EQPのセオリー

02

 三時限目、ラテン語の授業の終わり。教室をニールと共に出たアレクサンダーは、彼と共に次の教室へと向かっていた。
「ラテン語ってマジで、ぜんぜんわかんねー。やる意味も分かんねーし。もう使われてない言語なのに、なんで学ぶ必要があるんだろ?」
 教科書のデータ一式が入っているタブレット端末――縦二十五㎝、横十四㎝ほどの大きさ。四角い黒の、旧型端末――を、両腕で抱きしめるように抱えたニールは、退屈そうな表情を浮かべながらそう呟く。それに対し、アレックスはこう言葉を返した。
「ジェーン先生は最初の授業のとき言ってたろ。ラテン語が分かるようになれば世界史も哲学も、それから化学も分かるようになるって。だから学ぶんだよ。色んな分野の理解を助ける便利な補助ツールだから」
 ジェーン先生というのは、この高校でラテン語を教えている女性教諭のこと。名前はミランダ・ジェーン。長くまっすぐな黒髪と、キリッとした三日月眉、それとぷりっとした肉厚な唇が印象的な黒人の女性教諭だ。彼女の授業は分かりやすいと定評があり、彼女の赴任後からこの高校ではラテン語の平均成績が大きく上昇しているほど。現にアレクサンダーも、ジェーン先生のお陰で成績が上がった生徒の一人だ。
 しかしジェーン先生であろうとなかろうと、ラテン語は常に赤点代であるニールはにこやかな笑顔を浮かべる。それからニールは開き直ったようにこう言った。
「ラテン語じゃ、テーブルロールのレシピは書けないよ。俺には不要だね」
 アレクサンダーは自分のタブレット端末を振り上げると、端末の角でニールの頭を軽くコツンと叩く。勉強しろという彼女なりの喝だ。しかしニールは悪態を吐くだけ。俺はパン作りの才能しかないんだよ、と。
 ――と、そのときだ。アレクサンダーたちが歩く廊下の先から、なにやら物騒な音が鳴った。
「……どうしたんだ?」
 アレクサンダーはニールと顔を見合わせる。ニールはすっとぼけた顔をすると、私見を述べた。
「さぁね、なんか乱闘でも起きてんじゃね? まっ、俺たちにゃ関係なッ――」
 ニールの言葉の途中。それを遮るように、廊下の先からは轟音がなる。ガン、ゴン、ガタン。重い金属製のものが連続して倒れるような、まるでドミノ倒しかのような音が起こったのだ。それと同時に、やんややんやと騒ぐ声も聞こえている。
 やーい病人。ぶりっこ、構ってちゃん。被害者ヅラしやがって。化けの皮を剥いでやる!
 ……そんなガヤが聞こえてくる。どうやら学生同士の楽しげな会話というわけではなさそうだ。
「野次馬、行くか?」
 アレクサンダーは小声で呟く。ニールもそれに頷いた。
「だな、行こうぜ」
 そうして意見を一致させた二人は共に廊下を走る。廊下の角を左に曲がって、教室前のロッカーに来たのだが。彼らはそこで見たものに驚愕し、息を呑んだ。
「おい、なんだよこれ……」
 そこで起こっていたのは、集団リンチと言うべき光景だった。
 ラグビー部所属の屈強な男子生徒二人が、次々に金属製のロッカー棚を倒していく。脅すように、わざと大きな音を立てながら。ガン、ゴン、ドン。廊下の壁に沿うように並べられていたロッカーはことごとく薙ぎ倒されていた。
 そしてチアリーダー部であろう女子生徒たち数名は、床に座り込んでいる一人の少女を囲いこんでいた。そんなチアリーダーたちの手には、なにやらぐしゃぐしゃに丸められた紙くずが握られている。配られたプリントだったり、付箋であったり。そんな紙たちには、なにやら罵り文句が書かれているようにも見えていた。
 更に、ラグビー部員とチアリーダーたちを取り囲む聴衆者たち。彼らは「もっとやれ!」と煽ってさえいる。止めようという動きを見せる者はいなかった。
 なんだか、嫌な予感しかない。アレクサンダーは直感でそう感じとる。
 けれどもそんなアレクサンダーの横でニールは能天気に呟いた。俺のロッカーも倒れちまってるぜ、と。
「……リュックサックの中に弁当が入ってたのに。あの調子じゃ、中身がぐちゃぐちゃになってそうだ」
「そりゃ残念だな。弁当派はツラいね」
 ランチのことしか頭にないエブリデイ脳天気なニール・アーチャーを軽くあしらうと、アレクサンダーは彼を置いてひとり進む。聴衆らを強引に掻き分け、前へ前へと躍り出た。ある者が着ているシャツの襟首を掴んでは、突き飛ばして。ある者のリュックサックを掴んでは、外へと放り投げ。ある者の肩を掴んでは、押し飛ばして。そうしてアレクサンダーは一つの道を拓く。聴衆が取り囲んでいた中心に通じる、一本の道を。
 倒れた幾つものロッカー棚を踏み越えて、アレクサンダーは中心に至った。そしてアレクサンダーは胸を張って立つと、彼女はチアリーダーたちを睨みつけ、ラグビー部員にはガン垂れる。猛獣アレクサンダーのお出ましだ、と何者かが囃し立てた。
「あら、アレックス。アンタ、何しにきたワケ?」
 チアリーダー部のリーダー格と思われる女子生徒はそう言うと、アレクサンダーに向かって侮蔑混じりの視線を送りつける。その女子生徒は言いながら片手間に、手に握っていた紙くずを床に座り込む少女に投げつけた。
「俺たち今、そこの女の子と遊んでんだよ。邪魔しないでくれないか?」
 ラグビー部員の男子生徒の一人は、アレクサンダーに向かってそう吐き捨てる。するとそのラグビー部員はまたロッカーを倒した。倒されたロッカーは床に座り込む少女を目掛けて倒れ込む。けれども、アレクサンダーがそれを手で受け止めた。
「アタシにゃどうにも、遊んでるようには見えなくてよ。それになんだい、このロッカーの荒れざまは。一体これを誰が直すんだい? 事務員か、清掃員か、それともアンタたちか?」
 倒れかけたロッカーをアレクサンダーは戻すと、ラグビー部員とチアリーダーたちを見る。するとまたチアリーダーの一人が、床に座り込む少女に向かって紙くずを投げつけた。
「だから、邪魔しないでよ。アンタには関係ないことでしょ?」
 また一つ、床に座り込む少女に向けて紙くずが投げられる。
「猛獣だかなんだか知らねぇが、ボコボコにされてぇのか?」
 また一つ、ロッカーが倒される。しかしこれはアレクサンダーに対する威嚇の意が込められているようだった。
「いや、関係ないことはないね。アタシのロッカーまで倒されたらたまったもんじゃないからさ。現に、ダチのロッカーが倒されてるし」
 アレクサンダーがそう言っている間にもまた一つ、床に座り込む少女に紙くずが投げつけられる。そしてリーダー格の女はアレックスを睨むと、彼女に向けてこう言った。
「じゃあ、アレックス。アンタのロッカーには手を出さない、それでいい? だから、消えて」
 しかしアレクサンダーは頷きもせず、退くこともしない。アレクサンダーは床に落ちた紙くずを一つ拾い上げると、それに書かれた文字を読む。非常識女。たまたま拾い上げた紙には、そんな文言が書かれていた。
 そしてアレクサンダーはその紙に書かれた文言を、リーダー格の女子生徒に見せつけるよう掲げる。それから彼女はニヒッと笑うと、リーダー格の女を挑発した。「ここに書かれてる言葉、まさにアンタにぴったりだと思わないか?」
「――こっちが下手に出たら調子に乗りやがって、いい加減にしろや、てめぇ!!」
 遂に本性を剥き出しにしたリーダー格の女子生徒は、鬼の形相をアレクサンダーに向けながら怒鳴り散らす。しかしアレクサンダーは不敵な笑顔を浮かべていた。それからアレックスはまた一つ紙くずを幾つか手に取ると、紙くずでジャグリングを始める。紙くずを宙に投げて、キャッチしてを繰り返しながら、アレクサンダーはこう言った。
「こんなことして、恥ずかしいとは思わないのか。それとも、お金持ちのパパとママがもみ消してくれるから関係ないのかい?」
「黙れ、クソアマ! ――ビクター、ジャン、やっちまいな!」
 偽物のブロンドの髪を振り乱し、リーダー格の女子生徒はラグビー部員の男子生徒二人にそう命ずる。すると命令を受けたラグビー部員の男子生徒のひとりは、指の関節をぽきぽきと鳴らし、アレクサンダーにヘタクソな威圧をかけていた。けれどもアレクサンダーにはクソガキの威圧など通用しない。
 というのも彼女には、十五歳になるまで通っていたボクシングジムで培った経験がある。試合ともなれば相手のボクサーは子供だとしても常に威圧的だったし、自分も同じくそうだった。つまり威圧や挑発には彼女のほうが慣れ親しんでいたわけだ。だからこそアレクサンダーは言う。
「いいよ、やるなら掛かってきな。怪我しない程度に済ませてやるよ」
「ほざけ、アマが!」
 アレクサンダーの挑発に乗った一人の男子生徒は前に躍り出ると、我武者羅なパンチをアレクサンダーめがけて繰り出す。それは無駄に勢いがあるパンチ。けれども正確性はなく、また折角の体格を活かしきれていない。
 アレクサンダーはするりと攻撃を躱すと、呆れたように溜息を吐く。そして突き出された男子生徒の腕を彼女は(わき)で挟むとガッチリと押さえた。そうして相手が驚いた隙に、アレクサンダーは男子生徒の足を払う。男子生徒がバランスを崩したタイミングで彼女は腋を開き、挟んでいた腕を解放した。すると男子生徒はゆっくりと床に背中から倒れ込む。
「ほら、怪我はない程度に済ませてやったぞ」
 ゆっくりと、間抜けにコテンと転げた男子生徒に、アレクサンダーはそう微笑みかける。するとアレクサンダーの笑みが恐ろしく思えたのか、転げた男子生徒は大慌てで立ち上がると尻尾を巻いて逃げて行った。先ほどまでの威勢は何処へやら、といった感じだ。
 そうして血気盛んそうだった男子生徒が早々に逃げ出すと、他の体格のいいラグビー部員たちも彼の後を追って逃げていく。アレクサンダーは小さく手を振って、逃げていく男子生徒たちを見送った。
 続いて、取り巻きのチアリーダーたちも去っていったラグビー部員を追って消えていき、飽きた聴衆たちも散っていった。最終的に、その場に残ったのはリーダー格の女とアレックス、それから床に座り込む少女だけとなる。
 アレクサンダーは少しだけ腰を落とすと、床に座り込む少女に手を差し伸べる。アレクサンダーは彼女に立つよう促した。そして少女がアレクサンダーの手を握り、よろよろと覚束ない足取りで立ち上がったときだ。
「さてと。一体、なにがあって……――あれ?」
 少女が立ち上がるのを介助するようにアレクサンダーも腰を上げたとき。アレクサンダーはそのタイミングでリーダー格の女子生徒に声を掛けようとしたのだが、しかし既にリーダー格の女子生徒は消えていた。その場に残されていたのは紙くずと倒れたロッカー、よろよろと立ち上がる少女とアレクサンダーだけとなる。いつの間にか、ニールも居なくなっていたようだ。
 そうして惨状が広がる廊下を見て、アレクサンダーが溜息を零したとき。次の授業が始まったことを意味するチャイムが鳴る。アレクサンダーは肩を落とした。
「はぁー。このロッカー、どうしたもんかねぇ」
 倒れ込んだロッカー棚の一つを、アレクサンダーはスニーカーの爪先でコツンと蹴る。そして彼女は次に、ふらふらと立つ少女に視線をやる。アレクサンダーはその少女にこう尋ねた。
「それで、アンタ。ユンっていったか。なんでまた、あんなのに絡まれてたんだい?」
 アレクサンダーが視線をやったその少女は、短めの白い髪、白い肌、それと赤い瞳をしている。間違いなくその少女は、朝にバス停で見かけた少女と同一人物だった。
「……」
 けれども、少女は床を見つめたまま顔を上げない。そして何も喋りはしなかった。そんな少女の腕や足は、がくがくと震えている。その様子に、どうしたもんか、とアレクサンダーは腕を組んで黙りこくった。
 するとアレクサンダーのもとに、三人が駆け付ける。ひとりはいつの間にか居なくなっていたニール。ひとりはラテン語教諭のミランダ・ジェーン。もうひとりは、長めの白い髪を三つ編みにした、赤い瞳のアルビノの女子生徒――なお彼女はアレクサンダーの知り合いでは無かった。
「騒ぎを聞き付けてみれば……――アレクサンダー。一体ここで何があったの?」
 天変地異でも起きたのかという有様の廊下を見るなり、ジェーン先生は三日月眉を片方だけ吊り上げる。アレクサンダーは笑うしかなかった。
「ラグビー部とチア部が暴れていたんですよ。アタシが来たときには既に、この廊下はこの有様でした。アタシは騒ぎを止めただけです」
「……アレックス、本当なの?」
 アレクサンダーは正直に話すものの。ジェーン先生の疑いの目がアレクサンダーに注がれる。するとニールがアレクサンダーに応援を出した。
「そうです、ラグビー部員とチア部が大暴れしてたんです。それは事実っす」
 ヘラヘラとした態度でニールはそう言う。すると、一応ジェーン先生は信じてくれたようだ。
「分かったわ。あなたたちの言い分を信じましょう。……はぁ、まさかこんなことが起こるなんて。教員生活も長いけど、こんなのは初めてよ」
 そう呟くと改めてジェーン先生は廊下を見る。それからアレクサンダーに言った。
「アレックス。あなたは次の授業に出なくていいわ。その代わり、倒れているロッカーを元に戻しておくこと。可及的速やかにね。……そうすれば、校長にも掛け合ってあげるわ」
「ありがとうございます」
 アレクサンダーはひとまず感謝の言葉を述べると、ジェーン先生に軽く頭を下げる。
 というのも多分、アレクサンダーは数日間の停学処分になってもおかしくはないことをしたからだ。下手をすれば退学だってあり得るだろう。いくら機転を利かせて騒動を止めた側だといえ、騒動に関与したことに変わりはないのだから。
 しかしジェーン先生は校長に掛け合うと言ってくれた。これは感謝しなければならない。だからこそアレクサンダーはジェーン先生に頭を下げたのだが、しかしジェーン先生の返答はこれだった。
「アレックス。お礼なら、そこの彼女に言いなさい」
 そう言いながらジェーン先生は、三つ編みの女子生徒を指差す。それから三つ編みの女子生徒をアレクサンダーに紹介した。
「彼女はユニよ。ユニ・エルトル。そこに居るユンの双子の姉妹。彼女が事情を話してくれてなかったら、情状酌量はなかったんだから」
「そ、そうなんすか」
「そうよ。それじゃ、私はユンを保健室に連れて行くから。アレックス、あなたはロッカーを宜しくね」
「……ハイ」
 ジェーン先生はがくがくと震える足で立っている少女に肩を貸すと、彼女を連れて保健室のある方角へと去っていく。アレクサンダーはその背中を見送ったあと、廊下に残っていたニール、そしてユニという名の女子生徒を見る。
「あんたたちは教室に行かなくていいのか?」
 アレクサンダーが二人に問うと、二人はうんと首を縦に振る。ニールは「俺も手伝う」と言い、ユニという女子生徒も「お手伝いさせてください」と言ってきた。そしてユニのほうは続けて、アレクサンダーにこうも言う。「ユンを助けてくださり、本当にありがとうございました」
「助けただなんて、そんな大げさな」
 アレクサンダーは照れるように鼻の頭を掻く。するとユニはアレクサンダーにぐいっと近付いた。そのユニの目が涙で潤んでいることにアレクサンダーは気付く。
「あの子、病気が回復してきて、やっと学校に復学できたんです。勉強が大好きな子だから、嬉しいって喜んでて。それなのに、復学して三日目でこんなことになって……本当に、本当に、ありがとうございました」
 そう語るユニの赤い目からは大粒の涙がぽろぽろと零れ出る。そんな彼女に、アレクサンダーはそっとハンカチを手渡した。そうしてすまなさそうにハンカチを受け取るユニが、しかし嬉しそうな笑顔をアレクサンダーに向けたときだ。床に倒れている自分のロッカーを開けるニールは無念から膝をつき、そして雄叫びを上げる。
「うあー! やっぱ俺の弁当、ぐっちゃぐちゃになってんじゃねぇーか! なんだよ、これ! うわっ、マジかよおーッ!!」
 弁当箱の包みを開けて、一人頭を抱えるニール・アーチャー。そんな彼を眺めながら、アレクサンダーとユニは顔を見合せて笑っていた。





 アレクサンダーたちは三人だけで、どうにか倒れたロッカーを全て戻し終えた。そうして彼女らも無事に昼食を迎えることが出来ていた。
「それで、病気ってのはどんなヤツなんだい」
 学校敷地内に併設されたカフェテリア。そこでアレクサンダーとニール、それとユニの三人は一つの机を取り囲み、座っていた。
 ランチのメニューはそれぞれ違うもの。アレクサンダーはカフェテリアが提供している料理を適当に購入。鮭のムニエル、どろっどろのチーズがべっとりと掛けられたミートペンネ、それとシーザーサラダの三品を選び取っていた。ユニは自宅から持参したサンドウィッチ三きれを食べながら、別途カフェテリアでカフェラテを購入。そしてニールはぐちゃぐちゃに崩れた三段弁当を嘆きと共に食していた。
「たしか、杖を突いて歩いていただろう。脚でも悪いのか?」
 鮭のムニエルをフォークで一口サイズに切り分けながら、アレクサンダーはユニに訊ねる。ユニは口に含んでいたサンドウィッチを呑みこむと、一呼吸を吐いてから、こう言った。「違うの。そういう病気じゃない」
「なら、どんなのなんだ」
「なんて言えば、いいのかな。とにかく問題は体じゃなくて。えーっとね、うーん……」
 少し気まずげな表情を浮かべるユニ。アレクサンダーは鮭のムニエルを口に運びながら、少しだけ眉をひそめる。ニールも、それまで止まることなく無心で食べ続けていた手を止めた。
 ニールの目が、手元の弁当箱からユニの顔に映る。そしてユニは周りが誰も自分たちのことを見てないことを確認すると、やっと聞こえるか否かという小声で打ち明けるのだった。
「……脳の障害なの」
「へぇ」
「……小学校に入学したばっかりの頃に発症して。かれこれ十年近くの付き合いになる病気。症状はヤコブ病やアルツハイマーにそっくりだって主治医の先生は言っていた。けど、若干違うみたい。正直、誰もよく分かってないの」
 聞き慣れない病名に、アレクサンダーもニールも少しだけ首を傾げる。二人が理解できたのは『アルツハイマー』という言葉だけだったが、しかしその言葉だけを取ってもずしんと感じるものがあった。
 さぞかし辛かったことだろう。当事者の少女も、それを支える家族も。それは想像に難くない。
 老人がアルツハイマーを発症するならまだしも、一〇歳にもならない年齢の時にアルツハイマーのような病が発症するなど、可哀想などという言葉で済ませられるものではないだろう。
 そうしてアレクサンダーとニールがすっかり沈痛な表情になっていたとき。ユニはやっと理解を示してくれる人と巡り合えたことに少しの安堵を覚えていたのか、さらに多くのことを二人に明かしてくれた。……というより、彼女は二人に聞いて欲しかったのかもしれない。
「母が長いことアバロセレンに触れる職業についていたから、塩基配列がダメージを受けて異常をきたしたのかもしれないって、主治医の先生は仰ってた。アバロセレンの研究者の叔父も、そうじゃないかって言ってるし」
「アバロセレンって、本当にそういう影響があるんだな……」
 アレクサンダーの零した呟きに、ユニはこくりと頷く。彼女はこう答えた。「私たち姉妹が色素欠乏症なのも、アバロセレンのせいだって聞いた。色素が特に少ないから、私たちの目は赤なの。その影響で視力も悪くて、コンタクトレンズを着けてもよく見えなくて、困ってる」
 近頃では、放射線よりもアバロセレン光のほうが有害であるとさえ言われている。アバロセレンという物質が放つという青白い光は大変美しいとも巷では言われているが、同時にそれは凶悪な存在でもあるのだ。
 科学、医学的な根拠はまだ示されていないが、今のアルストグランではアルビノで生まれてくる子供が少なからず存在しているし、上昇の傾向にある。それもアルビノ児の親が高確率でアバロセレンを扱う職種に就いていることから考えるに、アバロセレンとアルビノで生まれてくる赤子の因果関係は存在しているのだろう。
 ……そんなことを考えるアレクサンダーの目の前に居るユニもまた、アルビノだった。睫毛まで白いその姿は、神聖ささえも感じさせる。けれども、そんな彼女も一人の人間。彼女の双子の片割れだというユンもだ。彼女ら姉妹はきっと、この状況を心細いと思っているに違いない。
「……なんか困ったことがあったら言ってくれよ。可能な限り手は貸すから」
 アレクサンダーはユニの目を見つめ、そう彼女に伝える。するとユニは少しだけ頬を赤く染めながら、一言「ありがとう」と言った。そしてそんな彼女らの横で、ニールはアレクサンダーを囃し立てる。
「やーい、アレックス。ヒーローぶりやがってー。ひゅーひゅー!」
 そうして話し込んでいるうちに、時間は過ぎる。ランチの時間の終わりを告げるチャイムが校内には鳴り響いた。
 カフェテリアから次第に人が引いて行く。その波を漠然と観察しながら、アレクサンダーは床に置いていたバックパックの中をガサゴソと漁り始めた。そして彼女はバックパックからペンケースを取り出すと、その中から一枚の名刺を取り出す。それからアレクサンダーは名刺をユニに渡した。
「これが、アタシの連絡先。これも何かの縁だ、受け取ってくれ」
 ユニは戸惑いながらも、その名刺を受取る。名刺には『コルト探偵事務所』と書かれていたからだ。戸惑うユニに、アレクサンダーは事情を話した。
「うちの事務所、というか親父の事務所なんだけどさ。まぁ、いかんせん依頼が無いもんでね。たいてい、親父は暇してるのさ。だから、何かアタシに用件があるときは、うちの親父に伝言でもいれてくれ」
「アレックスは……――探偵をやってるの?」
「アタシはあくまで助手だけどね。それじゃアタシはお先に失礼するよ」
 食べ終わった皿を返却口に置くと、アレクサンダーはバックパックを背負い、カフェテリアを後にする。それから次の教室へ、ゆとりをもって向かって行った。


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