EQPのセオリー

14

 朝の通学路、バス停へと向かう道。ひとり歩くアレクサンダーの後ろから、頭にバンダナを巻いた青年――つい先日、晴れて退院したニール・アーチャー――がやってくる。彼はだるそうに歩くアレクサンダーの肩をポンッと叩くと、アレクサンダーの顔を覗き込み、こんなことを訊いてきた。「……なぁ、アレックス。お前、何か変わった?」
「何がだよ」
「俺が退院したのが、そんなにショックだったのか」
「何の話だよ」
「だって、俺が退院してからずっと、お前なんか暗いっつーか。その、俺ってのは迷惑な存在なのか?」
「バイトと勉強の両立がキツいだけだ。眠くて死にそう」
「それだけじゃないだろ。どうしたんだよ」
「うるさいなぁ、放っといてくれ」
「それに最近、お前の周りに“あのひと”が出没してるだろ? お前、なんかしたのか?」
「してねぇっつーの。しつこいぞ、テメェ」
 この一ヶ月。アレクサンダーは父親の言いつけを守り、ユンとユニの双子とは一切会っていなかった。
 その間にもニール・アーチャーは無事に退院し、この通り学校に戻ってきた。そしてアレクサンダーとニールの関係は絶交宣言の前に戻り、元通りとなっていた。
「つーか、まだアタシの監視をしてるのかい?」
「誓って言う、してない。ただ“あのひと”が目につくだけだ」
「へぇー。……まあ、一応信じてやるよ」
 そう言いながらアレクサンダーは、大あくびをしてみせる。腕を上にうーんと伸ばしながら、アレクサンダーはここ一ヶ月の間に起きたことを思い出していた。
 まず、パトリック・ラーナーと精神病棟前の庭園で仲良くおしゃべりをした、そのあと。家に帰るとアレクサンダーは父親に捕まり、大目玉を喰らわされた。しかしアレクサンダーは母親が居る目の前で、腕時計の中に仕込まれていた盗聴器の話を暴露する。すると今度は母親が父親を怒鳴りつけた。
『年頃の娘の行動を逐一監視して、挙句の果てに盗聴するなんて! この××野郎! 離婚してやる!! 絶対に、絶対に絶対に離婚してやる!! アレクサンダーの親権は私がもらいますから。共同親権なんて絶対に拒否してやる。分かったなら、さぁ早く、この家から出て行きなさい、この役立たずの××××が!』
『そんなことを言わないでくれ! 俺が、どれだけ君を愛してッ――』
『こちとら愛やら何やらはもうとっくに冷めてらぁ!! 離婚するって言ったら離婚するんだ! 弁護士を呼んでやる、今すぐ!』
『やめてくれ! 頼む、落ち着いてくれ、イーリャ!!』
『失せろ、この×××が! テメェなんざ××××の××××にして、××××の××××に××してやるぞ! 覚悟しておけ!! この××××!』
『イーリャ、話を聞いてくれ、イーリャ!!』
 その後、母親は本当に弁護士に連絡した。そして現在、離婚協議が進行中。それもあってアレクサンダーは近頃、探偵事務所に足を運んでいない。母親が父親の分の朝食づくりをやめた影響で、父親の探偵事務所に通う理由がアレクサンダーにとってなくなってしまったからだ。
「……はぁ」
「ほら、アレックス。溜息なんか吐いて、らしくねぇじゃん」
「……今、親が離婚だなんだで揉めてるんだよ。母さんは離婚するの一点張りで、対して親父は離婚したくないって泣き付いてて。どっちに転ぶのかが、さっぱり分からなくて」
「あじゃぱ。そりゃ、なんというか、その……がんばれ」
「……だから言いたくなかったんだよ」
 だがアレクサンダーはあれ以降も、何度かパトリック・ラーナーと会っていた。その度に彼から少しずつ、高位技師官僚について聞き出していたのだ。
 というのもパトリック・ラーナーは、あんなことを言っていた割には足繁く精神科を訪れていたのだ。カルロ・サントス医師に意見を仰ぎに来たその帰りに、彼は気まぐれでアレクサンダーの許に来ては、あの手帳を見せてくれていた。そして彼はペルモンド・バルロッツィ高位技師官僚という人物にまつわる情報やエピソードなどを、包み隠さずに教えてくれることが多かった。
 高位技師官僚の監視を上から命じられたものの、その日のうちに高位技師官僚にバレて、嫌味を延々と言われ続けた話。アバロセレンの闇取引の現場を差し押さえに向かったら、高位技師官僚に先回りされていて、密売人たちは全員のされ、アバロセレンは持ち去られていた後だった話。同じくアバロセレンの闇取引の現場を差し押さえに向かったら、ばったり高位技師官僚と出会ってしまった話。その中でもパトリック・ラーナーは、現場でペルモンド・バルロッツィと遭遇してしまったときのことを、詳しく教えてくれた。
『アバロセレンの闇取引が行われるという情報を掴んで、私は単身その現場に乗り込んだんです。そうしたら、なんという偶然か、ペルモンド・バルロッツィさまと鉢合わせてしまいましてね。お互いに、取引現場に乗り込もうとしていたときでした。まさに、バッドタイミングでしたよ』
『持っていた武器といえば、私は拳銃を一丁だけ。対してあの男は、拳銃二丁にマシンガン、さらに背中にはサーベルを二本も背負ってました。ASIからの応援を待つべきだと私は進言しましたが、彼は乗り込むと言って聞かなかった。そして私か彼か、どちらが先に現場へ乗り込むかという無言の睨み合いをした末、彼が現場に飛び込み、私がそれを援護するという形に落ち着きましたが……結論から言うと、私の援護はまるで必要なかった』
『というのも彼は一人で、その場にいた全員をねじ伏せたんです。全員の四肢を封じ、とはいえ殺しはせずにことを済ませた。そして彼は液化アバロセレンのタンクを回収すると、それを持ち去っていった』
『あの時の彼は異様でした。目が死んでいて覇気はなく、それでもキビキビと仕事を片付けたのですから。――私はそれまで、彼のことを気難しい化学者としか思っていませんでしたが、あの時ばかりはその認識を改めざるをえませんでしたね。彼は高位技師官僚ではない、何らかの役目を帯びてその役を演じているだけの兵士なのだと。それも、己の身を一切省みない戦闘員です。あれはなんらかの洗脳でも施されているとしか思えない』
『あのとき、彼は無傷では済まなかった。彼は軽装で現場に飛び込み、敵からの銃弾をもろに浴びた。彼は左足の太腿と右肩、左の脇腹に被弾していたはず。けれども彼は自分の体から流れ出る血など気にも留めず、負傷した部位を庇うような仕草も一切見せなかった。まるで痛みを感じていないかのようでしたよ。そして彼はそのまま目的を果たすと、私に一瞥もくれることなく去っていった。……その後、彼に奪われた液化アバロセレンのタンクは行方知れずとなりました。どこに消え、何に使われたのか、未だに分かっていません。彼が何の目的を下に強奪を働いたのかも分かっていない』
『もし、純粋な悪というものを定義するならば。私は彼こそふさわしいと考えています。彼は“何か”に支配されていて、その下で粛々と動いているだけの存在ですから。ああ見えて、彼に意思はないんですよ。ですから私は、可能であるならば彼を鎖に繋ぎたい。本音ではきっと、あの人とてそれを望んでいるはずですから』
 パトリック・ラーナーの話を聞く中で、アレクサンダーには気付いたことがあった。それはパトリック・ラーナーという男は、あの精神科医の男が言っていた通り、真っ当な正義感を持っている真面目な人間で、悪魔のようにも思えたあの姿は全て演技でしかなかったということだ。
「俺んとこも十年以上前だけど、親の離婚云々で揉めてたしなー。だから、その、俺の両親みたいな泥沼裁判にならないことを祈ってるぜ」
 そしてアレクサンダーがパトリック・ラーナーと会う度に、アレクサンダーのもとには父親からのメールが届けられた。
 ――お前は何を考えているんだ、アレクサンダー! あの男は危険だと、あれだけ言っていただろう! 何があっても、お父さんはもう知らないぞ!!
 そんな内容のものが、一度会うたびにつき十五通は送られてきていた。いい加減、面倒臭くなってきたアレクサンダーはついに父親のメールアドレスを受信拒否し、今は完全にブロックしている。
 少し前まではちょっと偉大なように思えていた父親だったが、今となっては“クソジジィ”という言葉しか思い浮かばない。小さな欠片ぐらいはあった尊敬の念というものも、今は風に吹かれてどこかに飛ばされていた。
「……そうであることを、アタシも祈ってるよ」
 とにかく今のアレクサンダーは、不安定だった。
 最近はカルロ・サントス医師の熱烈なアピールの影響か、人の心を視る世界に惹きこまれているような気もしていたし。しかしその一方で、誰のことも信じられないというような不信感にも侵食され始めている。昔からアレクサンダーは他人をそう簡単に信用しないタチではあったのだが、近頃は疑心暗鬼に拍車が掛かっていた。かつては心の底から信用していたはずの人たち――両親や、友人であるニールなど――のことさえも、今はもう信じられないのだ。
 自分の知らない陰の世界で、彼らは何か悪いことをやっているのではないのか。そんな猜疑心ばかりが、沸々と絶え間なく湧き上がり、止まらない。それなのに、最近出会ったばかりの人間のことは信用している。
 カルロ・サントス医師、パトリック・ラーナー。胡散臭い、と周りが吹聴して回っているような人間ばかりを、今のアレクサンダーは信じかけていた。いや、そもそも彼らに「決して裏切られたりはしない」という期待をしていないから、付き合いやすいのだろうか? なら、今の自分は……――
「アレックス?」
「……」
「おーい、アレックス。しっかりしろ」
「……あっ、ああ。すまない。ぼうっとしてた」
 どこに居ても安心感が無い。誰かが自分を狙っているような気が常にしていて、気が抜けない。それにいざ窮地に陥ったとしても、誰も自分のことを助けてくれないような気が、今のアレクサンダーにはしていた。
 根拠はないが漠然と抱えていた安心感を喪失した今、あるのはどうしても拭えない不信感だけ。
「……なぁ、アレックス」
 そのとき、何を思ったのかニールは、アレクサンダーの手をぎゅっと握る。小学校に通っていた頃のように手を繋いで、アレクサンダーの横に並んだ。それからニールは言う。
「予定が空いてればー、の話だけどさ。放課後、久々に二人でどっか出かけないか? あの、大通りに新しく出来たおしゃれなカフェがあるんだけどさ。ティラミスが最高に美味いって話題になってるんだけど、男ひとりじゃ入り辛くて。一緒に……」
「今日はバイトが入ってる」
「なら、別の日にでも」
「当分、無理だと思う。月曜と日曜以外は基本的にシフト入ってるし、月曜は勉強したいし、日曜はがっつり寝たい。それに、ケーキぐらい一人で食いに行きゃぁいいだろうが。一人で行ったとこで、誰もあんたのことなんか気にしないよ」
 アレクサンダーは繋がれていた手を乱暴に振り解くと、突き放すように彼にそう言う。ニールに背を向け、早足でひとり先を歩いて行くアレクサンダーは、後ろでニールがどんな表情をしているかなど気にもしていなかった。





「別に、休んでも良かったんじゃないんですか? せっかくのデートのお誘いを無下にするだなんて、あなたも罪深い女の子ですねぇ。さぞかし彼は傷ついたことでしょう」
 そんなことを言いながらニヤニヤと笑うパトリック・ラーナーの視線は、手元の資料の束に注がれている。アレクサンダーと視線を合わせることない。
「何を言ってるんだか」
 全室のベッドメイクを終え、短い休憩を取っていたアレクサンダーは、三人分のコーヒーを淹れながらそう呟く。
 夕暮れも近くなってきた時間帯。精神病棟のスタッフはいつになく慌ただしく動き回っていて、どこかぴりぴりとした空気に満ちている。パトリック・ラーナーと同じ資料の束を見つめるカルロ・サントス医師の目元も、緊張により強張っていた。
 その一方で、まったく緊張感がないのが部外者であるパトリック・ラーナーである。彼はコーヒーを淹れる準備をしているアレクサンダーを観察しながら、彼女を茶化すようにこう言った。
「あらら、君は随分と鈍い子のようだ。ねぇ、カルロ。あなたもそう思うでしょう」
 すると、カルロ・サントス医師は資料を見つめたまま、顔を上げることなく返答する。
「ああ、そうだな。鈍い」
 オッサン二人が何かを言っている。あーあと受け流すアレクサンダーは、手元に集中して無視を決め込んだ。しかしパトリック・ラーナーの厄介なヤジは終わらない。
「ニール・アーチャー。彼は君のことが好きなんですよ。彼は君に恋をしている、とでも言えば分かりますか?」
「まさか、そんな。だとしたら気持ち悪いったらありゃしないですよ」
 アレクサンダーは冷たい溜息と共に、ヤジをバッサリと切り捨てた。それに対してパトリック・ラーナーは懲りずにこう言う。
「はぁ、これだから君は……。自分自身に関する事柄にだけは異様なほど鈍いんですねぇ」
 緊張感漂う状況の中でも、変わらずに道化を演じるパトリック・ラーナーは資料を捲りながら、口元にだけは笑みを湛えている。だが目元から上は、緊張を隠せていなかった――彼の眉は顰められていて、眉間には皺を作られているし、目尻はつり上がっていたのだ。
 一体、今日は何がどうなってるんだ。そんなことを考えながら、アレクサンダーは男二人の邪魔にならないところに、そっとコーヒー入りのマグカップを置く。するとその様子を見ていた別のスタッフが、アレクサンダーに声を掛けてきた。「アレックス、僕のもお願いできるかな?」
「コーヒーですか?」
「ああ、そうだ。砂糖抜きで頼む」
「あっ、私のもお願いできるかしら!」
「俺のも頼めるか?」
「了解です。全員分ブラックで淹れておきますんで、後は各自で砂糖を足してくださいねー」
 アレクサンダーは人数分のマグカップを棚から出すと、手早くインスタントコーヒーを用意し、電気ケトルでお湯を沸かす。その後ろで男二人は、資料を片手にぶつぶつと何かを言っていた。アレクサンダーがまず聞き取ったのは、先ほどとは打って変わり真剣さに満ちたパトリック・ラーナーの声だった。
「あの少年の異母姉についてですが。彼女の名前はカミラ・エルスター。二十九歳、女性。強電圧により焼け焦げ、遺体は酷い有様になっていましたが、骨格を基に顔を復元し、なんとか本人だと確認がとれました」
「それで、彼女の職業は?」
「キャンベラ市警によると……彼女は、三年前までアバロセレン技士としてゴールマン研究所で働いていたそうです。新薬開発の部門に所属していたみたいですね。ですが原因不明の体調不良を訴え、退職。それを機に彼女は家を購入すると、虐待の疑いが掛けられていた父親からあの少年の親権を奪い、年の離れた異父弟を養子として迎え入れ、彼と慎ましく暮らしていたそうです。あの日に死ぬまでは」
「……ふむ」
「検死報告によると、彼女は雷に運悪く撃たれて死亡したとしか思えない状況だとのことです。ですがここ二ヶ月の間で、雷を伴う大雨がアルストグランに訪れたことは……」
「無いな」
「ええ、そうなんです。事故死と結論着けるのは容易いことですが、事故死を裏付ける証拠は何もない」
「……なるほど」
「私には、どうにも理解出来ないんですよ。本当に彼女は雷に打たれて死んだのか、疑問に思えて仕方がない。それに、同じような状態で発見されたご遺体が、アルストグランの中で他に十数体ほど見つかっているんです。年齢や性別はバラバラ。けれども被害者には共通している点がひとつだけある」
「ほう。それは何だ?」
「全員、アバロセレン技士なんです。そして全員、死亡する数か月前から原因不明の体調不良を訴えていた。倦怠感、高熱、嘔吐。……まるで、三十年前の状況に似ていませんか?」
「たしかに、そうかもしれん。アルビノの子供たちがやたらめったら産まれて騒ぎになったときも、アルビノ児の親のどちらかは必ずアバロセレンを扱う職種に就いていたな。……つまり、アバロセレン絡みの事件だと言いたいのか?」
「はい」
「それで、お前たちASIは証拠を探していると」
「ご明察。けれどもASIというよりかは私個人が、というところでしょうか」
「……なら、ただの精神科医である私を頼るよりも、アバロセレン技士の資格も持つ医者を頼るべきじゃないのか? なんなら、この病院にはアルスル・ペヴァロッサムという適任者がいる。彼の連絡先を教えようか?」
 カルロ・サントス医師はパトリック・ラーナーを睨むように見ながら、彼にそう提案する。アレクサンダーはその言葉に違和感を覚えながら、カルロ・サントス医師を見た。
 ――あの人、随分前に「ラーナーは探偵兼記者をやってる」とか言ってたよな。それなのに今は、ラーナー次長を見て「ASI」と言った。やっぱりこの人、ただの精神科医じゃない!
「あのですね。私を舐めてもらっちゃ困りますよ。ドクター・ペヴァロッサムには、とっくに手を回してありますって」
「仕事が早いな」
「これでも私、一流なんで」
「……自惚れは良くないぞ」
「それで、カルロ。あなたに頼みたいのは、あの少年です。……証拠を“何者か”によって消される前に見つけ、回収しなければならない。そのためにも、あの少年から手がかりを聞き出さなければいけないのです。が……」
「少年は失声症を発症し、会話ができない。それに貧民街で暮らしていた為に読み書きが出来ず、筆談も困難。……唯一の家族だった姉が目の前で死んだんだ。ショックは計り知れない。彼には時間が必要だ」
「そんな悠長なことを言っている余裕はないんですよ」
「だがな、パトリック。相手は子供だぞ?」
「たしかに、六歳にも満たない少年には酷なことだと思います。けれども、やらなければ彼の姉の死因が永遠に分からなくなるんですよ」
 ピーッ、ピーッ、お湯が湧きました。
 電気ケトルがそんな騒がしい音を鳴らし、湯が沸いたことを教えてくれる。アレクサンダーは電気ケトルの持ち手を握ると、予めインスタントコーヒーを入れてあったマグカップに、お湯を注いでいった。
 マグカップに注がれたお湯は湯気をもくもくと上げると、粉末状のインスタントコーヒーを溶かし、真黒の液体に変貌する。立ち上った湯気はインスタントコーヒーが持つ独特のにおい――安っぽいように感じる、酸化したかおり――も一緒に運び、あたりに拡散していった。
 それからアレクサンダーはマドラーを手に取ると、マグカップの中にそれを突き刺し、ぐるぐるとお湯をかき混ぜていく。そんなことをしながら彼女は耳をそばだて、男二人の会話を盗み聞いていた。
「それで、パトリック。あの少年の名前は?」
「あらゆるコネを使って、情報を開示させましてね。私に感謝してくださいよ。……っと、これです。この資料を見てください」
「……」
「DV男の住まう家に、その男とは血縁の無い子供を捨て置き、今は優雅なセレブ妻生活を楽しんでいる母親が出した出生証明書から身元が判明しました。少年の名前はレオンハルト・エルスター。五歳、男児。周辺住民によると、良く言えば物静かで大人しい子供、悪く言えば社交性がなく影の薄い子供だったようです。多分、泣き叫ぼうものなら暴力を振るわれた父親との生活が影響しているのだと思われます」
「それにしても、随分と年が離れているな。いくら異父姉弟といえども、二十五歳差もあるなんて……。まるで親子じゃないか」
「ええ。近隣住民の大半も、彼らのことを母子家庭だと思っていたそうです。少年も、自分の姉のことを“ママ”と呼んでいたそうですしね。それに血縁関係では異父姉弟だとしても、書面上での彼らの関係は養子縁組を組んだ親子でしたから。あながち、親子だっていうのは間違いでもないですよ」
「……ママ、か。つまりあの少年にとって彼女は、姉というより母親代わりだったということか。より一層、悲惨だな……」
 カルロ・サントス医師は資料を机の上に置くと、溜息を吐く。それからパトリック・ラーナーを見ると、彼は言った。
「先に言っておくが、期待はしてくれるなよ。傷ついた子供というのは、嫌な体験というのをあまり話してくれないんだ。それに、私のように四十路も過ぎたジジィが相手じゃ、覚えていたとしても喋ってくれないことのほうが多い。だからー……」
「つまり相手が、あなたみたいな老け顔ジジィじゃなければ話してくれる可能性があるというわけですか」
「だが、パトリック。いくら童顔だとしても、お前は警戒されると思うぞ。そんな黒いスーツをびっしり着こなしているような大人が目の前に現れれば、子供は……」
「おっしゃる通り。子供から見れば黒スーツの大人は威圧的だ。たとえ私みたいなチビの童顔だとしても、怖いと感じるでしょう。だから私はやりませんよ。それに適任者ならそこに居るじゃないですか」
 マドラーでコーヒーをかき混ぜるアレクサンダーの手が、一瞬止まる。なんだか嫌な気配を、感じ取ったのだ。――そして嫌な声がする。パトリック・ラーナーだ。
「アレクサンダー。どうせ君は、今の話を盗み聞いていたんでしょう?」
「おい。待て。彼女はインターンですらないんだぞ。それなのに」
 カルロ・サントス医師は止めに入るが、しかしパトリック・ラーナーはアレクサンダーの腕を掴む。そしてパトリック・ラーナーはアレクサンダーにこう言った。
「君は断片でも情報を聞いたんだ。ですから手伝ってもらいますよ。――あのペルモンド・バルロッツィが唯一警戒している探偵、ダグラス・コルトの娘。その強運の本領を見せてくださいませんかね?」
 にひひ。そんなパトリック・ラーナーの笑い声が、アレクサンダーの耳に届く。恐る恐る彼らの居るほうに振り向いたアレクサンダーは、マグカップから抜いたマドラーを片手に、顔を青白くさせていた。





 アレクサンダーが通されたのは、薄暗く灯る間接照明が仄かに部屋を照らす、第一相談室だった。そして遅れてその部屋に、二人の人間が入室してくる。金髪碧眼の少年と、その少年に就きそう若い男性スタッフだ。
 若い男性スタッフは部屋の中で待機していた彼の上司カルロ・サントス医師に会釈をする。「サントス先生、遅れてすみません」
「いや、別に構わないよ。それで……――ベイカーくん、彼の様子はどうだ」
「今のところは、大丈夫そうです。落ち着いています。少しですが、声も出せるようになってきました」
「そうか。強い子だな」
 若い男性スタッフは、少年を第一相談室のソファーに誘導し、その上に座るよう促す。すると金髪碧眼の少年は黙りこくったまま、ちょこんとそのソファーに浅く座った。
 そしてアレクサンダーは金髪碧眼の少年の斜め前に跪くと、少年の顔を覗き込む。そんなことをする彼女の後ろで、カルロ・サントス医師は彼の横に立つパトリック・ラーナーに囁きかけていた。
「――……しかしだ。パトリック、本当にやるのか? 私は賛成できんぞ」
 目の下に隈を作った少年の視線は、床だけをじっと見つめている。その視線が揺らぐことはなく、その眼に光が入ることもない。その年頃の幼児には見合わない暗い翳が少年には差していた。
 跪き、少年を見つめるアレクサンダーが何もせずに居ると、アレクサンダーの後ろに立っていたパトリック・ラーナーが、彼女の背中を膝でこつんと突いてくる。そこでアレクサンダーは仕方無く少年に喋りかけることにした。
「君が、レオンハルトくんかな」
 少年はこくりと頷くが、その視線が動くことはない。どうしたものかと、アレクサンダーがまた無言になる。その様子を、カルロ・サントス医師は少し離れた場所から見守っていた。
 すると少年が、小さな声で喋り始める。喉から絞り出すような声で、彼は言った。
「……カミラ、死んだんでしょ。めがねのおじさんが、そう言ってた」
 めがねのおじさん。少年の口から出た言葉に、アレクサンダーの背後に立っていたパトリック・ラーナーが反応を示す。
 これは、名前を聞き出せってことなのか? そう察し取ったアレクサンダーは、ぷるぷると震える少年の小さな手を、両手で優しく包み込むように握る。そして訊ねた。
「その人の名前は分かるかな。もし分かるなら、教えてほしい」
 アレクサンダーは少年と視線が合う位置に移動すると、彼の蒼い目をじっと見つめた。すると少年は、アレクサンダーから目を逸らす。そして呟くような声でいった。
「……名前なんて、知らない。けど『通りすがりだ』って言ってた」
「通りすがり?」
「……うん。黒い帽子をかぶってて、黒い服を着てた。あと、ひげがはえてた」
 まさか、あの人では。――少年の言葉に思い当たる節があったアレクサンダーは、背後に立っているパトリック・ラーナーのほうに顔を向け、彼の反応を窺った。パトリック・ラーナーもアレクサンダーの目を見ると、無言で頷く。
 パトリック・ラーナーは一枚の写真を取り出すと、その写真を少年に見せた。「その人は、この写真の男だった?」
「……そのおじさんだった。なんで、知ってるの?」
 すると少年は驚いたような顔をし、パトリック・ラーナーを見上げる。少年が発したその言葉に、パトリック・ラーナーはこう答えた。
「彼は有名な人なんだ。大人たちはみんな、彼のことを知っているんだよ。彼は悪い人だからね。――君が何もされていないようで本当に良かった」
 パトリック・ラーナーはそう言うと、写真を胸ポケットにしまう。それから彼はアレクサンダーを無言で押しのけると、彼は少年の傍に控えていた若い男性スタッフにも『退け』というハンドサインを送る。若い男性スタッフは一度確認を求めるように上司であるカルロ・サントス医師を見やったが、その上司が頷いてみせると、彼は渋々部屋を出て行く。そして若い男性スタッフが退室したのを確認すると、パトリック・ラーナーはソファーに腰を下ろし、少年の隣に座った。それからパトリック・ラーナーは少年の頭を撫でる。
 アレクサンダーはその様子を見ながら、カルロ・サントス医師の横に並んだ。そして彼女はカルロ・サントス医師に尋ねる。「……結局、アタシって必要ありましたか?」
「ああ、無かった」
 カルロ・サントス医師は即答した。その後、彼は声を潜めるとアレクサンダーに対しこのように耳打ちをした。「ヤツの常套手段だ。捨て駒を用意しておく。そして何かあったら、捨て駒に責任を押し付ける。危なかったぞ、君」
「……分かっていたなら、どうして止めてくれなかったんですか……!」
「私がどうこう言ったところで、聞く耳を持つ男だと思うか、あれが」
「……そうでした」
 パトリック・ラーナーが見せた写真に写っていた男は、鬼気迫る顔でカメラに向かい銃口を向ける、白衣姿のペルモンド・バルロッツィ高位技師官僚だった。
 どういう状況でそんな写真が撮れたのか、そして何故よりによってその写真を彼がチョイスしたのか。アレクサンダーには聞きたいことがあったが、それをぐっと飲み込む。
 多分、今ここで邪魔したら。アタシが、パトリック・ラーナーに何かをされる。そんな気が彼女にしていたのだ。
「……そのおじさん、本当に悪いひとなの?」
 少年は頭を撫でてくるパトリック・ラーナーの手を払いのけると、しかめ面でそんなことを呟く。続けて少年はこう言った。「……だって、あのおじさん、カミラを助けようとしてくれてた。カミラが力に耐えられなくなるまで、色々やってくれてた」
「それは、どういうことなんだ? その、カミラの力っていうのは……」
 少年から出てきた言葉に、パトリック・ラーナーは少しの戸惑いを見せる。彼が想定していたものとは違う、別の可能性が浮上してきたからなのだろう。そうして困惑を見せるパトリック・ラーナーに、少年は自分が見たものを伝えるのだった。
「カミラから、電気が出たんだ。始めは少しだけ、静電気ぐらいだったんだけど、強くなってきて」
「……人体から電気が……?」
「おじさんが来たとき、カミラは電気を抑えられなくなってた。だからおじさんがカミラに、力の抑えかたを教えてたんだ。深呼吸して、せきずいにコイルが通っているのを意識しろとか、電気が脳から地面に流れていくのをイメージしろとか、色々言ってた」
「……」
「おじさんの言うことを聞いて、カミラの電気は少し収まった。だからおじさんが帰ろうとしたんだけど、そしたらカミラが光って、それで……」
「彼女は燃えた。だから君は隣の家に掛け込んで、救急車を呼んでもらった。そうなんだね?」
「うん」
 少年が頷いたとき、パトリック・ラーナーの顔色が変わった。彼は元より大きな目を、更に大きく見開く。少年の震えが止まっているのに対し、今度はパトリック・ラーナーの握りしめた拳が痙攣を始めていた。そしてパトリック・ラーナーは少年から目を逸らすと、小声で呟く。
「……ついに恐れていた事態が――!!」


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