテーマの本を手元に残すことよりも、スーザンとの接点を断っておきたいという考えが勝った。赤縁眼鏡のシルスウォッドとフィドラーのウディ・C、その両方の側面を知っているスーザンとは、距離を置きたかったのだ。
 しかしシルスウォッドがそう思っていた反面、スーザンは真逆のことを感じていた。気弱で冴えない文学青年だとばかり思っていたシルスウォッドに、イケイケなフィドラーという顔があることを知ってしまったスーザンは、もっと彼のことを知りたいと思っていたのである。そこで、せめて友人ぐらいにはなりたいと彼女は願っていた。
「…………」
 距離を置きたいシルスウォッドと、距離を詰めたいスーザン。きっとスーザンに何も策が無ければ、彼らはこのままの気まずい空気感を保ったまま、二度と会うことも無くなっていたはず。
 しかし、この時のスーザンは“切り札”を偶然にも持っていた。
「あの、ね。アーティー。実はあなたに相談があって……」
 返却した本をスーザンが受け取ったことを確認したシルスウォッドが、再び仮眠の姿勢に戻ろうとしたとき。スーザンは突如、そう切り出してきた。そこでシルスウォッドは仕方なく姿勢を正し、横に座るスーザンを見やる。その時のシルスウォッドは、どんな面倒くさい相談事を持ちかけられるのかと警戒するような視線を、あからさまに彼女へと向けていた。
 そんなシルスウォッドの冷めた視線に、スーザンはたじろいだ――温和で気弱な性格だとばかり思っていたシルスウォッドが、そうでもない本性を隠し持っていたことに驚いていた彼女は同時に、そのシルスウォッドが放つ静かなる威圧感に圧倒されていたのだ。それでも彼女は勇気を振り絞って、こう切り出す。「ケビンがインフルエンザに罹って休んだことは、知ってるでしょう? それで、本当に急なんだけど……――代役をあなたにやってほしいの」
「代役?」
「そう、代役。演劇部の公演が明日あるんだけど、その、ケビンの代役を……」
「…………」
「ケビンから聞いたの。アーティーって記憶力がすごくて、シェイクスピアの作品を暗記してるんでしょう? それで、その、演目は『リア王』なんだけど、ケビンがやってた役はエドマンドで――」
 公演は明日。それなのに、代役をやれと? ……シルスウォッドが持つ理性的な側面は、スーザンの言葉にそんな戸惑いを覚えていたのだが。しかし彼が実際に彼女へ返した言葉は、その戸惑いを一切感じさせないものだった。彼はこう即答したのである。
「エドマンド? あっ、それならやるよ」
 本人すらも当惑するほど、スムーズに飛び出していったその言葉。それを聞いたスーザンも、それを発したシルスウォッドも、その答える速さには驚いていた。
 そうしてシルスウォッドが持つ理性的な側面が、すぐさま発した言葉を訂正しようとした時。また別の、調子に乗って軽はずみなことをしがちな側面がそれを遮り、茶々を入れる。そんなわけで彼の頭の中では『公演は明日だぞ? そんな急な話を振られたって……――僕には無理だ!』と訴える声と、『セリフも流れも完璧に覚えている物語なのに、それを断るのか? お前にはそれが出来るはずだろう?』と唆す声が喧嘩を始める。
 だが彼の脳内で起こる喧嘩に決着が着くよりも先に、スーザンが動いた。
「本当に?! やった……! ありがとう、アーティー。みんなに伝えておくね! あっ、今日の放課後にリハーサルをやるから、あなたも劇場に来てね!」
 スーザンは輝く笑顔をパッと浮かべ、シルスウォッドにそう感謝を伝えてくる。――感謝を言われ、笑顔すら向けられてしまっては、流石のシルスウォッドも断れるわけがなく。
「……」
 少し返答に悩んだ後、シルスウォッドが返した言葉はこれだった。「あ、ああ。分かった。放課後に劇場でリハーサルか。……劇場って、別棟二階の?」
「そう。東棟の二階にある劇場。そこに来てね」
 そう言ったスーザンの声は興奮気味で、浮足立っている彼女の心情が透けて見えていた。そんな彼女の姿は、明日の公演が成功することを確信しているようですらある。スーザンのその様子を見たシルスウォッドは、何も言えなくなってしまった。
 スーザンの言葉に対し、黙って頷いてみせた彼は、再び仮眠の視線を取るとテーブルに突っ伏して全てから目を逸らす。彼は雰囲気に流されて適当なことを言ってしまったことを後悔しながら瞼を閉じ、薄暗闇の世界に意識を逃がすのだった。





 時代は進んで、四二八九年。怒り心頭なテオ・ジョンソン部長による尋問から解放されたラドウィグと神狐リシュは、念願の帰宅を果たしていた。それが午後十一時のこと。
「……あー。なんか今日はすごく疲れたや」
『……俺もだ。今日はすっげぇ疲れた』
 ラドウィグは以前にも、ジュディス・ミルズから尋問まがいのことを受けていたが。今回の件でラドウィグは『あのジュディス・ミルズを超える凄みを持った局員が、まだASIにはゴロゴロと居るんだ』ということを思い知らされた。――セオドア・“テオ”・ジョンソン、尋問中の彼は本当に恐ろしかった。ラドウィグと共に尋問を受けさせられたあの神狐リシュが縮み上がるほどの凄みを、彼は見せつけてきたのだから。
 あの尋問で、ラドウィグはまさに“コッテリと”絞られた。ジュディス・ミルズに問い詰められた時以上に、うんと情報を搾り取られただろう。加えて、今回の尋問には神族種であり、且つ神族種界隈の情報に通じている神狐リシュも参加させられていたのだから、ASIの得られた情報は多かったはずだ。
 ラドウィグが提供した情報は以下のもの。
 高位、上位、中位、低位からなる神々のピラミッドについて。それと、神々のピラミッドよりも更に上に立つ“創造主”ないし“元老院”という存在について。あとラドウィグは、彼が仕えている者――ASIでもなければイザベル・クランツ高位技師官僚でもなく、特務機関WACEの関係者でも元老院でもないその存在。高位の神、時の流れを司る銀車輪の乙女――についての情報も少しだけ与えた。
 それから銀車輪の乙女から与えられている二つの任務――サー・アーサー、もしくはコヨーテ野郎、ないしアルバと名を改めたあの男の排除。それと、破損している竜神カリスの五つの神器の回収または破壊――についても、ラドウィグはその一部を明かした。そしてASIは「竜神カリスだの神器だのはサッパリ分からない、故に何も手助けはできない」としたうえで、「コヨーテ野郎の排除は、ASIも掲げている共通の目標だ。協力は惜しまない」と申し出てくれた。……テオ・ジョンソン部長による尋問も、情報を搾り取られただけではなく、ラドウィグとしても得られたものがあった、というわけである。
 また神狐リシュは、ASIに以下のような情報を提供した。
 不死者(イモータリアン)が創られるまでの話――それはおよそ二千年前のこと。元老院は地球上のあらゆる場所から攫ってきた『誰からも見放された孤児』をボストンに集め、そこで非道極まりない人体実験を繰り返していた。そんな元老院は当時、人間世界への介入を安定的なものとするために“元老院に忠実な不死者”を生み出そうと躍起になっていたという。そうして数多に繰り返された実験の末に、最終的に生き残ったのが“ジョン・ドーとされている彼”だった、というわけらしい――と、マダム・モーガンという死神(リーパー)が誕生した経緯――しかし運が悪いことに“ジョン・ドーとされている彼”の行方を、執拗に追い掛け続けていた同郷の幼馴染が居た。それが後にマダム・モーガンとなる女性、ファーティマ・ダルウィーシュだった。そして彼女は元老院の行っていた非道極まりない人体実験を遂に突き止めてしまい、見つけ出した“彼”を助け出そうとしたわけだが、元老院の手に落ちていた彼に裏切られ、彼女は逆に殺されてしまったのだ。だが死後に彼女は、のちにアバロセレンを生み出すことになる神(不確定性を司る神キミア)に見初められ、その神によって生き返らされる。そうしてマダム・モーガンが誕生した、というわけらしい――について。
 それから地球上に残る数少ない中位の神の大半が、彼らの住処と尊厳を奪っていった人間を恨んでいて、彼らの助力は望めないどころか、中位の神たちはコヨーテ野郎が引き起こそうとしている大粛清を歓迎しているという話。それと、そもそもの話である“大粛清”について。
 ASIないしテオ・ジョンソン部長は、神狐リシュから聞かされた“大粛清”の話にひどく当惑していた。竜神カリスという“この星の地母神に相当する上位の神”の怒りを焚き付け、大洪水を引き起こし、人類および大半の生命を消し去ってしまおうという計画を、あの“コヨーテ野郎”が企てているということを、ASIという組織そのものは把握していなかったからだ(今まではジュディス・ミルズやアレクサンダー・コルトといった一部の局員のみがなんとなく断片を知っていたが、彼女たちはそれをお上には黙っていたという状態であったらしい)。
 竜神カリスに拝謁したことがあるジュディス・ミルズとアレクサンダー・コルトはさて措き、ASIはその“地母神”の存在を信じようとはしなかった。だがASIは『地母神の怒りを焚きつけるために、コヨーテ野郎が引き起こそうとしている大騒動』の詳細を速やかに突き止め、可能な限り妨害していく所存だ、と言っていた。
 だが神狐リシュは、人間に期待をしていなかった。神狐リシュは、大粛清を止められるとは思っていなかったのだ。そしてそれは、ラドウィグも同じ。実のところラドウィグも、憎き“コヨーテ野郎”を討ち取れるかどうかについては不安しか抱いていなかったのだ。
「…………」
 ラドウィグは建前上、ASIに協力をしなければならない。イザベル・クランツ高位技師官僚の護衛もそうだし、それ以外の細々とした任務に出なければならない時もある。そんな制約がある中で、どうやって“コヨーテ野郎”を追うのか。その方法をまだ、彼は見つけられていなかった。
 ならASIを捨てればいい、となりそうなものだが。しかしお尋ね者になり、ASIから追われる事態になることは避けたかった。それにASIは、最低限の衣食住を保障してくれている。そんな組織を裏切ることは、なんとなくだが憚られていた。
 それにASIを捨てたところで、状況は変わらない。コヨーテ野郎の行動に関する情報は神狐リシュ経由でかなり得ることができるにしても、肝心の彼そのものを追う算段は今のところ無いのだから。
 マダム・モーガンのような空間転移能力があるならまだしも、ラドウィグにはそれが備わっていない。神狐リシュはその能力を持っているが、しかし神狐リシュはマダム・モーガンと違い、その能力を使って他者をも転送することはできない。
 そう。状況は万事休すで打つ手なし。焦燥感を抱いたまま、いつか来る運命の日を待つことしかできない、というわけなのだ。しかし何もしないで待つというわけにもいかず、結末を知った上での悪足掻きを重ねるしかなく……――
「……この世はバランスが悪すぎる。全ての人に、平等に不幸と幸福が降り注げばいいし、平等に役割分担が為されればいいのに。あまりにも偏りが大きすぎると思わない?」
 薄暗いアパートの廊下に立ち、ASIから彼に宛がわれた住居、その玄関ドアに空いた鍵穴に鍵を挿しながら、ラドウィグは小声でそうボヤく。するとラドウィグの足許に立つ神狐リシュは、ラドウィグのボヤきに対してこう返答するのだった。
『それが世界ってヤツさ。どこの星でも、どの種族でも、似たようなもんだよ』
 愚痴や嘆きに一切寄り添わず、それどころか冷たく突き放してみせるのが、神狐リシュというもの。暖かい炎を尻尾の先に灯しているが、この狐の心はそれとは反対にとても冷たいのだ。
 ラドウィグのボヤきをドライに切り捨てる神狐リシュに、ラドウィグは小さな失望を込めて溜息を洩らす。それから彼は鍵穴に挿した鍵を捻って解錠すると、ドアを開けて、住居内へと入っていった。
「……」
 ラドウィグの足をうまく潜り抜けて、神狐リシュも住居の中に入り込む。その神狐リシュが自分の寝床を目指して一目散に掛けていく一方で、首を傾げさせるラドウィグは玄関で立ち止まっていた。
 いつもなら、彼が帰宅すると白猫パヌイが出迎えてくれるものだが。今日はそれがない。加えて、何か家の中に違和感があったのだ。
「…………?」
 物の配置は変わっていない。この住居の前の住人――先の騒動で“コヨーテ野郎”に殺された一人、ヒューゴ・ナイトレイ――が遺した家具や私物は変わらずそのまま放置されているし、空いているスペースにこぢんまりと纏められたラドウィグの私物にも変化はない。だが、何かが変なのだ。
 と、そこで彼は遅れてあることに気が付く。彼は照明を操作していないのだが、しかしリビングルームの明かりが点いていたのだ。まるで既に、この家に誰かが居るかのように。
 このことに違和感を覚えつつも、彼は一歩を踏み出す。――と、その足に何かが当たり、歩みがつっかえた。
「……?!」
 ラドウィグが足許を見てみれば、そこには女性のものと思われる、踵が低めでありサイズも小さめな青いパンプス靴が一足、揃えられて置かれている。――誰であるかは分からないが、女性が一人この家に来ているようだ。そしてその人物は、前の住人から続くこの家のルール“土足厳禁(モップ掛けといった掃除が面倒である為)”をキチッと守っている様子。
 土足厳禁ルールを知っているのは、アレクサンダー・コルトとジュディス・ミルズ。そしてサイズが小さくて踵も低めのパンプス靴を履きそうなのは、ジュディス・ミルズだ――アレクサンダー・コルトは大抵、ヒールが八㎝以上の靴かイカついワークブーツ、もしくはラフなスニーカー、その三択のうちのどれかしか履かないし、まず彼女の足は一般的な成人男性と同じぐらいには大きいのだから。
 しかし……ジュディス・ミルズは「アバロセレンの光に似ていて嫌だから」という理由で青色や水色を好まなかったはずだし、ジュディス・ミルズはどちらかといえばボルドーやテラコッタといったくすんだ暖色系の衣服を多く持っていたはず。そんな彼女が青いパンプスを持っているとは、ラドウィグには思えなかった。
 となれば一体、誰が来ているのか?
「…………」
 まあジュディス・ミルズではないにしても、来ているのはたぶんテオ・ジョンソン部長かアレクサンダー・コルトが派遣したASIの人間だろう。どこの誰かも分からぬ人や泥棒の類なんかではないはず。――そう見当をつけたラドウィグは、靴を脱ぎ、家の中へと踏み込んでいく。
 変な人が来てなければいいなぁ。ちゃんとパーソナルスペースを尊重してくれるような、馴れ馴れしくない人だと良いんだけど。エディ・ベッツィーニみたいな、距離をガンガン詰めてくるタイプじゃないといいなぁ。……等々、そんなことを考えつつ、ラドウィグは恐る恐るリビングルームに近付いていく。
「……あれ?」
 そんな彼の目に留まったのは、見覚えのある白くて大きな猫の足だ。猫というか、ライオンである。あのアレクサンダー・コルトの周囲を偶に歩いている、名前をウィキッドないし“ウィク”というホワイトライオンだ。
 そのライオンは色々とあって、神狐リシュと仲が良い。それとラドウィグとも。また同じ猫科という繋がりもあってか白猫パヌイとも意気投合し、それもあってライオンはよくこの家を訪れていた。
 そうしてラドウィグがリビングルームに近付いてみれば、やはりリビングルームには巨体を伏せて眠っているホワイトライオンと、その横に寄り添って寝ている白猫パヌイが居る。
 そして、ラドウィグは思ったことをすぐ口走ってしまうタチだ。
「……ウィク、来てたんだ」
 リビングルームに入ったラドウィグが、床に伏せる巨体のホワイトライオンにそう声を掛けると、ライオンはその大きな顔をのそっと上げた。それから察しの悪いラドウィグをホワイトライオンは睨み付けると、そのホワイトライオンは低くくぐもった小さな声とアレクサンダー・コルトに似た荒っぽい口調で、ラドウィグにこう言った。
『……余計なことを言うんじゃねぇ。今は静かにしていやがれ……!』
 それに続いて、白猫パヌイも小さな声でラドウィグにこう訴える。
『……そうなのニャッ。とにかく、静かにするのニャ……!』
 静かにしろ。そう伝えてきた猫たちは、また寝たふりの姿勢に戻っていく。たぶん、気配でも消そうとしているのだろう。
「……?」
 困惑したラドウィグは、リビングルームの隅に置かれた寝床に戻っていた神狐リシュを見やったのだが。しかしこの薄情な狐は、もうとっくに眠っているようだった。寝たふりではなく、たぶん本当に眠っている。
 頼りにならないヤツだなぁ、とラドウィグは唇を尖らせる。――その時の彼は、ついさっき見たはずの青いパンプス靴のことなどもう忘れ去っていた。アレクサンダー・コルトでもジュディス・ミルズでもない、ASIから派遣されてきた局員が来ていることを、すっかり失念してしまったのである。
 そうして腕を組み、空っぽである犬用のベッド――ラドウィグのような例外はともかく、多くの人間にはそう見える――をジトッと見ているラドウィグに、一人の若い女が横から声を掛ける。
「――あの、私のこと、呼びました?」
 それは一仕事を終え、身に着けていた自前のエプロンを外し、それを手早く畳んでいるところだったヴィク・ザカースキー。彼女は、何もいない空間をジトッと見つめているラドウィグを不思議そうに見つめながら、再度彼にこう訊ねた。
「今、ヴィクって言いましたよね?」
 ウィク、ヴィク。たしかに語感は似ていて、ややこしい名前だ。しかし今、ラドウィグが発したのは“ウィク”のほう。
 くだらないことで嘘を吐きたくないラドウィグは、ヴィク・ザカースキーの言葉に首を横に振り、否定するという反応をしてみせた。それから彼は誤魔化すように、ヴィク・ザカースキーにこう問い返す。「あっ。もしかしてだけど……オレの監督役っていう人?」
「ええ、まあ、そんなところです」
 ラドウィグの質問に、彼女はそっけなく回答する。それから彼女は、そっけない自己紹介を始めた。
「アバロセレン犯罪対策部情報分析課、ヴィクトリア・ザカースキーです。ヴィクとお呼びください。なおASIが用意した仮の身分において私は、あなた“ショウ・カダット”の姉である“ヴィクトリア・カダット”となっています。その情報は一応、頭の中に入れておいてください」
 そう言いながら彼女は、履いていたチノパンの腰ポケットから財布を取り出し、その財布の中から身分証明書――ASIが偽造したのであろう、架空の身分が記された運転免許証――を取ると、それを軽くラドウィグに見せた。
 偽造された運転免許証には、ヴィクトリア・カダットという人名が記されている。それはASIがラドウィグに以前与えた偽の身分“ショウ・カダット”と同じ姓を有していた。それから運転免許証に記された生年月日情報によると“ショウ・カダット”よりも“ヴィクトリア・カダット”のほうが二年早く誕生したらしい。そういうわけで、姉ということなのだろう。
「あ、ハイ。よろしくお願いいたします」
 姉弟という設定がわざわざ定められたことを見るに、こりゃ暫く付き合いは続きそうだ。――そう考えたラドウィグは、上辺だけの愛想のいい笑顔を浮かべて、ヴィク・ザカースキーに手を差し出し、握手を求める。が、ヴィク・ザカースキーは素っ気ない態度でこう言うだけだった。
「馴れ合いはしない主義です。それから、握手を求めるなら先に手を洗ってからにして下さい」
「了解ッス」
 ヴィク・ザカースキーの指摘を受けたラドウィグは、キッチンへと向かい、そこの流し台で手をササッと洗う。それから彼は流し台の上に吊り下げていたホルダーからペーパータオルを一枚ビッと取り出すと、濡れた手をガサツに拭う。そうして役目を果たしたペーパータオルを彼はグチャグチャッと丸め、キッチンの端に設置したゴミ箱に放り投げた。
 そんなラドウィグのかなりガサツで適当な一面に、ヴィク・ザカースキーは呆れから溜息を零す――彼女も自宅では似たようなことをしているのだが。そしてラドウィグは彼女の零した溜息に、ヘラヘラとした笑顔を返した。
 それからラドウィグは、ヴィク・ザカースキーに握手を再度求める……――ことはせずに、ダイニングテーブルの上に置かれていた書類の方へと歩いていく。彼はそれを手に取ると、その内容に目を通した。
 そこにはASIが用意した偽の身分に関する設定資料がまとめられていた。カダット姉弟という架空の人物たちの経歴と職業の詳細等、事細かに記されている。
「へぇー。フリーランスのボディーガードと、それを支える弁護士の姉かぁ。父親からの虐待をサバイブした過去があって、って……――なんか、すっごい胡散臭い設定ッスね。それにASIは偽の身分に、生い立ちから経歴まで定めるんスか? 覚えるのが大変そうだ……」
 その資料にザッと目を通し、まずラドウィグが抱いた感想はそれ。するとそのラドウィグの言葉に、ヴィク・ザカースキーは冷たい言葉を返す。「設定に関する苦情なら、私でなくジョンソン部長にお願いします」
「いや、今のは別に苦情ってわけじゃ……」
 馴れ合いはしない主義であること、それはラドウィグとしては一向に構わないことだし、寧ろ有難いとすら思うのだが。しかし取り付く島がなさすぎるのは、それはそれで困る。姉弟という設定がある以上、もう少し柔らかい態度を取ってくれないか……とも、ラドウィグは思わなくもない。
 だがラドウィグの方も、別に彼女と深い仲を構築したいわけでもなかった。相手が冷たい態度を取るなら、それはそれでいっか、と彼はドライに切り捨てる。
「――わっかりまーした。苦情はジョンソン部長に入れときまーす」
 苦情など入れる気もないのだが、とりあえずラドウィグはそう言っておく。彼は再び視線をつまらない資料へと移し、その内容を読み進める作業を開始した。彼は学生時代に身に着けた速読技術で、パパパッと文字列を目で追い、架空の人物“カダット姉弟”に関する要点だけを頭に入れていく。
 シドニーのスラム街で生まれ育った二人。二人の母親は、父親から振るわれる暴力を苦に家を出て失踪、それは姉が五歳で弟が三歳のときであるらしい。それから必死の努力を重ねて、姉はロースクールに進学し、弟は空軍に入る。そして姉は弁護士となり、弟は特殊部隊の隊員となった。――が、弟のほうは肘の怪我を機に退役し、その後フリーランスのボディーガードへと転向。姉も個人で活動する弁護士へと転向し、今は弟のサポートに回っているとか、なんとか。
 胡散くさすぎて、説得力が今一つない設定だ。こんなのをASIは本気で作ったのだろうか? それとも、裏社会はこんな連中がゴロゴロいるもんなのか?
「…………」
 そんなことをゴチャゴチャと考えつつ、ラドウィグが資料を読み進めていると。帰り支度を終えたヴィク・ザカースキーが、キャメルの外套を羽織りつつ彼にこう言う。
「今日のところは、これで。猫が家で待ってますので、それでは」
 それに対しラドウィグは「うっす~」と軽く返事をするだけ――彼女の方が干渉を望んでいなさそうなので、彼は敢えてそのような軽い態度を取っていた。そしてヴィク・ザカースキーもラドウィグの返事を気に留めることなく、サササッと足早に立ち去る――……かと思われたのだが。
 外套を着て荷物を持つと、ヴィク・ザカースキーは玄関に通じる廊下へと出て行ったのだが。彼女は何かを思いとどまり、リビングルームに引き返してくる。それから彼女は、猫目を細めて資料と睨みあっているラドウィグを見ると、彼に声を掛けてきた。「――あの、そういえばなんですが」
「……?」
「この家。キャットタワーひとつと、犬と猫用のベッドが一個ずつありますけど。犬や猫をあなたが飼っているという情報は聞いていないのですが、何かそのような動物を飼育しているんですか?」
 ヴィク・ザカースキーがズバッと突っ込んできたのは、ラドウィグが出来れば突っ込んでほしくなかった事柄だった。
 キャットタワーは、白猫パヌイのためにアレクサンダー・コルトが勝手に設置したものだ。ペット用のベッドは、ラドウィグが購入したもの。白猫パヌイのものと、神狐リシュのものがある。そう、これらはペット用の製品であり、ペット用のものではない。三次元生物とは違う世界に生きているモノが使っているのだ。
 昼にテオ・ジョンソン部長に神狐リシュの存在がバレてしまったように、もしかしたら彼女にバレるのも時間の問題なのかもしれないが。まだ踏ん切りが付いていないラドウィグは、ここで嘘を吐くという選択をする。神狐リシュや白猫パヌイ、そして偶々この日ここを訪れていた白獅子ウィクの存在を隠すために、彼は苦しい言い訳を取り繕った。「い、いや? オレは、そういうの特に飼ってないよ。あれは、なんつーか、その……元からこの家にあったヤツって感じ? この家に越してきた時には、ここにあったんだよ、あれ」
「そうですか。しかしナイトレイという局員が、過去に何かしらの動物を飼っていたという話も聞いたことが無いのですが」
「じゃあ、その前の局員じゃないッスか?」
「それにしては、キャットタワーもといペット用のベッドは、随分と新しいものに見えますが。埃も被っていませんし、使い古された形跡も然程ありませんし、それに――」
「とッ、とにかく、オレじゃないッスよ、あれを置いたのは。第一、日中はずっと家を空けてるってのに、そんなヤツが動物なんて飼えるわけないじゃないッスか~」
 そう、彼は三次元生物など飼育していない。小動物に似た姿をした神族種、ないし天使というものと共同生活を送っているだけだ……。
 ラドウィグはそう自分自身に言い聞かせながら、ヴィク・ザカースキーから掛けられている疑惑を晴らそうとした。が、ラドウィグのどうにも演技じみた態度に、ヴィク・ザカースキーは眉間に皴を寄せていく一方――ラドウィグが何かを必死に隠そうとしていることを、ヴィク・ザカースキーは察しとっていたのだ。
 けれども彼女には、ラドウィグが何を隠しているのかはまだ予想できなかった。ゆえに彼女は追及をせず、黙って家を出て行くという選択をする。
「…………」
 出て行く彼女を特に見送ることはしないラドウィグは、ダイニングテーブルの傍から離れない。彼はただ遠ざかっていくヴィク・ザカースキーの足音に耳を澄まし、玄関ドアが開閉する音を聞いていた。そうして出て行った彼女が玄関ドアを施錠し、アパートから去っていったあと。ある程度時間が経ってからラドウィグはドッと肩の力を抜き、へなへな~とその場に座り込む。
 するとラドウィグの傍に、二匹の猫――空を飛ぶ白猫と、ホワイトライオン――が寄ってきた。
『お前ってヤツぁ、相変わらず演技がヘッタクソだなぁ……。ありゃ絶対に疑われてんぜ?』
 のそりのそりと歩く大きなホワイトライオンは、ラドウィグに向かってそう悪態を吐く――心なしかその荒っぽい口調は、アレクサンダー・コルトのそれと若干似ていた。金色の瞳で糾弾の視線を送りつけてくるホワイトライオンは、ラドウィグの傍に近寄ると、そこに巨体を伏せさせる。
 そして一歩遅れてやってきたのは、背から鳥の翼を生やした白猫パヌイ。宙をゆったりと滑空する白猫パヌイは、ホワイトライオンの大きな背の上に着地すると、そこで香箱座りを決め込んだ。それから白猫パヌイは目を細めつつ、ラドウィグをジーッと見ると、珍しくチクリと刺すようなことを言ってきた。
『どうせ、いつかバレることニャのに。下手ニャ嘘を吐くほうが却って不自然なのニャ、正直に打ち明けるべきだったのニャ。……さっきの彼女、絶対にルーのこと疑ってるのニャ。明日、彼女はきっとこの家のアチコチをほじくり返すに決まってるのニャ~』
 神狐リシュの影響を受けたせいか、最近はラドウィグのことを“ルー”と呼ぶようになった白猫パヌイは、厭味ったらしい口調でニャーニャーとラドウィグに言ってきた。
 演技が下手だの、下手な嘘を吐くなだのと、散々な批評を受けるラドウィグは、もはや苦笑うことしかできない。彼にもその自覚はあったので、反論するようなことはしなかった。
 演技が下手だということ。それは彼が子供のころからずっと、ねちっこく神狐リシュに言われていることだし。先ほどの下手な嘘は、本当に吐く必要があったのかは疑問だ。もう神狐リシュの存在はテオ・ジョンソン部長にバレてしまっているのだから、その部下であるヴィク・ザカースキーの知るところになるのも時間の問題だというのに。
「だろうねぇ。家の中、荒らされそう」
 白猫パヌイの嫌味に、ラドウィグは溜息まじりにそう言葉を返しつつ、再度この家の中をざっと見渡す。
 この家に越してきて数か月が経ったが。ほぼ寝に帰るだけの家である以上、家の中にあまり生活感はない。……いや、家の中に生活感はあるが、それらは前の住人が遺したものだ。ラドウィグの痕跡は、買い足したハンガーラックと吊り下げたスーツやシャツの他には、ここに殆ど無い。
 ラドウィグの私物は、窓辺の一角――かつてはそこにパキラという観葉植物が置かれていたが、ラドウィグがこの家に越してきてすぐにその観葉植物は枯れてしまった為、処分した。前の住人が遺したもので唯一、ラドウィグが処分したものがそれである――にその全てが纏められている。必要最低限の衣類、ASIから支給されたタブレット端末およびその付属品、剃刀とその関連品、それだけ。
 それら私物は、開けっ放しになったキャリーバッグに適当に詰め込まれている。それはまるで、いつでもこの家から立ち退ける準備が出来ているかのようで……――どこか物悲しくなる光景だ。
「まっ、見られて困るようなものは幸いにも無いんだけどさ。オレの私物は、そこの一角にあるものが全部で、他は前の住人のものだし……」
 虚しい有様のキャリーバッグを見つめつつ、ラドウィグがそう呟くと。彼の足許に伏せたホワイトライオンは、こんなことを毒突いてきた。『女に見られて困るようなものを持っていない男なんて、そうそう滅多にいないぜ? お前とて、一つや二つはあるだろうに』
「いいや。前の住人にはあったのかもね、そういうの。でも、オレには本当に何もないんだよ。そこのキャリーバッグの周辺に散らばってるのが、オレの持ってるものの全てだから。っていうか……」
『おう、どうした?』
「――見られて困るものって、具体的に何? 高校の卒業アルバムとか? あれならもう燃やして捨てたし、それ以外には特に思い浮かばないっつーか……」
『おいおい、マジかよ。本当に何も無いってのか?』
 男なら一つや二つは持っているだろう、女性に見られては困るもの。……それなりに俗世と交わっている人間なら、ホワイトライオンが言わんとしていることがスッと分かりそうなものだが。ラドウィグには一切ピンと来ていない様子だった。
 それも仕方がない。ラドウィグはそもそも人間に興味を抱いていないのだから。
「……えっ。逆にウィクは、オレに何を求めてるの……?」
 ラドウィグが困惑したような視線をホワイトライオンに送りつければ、ホワイトライオンは退屈そうにラドウィグから視線を逸らし、不貞寝を決め込む。こりゃダメだ、話が通じない……というように、見切りを付けられてしまった感じだ。
 そんなホワイトライオンの態度に、ラドウィグは少しだけ機嫌を損ね、唇をへの字に結ぶ。よく分からないことを要求され、よく分からないことで見切りを付けられ、結局それの原因が“よく分からない”まま終わったのだから、これほどまでにモヤモヤすることもないだろう。
「…………」
 しかしホワイトライオンの返答はない。答えを得ることを諦めたラドウィグは、再び資料へと視線を移した。――のだが、そのとき昼間に聞いた「ASIなんて組織に所属している時点で、プライバシーなんてものは存在しない」というテオ・ジョンソン部長の言葉が、彼の中でふと蘇る。
 それはテーブルの上を見ていた時に思ったこと。――先ほど出入りしていたのは、よく知りはしないが情報局の局員であることは確実だ。となると、盗聴器といった何かしらの機器を仕掛けていたのでは……?
「さっきのASIの人、家の中に盗聴器とか仕掛けてたりした?」
 ホワイトライオンの背の上で香箱座りを決めている白猫パヌイに、ラドウィグはそう訊ねる。すると白猫パヌイは欠伸をひとつした後、質問に対してこう答えるのだった。『そういうのはなかったニャ、安心するのニャ。あの人、ず~っと料理をしてただけなのニャー』
「そっか。なら良かった」
『だから冷蔵庫に、食べ物がいっぱい入ってるのニャ。全部、美味しそうな匂いがしてたのニャ~』
「そうなんだ。そりゃ楽しみだね」
 料理をしていただけ。それを聞いてラドウィグは安心をする。盗聴器の類も設置されていないなら、安心して奇妙な仲間たちと会話もできるだろうと思えたからだ。
 すっかり安心しきったラドウィグは、いつもの能天気野郎に戻っていた。最近彼が食べたものと言えば、すきま時間にサッと食べ終えられる軽食や、手間いらずでサッと完成する冷凍食品ばかりが続いていた為に、久々の『誰かが作ってくれた手料理』に少しばかり浮足立っていたのだろう。
 そうして何も考えずにラドウィグが冷蔵庫へと向かい、そのドアを開けたとき。真っ先に目に入ってきたのは、中段手前に置かれたグレービーソースの掛けられた牛肉の塊――ローストビーフだ。
「わー。このローストビーフ、すごく美味しそ~」
 ローストビーフを見て、感じたことをすぐに口からドボドボと零したラドウィグだったが、その後すぐに彼は考え直し、そして後悔をする。それは彼が、あることに気付いたからだ。
 神狐リシュのために、マダム・モーガンが買ってきてくれた高級ビーフ。脂身が少なく、上等な赤身がギッシリと詰まった歯ごたえのある牛肉。それが冷蔵庫から消えていた。……多分だがその牛肉は、ローストビーフに姿を変えてしまったのだろう。つまりこれは、神狐リシュの今日の夕食と明日の朝食が無くなってしまったことを意味する。
「…………」
 あの牛肉の包みに、『この肉には手を付けないで!』といった注意書きでも書き残しておけばよかった……。
 そう悔いるラドウィグは罪悪感と共に、中型犬用のふかふかベッドで眠っている神狐リシュを見やる。眠りを邪魔するのは気が引けたが、しかし親しい間柄の相手に対して隠し事を作るのはもっと嫌だったラドウィグは、思い切って牛肉の件を神狐リシュに打ち明けることにした。
「あーっと、そのー。リシュの、あの牛肉さぁ。生肉じゃなくなったけど……――リシュも、食べる?」
 すると、神狐リシュは顔を上げた。少しだけ口を窄ませる神狐リシュは、どことなく不機嫌そうである。そんな神狐リシュに対し、ラドウィグは気まずそうな笑顔と共に、冷蔵庫から取り出したローストビーフを見せた。
 神狐リシュが、どんな嫌味を連ねてくるのか。それを警戒していたラドウィグだったが、しかし神狐リシュは嫌味の一つも発しない。
『…………』
 神狐リシュは一〇秒ほどローストビーフを睨んだあと、何も言わず、また眠りに戻っていった――これは不貞寝であり、神狐リシュは相当ショックを受けている証拠だ。
 しょげる神狐リシュの様子に、ラドウィグは申し訳なさを覚える(彼自身が、神狐リシュに対して何かをしたわけではないのだが)。だが、そんな神狐リシュを茶化す者が現れる。
『ハッ! そこのお狐様は日ごろの行いが大概に悪いからなぁ? 時司の女神から天罰が下ったんじゃぁねぇのか』
 そう言い、ニヒヒと笑うのはホワイトライオンのウィク。人の悪そうな笑い方や喋り方は、どこまでもアレクサンダー・コルトにそっくりである。
 そんなホワイトライオンの皮肉に、普段の神狐リシュならとっくに噛みついているところだが。不貞寝を決め込み、何も言い返さない神狐リシュの様子を見る限り、今はそんな元気もないらしい。
「明日は非番だし、近所のスーパーで代わりになりそうなやつを探して買ってくるよ。とはいえここいらのスーパーじゃ、安い人工培養肉しか置いてないだろうけど、それで良ければ……」
 リシュを哀れに思い、ラドウィグはそう声を掛けたのだが。しかし拗ねる神狐リシュは何も反応を返さない。神狐リシュの人工培養肉嫌いを知っているラドウィグは黙り込み、神狐リシュと関わるのを止めた。
「それじゃ、オレはシャワー浴びてくるよ」
 そう言うとラドウィグは着替えを取り、シャワールームへと向かっていく。それに対し白猫パヌイとホワイトライオンは、尻尾をパタンと振って返事をするのだった。


Coming soon......


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