ジェットブラック・
ジグ

ep.03 - Hate begets hate.

 時刻は夜の一〇時半すぎ、マンハッタンの某所にて。紅茶を嗜みながら、アルバのひどい昔話をアストレアが聞いているとき。インド洋と太平洋の狭間のあたり、南半球の海の上に浮かぶ大陸では、随分と顔色を悪くした若い男が項垂れていた。
「…………」
 時刻は、マンハッタンよりも約十四時間進んで昼の正午すぎ。場所はキャンベラ首都特別地域、ASIことアルストグラン秘密情報局の本部にほど近いアパートの一室。そこで肩を落としていたのは、猫のような縦長の瞳孔を保有する目の持ち主である若い男、ラドウィグである。
 アバロセレン技師を経て、ワケあって特務機関WACEのエージェントとなり、現在は色々あってASIに所属しているラドウィグという青年は現在、かつての上司であるイザベル・クランツ高位技師官僚を守るボディーガードをやっている。そして彼は多忙を極めるイザベル・クランツ高位技師官僚と共に、毎日忙しく各地を駆け回っている――はずであるが。この日の彼は休日でないにも関わらず、仕事を休んでいた。というか、サボったのである。
 理由はひとつ。燃料が足りていない彼は、力が出ない状態に陥っていたのだ。
 とある理由によりラドウィグは、平均的な成人男性が一日に必要とする摂取カロリー量のおよそ三倍にあたる量を、一日に必要としている。異様にカロリーが消費されやすく、すぐに燃えて消えてしまう体質ゆえに、たった一日ほど食事をまともに摂らない日があっただけで、この調子である。
 今の彼は、寒くて動けないのだ。しかし外の気温がとても低いわけでもないし、彼が風邪を引いているわけでもない。だが寒くて、動けないのだ。ソファーから、立ち上がれないのである。朝はなんとか職場に連絡を入れ、どうしても休ませてほしい旨を伝えられたが。あれで力を使い果たして、かれこれ六時間はこのままの姿勢で固まっている。
 するとそんなラドウィグの足元に、畳まれた毛布を背中に乗せた白猫がやってくる。そして猫は、猫のようにニャーと主人に鳴いて、挨拶をするのだ――その鳴き声に、特定の人物にしか理解できない意味を乗せて。
『ニャーが、毛布を持ってきてやったニャー。被るといいのニャー』
 一人称には「ニャー」を使い、そして語尾にも「ニャー」を付ける、ニャーニャーとうるさいその猫もどきの背中から、ラドウィグは毛布を受け取る。よろよろと、どうにも危なっかしくて弱々しい挙動で、ラドウィグが猫の背中から淡い水色の毛布を取りさらうと。毛布の下から見えた猫の背中には、折りたたまれた白い鳥の翼が生えていた。
 鳥の翼を持った白猫、パヌイ。無論、これは普通のネコではない。海鳥の影ギルや、黒狼ジェドなどの“神器と呼ばれる道具に備わっている、自律型インターフェイスのような意識体”またの名を“天使”という連中と、同じ括りの存在だ。生命体である、とは断言できないその不可思議な存在は、取り敢えず今はラドウィグに仕え、彼と共に行動をしている。
 そんなこんなで、彼らしくない弱々しい姿を見せているラドウィグに、白猫パヌイはすっかり驚いていた。人は一日食事を抜いただけで、こんなに弱ってしまうものなのか、と。……ラドウィグが普通の人間ではなく、例外であるということはさておき。
「……パヌイ……ありがとう……」
 すっかり弱り切っている様子のラドウィグは、耳を澄ましてやっと聞き取れるような小さな声で、白猫パヌイに毛布のお礼を伝える。そうして毛布を肩に被り終えると、またラドウィグは固まり、何も動作をしなくなった。そんな調子のラドウィグに、再び白猫パヌイは声を掛ける。
『安心するのニャー。ニャーが、モーガンに諸々を頼んでおいたからニャー。もうすぐ彼女が来るはずなのニャー』
 モーガン。まさかの名前が、白猫パヌイから飛び出してきた。そのことに驚いたラドウィグは、それまで半開きだった瞼をカッと見開かせ、足許でちょこんとお座りを決めている白猫パヌイを凝視する。
 あのマダム・モーガンに、諸々を頼んだだって? ――そのことに仰天するラドウィグは、視線でのみ白猫パヌイに訴えるが、まだ人間と関わり始めて日が浅い天使には、主人の視線が意味するものが何であるのかがサッパリ理解できていない模様。愛らしい小さな顔をかたむけさせ、小首をかしげる白猫パヌイは、ラドウィグの視線に対して、意味が分からないと訴える視線を返す。
 目で訴えても通じないなら、言葉を使うしかない。そう考えたラドウィグは、だるい体に残された力を振り絞り、口を開いた。
 その瞬間だった。背後に人が現れたような気配を彼が感じた直後、ラドウィグの背後から前へ、ニョキッと女性の腕が伸びるように出てきたのだ。そしてラドウィグの中途半端に開かれていた口に、その女性の手はハンバーガーをねじ込み、押し込む。白猫パヌイの言葉に驚き、更に唐突過ぎるハンバーガー攻撃を食らわされたラドウィグは、混乱と気怠さからまたもフリーズしてしまった。
 すると固まるラドウィグの頭の上から、白猫パヌイに雑用を頼まれてやってきたマダム・モーガンが、彼に対して声を掛けた。
「サプラーイズ♪」
 そうしてラドウィグの頭の上からひょっこりと顔を出し、上からハンバーガーを口に突っ込まれているラドウィグの顔を、にんまりとした笑顔で見下ろすマダム・モーガンだったが。ハンバーガーをくわえた顔で硬直しているラドウィグのひどい顔色を見るなり、笑顔を消す。それからマダム・モーガンは蒼褪め顔のラドウィグの額に触れながら、こんなことを言った。
「あらまぁ、ラドウィグ。あなた、予想以上に顔色が悪いわね? それにおでこも……なんて冷たいのかしら、まるで氷じゃないの……」
 氷のように冷たいラドウィグの額から手を離すと、マダム・モーガンはソファーの外周を回り、ラドウィグの背後から、ラドウィグの正面へと移動する。そんなマダム・モーガンの両腕には、五袋ほどの大きな紙袋がぶら下がっていて、どの袋も中身はパンパンに詰められていた。
 そしてマダム・モーガンは、ソファーの前に設置されていた、足の高さが低いテーブルの上に、次々と紙袋を置いていくと。三つの紙袋から中身を取り出し、それをラドウィグの前に並べていく。その傍らで彼女は、まるで独り言でも呟くように、一方通行な会話を展開していった。
「ミスター・ペイルから、あなたの体に関する情報は聞いてるわ。エネルギー消費量が異常に多い、っていうことをね。それで、ASIのコリンズ長官に話を付けておいたから。今後あなたの食費はある程度、ASIが負担してくれるそうよ。代わりに純粋な給与のほうが大幅に削られることになったけど、あなたには食費のほうが大事でしょう?」
 ラドウィグは無心、および無言で口を動かし続け、マダム・モーガンにより口の中に突っ込まれたハンバーガーを噛み、そして呑み込んでいく。味わっている余裕など、今の彼には無かった。牛肉が使われているということから、これは酪農および畜産が禁止されているアルストグランのものではないなということは分かったし、美味しいと感じているが、それ以上の感想は何もない。
 ラドウィグはハンバーガーを無心で食べ続けながら、マダム・モーガンの話を流し聞き、マダム・モーガンが次々とテーブルに並べるハイカロリーな食べ物たちを見つめるだけ。今の彼は、より多くのカロリーを摂取することにのみ焦点を合わせていた。
「ASIのほうも、ボディーガードとしても優秀であり、且つクランツ高位技師官僚のハンドルを唯一握れる、あなたという便利な人材を台無しにしたくないそうだから。最大限の配慮はするって、約束してくれたわ。だから当面の間、心配は無用よ。それに私も、何か美味しそうなものを見つけたら、あなたに差し入れするようにするわ」
 極厚のバンズで極厚の牛肉を挟み、レタスが飛び出ていて、チーズも外に漏れだしている特大ハンバーガーが、二つ。五リットルのバケツに入ったフライドポテトが、一缶。二十五ピースのフライドチキンが入った箱が一つ。二五〇ミリリットルほどのカップに詰められたシーザーサラダが、八カップ。……今のところ、テーブルにはこれだけの量が並んでいる。これでも十分、圧巻な景色だが、まだまだマダム・モーガンが持ってきた紙袋の中には、食べ物が詰まっているようだ。
「私の記憶が正しければ、あなたが一日必要とするカロリー量は、九〇〇〇キロカロリー前後よね? それで、今みたいなエネルギー不足状態だともっと必要になるって聞いた覚えがあるけど……――まあとにかく、ハイカロリーそうなのを買い集めておいたわ。熱量の計算とかそういう話は、おばーちゃんにはもうサッパリだから。もし足りなかったら、教えて。もっと買ってくるから」
 こんな量を、ラドウィグは食べきれるのか? ――無論、彼自身にもその自信はない。大食いに自信がある人々でさえも、マダム・モーガンが持ってきたこの量にはきっと目を疑うだろうし、手を付けるよりも前に胃袋が「やめてくれ!」と悲鳴を上げるだろう。こんな量、普通なら中規模のパーティー会場に用意されたケータリングでしか見かけないはずだ。
 しかし、彼の場合は食べなければならないのである。食べきれるかどうか、ではないのだ。食べきらなければならないのだ。そうしなければ、後に響く。なるべく迅速に体力を取り戻すには、食べるしかない。食べることに、集中しなければ……――
「その昔、オーストラリアといえば、オージービーフだったのに。牛が出すメタンガスが地球環境に悪影響を及ぼすとかで畜産が禁止されて以降、すっかり牛肉文化も廃れちゃってねぇ。遂には牛よりも、カンガルーやコアラのほうが数が多くなっちゃって。挙句にここ最近のアルストグランの人々といえば、人体改造がお盛んでして、ついには胃袋まで取っちゃうようなイカレぽんちが大勢現れて……――薬局は増える一方、食料品店や飲食店は軒並み減ってるし。この量の食料を掻き集めるのが大変だったわぁ。だから、諦めてシカゴに行ってきたのよ」
「…………」
「なぁーんでシカゴに行ってきたかというと、シカゴといえば肉だからよ。肉と魚肉。そして魚のピザ。あぁ、そうそう。ピザも買ってきたわよー。ケイが太鼓判を押してた、老舗のヤツだし、それに私も食べたことがあるけど、このピザは本当に美味しい。あなたも気に入ると思うわ」
「…………」
「そうね。そういえば、シカゴといえば、ケイの故郷……。あと、アーサーが唯一近寄らない場所でもあるわね」
「…………」
「ケイとアーサー、あの二人といえば異様に仲が悪かったわよねぇ。アーサーはケイのことを『何かにつけてシカゴ、シカゴとうるさい野蛮人』って嫌ってたし、シカゴについては『ナマズくさいドブ川の街』と酷評してたし。ケイのほうも『腐れケルト野郎』だの『ヴァイオリンに頭をぶつけて死ね』だの、アーサーに対して言いたい放題で。出会いたての頃の二人は、まあ酷かったわ。そのうちアーサーは無愛想になって、業務連絡の他には何も言わなくなったし。ケイは、そもそも喋れなくなって、それで自然と静かになったけど。あの当時は、アイリーンと私とで、あの二人の言い争いを停めるのでアタフタしてたわねぇ」
「………………」
「……あぁ、そうだった。あの男の名前はもうアーサーじゃないのよね。アルバ、か」
 マダム・モーガンの独り言が続く。そしてマダム・モーガンは、ついに紙袋三つに入っていた食べ物を並べ終える。テーブルの上には、吐き気が催されるほどの量のハイカロリーなものが並べられていてた。
 だが、紙袋はあと二つ残っている。こちらも、満杯だ。
「…………」
 口に突っ込まれた分のハンバーガーを食べ終えたラドウィグは、マダム・モーガン曰く「ケイが太鼓判を押していた」という魚のピザに手を伸ばす。それと同時に、残る二つの紙袋を不思議そうに見ていた。するとラドウィグの視線に気づいたマダム・モーガンは、まだ中身の詰まっている紙袋二つのうちのひとつの中を、ラドウィグに見せた。
 その中には茄子やトマト、ジャガイモといった野菜と、サイコロ状に切り落とされた鶏もも肉が詰め込まれていた。そしてマダム・モーガンは言う。
「流石に、ジャンクフードばっかりってわけにはいかないでしょう? それに、久々に手料理を作るってのも悪くないと思ったのよ。それでキッチンを借りたいんだけど……ところであなたって、自炊したりする?」
 自炊をするのか、というマダム・モーガンの質問に、ラドウィグは首を縦に振って「自炊する」と答える。するとマダム・モーガンは、ほっと胸をなでおろした。
 ラドウィグが自炊をするということは、この家には必要最低限の調理器具が揃っているということであり、それは調理器具の買い出しに出かけなくて済むということを意味するからだ。どうやら彼女は、これ以上の買い物を今日はしたくない様子。
 しかし念には念をと、マダム・モーガンはキッチン周辺を漁り始め、必要な調理器具があるかどうかのチェックを開始した模様。そんな彼女は底の深いテフロン鍋をガサゴソと引っ張り出しながら、ある懸念事項をボソッと呟く。
「……でも前にマクルーバを作ったときには、ミスター・ペイルに『砂利を食ってるみたい』って言われたし。どうしよう、上手く作れる自信が無いわね……」
 砂利を食ってるみたいな味。そんなことをボヤくマダム・モーガンの声に、ピザを貪るラドウィグは当然、不安感を覚えた。そんなものは流石に食べたくはないと、彼は思ったのである。だがすぐに、彼は考えを改めた。というのもマダム・モーガンの手料理に対して『砂利を食ってるみたい』とコメントを付けた人間に対して、ラドウィグは思うことがあったのだ。
 ペルモンド・バルロッツィといえば、味覚音痴で有名だった。というか、本人が「自分には味覚がない」ということを公言していた。それに思い返してみれば彼は、何を食べても『砂利を食ってるようにしか感じない』としかコメントをしなかったはず。となれば、マダム・モーガンの手料理自体には何ら問題がなかった可能性もあるのだ。
「でもバルロッツィ前高位技師官僚って、何を食べても『砂利みたい』としか言わなかったはずですよね?」
 思いついたことをポツッとラドウィグが言うと、マダム・モーガンははたと手を止め、ラドウィグをじっと見てきた。口を半分開けて、唖然としている彼女はどうやら『ペルモンド・バルロッツィは味覚音痴である』という情報をすっかり忘れていたようだ。ラドウィグの指摘を受け、彼女はたった今そのことを思い出したらしい。
 だが、その驚きも一瞬のこと。切り替えの早いマダム・モーガンはニヤりと微笑み、敢えてラドウィグの不安感を煽るようなことを言う。
「だからって私の料理の腕が鈍ってないとは、限らないわよ? 私が母親から料理を教わったのも、かれこれ二二〇〇年ぐらい前のことだしね」
 マダム・モーガンの手料理は上出来もしくは普通の出来だったが、ペルモンド・バルロッツィがその味を不幸にも感じられなかった可能性はあるし。マダム・モーガンの手料理はどうしようもないぐらいにマズかったが、幸いにもペルモンド・バルロッツィは何も感じなかったという可能性もある。……まあ、どちらにせよ。実物が出てくるまで、ラドウィグには判断のしようがないだろう。
 すると、途端に表情が曇ったラドウィグの顔を見て、マダム・モーガンは嬉しそうに笑う。彼女はラドウィグに対して、こんなことを言った。
「喋れるだけの元気は出てきたみたいね。ひとまず、良かったわ」
「……あっ。言われてみればたしかに、そうっスね」
「さっ。あなたはどんどん食べて、エネルギーを補充しなさい! 明日からまた、ハードワークが始まるんだから」
 そんなこんなで、マダム・モーガンは久々の手料理に興じ、ラドウィグは目の前に並ぶジャンクフードを貪り食らう。少しずつ温まり始めたラドウィグの膝の上では、白猫パヌイがいつの間にか丸くなって眠っていた。
 ――……そして。ラドウィグの仮住まい、そのリビングを見渡せるバルコニーの欄干には、一羽のカラスが留まっている。そのカラスは首をキョロキョロと動かしながら、ラドウィグを見て、マダム・モーガンの様子を伺っていた。そしてマダム・モーガンが自分に気付いていないと分かるやいないや、汚らしい声で“こちら”に向けてしゃべりかけはじめる。
「そーいやァヨォ、(おい)ちん、似たような台詞を聞いたことがあンだゼ。ケケケッ」
 カラスが“何か”に向かって、そう話しかけた瞬間。ケケケッという耳障りな嗤い声にマダム・モーガンが反応する。そうしてバルコニーの手すりの上に留まっているカラスを見つけるなり、マダム・モーガンは不機嫌そうに顔を顰めさせ、カラスを睨みつけた。
 するとカラスは、バサバサと大袈裟に翼をはためかせたあと、飛び去っていく。ケケケーッという癪に障る嗤い声だけが、後に残されていた。


+ + +



「あの子も、我が家に慣れてくれたみたいね。ひとまず、良かったわ……」
 そんな声が、ドア越しから微かに聞こえてきた。それは夕方ごろのエローラ家でのこと。リチャード・エローラ医師に対して、彼の妻であるリアム・エローラが零した安堵の声だった。続けて、リアム・エローラは言う。
「そうだ、夕食はいつもより多めに作ろうかしら?」
 それは良いね、と言葉を返すリチャード・エローラ医師の声も、ドア越しから微かに聞こえてくる。
「リアム、私にも何か手伝えることはあるか?」
「気持ちだけ、有難く受け取っておくわ。でもあなたは、何もしなくていい。却って私の仕事が増えるだけですもの」
「ハハハ……こりゃ手厳しい」
「だって、あなたのやることは料理じゃなく、科学の実験ですもの。ね?」
 それは仲睦まじい夫婦の間にある、なんてことない会話の一幕だったが、その話をドア越しに聞いていたシルスウォッドは、エローラ夫妻に対して申し訳なさを感じていた。
 耳を澄まし、大人の会話を盗み聞いていたシルスウォッドの表情は徐々に曇っていき、気まずそうなものになっていく。するとシルスウォッドと向かい合うように座り、同じテーブルを囲んでいた茶髪の少女が、シルスウォッドの顔を覗き込むように見る。そしてその少女――エローラ夫妻の一人娘であり、シルスウォッドと同い年で同級生のブリジット――は、こんなことをシルスウォッドに向かって言ってきた。
(ティー)がむずかしい顔をしてるなんて、珍しいねー。宿題もぜんぜん進んでないじゃん」
 ブリジットが発した“T”という呼称は、シルスウォッドという名前の頭文字であるTに由来する。戸籍上の名前である“Thirouswadd(シルスウォッド)”にも、隠すべき本名である“Thistlewood(シスルウッド)”にも、共通している頭文字だ。
 何故、このような呼び名に至ったのかというと。それはとても、単純な話で。まだ六歳になったばかりの子供には、「シルスウォッド・アーサー・エルトル」という長くてややこしい友人の名前が覚えられなかった、という理由に尽きる。なのでブリジットは、ほぼ週に三日ぐらいのペースで家に遊びに来る隣家の子供のことを、こう呼んでいたのだ。彼の頭文字を取って「T」と。
「……あー、その。今、別のこと考えてたんだ」
 まあ、呼び名のことは措いといて。
 この時のシルスウォッドは、いつものように隣家に遊びに来ていて、同じ学校に通い、同じクラスに所属している同級生でもあるブリジットと一緒に、宿題を片付けていたのだ。算数のプリントを、ふたり頭を突き合わせて「あーでもない」「こーでもない」と言い合いながら終わらせたあと。言語科目のプリントへと移ったときに、シルスウォッドはドア越しから聞こえてきた声に気を取られてしまったのだ。
 ただしブリジットの目には、シルスウォッドが浮かべていた気まずそうな表情は、「宿題の難しさに困惑している表情」と見えたらしい。それが表れていたのが、先ほどの彼女の言葉である。それに対してシルスウォッドは「別のことを考えていた」と言葉を返したが、どうやらブリジットにはその言葉は強がりに聞こえたようだ。そんなブリジットは、シルスウォッドの前に置かれている白紙のプリントを見つめながら、問い詰めるようなことを言いだし始める。
「ホントにー? わからなくて悩んでたってことが恥ずかしくて、嘘ついただけじゃないの?」
「違うさ。ちょっと意識が別のとこに飛んだだけだよ」
「えー……じゃあ、Tは今なにを考えてたの?」
 実に年相応で子供らしい、デリカシーの欠片もない単刀直入な質問。そんなブリジットの言葉に、年相応ではない精神を持つシルスウォッドは戸惑う。だって正直に答えるわけにはいかないからだ。君のパパとママの話を盗み聞きしてたんだ、と答えるわけにはいかない。
 なので彼は、ブリジットに対して別の話を語る。
「――昨日の夜、ジョンが僕のヴァイオリンを壊したんだ。ドロレス叔母さんが、僕の誕生日に贈ってくれたものだったのにさ。だから、叔母さんにどう謝ればいいのかなって。それを今、考えてた」
 パッと思いついた話を、シルスウォッドは喋ったが。不幸なことに、これは決して作り話ではない。実際に昨日の夜に起こった、作り話ではない事実なのである。
 数か月前に、シルスウォッドの誕生日祝いとして、ドロレスとローマンが贈ってきた子供用のヴァイオリン。シルスウォッドは暇なときにそれを弾いて、楽しんでいたのだが。昨晩、そのヴァイオリンを、腹違いの兄ジョナサンが木っ端微塵に粉砕してくれたのだ。
 キッカケは不明だ。そもそも兄弟の間に会話は一切無いので、喧嘩もしないし。兄弟の部屋は違うし、互いの部屋には基本的に入らないため、物を盗ったということも起こらないし。シルスウォッドがジョナサンに対して、何かをしたというわけではないはずなのだが。けれども、腹違いの兄ジョナサンは昨晩、急にシルスウォッドの部屋に押し入ってきて、シルスウォッドのヴァイオリンを破壊したのだ。ヴァイオリンを壁に投げつけて、床に叩きつけて、木片が飛び散って、母親であるエリザベス・エルトルの怒号も飛び散って……―――とにかく、理不尽極まりない話である。
 挙句、ジョナサンが起こした突然の癇癪に対して、ジョナサンの母親であるエリザベス・エルトルがジョナサンを叱りつけてみれば。ジョナサンが大泣きし始めたのだから、しようがない。

 シルスウォッドは、この家の子供じゃない!
 なのにママは、シルスウォッドにばっか……――!!
 僕には怒ってばっかりなのに!

 ――そんなことを実の息子に言われてしまえば、母親は黙るしかない。泣きじゃくっていれば、更にだ。たとえ事実誤認だとしても、それ以上は何も言えなくなるだろう。
 そして、それはシルスウォッドのほうも同様。本当のことを言えば、大事にしていたヴァイオリンを壊されたシルスウォッドのほうが泣きたい気分だったが。みっともなく泣きじゃくる腹違いの兄を前に、涙が出てくることはなかったし、理不尽に対する怒りがこみあげてくることもなかった。
 結局シルスウォッドはあの時、腹違いの兄ジョナサンに対して何も言いやしなかった。そして彼は血の繋がりのない母親エリザベスと共に、壊れたヴァイオリンの木片を集めることにだけ集中したのである。
 そういうわけで彼は、ドロレスとローマンから贈られたプレゼントだったものを、ゴミ箱に捨てた。少なからず悲しいとは感じたが、とはいえ一度壊れてしまったモノは二度と取り返せない。だからシルスウォッドは、すっぱり諦めることにした。
 壊れたものは、たかがヴァイオリン。それにおもちゃみたいなもので、本格的に音楽をやっている子供向けのもの、というわけでもなかったのだし。どうせ換えは利くのだ。そんなおもちゃが壊れるたびに泣いていては、エルトル家では生き残れやしない。
 たとえそれが、ドロレスとローマンからの贈り物だったとしても。
「……ジョンが何であんなことをしたのか、僕にはさっぱり分からない。僕は少なくとも、彼に何もしてないはずなのに」
 全く以て子供らしからぬ頭の中で、アレコレをごちゃごちゃと考えながら。シルスウォッドはまた嘘を吐く。実はもなにも、彼には分かっていた。ジョナサンがなぜ、嫌がらせをしてくるのかを。
 現在エリザベスは、血縁がない息子シルスウォッドに習い事をさせるべく、様々な教室を探している。それで最近はよく、シルスウォッドはエリザベスと一緒に外へ出かけていた。だからジョナサンは、嫉妬したのだろう。実の息子である自分を差し置いて、母親は腹違いの弟ばかり外に連れ出すのだから、ジョナサンが苛立つのはまあ当然ともいえる。
 ただし、エリザベスの行動は決して愛ゆえのものではないし、シルスウォッドを可愛がっているわけではない。彼女はただ、シルスウォッドになるべく家にいて欲しくないと考えているだけなのだ。だから彼女はシルスウォッドの放課後に習い事を詰め込み、家に寄り付かないようにさせるために、今は彼をあちこちに連れ出しているのである。
 それにシルスウォッドのほうも、家にはなるべく居たくないと考えていた。だからシルスウォッドのほうも反抗せず、大人しくエリザベスに従って、あちこちに出向いている。
 学習塾、絵画教室、子供向けの料理教室、ピアノ教室などなど……学校が休みの日には、体験とやらに連れて行かれていた。正直のところ、シルスウォッドにとって興味を惹かれるものは無く、また楽しいと思えるものも無いし、子供らしいフリをすることに疲れるばかりである。
 家に居ても疲れるし、外に出ても疲れる。そしてジョナサンは、嫌がらせをしてくる。息が詰まる生活だった。
 そんな生活の中でも、比較的くつろげる場所が、ここ。エローラ家は、幾分かマシだった。
「Tのお兄ちゃんって、みんなから『いじわるジョナサン』って呼ばれてるけど。家でもやっぱり、いじわるなんだね」
 悪意のなさそうな顔で、辛辣な言葉をしれっと言ってのけるブリジットは、良くも悪くも裏表のない少女だった。彼女は女子特有の邪悪さを微塵も持っておらず、それに非常にサバサバっとしている性格の持ち主。且つシルスウォッド程ではないにしても、どちらかといえば感情の起伏が小さいほうで、そのためシルスウォッドにとって彼女は、とても付き合いやすい相手だった。
 そんなブリジットという少女が放った言葉に、シルスウォッドは邪悪さの滲む答えを返す。「当たり前だよ。エルトル家にまともな人間なんていないんだから」
「でもTは、エルトル家の男の子だよね?」
「うん。訂正するよ。僕の他には、エルトル家にまともな人間がいないんだ」
「テイセイ……?」
「えっと……言い直す、ってことだよ。前に言ったことは間違ってたから、正しいことを言い直すね、って感じ」
「ふぅん? Tはカッコつけて、むずしい言葉ばっか使うんだから。宿題は進んでないくせに」
「別にカッコつけてるわけじゃないけど……」
 ただし年相応の精神年齢を持っているブリジットの相手に、シルスウォッドは少し疲れることもあった。そして進んでいない言語科目の宿題もまた、シルスウォッドを疲れさせる。
 言語科目の宿題は、読んだ本の感想を書くことだった。
「あー、ブリジット。なんかおすすめの本とか、ある?」
「ちょっと待ってね。えっとぉー……」
「…………」
「これとか、どう? 『かもさん、おとおり』って絵本なんだけど」
「おー、いいね。じゃあ、それにする」
 六歳の子供らしい絵本のチョイスと、感想文を書くこと。
 これはシルスウォッドを、地味に悩ませる課題である。なにせシルスウォッドは四歳の時点で、子供向けの絵本をすっ飛ばして、古英語事典を片手に携えながら、シェイクスピアを当たり前のように読んでいた子供だった。要するに、子供らしさが無い子供。しかし、彼は子供らしさを繕わなければならない。だから苦労するのだ。
 なのでシルスウォッドは読書課題が出たときには必ず、ブリジットを頼る。今のように頼めば、彼女は年相応の絵本を選んで、貸してくれるからだ。それにブリジットが先に感想を書きあげてくれれば、それを参考にして文体を真似ることができる。
「この絵本はね、本当にあったおはなしなんだって、ママが言ってたよ。私ね、この絵本に出てくる“マイケルさん”が大好きなの! あとね、子ガモさんたちが泳ぎの練習をしてる時の絵がね、私は大好きなの。それとね、大通りを渡るときの――」
 ブリジットは自分が選んだ絵本の感想を、楽しそうに語ってくれた。初めてこの絵本を読んだ時のことを思い出して、本当にうれしそうに、喋っている。そんなブリジットの話に興味があるふりをして、笑顔でシルスウォッドは聞いていたが。けれども彼が見ていたのは、ブリジットが終えた宿題の文面だけ。
 彼はブリジットの語る言葉など、何も聞いていなかった。





 結論から言うと、ラドウィグがマダム・モーガンの作った料理を気に入っていた。なので彼は、マダム・モーガンの手料理をこのように評価する。
「オレには信じられないですよ! こんなに美味しいものを、砂利みたいだって評価したペルモンド・バルロッツィの舌が、まるで理解できません!!」
「そう。気に入ってくれたなら良かったわー。おばあちゃん、嬉しっ――」
「ケイのじーちゃんが作ってくれてた料理も美味しくて、好きでしたけど。なんか、こう……ケイのじーちゃんの料理って、そこそこ値の張るレストランみたいな、小洒落たものばっかりで。やっぱ、こんな感じの家庭料理が一番しっくりきますね。美味しいです、本当に! マジで、故郷の味にそっくりなんですよ!」
「ノラ・ウェムトっていう郷土料理にそっくりなんでしょう? その話、もう三回目よ。喜ぶのは後にして、早く食べなさいな……」
 というのも、不思議なことにマダム・モーガンが作った“マクルーバ”という名のライスケーキ……というか、ややスパイシーな炊き込みご飯の味は、ラドウィグの故郷の味によく似ていたのだ。
「それにしても、おかしなこともあるものねぇ。私の滅んだ故郷の味が、あなたの滅んだ故郷の味にそっくりだなんて。それもお鍋をひっくり返して、お皿に盛りつけるところまで同じだなんて……」
 あらかたジャンクフードを食い尽くした後なのだが、それでもラドウィグの胃袋にはまだ空きがあるようで。きっと五人前はあるだろう量のマクルーバに怖気づくような素振りは見せないラドウィグは、大きな猫目をキラッキラと輝かせながら、いかに美味しいかという感想ばかりを述べている。彼の口は動いているものの、食べる口より、喋る口の方がよく動いているだろう。ただし「美味しい」という感想は事実であるようで、その美味しさに彼はやや興奮しているといったところらしい。
 そんなこんなで一休みをしているマダム・モーガンが、随分と喜んでいるラドウィグを不思議そうに見つめていると。ラドウィグのほうも少し首を傾げさせて、マダム・モーガンをじっと見つめてくる。それから彼は、こんなことを言った。
「でも、オレの母さんが作ってくれたものより、マダムのほうが美味しいですね。味が濃くて。何でだろ? ……あっ、もしかしてコンソメも入ってるんですか?」
「コンソメというか、ブイヨンね。ブイヨンスープでご飯を炊くのよ」
「なるほど~。そういえば母さんは、マガロフとケルシュぐらいでしか味付けしてなかったような……」
「マカロニと、キルシュ? えっ……キルシュって、さくらんぼのブランデーよね?!」
「あっ、えっと、あー……――“マガロフ”は、岩塩です。それで“ケルシュ”っていうのは、コーザとかヘンキとか、モーロッツとか、つまりスパイス類のことなんですよ。オレの故郷の言葉でして……」
「なんだか私の知らないスパイスの名前が、いっぱい飛び出してきたけど」
「あっ! あーっと、その、コーザはシナモンのことです。ヘンキがクミンで、モーロッツがナツメグですね、たしか」
「……あなたの故郷の言葉って、いったい何語なのよ? さっぱり見当がつかないわ」
「ジェ・シハラン、と故郷の人は言ってましたよ。こっちの言葉だと……新シアル語(シアリッシュ)、みたいな感じになるんですかね?」
 懐かしい味に、ついつい亡き故郷を思い出してしまったのか。故郷の言葉、とやらがボトボトと出てきたラドウィグに対し、マダム・モーガンは戸惑いを見せる。なにせ二〇〇〇年以上この地球で生きている彼女が、一度も聞いたことも無い言葉なのだ。どの語族に属するのかも、やはり分からない。地球外の言葉であるような気さえ、どことなくしてくる。
 まあ、それはさておき。
「あなたの故郷の話はまた聞かせて、ラドウィグ。今は食べることに集中しなさい」
 謎多き青年ラドウィグに、マダム・モーガンが頭を抱えていたのが、真昼の二時頃。一方、北米のマンハッタンでは深夜の十二時を回っていた。
「家族がクソ野郎揃いだった、っていう点を除けば。アンタとラドウィグって、なんか似てるね。彼から聞いたことがある昔話にそっくり」
 子供らしくない、子供時代の話。断片的にアルバが語った彼の昔話を聞いていたアストレアは、ふと別の男を思い出した。それがかつての同僚、ラドウィグだった。そして彼女は、言葉を続ける。
「彼、自分で言ってたんだよ。『六歳だった頃には、普通の大人よりも頭が良くなってて。だから、学舎から入学を断られたことがある』って。あと『同世代の子供とコミュニケーションがうまく取れなかった』とか」
 アストレアとしては、ただ感じたことを言っただけなのだが。ラドウィグと似てる、と評価されたアルバはやや不満そうな表情になっていた。それにきっと、同じことを言われればラドウィグのほうもムッとしたことだろう。
 というのも、だ。ラドウィグとアルバは、あまり相性が良くなかったのだ。ラドウィグの方は、アルバという男のことを「ブッ殺してやりたい」ほど嫌っているし。アルバの方も、ラドウィグという青年に対して「どうにも好かん男」と感じていたのだ。
 協調性があるようで、無い。腹の底が読めない。何を考えているのかが分からない。そして、決してバカではない。――この四点において、両者はたしかに似ている。が、二人を分ける明確な違いがあった。それが、判断基準だ。
 アルバは言うまでもなく、自分本位な男だ。自分のやりたいようにやり、周囲の環境を支配下に起きたがる。無論、誰かに支配されることを好まない。我が強い、というわけである。
 だが反対にラドウィグは、周囲を見て動くのだ。判断基準は『今、この場所ではどうすべきなのか』で、支配することは望まず、その場の空気に程よく順応する。けれど、誰かに行動をコントロールされることは好まなかったりと、こちらも変なところで我が強い。
 似て非なる、というのが正しい評価だろう。そして似ているところがあるからこそ、異なる部分がより際立つというものだし、余計に相手が気に食わなくなるというもの。
「ああ、そうだな。あの男と私は、似てるかもしれないな」
 まさに棒読みと呼ぶべきトーンで、アルバはアストレアの言葉に返事をする。そして彼の表情は不服そのものっといったところ。アルバからすれば「あのような男と、一括りにしてくれるな」というのが本音なのだろう。
 そしてアルバは不満げな表情のまま、アストレアに対してチクリと、穏やかでないことを言う。
「奴は十中八九、元老院の回し者だ。お前が聞いたという奴の昔話が、事実であるとは限らんぞ?」
「……は?」
「あの男が『故郷の言葉』だとかほざいていた言語は、元老院の連中が内々の会話において使っているものだ。あの言語についてはまだ不明な点が多いが……少なくとも人間の言葉ではないことは、たしかだろう」
「えっ。ってことは、ラドウィグは……元老院と同じ言葉を使ってたの?!」
 およそ「of」に対応すると思われる前置詞「ラー」および「ラン」。ト、ゼ、サ、ロ、グ、リ、ネ、ヤ、ク、という数字と思しきワード。元老院の扱う言語において、アルバが把握しているのはまだそれぐらいだが、これらの特徴はラドウィグが偶に口走る“故郷の言葉”とやらに共通していた。だからこそアルバは、ラドウィグという青年を怪しみ、警戒していたという側面がある。
 とはいえ、アルバは『ラドウィグが元老院の回し者』であるとは考えていない。何故ならば元老院が好むのは、ペルモンド・バルロッツィのような従順な犬であることを、アルバは知っているからだ。ラドウィグのように、自由気ままに行動するネコのような輩を、元老院の連中が好むはずがない。
 つまり今のは、アストレアを脅かしたかったがための冗談だ。
「夜も遅い。そろそろお前は寝るんだ」
「えっ、いや、ちょっと待って、ミスター。今の話はなに?!」
「忘れて、寝ろ」
 すっかりアルバの冗談に怯えて縮こまり、混乱顔のアストレアを、アルバは椅子から立ち上がらせると。彼女の背をポンッと押して、自分の部屋へと戻るようにと促す。小柄で非力なアストレアは、背の高いアルバに押されるがまま。だが彼女は口先で、アルバに対抗する。
「ちょっと、ねぇ、ミスター! ラドウィグが元老院の回し者って、どういうことなのさ?! ねぇ、だとしたら辻褄が合わないよね!? 元老院に関する知識量って、僕もラドウィグもどっこいどっこいだったけど?」
 だがアルバは彼女の言葉を、涼しい顔で聞き流すだけ。遂に玄関まで押されたアストレアはその後、アパートの寒い廊下へとポンッと放り出される。そこでアストレアは真相を聞くことを諦めて、自分の部屋に戻ることにしたのだった。


+ + +



『お前の母親の名は、ブレア・マッキントッシュ』
『お前の母親は卑しい女だ』
『お前の母親は、大勢の罪なき男たちを殺してきた』
『男たちを薬漬けにして、弱らせてから、水に溺れさせて殺したんだ』
『卑怯な手口で、お前の母親は大勢の男たちを殺してきたんだ』
 頭の中に響いていたのは、怒りに震えた父親の声だった。
『お前の血は呪われている』
『お前など、母親と共に死んでいれば良かったんだ!』
『今ここで、お前を殺してやる!!』
 それとシャワーヘッドから垂れた水滴が、バスタブに張られた冷水へと落ちていくピチャッという音。それが、絶え間なくバスルームに響いている。あと、背後から聞こえてくる女性の悲鳴。そして、焼けるような痛みが上半身を包み込んだあとに、急速に体の芯が冷え込んでいく感覚。それと暗闇……――
「――……ッド、おい、シルスウォッド?」
 シルスウォッドが目を開けたとき、そこに居たのは父親ではない。
「大丈夫か? 立ちくらみでも起こしたのか?」
 シルスウォッドの前にやや身を屈めた姿で立っていたのは、レーノン・ライミントンによく似ているが、彼よりも体格がガッシリとしている、二十代後半ぐらいの男。彼はレーノン・ライミントンの兄であり、チャールズ剣術教室のオーナーであり、フェンシングのコーチである男。ラルフ・ライミントンという人物だ。そしてラルフ・ライミントンの後ろには、剣道のコーチであるタツユキ・オオサキも居て、彼もまた心配そうな顔でシルスウォッドを見ていた。
 大人の男が二人、自分のことを心配している。この状況を引き起こしたシルスウォッドは、自分自身を恥じた。それから彼はいつものように嘘を吐き、この不快な感情を紛らわそうとする。
「……昨日の夜、ぜんぜん眠れなくて。ちょっと、フラッとしちゃっただけです」
「また兄貴から嫌がらせでもあったのか? それとも親父か?」
「まあ、そんなところです。ジョンが、ちょっと……」
「ジョンが、どうした」
「――ジョンが、僕の枕の下にムカデを仕込んでたってだけですよ。その始末に手間取って、結局寝る時間が取れなかったんです」
「ムカデだって? まったく、お前んとこの家は……――」
 それはシルスウォッドが八歳だった時のこと。結局、続いていた習い事はこのフェンシングだけ。その代わりチャールズ剣術教室の定休日である水曜日以外は、毎日ここへ通うようにと、血縁のない母親エリザベスから彼はきつく言いつけられていた。
 なので平日の放課後は、父親の秘書の一人であるランドン・アトキンソンが夜八時に迎えに来てくれるまで。休日は、朝一〇時から午後五時まで、ずっと。彼はこのフェンシング教室に入り浸り、ラルフ・ライミントンから指導を受けている。
 フェンシングのみ続いている理由は、実にシンプル。楽しいからだ。他のどのスポーツよりも、確実にフェンシングは「相手を負かした」という感覚を得られる。それが、楽しいのだ。
 そのようなこともあって、シルスウォッドはとてもコーチから目をつけられている。ただし、良い意味ではない。悪い方の意味だ。
 コーチは、弟のレーノン・ライミントンから、シルスウォッドの事情を聞かされている。エリザベスの方からも、何かしら言われているだろう。だから、シルスウォッドと父親との間にある確執や、エルトル家の問題を少し知っている。それらもあって、コーチはシルスウォッドに対して非常に気を使ってくれるが、同時にシルスウォッドを警戒もしていたのだ。
 虐待による抑圧がいずれ爆発して、それが暴力性に転じる可能性を、懸念していたのである。
「なら、今日は練習はやめておこう。少し寝ておけ。場所は、そうだな……今日、親御さんは誰も来てないし、そこの保護者用のソファーを使うといい」
 ――今のように、フラッシュバックによって少しでもふらついたり、体調が悪そうな素振りを見せれば、コーチはすぐに駆け寄ってくる。そうしてシルスウォッドに対して、「寝ろ」か「宿題でもやったらどうだ?」と持ち掛けてくるのだ。
 要するにコーチは、シルスウォッドに剣を持たせたくないのだ。
「コーチ。大丈夫です、僕はできます」
「駄目だ、シルスウォッド。万全なコンディションじゃない奴を、ピストの上には行かせられない。ましてや剣なんか持たせられるか。お前が怪我をしたら俺は困るし、お前が誰かに怪我を負わせても俺は困る。……お前は賢い、だから俺の言いたいことは分かるだろ?」
「分かります。でも」
「コーチに対して“でも”は禁止だ。俺が駄目だって言ったら、駄目なんだ。いつもの迎えが来るまで、お前はあそこのソファーで寝てろ。分かったな、シルスウォッド」
 コーチは、普段は保護者観覧席として使われているソファーを指差し、シルスウォッドに対してそう告げる。有無を言わせぬコーチの態度には、どんなクソガキも反抗はできないだろう。
「はい、コーチ」
 シルスウォッドは大人しく、コーチに従うことにする。不貞腐れるような子供らしい態度は取らず、すっぱりと諦めたように開き直ったような笑顔を浮かべて、手早く荷物をまとめて、シルスウォッドは保護者用観覧席へと向かった。
 そんなシルスウォッドの背を見送るコーチは、腕を組み、物言いたげな顔を二〇度に傾けさせている。仕事柄、多くの子供を見ていることもあり、コーチは気付いていた。
「……ムカデか。ふむ……」
 ムカデを枕の下に仕込む、だなんて嫌がらせを受けたのなら、普通の子供ならもっと参ってそうなものだが。シルスウォッドは特に強がっているというわけでもなさそうだし。なんならシルスウォッドの態度は、性悪な子供のイタズラに呆れ返る大人に似ている。八歳の精神年齢ではないということは、確かだろう。
 まあ、シルスウォッドに対して「あれは子供のフリをしてる大人だ」と感じるのはいつものこと。ただし、シルスウォッドとの付き合いも二年になるうえに、今までに大勢の子供を見てきていて、そして二児の父親でもあるコーチは、いつもとは違うことに気付いていた。シルスウォッドは、嘘を吐いていることに。
 ムカデの話は事実かもしれない。嘘かもしれない。だが、先ほどシルスウォッドがふらついた理由は、それではない。そこだけは、確実だ。
「…………」
 そして背中で視線を受け止めるシルスウォッドのほうも、コーチには思うところがあった。
 見た目も性格も“優男”と称するべき、弟のレーノン・ライミントンとはまるで違って。その兄であるコーチのラルフ・ライミントンは、質実剛健と喩えるべき男性だ。体格はがっしりとしていて、真面目で、誠実で、優しい。そんな人物である。しかし敢えて悪くいうなら、古風と言えるだろう。
 いつでも誠実であれと、彼は口癖のように言っているし。「思いやりがある」と言えば聞こえがいいものの、実際のところは「余計なお節介を焼かれている」といったところ。
 お節介焼きという点はライミントン兄弟に共通しているが、弟のレーノンが“ある一定のボーダーライン”を踏み越えないのに対し、兄のラルフは“思いやり”を盾にしてズケズケと踏み込んでくることがある、ともいえる。
 とはいえフェンシングのコーチであるラルフ・ライミントンは、いい人だ。少なくとも、シルスウォッドの実の父親であるアーサー・エルトルなんて男とは比にならない。むしろ正反対の人物だ。
 というか、実の父親と正反対の人物であるからこそ、どうにも付き合いにくいとシルスウォッドは感じてしまうのかもしれない。だとしたら、これは……――
「シルスウォッド、なにボーっと突っ立ってるんだ。お前は早く寝ちまえ」
「でも、眠くないんですよ」
「コーチに“でも”は禁止だ。それと“ですが”やら“しかし”もダメだ」
「はい、コーチ」
 後ろからコーチにせっつかれ、そこで自分の意識が一瞬どこかに飛んでいたことに、シルスウォッドは気づいた。そうして適当な返事をしながら、シルスウォッドは保護者観覧席に腰を下ろして、そこに横になった。するとコーチは満足したのか、それまでシルスウォッドに睨みを利かせていた目を、ピストの上で練習している別の生徒や、ウォーミングアップをしている生徒へと移す。
 そうしてシルスウォッドは、ひとまず寝たふりをすることにした。某有名メーカーの消臭スプレーと思しき、人工的なフローラルの芳香がするソファーに彼は身を預けて、瞼を閉じる。右前腕を閉ざした瞼の上に置いて、光を遮った。すると視界はすっかり真っ暗になる。
 寝たふりを決め込みながら、しかしシルスウォッドはあわよくば寝るつもりでいた。というか、寝たかった。だが、どうにも眠気は無い。それに視界が暗くなった分だけ、頭は冴えていた。
「あのふらつきは、ただの寝不足じゃないだろ。偏頭痛か、もしくは――」
「タツ、それは後で話そう。今は、やるべきことをやってくれ」
 剣道のコーチであるタツユキ・オオサキが、フェンシングのコーチであるラルフ・ライミントンに声を掛けていた。その声が、ハッキリと聞こえていた。
「いーち、にー、さーん、よーん、ごー、ろーく……――」
 ウォーミングアップにスクワットや腕立て伏せでもやらされているのだろう、やる気のなさそうな子供の声も聞こえる。その他にも「小手!」や「面ーッ!」と叫ぶ、剣道の生徒の声が聞こえていたし、人形を竹刀で叩きつける打撃音や、人形をサーブルで切り付ける風切り音も飛び交っていた。
 たくさんの音が、交錯していた。なんだかんだで、チャールズ剣道教室の中はうるさかった。その音に集中しているうちに、次第に頭の中が空っぽになって、そして眠くなって……――結局、寝たふりは二〇分で終わり、気付いたころには浅い眠りへと移行していた。
 そんなこんなでフェンシングのコーチに揺さぶられて、シルスウォッドが起こされたのは、いつものお迎えが剣道教室に来る時間になってから。
 剣術教室に来ていたいつものお迎え役――父親の事務所に勤める秘書の一人、ランドン・アトキンソン――はその日、すっかり蒼褪めた顔をしていた。その顔を見たとき、シルスウォッドはあることを察した。今日、学校であったことが父親の耳に入ったのだ、と。


+ + +



 父親の秘書のひとりランドン・アトキンソンが、蒼い顔をして剣術教室に来た日の朝。一時間目の授業の、冒頭でのこと。あの時、担任教諭は朝から怒り狂っていた。
「誰なの! アーティーの教科書に、こんな、こんなひどい書き込みをしたのは!」
 顔を赤くして、怒りから声を荒らげる担任教諭の手には、あらゆるページが真っ黒に染まっている教科書が握られている。あれはシルスウォッドのものであり、そして教科書を何者かに黒々と塗り潰されたシルスウォッドは、気まずさから肩を竦めて、俯いていた。
 アーティーというのは、主に学校内で使われていたシルスウォッドの呼び名。シルスウォッド・アーサー・エルトルという彼の名前の、ミドルネームを取って、そう呼ばれていた――ただし、このミドルネームは父親の名前に由来するものであり、よってこの呼称を彼が気に入ることは最期までなかったのだが。
 それはさて措き。シルスウォッドが肩を竦め、そして担任教諭が怒り狂ったのには、理由がある。これは、教科書をただ黒塗りにされただけの事件ではなかったのだ。
 教科書にびっちりと書き込まれていたのは「死ね」だの「落とし子」だの「ゴミ」だの、散々な内容の罵詈雑言。教科書の紙面は憎悪に満ちた汚い言葉で埋め尽くされ、それですっかり黒く塗り潰されたように見えていたのだ。
 そんな罵りの言葉は、どれも子供らしい汚い字で書かれていた。だから担任教諭は、クラスメイトの誰かが悪意を持って、シルスウォッドの教科書に落書きをしたと考えていたのだ。なので担任教諭は、犯人捜しをしていたのである。しかしシルスウォッドの考えは異なっていた。
 残念ながら、このクラスにはシルスウォッドと親しい友人はいない。それはシルスウォッドが、父親から「学校で誰かと親しくしてみろ、その時にはその相手の親の人生を潰して、子供もろとも破壊してやる」ときつく忠告されていて、ゆえに人付き合いを避けてきたからだ。それに、わざわざ嫌がらせをしてくるような性根の歪んだ子供も、ここにはいない。ここには健全な親に育てられた、健全な子供が多かったからだ。
 となれば、ここに犯人は居ないと考えるのが筋。だからシルスウォッドは、勇気を振り絞った。普段なら、授業中でも滅多に発言しないシルスウォッドが、意を決して立ち上がり、あのときに学校で初めて声を張り上げ、こう言ったのだ。
「――オルコット先生、ここには居ません」
 しかしシルスウォッドの訴えは、担任教諭には「誰かを庇っている」ように見えたらしい。なので担任教諭はシルスウォッドの訴えに、こう切り返したのだ。
「よく聞いて。こんな嫌がらせをする子を、あなたが庇う必要は無いのよ。だから正直に、こんなひどい行いをした子は名乗り出なさい。今すぐに!」
「だから、先生。聞いてください」
「アーティー、だから――」
「ここには居ないんです。だってこの字は……」
 右肩上がりに傾いた、ブロック体的なラテン文字。しかしブロック体のようでありながらも角張を忘れている、どことなく丸っこい文字。そして強い筆圧で、強い憎悪を込めて書かれた言葉。

 Bastard落とし子, bastard雑種, bastardクソ野郎, bastardゴミクズ,bastard死に損ない, bastardできそこない, bastard私生児……

 こんな汚い言葉を使うような子供は、そんな汚い言葉を常習的に使う大人の背中を見ているやつだ。そんな子供は、シルスウォッドの身近には一人しかいない。腹違いの兄、ジョナサンだ。
「僕の兄です。ジョナサンがやったんです。だから、この教室に犯人なんかいません。ジョナサンなんです」
 ちょうどこの頃、母親が異なる兄弟の仲は険悪になっていた。腹違いの兄ジョナサンの嫌がらせが、嫌がらせの域を超え始めていたからである。ヴァイオリンを破壊された事件なんて、可愛く思えるくらい、ジョナサンの仕打ちは悪化していたのだ。
 シルスウォッドが学校に通い始めたことを気に、世間体を気にし始めた父親アーサーが、シルスウォッドへ直接的な暴力をふるうことを止めたのだが。代わりにジョナサンが自主的に、その役目を引き継いでいたのだ。
 家の中で一瞬でも兄弟の目が合えば、ジョナサンは怒り、シルスウォッドに向かって物を投げた。始めは縫いぐるみや枕、クッション。次第にそれが、空になったホールトマトの水煮缶になり、空のワインボトルになって、今やペーパーナイフとなっている。ジョナサンが投げたものをシルスウォッドが避けられなければ、確実に死ぬ。兄弟のどちらもまだ一〇歳にもなっていないのに、兄弟喧嘩はサドンデスともいうべきものになっているのだ。
 だが父親アーサーは、子供の喧嘩など気にもしていない。むしろジョナサンの好きにさせているといった雰囲気だ。というよりも父親はジョナサンに、消し去りたい汚点を始末してほしいのだろう。もしかすると、ジョナサンの存在すら父親にとってはどうでもいいのかもしれない。
 とはいえ、シルスウォッドとは血縁のない母親エリザベスのほうは気が気でない。だからエリザベスはシルスウォッドに「放課後は剣術教室へ毎日通いなさい」と言うし、それに「剣術教室の無い日はエローラ家に行け」と言い、さらに「夕食は一人、部屋で食べなさい」と言って「寝るときには部屋の鍵を閉めなさい。そして朝にはジョナサンよりも早く起床し、家を出なさい」と言うのである。
 と、まあ。エルトル家の歪んだ家庭内事情はさて措き。つまりシルスウォッドの教科書を、悪意を以て真っ黒に塗りつぶしてくれたのは、腹違いの兄ジョナサンなのだ。
「ジョナサンって、あの……四年生のジョナサン?」
 シルスウォッドの告白に、すっかり拍子抜けした顔をして、担任教諭はそう呟く。すると一気に、教室内がざわめいたのだ。
「……ジャーク・ジョンいじわるジョナサンって、弟までいじめてるの?」
「……もしかしてアーティーが大人しいのって、ジョナサンのせいなのかな」
 ある女子生徒たちは、コソコソとそんなことを話だす。
「アーティーが喋ってるとこ、おれ初めて見たんだけど」
「なー。あいつって、あんな声してたんだな」
 ある男子生徒たちは、そうボヤく。
 教室内がざわめいていた。いつもなら向くことがないクラスメイトたちの視線が、シルスウォッドに集中していた。





 場所は戻って、シドニーのどこか。ラドウィグの住まいにて。
「そんな質問をされたのは初めてね。またなんで、私のピアスなんかが気になったの?」
 先ほど調理に使用したテフロン鍋を、泡立てたスポンジでがしがしと擦るように洗うマダム・モーガンは、ラドウィグから投げかけられた質問に疑問を呈す。するとシーザーサラダをむさぼり食いながら、もごもごと口ごもるようにラドウィグは言った。
「だって、マダムはいつも同じピアスを着けてるじゃないですか。サングラスはちょくちょく変えてるみたいっスけど、ピアスだけいつも同じだから、ずっと気になってたんですよ」
 ラドウィグが気になっていたのは、いつもマダム・モーガンの耳元を飾っているフック式のピアスだった。細長く、末広がりな台形をした金色のペンダントが三枚、チェーンで吊られているそのピアスが、マダム・モーガンの両耳に無かったことは、少なくともラドウィグが知っている限りでは今までになかった。いつも必ず、同じ金色のピアスを着けているのだ。
 そのピアスが、マダム・モーガンにとってのお気に入りであることは間違いないだろう。つまり、その……――ラドウィグは、そのピアスがお気に入りである理由が知りたかったのだ。
 するとラドウィグの奇妙な質問に対し、マダム・モーガンは答えを明かす。隠す理由は別にないと、彼女はそう判断したからだ。
「このピアスは、かれこれ半世紀ぐらい前にバーツから貰ったものよ。最後に彼と会った時に、別れ際に彼が私にはなむけとしてくれたの」
「……あ、えっと。バーツって、誰ですか?」
「バーソロミュー・ブラッドフォードよ。あなた、まさか彼を知らないの?」
「……知らないです」
英悟の鷲ワイズ・イーグルに、聞き覚えは?」
「無いです」
「――まさか、博学ボーイに知らないことがあるとは。ASIの二代前の長官で、元空軍大将だっていえば分かる?」
「うーん、説明されてもよく分かんないですけど。そのASIの前の前の長官が、マダムにそのピアスを贈ったってことですか? へー……」
 しかし、マダム・モーガンが明かした答えに、ラドウィグはさしてリアクションを返さない。そんな彼は更なる質問をマダム・モーガンに投げかけるのだ。
「多分そのピアスって、金ですよね。いったいそのバーツさんと、マダムの関係ってどんなのだったんですか?」
「ラドウィグ。プライバシーとかデリカシーってものを、あなたは知らないの?」
 威圧的な言葉を返すマダム・モーガンだが、ラドウィグはそれに対して「知らないんですよ~」と開き直ったような笑い声を返す。なにせ彼は随分前からそのピアスについて気になって気になって仕方がなかったし、答えを聞くチャンスは今しかないと感じていたのだ。
 だって、金のピアスだ。金メッキではない、金である。もしかしたら純金かもしれない。そんな金のアクセサリーを贈るような関係は……――普通なら、恋人しか考えられないのだ。
「簡単にいうなら彼は、協力関係にあった男よ。特務機関WACEのトップと、ASIのトップ同士として、上手くやってたの。当時はね。ペルモンド・バルロッツィの扱いをどうするかっていうデリケートな問題もあったし。……まあ、アーサーが全てぶち壊しにしてくれたわけなんだけど」
「協力関係ってだけで、金のピアスなんか贈りますかね?」
「だから、ラドウィグ!」
「ごめんなさい、マダム。だって気になるんですもーん」
 意地でも聞き出してやるという態度を、そこはかとなく匂わせている、ラドウィグの開き直りっぷりに、マダム・モーガンは呆れざるを得なかった。そして彼女は降参したのである。
「ええ、そう。認めるわ。個人的に仲良くしてたのよ、彼と。お互い、良い相談相手だったから」
 そのピアスは、ただの金ではない。何千年と時間が経とうが決して錆びることはない、純金だった。どれだけ年を重ねた“おばあちゃん”であろうと、こんなものを贈られたら大切にするしかないのである。
「……意見の食い違いばっかりで、言い争いばっかりしてたけど。貴重な話相手だったわ」
 とはいえ。マダム・モーガンとバーソロミュー・ブラッドフォードの関係は、恋仲では決してない。随分と年の離れた、奇妙な友人関係だったといえるだろう。それに純金のピアスをバーソロミュー・ブラッドフォードが彼女に贈った理由も、「自身に迫りくる魔の手の存在を悟りつつあった男が、今後二度と会うことはないだろう相手に、今までの感謝を伝えた」というものである。
 贐というよりも、生前に予め渡されていた形見と表現するほうが正しいのかもしれない。とはいえ純金をチョイスする感性は、なんとも憎めないものだ。
「罪な男性ですねぇ、そのバーツってひと」
 マダム・モーガンが少し恥ずかしそうにして明かした真相に、ラドウィグは茶化すような言葉を返す。するとマダム・モーガンは棘のある声で、そんなラドウィグをチクリと刺した。
「ラドウィグ、あんたは別の意味で罪深いわよ。デリカシー無さすぎるんだから」


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