ジェットブラック・
ジグ

ep.02 - Adversity makes a man dark-side.

 イングランド南部のカウンティ・オブ・ハンプシャー、その中心部ウィンチェスターの某所。パーティーが開かれていた邸宅の中に、白に近いグレーというあまり見かけない色合いをした燕尾服を着用した、白髪のアルバが佇んでいる。
「それで。先日、貴殿から受け取った小切手に関してだが……」
 邸宅の二階、この家の主の書斎。人で賑わい騒がしい一階の広間とは違い、うんと静かなその場所で、アルバは初老を迎えたぐらいな年齢の男と向き合っている。その男はこの部屋の主人であり、そしてこの家の持ち主。名をスティーブン・ワインスタインという、少しだけアルバと縁のある男である。
 つい先日まで、彼らの関係は単なる『雇用者』と『被雇用者』だった。スティーブン・ワインスタインがアルバを雇い、ある男を殺すようアルバに命じたのである。そしてアルバはサクッと仕事を終わらせ、報酬を受け取り、黙って立ち去った……――かのように思われたのだが。アルバという男はどこまでも性根が腐っている。どうせ金を受け取るならば、毟り取るだけ毟り取り、相手を破滅させてやろうと考えていたのだ。そういうわけで彼は、再びここに戻ってきたのである。
 害意しか携えていないアルバはもう一人の男を見つめて、ニヤリと笑う。そのもう一人の男、つまりスティーブン・ワインスタインは戻ってきた死神に恐れをなしていたが、しかしつまらぬ彼のプライドが弱さを見せることを許さず、かといってシラフではいられないので。スティーブン・ワインスタインは今、書斎に隠していたウィスキーにすっかり頼りきっていた。
 数週間は洗わずに放置されていたグラスに琥珀色の酒を注ぎ、スティーブン・ワインスタインはろくに味わうこともせずに、酒を胃袋へと流し込んでいく。酒に頼り、辛うじて虚勢を張っているそんな男を、アルバは哀れむように、瞳孔のない冷たい瞳で見つめていた。それからアルバは言う。
「私はあの金で、貴殿が経営権を握る軍需企業の株を空売りした。まあ、つまりだ。言いたいことは分かるな?」
「……!?」
「そういうことだ。稼がせてもらう予定だよ、私は。まっ、貴殿は大損害を被ることになるだろう。会社だけでなく財産に、最悪の場合は命までもを失うことになるかもしれないが……――私の知ったことではない」
 随分と賑やかで華やかなパーティーを開いている、スティーブン・ワインスタインだが。実は今、彼には黒い噂が付き纏う……というより、隠し持っていた黒い腹が明るみに出ようとしていたのだ。
 発端は、とある殺人事件の捜査。つまりこの男がアルバに依頼した、殺しの相談だ。その捜査の目が最近、このスティーブン・ワインスタインに向いているというのだ。しかしまだ、その噂は表には出ていない。だがそれも時間の問題だ。翌朝には一斉に、その情報が世に出されることになっているのだから。となればスティーブン・ワインスタインが経営権を握る企業の株価が暴落するのは、目に見えているようなもの。
 そして今まさに開かれているパーティーは、いわば虚勢だ。平常心を演じながら、その一方ではびくびくと震えている。それが今の、スティーブン・ワインスタインなのだ。そこにことの真相を知る死神がやってきたのだから、彼が今、気が気でないのは無理もない。
 ウィスキーをグラスに注ぐスティーブン・ワインスタインの手は、震えている。それがアルコールによるものなのか、恐怖によるものなのかは定かではないが。アルバはその手を、薄ら笑いを浮かべながら見つめていた。そしてアルバは、男に容赦のない追い打ちをかけていく。
「大企業を牛耳り続けた帝王さまが、後継者に自身の愚息を指名するためだけに、次期経営者の有力候補であった若者を、未来ある有能な若者を、殺したんだ。そんなスキャンダルが世に出れば、株価が暴落するのは無理もない。ましてやその愚息さまにドラッグ乱用の過去に女性がらみのスキャンダルがあるのであれば、尚更にだ。……まあ、安心したまえ。レイ・ジャクソンよりも優秀で相応しい後継者候補を、私が見繕っておいてやった。貴殿は安心して、檻の中に入るといい」
「レイ・ジャクソンを殺したのは貴様だろう、アルバ!」
「たしかに、そうだ。貴殿から手間賃を頂戴し、あの有能な若者を殺したよ。私がな。だが警察が見つけ出した証拠は、全て貴殿を指しているようだぞ。――さぁ、どうする。スティーブン・ワインスタイン」
 死神に人殺しを依頼するのであれば、依頼者も共に死ね。……――というのが一応、アルバのモットーである。今までも似たようなやり方で多くの者を殺し、そして多くの者に生き地獄を与えてきたし、金も毟り取ってきた。
 つまりアルバにとってはスティーブン・ワインスタインなど、あくまで積み重ねてきた屍のうちのひとつ。要するに塵や埃のようなものでしかない。だがスティーブン・ワインスタインにとっては、違うだろう。きっとスティーブン・ワインスタインにとっては後にも先にも、たった一人だけだ。自分の身に決定的な破滅を招いた男、アルバ。その代わりが現れることは、二度とないだろう。
「アルバ!! 貴様は、最初からこれが目的だったのか!」
「ああ、そうだとも」
 それなりの齢を迎えた者が見せる、我を忘れて怒り狂い、そして取り乱す姿の滑稽さ。アルバにとってそれは見慣れた景色、ゆえに彼は呆れ顔になっていた。だが相手にとっては、初めてのことだ。ここまで自分を虚仮にしておきながら、更に自分を見下してくる死神の顔など、半世紀以上生きてきた中で初めて見るものだろう。
 空になったグラスを倒し、顔を赤くして怒号を上げたスティーブン・ワインスタインだったが。アルバという男がその気迫にたじろぐことはなく、あくまでアルバは相手を哀れむだけ。それからアルバはすっかり怒りでいっぱいになってしまった男に背を向けると、書斎の窓の傍へと歩いていく。
 窓からは下界に広がる庭園が見渡せた。よく手入れが行き届いた生垣の緑や、ヤマリンゴの樹に、バラの茨やハーブ畑に、豪奢な噴水など、まさしく裕福さの象徴ともいえるものたちが庭園には揃っている。そしてパーティーから離れ、暗い庭園の隅でよろしくやっている二〇代後半ぐらいの男女の姿も見え、それから庭園の中でも広間に最も近い場所にあるベンチには、座っている二人の少女の姿も見えていた。……――いや、正確には少女が一人と、大人が一人だろう。
「あぁ、それとひとつ。下の庭園で、貴殿の孫娘シャロンと私の連れが遊んでいるだろう?」
 それを見つけたアルバは勝利を確信した。そして彼は振り返り、勝ち誇るようなしたり顔を浮かべると、再びスティーブン・ワインスタインに喋りかける。
「いや、違うな。貴殿の孫娘は眠っていて、その様子を私の連れが見張っているというべきかな」
 庭園のベンチにはスティーブン・ワインスタインの孫娘シャロンと、アルバの連れ、つまりアストレアが座っていたのだ。そして二階の書斎から庭園を見降ろすアルバの視線に気づいたアストレアは、アルバに向かって小さく手を振り、勝ち誇ったような笑みを浮かべてみせている。アストレアの足元にはついでに、眠る直前のように丸く縮こまっている海鳥の影ギルの姿もあった。
 九歳だという情報のある孫娘シャロンは、アストレアの肩に頭を凭れさせて、すっかり眠ってしまっているようだった。アストレアがいったい何をしたのかはアルバには分からないが、これはとても都合がいいと彼は考えた。
 予定にはない出来事だったが、これ以上ない最高の材料が降ってきたのだ。そしてアルバは言葉を続ける。
「私の連れは、ああ見えて二十七歳の淑女だ。殺しの技術も身に着けていてな。あれぐらいの女児の首なら、瞬きの間に彼女は捻り折ることができるだろう。私が命令を下せば即座に、彼女は実行するだろうな。一瞬で、貴殿の孫娘を永遠に覚めぬ闇の中に突き落とすだろう」
「――悪魔か、貴様はァッ!!」
「私が悪魔だと? いいや、違う。私は死神。全てのものに対し平等に終わりを与え、そしてがらんどうになった場所に新しい風を吹き込む役だ」
 アストレアが子供の首をへし折れる、というのは嘘だ。未開封の瓶のフタを開栓するのにも毎度手間取っている非力なアストレアに、そんなことが出来るはずもないが。しかしスティーブン・ワインスタインはそんなことなど知らないのだから、いくらでも嘘は言える。それに追い詰められたこの状況においては、相手はアルバの言うことを信じるだろう。あからさまに見え透いた嘘でも吐かない限りは。
 つまり、この場のイニシアチブを完全に握ったのはアルバということだ。そうして彼は遂に、今回の主要な用件である“要求”をスティーブン・ワインスタインに突き付けるのだ。
「とはいえ、幼気な子供を殺すのは好かん。だから私に、子供を殺させるな。故に大人しく受け入れることだ、ワインスタイン。自身の命運がここで尽きたこと、それと犯した罪の代償をな。そしてあの会社の金の幾分かは、私が頂くことにするよ。そういうわけだ、貴殿は堅牢な檻の中で余生を過ごしたまえ。それでは、私はこれにて」
「待て、貴様。待つんだ、アルバァッ!!」
 そうして言いたいことを言い終えて、アルバが書斎を立ち去ろうとした時。アルバの右腕を、スティーブン・ワインスタインが引っ掴んで、彼を引き留めようとした。が、それと同時にアルバも身を翻して掴まれた腕を振り解き、今度はアルバがスティーブン・ワインスタインの首を左手で掴み、締め上げる。
 力が入っていくアルバの白く冷たい左手には、不気味な青い血管が浮かび上がっていた。そして彼は言う。
「私は、私の手を煩わせるものが嫌いだ。手間取らせるな」
 男と男の目が合い、そしてスティーブン・ワインスタインはその直後に白目を剥いた。アルバが彼の首を掴んでいた手を離せば、スティーブン・ワインスタインは力なく床へガクリと倒れこみ、そのまま気を失う。
 スティーブン・ワインスタインが気絶した理由。それはアルバの目の奥にある『生者が見てはいけない領域』を目にしてしまったから、そしてその領域に少し生気を吸い取られたからだろう。
「……私欲に魂を売り渡した金の亡者が、亡者になるのも時間の問題か」
 先ほどまで威勢よく息巻いていた男は、何処へ消えたのか。すっかり静けさが際立つようになった書斎で、アルバはそう呟く。彼の言葉が終わると静けさはより際立ち、気味の悪さがやってきた。
「…………」
 他者の死を願い、叶えた男はその代償を受けた。そうして用件は済んだ。それに予定通りに事が進んでいるのなら、餌に食いついた刑事たちが令状を手にして、そろそろこの邸宅に押し寄せてくる頃合いだろう。ならば、ここに長居する理由はない。
 そう考えたアルバは、気を失って床に倒れこんでいる男に近付く。それからその男の脇腹を、穿いていた白い革靴の尖った爪先で蹴りを入れると、この書斎の出入り口へと向かった。下の階にいると思われるアストレアとギルを探し出し、彼女らを連れて帰らなければいけなかったからだ。
 しかし、その手間は省けたらしい。アルバが書斎のドアを開けたとき、彼の目の前には肩で息をするアストレアと、そのアストレアの両腕に抱かれて大人しくしている海鳥の影ギルの姿があったのだ。そしてアストレアは笑みを浮かべ、彼に言う。「ジャストタイミングだったね。走って来た甲斐があったよ」
「――誰かに気付かれてはいないだろうな?」
「気付かれてなんかないさ。息を潜めつつ逃げる方法は特務機関WACE時代に、ケイのじーさんにみっちり仕込まれたからね」
 彼が心配性すぎるというべきか、彼女が微塵も信頼されていないというべきか。アルバは細めた目で、アストレアに対し疑惑の視線を向けている。アストレアは向けられる視線に対し、露骨に不快感を露わにしながら、抱いていた海鳥の影ギルを床へと下ろした。
 それからアストレアは、アルバの背後にある書斎の中をざっと覗き見る。そしてアストレアは、書斎の床に倒れている男の影を見つけると、今度は彼女がアルバに対して、ある疑いの目を向けたのだ。「ところで、ミスター。そこで伸びてるスティーブン・ワインスタインだけど……」
「お前があのゴミの心配をするとは意外だな」
 気絶している男を蔑むような目で見つめるアストレアの姿を見て、アルバはそう勘違いをしたようだが。アストレアは当然、気絶した男の安否を心配などしていない。
「心配? いや、そうじゃなくて」
 たとえスティーブン・ワインスタインが口から泡を吹いていようと。アストレアが気にするのは、この邸宅に来る前にアルバが話していた“今後、入る予定の金銭”のことだけだ。「――彼から巻き上げた金は、何に使う予定なのかなって。まさか今度はモーニングコートを買うとか言わないよね?」
「お前は、私を何だと思ってるんだ?」
「やたら見た目に気を配って、身嗜みのためなら金を湯水のように使うクソ親父」
「……」
「今アンタが着てるその燕尾服だって、灰色かつテーラーメイドにこだわった結果、バカみたいな値段になったでしょ? シャツにカフスにタイにサスペンダー、ステッキも合わせたら、もっとバカみたいな値段になってさ。――二度目は、勘弁して」
 アストレアが警戒していたのは、入ってきた金をアルバがすぐに使わないか、ということ。理由は、彼女の言葉で察しが付くだろう。
 アストレアからすれば、たかが燕尾服。その一着のためだけに、法外とも思えるような額が一瞬で飛んでいったという出来事がつい先月に起きたばかりなのだから……――彼女が警戒するのも無理はないだろう。なにせあの燕尾服騒動のあと、次の仕事が入るまでの五日間は、久々にひもじい生活を強いられたのだから。二回目は御免こうむりたい、といったところである。
 場合によっては殺意にさえ発展してしまいそうな気配すらある、アストレアの表情。そんな展開もまた、アルバとしては御免こうむりたいものである。そういうわけで彼は、ひとまずアストレアに懸けられた疑念を晴らそうとした。
「安心しろ、モーニングとタキシードは既にある。ブラックスーツもな」
「なら良かったです、ミスター・アルバ」
 しかしアストレアは、無駄で莫大な出費がまた出るのではないか、ということを未だ疑っているらしい。なんとなく信用されていない、というのはお互い様であるようだ。
 となれば疑いを晴らす手っ取り早い方法は、ひとつ。予定している金銭の使い道を、アルバが正直に打ち明けることだけだ。
「金の使い道なら正直に話そう。――一部は食料、日用品の備蓄に回す。あとは破壊工作用の軍需品を調達するための資金に換えるつもりだ」
「へぇ、破壊工作ねぇ。どこで何をやるの?」
 質問に小言に、減らず口に無駄口などの、まあ多いことか! 口うるさくチクチクとあれこれ面倒な場所を突いてくるアストレアに、次第にアルバは苛立ちを募らせていく。そして彼はついに、いつもの言葉を言うのだ。
「お前は、何も知らなくていい」
「僕も役に立てると思うけど?」
 突き放すような言葉を投げかけられれば、少しは引っ込むかと思ったものだが。いつの間にか随分と図太くなったアストレアは一歩も引かない。それどころか大人をバカにするクソガキのような勝ち気な笑みを浮かべ、そう返答してみせる。……――ふてぶてしいこと、この上ない笑顔だ。
 そんなアストレアに対し、ついに言うべき言葉を見つけられなくなったアルバは、この話題を切り上げるという選択を取った。代わりに彼が切り出すのは、庭園のベンチで寝ていたスティーブン・ワインスタインの孫娘のこと。「……それで。あの孫娘はどうしたんだ?」
「あぁ、レディ・シャロン? 彼女なら、近くにいたお祖母さんに預けてきたよ。『シャロンちゃん眠っちゃったから、ベッドに連れて行ってあげて~』ってね」
「違う、そうではない」
「何が?」
「私は、子供を眠らせろとは一言も言っていなかったはずだが。それに孫娘ではなく、息子のほうを監視していろと言ったはずだ」
「でも孫娘のほうが効いたでしょ? 覚醒剤をキメて、寝室で白目剥いて涎を垂らしてた長男チャールズなんかよりもずっと、長女グレタの娘、つまり孫娘であるシャロンのほうが脅しの材料に適切だと僕は思ったから、そうしたまで。アンタだって、そう感じたんじゃないの?」
「はぁ……――それで、あの孫娘をどうやって眠らせたんだ」
「麻酔とか眠剤じゃないから安心して。抗ヒスタミン剤を、オレンジジュースに入れただけ。きっと彼女、翌朝には鼻づまりが解消されてるよ」
「それでその薬剤は、どこで入手した? 客の誰かから、盗みでもしたのか?」
「盗んでなんかいないよ。使えそうな薬とかを、いつも携帯するようにしてるだけ。ラドウィグがそうしてたから、真似してるんだ。実際、役に立ったでしょ?」
「あのアーミーナイフ男の真似なんぞしなくていい」
「あっ、そういえばアーミーナイフも携帯してるよ? 今も、クラッチバッグの中にある。ほら」
「今のはただの喩えで――おい、そんなものは出さなくていい。まったく、お前というヤツは……」
「ミスター、いったいなにが不満なのさ? ヘマはしてないだろ」
「ああ、そうだ。ヘマはしていない、今回はな。だが次回はどうなるこッ……――」
「ガキの相手は疲れるんだってこと、あんたが一番よく分かってんでしょ? それに時間帯が時間帯だし、遊び疲れた子供が庭で眠ったとしても、誰もおかしいとは思わないだろうと判断したから、あれを使ったまでさ」
 ああ言えば、こう言い返すアストレアに、アルバは遂に言葉を失った。そしてアルバはわざと大きな溜息を零し、アストレアを睨むように見降ろす。だがアストレアは、一歩も引きやしない。
「分かった、アンタのお望み通りに謝りますよ。はいはい、ごめんなさいね、勝手なことばーっかりして。だけどさ、こんなとこで無駄話をしてる場合じゃないよね、僕ら」
 アストレアの発言その一つ一つが、いちいち正しいことがまたアルバの癪に障る。そして今、彼女の言葉の通り、このような無駄話をしているべき状況ではない。
 再び溜息を零すアルバは、低身長なアストレアの頭の上に冷たい手を置く。するとそれを合図にしたかのように、大人しく床で待機していた海鳥の影ギルはアルバの傍に寄り、彼の履いている革靴を水かきのついた平たい足で踏んづけ、その上に乗った。
 そしてアルバが無意識のうちに、舌打ちをしたとき。彼らの姿は瞬間的にスッと消え、後にはわずかな黒い煙のみが残された。と同時に、気を失っていたスティーブン・ワインスタインが目を覚まし、何故だか鈍痛がする脇腹に呻き声を上げる。
「……はぁ、うっ……――何処に消えた、あいつは……どこに行った、アルバ……――!!」
 死んでいたかのように静まり返っていた書斎に再び、邸宅の主人の怒りという情動が宿ったとき。邸宅全体には別の感情、恐怖がやってくる。家宅捜索の令状を携えた警官たちの殴り込みでパーティーがお開きになり、邸宅の住人たちが予想もしていなかった事態に悲鳴を上げていたのだ。
 栄華を象徴するかのような和やかなムードが一転、死神の到来により悪夢へと変貌した夜。そんな夜をひそかに、邸宅の屋根の上から見ていた一羽のカラスが居た。
「……ケケッ。相変わらず俺ちんの眷属神は、好き放題に暴れてくれたみたいだなァ。モーガンとの密会を早めに切り上げて、戻ってきた甲斐があったゼ……」
 続々と邸宅へと上がり込んでいく警官たちの列を見送り、カラスはそう呟く。……――と、そのとき。カラスの視線が“こちら”を向いた。
「そいじゃァ、まずはアレがガキだった頃から振り返ってみるかェ」


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 贅の限りを尽くしたかのような、豪奢な外観に内装。天井を埋め尽くすステンドグラスを通して挿し込む、色とりどりの日光。祭壇のように見える場所の中央に鎮座している、磔にされた傷だらけの男を描いた不気味な像。誰かの血で染めたように赤い、カーペット。そして祭壇の前に設置されていた、コンクリート製の大きな水槽――。
 四歳の少年は、機嫌の悪い父親に手を引かれながら、色とりどりの光が差す赤い道を歩いていた。その場所の名前が教会だとも知らない少年は、状況を理解することも出来ないまま、ただ歩いていた。父親に引かれるがまま、前へ、前へと。
 少年はただ、怖いと感じていた。真っ白な祭服に身を包む司祭はとても穏やかな微笑みを顔に浮かべて、大きな水槽の前で少年のことを待っていたからだ。
 こちらにおいで、怖いことは何もない。司祭がそう言うたびに、少年の身の毛はよだった。少年は今すぐここから逃げ出したかった。だが少年の手を掴んでいる父親が、逃げることを許しはしない。
 主が。原罪が。なんたら、かんたら。司祭は何かを言っていた。しかし得体の知れない恐怖に慄くだけの少年に、その言葉は何も響かない。
「さぁ、服を脱いで。水槽の中に入るのです。頭まで、すっぽりと」
 微笑みを浮かべる司祭が、少年に向かってそう言った時。彼は恐れていたことが現実になったのだと感じ、悲鳴を上げた。嫌だと叫んだ。そして少年は死力を尽くして父親の手を振り切り、気味の悪い教会からひとり逃げ出したのだ。
 必死の思いで、走った。怒号を飛ばす父親が、悪魔のような顔をして追いかけてきていたが、少年はそれさえも振り切り、逃げ続けた。道を走って、角を曲がって、住宅街に入り込んで、他人の家の庭に入り込んで、逃げ続けた。
 そのときに少年の頭の中に響いていたのは、繰り返し繰り返し、何度も父親から聞かされた言葉。
『お前を殺してやる。お前の母親が大勢の男たちに対してやったように、お前も水の中に沈めて、殺してやる!』
 ただひたすら、少年は逃げて逃げて逃げ続けた。そして遂に息も絶え絶えになったとき、目の前にあった民家の戸を叩き、大声で叫んだのだ。
「お願い、助けて! お父さんに殺される!! お願い、中に入れて! 僕を救けて!!」
 切羽詰まった子供の悲鳴を聞いて、家の主である女性は、少年を家の中へと大慌てで招き入れた。それから女性は少年から、何があったのかを聞き出そうとしたが、しかし少年は声を押し殺しながら泣き続けるだけで、埒が明かない。
 途方に暮れた女性はどうすることもできず、溜息をひとつ吐く。それからひとまず少年を泣き止ませようとして、女性はいつも自分の子供たちにしているように、そっと少年を抱き寄せて、宥めようとした。
 が、次の瞬間。彼女は、宥めようとして少年の背中を撫でた掌に、違和感を覚えたのだ。彼女は掌に、皮膚の炎症に触れたときのような妙な熱っぽさと、湿り気を感じたのだ。そして自分の掌に付いていた赤い血を見るなり、女性は血相を変える。白昼であるにもかかわらず、玄関ドアや家中の窓の戸締りを彼女はして回ると、家の中にある全てのカーテンを閉ざし、家を外界から遮断した。それから彼女は少年の肩を抱き寄せ、落ち着かせようとする努力を行いながら、固定電話に手を伸ばす。
 女性が電話を掛けた先は、夫の勤務先ではない。彼女の子供が通っている学校でもない。彼女は警察へ、児童虐待を通報したのだ。


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「つまり父親であるあなたは今、ハリファックスに居るんですか? ちょっと待ってください、これはどういうことなんです? でもたしかに彼は、父親に殺されると言って、怯えているんですが……」
 それがいつからだったかは、分からない。だが彼の目に映る景色はいつでも現実感がなく、まるで目に映る世界は、ミニチュアを撮影した写真をシームレスに繋げた映像のようで。巧妙な遠近法で奥行きが描かれているようだが、どうにも見えている景色は平面的であり、彼はその中に立体感を見出せなかったのだ。
 いや、現実には奥行きがある。手を伸ばせば、手は奥へと伸びるのだから。それは、当然のことだ。だが何故か、彼は奥行きを感知できなかったのだ。
 彼に欠陥があるといえば、まあそうだろう。だが、まあ……――“正常とされる人間”との差は、誤差の範疇だ。だから彼は、うまくやってきた。
 騙しだましで、どうにか立ち回り続けてきたのだ。
「――えっと、はい。ええ、理解しました。つまりあなたは彼の父親ではなく義叔父おじで、彼が三歳になるまでの間、彼を育てていたんですね? で、彼を殺そうとしたと思われる父親というのが、今は彼の面倒を見ている、ボストン在住の実の父親だと。なるほど、なんて複雑な家族なんだ……」
 四十三世紀が明けて間もない、西暦四二〇四年。オーストラリアの若き英傑、英悟の鷹ワイズ・イーグルと呼ばれ人気を博した空軍士官バーソロミュー・ブラッドフォードの名も、すっかり定着して二年が経過していた頃。そして混迷を極める北米合衆国の情勢に愛想を尽かし、遂に北米合衆国から――いくつかの条件付きではあるものの――事実上の独立を果たしたマサチューセッツ州が、アルフテニアランド自治領と名を改めて間もない頃。幼い彼はボストン第一分署の中に居て、そのすぐ傍では署内の公衆電話に張り付き、渋い顔で延々と話し込んでいる若い男――レーノン・ライミントンという名の、児童保護局に所属する新米保護観察官――の姿があった。
 保護観察官レーノン・ライミントンが渋い顔をしているのには、ワケがあった。まず一つ目は公衆電話。傍にいる少年の事情を探るために、彼は自腹を切って公衆電話を使っていたのだ。硬貨を一枚、また一枚と公衆電話に吸い取られていくたびに、保護観察官レーノン・ライミントンは胃がキリキリと悲鳴を上げ、胃痛で擦り切れそうになるのを感じていた。そして保護観察官レーノン・ライミントンを悩ませるもう一つの問題は、少年の複雑すぎるバックボーンのこと。
「……あの、それで質問なんですけれども。ボストン第一分署で保護している少年の名前は、本人が言い張っているウディ・ブレナンなんでしょうか。それとも、その……――ええ、それです。シスルウッド・エルトルなのか。……あっ、本名は後者の方なんですね。……ん? シスルウッドでなく、シルスウォッド? あぁ、すみません。よろしければスペルを教えていただけますか?」
 保護観察官レーノン・ライミントンは困惑していたし、そして少年に関わった警官たちの多くも困惑していた。誰もが、事態の全容を思うように掴めていなかったのだ。
 まあ、それも無理はない。何故なら当時の彼自身も、いまいちよく分かっていなかったのだから。
「なるほど、シルスウォッドですか。シルスウォッド・エルトル……――待て、エルトルだって? もしかして、あの上院議員の……?!」
 保護観察官レーノン・ライミントンは公衆電話の受話器から耳を離すと、警官が保護した問題の少年を、びっくり顔で凝視する。
 目元を赤く泣きはらし、ずっと俯いている金髪の少年。不幸な生まれ故に生来呪われている彼はあの時、ただ一つだけを願っていた。
 故郷であるハリファックスに帰りたい、本当の家族の許に戻りたい、と。


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 父親と神父に殺される。彼がそう訴えて、警官に保護されるよりも前。その前年の、秋も終わりのある日。彼が居たのはボストンではなく、ボストンよりも少しばかり北に位置する、ハリファックスという田舎町だった。
「あら、まあ! 今日はキリアンまで来てくれたのね」
 その当時、彼は周囲からこう呼ばれていたし、彼自身もこう名乗っていた。ウディ、と。彼自身が“シスルウッド”という長い名前をなかなか覚えられずにいたこと、それと彼自身が自分の本名をうまく発音することが出来なかったために、幼い頃は略称の『ウディ』を、あたかもそれが本名であるかのように使っていたのだ。
 それから周囲の人々は、彼の名前をこう勘違いしていた。シスルウッド・ブレナン、と。そして彼自身の出自についても、大きな誤解があった。ウディ・ブレナンと呼ばれている少年は、ローマン・ブレナンとドロレス・ブレナンの仲睦まじい夫婦の許に来た養子の男の子であると、周囲の人々は思っていたのだ。
 そして彼自身もハリファックスで暮らしていた頃、自分はそういう立場なのだと思い込んでいた。それは彼が自分の両親だと感じていた二人の男女に、そう教え込まれていたから。
 そう。少なくともあの当時、ローマンとドロレスの二人だけが彼の真実を知っていて、彼らは頑なに隠し続けていたのだ。それが最善であると、そう思っていたから。
「おお、キリアン! 随分と久しぶりじゃないか。もうバウロンを叩くのは止めたのかとばかり思ってたよ。そういえば、腰のヘルニアの調子はどうなんだい?」
 彼の真実は、以下の通り。彼はブレナン夫妻の実の子供ではない。それどころか実は、正式な養子でもない。……しかし彼がブレナン夫妻の許に身を寄せているのには、複雑なワケがあったのだ。
 彼の父親は、妻ドロレスの肉親。かつては刑事事件専門の弁護士だったが、今は家業である議席を継いで、日々活動に勤しんでいる、ドロレスの兄アーサー・エルトル。そしてアーサーの息子である彼は、刑務所の独房の中で刑務官の手により、死んだ女の腹から取り出され、やや小さい体で産声を上げた子供――彼の母は罪人、それも連続殺人を二〇件超も犯したとされる殺人鬼だった。
 嫡子ではない、不義の子。それでいて母親は死刑が確定した殺人鬼であり、死刑執行を待たずして自害し、子供も、自らの命も捨てた女。……――自分の職を失うことを覚悟の上で、死んだ女の腹を医務室から借りてきたメスで切り開き、大慌てで赤子を取り上げた刑務官の他には誰も、彼の誕生を望んだ者も、喜んだ者もいなかった。そして彼を特に憎んだのは、父親であるアーサー。
 彼が生まれたあの日、父親のアーサーは間違いなく、赤子である彼を殺そうとしていただろう。父親は、対応に困り果てていた刑務所から『死んだ女の弁護士』という立場の下、赤子を引き取りこそしたものの、その赤子を育てる気は更々なく。かといって自分の汚点となり得る子供を、捨てることも他所へやることもできず。父親が選ぼうとしていたのは、最悪の結末。ひとまず家に持ち帰った後、暖かなミルクを赤子に与えず、代わりに赤子を木箱の中にでも詰めて餓死させてから、それを灰になるまで燃やして海に遺棄する、という選択だったのだ。
 そこに、アーサーの妹であるドロレスと、その夫ローマンの二人が介入したのだ。
 子供に恵まれないことを悩んでいた夫妻にとって、アーサーの決断は見過ごせないものだった。だから、呪われた生まれだとしても、罪は一つも無いはずである赤子を救うために。そしてお世辞にも性格が良いとは言えない兄が最悪の決断をして道を踏み外す前に。ドロレスとローマンの二人が問題の赤子を引き取り、育てることにしたのである。
 赤子の素性を偽ることは、その道に長けた兄アーサーに任せて。二人は、引き取った赤子を大事に育ててきた。死体から取り出された赤子は小さな病にはしょっちゅう罹ったものの、大きな病を患うことはなく無事に育ち、随分と元気で好奇心旺盛な男の子に成長した。
 問題は何も無いはずだった。そのまま三人で幸せに、ハリファックスで暮らすという選択肢もあったはずだった。だが。
「やあ、ドロレス。それとローマン。久々に君らとセッションしたいと思ってね、妻に付いて来たんだ。とはいえ、彼女にはイヤな顔をされたがね! ああ、それでヘルニアだが。今日は調子が良いもんでね。医者からも動いたほうがいいと言われてるから、今日はここに来ることにしたんだよ」
 毎週金曜日の夜八時、夕食を終えたあと。ドロレスとローマンの家には、近隣の住民のうち楽器演奏を好む者が集い、朝まで気まぐれなセッションを繰り広げることが定番となっていた。そして、あの日は金曜日。いつものメンツや久しぶりなメンツが集い、また気まぐれな音楽会が開催されていたのだ。
 金曜の夜には色んな人が集まり、色んな楽器が集い、色んな音が鳴ったものだ。ドロレスとローマンが連弾するアップライトピアノの音。気まぐれでドロレスが奏でる、ヴァイオリンやフルート、フリューゲルホルンの賑やかし。ハリー・ミドルトンが弾くコンサーティーナのリズミカルな和音に、ジェシー・マーフィーがティンホイッスルで吹くリードや、アンガス・クレイグが掻き鳴らすフラメンコギターやブズーキでの伴奏。マリー・ウォルシュがはじくアップライトベースの弦や、キリアン・ウォルシュが叩くバウロンの鈍い音など。
 まとまりもなければ、洗練などとは縁遠い、田舎町にぴったりな泥臭い音楽ばかりだった。しかし幼い頃の彼は、そこで作られる音を聴くのが好きだったし、その場に参加することが好きだった。大の大人が、お酒を飲みつつ顔を赤くさせながら、心の底から楽しそうにまとまりのない音楽を作っていく姿を見るのが、彼は好きだったのだ。
「よぉ、ウディ。ちょっと見ない間に、また大きくなりやがったな!」
 玄関口に並んで立ち、続々とやってくる来客たちを招き入れるドロレスとローマンのすぐ後ろ。その場所に立ち、子供らしいニコニコ笑顔を浮かべて来客を出迎えるのが、彼の役割。あの夜もいつものように、彼は来客たちを愛想よく出迎えていた。
「久しぶり、キリアンおじさん!」
 数か月前に腰を悪くし、あまり外を出歩かなくなっていたため、暫く夜のセッションに顔を出していなかった近隣住民のひとり、老齢のキリアン・ウォルシュ。彼が妻のマリーと共に、久々にブレナン夫妻の家に顔を出したのは、丁度あの夜のこと。
 左手にバウロンの入ったハードケースを抱え、右手で杖を突いていた老人キリアンにそう言って笑顔を見せ、幼い彼がキリアンにぎゅっと抱きついてみせると。子供好きで有名だった老人キリアンはすっかり上機嫌になり、可愛らしい幼い男の子を抱き上げようとしたが……――すぐに妻のマリーに窘(たしな)められ、キリアンがそれを実行することはなかった。
 そうして家の中に招き入れたウォルシュ夫妻と談笑しながら、ドロレスとローマン、それと彼の五人は、いつものセッション会場であるそれなりに広い居間へと歩いて行く。そこに行く途中の廊下では、既に集まっていた面々たちが奏でていた音楽と、踊る誰かの足音が聞こえてきていた。そして会場に入ると、ローマンはいつもの台詞を口にする。
「みんな! 酒は足りてるか?」
 あの日もいつも通りの夜で、いつも通りに楽しく終わった。
 コロコロと頻繁に移り替わる、曲目と曲調。そして酒が入り上機嫌になった大人たちは口々に「ウディ、こっちにおいで!」と言っては、自分たちの愛用する楽器の弾き方を、人一倍好奇心旺盛な子供にレクチャーし始める。またある者は酔いが回りすぎて眠気が到来し、演奏の途中で脱落してしまったりしていた。――それはいつも通りの、楽しい夜だった。冷たい夜明けが、振り始めた少しの雪と共にやってくるまでは。
 愉快な夜が終わり、夜明けが近付き始めた頃。来客は続々と帰っていき、すっかり静かになったブレナン夫妻の家の前に。喧騒をもたらすことになる一台のセダンが、停車したのだ。
「――……おい、開けろ! ドロレス、開けるんだ!!」
 ドロレスが、居間のソファーで眠っていた幼い子供を抱きあげ、寝室へと戻っていったその直後のこと。ローマンが家の戸締りをして回っていた最中に、玄関を叩く音とそう怒鳴り散らす男の声が聞こえてきたのだ。
 静まり返る田舎の住宅街に、その声を轟かせる男の名前は、アーサー・エルトル。ドロレスの兄であるその男が、忌むべき息子を取り返しにやってきたのだ。呪われた血を継ぐ子供を、自らの支配下に置き、行動の自由を封じるために。


* * *



 一旦、場所は戻って。時は西暦四二八九年。北米、マンハッタン某所。
「ヘーイ、ミスター。ちょっと、聞こえてんの? ミスター。ねぇ、ミスター・アルバ?」
 スティーブン・ワインスタインの邸宅から撤退したアルバとアストレア、それとギルの三人は、彼らの拠点であるマンハッタン某所のアパートに戻ってきていた。
 帰還後も暫く、アルバから嫌味をねちっこく言われ続けたアストレアは、彼の言葉の途中でぷいと愛想を尽かし、自室に戻ってシャワーを浴びていたのだが。それも終えて、アストレアがいざ濡れた髪の毛を乾かそうとドライヤーに手を伸ばした時、廊下からある雑音が聞こえてきたのだ。そして不快極まりないその音にアストレアは怒りを覚えたのである。
 そういうわけで彼女は髪を乾かすことを放棄すると、ジャージ姿で雑音の発生源へ、つまりアルバが使っている居住スペースの前へと向かったのだ。それで今は、玄関ドアをしつこくノックしながら、彼女は部屋の中に居るはずの男にしつこく、繰り返し何度も声を掛けていた。
「……ったく、耳が腐ってんのかよ、あの老人は……」
 ハンプシャーを切り上げた時間は、現地時間での午後十時。そして今は、午後五時。深夜から夕方へと瞬間移動したアストレアは、眠気こそなかったが疲れていたのだ。とにかく、疲れていたのだ。
 そんなコンディションの時に、何とも形容しがたい不気味さを纏った曲が聞こえてきたのである。気分はだだ下がる一方であり、それも限界に達すると怒りに変換されて。まあ、今の彼女が愉快な気分ではないことはいうまでもない。
 そして廊下に響いていた雑音の正体は、激しく上下する音階のうねりを、細切れに素早く刻んでいくチェロの旋律。――……きっと、腕前の良い演奏者が弾けば、その曲はアストレアに不快感を与えることがなかっただろう。しかしたった今、廊下に響いているそのチェロの音には演奏者の性格、もしくは演奏者の苛立ちがよく反映されていすぎた為に、聞き手は感情が逆撫でされて堪らないのだ。
 その音色には繊細さや柔らかさ、優美さなんて、カケラもありゃしないし。エッジの効きすぎた三連符の嵐は、自然と人肌を鳥肌へ書き換えていく。そして重なり合う低音と中音域が生み出す、重厚さと気味悪さの奇怪な同居は、八分の三拍子が描き出す特有の忙しないリズムも相まって、まるで――飲んだくれの傭兵たちが近世パリの汚い路地で白昼堂々と、粗暴な乱闘を繰り広げるかのような情景を彷彿とさせる――武踏曲のようであった。
 曲目は、無伴奏チェロ組曲第三番ハ長調BWV一〇〇九、その最終部ジーグ。……本来ならば早いながらも穏やかに演奏されるべき曲であるのだが、しかし音楽は次第にアクセントやら装飾音が過剰になり、荒れ模様になっていく。そんな雑音に耐えかね、遂にアストレアは大声と共に、アルバの部屋の扉を蹴破り、突撃を決行した。
「ヘイ、ミスター!! ひっどい演奏にも程があるんですけど!」
 突き破られたドアはチェロの音色を容易に掻き消す轟音を上げ、壊れたドアノブは床に落ち、それはそれでうるさい金属音を立てる。しかし負けじとチェロも、ひどい音を返してきた。
 明らかに音を外している耳に不快な音が、木材に叩きつけられたノコギリの悲鳴によく似た鋭いエッジを伴って、短く放たれる。アストレアの突撃に驚いたアルバが、反射的に弓をチェロの弦に叩きつけた際に、その音は鳴ったのだ。そして突然響いて消えたその耳障りな音に、反射的に反応したアストレアは、思わず両耳を両手で塞いで、一瞬だけ瞼を閉ざしてしまう。またその音を鳴らした当のアルバ本人も耐え難い音にひどく顔を顰めさせたあと、不愉快そうに舌打ちをした。
 突き破られたドアに、落ちたドアノブに、音を外したチェロ。うるさく、耳障りな音が立て続けになったあとには、音が何もない静けさと冷静さがやってくる。
 だが静けさでは終わらぬのが、この二人の関係性。一人の時間に水を差されたアルバが溜息と共に、床に安物の弓を投げ捨てるように落とせば。腕を組んだアストレアが喧嘩腰で、余計な言葉を発するのだ。そしてアストレアが口を開く。「っていうかさ、アンタってチェロも弾けたんだね」
「……まあ、な。少しは。それよりも貴様、その扉を――」
「でさ、そのチェロ。どこで手に入れたの?」
「ワインスタイン邸だ。そんなことよッ――」
「アンタさ、僕には『客の誰かから薬でも盗んだのか』ってしつこく聞いてきたくせに、自分は盗みを働いても良いってワケ?」
 アストレアが掲げたのは、言い返す言葉が何一つ浮かばないような、真っ直ぐすぎる正論。その正しさはアルバを苛立たせ、ついつい暴言をぶちかましたくなる気分にさせるが……――そこは大人として、紳士として、彼はグッと呑み込む。
 そしてアストレアの正論に、アルバは滅茶苦茶な理論を返すのだ。
「もはや埃を被ったオブジェになり替わっていた、哀れなチェロを救ってやったまでだ。使わなければならない人間がいる薬剤とは、ワケが違う」
 今度はアストレアが、どこから指摘を入れればいいのかが分からないような、倫理観や道徳観のへったくれもないアルバの発言に、言葉を失う。
 大きな目を限界まで見開いて、アルバの顔をじっと見つめて、アルバの発言に覚えた違和感を言葉なく伝えることが、彼女にできる最大限の抗議。だが自身の発した言葉に「滅茶苦茶な理論だ」と自覚のあるアルバに対し、あまりその手は有効ではない。抗議するアストレアに、彼は勝ち誇るような冷ややかな笑みを浮かべてみせるだけだ。
 普通の議論は、とてもじゃないが通用しない相手、それがアルバ。その事実を再認識したアストレアは、呆れから溜息を零す。
「……本当にクズだよ、アンタって」
 するとその溜息を、彼女の敗北宣言と捉えたアルバは笑みを消し、アストレアに言うのだ。「話は終わっただろう? なら自室に帰れ、今すぐに」
「今晩はその耳障りなチェロを弾かないって約束してくれるなら、僕は帰るよ」
「ああ、誓うとも。だから今すぐ帰れ、シュリンプ」
 チェロを弾かないと約束するなら。アストレアは彼にそう条件を提示したが、すぐにその文言を後悔した。というのもアルバは「誓うとも」と言った直後に椅子から立ち上がり、チェロを部屋の隅に設置されていたスタンドに掛けて、暗に「チェロは弾かない」という意思表示をしたが。その代わりに彼は「今すぐ帰れ、シュリンプ」と言った直後、安物のヴァイオリンが入った黒いハードケースに手を伸ばしたのである。
 それなりに常識を弁えていれば、アストレアの言葉から『もう何も、今晩は楽器を弾いてくれるな』という彼女の意思を汲めそうなものだが。そこは、アルバという男。常識は弁えているし、当然アルバはアストレアの真意に気付いているが、気付いていながらも無視をするのだ。
 自分のやりたいように、やる。それが、彼。だから彼はアストレアに誓った通りチェロは弾かないが、その代わりにこれからヴァイオリンを弾いてやるというわけである。
「……ホント、どういう育ち方をすりゃ、アンタみたいな狂人が生まれるんだか……」
 アストレアがそう呟く間にも、アルバは机の上にハードケースを置き、ハードケースの蓋を開け、その中から松脂で白っちゃけたヴァイオリンを取り出す。そして彼は先ほど床に落としたチェロの弓を拾い上げると、再びチェロを弾く際に座っていた椅子に腰を下ろした。それから彼は何かを考えるような表情を一瞬だけ浮かべた後、何を思ったのか、チェロの弓を使ってヴァイオリンを弾き始めたのだ。
 すると、どうやらヴァイオリンの弓よりも少し長い、チェロの弓でヴァイオリンを弾いてみるというスタイルが、彼にはしっくりきたらしい。何かを考えるようだった彼の表情は、新しい発見により笑みに変わる。そして室内に響き出したヴァイオリンの音色は、普段と同じ。暗い雰囲気だ。
 音の輪郭は鋭く、抑揚の移り変わりは激しく、音程は素早く上下しているし。そして背筋が凍るような開放弦の低音が時折混じる。これらは普段通りの、彼が即興で作る曲が持つ特徴だ――根底にあるのはいつも、テンポが速く激しい舞曲。だが、明るくあるべきである舞曲なのに、どうしてか彼の演奏はいつだって暗くて、物哀しい。
 そうして不満げにアストレアが、彼のヴァイオリンをじーっと見つめていると。視線に気づいたアルバは演奏を止め、不愉快そうに左側の眉根を釣り上げる。何か不満でもあるのか、と彼は無言の圧をアストレアへ送っていた。その視線に、アストレアは質問を投げ返す。
「ねぇ、ミスター。そろそろ教えてよ。アンタの昔のことをさ」
 アストレアの質問に対してアルバは、露骨に嫌そうな表情を浮かべてみせる。それから彼はあからさまに嫌がる声色で、彼女に問い返した。「私の昔話など聞いたところで、お前は何をどうするっていうんだ?」
「気になったから。それだけだよ」
「その理由は?」
「知りたいから。それだけ」
「なぜだ?」
「だから、知りたいから。アンタの昔話が」
 突くような隙すらもない、単純明快で短いアストレアの回答。その言葉たちを聞くなり、アルバはどうやら『埒が明かない』または『話すことは何もない』と思ったらしい。そんな彼はアストレアという存在を遂に無視しはじめ、何かを訴える視線を送りつけている彼女を横目に、素知らぬ顔で演奏を再開する。
 しかしその曲調は、いつもと違った。舞曲なのは、いつもと同じ。だがスピード感こそあれど、そこに激しさはなく、哀しさも怒りも込められていない。ただただ無心で、上下する音階を弾いているといった感じだ。だが時折混じる開放弦の雑音は、彼自身の心のノイズを表しているかのよう。
 ああ、ミスター。かなり苛立ってるんだ。……――アストレアはそれを見抜く。そして彼の硬く閉ざされ続けていた口を割らせるために、彼女はその苛立ちに切り込むことにしたのだ。挑発という卑怯な手段をもってして。
「上院議員の息子で、裕福な家でぬくぬく育ったお坊ちゃん。それがどう道を間違えれば、こんなイカれたジーさんになったのかが知りたくなっただけだよ。今までずっと、はぐらかされ続けてきたわけだし。――ねぇ、ミスター。そろそろ教えてくれたっていいでしょ?」
 彼が、上院議員の息子であったということ。そして裕福な家で育ったということ。それは以前、まだアストレアがアルストグラン連邦共和国に居た頃に、他人の過去を詮索することを趣味としていたアレクサンダー・コルト――銃撃の技術等、アストレアに多くの技術を叩きこんでくれた姉貴分であり、ある意味においてはアストレアの育ての親ともいえるかもしれない粗暴な女――から伝え聞いた話である。
 そして北米での生活が続く中でアストレアは、経験として学んでいた。アルバは、自分の過去を掘り返されるにあたり、裕福さを象徴するような言葉を使うと苛立ちを露わにすると。そして苛立ちがただでさえ限界に達しそうな状態である今、彼に発破をかけてみたら、果たしてどうなるのか。アストレアはその結果に興味があった。
 すると案の定、アルバはまず苛立ちを露わにする。また彼は演奏を止め、そして今度はアストレアを細めた目で睨みつけてきた。それから彼はヴァイオリンをガサツな手つきでハードケースの中へしまうと、あえて音を立てて、乱暴にケースの蓋を閉める。そしてアルバは彼らしからぬような、明らかに苛立っていて、刺々しい声で、アストレアに向けてこう言い放った。
「一応言っておくが、私は金持ちの家に“軟禁されていた”だけだ。ああ、たしかに、お前やアレクサンダー・コルトの言う通り、私の家は裕福であっただろうな。そう、家だけは。私には何も関係の無い話だよ。全く何も、何一つとして関係ない。あの家の住人は、他人も同然だったからな」
 どうやら先ほどのアストレアの発言は、相当にアルバの怒りを買ったらしい。あまり長い会話を好まないはずの――少なくともアストレアの目には、そう見えていた――彼が、妙に饒舌になっている。普段と様子が違うのは、見ての通り。
 本気で怒ると、彼は無口になるのではなく、むしろ口数が増えるらしい。……そんな新しい発見に感心しているアストレアは当然、怒りを露わにしたアルバに恐れなどこれっぽっちも抱いていなかった――本来ならば抱くべきなのだが。
 そうしてアストレアがニヤニヤとしていれば、アルバの怒りのボルテージは上がっていく。ついに椅子から立ち上がる彼は、アストレアを睨みつける目力を強めた。ストレスと加齢により、落ちくぼんだ彼の目元には濃い影が入り、瞳孔が無くそして仄かに光り輝く蒼い虹彩がより際立ち、彼の抱える狂気もまたその迫力を増していく。そこに更に影を落とすように垂れてきた白い前髪は、光と影のコントラストをよりハッキリと明確なものにさせ、死神の威厳というものを巧妙に描き出していた。
 ――アルバの言葉通り、見かけとは大事なものである。彼が表情をより険しいものに強めただけで、すっかりアストレアは怯え顔になったのだから。
「いいだろう、そんなに聞きたいというなら話してやる!! 私の昔話とやらをなぁ? だが、覚悟しておけ」
 ビクつくアストレアを指差し、アルバはやや過剰な演技を交えて、威圧的にそう言う。……アストレアがすっかり縮み上がった一方。苛立ちを超えて、怒りさえも越えたアルバは、今や怒りを感じていた自分に対して呆れ返っていたのだ。そしてその呆れがおかしな方向に働いた結果、彼は『目の前で縮み上がっているこのチビすけを、どう料理してやるべきか』という、ゲスなことを考え始めていた。要はアストレアを、彼はからかっているのである。と同時に、これは良い機会であると、彼は考えてもいた。
 どうせアストレアとは、これから長い付き合いになるだろう。ならばここいらで一度、腹を割って自分のことを話しておくのも悪くない。――彼にはそう思えたのだ。
「良い話は、何もない。だから今がある」
 脅すような口調でそう言ったアルバはその直後、何故か足を動かしていた。そして部屋を無意味に、本人さえも意識していないうちに、彼は歩き回りはじめる。
 長いこと意識的に封じていた『本来の彼自身』が、少しずつだが解き放たれようとしていたのだ。


+ + +



 半ば誘拐されるようなかたちで、ブレナン夫妻の家から連れ出されたのが、彼がもうじき四歳を迎えるというとき。その夜に彼は訳も分からないまま、実の父親だと名乗る男によって家から連れ出され、セダンの後部座席に投げ込むように乗せられて、田舎町ハリファックスを去る羽目になった。
 あの夜、最後に見たドロレスは「私の息子を返して!」と取り乱して泣き叫びながら、雪がところどころ積もっている冷たいアスファルトの道路に突っ伏していた。
 あの夜、最後に見たローマンは、蒼褪めた顔で車を追い、走り続けながら、「ウディ!!」と連れ去られた少年の愛称を叫んでいた――ローマンの体力が尽き果て、声も枯れて、彼が道路にへたり込んでしまうまでの間、ずっと。
 連れ去られた当の彼も、ドロレスとローマンの二人の姿が遂に見えなくなったその時までずっと、リアガラスに顔を近づけ、無情にも車が走り去っていった道を見つめ続けていた。後部座席に膝を付き、後部座席の背もたれに腹をくっつけた姿勢で、ただ茫然と。徐々に遠ざかって、小さくなって、見えなくなっていくドロレスとローマンを見つめて。二人の叫び声に気付いた近隣住民が家の外に飛び出てくる様子を、ただじっと観察しながら。泣きもせず、怒りもせず、何も言わず、黙っていた。
 というのも、幼いながらに彼は分かっていたし、理解していたのだ。何せ物心ついた時からずっと、ドロレスとローマンの二人からはこう教えられていたのだから。自分は彼ら夫妻の養子であり、彼ら夫妻の実の子供ではない、と。それに……――どうしてなのかは分からないが、いつかこんな日が来るだろうということを、彼は予感していたのだ。彼ら夫妻から自分はいつか引き離されて、どこか遠い、別の場所に追いやられるのだと。きっとどこか、悪い場所に。そしてその予感は、ある意味においては当たっていたといえるだろう。
 そしてボストンへと向かうことになる車内で彼は、自分を誘拐した男であり、そして実の父親である男、つまりアーサー・エルトルから、自分自身に関するあらゆる真実を聞かされた。
 彼自身の本名は、シスルウッド・アーサー・マッキントシュであること。母親は殺人鬼で故人。そして彼は、死んだ女の腹から取り出された子供であること。それから、戸籍上における彼の名前はシルスウォッド・アーサー・エルトル。故に以後、彼はその名前を背負って生きなければいけないということも父親からは教えられた。
 またジョナサンという名前の異母兄がいると教えられたのも、そのときだ。そして父親が、あの車内で最後に放った言葉は、これだった。
「貴様の血は呪われている。それでも生かしておいてやるのだから、私に感謝しろ。もしお前が死にたくないのであれば、私の言葉には全て従え。分かったな?」
 あの時、シルスウォッド・アーサー・エルトルと名を改めた彼は、父親の言葉に何も返事をしなかった。口を開くことはなく、首をこくりと動かすこともない。
 彼はあのとき、子供らしからぬ褪めた目で、夜明けが近付き白けてきた空を車窓から見つめていた。その目に映っていた景色は、あのときから現実感を失くし、そして二度とそれが戻ってくることはなかった。
 それが、秋も終わりに差し掛かり、そろそろ冬がやってくる季節だった日のこと。近付いてきた冬の足音が連れてきた冷気が奪い取ったのは、わずかな体温と感情の大部分、そして子供のあどけなさだった。


+ + +



 そうして時間軸は移動し、再び四二〇四年。ボストン第一分署にて。
「…………」
 錆の目立つボロのパイプ椅子に座り、腕を組んで黙りこくる保護観察官レーノン・ライミントンは、子供らしくない少年をじっと見つめていた。そんな保護観察官レーノン・ライミントンの視線の先には、上半身に何も衣服を着用していない状態の少年が立っていて、そのすぐ傍には、その少年の体をゴツいカメラで撮影している鑑識課の捜査員が居る。
 無言でカメラのシャッターを切る捜査員の顔は、険しいものだった。それも、当然だ。大人は誰しも、生傷だらけの子供の体を見れば胸を痛める。ましてやその生傷の原因が、本来なら子供を守るべきである親にあると分かったのなら、湧き上がる憎悪は抑えることが出来ないだろう。
 子供の体は、無垢であるべきだ。仮にその子供の体に傷跡があったとしても、それは屋外で夢中になって遊んでいる最中に、うっかり転んで出来てしまった成長の証に限られるべきである。だが保護観察官レーノン・ライミントンがその時に目撃した、少年の体に刻まれていた幾つもの傷跡は、どれも転んだ際にうまれたかすり傷であるとは言い難かった。
 血管が透けて見えるほど白い肌には、見る者の心を容赦なく抉る傷跡があちこちに点在している。両手首にある、太いロープのようなもので縛り付けられたかのような索痕。腹、それも鳩尾のあたりに集中している青あざ。それに背中には、細いベルトか鞭のような何かで、執拗に叩かれたような打撲の痕と裂傷が刻まれている。……この少年が日常的に、暴力を初めとする虐待を受けていて、かつ軟禁状態にあると結論付けることは、誰にとっても容易なことだった。
 とはいえ、問題はこれからだ。虐待だと結論付けたあと、次に何をすべきなのか。
「…………」
 勿論、保護観察官レーノン・ライミントンは自分が何をすべきなのかは理解していた。だが彼は“自分が今、すべきこと”を実行に移すことをためらっていた。
 公務員である以上、マニュアルに従うべきなのは彼も理解していたが。だが今ここで、自分は中途半端にこの子供を見捨てていいのか? ――そんな葛藤が、彼の胸の中にあったのだ。
「…………」
 レーノン・ライミントン。彼の仕事は、保護観察官である。それは非行を犯した疑いのある未成年に付き添い、更生に導くという仕事だ。それが、彼の仕事。そこに虐待児のケアという業務はない。だから彼は、それの担当者に少年を引き継ぐべきなのだ。
 もともと、保護観察官レーノン・ライミントンが今日この場所に来ることになった理由は、彼の上司の早とちりにある。問題を抱えた未成年が警察官に保護されたという報せを受けた上司が、保護観察官レーノン・ライミントンに「警察署に行って、様子を見てこい」と命令を出したことに端を発していた。だから彼は今すぐにでも上司に連絡をし、こう伝えるべきなのだ。警官に保護された未成年とは、罪を犯して逮捕されたという意味ではなく、虐待を受けている子供が保護されたという意味だった、と。そうすればあとは上司が適切な部署に情報を回してくれるだろうし、そうすることで少年は、適切な部署にいる適切な担当者によって、保護されることになるだろう。だから彼は、上司に連絡を入れればいいだけなのだ。
 それなのに。どうしてか、保護観察官レーノン・ライミントンにとってその選択は『この少年を見捨てること』と同意義に思えて仕方なかったのだ。
「――……終わったよ。協力してくれてありがとう。もうシャツを着ていいよ」
 保護観察官レーノン・ライミントンがそうこう考え込んでいるうちに、捜査員による撮影が終わる。捜査員の言葉を合図にその少年は、保護観察官レーノン・ライミントンが先ほど買ってきた新品のシャツに袖を通し、傷だらけの体を再び世間の目から隠した。
 まだ泣きはらしたあとが残っていて、赤くなったままの状態である少年の目元だが。その目にはもう恐怖を訴える必死さはなく、その時に少年の目の中に宿っていたのは諦めとも取れる虚ろな影だけ。……その影を、しっかりとその目に焼き付けてしまった瞬間。保護観察官レーノン・ライミントンは、彼の人生にその後一生付き纏うこととなる、誤った決断を下してしまったのだ。
「なぁ、ウディ。君は、家に帰りたいか? 君を傷付けた父親が居る家に」
 保護観察官レーノン・ライミントンが、思わず口走ってしまったその言葉。だが保護観察官レーノン・ライミントンはその言葉に後悔はしておらず、寧ろ彼はその言葉を発したおかげで、決意をより強固なものに塗り固めてしまったのだ。そして少年は、こう言葉を返す。
「……帰りたい。ドロレスとローマンの居る家になら」





 またも場所は戻って。時は西暦四二八九年。北米、マンハッタン某所。
「――……あぁ、うーん。つまり、アンタには親が複数人いたってこと?」
 アルバが語ったのは、昔話のまだほんの序盤だが。アストレアは既に、混乱していた。そして混乱するアストレアが投げ掛けた質問に、アルバは答える。
「ああ。ざっくり言うと、そういうことだ。肉親の他にも親代わりが、そうだな……五、六人ぐらいは居ただろうな」
「へっ? そんなに?」
「そう驚くこともないだろう。エスタ、お前だって似たような状況に居ただろうに」
 あくまでもアルバの口調は淡々としていた――作り話のようにも思える、過激すぎる内容に反して。そのギャップは、ますますアストレアを混乱させていく。これは本当にあった話なのか、それともこの男が自分をからかうために作り話でも聞かせているのか、と。
 しかし彼の語った話は、残念ながら彼が経験してきた事実である。そして、衝撃的な内容をなんてことないかのように淡々とアルバが語ることができるのは、彼が「過去は、あくまでも過去だ」と吹っ切っているからこそ。
 とんでもない話を語る彼が、薄ら笑いさえも浮かべてみせている顔で、優雅に紅茶の用意をしていることこそ、その証。それなりに暖かいお湯を、ティーカップとティーポットに注ぐアルバの様子はいつも通りでしかなく、悲惨な過去を思い出したことによる動揺など、ちっとも見当たらない。
 平常通りすぎる彼の様子に、アストレアは混乱と共に疑念も募らせていく。が、それ以前の問題が彼女にはあった。
「それにしてもさぁ、ミスター……」
 アストレアの人生の中では一度も聞いたこともないような言葉が、彼の話には多く登場している。
「僕には分かんないことばっかりだよ。まず、キョウカイって何なの? あと、バプテスマって何?」
 つまりアルバの語る話の内容が、彼女にはまるで異世界の出来事のように聞こえていたのだ。
 正直に、思ったことを口にしたアストレアに対して、アルバが向けたのは憐みの目。無学だが生意気な小娘に対して、彼もまた思ったことを正直に口にしてみせるのだ。「エスタ、お前はそんなことも知らんのか」
「知らないよ、だって知る機会も今までなかったし」
「旧時代の宗教。謂わば、静かなカルトだ。そう言えば分かるか?」
「ああ、なるほど。じゃあ水に入るっていうバプテスマってヤツは、イカれた儀式ってこと?」
「まあ、そういうことだな」
 最早、アルバは解説することさえ諦めていたようだ。アストレアが挙げた仮説に、適当に頷く彼からは「話してやったところで、どうせお前は理解さえできないだろう?」といった慢侮が表れている。そんな彼の心の声は当然、アストレアにも聞こえていた。だが、実際に自分は説明されたところで理解できないだろうと分かっていたので、彼女は特にその点に関しては悪態を吐かない。
 とはいえそれは、彼女が悪態を一切吐かないという意味ではない。故に彼女は別のポイントを見つけ、アルバに向かって悪態をぶつけるのだ。
「なんか意外だよ、ミスター。アンタに怖いものがあったなんてさ。それに水に沈められて殺されるだなんて、大げさな――」
「大袈裟な話ではないな、残念ながら」
 しかしアストレアの悪態を、アルバは気にも留めず、それどころかぴしゃりと跳ね除けてみせた。それから彼は、こう言葉を返す。「私は何度か、水に沈められて死にかけている。あの苦痛は、とてもじゃないが笑えない」
「それって……冗談だよね?」
「いいや、冗談ではないぞ」
 手慣れている無駄のない動作で、ティーカップとティーポットに入っていたお湯をシンクに捨てるアルバは、自分が過去に死にかけた話をさらりと語る。その顔には、薄ら笑いが浮かんでいた。
 その姿は、まるで他人事のように……というよりも、まるで映画のあらすじを語っているよう。そんな彼の余裕さに、やはりアストレアは疑問を抱くのだ。本当に彼の言っていることは、事実なのだろうかと。
 アストレアは半信半疑というか、九割近くの内容を疑いながら、アルバの語る昔話を聞いていた。彼女が質問をするのは彼の話を疑っているからであり、彼女が話の続きを催促するのは、彼が語る法螺話――アストレアはそう思っているが、あくまでも内容は全て事実である――が気になるからこそ。
「……それでアンタは、そのレーノン・ライミントンって人が『誤った決断を下した』って言ったけど。彼は具体的にどう、誤ったの?」
 アストレアは期待していたのだ、これが法螺話ならばいつかボロが出るだろうと。だから続きを離せと彼女は催促する。挑戦的なギラついた光を、大きな瞳に爛々と湛えながら。
 相手がボロを出す瞬間を、今か今かと待ち望んでいるアストレアが、言葉の後に意味ありげに首を少し傾げさせたとき。ちょうど火にかけられていたヤカンが笛を吹き、湯が沸いたことを知らせる。そうしてガスコンロの方に歩いていきがてら、アルバはアストレアの問いにこんな答えを述べた。
「父親から命からがら逃げ延びた私は無事に、父親の許に返された。そして権力者に楯突いた若者は上司に白い目で見られるようになり、彼は職を退くしかなくなった。つまるところ、常に“力が勝つ”というわけだ。――そこらの社会構図は、お前もよく知っているだろう?」
「まあね。アンタが力を振りかざして、不幸をばら撒いてる姿はよく見させてもらってるし」
 そうじゃない、早く続きを話せって。……――アストレアはそう急かすような視線を、ガスコンロの火を止めるアルバに向ける。そんな視線を背中に受けながら、彼は二つの過去を思い出していた。
 ひとつは、これから語るべき自分自身の幼い頃の記憶について。そしてもう一つは、本すらない童話の読み聞かせを父親にねだる幼い子供たちの顔。
「私は、飽きることなく暴利を貪り続け、散々に不幸をばら撒いてきた者たちに対し、そのしっぺがえしを食らわしてやっているだけだ。それに死後辿ることになる闇の旅路に、私財は持っていけないんだ。ならば現世で私が有効活用してやろうと、善意から回収しているだけだよ。人聞きの悪いことを言うんじゃない、まったく……」
「ミスター。それ、メチャクチャすぎる理論だよ」
「知っている。黙れ」
 当時流行していた原因不明の身体異常により、色素が欠乏した体で生まれ、その所為で弱視というハンディキャップを背負っていた息子の為に。絵本を使わず、且つ楽しめる読み聞かせの方法を考え、試していた日々の記憶がふと、アルバの中で蘇ってしまったのだ。そしてそれを起点として、克明に、今はもう消えてしまったかつての日常が思い出されていく。
 物語の続きを早く知りたいと、続きを早く話してとせがんでいた息子の顔と。そんな弟の横に座り、一緒に父親が語る物語を聞きながら、自分は絵本のページをめくり、絵本の内容を諳んじる父親が文言を間違えないかどうかを厳しくチェックしていた、娘の真剣そうな目。
 今、まさにアストレアが彼に向けている視線は、睨みを利かせている娘にそっくりだった。父親をからかうために、父親が失敗をする時を待っているような、憎くも愛らしい期待で胸をいっぱいにさせている、あの目に……――
「――ミスター?」
 ガスコンロの火を止めた後に「黙れ」とアストレアに向けて言った後、それ以降は無言で、何をするわけでもなくぼーっとしていたアルバに、アストレアは声を掛けて彼の背を握りしめた拳で小突く。それにより過去に往きかけていた彼の意識が手元のヤカンに戻り、背後のアストレアに戻った。そして彼は言う。「……ああ、すまない。思考整理をしていた」
「法螺話の続きを、こねくり回してたんじゃなくて?」
 ニヤリと笑うアストレアの顔に、消えた日常の中の娘ではなく、パトリック・ラーナーという名のイヤな男の顔を意図的に上塗りして。認識する世界を書き換えるアルバは、不快な感情を望んで自ら想起させ、冷静さと冷徹さを取り戻す。
「法螺話ではないと言っているだろう。この私が、珍しく馬鹿正直に全てを話してやっているというのに。お前というヤツは……」
 そうして可能ならば戻りたい、愛しい日々へ馳せる感傷を、彼は意識的に胸の奥へとしまい込む。それから彼は再び、悲惨だった特務機関WACE時代に目を向け、最近のスタンダードとなりつつある“シビアな視点”に思考プロセスを切り替えた。
 しかし背景で動き続ける感傷は、ある疑問を彼自身に突き付けるのだ。いつから自分は狂いだしたのか、と。初めから自分は正常ではなかったのか、それとも後天的におかしくなったのか。仮に後天的に狂いだしたのなら、その明確なキッカケとなった出来事は何だったのか――。
「私の唯一の取り得は、記憶力だ。良くも悪くも、見聞きしたことはほぼ全て記憶している。あらゆる記述も、出来事も、その全てを写真のように、ほぼ正確にな。そしてなかなか、忘れられない」
 アルバの頭の中にある記憶の図書館の扉を開けば、そこには膨大な数のスクラップブックが所狭しと並べられている。その中から古い記憶を取り出して、彼は当時の出来事を思い出していく。
「……忘れられたら、どれほど楽になれることか……」
 胸糞悪い記憶だけが、そこには眠っていた。


+ + +



 世界は彼を愛さなかったし、彼もまた世界をうまく愛せなかった。
 それでも辛うじて、正常とされる倫理や道徳、そして高等な教養を彼が身に着けることが出来たのは、彼を愛し、また彼が愛せた者が少なからず存在していたからである。
 だが正常とされる判断をひょいと覆して、あっという間に凌駕してしまった狂気を彼が宿してしまった理由は、彼を深く傷つけて、彼を憎んだ者がそれだけ多く存在していた証。
「なんだ、その顔は!」
 夕方のバスルームに響くのは、苛立ちに満ちた父親の声。それと振り上げられた細いベルトがひゅんっと風を切り、子供の体に叩きつけられる音。――……怒号と、ベルトが鳴らす音は、その後も誰かが止めに来るまで、延々と続けられる。
 怒号をぶつけられ、ベルトを体に叩きつけられる金髪の少年は俯いたまま、何も言わずに歯を食いしばって、痛みに耐えていた。そして泣きもせず、反抗もせずに、少年が無言を貫き続ければ、それはそれで父親の怒りを買い、ますます振り上げられるベルトの力は強くなっていく。
 しかし、どれだけ怒鳴られようと、叩かれようと、少年はただ耐えるだけ。
 というのも彼は知っていた。これだけ父親が騒ぎ散らしていれば、誰かしらが来てくれる。誰かがこのバカ丸出しの哀れな父親を止め、この状況を終わらせてくれると。仮に、誰も止めに来てくれず、どちらかが力尽きることになったときは……――まあ、そのときは、そのときだ。
「何も言えんのか、貴様はァッ! 盗みを働いておきながら、謝罪すらも言えぬのか、シルスウォッド!!」
 父親がこうも怒り狂うキッカケとなった出来事は、とても些細なものだ。シルスウォッド、そういう名前である少年が、父親の書斎に入って、勝手に本を読んでいたこと。それが原因である。
 シルスウォッドからすれば、それは自分が住んでいる家にあった本を借りて、ちょっと読んでいただけのこと。盗もうなどという考えは更々なかったし、読み終わったら元の場所に返そうとしか考えていなかった。にも関わらず、ろくに息子の話も聞かずに一方的に怒鳴りつけては、ベルトで叩いてくる父親の姿に、彼はすっかり呆れ返っていた。だから黙って、この理不尽な仕打ちに耐え続けていたのである。
 俯いて歯を食いしばるシルスウォッドは、こんなことを父親に対して思い続けていた。――どこまでも哀れなひとだ、と。
 そうして耐え続けること、数分。シルスウォッドが考えていたとおりの展開が訪れる。理性というものがまるでない父親を、ある女性が止めに来たのだ。
「アーサー、おやめなさい! 近隣住民に聞かれているかもしれないのよ?!」
 バタバタと慌てて駆けてくるような足音と共にバスルームのドアを開け、中に入ってきた女性は、父親である男の正妻。そしてシルスウォッドとの間に血縁はないものの、偽装された戸籍上では母親ということにされている女性。元裁判官であり、現在は専業主婦であるエリザベス・エルトルだ。
 嫡出子である長男、ジョナサン・“ジョン”・エルトルを学校から連れて帰ってきた彼女は、玄関を開けて家の中に入るなり聞こえてきた夫の怒声に、いつものように驚愕し、駆け付けてきたのである。そしてエリザベス・エルトルは、異端審問官さながらの拷問っぷりを五歳の子供に対して行う夫の手に一冊の本が握られていることに気付くと、ことの全容をすぐさま理解した。それから彼女は、とても理性的でない夫に対して、冷や水よりも冷たい言葉と視線を浴びせるのだ。
「たかが本一冊でしょう。それぐらいで目くじらを立てて。……みっともない男……」
 エリザベス・エルトルは夫から本を取り上げ、鞭の代わりとして振るっていたベルトも奪い取ると、吐き捨てた言葉と共に、最大の侮蔑を込めた目で夫を睨みつける。それでも反省している素振りはなく、むしろ敵対的な態度を取る妻に不満さえ抱いている様子のアーサー・エルトルは、舌打ちを鳴らした――妻エリザベスに対してではなく、横で俯きながら突っ立っている不義の息子シルスウォッドに対してだが。それから当てつけのようにアーサー・エルトルは、息子シルスウォッドの腹を、握りしめた拳で意味もなく一発、ただ殴る。
 流石のシルスウォッドも、この痛みは体が堪えた。とても踏ん張ることができず、彼は殴られた腹を抱え、バスルームの冷たいタイルの床にへたり込み、そして座り込む。すると妻エリザベス・エルトルは、次なるアクションを起こした。
「あなたがこの子供を傷だらけにしてくれる所為で、我が家は家政婦も子守も雇えない。それに傷だらけの子供は、幼稚園にも行かせられないのよ! この家庭事情を、余所に知られるわけにはいかないのだから……!!」
 妻エリザベス・エルトルは夫から奪い取った本をバスルームの床に投げ捨てると、空いたその手で不貞腐れる夫の頬に平手打ちを食わせたのだ。そしてエリザベス・エルトルが夫に恨み節を発する。
「――だから私は家事に専念するために、仕事を辞めざるを得なかったのよ。私が、あなたの犯した失態の尻拭いをするために、どれほどの犠牲を払ってきたのか。あなたはちゃんと、そのことを理解しているのよね?」
 妻は夫を睨み、夫も妻を睨む。……そして結果は、いつも同じ。妻の言い分が正しい、だから夫は無言で引き下がる――プライドばかり高いせいで、夫は決して謝罪などしないが。また、その光景を子供たちが、別々の視点で見つめているのも、いつも通りの光景だ。
「よろしい。アーサー、ならば今すぐ自分の部屋に戻って。頭を冷やしてきなさい」
 夫アーサーの犯した非道の末に生まれた子供であるシルスウォッドは、表面上はしおらしくしながらも、心の中では夫婦が早くこのバスルームから出てくれることを待っていた。この不毛なやり取りが早く終わることを、そして安全な自分の部屋に戻れる時を、彼は待っていたのだ。
 一方、バスルームからは離れた場所に、無言で佇む六歳の少年――エリザベス・エルトルが産んだ子供、つまり嫡出子である子供――ジョナサン・“ジョン”・エルトルは、母親エリザベスのことを可哀想だと思い、そして父親アーサーの醜態を憎み、異母兄弟であるシルスウォッドの存在を否定していた。あんな弟さえいなければ母さんが苦しむこともなかったのに、と。
「……あなたがブレナン家から子供を奪い取るなんて愚かな真似さえしてくれなければ、全てが穏便に収束するはずだったのよ。こうなったのは全部、あなたの所為なんだから……」
 妻エリザベス・エルトルの恨み節は止まらない。そしてベルトで体を打ち付けられ続けて、背中に傷をつくり血さえも流している五歳の子供に手を差し伸べる者も、この家には居ない。
 エルトル家には、シルスウォッドの居場所はなかった。味方をしてくれる者も居ない。辛うじてマシだと言えることは、ただひとつ。妻エリザベス・エルトルが、徹底的にシルスウォッドを空気のように扱ってくれていたことだけ。彼女はシルスウォッドに愛情を与えることも無かったし、気遣いをしてくれることも、怪我の手当てをしてくれることも無かったが。夫が子供に対して行っていた暴力に加担することも一切無かったのだ。
「……今からだって、遅くないわ。ブレナン家にこの子供を返せばいいだけの話だっていうのに……」
 そう妻エリザベス・エルトルが呟くと、夫であるアーサー・エルトルは不機嫌そうな顔で口を噤み、足音だけを雄弁に響かせて、バスルームを去っていく。それに続いて、妻エリザベス・エルトルもバスルームを去っていき、異母兄ジョナサンもそれに続いた。そうして結果的にバスルームには、床に座り込む五歳のシルスウォッドと、床に投げ捨てられた一冊の本だけが残された。
 シェイクスピア全集。そう背表紙に書かれていた本には、あるページに栞が挿まれている。それはリア王の中でも、グロスター城が初めて登場するシーンの冒頭部。
『――今だ、神々よ、落とし子どもの為に立ち上がれ!』
 ウィリアム・シェイクスピアの悲劇『リア王』の劇中で、そう叫んでいたのは、グロスター伯の落とし子エドマンド。劇中では悪役として描かれるエドマンドだが、しかし五歳にして既に腐り切っていたシルスウォッドにとって、エドマンドは悪役ではなくヒーローだった。
 手当てを求めるように、あちこちで鋭い痛みのサイレンを鳴らしている体に、彼は無視を決め込んで。シルスウォッドは本に手を伸ばし、決して口を開かずに、よろよろと立ち上がる。無味乾燥とした現実に恐怖心さえも捨てた彼はそうしてまた、父親から与えられた軟禁部屋へと戻っていくのだ。父親の次なる指図を受けるまでの自由時間を、いかに有効活用するか。そのことだけに今は、思考の全てを集中させて……――。
「…………」
 当時のシルスウォッドが常に待っていたのは家の住民たち全てが寝静まる夜であり、家の住民たちが目覚める前の夜明け頃。そして待っていたのはただ一人、一年前に出会ったある若い男だけ。――ワケあって保護観察官という職を解かれ、その後は新聞配達のアルバイトに勤しんでいたレーノン・ライミントンがこの家の前に現われる朝を、彼は待っていたのだ。





「――灰色の夜明けが、ボストンの空に訪れる頃。普通の子供ならば寝ている時間だろうが、私はその時間には起きていた。そして燭台の蝋燭にマッチで手早く火をともすと、前日にゴミ箱から盗んだチラシの裏面に、大急ぎで日記のような、手紙を書いていた。レーノンおよびブレナン夫妻宛てに、自分の身に何が起きているのかを伝えるための手紙をな。それを書き終えたあとはそのチラシで紙飛行機を折った。そしてちょうど紙飛行機が完成した頃合いに、窓の外から自転車の警音ベルが鳴る音が聞こえてきていたものだ。それで窓から首を出してみれば、家の下には新聞を配達しに来たレーノンが居る。それが当時の、朝の日課だった」
 そう思い出話を語るのは、白髪の死神アルバ。惨鬱な過去の日々の中に、少し混じっていた暖かい出来事を語る彼の口調は、しかし相変わらず無感情そのものだ。それでも彼の顔に張り付いている薄ら寒い微笑は、彼の話を聞くアストレアにこんな感想を抱かせる。やっぱりこの男は世界で一番、敵に回しちゃいけないやつだ、と。
 アルバの話を聞くアストレアは、彼の話の真偽をまだ疑っていた。何故ならば彼の語り口が、あまりにも他人事のようだから。ちっとも感情の機微が無いのである。だから信憑性が疑われるのだ。
 だが彼の語り口に感情の機微が無いのは、仕方のないこと。なにせ思い出話の対象となっている当時から、彼には感情の機微があまり無かったのだから。
 特にこれといって思い入れやトラウマがあるわけでもない出来事を語る際に、いったいどこに動揺する要素を見出せるのか? 数年前に起きた出来事ならまだしも、半世紀以上も昔に起きた出来事のことなんて……――つまり淡々とした口調になるのは、当然の結果なのだ。
 そして今となっては、かつての恩人たちとのやり取りさえも、出来事や掛けてもらった言葉こそ違わずに覚えているが、その思い出も随分と色褪せてしまっている。感情を揺さぶるような、心に迫ってくるようなものは、もう何も無いのだ――少なくとも、今の彼自身にとっては。
「そうして当時は毎朝のように、レーノンに紙飛行機にしたためた手紙を投げていた。そしてレーノンからも、同様の紙飛行機を受け取っていた。レーノン個人からの返事であったり、ブレナン夫妻から頼まれた伝言であったり。……そういえばブレナン夫妻が裁判所に親権変更の申し立てをしたが、アーサー・エルトルの姦計により全てがふいになっていたという話を知らされたのも、レーノンから送られてきた紙飛行機からだったよ」
 アルバの淡情な声は、却ってアストレアの心をずーんと、人間不信という名の暗い海に沈めていくばかり。アルバの言葉を彼女が信じられないというのもあるし。アルバの話が仮に事実であれば、人間ってここまでクズになり下がれるものなのか……と驚くしかない、というのもあった。
 ただ、何故だろうか。そのときのアストレアは胸に……というより鼻腔に、ある違和感を覚え始めていた。何だか気分が悪いのだ。アルバの話だけが要因ではない。何か、こう、胸につかえる甘ったるい気持ち悪さが……――
「――どうした、エスタ。まだ話も序盤だというのに、もうつらくなってきたのか?」
 気分の悪さから顔を顰めさせたアストレアに、アルバはそう声を掛ける。今の彼の声は無感情ではなく、早々に音を上げようとしているように見えているアストレアを、馬鹿にするような本音があからさまに見え透いていた。とはいえアストレアが気持ち悪さを覚えたのは、アルバの語る話ではない。いや、まあ多少はアルバの話から不快感は得ていたが……――アストレアが顔を顰めさせている理由はまた別である。
 アルバから送り付けられる馬鹿にするような視線を受けながらも、ますます表情を険しくさせて行くアストレアは、この気持ち悪さの理由を探していた。と、その時。彼女の目にふと、アルバの手元にあるティーカップが留まる。
 透明なガラスのカップに入っている、濃い琥珀色が美しい紅茶。たぶん色からして、かなり上等なセイロンティーだろう。それとセイロンティー特有のどこか青く渋いにおいに、甘いバラの香りが上乗せされたこの香りは……――なんだか奇妙で、アストレアには正直なんと感想を言えばいいのかがよく分からないが、まあマズそうな感じはしない。しかし、この紅茶。何かが、変なのだ。
 ティーカップをじーっと見つめるアストレアは、紅茶を変だと感じた理由を探っていた。そしてまた彼女は、紅茶のにおいの中にある奇妙な点に気付く。セイロンのにおい、バラの香り、それだけじゃない。安物の角砂糖のにおいが、あの紅茶の中に混じっているのだ。それがつまり、アストレアが感じている気持ち悪さの原因だと思われるのである。
 思えばアルバというのは、どうしようもない甘党。彼が一杯の紅茶に、角砂糖を六個も入れるという話は、そういえば特務機関WACEの中では有名なネタだったし。あまり意識して見てはいなかったからかアストレアは忘れかけていたが、彼女の目の前でたしかにアルバは、角砂糖を六個、ティーカップの中に落としていた。……となれば彼の目の前にある紅茶は、紅茶というよりは砂糖水に近い。
「いや、ミスター。そうじゃなくて。僕はただ改めて、アンタのことが理解できないと思っただけだよ。砂糖水を平気な顔で飲めるアンタの味覚が、理解できないってことを……」
 違和感の理由が判明すると、アストレアはすぐさま問題の紅茶に向けて、ゲテモノを見下すような視線を与えるようになる。するとゲテモノを好む男は、不愉快さを露わにして、アストレアにこう言った。
「……黙れ」


+ + +



 体中の傷は癒える間もなく、次々と増えていくばかり。心の傷は幸いにも体に刻まれたものと比べれば軽く、かすり傷程度のものばかりだが、それでも日々増えていく一方。――そんな生活が続けば、次第に世界を見つめる視点は醒めていく。
「…………」
 現実感のない景色にすっかり気落ちして。美しいはずの夜明けの空を見上げてみたが、なんら心に迫ってくるものがないと溜息を吐いた、ある朝。ボストンに移り住んでからもうすぐ一年半が経過しようとしていた時、シルスウォッドはひとまず家の外に出てみたくなって、早朝に子供ひとりだけで外出していたのである。勿論、父親やその他エルトル家の住人には無断で。
 そんな時間帯に外出をしてみたくなったのには、ワケがある。というのもシルスウォッドは教会でのあの一件のあとに家に連れ戻されて以降、一度も外に出ていなかったのだ。ずっと狭い屋内に居て、ブレナン夫妻が送ってくれた学習教材とひとり向き合ったり、ブレナン夫妻が送ってくれたチェスを一人で遊んでいたり、父親の書斎で本を読み続けたりしていたりしていただけ。
 一言でいうなら、軟禁状態だった。
「…………」
 そんなこんなで、シルスウォッドは家を抜け出しては見たものの。しかし、何かしらの呪縛があるのか、家の近くを離れることが出来ず。自宅のある高級アパートの下、出入り口前の階段に彼は膝を抱えて座っていたのだ。
 あの時のボストンは夏。夏の朝はカラッと乾いて、風は涼しい。早朝となれば尚更で、たまに少しばかり風が肌寒く感じるときもあった。そうして時に肩を震わせながら、五歳のシルスウォッドが待っていたのはいつも通りのあの男。今は新聞配達員のレーノン・ライミントンである。
 そうして新聞配達員レーノン・ライミントンを、彼が待っていたとき。エルトル家と同じアパートに住む、別の男が残業を終えて帰ってくる。その人影を見つけて、それをレーノン・ライミントンだと思い、目を輝かせたシルスウォッドだが。その人影がレーノン・ライミントンのような若い男ではなく、自分の父親ぐらいの歳の男だと気付いた時に、肩を落とす。
 そして彼が、肩を落とした時だった。自宅に帰ってきたその男が、早朝に一人で外にいる子供を不審に思い、シルスウォッドに声を掛けてきたのだ。
「――どうしたんだね、そこの少年。こんな朝早くに家出か?」
 そう声を掛けてきたのは、暗い茶髪をオールバックにした、恰幅の良い白人の男。三〇代半ばか四〇代入りたて、といった歳の頃合いだろう。
 薄暗い中でよく顔が見えない中、それでも人の好さそうな相手の雰囲気は、シルスウォッドにも伝わってきていた。しかし……数か月ぶりに会うレーノン・ライミントン以外の赤の他人は、すぐには信用できないというもの。
「それで君は、どこの家の子だい? 家はこの近くか?」
 一人きりでいる子供を、その男はスルーすることができないのだろう。会談に座っているシルスウォッドの横に腰を下ろし、並んで座るその男は、シルスウォッドに詰め寄る。無言を貫き、無視を決め込むことは、この男には通用しないとシルスウォッドは判断し、渋々口を利くことを決断する。といっても、素っ気ない対応だが。
「あっ……僕のことは、気にしないでください……」
「もう一度聞く。どこの家の子だ?」
 しかし、どんどん詰め寄ってくる男は、家の名前を聞き出すまでは引く気はないらしい。というよりも家の名前を聞き出して、この子の親を問い詰めてやるとさえ考えていそうな顔だ。となれば、もうヤケクソだ。シルスウォッドは正直に、家の名前を教えるまで。「……このアパートに住んでる、エルトルです」
「エルトル? じゃあ君は、ジョナサンくんか?」
「いいえ。ジョナサンは兄です。僕は……」
 ジョナサンは兄で、僕は弟。そう言えば良かっただけなのだが。何故だかその時、シルスウォッドの口からは“弟”という言葉が出てこなかった。出せなかったのだ。それを言ってしまうことが、とても罪深いことのように、当時の彼には感じられたからだ。
 あの家の住人を家族として認めてしまうことが、憚られた。それは世間に嘘を吐くことになるから。それと自分自身に、嘘を吐くことになるのだから。
 そうして続きを言えずに、俯いたシルスウォッドが狼狽していると。男は立ち上がり、シルスウォッドの腕を掴んで、引っ張る。それから男は言った。「事情は後で聞く。私の家に来なさい」
「あの、僕は大丈夫です、だから気にしなッ――」
「私はリチャードだ。リチャード・エローラ。エルトル家の隣人だよ。そして私は医者で、君ぐらいの歳の子供を持つ父親だ。つまり悪い者じゃない。信用してくれ。だから、さあ行くぞ」
 エローラ。そういえば、どこかで聞いたことがある。――そんなことをふと感じたシルスウォッドが、記憶を辿って“エローラ”という珍しい苗字をどこで聞いたのかを探す作業を開始した時。リチャード・エローラと名乗った男は、ぐいぐいと掴んだ子供の腕を引っ張り、半ば強引にシルスウォッドを立ち上がらせた。
 この男について行けば、もしかしたら自分は軟禁状態の今から抜け出せて、助かるかもしれない。その可能性は高く、またその展開を望んでいた彼自身もいただろう。
 けれども当時のシルスウォッドが取った行動は、男の手を振り解くというものだった。
「待ってください、あとちょっとだけ! もう少ししたら知り合いが来て、彼に渡さなきゃいけないものが……」
「こんな時間に尋ねてくる知り合いってのは、誰のことだい?」
 夜が完全に開けているわけではない、早朝。こんな時間に誰かを待つ子供と、こんな時間にやってくる誰か。――どう考えても、普通ではないだろう。
 怪訝に思う態度が、男の言葉からは滲んでいた。それも当然の反応である。だからシルスウォッドは男に対し、相手の名前を正直に話す。あの父親にバレたらどうしよう、などという迷いはもう無かった。
「……レーノン。新聞配達員の」
 新聞配達員というシルスウォッドの言葉を聞いて、男はひとまず理解した様子。だが、納得したわけではない。故に、男は考えた。
「うむ……新聞配達員と君の繋がりはよく分からないが。よし、その新聞配達員が来るまではここで待とう。私も一緒にな。そして用が済んだら、私の家に一緒に帰ろう。分かったかい?」
 早朝に家々を訪ね回る職業といえば、まあ新聞配達員ぐらいだろうし。もしかしたら中には、新聞配達員と仲良くなった子供もいるのかもしれない。
 だが、こんな時間帯に子供が起きていることは普通ではないだろう? それに、どうもこの子供は様子がおかしい。年齢の割には随分と大人びているというか、親に頼らず生きているような気配が……――。
「…………」
「…………」
 勿論、男が自分に対して向けてくる疑念の目にシルスウォッドは気付いていたが。当時の彼はあくまでもだんまりを決め込み、男からスッと離れ、再び階段に座り込むだけ。そうするとまた男のほうも階段に座り、口を閉じ、あらゆる仮説を組み立て続ける作業に取り掛かりはじめる。
 そうして時間が流れ、灰色の雲が流れ、徐々に空から藍色の闇が消えて水色が顔を出してきた頃。使い古された自転車がキコキコと鳴る音が、少しずつ近付いて来ていた。
「あぁ、どうも。おはようございまーす」
 赤錆びの目立つ、青色の自転車を漕ぎながらやってきたのは、保護観察官……改め、新聞配達員レーノン・ライミントン。アパートの出入り口前に居る男の影に気付き、新聞配達員レーノン・ライミントンは抑え目な声量で挨拶をする。それから彼は自転車をアパートの前に停め、自転車のカゴから新聞の束を幾つか手に取り、そしてアパートの中に入って、新聞を購読している各家のポストに投函を……――
「……――って、ドクター・エローラ?!」
「おお。誰かと思えば、保護観察官のライミントンくんじゃないか。久しぶりだね。……あぁ、なるほど。そういえば君の名前は、レーノンだったなぁ」
 ポストへと向かおうとした新聞配達員レーノン・ライミントンだったが、上り終えた階段を引き返し、階段に座っていた二人の前に戻ってきた。それから新聞配達員レーノン・ライミントンはまず“リチャード・エローラ”と名乗った男の顔をまじまじと見つめて、驚きから声を上げる。
 するとリチャード・エローラのほうも、新聞配達員レーノン・ライミントンに気付いたようで。顔見知りらしい二人の男は、何やら世間話で盛り上がり始めた。
「まさか、ERの外でドクターにお会いすることになるとは、予想外でしたね。ということは、ここいらにお住まいで?」
「そう、まさにこのアパートに住んでるんだよ。――それにしても君は、いつから新聞配達員に?」
「一年ちょっと前ですね~。諸事情でクビになりまして」
「なるほど。どうりで近頃は、素行の悪い少年少女を引き取りに来る児童保護観察官が君じゃなく、女性だったわけだ。担当が変わっただけなのかと思ったが、まさかクビになっていたとは」
「ドクター。その女って、まさかトンプソンじゃ……」
「そのとおり。マクスウェル=ヘザー・トンプソン氏だ。まだ若いというのに、豪胆なジジィ揃いのパトロール警官連中にも引けを取らない彼女のワイルドさは……本当に、素晴らしいよ。舐め腐った不良少年たちにゲンコツを食らわせる姿も、傍から見ていて痛快で気持ちいいと感じるね」
 大人の世間話。それを横で盗み聞くシルスウォッドは、大人しく黙り込みながら、キョロキョロとしている新聞配達員レーノン・ライミントンを見上げていた。そして新聞配達員レーノン・ライミントンはというと、アパートの二階にある窓という窓を見渡して、明らかに誰かを探している様子。
 とはいえ新聞配達員レーノン・ライミントンが探している少年は今、レーノン・ライミントンの目の前に居るのだが。一向に気付く気配のない新聞配達員レーノン・ライミントンに、リチャード・エローラ医師が助け舟を出した。
「ライミントンくん。お探しの少年は、この子じゃないのかい」
 リチャード・エローラ医師の言葉でようやく、新聞配達員レーノン・ライミントンは階段に座るシルスウォッドの存在に気付いたようで。家の中におらず外に出ていた少年を見るなり、新聞配達員レーノン・ライミントンは言葉を失くし、ただただ驚いたように口をあんぐりと開けていた。するとリチャード・エローラ医師は新聞配達員レーノン・ライミントンの姿に苦笑しながら、自身の横に座る少年の肩に触れる。それからリチャード・エローラ医師は、新聞配達員レーノン・ライミントンに対してこんなことを訊ねた。
「エルトル家の少年と君が知り合いというのは、事実のようだ。ところで、君たちはどこで出会ったんだい?」
「……それは言えませんよ、ドクター。まあ、だいたい察しが付くでしょう?」
 天才肌ゆえに、凡人の心情を全く察することができない――そう評されることが多いリチャード・エローラ医師だが、流石の彼も、気まずそうな新聞配達員レーノン・ライミントンの表情と声色から、何かを察して理解した様子。そんなリチャード・エローラ医師は、大人の男二人の様子を伺いながら妙に大人しく息を殺している少年を改めて、まじまじと見つめて腕を組む。元より、隣人エルトル家に思うところがあったリチャード・エローラ医師は、どうにも子供らしくないその少年の様子に、隣人への疑いを確信へと変化させていた。
 そんなこんなでリチャード・エローラ医師が、覚えている限りの隣人に関する記憶を掘り起こしていた時。新聞配達員レーノン・ライミントンが気まずそうな声で、リチャード・エローラ医師にある頼みごとを持ち掛けてきたのだ。「――あの、ドクター。ひとつ、頼みが」
「なんでも言ってくれ、ライミントンくん。まあ、察しがついているがね」
「このまま家に帰すのも酷なので、こいつをひとまず預かってもらえませんか? それで……もし可能であれば、ドクターのご自宅を、今後こいつが避難できる場所にしてもらいたいんです」
 新聞配達員レーノン・ライミントンがそう言い終えたあと。数十秒ほど、大人の男二人は黙り込む。それはお互いに腹の底を探り合っているかのような、居心地の悪い沈黙だった。しかし、それはそう長くは続かない。というのも新聞配達員レーノン・ライミントンの意図に気付いたリチャード・エローラ医師が、ニヤリと笑ったのだ。そしてリチャード・エローラ医師はこう言う。
「なるほど。思えば、我が家は都合が良い。近所に住む友達の家に遊びに来た、となるわけだ」
 それに対し新聞配達員レーノン・ライミントンは、こう返した。
「ドクターの娘さんが、彼と友達になってくれればの話ですけど」
 すると新聞配達員レーノン・ライミントンも、ニヤリと笑う。そうして不気味な笑みを浮かべる男二人の視線が、シルスウォッドに向いた。小声で交わされていた大人の話に、まるでついていけていなかったシルスウォッドは、向けられた視線に困惑の表情を浮かべるのみ。そんなシルスウォッドはすっかり、新聞配達員レーノン・ライミントンに渡すべき手紙の存在を忘れていたが、新聞配達員レーノン・ライミントンのほうは忘れていなかった。
 新聞配達員レーノン・ライミントンは、腰ベルトに下げていたポーチから自分がしたためてきた手紙と、ブレナン夫妻から預かっている手紙を取り出すと、小さな子供と同じ視点になるよう跪いて、そしてシルスウォッドにその手紙を差し出す。差し出されたそれをシルスウォッドは受け取ると、今度は彼が新聞配達員レーノン・ライミントンに用意してあったいつもの紙飛行機二つを手渡して、いつものように笑顔を浮かべた。相手を安心させるための、子供らしくない偽物の笑顔を。
 だが新聞配達員レーノン・ライミントンは、その笑顔が偽りであることを見抜いていなかった。だから新聞配達員レーノン・ライミントンは、心の底から安心したような笑顔を浮かべる。そうして彼は受け取った二つの紙飛行機を手早く綺麗に広げると、それを半分に折りたたんだ。それから更に彼は腰のポーチの中から一冊のメモ帳を取り出し、開いた本にまるで栞を挟むように、受け取った手紙を挟む――小さなポーチの中で紙がクシャクシャにならないようにするための、新聞配達員レーノン・ライミントンなりの工夫だ。
 そうしていつもとは違う形で、いつもと同じ手紙の交換を終えると。新聞配達員レーノン・ライミントンは、自分の仕事に戻っていく。新聞配達員レーノン・ライミントンは立ち上がると、再びアパート内のポストの方へと歩いて行った。そして仕事に戻りがてら、新聞配達員レーノン・ライミントンは言う。
「また明日も来るからな、ウディ。いつもの用意して待っててくれよ!」
「……うん、待ってる」
 新聞配達員レーノン・ライミントンが、新聞を各家に投函する作業を開始すると。リチャード・エローラ医師が立ち上がり、シルスウォッドにこう言った。
「それじゃ、行こうか。君の家ではなく、我が家にね」


+ + +



 それまで、少なくともシルスウォッド自身は一度も関わったことがなかった隣人の、エローラ家。そこで迎えた朝は、いつもよりも静かで穏やかな気分でいられた。
 残業を片付けて朝に帰ってきた夫リチャード・エローラ医師を、呆れ顔で迎えた妻リアム・エローラは、最初こそ夫が連れて帰ってきた見ず知らずの子供・シルスウォッドを訝しむように見ていたが。夫が「外の階段にひとりで座っていた、隣家の子」と説明すると、妻リアム・エローラはすぐに事情を理解したようで。見ず知らずの子供をゲストルームに案内したあと、彼女はシルスウォッドにこんなことを告げた。
『今後はいつでも、うちに来て頂戴ね』
 いつも通りの朝ならば。シルスウォッドは新聞配達員レーノン・ライミントンと紙飛行機の交換を終えた後はベッドに戻って、空寝を決め込みながらベッド上で息を殺し、耳を澄ませて周囲を警戒し続けて……。そうしてろくに眠ることも出来ないまま、目覚まし時計が告げる朝六時の声を聞くことになるのだが。当然、安全な場所であるエローラ家では警戒すべきものもなく。あの日は彼にとって、北部の田舎町ハリファックスを離れてボストンに連れ去られて以来初めて、よく眠れた朝だっただろう。
 それに、曲がりなりにも医者であるというリチャード・エローラ医師が、ベルトで鞭打たれて出来た傷に、正しい手当てを施してくれた。リチャード・エローラ医師いわく「傷が一部、化膿している」とかで、その処置は少しばかり痛みが伴うものだったが、日ごろ受けているベルトで殴られる痛みと比べれば、それはどうってことない痛み。そうして少しばかりの痛みに耐えた後には、当時のシルスウォッドが日常的に抱えていた気分の悪さが少しばかり軽減していた。
 そんなこんなでリチャード・エローラ医師は手当てをしてくれながら、シルスウォッドに対して、シルスウォッドと同い年だという自分の娘の話をしてくれた。
 名前はブリジット。彼女は少し風変りな性格をしていて、友達ができなくて。だから、もしよかったらうちの娘と仲良くしてやってくれないか? ……リチャード・エローラ医師が語ったのは、そんな趣旨の話だっただろう。そして話の中で垣間見える、少し変わっているが幸せそうなエローラ家の日常に触れ、シルスウォッドは気持ち悪さを覚えたことを記憶している。
 幸せそうな隣人、エローラ家が羨ましく思えたし、恨めしく見えた。それと同時に、二年前まで自分にもあったごく普通の日常を思い出して、悔しくなった。それから、自分を“普通の日常”から剥ぎ取った父親が、どこまでも憎く思えた。
 そして急に、虚しくなった。
 新聞配達員レーノン・ライミントンを通して手紙を送ってはくれるものの、ボストンに一度も来てくれないブレナン夫妻のこと。助けてやると言ったものの、結局失敗に終わった新聞配達員レーノン・ライミントンのこと。父親の支配下から抜け出すことも出来ずに、毎日毎日朝が来ることだけを待ち続けているだけの自分のこと……――。
 自分が何のために生きているのかが分からなくなった途端、虚しくなって、悲しくなった。田舎町ハリファックスに居た頃には、そんなことなど一度も考えたことがなかったのに。――急に湧いてきた強烈な悲しさを心の内側に押し殺しながら、シルスウォッドは良くしてくれたリチャード・エローラ医師とその妻に、子供らしい笑顔と純朴そうな感謝を振りまいた。それから、二時間弱の眠りに就いたのだ。
 あの朝は、たしかに良く眠れた。けれども日常的に感じていた警戒心や緊張が一時的に薄らいだせいで、逆に普段ならば抑えられていた鋭敏な思考が冴えてしまっていたのだ。そうして余計なことばかり考えて、抑うつ的な気分に苛まれた。それに、シルスウォッドには分かっていた。どうせこの平穏な時間は一時的なもの。今は眠っているだろう父親が目覚めて、自分が居なくなっていることに気付けば、またいつもの日常が戻ってくると。
 そうして、全て予想通りになった。
「うちのバカ息子はどこに消えやがった!」
 アパートの廊下で、そう怒鳴り散らす父親の大声がシルスウォッドを眠りから覚ましたのが、午前六時過ぎ。騒ぎ立てる父親の声を聞いて、次々とアパートの住人は起き、誰もが玄関ドアを開けて、怒り心頭の父親に憐みの目を向けていた。そして父親は手当たり次第に各家のドアを叩いては、家に勝手に上がりこみ、「出てこい、シルスウォッド!」と叫ぶ奇行を開始する。
 ある住人は、そんな父親に対して「お子さんを探すのを手伝うわ」と協力を願い出た。ある住人は、「あんな父親じゃぁ逃げたくもなるだろうね」と子供に同情した。ある住人は、「朝からうるさいぞ、静かにしてくれ!」と怒号を返した。ある住人は、「子供が失踪したらしい」と警察へ通報した。またある住人は、「いかれた上院議員のエルトル氏が大騒ぎしていて、勝手にオレの家に上がり込んできたんだ!」と警察に通報した。
 そうして手当たり次第に各家を荒らして回る父親の姿に気付いたシルスウォッドは、隠れることをやめて自ら出頭することにしたのだ。無論リチャード・エローラ医師も、彼の妻リアムも、シルスウォッドに「行っては駄目だ」と制止を求めたが、シルスウォッドは聞かなかったのだ。自分が出なければ、父親はますます騒ぎ立てて他の住人たちに迷惑を掛けるだけなのだから。彼は、行くしかなかったのだ。
 エローラ家から出てきた息子を見るなり父親は当然、激昂した。父親は息子の金色の柔らかい髪を掴んで、引き摺るように歩き、家の中に戻れとシルスウォッドに怒鳴った。それから父親は自宅の玄関ドアを開けると、シルスウォッドの背中を蹴り飛ばして、自宅に放り込む。前のめりに転んだシルスウォッドは、右肩から地面に落ちた。
 すると追いかけてきたリチャード・エローラ医師が、息子を蹴り飛ばした卑劣な父親の腕を掴んだ。そしてリチャード・エローラ医師が「アンタはなんてことをしてるんだ!」と卑劣な父親に食ってかかった途端、父親はリチャード・エローラ医師に殴りかかってみせた。
 突き出された父親の拳は、リチャード・エローラ医師の鼻に間違いなくヒットしただろう。そうしてリチャード・エローラ医師が仰け反って、よろけた瞬間、父親は逃げるように自宅に戻り、玄関ドアを閉めたのだ。
 起き上がりがてらに、父親がリチャード・エローラ医師を殴る瞬間を見てしまったシルスウォッドは一瞬、頭の中が真っ白になってしまった。
 だって父親は、殴ったのだ。シルスウォッドに手当てを施してくれた隣人を、殴ったのだ。
 そして父親が隣人の顔を殴った瞬間を見たのは、シルスウォッドだけではない。シルスウォッドの父親であるアーサー・エルトルの怒声を聞いて飛び起きた、妻のエリザベス・エルトルもその瞬間を目撃し、血の気の引いた顔で悲鳴めいた声を上げたのだ。
「こんな朝から何事なのよ、アーサー!!」
 何事なのか。そう聞いておきながらも、エリザベス・エルトルは全てを一瞬で理解した――しかし彼女は少しだけ、状況を見誤っていたが。
「……まさか、そんな。なんてことを……――」
 夫アーサー・エルトルが日常的に虐待をしていた不義の息子が、夜のうちに家から抜け出し、隣人に助けを求めたのだろう。そうしてアーサー・エルトルが息子に対して行っていた虐待が、隣人のエローラ家にバレたのだ。さらに悪いことに、アーサー・エルトルは隣人の家から強引に息子を連れ帰った。そのうえアーサー・エルトルは、追いかけてきた隣人を殴った。――エリザベス・エルトルが付けた見当は、この通り。そして大筋は間違っていないその見当を下に、彼女は判断を下す。
「……あなたは今すぐ私の視界から消えて。私が対処する」
「いいや、お前は何もしなくていい。あんな医者など放っておけば――」
「アーサー。早く、私の視界から消えなさい」
 隣人に殴りかかっておきながら、何故か強気である夫アーサー・エルトルに、エリザベス・エルトルは心の底から軽蔑している視線を向けていた。そして未だ床に座り込んだままでいるシルスウォッドも、人を殴っておきながら強気な笑顔を浮かべていた父親アーサー・エルトルを、魔物を見るような怯えた目で見上げていた。
 憎き不義の息子シルスウォッドから向けられる目などただ癪に障るだけだが、愛情は無いが仮にも夫婦を成す片棒である妻エリザベス・エルトルから向けられる目には、流石のアーサー・エルトルも耐えられなかったのだろう。アーサー・エルトルはそれ以上の言葉は何も返さず、黙ってリビングルームに戻っていく。
 そうしてアーサー・エルトルが立ち去ったのを確認すると、妻エリザベス・エルトルは重苦しい溜息を吐いた。それから玄関ドアを叩き続けるリチャード・エローラ医師の、怒りに満ちた声を彼女は聞く。
「答えてください、エルトルさん!! おたくは子供を虐待し、監禁しているんですか! エルトルさん、おい、どうなんだ!!」
 シルスウォッドもリチャード・エローラ医師の声を聞きながら、玄関ドア前に立つエリザベス・エルトルを見上げていた。ドアチェーンを掛ける彼女の手を見つめ、なにも出来ずに固まっている。
 するとエリザベス・エルトルは、敢えてドアチェーンを掛けた状態で玄関ドアを開けた。それから彼女は開いた隙間から、鼻血を垂らす隣人に対して、軽くあしらうようにこう言う。
「虐待なんて、しているわけがないでしょう。――あの子は少し、足りないんです。自傷行為が酷くて。その延長線上で他の子に危害を加えてはいけないと思って、外に出していないんですよ。だから、察してくださいな」
 すると隣人であるリチャード・エローラ医師は、エリザベス・エルトルの説明に対して納得がいかないと食い下がった。「エルトルさん、それじゃあ筋が通りませんよ! あの子の傷は明らかに自傷行為によるものじゃない、誰かがあの子を虐待しているとしか――」
「ですから、違うと言っているでしょう?」
「あのですね、私は定型発達でない特異な脳を診る専門医なんですよ! 個性的な人々を大勢診てきたからこそ言いますが、おたくの息子さんは控えめな性格だが明らかに普通だ。つまり!!」
「これ以上は、やめてくださらないかしら? 名誉棄損で訴えることも可能ですけれども」
 訴える。エリザベス・エルトルの発したそのワードに、鼻血を垂らすリチャード・エローラ医師は反応した。というのも、訴訟を起こしたいのはリチャード・エローラ医師のほうだからだ。
「それはこちらのセリフだ! おたくの旦那に、今まさに私は殴られたんだぞ?! なのに、名誉棄損だと!?」
「それとも、うちの息子を誘拐したと警察に通報しましょうか? それが嫌であるならば、今すぐここを立ち去って」
 しかし、ああ言えばこう言い返すエリザベス・エルトルに、リチャード・エローラ医師が言葉を失った時。エリザベス・エルトルは静かに、けれども素早く玄関ドアを閉め、話を打ち切る。そうして後ろを振り返るエリザベス・エルトルは、床に座り込んだまま呆然としてる血の繋がりのない息子シルスウォッドを立ち上がらせると、蹴り飛ばされたせいで汚れていたシャツを見たあと、シルスウォッドに冷たい声で尋ねた。「エローラ家に、何を言ったの?」
「……何も言ってません」
「本当に?」
「何も言ってません」
 俯き、目も合わせようともしないうえに、妙に大人びているシルスウォッドという名前の少年は、妻エリザベス・エルトルからすればどこまでも可愛げのない子供だった。それでも所々で表れる、シルスウォッドの年頃に釣り合った行動や喋り方が、彼女を苛立たせる。これはただの怯えた子供なのだと、正しい認識を突き付けられるからだ。
 そして、問い詰めれば問い詰めるほど。アーサー・エルトルという邪悪な男と結婚して以来、ずっと目を背け続けてきた良心が、目に見えない杭となって彼女の胸に深く突き刺さる。
「ならば、なぜエローラ家に居たのかしら」
「……外の空気に当たりたかっただけです。そうしたら偶然ドクターと会って、こんな時間に外に居ちゃ駄目だって言われたから、その……」
 ことの顛末は、本人から聞くまでもない。妻エリザベス・エルトルは薄々、全てに勘付いていたからだ。
 最近やってくるようになった新聞配達員が、警察署で見た覚えのある顔であることをエリザベス・エルトルは把握しているし。夕方ごろにシルスウォッドが、紙ごみ入れとなっている段ボールをこそこそと漁り、その中から裏面に何も書かれていないチラシを探している姿を、彼女は何度か目撃している。シルスウォッドが、見覚えのある新聞配達員と何らかの連絡を取っていることは、予想できていた。
 それにこの家は、シルスウォッドにとってはお世辞にも居心地が良いとは言えない家。ましてや警察沙汰になったあの一件以来、長らくこの家に軟禁されているともいえる彼が、この家を抜け出したいと思っているのは自明だろう。だから彼は、小さな家出を決行したのだ。エルトル家の住人が寝静まっている間に外出して、アパートの出入り口のあたりにでも居たのだろう。そしてそこで、隣人であるリチャード・エローラ医師と出くわしたのだ。
 子供が外に一人で居れば、大人は誰でも怪しむ。その上、その子供に妙な痣や傷が見当たれば、自宅に返すのは危険だと考えるだろう。だからきっと、リチャード・エローラ医師はシルスウォッドをひとまず自宅に連れて帰ったのだ。
 そのリチャード・エローラ医師の判断を、エリザベス・エルトルは非難することが出来ない。彼女とて同じ状況に遭遇したら、同じような判断を下すはずだからだ。だが……――
「よく覚えておきなさい、シルスウォッド」
 俯いたまま、目を合わせようとしないシルスウォッドを見下ろしながら、エリザベス・エルトルは彼に声を掛ける。その声はとても小さくて、それに感情や抑揚は無く、どこまでも平坦だったが。しかし冷めた態度の裏で彼女は、肩を竦めて見るからに怯えている子供の姿に、後悔を感じていた。
 けれども、後悔を態度に出すわけにはいかないのである。代わりに彼女にできることは、まだ子供で考えも浅いシルスウォッドに、賢く立ち回るよう釘を刺すことだけ。
「あなたの血は、呪われている。あなたの出生の秘密が明るみになれば、エルトル家は終わり、あなた自身の将来も潰えることになる。無事に生きていたいのであれば――分かるわね?」
 エリザベス・エルトルのその言葉を聞き、シルスウォッドは今日はじめて顔を上げて、彼女と目を合わせた。というのも、この瞬間が彼にとって初めてであったのである。エリザベス・エルトルが、自分に対してまともに話しかけてくれていることも。そして、父親以外の人間から明確に「あなたの血は呪われている」と言われたことも。故に、その時のシルスウォッドの表情は強張っていた。
 けれども、エリザベス・エルトルは脅かすような言葉を続ける。それが将来的にはシルスウォッドの役に立つことだと、彼女は考えているからだ。
「……あなたは、自分の父親を恐れるべき。あの男は、何でもやってみせる。今更、背後に屍がひとつくらい増えたところで、あの男は何も感じないでしょう。たとえそれが、自分の息子だとしても」
「…………」
「……それに呪われている血筋なのは、母親だけじゃない。あなたはエルトル家の邪悪さを一手に引き受けているような男の、息子でもあるのだから。くれぐれも、言動には気を付けるようにしなさい」
 エリザベス・エルトルから与えられる、冷たい現実をよく表した言葉たち。とはいえ当時のシルスウォッドは、隣人を殴った父親の姿にショックを受けた直後であり、回らない頭から彼女の真意をくみ取ることが出来なかった。そのため彼はエリザベス・エルトルに対して、黙りこくって怯えた態度をみせるだけ。
 シルスウォッドのその様子に、エリザベス・エルトルは溜息を吐いた。シルスウォッドは賢い子供であるから、きっと隠された意図を読み解くだろうと期待していた彼女であったが。その期待が裏切られたことと、そして小学校にも上がっていない子供に変な期待を抱いた自分に、彼女は呆れて溜息を吐いたのである。するとエリザベス・エルトルの吐いた溜息に、シルスウォッドは怯えから肩をびくりと僅かに震わせた。
 シルスウォッドが見せたその反応を見て、エリザベス・エルトルはそれ以上の話をすることを諦める。そして彼女は先ほどまでの淡々とした小声を捨て、わざと棘のある苛立った口調で威圧するように、シルスウォッドに向けて突き放すように言った。
「シャツを着替えてきなさい、今すぐに」
 するとシルスウォッドは汚れているシャツを替えるために、大慌てで自室に戻っていく。そうしてシルスウォッドが玄関前から立ち去ると、それとは入れ代わるように、エリザベス・エルトルの傍に、夫であるアーサー・エルトルが寄ってくる。そしてアーサー・エルトルは、妻のエリザベス・エルトルにこんなことを言うのだ。
「――自傷行為か。それは名案だ」
「…………」
「あいつを精神病にすればいい。施設にぶち込めば、万事解決だ。そう思わないか?」
 名案を思いついたと言わんばかりの卑しい薄ら笑いを顔に浮かべながら、最悪の提案をしてきた最低の夫に、嫌悪感を覚えた妻は反射的に動いていた。
 薄ら笑いを浮かべる夫の顔を、妻エリザベス・エルトルは平手でひっぱたいていたのだ。そうして平手打ち特有の破裂するような音が鳴った直後、人が床に倒れこむような、ドスンッという鈍い大きな音が鳴る。頬をはたかれた夫が、妻を殴り返したのだ。
 靴痕がついたシャツを脱ぎながら、自室にて父親の声とその音を聞いていたシルスウォッドはその時、心臓の脈打つリズムが早くなることだけを感じていた。





 ほのかに鼻を抜けていく薔薇の香りは、正直なことを言うとアストレアの好みではなかったが。口に含んだ紅茶はどうやら、アストレアが思っていたよりもずっと高級品であるように思えていた。安物の紅茶にあるようなエグみが、その紅茶からはこれっぽっちも感じられないのだ。
 そんなこんなで、白髪の死神アルバから紅茶を分けてもらったアストレアは、紅茶を啜りながら渋い顔をしている。そしてアストレアは、こんなことを呟くのだ。
「リチャード・エローラって、あの……ペルモンド・バルロッツィの奥さんの、えっと奥さんの名前……なんだっけ……」
 アストレアが、アルバに訊こうとしているのは、以下のこと。リチャード・エローラ医師とは、ペルモンド・バルロッツィの妻だった女性の父親なのか、ということである。
 ただし“ペルモンド・バルロッツィの妻だった女性”の名前が、どうにも出てこない。喉元まで出かかっているのに、アストレアは記憶からその名前を掘り出すことが出来なかったのだ。まだアルストグラン連邦共和国に居た頃には、アレクサンダー・コルトからあんなにも、何度もペルモンド・バルロッツィの話を聞かされていたのに。どうしても、思い出せないのである。
 すると「えーっと、あのー、えっと……」を繰り返すアストレアに、アルバは答えをもたらした。
「ああ。リチャード・エローラは、ブリジット・エローラの父親だ。そしてお前の言う通り、彼女はペルモンドの再婚相手だった」
「ん? ――再婚って?」
 アルバは“ブリジット・エローラ”という正解の名前をもたらしたと同時に、ついでにアストレアが知らなかった情報をオマケで与えた。それが、再婚というワードである。
 アストレアは元々、あまり他人の過去や事情に興味はないタチだ。故に詮索というマネは好きではなかったので、ペルモンド・バルロッツィという人物に関する情報は最低限のものしか知らなかった。たとえば、アバロセレンの発見者ということに彼はされているが、それは事実ではないということとか。ブリジット・エローラという女性とかつて結婚していて、エリーヌという名前の娘が居たけれども、妻も娘も何者かによって殺されていることとか。妻と娘の死の他にも、なんやかんやで色々とあって、心を病んでしまっていたとか。経緯はよく分からないものの、マダム・モーガンとは親しいらしいとかなんとか。……なので、アストレアは知らなかったのである。故人の結婚歴のことなど。
 なお、アストレアの育ての親ともいえるアレクサンダー・コルトは、故人の過去を詮索し回っていたし、アストレアにも獲得した情報を教えていたのだが。アストレアはそれを全て聞き流していたために、何一つ覚えていない。無論アレクサンダー・コルトは、アストレアに「ペルモンド・バルロッツィの結婚歴にはバツがある」という話もしていたが、そんな下世話なことに耳を貸すアストレアではなく。彼女は何も知らないというか、覚えていないのだ。
 そして驚いているアストレアに、アルバは故人にまつわる衝撃的な話をするのだ。
「あの男はブリジットに囚われることになるよりも前に、別の女性と結婚していた。あの当時は何もかもが上手くいっていて……あの男が唯一幸せそうにしていたともいえる時代だ」
「……」
「だが、その女性は交通事故で亡くなったんだ。そうして随分とペルモンドが参っていたところに、ブリジットは付け込んで、再婚に至ったわけだよ。――しかし彼女は執念深かった。ペルモンドの記憶から、前妻の存在をほぼ消し去った挙句、あの男の精神を完全に支配したのだから」
「うわ、なにそれ。めっちゃクズな女じゃん」
「いいや。ブリジットは、まともな人間だった。だがペルモンド・バルロッツィが、彼女を壊したんだ」
「え? いや、流石に違うでしょ、それは……」
「いいや、違わないとも。あのクズ男はかねてから彼女にひどい仕打ちを繰り返していたし、彼女の人生を台無しにしていた。だから彼女は、あの男の人生を打ち砕いただけのこと。因果応報というやつだ」
 少なくとも友人であったはずの人物の身に、降りかかった不幸の話をするアルバは、どういうわけか薄ら笑いを浮かべている。やはり歪んでいるといえる彼の性根に対して、アストレアは再度不快感を覚え、糾弾するような視線を彼に送り付けるのだった。
 とはいえ、そこはアルバという男。糾弾の視線ごときに動じるような者ではない。そんな彼は、さらりと視線を受け流すと、しらばっくれるように話題を変えてみせた。
「エルトル家は、まさに邪悪な家だったが。その隣人であったエローラ家は、真逆の性質を持っていたさ。エローラ家は、善良な人々だったよ。ペルモンド・バルロッツィが現れるまでは」
 そう含みのある台詞を言ったアルバが浮かべる、含みのある薄ら笑い。いちいち言葉に裏の意味を設定するこの男の面倒臭さに、アストレアは今日何度目かの溜息をまた吐く。
 アルバは嫌味を言うときに、とても遠回しな言い方を好んで使う。今、彼はエローラ家が云々という話をしていたが、結局のところ言いたいことはたった一つ。自分はペルモンド・バルロッツィという男を憎んでる、ということである。なのでアストレアは、感じた疑問を呆れ顔と共に、アルバへとぶつけるのだ。
「アンタは結局のところ……ペルモンド・バルロッツィを、どう思ってたわけ? なんか今の話を聞いてる限りじゃ、アンタはめちゃくちゃ彼のことを嫌ってるみたいに聞こえるんだけど。でも彼は、アンタの友人だったんでしょ?」
 アストレアが投げ掛けた率直な疑問に、アルバはどう思ったのか。その答えは、やはり一筋縄ではいかない。
 アルバはペルモンド・バルロッツィという男を嫌っているし、諸々の事情があって憎んでさえもいるが、しかし多少なりとも彼に対する好意があったことは否定できないのだ。付き合いの長い友人なんてそんなものだろう、とも言えなくもないが。彼らの場合は、ワケが違う。彼らはかつて友人であったし、お互いをよく理解していたはずだが。いつからかお互い離反するようになり、信頼も壊れて、気が付けば敵対しあうような関係になっていた……が、これもまた一筋縄ではいかないのだが。
 まあ、その話はおいおい語るとして。
「そう急かさずと、ペルモンドの話はいずれ出てくる。なにせあいつは、人を狂わせる天才だからな。私がこうなった原因も、あいつにある」
 そんな責任転嫁ともいえる言葉を白々しく言ってのけるアルバに、アストレアはあまりの理解できなさから首を傾げさせる。だが空になった自分のティーカップに紅茶を注ぐアルバは、責任転嫁を非難するアストレアの視線など気にも留めていない様子だった。


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