EQPのセオリー

09

 アレクサンダーの予感は的中した。
 父親はエリーヌに対して何を切りだすのかとアレクサンダーが警戒してみれば、飛び出した言葉は度肝を抜かれるようなものだった。
『私は、あなたのお母様の事件を解決することができなかった。今回引き受けたのは、その償いをするためです。ですので、お代は不要です』
 それは、火の車である家計に喘ぐ母親には、とても聞かせられないような台詞だった。
 けれどもエリーヌという女性はとても義理堅い人物らしく、後日アレクサンダーがコルト探偵事務所の口座を確認すると、提示した料金にチップを添えた額がエリーヌ・バルロッツィ名義で振り込まれていた。
 父親にお金のことはまだ報告していないが、母親にはその日のうちに通帳を見せた。当然、母親は振り込まれた額を見るなり、飛び上がって喜んだ。
『アレクサンダー、アンタは本当に幸運の女神だよ!』
 エリーヌの夫は高給取りの研究者。そして彼女の父親はかの大天才ペルモンド・バルロッツィ。一言で言うなら、彼女は大金持ちなのだ。
 チップも大盤振る舞い。チップだけでも、贅沢さえしなければ四ヶ月は生活できるという額だった。
「アレクサンダー、また来てくれたんだ。それに……?」
 そしてこの日、アレクサンダーが訪れていたのはユニの病室だった。彼女はユンを見舞いに来たのだが。――が、彼女にはこの日、厄介な連れがいた。そしてアレクサンダーは連れを指差すと、ユンに言う。「ああ、コイツか。クソ野郎だ、気にするな。あとで追い出す」
「ニール・アーチャーだ。宜しくな」
 フルーツバスケットを携えて、アレクサンダーの後を追って歩いてきたのはニールだった。ニールはユンに軽い自己紹介をすると、ユンは戸惑うようなぎこちない笑みを浮かべる。それからユンはこう言った。
「そうなんだ、こちらこそ宜しくね……」
 するとニールはアレクサンダーを差し置いてずかずかと病室に上がり込むと、勝手にパイプ椅子に座る。それから彼は持ってきたフルーツバスケットからリンゴをひとつ取り出し、バスケットの中に入れていた果物ナイフを手に持つと、それを器用に使ってリンゴの皮を剥いていく。
 遅れて部屋に踏み入るアレクサンダーは病床の脇に立つと、部屋の中をきょろきょろと見回した。そうしてアレクサンダーがキョロキョロとしていれば、彼女を差し置いてニールはユンに馴れ馴れしく声を掛けていく。
「あーっと、そういや聞いてなかったな。リンゴは食べれるのか? あとブドウとか、梨とか、他の果物も。ドクターストップとか何か……」
「大丈夫だよ。フルーツなんて、何年ぶりだろ。もう差し入れなんて何年も無かったから、久しぶりで嬉しい」
 アレクサンダーが部屋を見渡していた理由。それはこの部屋が異様な空間だったからだ。
 この部屋には窓が無かった。窓枠のようなものがあった痕跡は見えるが、けれども現在はコンクリートで埋められ、塞がれている模様。となればこの部屋に日差しはなく、風通しも悪い。なんだか空気が淀んでいる。――アレクサンダーはこの閉ざされた空間に言葉を失っていたのだ。
 同じ病院に入院していたはずなのに、そこはアレクサンダーが入っていた大部屋とは大違いだったのだ。
「あっ。そういえばユニが言ってたよ。レーニンのお父さんはやっぱり、犯人じゃなかったって。レーニンがずっと、信じてたとおりの人だったみたい」
 ぼーっとしていたアレクサンダーに、ユンはそう話しかけてくる。そこでハッと意識を取り戻したアレクサンダーは、適当な相槌を打った。「……ん? あっ、そ、そうだったのか?」
「アレクサンダーが、あのビデオを持って来たんでしょ。知らなかったの?」
「あ、ああ。親父が、依頼主宛てのものは中身を見るなって言うからね。ビデオがどんな内容なのかってのは全く知らなくて。へぇ、そうだったのか……」
「ユニが言うには、レーニンのお父さんは最後までアバロセレンの暴走を抑えようと努力してたんだって。だから、教科書は嘘だったんだ。レーニンのお父さんはテロリストじゃなかった」
「……へぇ……」
「でもエリーヌは、そのことを公にしちゃいけないって言ってるみたいでさ。また昨日の夜、夫婦喧嘩になったってユニが言ってた。仲良く出来ないのかなぁ、あの人たち……」
 そう言いながらユンは、うーんと腕を伸ばす。どことなく気拙くなった空気に、アレクサンダーは顔を俯かせる。すると、リンゴの皮を剥いていたニールが喋り始めた。「両親の仲は悪いのか?」
「エリーヌとレーニンは両親じゃないよ。実の母親はレーニンの姉で、彼女はもう死んでるし、私たちの父親は誰なのかも分からないんだ」
「へぇ、養子ってわけか……。それにしても、またどうして公にしちゃいけねぇんだ?」
「えっと、そのー、北米合衆国の政府を怒らせっ……」
「ちょっ、テメェッ!」
 アレクサンダーは慌てて立ち上がると、ニールから果物ナイフを取り上げ、彼の頭を平手でバチンッと叩いた。そしてアレクサンダーはニールの首に腕を回し、軽く締め上げる。ニールは腕をバタつかせて抵抗し、ユンは短い悲鳴を上げた。
「……頼む、離してくれッ……!!」
 先ほど奪い取った果物ナイフの刃先を、アレクサンダーはニールの首元に当てる。と、そのとき。ユンが叫んだ。「アレクサンダー、ニールが可哀想だよ!」
「……」
「アレクサンダー!!」
「分かったよ、ったく。……この腐れ外道、ユンに感謝しな」
 締め上げていたニールを、アレクサンダーは半ば突き飛ばすように解放した。押されたニールは転び、壁にぶつかる。アレクサンダーはニールに冷めた眼差しを送りつけ、ユンはそんなアレクサンダーを怯えた目で見ていた。
「……はぁ、まだ俺は許されてないっつーワケねぇ」
 ニールはよろよろと立ちあがりながら、ぼそっとそんなことを呟く。アレクサンダーは何も言わず、彼に手を貸すこともなかった。
「……」
 そもそも今回の訪問に、アレクサンダーはニールを連れてくるつもりはなかったのだ。
 父親や母親にも、ユンを見舞いに行くことは告げていない。彼女はあくまで一人で行く予定だった。それに途中までは、アレクサンダー一人だったのだ。
 けれども病院前のバス停に着いたとき、アレクサンダーの前にフルーツバスケットを抱えたニールが現れたのだ。
『お前のことだから、何も準備してないって思ってな。これからお見舞いに行くってのに、手ぶらじゃまずいだろ?』
 アレクサンダーはそんなニールを無視して院内に入ったが、院内にニールも付いてきたのだ。そうして今、同じ部屋に居る。ユンがニールに対してどう思っているかということはよく分からないが、アレクサンダーにとっては最悪の状況だった。
「……よく聞け、ニール。あんたが“あのひと”から何を言われてンのかは知らねぇが、アタシ以外の人間に探りを入れるような真似は許さねぇぞ」
 今のアレクサンダーの目に映る“ニール・アーチャー”は、裏切り者でしかなかった。かつての友人だったニールは、もう彼女の中には居ない。
 今、彼女の目の前に居るのは密偵。何かを付狙おうとしている信用ならざる存在だ。「アレックス。お前に許可なんか求めてないし、それに俺は探りなんか」
「言い方を変えれば理解するか?」
「……アレックス」
「アタシの友人(ダチ)に手ェ出すなって、言ってンだよ。今すぐ失せろ」
 さっきはユンが気拙くした空気を、今度はアレクサンダーが居辛い雰囲気に変える。元より鋭い眼光を更に尖らせたアレクサンダーは、ニールを三白眼の目でキッと睨んだ。
「俺はお前の、友人だろ?」
「昔の話だ。今は違う」
 アレクサンダーは、ニールにそう言いきる。ニールはそんなアレクサンダーを、疑うように見た。その発言がどこまで本気なのか、それを推し量るような目で。
 それから、沈黙が暫し続く。静けさに音を与えたのは、病室の扉が開いた音だった。
「……やっぱり探ってるのね、私たちのこと」
 開いた扉から顔を出したのは、元から白い顔を更に青白くさせたユニだった。
「誤解だ。アレックスが、勝手に」
 ニールは弁明しようとするが、ユニはそれを拒むように彼を睨む。
 ぴりぴりとした緊張感が場に流れ、アレクサンダーは拳をぎゅっと握る。その手にアレクサンダーが力を込めた。それと同時にユニが、アレクサンダーとニールの二人の肩をぎゅっと掴む。そして力いっぱいに、後ろに引いた。
「いいから二人とも、外に出て」
 ユニは、アレクサンダーとニールの二人を廊下に突き出す。……その瞬間だ。耳を壊すような甲高い悲鳴が上がった。
「ユン……?!」
 悲鳴の主は、真っ白なベッドの上で膝を抱え込んだ少女だった。真っ白な髪の毛を青白い手で掻き毟りながら、彼女は泣き叫んでいた。
 彼女は何か言葉を叫んでいるようであったが、発音はめちゃくちゃで、はっきりと聞き取れはしない。また、その声は何ら意味を為さない雄叫びのようにも聞こえている。それはまるで癇癪を起した子供の姿にも似ているが……――アレクサンダーの目には、発狂した獣のようにも見えていた。
「……あれが、あの子の病なのか……?」
 呆然と立ち尽くすニールが零した呟き。それにユニは食い気味で答える。そうよ、あれがあの子の病気なのよ、と。
「この場所にだけは絶対に来てほしくなかった。もう誰にも、あの子のあんな姿を見られたくなかった。……なのに、なんで。どうして、ここに来たのよ!」
 今度はユニが怒鳴った。するとベッドの上の少女はまた悲鳴を上げ、泣きじゃくった。
 ユニは苛立ったように表情を険しくさせると、頭を抱える。そうして重たい溜息を零すと、彼女は吐き捨てるように言った。「お願いだから、帰って。そして、もう二度と私たちに関わらないで。ニール、あなたは特によ!」
「……すまなかったよ、本当に。だから、その」
「もうこれ以上、関わらないで。ただでさえ普段から知らない人たちに追い回されてるのに、同級生からも嗅ぎ回られるだなんて、耐えられない……!」
 ユニはニールに背を向けると、電話を取り出し、どこかに連絡をし始めた。ニールは項垂れ、ついに口を閉ざす。――しかしその横でアレクサンダーは、ユンの声を聞いていた。
「ふぅん、なるほど。誰かを探して逃げ回ってる少女ってわけか……」
 待って、メズン、置いていかないで。――断片的に聞き取れたそれら言葉からアレクサンダーはある仮説を組み立てる。そして発狂した様子のユンにアレクサンダーは歩み寄っていった。
「……ちょっ、ちょっと、アレクサンダー! やめて、余計な事はしないで!!」
 ユニがアレクサンダーを止めようとするが、それよりもアレクサンダーが泣き叫ぶユンに声を掛けるほうが早かった。
「やぁ。どうしたんだ、こんなところで泣きじゃくったりして。もしかして、親とはぐれたのかい?」
 アレクサンダーは優しい声で、ユンにそう問い掛ける。するとユンはアレクサンダーの目を見て、無言で頷いた。
「……」
 そのとき、ユンの悲鳴が止まった。双子の片割れであるユニはこの出来事に驚く。そうして唖然とするユニに、ユンを沈めてみせたアレクサンダーは告げた。
「……ユニ。彼女の主治医を呼んできてくれ。それから精神科医も来てもらうよう頼んだ方が良い」





 ユンの悲鳴が収まった、その二〇分後のこと。別室に呼ばれたアレクサンダーは、医者二人――ユンの主治医であるアルスル・ペヴァロッサムと、精神科医の男――を前に、諸々の事情を説明していた。
「メズン、か。……意味を為さない雄叫びだと思っていたが、まさか架空の人物の名を叫んでいたとは。思いもしなかったな」
 うぅむと唸る精神科医の男はそう言うと、アレクサンダーを査定するようにじっと見る。そして彼はアレクサンダーに言った。
「君、いいね。気に入った。良い観察眼を持ってるね」
 ユンが起こしているのは俗に多重人格と呼ばれる症状、解離性同一性障害だ。
 とはいえ解離というのは、どんな人間でも起こり得る現象。分かりやすくいうなれば、『別の顔』というものになるのだろう。
 職場では部下に厳しく接する男性上司が、家では子供にデレデレのマイホームパパになる。教室では生徒たちを温かく包み込む優しき女性教諭なのに、家に帰れば我が子に冷たく当たる母親になる。学校ではやんちゃぶって悪さをするような生徒なのに、家に帰れば弟たちの面倒をよく見る出来の良いお兄ちゃんになる。普段は人を見下すような言動を取ってばかりの政治家なのに、隠れた趣味はSMクラブで嗜虐の女王に苛められること……――。
 例に挙げたような軽い解離症状であれば、普段とのギャップぐらいで済まされることだろう。だが深刻化すると、解離はその人が持つ『別の顔』ではなく『別の人間』に変わる。
 強いストレスが掛かると人間は、その重圧から逃れるために人格を分裂させるのだ。そうして複数の“自分”を作り出す。
「いやぁ、それにしてもだ。アレクサンダーくんよ。精神科医も呼ぶというのは良い判断だった。この頭でっかちぺヴァロッサムじゃぁ、絶対に出来なかったことだろう。――だから言っただろう、ぺヴァロッサム。一度、彼女を私に診せて欲しいと。私は彼女の回復を助ける一助になれるはずだ」
 精神科医の男は、ユンの主治医の肩を軽く指でつつく。するとユンの主治医、ペヴァロッサム医師はウンザリとした顔をしてみせた。
 そんなこんなで、駆け付けた精神科医のお陰もあり幾つかの事実が判明した。ユン、彼女はいくつもの人格を作り出していたのだ。退行した幼い姿と、双子の片割れであるユニになりすました姿、それと“ユイン”という全くの別人格、その三つである。
 その中でも、特に“ユイン”というのは厄介な存在らしい。彼女が自傷行為に及ぶ時はいつもその人格で、あるときは屋上から飛び降り自殺を図ろうとしたこともあったという。
 もし、彼女を殺そうとしている人格が居たとしたら。それは間違いなく“ユイン”である。そうして今、主治医のペヴァロッサム医師と怪しい精神科医は、対“ユイン”策を練っている最中だった。
 そしてユンは現在、電源を落とされたロボットのように眠りこけている。精神科医の男が先ほどユンに鎮静剤を投与したためだ。
「まあ、それはさて措き。ペヴァロッサム、私は思うんだ。彼女は精神病棟に移すべきだと。あそこには、仮に患者が暴れ出したとしても対処できるスタッフが揃っている。彼女の体にこれ以上、傷を作らせないためにもー……」
 精神科医の男は、ペヴァロッサム医師にそう提案する。しかしペヴァロッサム医師はその提案を跳ね除けた。「いいや、あそこは駄目だ。隔離されすぎてしまう。彼女は今のままで十分。それにエリーヌ・バルロッツィ氏は、この病院に多額の寄付を……」
「だがな」
「ここは譲れない」
「けれどもだ」
「いいや、譲らぬ」
「頭が固いなぁ、ぺヴァロッサムよ」
「彼女の病は脳神経外科の管轄だ。精神科医が首を突っ込んでいい畑じゃない」
「そうきたか……」
「大体、カウンセリングで何が変わるというのか。全ては脳内物質の見せるまやかし。投薬治療でコントロールすべきだ。カウンセリングを主軸とする治療など、そんなものは」
「やってみなければ分からないだろう? いたずらに脳神経を混乱させる投薬治療のほうが害悪だとさえ私は感じているが」
 医者と医者、脳神経外科医と精神科医のバトルはしばらく続く。彼らが下らない論争に気をとられている中、アレクサンダーはそそくさとその場から逃げ去って行った。


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