ジェットブラック・ジグ

Like mother, like son.

 風の噂で、スティーブン・ワインスタインという男が獄中で自殺したという話を聞いたのは、かれこれ一週間ほど前のこと。アストレアが、青緑色のドレスを着たのは一ヶ月前のこと。用済みになったドレスは、クローゼットに封印されたようなもので、また着る機会があるかどうかも分からない。
 つまりアストレアは退屈で退屈で、退屈していた。
「…………」
 そんなアストレアを毎朝叩き起こすのは、刺々しいヴァイオリンの音色だ。それも決まって、テンポの速いジグである。そして最近はアストレアへの当てつけのように、やたらと明るい曲調のものが多い(しかし、演奏者の歪んだ性格が投影されている関係で、どうにもヴァイオリンの音色には恨みや怒りといった感情が滲んでいるようにも、アストレアに感じられていた)。先一昨日の目覚ましはは「アウト・オブ・ジ・オーシャン」で、一昨日のめざましは「スワローテイル・ジグ」、昨日の目覚ましは「モリソン・ジグ」。つまり、どれもクソ明るい曲だ。一度だけアルバの気まぐれが起こって、ゆったり且つしっとりとしたワルツ曲である「ザ・スカイ・ボート・ソング」が聞こえてきたこともあるが……それは今のところ、一度だけ。たぶん、二度目が起こることは当分無いだろう。
 そのように、毎朝六時半きっかりに始まる不快な演奏に、彼女の胃はギュイーンと絞られる。胸やけとなって怒りがこみあげ、怒りが彼女を飛び起こさせるのだ。そして彼女は寝起きに、決まって叫ぶのである。「クソジジィ、うるせぇんだよ!」と。
 その繰り返しが、かれこれ半月ほど続いていた。これはアストレアがアルバに対して「暗い曲しか弾けないのか」だのと言い続けた末の結末である。
 ――……要するに、アストレアの近況といえば、これぐらいしかないのだ。
「……あのジジィ……ぶっ殺してやる………………」
 アストレアの日課は、次の通りだ。
 朝に雑音で叩き起こされると、海鳥の影ギルがアストレアの寝室に入ってきて「留守番を頼みますよ」と告げてくる。そしてギル、およびアルバが、マンハッタンから居なくなる。その後、アストレアはベッドから降りて、歯を磨いて顔を洗ってから、キッチンに移動し、小麦粉に苛立ちをぶつけるのだ。ボウルに小麦粉をブチ込んで、そこに溶かしバターと卵を入れて、生地のもとを作ると。まるで殴りつけるように、生地を捏ねてこねて……そうやってパンを焼く。そして焼き上がったパンを食べて、また歯を磨く。
 昼はアルバの部屋に勝手に侵入して本を読んだり、レコードを漁る。そして夕方になると、食材を抱えたアルバとギルが帰ってくる。彼らはアストレアにおこぼれをくれるので、彼女はそれを受け取る。そうして夜には一人で夕飯を作って、一人で食べて、一人でシャワーを浴びて、歯を磨いて、ベッドで寝る。
 ここ一ヶ月ほどは毎日、そんなことを繰り返していた。
 しかし、だ。今日は朝の六時半になってもヴァイオリンの演奏は始まらなかった。だからアストレアは、マンハッタンに朝日が射そうが、構わずにベッドの中で熟睡している。
「…………」
 そう。アストレアはモフモフの温い毛布に包まれ、熟睡していた。自己中心的なクソジジィことアルバが、彼女の部屋の扉を勝手に開けていることにも気づかずに、熟睡しているのである。
 キィ……と蝶番が軋もうが、アストレアは起きない。あまりにも起きないアストレアの様子に、アルバが面白おかしそうにクスクスと笑っていようが、アストレアは起きないのだ。そしてアルバがアストレアの寝室に、長い尻尾を持つモフモフな生物を三匹ほど投入しようが、アストレアはまるで起きない。
 鯖トラ、茶トラ、キジトラ。その三匹のモフモフ……つまり毛色の異なる三匹の猫が、アルバの足元を通り抜け、アストレアの寝室へと飛び込んでいく。どれも好奇心旺盛な仔猫ゆえ、まだ見ぬ未知の部屋に、三匹は嬉しそうに駆け込んでいった。
 そしてアルバはそっと、アストレアの寝室の扉を閉める。……アストレアが悲鳴と共に飛び起きたのは、その直後だった。
 いかにも女の子らしい、甲高い悲鳴が上がったその後には、続いて三匹の猫たちがドタバタと騒ぐ足音が聞こえてきた。それと「ミャッ」やら「クワッ!」やら、興奮気味の仔猫の鳴き声も続く。さらに、それに続いて、アストレアがなぜか「ニャー、ニャーッ!」と猫の鳴きまねをしているような声まで聞こえてきた。また、アストレアが走り回る音も聞こえてくる。どうやら彼女は、仔猫を追いかけまわして、捕獲しようとしているようだ。
 ドタバタと騒がしい寝室の様子を、閉まった扉越しにアルバは確認すると、彼は小さく笑いながら静かに立ち去っていく。仔猫をアストレアの寝室に置き去りにしたまま、自室へと戻っていく。そろそろ火にかけた夜間の湯が沸いたころだろうと、彼は感じたからだ。
 それから数分ほど、アストレアは部屋の中を走り回ったことだろう。そうしてアストレアは、鯖トラ、茶トラ、キジトラの仔猫三匹を捕獲し終えると、その三匹を両腕に抱いて、素足および寝間着姿のまま玄関を飛び出す。廊下を二〇メートルほど大股かつ早足で歩き、アルバが寝泊まりしている部屋の玄関前に立つ。それから彼女は、ミャーミャーと鳴き続ける子猫たちに少しウンザリとした顔をしながらも、玄関扉の向こう側にいる、何やら食器をカチャカチャと動かしているらしいアルバという男に向かって、大声で叫ぶのだ。
「ミスター!! 何なんだよ、この猫たちは!」
 その後、アストレアが待つこと十数秒。玄関扉がガチャリと開き、それと同時にふわりとベルガモットが香り、その香りはアストレアの両サイドを抜けて廊下へと逃げていく。そして気味の悪いほど穏やかな笑みを浮かべたアルバが、アストレアの前に現れた。
 彼の、七三分けのオールバックヘアーは、朝からばっちりと決まっている。それは、いつも通りだ。だが、彼の様子はいつも通りでない。こんなにも気持ち悪い笑顔を、普段の彼は浮かべないからだ。
 普段、アストレアの前では『いかにも人を見下し、虚仮にしているような、冷たい微笑み』しか浮かべない彼だが、今の笑顔は妙に穏やかだし。それに両瞼がぴっちりと閉じている。これは明らかに、外行きの顔だ。故に、アストレアは不快感を顕わにした。
「うわっ、何その顔。キモイんですけど」
「…………」
「だって、事実だし」
 頑なに閉じられた彼の両瞼。これは特に、外行きの時にしか見せない顔である。それは彼の瞳が、直視した人間の精神を一瞬で崩壊させる光を常時放っているからだ。
 アルバとの付き合いも長いアストレアは、彼のその瞳を直視しないよう気を付けることができるが。普通の人間および普通の生き物には、彼の瞼が閉じていない限り、あの瞳を避けることができやしないだろう。何故ならば、普通は誰にも予測できないからだ、人間のように見える男の目を見つめたら最後、自身の精神が“得体の知れない光”によって蹂躙され尽くすだなんてこと。
 ――と、そこでアストレアはあることに気付く。仔猫だ。
「そうか。アンタはこのかわいい仔猫ちゃんを直視できないのか」
 アストレアがそう尋ねると、アルバは首を縦に振って頷いた。彼は無垢で愛らしい仔猫たちを傷付けたくないため、瞼を開けられないのである。するとアルバは「サングラスを取ってくるから、ここで待っていろ」と言って、部屋の中へと引き返していった。しかし、アルバの言いつけを守るようなアストレアではない。彼女は勝手に玄関を潜り、アルバの部屋へと入っていった。
 そしてアストレアは玄関扉を閉めると、抱えていた仔猫たちを床へと下ろす。三匹の仔猫たちはアストレアの腕の中を離れると、サングラスを探しに行ったアルバを追いかけていった。朝飯の催促と思しき鳴き声を、ミャウミャウと上げながら。……そんな仔猫たちの尻尾を見送りながら、アストレアは少し声を張り上げて、アルバに対して嫌味を吐く。
「つくづく変な男だね、アンタって。人間には情け容赦ないくせに、猫には優しいの?」
 するとウォークインクローゼットのある方角から、ガサゴソッという物を漁っているらしい音ともに、早口なアルバの返答が聞こえてきた。
「猫は古来より愛されている。その歴史は一万年以上。それにどこの地域であったかは未だ定かではないが、紀元前一〇〇〇年頃には猫の頭を持った女神、バステトというものが篤く信奉されていたらしい。諸説あるが、その女神は子供の守り神とされていたそうで、広く愛されていたそうだ。反面、犬や狼を模した神は冥府関連のものが多い。畏れられていた証拠だな。それにアイルランドにおいても、犬の妖精クー・シーは人を襲う邪悪なものとして描かれることが多いが。反面、猫の妖精ケット・シーは頭が良く、そして義理堅く、人語を語り、人間と共存しながらも、独自の王国を築いている奇怪な生態を持つと描かれッ――」
「猫の女神が、どうしたって?」
「……つまり、猫ほど可愛らしい生物もいないということだ」
 アルバの語り口が早すぎること、および彼の喋りにはきついボストン訛りが伴っていたこともあって、アストレアは半分もその話を聞き取れやしなかったが。要するにアルバは、猫は可愛いという話をしていたらしい。
 人間は容赦なく傷つけるというのに、猫は可愛いだなんて。なんともクソ野郎アルバらしからぬ発言であるというか……――そこでアストレアは、率直に疑問をぶつけることにした。
「ってことは、アンタは猫が好きってこと?」
「言うまでもない。猫は好きだ」
「じゃあ、犬は?」
「人間よりは好きだが、犬はどこか気に食わん生き物ではある。人間に忠実な点が評価できないな」
「じゃあ、ウサギはどうなの?」
「お前は、一つ一つ丁寧に尋ねていくつもりか?」
「そうだけど」
「なら先に言っておこう。私は、犬とカラスと人間だけが嫌いだ」
「なんで嫌いなの?」
「人間は卑しい。犬はその人間に忠実。そしてカラスは、煩わしい。特にワタリガラス。まあ、カラスに関しては特定の一羽だけが嫌いともいえるが……。まあ、理由は以上だ」
 どこまで本気なのかは分からない回答だが、ともかくアルバという男は人間だけが嫌いなようだ。それだけは確かである。
 そうこうしているうちに、長いこと使われずクローゼットの中で放置されていたサングラスも見つかったようで。ガサゴソと物を漁り続けていたような音も、何かの引き出しをバタンッと閉めた音を最後に止まる。そうして数十秒後、見覚えのあるスクエアフレームのサングラスを掛けたアルバが戻ってきた。それと一緒にアルバの背後を追いかけていた三匹の仔猫たちも、アストレアの前に戻ってくる。
「うわっ、随分と懐かしいサングラスだね……」
 アルバの掛けているサングラスを見て、そしてサングラスを掛けたアルバを見て、アストレアは思わずそんな言葉を漏らす。そんな彼女は、少しだけ緊張していた。
 なにせ彼女の前に戻ってきたのだから、あのサー・アーサーが。久しく見ていなかったサングラスが、あの頃の緊張感を思い出させたのである。
「まだ残ってたんだ、それ。もうとっくに処分したもんだと思ってたよ」
 サングラスを掛けた彼の姿はさながら、特務機関WACE時代のサー・アーサーそのもの。髪こそ真っ白くなってしまっているが、やはり同一人物であるのだな……と思わされ、久々にアストレアは背筋を正さざるを得なかった。
 そういうわけで表情を引き攣らせているアストレアから、彼女の緊張のワケをアルバは察したのだろう。彼は小さく笑い、次にその場にしゃがむと、足元で騒ぐ三匹の猫のうち一匹、茶トラの猫を抱き、立ち上がる。それから彼は珍しく、貧乏人くさい台詞を言った。「ああ。今のように、また使う可能性がある以上、残しておくに越したことない。それに、値段が……な」
「高かったんだ?」
「値段も、機能性も高い品だ。捨てられるわけがない。それに……」
「……?」
「――いや、何でもない。気にするな」
 それに、の後に続くアルバの話も、アストレアにとって気になるところだが。アストレアは、アルバに抱かれて、そして顎の下を撫ぜられて、ドゥルルル……と甘え声を立てている猫に目を向ける。そして彼女は話題を、本題に戻そうとして、こう切り出した。
「でさ、この仔猫たちは何?」
 アストレアがそう切り出すと、アルバは先ほど抱き上げた茶トラの仔猫を床へ下ろす。それから足元でちょこまかと動き回る三匹の仔猫を、彼はサングラスの奥に隠した目で見やり、そして猫を順に指差す。彼は猫たちの名前を、鯖トラ、茶トラ、キジトラの順に答えた。
「マッカレル、ソイ、ミソの三姉妹だ。仲良くしてやれ」
「え?」
「灰色がマッカレル、茶色がソイ、焦げ茶がミソだ。猫の名前だよ」
 鯖に、大豆、そして味噌。まさかの食べ物で揃えられた猫の名前に、アストレアは一瞬だけ、拍子抜けした。何故ならば彼女は、アルバならもっと深い意味がありそうな名前を付けそうだと思っていたからだ。例えば……オフィーリア、デスデモーナ、コーディリア、のような、如何にも悲劇を連想させるような名前だ。しかし、現実を見てみればだ。安直としか言いようがない、食べ物の名前が揃っている。

 それも、特に「鯖」は安直の極みだ!
 マッカレルタビーさば柄模様の猫に、鯖という名前を付けるだなんて!!

 ……しかし、問題はそこではない。アストレアが本当に訊きたいのは、猫の名前ではないのだ。この猫たちがどこから来たのか、どこから連れてきたのか、である。故に彼女はアルバに尋ねる。「違う。あの猫はどっから連れてきたんだって、僕はアンタに訊いてんだけど」
「この町に居た野良猫だろう。いつの間にか、このアパートに棲みついていたようでな。私がどこかから連れてきたわけでも、盗んできたわけでもない」
「棲みついてた……?!」
「それから、母猫も含め四匹ともにシャンプー済みだ。ワクチン他、諸々もな」
 アルバよりも、このアパートに滞在している時間は長いはずであるアストレアだが。野良猫の親子がいつの間にか棲みついていただなんてことには、気付いていなかった。なのにアルバは猫の存在に気付いていたというのだから、アストレアは悔しさを感じざるを得ないというか、何と言うか。ともかく、何かがアストレアの中で引っ掛かるのである。
 そんな複雑な思いを抱えながらアストレアは、アルバの足元をちょこまかと走り回る三匹の仔猫たちを見つめていた。するとそんなアストレアに、アルバはとある“命令”を言い渡すのだった。
「ランスィカヤのかつての女帝エリザヴェータも、大帝エカチェリーナ二世も、猫を愛していた。猫たちに美術品の管理を任せていたほどだ。猫はネズミやら害虫やらを退治してくれるからな。――その優秀な警備員たちに、今後お前は尽くすように」
 猫への愛は炸裂しながらも、アストレアへの敬意は微塵もないような台詞を言うアルバは、意味ありげな笑みを浮かべていた。彼の目はサングラスに隠れていて見えやしないが、何やら悪いアイディアを思い浮かべていそうな目をしているのだろうなと、アストレアは感じていた。そして案の定、アルバは薄ら寒い風を感じるような、不気味な言葉を語るのだ。
「ただし、覚悟しておけ。これから、もっと増えていくぞ」
「増えるって、何が?」
「人間以外のあらゆるものだ」
 その言葉を最後に、アルバの表情から薄気味悪い笑みが消える。アストレアに背を向ける彼は、冷蔵庫のほうへと向かっていった。そんなアルバの後を、三匹の猫たちは追いかけていった。
 そしてアルバが冷蔵庫から取り出したのは、手乗りサイズほどの黒い紙袋ひとつ。しかし、それを見るなり仔猫たちは大喜びし、高い鳴き声を頻りに立て始めた。
「……?」
 一体、紙袋の中に何が入っているのか。アストレアはそれが気になってしまい、ついついアルバの手元を凝視してしまった。それが、いけなかったのだ。
 アルバが取り出したものを見た瞬間、アストレアは悲鳴を上げて、大慌てで自分の部屋へと帰っていった。何故ならば、アルバの取り出したものがハツカネズミの死骸であったからだ。
 アルバにより尻尾を抓まれ、ぶらんぶらんと揺れるネズミの死骸を見て、アストレアは悲鳴を上げたが。三匹の仔猫たちは「早く寄越せ!」と騒ぎ立てている。アルバは仔猫たちの要望に応え、仔猫たち用に揃えた三つのエサ皿に、それぞれハツカネズミの死骸を置いた。
 すると仔猫たちはすぐさまハツカネズミの死骸に飛びつき、食らいつく。バリゴリッと、ハツカネズミの骨が仔猫の顎で砕かれていく音を聞きながら、アルバは満足そうな微笑みを浮かべていた。


+ + +



 ジョナサンがシルスウォッドの教科書に、ひどい落書きをしたその日の夜。父親に怒られたのは落書き犯であるジョナサンではなく、学校でそのことを暴露した被害者のシルスウォッドのほうだった。
 父親は、ジョナサンがシルスウォッドの教科書に殴り書いたような汚い言葉を大声で放ち、恥ずかしげもなく子供に向かって罵声を吐きながら、その日久々にシルスウォッドを殴りつけた。しかし、どれほど父親が声を荒らげようが、不思議なことに隣家にはその声が届かない。それは家の中が、完全に防音され、遮音されていたからである。つまりあの家の中は、外界から隔絶されていたようなものだったのだ。
 そして翌朝、シルスウォッドが痣を作った顔で学校に行ってみれば。隣家の娘であるブリジットからは「なんでうちに逃げ込まなかったの!?」と責められた上に、同級生たちも教諭たちも「なんで警察に通報しなかったの!」「あなたの両親は何をしていたの?!」と大騒ぎした。そんなこんなでエルトル家の兄弟の確執およびエルトル家の黒い噂は、公然の秘密となったのである。
 また、この日に起きた騒動はそれだけではない。
「エルトル議員、落ち着いてくださいな。なにもそこまで叱りつけるようなことでは――」
「貴様はここで何をしている、バーネット! 明後日の議会に提出する法案が、まだ完成していないだろうが!」
 放課後、シルスウォッドは決まって父親の事務所に立ち寄る。家の目の前まで、隣人であり同級生であるブリジットと共に下校するが、いつも彼女とはアパートの前で分かれるのだ。そしてシルスウォッドは、アパートから少し離れた場所にある父親の事務所が入っているビルへと向かって、事務所の物置に置かせてもらっているフェンシングの道具を取りに行く。それから、父親の秘書の一人であるお目付け役ランドン・アトキンソンに車を出してもらって、チャールズ川の近隣にある剣術教室へと連れて行ってもらう。それが、いつものルーティーンである。
 そしてこの日は、学校側から配られた、保護者に見せるべきプリントがあった。このプリントが、父親の怒りに火を点け、怒号という砲弾が飛び出すこととなったのだ。
「……毎晩、暗い部屋でコソコソと何かをしているから、こんなことになるんだろうが!」
 フェンシングの道具を取りに行く前に、シルスウォッドは恐る恐る父親のオフィスを訪れて、学校から配られたプリントを父親に見せに行った。それは先週に学校内で行われていた視力検査の結果だ。
 検査結果は、ボチボチ悪いものだった。だから父親は、怒ったのである。
 左目右目ともに平均以下で近眼の傾向あり、という結果と共に、「生活に不便があるほどではないでしょうが、念のため眼鏡を作ってあげてください」という担任教諭の直筆コメント付きのプリントを見るなり、父親の表情はみるみる曇っていった。そうして飛び出したのが、先ほどの怒鳴り声。
 父親のオフィスにいた先客――父親が抱える秘書の一人である、ララ・バーネットという名前の女性――は、子供が持ち帰ってきたプリント一枚ごときで怒鳴り散らす下院議員に心底驚き、一瞬肩をビクつかせてたあと、頬に青痣のできているシルスウォッドの顔を見て、絶句していたが。小さなことにもいちいち怒鳴る父親には慣れているシルスウォッドは、これしきのことでは動じなくなっていた。なのでシルスウォッドは父親に向かって毅然と反論する。これは全部、お前のせいだという怒りを声に込めて。
「僕の部屋には照明が無いからです。それに父さんが燭台も蝋燭も取り上げたから――」
「ジュニア。なら、なぜ明るい部屋でやらんのだ。毎晩毎晩、部屋に鍵をかけて引きこもって……見られたら困るものでもやっているのか、お前は」
「部屋にこもるのは、ジョンに殴られるからです! それにエリザベスから、鍵を掛けろと言われてます」
「ならお前は眠りもせずに、夜に一体何をしているんだ!!」
「宿題を片付けてるだけです」
「宿題だと? そんなもの、夕方のまだ明るいうちに片付けられるだろうが! なぜお前には、それができないんだ?!」
「夕方にはフェンシングが」
「言い訳は無用! この出来損ないが!」
 再び上がった怒号と共に、シルスウォッドが渡したプリントを父親が破り捨てた直後、父親の手が降り上げられたが。父親の手は振り下ろされる前に、その場に立ち会っていた秘書ララ・バーネットによって止められた。秘書が物理的に、振り上げられた父親の手を押さえて止めたのである。それからその秘書は少しばかり弱腰な姿勢ながらも、子供を相手にちっぽけなことで激昂する雇用主を宥めようとした。
「冷静になってください、議員! 視力検査の結果が悪かったぐらいで、そんな怒らなくても……」
「黙っていろと言っているだろう、バーネット!」
「昔からよく言いますでしょう? 目の悪さはそれだけ努力をしてきた証拠だって。去年の成績もジュニアは体育と図工以外オールAでしたし、ジュニアが努力家であることは疑う余地なしかと。つまり……ジュニアに眼鏡を買ってあげればいいだけの話じゃないですか」
 そう言って苦し紛れの微笑みを取り繕いながら、秘書はスッと父親から離れていくが。父親にぎりりと睨まれた結果、その秘書は最終的には小声で「……すみません……」と謝罪していた。
 そして歪な家族の事情に、割って立ち入った勇敢な部外者を冷めた目で見上げていたシルスウォッドは、少しだけ不満そうに口角を下げていた。シルスウォッドが不満を感じている原因、それは彼の父親が、およびこの事務所に所属する父親の秘書たちが、シルスウォッドを呼ぶ際に使う呼称“ジュニア”にある。この呼び名を、彼は心の底から嫌っていたのだ。
 シルスウォッド、というややこしい名前を言えない同級生たちが使う“アーサー”というミドルネーム、およびミドルネームに由来する“アーティー”という呼称も嫌いだったが、それ以上にこの“ジュニア”は彼にとって受け入れがたいものだった。アーサー・エルトルという邪悪な男の息子であるという現実を、ジュニアと呼ばれるたびに突き付けられるからだ。
 だが、どんなに不満を感じようが現実は現実だ。自分があの男の血を受け継いだ子供であることを分かっているシルスウォッドは、ジュニアと呼ばれることへの不満を直接的に相手へ伝えるような愚かしい真似はしない。何故ならば、言い始めたらキリがないからだ。なので少し不満そうな態度を出すだけで、直接的な文句は言わないのである。
 すると、どことなく不服気な態度を取っている息子を見た父親は、苛立ちでも覚えて、オフィスから今すぐにでも息子を追い出したいと感じたのだろう。父親はまた声を荒らげて、今度は違う秘書の名前を呼んだ。
「アトキンソン、今すぐ来い!」
 父親の大声を聞いてオフィスに来たのは、シルスウォッドの送迎役でありお目付け役でもある秘書、ランドン・アトキンソンである。いつものように「やれやれ」とでも言いたげな顔の秘書ランドン・アトキンソンは、仕事外の雑務を押し付けられる予感を察知したのだろう。オフィスに入るやいなや、腕を組んで露骨に嫌がる素振りを見せる秘書ランドン・アトキンソンは、足をガタガタと震わせるもう一人の秘書ララ・バーネットを見て、それから顔に青あざのあるシルスウォッドを見やり、最後に怒り心頭の父親を見る。そして気怠そうな声で、一応というばかりのニュアンスを込めて、秘書ランドン・アトキンソンは、父親にこう訊ねた。「議員、お呼びでしょうか」
「こいつを眼鏡屋にでも連れて行け。適当なものを見繕って、これで買ってこい」
 いちいち刺々しい空気感を纏わせた大声で、威圧的に命令をする父親はそう言いながら、デスクの引き出しから小切手帳を取り出すと、その中から一枚の小切手を切り取る。それから切り取った小切手に“アーサー・エルトル”と走り書きの署名を万年筆で書くと、父親はその小切手を秘書ランドン・アトキンソンへ突き出した。
 威圧的な態度を伴って、乱暴に突き出された小切手を、秘書ランドン・アトキンソンは仰々しい笑顔を浮かべて受け取る。それから秘書ランドン・アトキンソンは、未だ不満そうな表情のシルスウォッドに視線を送り、一言「行くぞ」と声を掛けた。
 その声を合図に、シルスウォッドは父親に背を向けて、オフィスから出ようとしている秘書ランドン・アトキンソンの後を追って早足に歩き出す。そして彼のすぐ後ろにシルスウォッドがつくと、秘書ランドン・アトキンソンがシルスウォッドにこう話しかけてきた。
「目でも悪くなったのか、少年」
 その問いかけに、シルスウォッドは無言でこくりと頷く。すると秘書ランドン・アトキンソンが、ニヤけるというような、やや奇妙な笑みを口元に浮かべた。それから彼は、ぼそりと呟く。
「そうか、それで眼鏡屋か。……こんなにも都合のいい展開が、現実で起こるとはな……」
 都合のいい展開。――秘書ランドン・アトキンソンが小声で呟いたその言葉は、どうにも怪しい気配を匂わせている。なにか悪いことが起きそうな予感をシルスウォッドは感じて、自然と身構えてしまったその時。予感していたものとはまた違う角度の、別の悪いことが起こる。それは父親のオフィスから二人で出て、秘書ランドン・アトキンソンがそのドアを閉めたときに聞こえてきた。
 父親のオフィスから、電話の呼び出し音が鳴ったのだ。けたたましい音がリンリンリンッと鳴ったあと、乱暴に受話器を取ったようなガチャッという音が聞こえてきて、それから父親が高圧的な態度で「誰だ」と言い放った瞬間だ。聞き覚えのある懐かしい声が、受話器の向こう側から間髪を入れずに飛び込んできたのだ。ドアを隔てた距離からも聞こえてくるような、ひどく怒り狂ったような大声が、シルスウォッドの耳にも、秘書ランドン・アトキンソンの耳にも届いた。
『――いい加減にして、アーサー!! あなたが彼に何をしているのかを、私たちは全て把握しているのよ。こんな状況、誰にとっても良いことなんか何もないでしょう?! だから、シルスウォッドを返して! あの子の親権を、私たちに譲りなさい!』
 聞き間違えるはずもなかった。あれはシルスウォッドにとっては叔母であり、かつての母親である存在、ドロレス・ブレナンの声だった。
 もう何年も聞いていなかった声が、予想だにしない瞬間に聞こえてきた。怪しげな雰囲気を漂わせる秘書ランドン・アトキンソンへの疑念は一瞬にして吹っ飛び、シルスウォッドはただ立ち尽くしてしまった。頭の中が、真っ白になってしまっていたのだ。
 そして、とある企みごとを抱えていた秘書ランドン・アトキンソンは、茫然自失といった状態になってしまっていた子供を見下ろして、やっちまったと額に手を当てていた。
 しかし、ことはそれだけでは済まない。更に聞こえてきたのは、子供には到底聞かせられないような内容を含んだ、シルスウォッドの父親の罵声だった。
「何度も言わせるな、ドロレス。接近禁止命令は取り下げん!」
『いつまでこんな不毛なことを続けるつもりなのよ、あなたは!』
「ボストンに一歩でも足を踏み入れてみろ。ハリファックスに構えているお前の書店を、跡形もなく焼き払ってやるからな!」
『あの子に一体、何の罪があるっていうの?!』
「黙れ、一族の恥さらしが!」
『いいえ、恥を晒しているのはあなたのほうよ。自分がいかに邪悪であるか、振り返ってみなさい!』
 父親の罵声と、叔母が負けじと食い下がる声と、更に続く父親の罵声。それを背中で受け止めるシルスウォッドは、珍しく今にも泣きだしそうな顔をしていた。――いくら痛みや罵声には慣れておれど、少し頭が切れようとも。当時は所詮その齢の少年でしかなかった、というわけである。
 そういうわけで強烈な感情の波に当てられて、困惑顔のシルスウォッドの腕を、秘書ランドン・アトキンソンは引いて歩いた。……のだが、その秘書ランドン・アトキンソンは歩きながら唐突に、衝撃的な告白するのだった。
「これは、秘密なのだが。実際には、接近禁止命令など出ていないんだ。エルトル議員の常套、ブラフってやつでな。つまり、あれはただの脅し文句。効力は何もない」
 シルスウォッドが、父親と叔母の通話を盗み聞きしていて、その意味を理解していることを前提に話された秘書ランドン・アトキンソンの、その言葉。それと、さらりと明かされたとんでもない秘密。――そう、秘書ランドン・アトキンソンが隠していたのは、この秘密と、それに関わるサプライズだったのだ。
 秘書ランドン・アトキンソンは今日この日のために、理不尽な日常に文句ひとつも言わず大人しく従っている少年のために、サプライズを企画してやっていたのに。せっかくのサプライズが、協力者が電話を掛けるタイミングをフライングしてしまったがために、ぶち壊しになろうとしていた。
 そこで秘書ランドン・アトキンソンは、もう“サプライズ”という概念そのものを投げ捨てることにしたのだ。いっそのこと全て明らかにしてしまったほうが良いと、彼にはなんだかそう思えてきていたのだ。
「……実はな、少年よ。俺は、ブレナン夫妻と連絡を取っていたんだ。彼らは今、ボストンにいる。これからお前を、そこに連れて行く予定だ。それと剣術教室には、今日は休むと伝えてあるが。しかし議員には、全部秘密にしてある」
 秘書ランドン・アトキンソンは聞き取るのもやっとな小声で、なるべく感情を排除したトーンで淡々と喋る。そんな彼は前を向いたままで、後ろを歩くシルスウォッドを見やりもしない。あくまでも、彼はいつもの送迎風景を装っていたのだ。同じ事務所で働く同僚たちにも、このサプライズ計画は秘密にしていたからだ。
 シルスウォッドもそれを察して、露骨に喜ぶようなことは控える。いつものように顔を俯かせて、駆け足気味に事務所内を歩くのだ。しかし嬉しい驚きのあったシルスウォッドの目は、先ほどまで宿っていた混乱が消え、年相応の子供のようにきらきらと輝いている。
「いいか、少年。フェンシング道具をいつものように持って、いつも通りに車に乗れ。分かったな?」
 腰に下げている鍵束を歩きながらカチャカチャと漁りつつ、秘書ランドン・アトキンソンはまた小声で指示を出す。シルスウォッドはその指示に従い、普段と同じように物置へ向かって、今日は使わないフェンシング道具を取りに向かった。
 しかし嬉しさを感じる反面、シルスウォッドの足取りは重い。もう四年も会っていない“叔母夫妻”に、どんな顔で対面すればいいのかが分からなかったからだ。


+ + +



 秘書ランドン・アトキンソンの言葉は、すべて事実だった。
 彼が運転する車が向かったのは、待ち合わせ場所の近くだという公園の駐車場。そこはエルトル家が住むビーコンヒルにほど近い場所にある、通称“ザ・コモン”と呼ばれる公園。独立戦争のキャンプ地であったり、クエーカー教徒の処刑が行われた場所であったり、暴動が起きたり講義集会が開かれたりと、何かとボストンの歴史に関わっている、由緒ある場所である。そして待ち合わせ場所は駐車場から少し離れた場所にある埋葬地、グラナリー墓地だった。
 歴史ある場所とはいえ、墓地は墓地。日当たりが良く、鮮やかな緑色の芝生がよく見渡せて、鬱蒼とした雰囲気は全く無い場所ではあるが……人気は無い。また、芝生の他には見るべきものは何もない。崩れた墓碑の残骸が点々とあるだけだ。ゆえにシルスウォッドが秘書ランドン・アトキンソンに連れられてそこに着いた時、ソワソワと、キョロキョロと忙しなくあたりを見渡していたブレナン夫妻の姿はやけに目立っていたため、彼らを見つけることは非常に簡単だった。
 そうしてシルスウォッドは、かつての育ての親である叔母夫妻と久し振りに再会したのだが。昔のように純粋な笑顔を、すぐに見せることは出来なかった。それに秘書ランドン・アトキンソンに背中を押されるまで、彼は夫妻に駆け寄ることも出来なかった。
 再会できたことは、嬉しかった。なのに、どうしても疑念が、不信感が、猜疑心が、湧き出て止まらなかったのだ。――その結果、出てきたのは他人行儀な態度。
「……久し振りです。ローマン義叔父さん、ドロレス叔母さん」
 気まずそうにはにかむシルスウォッドに、ブレナン夫妻が悲しそうな顔をしたのは、当然の反応といえるだろう。昔のように「パパ、ママ」または「ローマン、ドリー」と呼んでくれなかったことに、彼らは落胆していたのだ。そしてシルスウォッドがすくみ足ながらも、ブレナン夫妻に近付いていけば、夫妻の表情は曇っていく。シルスウォッドの顔にできていた痣に気付いたからだ。
「――ウディ、何があったんだ?!」
 竦み足で歩みの遅いシルスウォッドの代わりに、駆け寄ってきたのはローマンである。走ってきたローマンはシルスウォッドの目の前で急ブレーキを掛けるように立ち止まると、ローマンがシルスウォッドの顔に手を伸ばしてきたのだ。そしてドロレスも少し遅れて、シルスウォッドの傍に寄ると、間近で見た“甥”の顔にできた青あざに動揺を見せる。
 またシルスウォッドのほうも動揺していた。ドロレスとローマン、その二人が傍に近づけば近づくだけ、どす黒い不満が心の奥底で噴き出していくのを感じていたからだ。そして二人が顔を覗き込んでくれば覗き込むだけ、昏い心を見られているようで怖くなっていく。
 ドロレスとローマンの二人に、今の自分を見られたくなかった。その心から、シルスウォッドの視線は自然と下に落ちて、肩は縮こまっていく。……そんなシルスウォッドに助け舟を出したのは、秘書ランドン・アトキンソンだった。
「積もる話はあるでしょうが、まあそれは後にしてください。取り敢えず、まずは眼鏡屋に行ってきてもらいたいんですよ。議員から、そう命じられているんでね」
 そう言いながら秘書ランドン・アトキンソンは、シルスウォッドの父親から受け取っていた小切手を鞄から取り出すと、それをドロレスに手渡した。すると小切手を受け取るドロレスは、首を傾げさせる。
 眼鏡屋というワードで連想するのは、視力の低下。なのでドロレスは、シルスウォッドに訊いた。
「視力が落ちたのね?」
 ドロレスからの問いかけに、シルスウォッドは無言で首を縦に振って頷く。その反応を見ると、ドロレスとローマンの二人は顔を見合わせて、二人そろって眉を顰めた。
 というのも、ドロレスとローマンの二人を分かっていた。シルスウォッドは本の虫であり、文字が好きで、本物の“集中”スイッチが入ってしまうと時間を忘れてのめり込む性格。時間を忘れて、寝食を忘れて、陽の光さえも忘れて、何かひとつに没頭しかねない。――シルスウォッドの根本的な性格が変化しておらず、彼の実の父親がシルスウォッドに“相応しい”環境を与えていないのであれば、シルスウォッドの視力が低下していて当然なのだ。
 視力の低下が実際に起こったのなら、それはやはりエルトル家という環境がシルスウォッドにとって良くないことの証明となる。だから二人は、眉を顰めたのだ。
「もしかして……暗い部屋で、本でも読んでるの?」
 またドロレスがシルスウォッドにそう問えば、シルスウォッドは無言で頷く。そしてローマンが、青あざができたシルスウォッドの頬を優しく撫でると、青あざを中心としてシルスウォッドの顔に鈍い痛みが広がり、反射的にローマンらから離れるように身を後ろに引いてしまった。そうして半歩ほどシルスウォッドが後ろに下がると、またドロレスとローマンの二人は悲しそうな表情を見せた。
 すると後ろに下がったシルスウォッドの背を、前へと押しやる力が働く。秘書ランドン・アトキンソンが、背中を押してきたのだ。
「ライト付きの、手回し発電機でも買ってやったらどうですかね? 手回し発電機だったら、電池も買わずに済みますし、議員にもバレないでしょうから」
 そう言いながら秘書ランドン・アトキンソンは、グイグイとシルスウォッドの背を押してくる。後ろに下がるな、と言葉なく伝えているのだろう。そうして最後に秘書ランドン・アトキンソンは、シルスウォッドの肩を軽く叩くと、ドロレスとローマンの二人に視線を送る。それから彼はこう言うと、三人に背を向けて、車を停めた公園のある方角へと引き返していった。
「んじゃ、八時半にはここにまた来て、ご子息を迎えに来るんで。俺はお暇させていただきます」
 ご子息。その言葉をあえて強調するように言った秘書ランドン・アトキンソンのささやかな配慮に、ドロレスは少しだけ表情を緩ませた。そしてローマンの方はというと、俯いたまま目を合わせようともしてくれない“甥”を見つめて、なんとも気まずそうな顔をしている。それでもローマンはシルスウォッドの手を握って、四年前と変わらぬ優しい声で言った。
「さっ、まずは眼鏡屋に行こうか」
 それから三人で横並びになって歩き、墓地の近くにある駐車場へと移動する。そこで見覚えのある赤いセダンを見つけたものの、シルスウォッドは喜びもしなければ、懐かしさも感じなかった。
「…………」
 秘書ランドン・アトキンソンから、ブレナン夫妻に会えると聞いた時には、少なくとも嬉しいと感じたはずなのに。いざ実際に会ってみると、不快な感情しか湧き上がってこない。
 とてもうまくは、言葉に表せない感情だ。悲しみでも怒りでもなく、恨みでもないし、けれども虚しさの中には収まらない。しかし台詞でなら、表現可能だろう。
 とっくに手遅れになっている、何もかも全てが。――そんなところだろうか。
「……眼鏡って、どうやって買うのかしら。まず眼科に行って、処方箋みたいなのを書いてもらう必要があるの?」
「今どきは、店の中で視力を測定してくれるもんだよ。病院に行かなくても大丈夫さ。……多分」
「あなたの“多分”はアテにならないわ。取り敢えず、先に眼科に行きましょう」
 久し振りにドロレスとローマンの会話を聞きながらも、シルスウォッドは笑いもせず、泣きもせず、怒りもせず、ただ足元だけを見つめていた。話を振られない限り、口を開くことも無かった。





 三匹の仔猫と、その母猫に朝の餌やりを終えたアルバは、アストレアにある紙箱を託すと、仕事があると言って、海鳥の影ギルと共にどこかに消えてしまった。そしてアルバが去った後、アストレアが紙箱の中身を確認してみると……その中に入っていたのは、ごく普通のドライタイプなキャットフード。また紙箱にはメモが貼ってあり、そこには走り書きの文字で「猫が欲しがったら、その時はあげてくれ」と書いてあった。
 とはいえアルバが言うには、猫たちは勝手にアパートの侵入者を食べるから、餌やりはあまり必要ないらしい。侵入者とはつまり、ネズミや鳥、蛇、虫などのこと。またアルバはさらに「ネズミは猫が駆除してくれるから、殺鼠剤の類は絶対に置くな。殺虫剤の類もだ」と念を押してきたりもした。何事も、猫が最優先であるらしい。
「……なんだかお前たちが、小さな悪魔に見えてきたよ……」
 アストレアの暮らすアパートの一室に、勝手に上がり込んでいた仔猫三匹――アルバが空間を描き換えて、アストレアの部屋の玄関ドアにキャットドアを取り付ける改造を勝手に施していたのである――を見つめながら、パン生地に八つ当たりをするように捏ねるアストレアはそう呟く。
 小さな体でぴょこぴょこと飛び跳ねながら、姉妹猫の背中に飛び掛かったり、尻尾を追いかけたり、毛を逆立てて尻尾を膨らませて威嚇をしてみたりと、仔猫たちは部屋の主に構うことなく、好き放題に遊んでいる。その姿はアルバの言う通り愛らしくもあるが。アストレアの目に映っていたのは愛らしさではなく、逞しき野良猫の根性だった。
 よくよく観察してみれば、仔猫たちはそれぞれガッシリとした体つきをしている。脚は太く、足先は丸く大きい。肩回りも、すでにガッチリと出来上がっているように見えていた。ヤワなイエネコではない、というのは見ればすぐに分かる。
 そうして猫を見つめていた時、ふとアストレアの脳裏にある顔が過った。猫のような、あの男だ。
「……ラドウィグ」
 単純そうで、何も考えていなさそうな、いかにも能天気という雰囲気を放っていた男、それがラドウィグだった。そんな彼の性格や雰囲気はまさに、人間のことなど気に掛けずに自由に遊びまわる猫のようなものであったし。朗らかな態度や温和な表情からはまるで想像も出来ないような機敏さや、深い知性、それからガッチリとした体格を持っていたのが、彼という人物でもあった。
 そしてアストレアが思い出していたのは、アルストグランにて見た彼の最後の笑顔。無邪気な笑顔で、彼はこう言ってきたのだ。
『これでお前も後に戻れないね、アイーダ。オレたち、共謀者だ』
 アストレアにとっては家族も同然だった仲間たち――仕事は異常に素早いが、何かと口うるさくて過敏だったアイリーン・フィールド。怪我により声が出せなかったものの、タブレット端末を通じて、文面で文句を言うことが多かった料理上手のケイ。いつも血色の悪かったドクター・アルスル。威圧的な態度で隊員たちから反感を買ってばかりだったが、あの時までは衝動的になって判断を誤ることなど滅多になかったサー・アーサー。その四人――を、ラドウィグがあっさりと裏切った時に見せた、あの笑顔。とても不愉快に感じた、あの笑顔……。
「…………」
 猫を見ていると、不愉快なラドウィグの笑顔を思い出してしまう。なので彼女は猫たちから目を逸らし、パン生地をボウルに叩きつけて捏ねる作業に集中することにする。
 それが午前一〇時のマンハッタンで起こっていた出来事。そしてマンハッタンよりも時刻が進み、日付も一日先に進んでいるアルストグラン連邦共和国、首都特別地域キャンベラの某所では、ある女性が大あくびをしていた。
「テクノロジーがどんなに進歩しても、時差は克服できないのね……」
 大あくびをした後、座っていた黒革の椅子の背もたれに背中を預け、そう愚痴を零していたのは、紆余曲折を経て現在、アルストグラン連邦共和国の軍事防衛部門の最終決定権を委ねられている、イザベル・クランツ高位技師官僚である。……といっても、大規模な戦争や武力衝突は沈静化している現在では特に『軍事防衛部門』らしい仕事は無く、軍事防衛部門という肩書は有って無いようなものとなっていた。簡単にいうと彼女の今の立場は『裁判所と並び、大統領官邸に拒否権を発動できる立場』且つ『あらゆる技術系官僚の意見および愚痴を聞き、取りまとめた提言を大統領官邸に突き付ける役』で、『ASIのスポークスマン』といったものとなっている。
 また彼女の仕事は国内のみに留まらず、国外にも及んでいた。というよりも諸外国に働きかけることにより、国内へ変革を促そうとしている、と表す方が正しいだろう。
 そんなこんなで、イザベル・クランツ高位技師官僚はある電話会談を終えたばかりだった。相手は北米合衆国、科学技術局の局長フランクリン・オコナー氏。議題は、現在も旧ボストン市の上空で幽壮に輝き続ける世界最初の“SOD(時空の歪み)”。正式名称を『ローグの手』と言い、しかし一瞬でボストン一帯を無に帰してみせた無情な破壊力から俗に『アルテミス』と呼ばれているそれについて。
『アルテミス』を消滅させる技術の開発を、当初の予定通りアルストグラン連邦共和国側で進めることになったのだが。その開発に伴う諸々を調整するための会談が、今回のものであったのである。
 イザベル・クランツ高位技師官僚は眠気と戦いながらも無事に、既定路線へと話し合いを落とし込むことができた。それが一〇分ほど前のこと。電話会談を見守っていた関係技官たちも結果に胸をなでおろし、それぞれが今日最後の仕事を終えて、帰途についていった。そうして最後に残ったのが、イザベル・クランツ高位技師官僚と、そのボディーガード役のラドウィグの二人。
「オタワは今、朝の九時か一〇時ぐらいですからね。あちらの人は、また別の意味で眠いんじゃないですか?」
 眠気など一切感じていないかのように、背筋をピンと伸ばし、凛々しく佇むラドウィグは、眠たそうに目をこするイザベル・クランツ高位技師官僚にそう語りかける。真っ黒なワンレンズ型サングラス――四日前に、同僚であるジュディス・ミルズからプレゼントされたばかりの新品である――の下に隠れている彼の猫目も、昼間と相違なくシャキッと見開かれていた。
 そのように目が冴えているラドウィグとは反対に、眠くて眠くて仕方がないイザベル・クランツ高位技師官僚は、座っていた椅子の背もたれに完全に身を預けて、仰け反る。天井を仰ぐように上を向く彼女の顔には、疲労感が表れていた。彼女の目の下に、紫色のクマが出来ていたのである。そして眠たそうに瞼を閉じると、イザベル・クランツ高位技師官僚は脱力しきった声でこう愚痴を零した。
「北米の人って、本当に好きになれないわー。いつも自分都合で、こっちに合わせろって、そればーっかり。こっちの都合も汲んでもらいたいもんよ。アルストグランにも、まだ陽がある時刻に会議を設定してもらいたいわ……」
 イザベル・クランツ高位技師官僚が何気なく愚痴ったその言葉に、ラドウィグは少しだけ眉を顰めさせた。北米の人。彼女が発したその言葉に、ラドウィグはある男の顔を思い出したのだ。
 今は“アルバ”と名乗っているらしい、あの男。サー・アーサーの顔だ。
「北米の人が全て、横暴なわけじゃないですよ。きっと。どこの国でも同じです。上に昇り詰めるような人間に、横暴な性格が多いだけですって……」
 イザベル・クランツ高位技師官僚の愚痴に、そう言葉を返しながらも、ラドウィグの表情は曇ったまま。ふと思い出してしまったあの男の声、顔、言葉が今、ラドウィグの思考の半分を奪い去っていたのだ。
 うすら寒い笑顔。抑揚のない冷たい声。早口なボストン訛り。嫌味で遠回しな言葉と、ぶつ切りで単刀直入な言葉を使い分ける性格の悪さ。全てを見下しているような、人ならざる冷たい目。――サー・アーサーという男に関して思い出されるその全てが、ラドウィグに不快感を想起させる。
 思い返してみればラドウィグは一度たりとも、サー・アーサーを好きになれたことがなかった。それはサー・アーサーという男に、ラドウィグが好意を抱く要素がまるで備わっていなかったことが原因なのだろう。
 威圧的で一方的。不条理を平気で押し付けてくる姿勢。怒りを隠さない態度。他者をあからさまに見下す言動。自分が正しいと信じて疑わない独善さ。
 ――それらはサー・アーサーの持っていた特徴であり、ラドウィグが不快に感じる要素でもある。
「…………」
 きっとペルモンド・バルロッツィという“緩衝地帯”が無ければ、ラドウィグはサー・アーサーに上辺だけでも従うことはできなかっただろう。事実、サー・アーサーによる理不尽に怒るラドウィグを、いつでも宥めてくれたのは、やつれた顔をしたペルモンド・バルロッツィだった。
 あれでも、根は良いヤツだったんだ。ペルモンド・バルロッツィのその言葉があったからこそ、ラドウィグはなんとか一年強もの間、サー・アーサーの理不尽に耐えて来られたのだが……――今、ペルモンド・バルロッツィの言葉を振り返ってみたラドウィグは、その耐え続けてきた日々にも後悔をし、顰めさせていた眉間から力を抜く。彼の中で今、サー・アーサーへの怒りが、自分の察しの悪さに対する呆れへと変化したのだ。
 よくよく思い返してみればペルモンド・バルロッツィの言葉は、過去形だった。彼は「かつてのサー・アーサーは良いヤツだった」と“過去”については言及していたが、「今のサー・アーサーが良いヤツであるかどうか」については、言及していなかったのだ。つまり、ペルモンド・バルロッツィの当時の心境も……。
「北米人といえば。あのコヨーテ野郎、今はどうしてるの。ASIのほうから最新情報とか、聞いてない?」
 嫌な考え事に気を取られていたラドウィグを、現実に引き戻したのは、イザベル・クランツ高位技師官僚の声だった。
 しかし……どうやら彼女も、ラドウィグと同じ人物を思い出していたようで。不快そうな表情を見せながら、イザベル・クランツ高位技師官僚は眠たそうな重たい口調で、ラドウィグにそう訊いてきていた。そしてイザベル・クランツ高位技師官僚から訊かれたことに対し、ラドウィグは知っていることを正直に伝える。
「コヨーテ野郎は……今は、欧州の方をかき乱しているみたいです。先日の、軍需企業の元会長が獄中自殺を遂げた件と、それに関連している殺人にも、あの男が一枚噛んでいたらしいという話を聞いています」
「もしかして、ハンプシャーのあの事件? ……あの男は一体、何がしたいの?」
「株を暴落させたかった、というのが最も有力な説だそうです。あの一件で、コヨーテ野郎はかなり稼いだのではと、情報分析官は分析してます」
「金の為に、そこまで目立つようなことをやる人物なの? あの男についてはどちらかといえば、裏方でコソコソ動いてるってイメージが強いんだけど……」
「今は、特務機関WACEっていう枷があるわけじゃないですし。それに、自分を無敵だとでも思っている男ですから。やりかねないのでは?」
「なるほど。――それでASIは、何か手を打つの?」
「いいえ。当面コヨーテ野郎は、アルストグランに危害を加えてこないだろうとお上は考えているようです。なので他国で起こることに関しては、当事国に警告はするものの、それ以上の干渉はしないとの判断を、コリンズ長官が下しています」
 干渉しない。ラドウィグがその言葉を発した時、イザベル・クランツ高位技師官僚の表情はあからさまに曇った。彼女は、ASI長官サラ・コリンズが下した決定に、完全には同意することができなかったのだろう。
 だが自分の役目をよく理解しているイザベル・クランツ高位技師官僚は、言葉にはそれを表さない。代わりに、彼女はこう述べるに留めた。
「それが賢明ね。下手にコヨーテ野郎の起こす騒動に首を突っ込んで、アバロセレンの真実が諸外国に洩れてしまっても困るし、それに――」
 だが彼女は言葉の途中で、突然として固まってしまう。イザベル・クランツ高位技師官僚は何かを続けて言おうとしていたが、その途中で“何か”に驚いたように目を見開き、言葉を止めてしまったのだ。
「どうかしましたか、高位技師官僚」
 ラドウィグがイザベル・クランツ高位技師官僚にそう声を掛けると、彼女はハツと我に返り、苦笑いを浮かべる。それから彼女は誤魔化すように、こんな言葉を洩らした。
「疲れてるのもあるんでしょうけど。最近、幻聴みたいなのがよく聞こえるの。……今も一瞬、懐かしい声がしたような気がした。でも、気のせいよね。頭が半分、夢の世界に入っちゃってるんだわ……」
 その言葉を聞いた時、ラドウィグは嫌な予感を察知した。彼女の言葉が意味するものを咄嗟に理解したわけではなかったが、不吉な気配だけはすぐに分かったのだ。
 そしてイザベル・クランツ高位技師官僚が苦笑いを消して、また眠たそうな目に戻った時。彼女の肩がビクッと小さく上がり、ラドウィグの眉間にも皺が寄る。イザベル・クランツ高位技師官僚と同様に、ラドウィグにも“懐かしい声”とやらが聞こえたのだ。
『ラドウィグ。お前にしちゃ珍しく、随分と察しが悪いなぁ? かつては、いつでも俺の気配に気付けたってのに。俺が鏡の中に戻った途端、この調子か。ったく、情けないもんだぜ』
 聞こえてきた声は、ちょうどラドウィグが先ほど思い出していたペルモンド・バルロッツィの声によく似ていた。が、微妙に異なっている。さしずめ、よく出来たモノマネといったものだろう。
 ラドウィグには、その声の主が誰であるかがハッキリと分かっていた。それに声の主もそれを理解しているからこそ、モノマネこそしているが正体を隠す気は更々ない様子。だが。
「…………」
 ラドウィグはその存在に気付いていながらも、無視を決め込む。素知らぬ顔で首を傾げさせ、イザベル・クランツ高位技師官僚に対しシラを切り通した。
「目の下に黒い隈も出来ておられますし。今日はもうお休みになられた方が……」
 敢えて失礼な言葉を発し、ラドウィグは本心を誤魔化そうとする。また眠気でそれどころではないイザベル・クランツ高位技師官僚は、ラドウィグの提案に頷くだけ。
「そうね。それじゃあ、いつも通り……お願いしてもいいかしら」
「言われずとも、それが仕事ですので」
 眠たそうに目をこするイザベル・クランツ高位技師官僚を横目に見ながら、そう言葉を返したラドウィグは、官邸に待機している他のASI局員と繋がっている小型トランシーバーをベルトポーチの中から取り出す。そしてラドウィグはトランシーバーのマイク部を、リズムを刻むように指で叩いた。これは「イザベル・クランツ高位技師官僚を自宅へ――即ち、ペルモンド・バルロッツィが最期に築いた“覚醒者の為の要塞”アルフレッド工学研究所――これから送り届けるので、配車を頼む」という合図である。
 そんなラドウィグのいつもの動作を確認したイザベル・クランツ高位技師官僚は、眠気と戦いながらヨロヨロと椅子から立ち上がった。そして彼女が先導するかたちで、二人は部屋を退出する。
 ……その様子を、官邸敷地内に植えられた木から観察していたカラスは、ケケッと嗄れた声で笑う。そんなカラスの目は、イザベル・クランツ高位技師官僚とラドウィグの背後にあった壁掛け時計、その盤面を覆うガラスに写り込んでいた“鏡の世界”を見ていた。
「ケケッ。すっかり罪な男になっちまったなァ、あのガキんちょも……」
 カラスの視線の先。ガラスに映り込んでいた“鏡の世界”には、元の器に封じられたはずの黒狼ジェドの姿があった。先ほどまでイザベル・クランツ高位技師官僚が座っていた椅子の、その脇に、床に伏せている黒狼ジェドが居るのだ――あくまでも、壁掛け時計のガラスに映り込んでいる世界の中での話だが。
 そんな黒狼ジェドは、二人に無視を決め込まれて落ち込んでいる様子。イザベル・クランツ高位技師官僚には「幻聴」と言われ、ラドウィグには「敵意からの無視」をされたのだから、無理もない。
「……仔犬ちゃんに無視を決め込むなンざ、非道のすることだゼ。ジェドはただ、遊び相手が欲しいだけだってンになァ。ケケケッ!」
 無論、傍観者のカラスとて理解をしている。イザベル・クランツ高位技師官僚が、黒狼ジェドの声を幻聴だと自分に言い聞かせているワケも。ラドウィグが、黒狼ジェドの存在に気付いているという事実を、彼女に打ち明けられないワケも。
 だからこそ、カラスは彼らのことも嘲り笑うのだ。特に、ラドウィグという難儀な存在を。
『それはさておき、だァ。真実を言えねェだなンてヨォ……――どこぞのコヨーテ野郎にそっくりじゃねぇのかェ? ケケッ』


+ + +



 ドロレスとローマンの二人が、ボストンに突然来訪してきてから二週間が経過していた。
 ローマンはボストン来訪から五日を迎えた頃に「これ以上は仕事を休めないから」と一時的にハリファックスへと帰っていったが。しかしドロレスの方は帰ることなく、そのままボストンに滞在していた。そんな彼女はどうやら「今は知り合いの家にお世話になっている」らしい。
 そういうわけでシルスウォッドは、お目付け役兼送迎役の秘書ランドン・アトキンソンに仲介をしてもらいながら、この二週間はよくドロレスと会って、話をしたりしていた。四年も住んでいるわりには、全く知らないボストンという街を歩いて、普通の家族らしく買い物をしたりもした。夕暮れの街をドライブして、初めてボストンの海というものを見せてもらったりもした。
 ただし、ドロレスとの間にある“心の距離”は一向に縮まらなかった。シルスウォッドから他人行儀が抜けなかったからだ。昔のように彼女を信じて頼ること、そして子供らしく甘えることが出来なかったのである。
 成長した。そう言えば聞こえはいいが、実態は違う。褪めて、捻くれてしまったのだ。大人というのは頼りなくて、何もしてくれないということを、知ってしまったのだから。
「…………」
 そんな気まずい空気感が続いていた、ある日。
「なんか……ここ最近、浮かない顔してるけど。何かあったの?」
 シルスウォッドと一緒に下校をしていたブリジットは、シルスウォッドにそう声を掛けてきた。横に並ぶブリジットの目は、たしかに彼を心配している。ただし彼女は、心配の方向性を誤っているようだった。
 そんなブリジットの視線は、シルスウォッドが掛けていた赤縁の丸眼鏡に向いている。彼女はこう言った。「――視力検査の結果が悪かったこと、まだお父さんが怒ってるの?」
「いや、ブリジット。別にそういうのじゃないよ」
「もしかして、また殴られたりした?」
「最近は殴られてない」
 ブリジットの問いかけに、正直にシルスウォッドは答えたのだが。依然、彼女からは心配そうな目を向けられていた。というよりも、可哀想な境遇に同情するような憐みの目を向けられていた。
 境遇に同情されるということほど、生産性も無く、そして気に食わないこともない。しかしブリジットから向けられる憐みの目に、シルスウォッドは不満と小さな苛立ちを感じながらも、負の感情は悟られぬようにグッと堪え、作り笑顔を浮かべる。そして彼は嘘を吐いた。
「眼鏡にまだ慣れてないんだ。なんか、奇妙な感じで」
 作り笑顔を浮かべた際に、彼は少しだけ顔を俯かせたのだが。その拍子に少しだけ、掛けていた眼鏡がズレてしまった。そうしてズレた眼鏡を正しながら、シルスウォッドがそう嘘を吐くと。ブリジットの目は、憐みから疑念に変わる。ブリジットは、今の嘘を見抜いたようだ。すると、ブリジットはあることを指摘してくる。
「シルスウォッドってさ。嘘つくときにいつも、ちょっと俯くよね。で、笑いながら言うの。だから今のは絶対に、嘘でしょ」
 ブリジットは感情に慮ることをせず、容赦なく図星を指してきた。そして発言は全く以て正しい。それは八歳とは思えぬ観察眼だった。
 ぐうの音も出ない、とはまさにこの状況を言うのだろう。
「えー、そうかなぁ?」
「そうやって誤魔化すのも、嘘ついてるときの特徴だよ」
 シルスウォッドは話題を逸らしやすくするために、その導入として“誤魔化す”という手段を講じようとしたのだが、感情に疎い傾向のあるブリジットにその手は通用しない。ましてや相手は、優れた観察眼を持つとはいえ、年相応の精神年齢を持つごく普通の八歳。自分の話したい話題は頑なに譲らないだろうし、相手の感情を酌むなんて配慮もできる年齢じゃない。
「ねー、シルスウォッド。私にはちゃんと本当のこと言ってよ。怪我してるなら、うちで――」
「だから、そんなのじゃないって。最近は何もされてないって、そう言ってるだろ」
 少しだけ不機嫌さを表に出して、シルスウォッドはブリジットを突き放すようにそう言う。すると観察眼はあるものの、空気を読むことは少々苦手なブリジットも、流石にシルスウォッドの「放っておいてほしい」という気持ちを理解できたようで。彼女はそれ以上、追及してくることはなかった。
 その後は何も喋ることはないまま、いつものようにブリジットとは自宅のあるアパートの前で分かれた。そうしていつものように、アパートから少し離れた場所にある父親の事務所にシルスウォッドは向かおうとしたのだが……――この日は珍しく送迎役の方が、シルスウォッドの許にやってきた。ブリジットとアパートの前で分かれた直後に、父親の秘書ランドン・アトキンソンが運転する黒のセダンが、ブリジットと入れ違うかたちでシルスウォッドの前に現れたのだ。
「……ランドン?」
 セダンは無駄な音を立てず、シルスウォッドの前で静かに止まる。そして運転席に座る秘書ランドン・アトキンソンは車内から、シルスウォッドに向かって「早く乗れ」と手招きをしていた。その手招きに応じ、シルスウォッドはセダンの後部座席側のドアを開け、中に乗り込む。いつもと違う送迎にシルスウォッドは戸惑いながらも、後部座席に座りシートベルトを着用した。
 閉められたシートベルトが、カチッと音を立てる。するとそれを合図に、運転席に座る秘書ランドン・アトキンソンが、後部座席に座るシルスウォッドに声を掛けてきた。
「バーネットが、な。ちぃと、やらかしたんだ。それで今日は、ひどく議員の気が立っている。そんな状況でお前が事務所に来たら最後、議員の怒りの矛先がお前に向くだろうと思ったんでな。今日はこうして迎えに来ることにしたんだよ。唐突ですまなかった」
 そう言いながら秘書ランドン・アトキンソンは静かにアクセルを踏み、セダンはゆるやかに動き出す。ただし動き出したセダンが向かう方向は、最近の定番であったグラナリー墓地がある方向でもなく、チャールズ剣道教室があるチャールズ川方面でもなかった。
 どこに向かうのか。シルスウォッドは疑う視線を、秘書ランドン・アトキンソンの後頭部へと向ける。すると、視線を感じたのだろう。秘書ランドン・アトキンソンは前を見つめながら、振り返ることなく、シルスウォッドに目的地を伝えてきた。
「事情はよく分からないが……今日はアイリッシュパブに来いと、ミセス・ブレナンから言われていてな。中華街の近くに、バーンズ・パブとかいう店があるらしいんだが……」
「中華街に行くの?」
「いや、中華街に行くわけじゃない。その周辺にあるらしいアイリッシュパブを探しに行くだけだ」
 中華街といえば、ボストン市内屈指の治安の悪さを誇る街だとされている。
 五〇年ほど前までは、中華街といえばどちらかといえばボストンの中でも治安の良い区域であり、そこそこ人の集まる観光地ではあったようだが……いかんせん、観光客が増えすぎた。それなりの金額を携えて中華街を訪ねる観光客の財布を目当てに、次第に中華街には経済的弱者が集うようになり……いつからかボストンきっての“スリ警戒区域”となってしまったのである。それが原因で今では『特別な用でもない限り、避けたほうがいい街』と、周辺住民には認識されるようになっていた。
 とはいえ、それは観光客が集まる中華街の中だけの話。中華街の近辺に広がるボストンのダウンタウンは、ぼちぼちの治安の良さを誇っている。ましてや中華街のあたりに広がるアイルランド系移民の末裔が多く居住するエリアは、平和そのもの。
 なぜアイルランド系移民の末裔が居住するエリアは、平和なのか。それはアイルランド系コミュニティに目を光らせている存在が居るからである。それこそが、件の“バーンズ・パブ”なのだ。
 しかし……――いわばバーンズ・パブとは、地元の人間の中でも更に限られた人間しか知らないような、こぢんまりとした店。観光客向けに開かれてもいなければ、常連客でないと入りにくい雰囲気すらある店でもあった。となればフィラデルフィア出身であり、ボストン在住歴はまだ四年で、且つ市内を遊び歩ける余暇など殆ど与えられていない秘書ランドン・アトキンソンが、そんな店など知っているわけがない。
 しかしドロレス・ブレナンは秘書ランドン・アトキンソンに対して、バーンズ・パブに関する情報を全く以て提供してくれなかった。中華街らへんにあるアイリッシュパブの店、としか彼女は秘書ランドン・アトキンソンに教えてくれていないのだ。
 アイリッシュパブなど、ボストンには腐るほどあるというのに。その腐るほどあるアイリッシュパブの中から、一つの店を絞り込むための条件は、店名とざっくりとした地理の情報しかない。秘書ランドン・アトキンソンは、非常に不安を感じていた。
「……さてと。俺はどこに向かうべきなのか……」
 ――そしてこの時代は、四十二世紀に失われた多くのテクノロジーがまだ復刻されていなかった頃。先に起きた世界大戦、および欧州大戦による影響をさほど受けていなかった東洋諸国の支援を受けながら、欧米諸国のライフラインが都市部を中心に少しずつ復旧され始めたばかりの時代だった。つまりボストンではやっと各家庭に固定電話が再普及し始めた頃合いであり、この時代に携帯電話など存在していなかったのである。
 要するに外出先で、相手と連絡をリアルタイムに取り合う手段が無かったのだ。となればドロレスの携帯電話番号を呼び出して、彼女から直接バーンズ・パブの住所を聞き出す……なんてことなど、できない時代だったのだ。自力で店を探すしか、方法が無かったのである。
「まあ、まずは中華街の方に行って、聞き込みでもしてみるかぁ……」
 秘書ランドン・アトキンソンの不安は、彼の呟きを通じて後部座席のシルスウォッドへと伝播する。秘書ランドン・アトキンソンと同様に少しだけ不安を覚えたシルスウォッドは、秘書ランドン・アトキンソンにある提案をした。
「アイルランド系が多いエリアに行けばいいんじゃないのかな。例えば、ベイビレッジとか。ベイビレッジも、一応“中華街の周辺”に含まれるよね? ドロレス叔母さんのアバウトな性格を鑑みれば、もしかするとベイビレッジかも……」
 すると運転席に座る秘書ランドン・アトキンソンの視線が一瞬、ちらりと後部座席のシルスウォッドに向いた。そして直後、秘書ランドン・アトキンソンはシルスウォッドに向けてこんなことを言う。「少年。お前は本当に、ティーンエイジャーじゃないのか?」
「……それは、どういう意味で言ってるの?」
「そんな喋りができるようになるのは普通、十五歳ぐらいからだ。現に俺が八歳だった頃には“鑑みる”なんて表現なんぞ使ったことも無いし、意味も理解できなかったと思うぞ。『かんがみる? いったい何を見るの?』って、きっと言葉を返してるさ」
「それはランドンの場合じゃん。僕はランドンとは違うよ」
「そうだな、お前は違う。俺とは違うし、世間一般とも違うな。違い過ぎる」
 そんな皮肉を言いながらも、秘書ランドン・アトキンソンはセダンのハンドルを、ベイビレッジのある方向へと切り替える。それは忍耐強く、そして年の割には聡く、それでいて少々小生意気でもあるシルスウォッドの能力を、秘書ランドン・アトキンソンは幾分か評価していたからこその判断だった。





 時代は戻って、西暦四二八九年。場所はアルストグラン連邦共和国、首都特別地域キャンベラ内某所にあるアパート内の一室、ASIが用意したラドウィグの仮住まい。そして時刻は、深夜二時半。――イザベル・クランツ高位技師官僚を、彼女の家である“要塞”アルフレッド工学研究所に送り届けたラドウィグは、仮住まいに帰宅した後、携帯していたタブレット端末からASIの上司に『仕事を終えた』旨を電子メールで報告していた。
 タブレット端末にドッキングした、チタン製のQWERTY配列ワイヤレスキーボードをカチカチと高速で叩きながら、タブレット端末の液晶を見つめるラドウィグは、眉間にしわを寄せる。こういった“上司への報告”がイチイチ書面で求められる組織、および社会の構造に、彼は疑問を抱いていたのだ。こんな手間が本当に必要なのか、と。
 しかし、だ。ラドウィグはこのシステムの必要性を、理解はしている。いざという時の為に、記録が必要なのは分かっていた。だからテオ・ジョンソン部長は「任務終了報告は、終了後速やかに行うように」と口うるさく言ってくるわけで。それがどうしても、組織に必要なのは分かっているのだ。
 そう、ラドウィグは分かっている。理解しているのだ。
 だが……――単独行動が好きなラドウィグにとって、これはとても面倒臭い手間なのである。何故、翌朝オフィスで顔を合わせたときに報告じゃダメなのか。彼にはそう思えてならない。
 つまるところ、ラドウィグには“協調性”というものが欠けているのだ。足並みを揃えなければならないだとか、それがたとえ合理的ではないとしても定められたルールは守らなければならないだとか、コンプライアンスは遵守だとか、これらが彼には面倒に思えてしまう。この傾向は、ラドウィグが独断専行が黙認される環境で生まれ育ったことに由来していた。
「……仕方ない。ASIは大きな組織だ。一〇人ぽっきりの組織とは比較できないよな……」
 ブツブツと文句とも自己暗示ともつかない独り言を呟きながら、ラドウィグは報告メールを書き終えると、宛先欄に部長のメールアドレスを入力して、最後に液晶にタッチして送信ボタンを押す。送信中の画面が表示された後、すぐに送信完了を告げるダイアログボックスが表れた。――一応、これで報告は済んだのだ。
 しかし……報告した実感はイマイチ湧かない。これが電子メールというやつの欠点であり、ラドウィグが電子メールを好まない理由でもある。
「……昨日と同じ文面だけど。まあ、いっか。どうせ気にしないよな、部長は……」
 ドッキングしていたワイヤレスキーボードを、ラドウィグはタブレット端末から取り外す。そしてワイヤレスキーボードをいつもの棚の中にしまい、タブレット端末はいつもの充電器にセットした。
 それからラドウィグは着ていた黒スーツのジャケットを脱ぎ、ネクタイを外す。いつも通りにクローゼットを開けて、いつものハンガーにジャケットを掛けて、そのジャケットを掛けたハンガーのフックに、いつも通りネクタイをぐるりと巻き付けた。そしてクローゼットを閉じると、ワイシャツの一番上のボタンを開けて、窮屈だった首元を解放し、ラドウィグは溜息を吐く。と同時に、彼のお腹は空腹を告げるように、キュルル……と音を鳴らした。
 最後に食事にありついたのは、今から七時間前。夜の七時半すぎぐらいの頃に、同僚のアレクサンダー・コルトが持ってきてくれた大量のサンドイッチを慌ててかき込んだきり、何も食べていない。そろそろ、空腹がやってきてもおかしくない時間にはなっていたのだ。
「…………」
 そういうわけでラドウィグは悩んでいた。先に空腹を満たすべきか、それとも先にシャワーを浴びてから飯にするか、と。ラドウィグは迷いながらも、しかし彼の視線は冷蔵庫に釘付けとなっている。
 胃袋に支配された彼の心は、完全に冷蔵庫へと向いていた。けれども合理性を求める彼の理性は、いつも通りのルーティーンを実行するよう強く求めている。先にシャワーを浴びて、髪の毛が乾くのを待ちながら手早くサンドイッチやらホットドッグを作って、そして作ったものと洗濯物を携えてランドリーに行き、洗濯が終わるのを待ちながら食事をするという、無駄を徹底的に省いたルーティーンをするべきだと、理性は訴えていた。――しかし、だ。今のラドウィグは、とてつもなく腹が減っている。本音を言えば、今すぐ食事にありつきたかった。
 そうして暫し迷い、冷蔵庫をボーっと見つめていると。ラドウィグのとるべき行動を代わりに決定してくれる声が、彼の後ろに現れた。
「おい、なにボサッとしてるんだ。早くシャワーを浴びてこいよ」
 声がした背後へとラドウィグが振り返ると、そこには彼の相棒である九本の尻尾を持った白い毛並みの小さな狐、リシュが座っていた。リシュは黄色い目をじとっと細めて、ボーっとしているラドウィグに急かすような視線を送っている。
「ああ、ごめん。ボーっとしてた」
 リシュの言葉を受けて、ラドウィグはいつも通りのルーティーンを行うことを決めた。そして彼はリシュに対して言葉を返しながら、ワイシャツのボタンを上から順に外していき、ワイシャツを脱ぐ。脱いだワイシャツをラドウィグは適当に折りたたむと、『洗濯ネット』というポリエステルで出来た網目状の袋――大学時代に、同窓生だったデクスター・ノールズという人物に存在を教えてもらった便利グッズである――の中に押し込むようにして入れた。
 そうして白いタンクトップと、黒いスラックスというちぐはぐな格好になったラドウィグは、洗濯ネットに詰めたワイシャツを抱えて、シャワールームへと向かおうとする。……と、そんなラドウィグの背中に、リシュが話題を投げてきた。
「そういえばだ。ジュディス・ミルズとアレクサンダー・コルトの二人が昼間にこの家に来て、冷蔵庫に色々詰めてったぞ。冷凍のフライドチキンとか、マッシュポテトとか、ハンバーガーのバンズとか、ベーグルとか。あとピーナッツバターを冷蔵庫にぶち込んでたぜ」
 ピーナッツバター。そんな単語を耳にしたラドウィグは歩みを止め、その単語を発したリシュの方へと瞬間的に振り返ってしまう。リシュの方へと振り向いたラドウィグのその顔は、険しいものとなっていた。
 というのも、だ。ラドウィグはピーナッツバターというものが大嫌い。ピーナッツそのものも、また同様。彼が受け入れられないのは、あのピーナッツ特有のニオイだ。
 ラドウィグは、ピーナッツのニオイはカビのニオイに近いと感じている。湿った雑誌のような、とても「こんなのを食べられるわけがない!」というニオイだ。なのでどうしても、ピーナッツを食べることができない。シュールストレミング、ブルーチーズ、ハカール、くさや、ドリアンに次いで、生理的に受け付けない食べ物の一つなのだ。
 とはいえ少々ピーナッツ感の主張が薄いピーナッツクリームなら、なんとかラドウィグも食べられるのだが。もろに「ピーナッツ!」という主張が強いピーナッツバターは、無糖であろうが加糖されていようが、やはり受け入れられないというもので。
「ピーナッツバター? あれ、嫌いなんだけどなぁ……」
 そんなこんなで顔を顰めさせるラドウィグに、リシュは首を縦に振り、頷いてみせる。リシュはピーナッツを口にしたことは無かったが、しかしピーナッツバターのあのニオイを嫌っていたのだ。
「分かる、分かるぜ。俺もあのニオイが好きじゃない。やっぱ油といえば、ごま油のニオイが一番だ」
「いや、リシュ。ごま油は……ピーナッツバターと比較できる対象なのかな?」
「おう、勿論! ごま油もトーストに塗ると美味いって聞くぞ」
「えっ。いや、うそだろ……?」
「その昔、俺が住んでた神社の神主は、トーストにごま油を塗って、その上に塩をふりかけてたぜ。ほぼ毎朝、それ食ってたぞ。俺もあのニオイは好きだったなー」
 ごま油をトーストに塗る神主という話も、リシュが神社に住んでいたという話も、どことなく嘘くさくはあるが。まあ、そういった類の話にツッコミを入れるのはヤボというもの。そうなんだ、と適当な相槌を打って、ラドウィグはリシュの話を聞き流す。そして彼は、シャワールームに向かおうとした。
 ――のだが、そんなラドウィグの背中を再度、リシュが引き留める。それも今度の話題は、ピーナッツバターなど比にならないほどの衝撃を持っていた。
「それとだ。あの女二人組には、俺とかパヌイが見えてるらしいな。あいつら、冷蔵庫に物を詰めながら、普通に俺に話しかけてきたぜ」
 リシュが放ったその言葉は、ラドウィグの虚を衝いてきた。何故ならリシュの話したことは、ラドウィグには予測していなかった事態を意味していたからだ。
 ジュディス・ミルズと、アレクサンダー・コルトという女性二人組。彼女らに、ラドウィグの“本来、人の目には視えないはずの相棒たち”が見えていたこと。そして彼女らが、リシュと話をしたこと。……どれも、ラドウィグの想定外だ。
「……あの二人が、リシュと話した?」
 以前アレクサンダー・コルトが、『覚醒者(アバロセレンに何らかの影響を受けた結果、人体発火や透視能力等の“異能の力”が発現した人々の総称)』に関する質問をラドウィグに投げかけてきたことがあった。その『覚醒者』に関する話は、流れで『神々の世界』に関する話題に移り……――最終的にラドウィグは、ジュディス・ミルズに、あれやこれやと聞き出されたものだ。尚、発端となったアレクサンダー・コルトは、途中でラドウィグの難解な話に飽きて、離脱している。
「おうよ。あいつら、案外コッチ側に興味があるみたいでな。色々と訊かれたぜ。竜神カリスについてとかな。人間のくせに、一丁前に竜神カリスの容貌を拝んだことがあるとは、正直意外だったぜ。――ああ、そうだ。コルトが、パヌイ用のネコ缶も幾つか置いていったぞ」
 神々のヒエラルキー構造。それから、文明を獲得するに至った生命が在る星に派遣される、上位の十神について。そして上位の十神の中でも、破壊に秀でた竜神カリスについて……――。
 色々と、神々に関する話をラドウィグは話したが。その中でもジュディス・ミルズが最も食いついたのが、アレクサンダー・コルトに付いて回るホワイトライオンの姿をした亡霊についての話だった。
「パヌイって、厳密には猫ではないだろ。というかそもそも、三次元世界の生物じゃないし。だから、ネコ缶なんて食べるかな。……リシュはどう思う?」
「あいつは案外、猫の食い物に興味津々だぜ。この間は、野良猫が人間からもらってたササミのおやつに興味を示してたし。多分あいつ、ネコ缶に食いつく」
 アレクサンダー・コルトに付いて回るホワイトライオン、それは常に付き纏っているわけではない。偶にふらりとアレクサンダー・コルトの様子を確認に来て、去っていったり。彼女の危険を察知した時にはすっ飛んできて、彼女を助けたり。または彼女と親しい人が危険にさらされた時にも、その場に駆け付けてその人を助けたり。ピンチの時に現れる守護者のような、そういう感じだった。
 その旨をジュディス・ミルズにラドウィグが話すと、ジュディス・ミルズは目を輝かせた。多分、最も身近な場所に隠れていた神秘に、普段はクールな彼女もつい興奮してしまったのだろう。そして彼女の中で興味が加速し、アレクサンダー・コルトの守護者を視てみたいとでも望んだのだろうか。
 ……もしかするとあの話がキッカケで、ジュディス・ミルズおよびアレクサンダー・コルトが、リシュらの世界を視えるようになった可能性はある。
 だとするなら、これはラドウィグ自身が招いたことだ。彼はとても迂闊なことをしたのだ。
「じゃあ今度、パヌイが帰ってきた時にはネコ缶をあげてみるか……」
「それがいいと思う。あいつ、きっと喜ぶぜ。……ああ、そうだ。ネコ缶は冷蔵庫の中にあるぞ」
 マダム・モーガンが、リシュの存在を知っているのは一向に構わない。何故ならば、彼女はこちら側の人間であると同時に、あちら側の存在でもあるからだ。しかし、ジュディス・ミルズらは違う。彼女たちは完全にこちら側の人間であり、あちら側の道理など殆ど知らない存在だ。
 そしてラドウィグが懸念しているのは、あちら側の道理を知らないこちら側の人々が、不用意にあちら側へと干渉しようとするような事態。あちら側に興味を示した人々が、あちら側に関する情報を集めようとするあまりに、あちら側の世界にある“越えてはならない一線”を踏み越えて、それが“元老院”と呼ばれている存在に知られてしまったら? そうなれば、元老院が何かをするだろう。元老院の手により、もしくは命令を受けたマダム・モーガンにより粛清が執行されるかもしれない。
 しかし、だ。もう手遅れだ。起きてしまったことを悔やんでも、仕方がない。今後、状況がどう動いていくかを見守っていくしかないのだから。
「冷蔵庫か。りょーかい、あとで確認しておくよ」
 そう言葉を返すと、ラドウィグは頭を切り替えて、再びリシュに背を向ける。今度こそ、シャワーを浴びに。彼はそう思った。だがまた、リシュがその歩みを止めるのだった。
「あっ、それとだ! もうひとつ、ジュディス・ミルズが言ってたぜ!」
「ねぇ、リシュ。なんの話か知らないけど、とりあえずその話は、シャワーを浴びてからでいいかな?」
「いや、先に聞いといたほうが良い。シャワーでも浴びながら、冷静に考えるべき話題だと思うぜ」
 そう言ったリシュの鼻の孔は、興奮気味に大きく膨らんでいる。これはリシュが嫌味なことを言う前には必ずと言っていいほど表れる、いわば兆候みたいなもの。――肩越しにチラリとそれを目視したラドウィグは、察知した嫌な予感に身構える。身構えながら、彼は考えを巡らせた。一体リシュは、何を言い出そうとしているのかと。
 そもそもリシュは、そこまで話好きなタイプではない。必要最低限の伝達事項と、ちょっとした嫌味ぐらいしか言わないほうだ。世間話などするわけがなく、相談に乗ってくれるタイプでもない。それは昔から変わらないリシュの性格である。
 そんなリシュが、ここまでしつこく何度も何度もラドウィグを引き留めることは、たぶん初めてのこと。それほどまでに、ジュディス・ミルズとアレクサンダー・コルトの二人が、置き土産を残していってくれたということなのだろう。
「じゃあ、聞くだけ聞いとくよ……」
 ジュディス・ミルズも、アレクサンダー・コルトも、どちらも突飛な女性だ。
 フェミニンな装いを好み、物腰柔らかそうな女性らしい雰囲気を漂わせていながらも、その実は男性よりも渋くドライで、ハードボイルドな性格をしているジュディス・ミルズ。威圧すら感じる目つきの悪さを持ち、いかにも“ガラが悪い”というような装いを好みながらも、中身は意外と素直でピュアであり、誰でも受け入れる柔軟性と器量があるアレクサンダー・コルト。……単独でも十分に個性が強い女性のコンビなら、『リシュやパヌイなど、向こう側の存在が視える』『パヌイ用にネコ缶を置いていった』以上の何かを残している可能性はある。
 それに加え、彼女らの所属している機関はASIだ。そのASIから、彼女らは何かしらを言付かっていた可能性もあるだろう。というか、その可能性が高いだろう。となると、まあ、まずは聞くだけ聞いてみるしか……――
「あの二人組が言うには、だ。ASIはこの家に、別の局員を派遣することを検討してるらしいぜ。仕事で忙しいお前の代わりに、食料品を買ってきて、料理作ってくれて、他に家事とか諸々をする。そういうヤツを。要するに……使用人みたいなのが、この家に来るかもってさ。ヒマしてる局員が誰かしら派遣されてくるらしいぜ」
 少しだけラドウィグをからかうように、嫌味なトーンでリシュが語った話は、リシュが予想していた通り、ラドウィグに大きな衝撃を与えた。
 やっと特務機関WACEから解放されて、夜には一人で寝れる環境を手に入れられたのに。それが奪われるだなんて。……一人の時間と自由をこよなく愛するラドウィグは、雷に打たれたような混乱に襲われていたのだ。
 そんなラドウィグを観察しながら、リシュは言葉を続ける。「お前って結構、他人が嫌いだもんな。子供の頃から、ずっと。まあ、色々と経験してりゃぁ、そうなるのもしゃーないっつーか……」
「……ASIは、オレの何を探ろうとしてるんだろ。忠誠心か?」
「これまでの経緯からして、忠誠心なんか、ASIはハナからお前に求めちゃいないだろ。お前だって、ASIにも国にも忠誠心なんか抱いちゃいないだろうし」
「まあね。心から尊敬できる人には、誠実であろうと思うけど。組織とか国って、曖昧すぎて……」
「分かる。俺も同じだから。――だが」
「…………」
「だから俺は、元老院に消されそうになった。従順じゃない個体は、秩序の敵だからな。昏神キミアの気まぐれに巻き込まれた結果、時司の女神と竜神カリスっつー後ろ盾が得られたから、今も俺は生きてるが。そうなってなけりゃ、俺はとっくに消えてただろう。つまりだ、俺が言いたいことは分かるな?」
 忠誠は誓わないにしても、組織からの指令を黙って受け入れて、穏やかにやり過ごすか。我を貫いて、秩序を乱す敵となるか。……どちらを選ぶべきなのかは、今はハッキリとしているだろう。
 ASIが人を家に派遣するというなら、それを黙って受け入れるしかない。そもそも、この居住スペースもASIが与えてくれたものである以上、拒否権などラドウィグには与えられてないに等しいだろう。
 しかし、リシュは敢えて言う。自分の頭で考えて答えを決めろ、と。「まっ、シャワーを浴びながらよく考えな。決めるのは結局、お前なんだからな」
「…………」
「それにお前の今置かれている状況は、お前の母親が経験したそれと比べりゃ幾分かマシだ。まだ子供だったってのに、親元から突然引き離されて、イカれ野郎しか居ない環境に閉じ込められたお前の母親と違って、幸いにもお前の周りにゃ常識人ばかりだし、信用できる人間がいる。派遣する局員の人選はコルトがやるっつってたし……あの女の人を見る目を、ここは信じてみたらどうだ?」
 リシュは最後に突き放すようなことを言うと、それからいつもの定位置であるソファーを目指して、トコトコと歩いていく。その後ろ姿を確認すると、ラドウィグは鬱々とした気分を抱えながら、今度こそシャワーを浴びに向かった。


+ + +



 秘書ランドン・アトキンソンが運転するセダンは、ひとまずベイビレッジに到着した。が、そこからが長かった。中々、目当てのアイリッシュパブが見つけられなかったのである。
 地元民と思われる人々を見かけるたびに、秘書ランドン・アトキンソンはセダンの運転席から声を掛けていたのだが。しかしバーンズ・パブという店を知っている者とは、そう簡単には巡り合えなかったのだ。
 単調な聞き込み作業を、秘書ランドン・アトキンソンはかれこれ一時間ぐらい続けていただろう。その間ずっと後部座席に座っていたシルスウォッドは、この無駄な時間に対して飽きを感じるようになっていた。
 秘書ランドン・アトキンソンが繰り返す聞き込み作業の後ろで、シルスウォッドは学校の宿題を終わらせてしまったし。リュックサックに詰めて持ち帰った教科書類も、あらかた読みつくした。暇で暇で、仕様がなかったのだ。
 そうして暇が堪えて、シルスウォッドが思わずあくびをしてしまった時だ。秘書ランドン・アトキンソンが地道に続けていた聞き込みに、彼が望んでいた答えを返してくれた女性が現れたのだ。
「バーンズ・パブ? ああ、知ってるよ。ただ……」
 ボーダーコリーを連れて散歩をしていたその女性――五〇歳過ぎと思われる、白髪交じりなブルネットの白人女性――はそう言いながら、バーンズ・パブの場所を訊ねてきた秘書ランドン・アトキンソンを訝るように見ていた。そして女性は、続けてこう言う。「私にはとてもじゃないが、あんたがバーンズ・パブに用がある人間だとは思えないね。店の名前を間違えてるんじゃないのかい?」
「それはつまり、どういう意味ですかね?」
「あの店は、汚い身なりをした酔っぱらいが、楽器を持って集まるような、品が無い店だよ。店の中も汚いしね。テーブルはビールと松脂でベタベタしてるし、床の敷物はガムみたいにベドベドで履物の裏にくっついてくるし。……つまり、こんな高級車を乗り回してるような男が行くような店じゃないってことさ。オマケにあそこは、子供を連れて行くような店でもないよ」
 終始その女性は秘書ランドン・アトキンソンを怪しむ目で見ていたが、しかし彼女はちゃんとバーンズ・パブの場所を教えてくれた。それと彼女は、旦那がバーンズ・パブに通い詰めるあまり、収入を家に入れてくれないという愚痴も聞かせてくれた。
 そうして結局、お目当てのバーンズ・パブに到着したのは、ベイビレッジに到着してから一時間半が経過した頃。明るい緑色の外観がやたらと目立つ店は、住宅街から少し離れた場所にポツンと建っていた。そして店の前には挙動不審に辺りを見渡し続ける叔母、ドロレスの姿があった。
「この店で間違いなさそうだな……」
 奇抜な緑色の外観と、ドロレス・ブレナンの姿を確認した秘書ランドン・アトキンソンは、店の近くへと車を寄せながら、小さな声でそう呟く。そんな彼の声には、少しの驚きと呆れに近い感情が滲んでいた。
 それも無理はない。ボーダーコリーの婦人が言っていたように、その外観はとにかく“品が無い店”だったからだ。故に後部座席のシルスウォッドも、小さな声でこう言葉を返す。
「……そうだね、間違いなさそう……」
 奇抜な明るい緑色のペンキを、適当に塗りたくったような外壁。土埃にまみれて茶色く汚れ、小汚いという印象を与えるガラスの窓と、かつては白かったと思われる窓枠。それと、開け広げられた出入り口の上には、ゲール文字で『パブリックパブ』と書かれている。そして汚れた窓の上に張り出されている看板には、これまたゲール文字で、でかでかと『アイリッシュパブ・バーンズ』と書かれていた。
 それによく見れば、緑の外壁には細々と、落書きのような装飾があしらわれている。三つ葉のクローバーや、三つ葉のカタバミ。三つ葉シャムロックというモチーフをやたらと好むのは、アイルランドを愛する心の表れだろう。そしてビリジアンのペンキで描かれたワタリガラスのシルエットも、また然り。
 否が応でも感じざるを得ない品の無さと、隠すつもりもなさそうなアイルランド魂。このパブの店主は、なんだか面倒臭そうな性格をしていそうだなと思わずにはいられなかった。秘書ランドン・アトキンソンも、シルスウォッドも。
 そんなこんなで秘書ランドン・アトキンソンは店の前で車を停めると、後部座席に座るシルスウォッドに「降りろ」と伝えてきた。そして秘書ランドン・アトキンソンは後部座席のドアロックを解除すると、続けてこう言う。
「店の場所はもう把握したから、安心しろ。それじゃ、俺は八時過ぎに迎えに来る。それまでは……頑張れ、少年」
 意味深な『頑張れ』という言葉に、シルスウォッドは苦笑いで返す。
「うん、頑張るよ……」
 この時のシルスウォッドは、まだ知らなかった。バーンズ・パブの“品の無さ”は、外観だけの問題では片付けられない域に達していたことを。





 首都特別地域キャンベラの某所にあるコインランドリーにて、寝ぼけた目をこすりながら、サンドイッチを頬張るラドウィグが、洗濯が終わるのを待っていた時。北米合衆国の首都オタワは、正午を迎えていた。
 オフィスビルが立ち並ぶ通りから少し離れた場所にある繁華街には、昼食を求めに来た人々の姿が少なからず見受けられる。その街の中に、灰色のスーツを着用した白髪の死神アルバが紛れ込んでいた。
 度が入っていない、黒縁の丸眼鏡を掛けた彼は、極限まで目を細めた状態で道を歩いていた。しかしこれが案外、怪しまれないものである。繁華街を往く人々は、他の誰かの装いこそ見やったとしても、顔は一々見てはいないからだ。それにアルバ自身も、かなり気配を消す努力をしていた。道の脇を歩き、なるべく音を立てず、人には当たらぬように気を配っていたのだ。
 そんな彼が探していたのは、繁華街の脇道のどこかにあるというイタリアンバル。その中でも、やや外観が汚く、女性客は入りづらいであろう雰囲気を出している店を彼は探していた。
「…………」
 無論、彼の目的は食事ではない。美味しい食事と快適な環境を求めるなら、それこそ女性客がぽつぽつと見受けられる店を選ぶはずだからだ。
 男性客ばかりが集う店の料理は大抵、味が薄いかコッテリしすぎかの両極端であり、要するに不味いと相場が決まっているし。それに小汚い店は大抵、店主が横柄で居心地が悪いというもの。……つまり程よい女性客の数というのは、『ちょうどいい店』を探すうえで、ある種の指標となるだろう。となれば女性客が入りそうもない店に、マシな食事は無いと考えるのが無難だ。
 それに彼は、エスプレッソコーヒーも求めてはいない。そもそも彼の好みは甘ったるい紅茶。苦いコーヒーを嗜む趣味も、余裕もないのだ。
 食事にも用が無く、エスプレッソコーヒーにも用が無いのにも関わらず、イタリアンバルには用がある。……となれば、用件はただ一つのみ。そう、仕事だ。
『やましいことがある店は、どうしてああも人気のない場所にあり、そして汚いのでしょうか。これでは自ら、怪しい店だと宣言しているようなものじゃないですか。やましいことは隠したいと願うものですし、となれば木を隠すなら森の中です。普通の店に擬態すればいいと思うのですがね……』
 アルバの後ろをよちよちと歩く海鳥の影ギルは、そんなことをガーガーと騒ぎ立てる。しかしアルバはその言葉を聞き流すのみで、返事はしない。ただし彼は、心の中でこう返していた。それは怪しい雰囲気があるからこそ、まともな感覚を持つ人間は近寄らないからだ、と。
 毒を持つ魚が奇抜な色で自らを包み、自分を食べてくれるなと警告を発するように。やましい事情を抱える店は、怪しい雰囲気を敢えて醸し出して、一般人は関わるなと警告を発しているのだ。
「…………」
 ――と、そこでアルバは海鳥の影ギルの意図を察し、立ち止まる。彼の左手には人気がない脇道があり、その脇道にはたしかに小汚いイタリアンバルがひっそりと建っていたのだ。海鳥の影ギルは、暗に教えてくれたのである。目的の店がそこにあるぞ、と。
 そしてアルバは迷いもせず、脇道に入っていく。葉が焦げたような悪臭と、こちらを睨みつけているチンピラの存在に気付いた彼は、この店こそ依頼主が言っていた『オレたちのシマを乗っ取ろうとしている、不届き者どものアジト』なのだと確信を得たからだ。それからアルバは、小さな声で呟く。
「……手早く済ませるぞ」
 チンピラの存在にアルバが気付いたように、向こうもまたアルバの存在に気付いている。そしてチンピラは店の前に立て掛けられていた鉄パイプを手に取ると、それを携えてアルバの方にドカドカと歩いて来ていた。相手は鉄パイプを敢えて見せびらかすように持ち、アルバを威嚇している様子である。ちょっと脅せばアルバは立ち去るだろうと、相手は軽く考えているようだった。
 向こうからすれば、アルバは上等な衣服を着た“年寄り”でしかないだろう。その油断が今、致命的な隙を生み出している。
「おい、じーさん。道に迷ったんじゃねぇのか? ここは、あんたみたいな人間が入ってくるような道じゃねぇぜ。来た道、さっさと引き返しな」
 それはギャング団に所属する人間から飛び出た言葉とは思えないほど、良心的な脅し文句だった。それに、アルバの方へと徐々に近付いてきている鉄パイプを持ったチンピラ青年は威嚇こそしているものの、攻撃の意思はなさそうだということくらい、アルバも察していた。
 しかし。……それが何だ?
「ギル、店内の連中はお前に任せた。掃除してこい」
 チンピラの言葉に無視を決め込むアルバは、海鳥の影ギルに指示を出す。店内にいる他のギャング団員を皆殺しにして来いと、彼はそう伝えたのだ。そして海鳥の影ギルは、アルバの背後からスゥ……と消えていく。仕事を果たしに行ったのだろう。
 次にアルバは、それまで閉じていた目を開き、チンピラの青年が持つ鉄パイプに視線を向けた。それからアルバは右手を上げる。すると鉄パイプはチンピラ青年の手からするりと抜け、宙に浮いた。そしてアルバが上げた右手を左方向へスライドさせると、浮いた鉄パイプは一人でに大きく振りかぶる。続いてアルバが右手を右方向へと素早く動かせば、浮いた鉄パイプがチンピラ青年の脳天を目掛けて振り下ろされた。
 青年には悲鳴を上げる暇も与えられなかった。となれば、繁華街を往く者たちが気付くはずもない。鉄パイプが地に落ち、カァンッ……と金属音を立てようとも、誰も気付きやしないのだから。
「…………」
 案外、人の目は多くのことを見落とす。闇がすぐ傍にあろうとも、闇が自己主張でもしない限り、多くの人間は気付きやしないのだ。仮に気付いた者が現れたとしても、そいつも「これは夢だ、何かの間違いだ」と自分に言い聞かせることだろう。
 所詮、そういうものなのだ。


+ + +



 充満するエールビールのにおい。ベタベタと汚れた店内。そしてアルコールで顔を赤らめた飲んだくれたちが奏でる、牧歌的であり泥臭い音楽たち。――それが表向きの、バーンズ・パブの顔だった。
「そう。この子が私の息子、ウディよ。ローマンに似て、とっても賢い子なの」
 バーンズ・パブの店主に、そうシルスウォッドを紹介していたのは、叔母のドロレス・ブレナン。彼女はそう言いながら、シルスウォッドの背を押し、店主の近くへと彼を寄せる。背中を押されたシルスウォッドは一瞬、戸惑うような顔をしたものの、すぐに気分を“外行きの顔”へと切り替える。人懐っこいように見える、子供らしい笑顔を咄嗟に取り繕い、その笑顔を、目の前に立つ巨壁のような男へと向けた。すると男は、少しの嫌味を込めてこう言う。
「ああ、たしかに賢そうな坊主だ。この年で、もう世間擦れしてやがる。母親の悪いところが見事に遺伝してるな……」
 そう言った店主は、物言いたげな目でシルスウォッドを見ていた。その瞬間、シルスウォッドは作り笑顔を消し、視線を自分の足許へ落とす。――この店主はさして子供が好きではなく、となれば笑顔で騙せるような相手じゃないということが分かったからだ。
「え? 悪いところって、何?」
 気まずそうに俯くシルスウォッドの後ろで、ドロレスは店主の言葉に能天気な反応を見せる。そんなドロレスは、ほんの少しだけバーンズ・パブの裏の顔を知っている人物であり、そしてこの店主に恩がある人物でもあった。
「なんでもねぇ、こっちの話だよ。――しかしだ。なんだか、こう、不思議な気分だ。昔っからよく知っている、あのドロレスの息子を見ることになるたぁ……感慨深いもんだぜ」
 俯いたシルスウォッドの顔を覗き込みつつ、店主の男ライアン・バーン――腰ベルトを覆うように飛び出したビール腹についつい目が行ってしまう、金髪碧眼の中年男――は、そんなことを言う。
「…………」
 感慨深い。ライアン・バーンという男は、たしかにそう言った。だがシルスウォッドが感じていた視線と、その言葉は食い違っている。そして食い違う言葉と、向けられている視線が纏う威圧感に、シルスウォッドは少しだけ縮み上がっていた。殺気とは別の種類の、なんとも形容しがたい不穏さを内包する威圧感に、戸惑っていたのだ。
 まるでシルスウォッドという存在そのものに疑いの目を向けているような、そういう雰囲気。ドロレスの実子ではないという事実を見抜かれているような、そんな気配がライアン・バーンの視線の中に既にあったのだ。
「……あ、あの……」
 そしてシルスウォッドの直感は、正しいと判明する。ライアン・バーンが、ある言葉を零したのだ。
「にしても、顔が全く似ちゃいねぇな。ドロレスにも、ローマンにもだ。これぐらいの歳の頃は大抵、子供は母親に似るもんだと聞くが……さっぱりだな。本当に、君の子なのか?」
 ストレートに発せられた、疑いの言葉。その言葉を発したライアン・バーンはシルスウォッドの顔へと手を伸ばし、固いタコが出来た指の腹で、シルスウォッドの頬を軽くつねった。それからライアン・バーンはそのままシルスウォッドの顎へと手を滑らせ、その小さい顎をクイッと掴み、シルスウォッドの顔を上へと向けさせる。強制的に顔を上げられたシルスウォッドは、否が応でもライアン・バーンの顔を見せつけられた。
「いや、似てないは大袈裟だな。少しは、エルトル家の顔をしているか。この髪色はエルトル家の色だし……」
 顰められた眉間と、疑いの目。見せつけられたライアン・バーンの顔からシルスウォッドが目を逸らそうとすると、ライアン・バーンは「目を逸らすな」とばかりに顎を掴んでいる手の力を強くする。
 容赦なく迫りくるライアン・バーンの気迫に、この時にはすっかりシルスウォッドは怯えきっていた。作り笑顔を浮かべるような余裕など、もう無い。
「…………」
 ラピスラズリのような深い青色と、琥珀に似た褐色が入り混じるライアン・バーンの瞳は、明らかに真実を見透かしていた。というよりも、既に全てを知っているような目をしている。
 そのようにライアン・バーンが子供相手に奇妙な圧を掛けていると、ライアン・バーンの異様な威圧感に気付いたドロレスが慌て始める。けれども彼女はあくまでも、嘘の上塗りを続ける姿勢を貫いた。「私たちに顔があんまり似てないのには、理由があるのよ。あの、ホラ……」
「っつーことは、養子ってとこか」
「そ、そうなの。でも、性格は本当に私たち夫婦によく似てるの! この子は音楽が好きでね~」
「おっ、そりゃあ興味深い」
 ドロレスが咄嗟に発した“音楽”という言葉に、ライアン・バーンは反応する。と同時に、ライアン・バーンは、シルスウォッドの細い顎を掴んでいた手を離した。どうやらこのライアン・バーンは、音楽という物が好きらしい。だからドロレスも、その言葉を咄嗟に発したのだろう。
 そしてライアン・バーンの好奇の目が、シルスウォッドへと向けられる。
「ちなみに、坊主。好きな楽器はあるのか?」
 この瞬間、初めてシルスウォッドに向けられていた、ライアン・バーンの視線が和らいだ。……が、かといって完全に和らいだわけではない。疑念だけの視線が、こちらの反応を試すような視線に変わっただけ。
 しかし、今の質問でライアン・バーンが何を見ようとしているのか? それが分からない。意図の読めない質問に対し、シルスウォッドは答えるよりも先に、思わず首を傾げてしまう。すると反応が良くないシルスウォッドに、ライアン・バーンは急かすようにこう言った。
「楽器だ。ピアノ、フィドル、ギター、ホイッスルとか、色々あるだろ」
 ピアノ。これは多分、このパブの隅に年代物のアップライトピアノが置かれていたから、真っ先に飛び出たのだろう。そして、フィドル。これは最もライアン・バーンが語気を強めて言った楽器名であり、多分これが彼の望んでいる答えだ。それ以降に飛び出した楽器名“ギター”と“ホイッスル”は、恐らくライアン・バーン自身が好きなもの。……シルスウォッドは直感的に、そう分析した。
 ライアン・バーンが望んでいる答えは、フィドル。そして実際にシルスウォッドの頭にパッと浮かんだ答えもフィドル、つまりヴァイオリンだ。故にシルスウォッドは、こう答える。
「……フィドル」
 ドロレスとローマンからのプレゼントであったヴァイオリンを、ジョナサンに木っ端微塵に破壊されて以来、シルスウォッド自身は音楽から遠ざかっていたが。その件がキッカケで音楽が嫌いになった、なんてことはない。今でも機会さえあれば、また何かしらの楽器に触れたいとは思っていた。……まあ、あの家の中では絶対に叶わない望みではあるのだが。
 そんなこんなでシルスウォッドが投げかけられた問いに答えると、ライアン・バーンはしたり顔のような表情を見せる。望んだとおりの展開に、彼は満足しているのだろう。それからライアン・バーンは珈琲で黄ばんだ歯を見せ、ニヤリと笑うと、彼は再度、シルスウォッドの細い顎を大きな手で掴み、シルスウォッドの顔を上げさせた。そうして上を向いたシルスウォッドの頬を、ライアン・バーンは空いていた手でむにっと抓る。
 抓られたことによる痛みに、シルスウォッドが顔を引き攣らせれば、その歪んだ表情を見て嬉しそうにライアン・バーンは笑い、顎と頬を掴んでいた両手を離してくれた。それからライアン・バーンは、こんなことを言う。「たしかに、こりゃ……お前の母ちゃんにソックリだな」
「……?」
「お前の母ちゃんもフィドルが好きで、よくこの店で弾いてたぜ。特にスカイ・ボート・ソングがお気に入りで、フィドルでそれを弾きながら、スティーヴンソン版の詩を歌っ――」
「待って、ライアン。私、この店でフィドルなんて……!」
 ライアン・バーンが語る話に、ドロレスはそう横槍を入れ、話を妨害する。そんなドロレスの顔はすっかり蒼褪めていた。ライアン・バーンが言うところの“お前の母ちゃん”が、ドロレスのことを指していないことに気付いてしまったからだろう。
 そしてシルスウォッドは、ドロレスの反応から事情を察する。
「私は、この店でフィドルなんか弾いたことないわ。誰かと混同してるんじゃないの? このお店、常連客も多いし、それに……」
「ドロレス、諦めな。見苦しいにも程があるぞ」
 ライアン・バーンという男は、シルスウォッドの母親と知り合いだったのだ。
 その母親とはドロレスでもなければ、実父の妻であるエリザベス・エルトルでもない。自死した実母であり、連続殺人を犯した罪人である、ブレア・マッキントシュ。
「――事情は概ね把握してる。ブレアから聞いているからな。坊主も連れて、裏部屋に来い」
 くぐもった低い声でライアン・バーンはそう言うと、彼はカウンターの裏にある扉を指差す。それから彼は「ついて来い」と言うように、ドロレスとシルスウォッドの二人に向かって無言で手招きをしてみせた。


+ + +



 唯一の出入り口が閉め切られた裏部屋は、長いこと換気がなされていないのか、とてもカビくさく、空気もジメッとしている。そんな裏部屋に通されたシルスウォッドとドロレスの二人は、ぞわぞわと心が掻き乱されるのを感じていた。現にドロレスの指先は、不安からガクガクと揺れている。……事情を何も知らないはずだと思っていた相手が、自分よりも『シルスウォッドの本当の母親』をよく知っていることに、ドロレスは戸惑いを隠せなかったのだろう。
 そしてシルスウォッドにとっても、父親以外の人物から“ブレア”という名前を聞くことなど、初めてのこと。ましてや、その相手は今日初めて会ったばかりの人物なのだから、尚更に衝撃は大きい。
 この“ライアン・バーン”という人物は、何者なのか。その片鱗が、少しだけ語られようとしていた。
「目鼻立ちと、あと眉だな。我が強そうな感じが、ブレアによく似てる。特にスカイブルーな瞳の色はソックリだ。一瞬、彼女の生き写しかと思ったぜ。――ただし髪の毛は、ブレアの綺麗な金髪とはちと違うな。どちらかといえば、昔のドロレスに近い。将来は色が落ちて茶髪になりそうな、そういう金髪だな。そこはエルトル家の血が入ってる証なのかね?」
 出入り口のすぐ脇の壁に嵌め込まれていたスイッチを押し、ガス灯の明かりを点けながら、ライアン・バーンは過去を懐かしむようにそう言った。そして天井の明かりが灯ると、薄暗いオレンジ色の暖かな光が埃っぽい裏部屋を照らし出す。ほのかな明かりに照らされて、埃を被った家具が見えるようになると、ライアン・バーンはその中から、横並びになっている二つの椅子を指差した。そこに座れと、そういうことらしい。
 ライアン・バーンが指定した椅子に、ドロレスとシルスウォッドの二人は腰を下ろす。ドロレスが座ったのは背の高いアームレスチェアで、シルスウォッドが座ったのは低めのオットマン。座った拍子にボフッと飛散した埃にシルスウォッドが少し顔を顰めさせたその横で、ドロレスは肩を落とし、溜息を吐く。ライアン・バーンに嘘は通用しないと、彼女は諦めて腹を括ったのだろう。そんなドロレスは俯きながら、少し震える声でこう切り出すのだった。「……ライアン。どこで、その情報を得たの?」
「さっきも言っただろう。ブレアから直接、聞いたんだ。なんなら、その子の事情に関しちゃ、たぶん俺が最初に知ったといっても過言じゃねぇよ。アーサー・エルトルがやらかしてくれたその翌日に、面会室で彼女の口から詳細を聞かされたんだからな」
 ドロレスの問いかけに、ライアン・バーンはそう返す。『やらかしてくれた』というライアン・バーンの発した言葉の意味を、当時のシルスウォッドはまだ理解できず、首を傾げさせた。
 しかし、大人であり、当時の状況をそれとなく知っていたドロレスは違う。「兄さんは、彼女の方が言い寄ってきたと主張してた。……でも、やっぱり兄さんが、彼女を」
「ああ。どうせ極刑にしかならない女なら、何をしたって誰も気にしないと、あの野郎はそうほざいてたらしいな」
「…………」
「ブレアに弁護士を雇う金があったなら、状況は違ったんだろうが。当時の彼女は、全てを諦めていたからなぁ。しかし、あのゲス男がどこから湧いて出てきたのかは未だに謎だが――……まっ、これ以上の話は子供のいる前ですべきじゃないだろう」
 父親が、実の母親に対して“傷付けるような”ことをした。そしてライアン・バーンは、父親のことを“ゲス男”と思っている。……それぐらいのことしか、当時のシルスウォッドにはまだ分からなかったが。それでも父親の邪悪さと、父親を嫌悪しているライアン・バーンとドロレスの感情だけは、ひしひしと伝わってきていた。
 そして“大人の会話”は、シルスウォッドを差し置いて続いていく。
「それでだ。万が一の事態が起こった時には、ウチでその子の世話をしてくれるようにと、俺はブレアから頼まれてた。ウチの嫁さんも、それを承諾してくれてたんだぜ」
「…………」
「だが、問題が起きた。アーサー・エルトルが首を突っ込んできたもんでなぁ。……後は、ご存知の通りってわけよ」
「それは、その――」
「いいさね。今日までの経緯は知っている。お前さんは何も後悔するな」
「……ライアン。ひとつ、聞いていいかしら」
「ああ。俺の答えられる範囲でなら」
「……なぜあなたは、彼女と親しかったの? 彼女とあなたとの関係が、まるで分からないんだけど」
「ブレアはその昔、うちの店に住み込みで働いてくれてたんだよ。二年ほどな」
「でも、彼女は娼婦だったんじゃ……」
「ああ。ブレアは、知り合いのポン引きから預かった元娼婦だった。彼女が更正したがってるっつーことで、その足掛かりとして、うちで雇ってやってたのさ。……だが結局、彼女は『果たすべきことがある』と言い出して、出て行っちまった。それで彼女はポン引きのとこに戻って、狩りを始めたんだよ。下賤な男を狩るには、娼婦ってのはうってつけの職種だったからな」
 ……いや。実際のところ、シルスウォッドは分からないふりを決め込んでいた。これぐらいの年齢の子供なら話の意味など分かっていないはずだという前提で、大人たちが話しているから、その通りに振舞っていただけ。なので彼はオットマンに座り、俯いて、黙って、大人しくしていたのである。
 実際には、よく分かっていた。自分がどういう存在なのかも、よく理解していた。何故ならば、ジョナサンがこの言葉をよく言ってくるからだ。
 ――Bastard(落とし子)
「それでだ。ブレアから、息子への贈り物を色々と預かってるぞ。……いや、贈り物と言うと語弊があるな。正しくは『ブレアが住み込みで働いてた時代から、この店の二階に放置されてるもの』だな」
 クズでゲスな人物が登場する物語は、幾らでもあるし。シルスウォッドは、およそ子供向けとは言い難いその多くの物語を読んできた。
 だから、シルスウォッドは知っている。ライアン・バーンが何を言っているのか、その言葉の意味を。ライアン・バーンが言葉をオブラートに包まず、ストレートに発していることもあって、シルスウォッドは彼の発言の意味をよく理解していた。
「まず彼女が使ってたフィドルと、それと彼女の家が代々受け継いできたらしいキルト一式だ。靴下と、アザミの装飾が付いたキルトピン、それと帽子とベルトと小型鞄(スポーラン)、あとアザミの刻印付きの短剣(スキャン=ドゥ)も残ってる……はずだ。たしか、な」
 シルスウォッドは、俗にいう“私生児”で“落とし子”だ。それも、卑劣な経緯で誕生した子供。だから周囲が、彼の扱いに困っている。
 ドロレスとローマンの二人が望んだように、普通の子供として生きるべきだったのか。父親が望んだように、家庭内で飼い殺しにされるべきだったのか。はたまた、母親のことをよく知っているらしいライアン・バーンの庇護下で過ごすべきだったのか。自害を選んだ母親の後を追って、自分も死を選ぶべきなのか……。
 そしてシルスウォッド自身も、どれが正解なのかが分からずにいた。だからこの時の彼には、俯いて黙り込むことしか出来なかったのかもしれない。
「…………」
 大人たちの会話は全て、自分の人生に関することであるはずなのに。ライアン・バーンとドロレスの話を虚ろな顔で聞き流すシルスウォッドは、その全てが他人事のように感じられていた。自分の出生にまつわる母親の話も、母親が自分に遺したものも、まるで自分とは関係の無いように感じられてしまうのだ。
 それでも、やたらとライアン・バーンが連呼する“アザミ(シスル)”という言葉に、いやでもシルスウォッドは自分との関連性を見出さざるを得ない。アザミの森(シスルウッド)、それが彼の正しい名前であるからだ。
「あと、詩集とかABC譜とかも置いてある。白猫のキュートなぬいぐるみ……は、もう必要ない歳頃か。それからアザミの家紋が刺繍されたタペストリーと、あと……――」
「ライアン!」
「どうした、ドロレス。急に声を荒らげて」
「お願い。どうか、このことは秘密にして。もし外部に知られたら、この子の人生が……!」
「当たり前だろう、心配すんな。こう見えて口は堅いのがバーン家だ。秘密を洩らすことは決してしないさ」
 身を案じてくれているドロレスの悲痛な声も。秘密を洩らさないと誓ったライアン・バーンの声も。どちらもシルスウォッドのことを言っているが、けれども彼自身にとってはどうでもいいことだった。
 何もかもが、他人事のように思える状態。……振り返ってみればそれはもしかすると、他人事であって欲しいと願う本音が作り出した、思考の靄だったのかもしれない。
「よし、坊主。お前の母ちゃんのフィドルを見てみるか?」
 俯いて黙りこくっているシルスウォッドの姿を、退屈していると捉えたのだろう。ライアン・バーンはドロレスとの話を切り上げると、シルスウォッドにそう話を振ってくる。その時のライアン・バーンの声には、それまでの疑念に満ちたものや深刻そうなトーンは含まれておらず、如何にも『楽しいイベントに子供を誘う大人の態度』というものだった。
 しかし、その時のシルスウォッドは、緊張こそ抜けていたものの、どっと疲れていた。
「…………」
 ライアン・バーンの態度に合わせて、子供らしく振舞うような余力は残っていなかったのだ。そんなシルスウォッドに出来たことは、ひとつ。顔を上げて、頷くことだけ。
「……うん。見てみたい」
 やや無愛想に返したシルスウォッドのその言葉に、ライアン・バーンの表情はわずかに引き攣った。
「お、おう。そうか。それじゃあ二階に上がれ。見せてやるよ」
 ――この時のことを、後にライアン・バーンはこう語った。「初めて会った時の母親と全く同じな、地獄に魂を置いてきたような目をしていた」と。
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