EQPのセオリー

11

「ああ、マジだ。信じられねぇような話ではあるけどさ、俺はあのペルモンド・バルロッツィに命を救われたらしいんだ。あの人、本当に強かったぞ。銃を持った屈強ゴリマッチョ男を、素手の攻撃で圧倒してたんだからな。動きとかは早すぎて、見切れなかったぜ。それでゴリマッチョから銃を一瞬で取り上げて、威嚇射撃からの早撃ちで右肩にズドン。大男が尻尾巻いて逃げていく姿ってのは、マジで笑いもんだったぜー。ハッハ!」
「……あぁ、はい、そうですか」
「それにさ、すっげぇカッコよかったんだぜ、あのオッサン。俺、人生で初めてちゃんと決まったキメ台詞を聞いたよ」
「……」
「ゴリマッチョの右肩を撃ったあとにさ、あの人、おどけた調子で『次は眉間を狙うぞ。あぁ、念のために言っておくと俺は狙いを決して外さない。リングバインダーもチョークも銃弾も、百発百中だ』って! ニタニタ笑いながら言ってるから、それが余計に怖くってよ! アハハッ、ヒヒッ……ギャハハッ!」
 ほぼ全身を包帯でぐるぐる巻きにされたニールは、そんなことを話しながらゲラゲラ笑う。
 入院してからずっと、彼はこんな調子だった。きっと薬が悪い方向に効いてハイになり、笑い上戸にでもなっているのだ。
「いやー、でもマジでアレックスには感謝。マジ感謝してんぜ。それにしても、なんで俺ンことを助けに来てくれたんだ? 絶交宣言してきた翌日だったってのに」
 ニールはそう言うと、またゲラゲラと笑う。そんな彼に向ってアレックスは、昨日送り付けられてきたメールを見せつけた。するとニールは文面と自分が写った写真を見るなり、その顔色を変えた。そしてアレクサンダーは言う。
「……てめぇのアドレスから、アタシ宛てにこのメッセージが送られてきたからだよ。てめぇがボッコボコになった姿と、脅迫文。放っておくわけにゃいかねぇだろうが」
「警察に相談とか、してねぇの?」
「するわけがねぇだろ、あんな組織に。なっ、親父」
 アレクサンダーは横に立っていた父親に、目配せをする。父親は頷くと、口を開いた。
「そういえばだ、ニールくん。先ほどやっと、君のお母さんに連絡がついた。ちょうど今さっき仕事が終わったばかりだとかで、家に帰らず、こちらに来てくれるそうだ。それと、情報筋によればパトリック・ラーナー殿もこちらに向かっているらしい」
「……げっ。ぱ、ぱとりッ?!」
「まったく、まさか君がASIに利用されていたとは。灯台下暗しとは、まさにこのことだ。……高位技師官僚殿も仰っていたが、君はまだ若い。未来がある。危ないことに首を突っ込むものじゃないし、何よりー……」
 父親はニールから一瞬だけ目を逸らすと、一度咳払いをする。そして父親はニールに言った。
「ニールくん、君に諜報員は向いていない。今だって、パトリック・ラーナーの名を出した時、君は咄嗟に『げっ』と言った。これはアレクサンダーにも言えることだが、君にポーカーフェイスは無理だ。一瞬をやりすごす能力はあるものの、嘘を塗り重ね続けることが君には出来ないんだよ。嘘をつくことに必要以上に罪悪感を感じ、やがてボロが出るから」
「……」
「諜報員に向いている人間は、日常的に嘘を吐ける人間。それでいて、そのことに罪悪感を覚えない人間だ。例えば、パトリック・ラーナーのような人間。ありゃ真性の悪魔だ」
 そんな父の言葉に、ニールは苦々しい表情を見せる。おじさんも、やっぱりそう思いましたか。苦し紛れに笑いながら、ニールはそう呟いた。
 と、そんなとき。病室のドアがコンコンッと叩かれる。そうして開いたドアからは、灰色のスーツをビシッと着こなした随分と背丈の低い男性が現れた。
「私も同じ見解ですよ、ダグラスさん。ニール・アーチャー、彼は嘘が下手クソだ。だから私も、ASI局員にすべく彼に目を掛け、育てているわけじゃありません。連邦捜査局の特別捜査官なら適性があると思いますので、そこのアカデミーに通わせられるぐらいのスキルを身に……」
「要点だけを簡潔に言っていただけませんかねぇ、ラーナー殿」
 父親は、ドアから現れた男――ASI局員、パトリック・ラーナー次長―――の話を遮るように口を挿むと、彼に向ってチッと舌打ちをする。警戒心も嫌悪感も丸出しのそんな父親の姿に、横に立つアレクサンダーも、ベッドの上のニールも、少しだけビビッていた。
 しかし、ラーナーと呼ばれた男は呆れ顔をするだけ。パトリック・ラーナーはアレクサンダーの父親に物言いたげな視線を送りつけると、彼を揶揄するようにクドクドとこう述べた。
「まったく、あなたもどこぞの鷲鼻クソ眼鏡みたいなことを仰るんですねぇ、ダグラスさん。ペルモンド・バルロッツィ、彼の口癖はこれですよ。『話がくどい、要点だけを述べろ』ってね。いやぁー、業務連絡ならともかくとして、他愛もない雑談、取るに足らない与太話のたぐいを簡潔に纏めろってのは……どうなんでしょう? 要点だけを述べろと言われましても、瑣末なものに要点なんてそもそも存在しないんですから。それにー」
「私は、あなたと仲良く世間話を交わす気はありません。できれば、一刻も早く帰っていただきたいんです。なので、要件をさっさと済ませてはもらえませんか?」
 父親の顔は、ますます険しくなっていく。鬼のようになったその形相に、アレクサンダーは思わず息を呑んだ。
 けれども、そんな父親のことなど気にもしてないのか、パトリック・ラーナーという男はニコニコ笑顔を浮かべる。それから彼はクドクドと喋り続けた。
「あぁ、私が悪魔のような人間だっていうのには概ね同意ですよ。自分自身、そう思っていますしね。人を唆し、陥れることは大得意。それに大好きです。裏切られた瞬間に人が見せる、悲愴感ただようあの顔が私の大好物でしてね。それを見たいが為だけに、こんな仕事をやってるようなもんです」
 いちいち悪趣味な言葉のセンスに、アレクサンダーも次第にパトリック・ラーナーに嫌悪感を覚え始める。ニールは気まずそうに鼻の頭を掻きながら、たじたじとしているという様子だった。
 パトリック・ラーナーという人物は、先日父親が言っていたとおりの男だった。童顔で身長も低くて、げじ眉で、目も大きくて二重でパッチリしていて……。十三、十四の子供と言われたらそう思ってしまうような、幼い容姿をしている。
 けれども、そんな容姿とは裏腹に、性格は非常に悪そうな感じだ。性根が腐りきっていて……――それはまさしく悪魔とたとえるべきもの。
 こんな人が、ジェーン先生の弟だなんて。アレクサンダーはむっと眉間にしわを寄せる。と、そのときアレクサンダーは違和感も覚えた。
「……しかし、その悪魔の毒牙に掛かったお間抜けさんはどこのどなたでしたっけ? ねぇ、ダグラスさん。ふふっ」
 ジェーン先生の肌は、褐色だ。一方、彼女の弟だというパトリック・ラーナーという肌はゆで卵のように真っ白だった。ということは、姉弟といっても血縁はなく、言うなれば弟は養子なのだろうか?
 しかし。両者の目鼻立ちはよく似ている。二重瞼の幅の広さも、目の形も、唇の厚さも、ジェーン先生とパトリック・ラーナーは同じに見えていた。血縁があるようにも見えなくはない。
 そんなこんなでアレクサンダーの中で疑問は尽きないが、ひとまずそれをアレクサンダーは頭の隅に追いやる。
「とはいえ、ダグラスさん。べーらべらべーらべーら喋って、相手の気を逸らさせることが私の仕事ですから。悪く思わないで下さいね」
 パトリック・ラーナーは依然喋り続けたまま、携えていた鞄の中をがさごそと漁る。そして彼はひとつの書類の束を取り出すと、それをベッドの上に寝ていたニールに見せた。
「さてと。要件はこれだけです。アーチャー、この書類の必要事項をちゃちゃっと埋めちゃって」
 そう言うとパトリック・ラーナーは、ニールに書類の束を押し付けるように渡す。次に彼はペンをニールに渡すと、今すぐここで記入するよう促すのだった。そして彼はペンを渡しながらも、ベラベラと喋り続ける。
「住所、連絡先、生年月日、その他諸々……。それさえ済めば君は連邦捜査局の特別捜査官、その候補生になる。おめでとう。まっ、大学を卒業してからの話ですがね」
「えっ、だ、だっ……大学?!」
「そーです。私のほうで口利きしてやりますから、あなたにはセントラル・ビクトリア大学の法学部に入ってもらいます。学費のほうは支援させていただきますから、そこで四年間みっちりと学んでもらいますよ。その後は特別捜査官育成アカデミーです。あなたは国に尽くす公僕になるんです。今から覚悟しておきなさい。あなたはアレクサンダーと違い、取り返しがつく立場に居るんですから、その立場を最大限利用して最善の決断を下すべきです」
 ニコニコとした穏やかな表情とは裏腹に、パトリック・ラーナーの声の調子は、猛毒でコーティングされた鋭く細い針を幾本も隠し持っているかのような、刺々しいものへと変わっていく。直接的な言葉こそなかったが、その態度はまさに物分かりの悪い子供を軽くあしらうような、上から目線の冷たさが剥き出しにされていた。
 けれどもそんな態度や口調とは反対に、言葉だけを切り取って見てみれば、パトリック・ラーナーという男はなんだかんだでニールの身を案じているようにも聞こえる。
 どこまでも不可解な人物だな、とアレクサンダーは感じた。それと同時にアレクサンダーは、暗に自分のことを言っているのであろう言葉に首を傾げる。
 ――ニールは取り返しがつくが、アタシは違うって?
「ほら、アーチャー、必要事項にサインを。これは君を守るために必要な手段なんです。ですから早く、さっさと書いて」
「そんなことを急に言われても」
「アーチャー、これは決定事項です。君に拒否権はありません。そもそも君が私の任務を妨害してまで接触なんか図ってこなかったら、こんなことにはならなかったんですよ。だから今すぐここで書いてください。足の骨は折れていると聞きましたが、手の骨は折れちゃいないんだ。文字ぐらい、ちゃちゃーっと書けるでしょうに。ほら、早く。私は忙しいんですよ、だから早くして。それに全部、君の所為なんだから。自業自得ってやつですよ」
「……」
「私があなたに命じたのはミランダ・ジェーンの監視だけ。コルト親子のCの字すら、私は君の前で一度も発したことはないっていうのに、君はひとの会話を勝手に盗み聞いて、勝手なことばかりをするんですからねぇ。けれども、ここで君を見捨てるわけにはいかないんですよ。だから、早くサインを」
 早口でそう捲し立てるパトリック・ラーナーは、ニールの手に半ば強引にペンを押しこめ、早く書くようにと促す。するとニールは彼には勝てないと踏んだのか、ついに諦め、大人しく書類にサインをした。
 そうしてニールが一通り書き終えると、パトリック・ラーナーはすぐに書類の束を取り上げ、自分の鞄に押し込む。そして彼は去り際に、アレクサンダーの父親に向かって深々と頭を下げると、最後にこう言った。
「どうか、例の件は内密に。ペルモンド・バルロッツィ高位技師官僚は今もなお消息不明で、民間人の前に姿を現すはずがないのですから。彼の足取りを知る者は誰もおらず、あなたたちが昨晩見たのは、貧困層である西欧系移民のチンピラ共と、それに運悪く襲われたニールくんだけです。……それでは、私は失礼します」
「……口裏合わせか。これだからASIの連中は嫌いなんだ」
 鞄を持ったパトリック・ラーナーは静かに病室を立ち去り、アレクサンダーの父親はその背中を睨むような目で見送る。そして彼の姿が見えなくなったのを確認すると、アレクサンダーは口を開いた。「おい、ニール。ありゃ、どういうことだ」
「ど、ど、どういうことってのは、どういうことだ?」
「パトリック・ラーナーが命じたのはジェーン先生の見張りだけ。アタシと親父の監視はテメェが勝手にやったことだってのは、どういうことだって聞いてんだよ」
「ああっと、その、えーっと、それはだなぁ……」
「つまり、勝手にやったってことだな?」
「……本当に、すまないと思ってる。ホント、マジで」
 アレクサンダーはぎりりっとニールを睨み、ニールはそんなアレクサンダーから視線を逸らしながら、引き攣った作り笑顔を取り繕う。だって、仕方無かったんだ。ニールはそう言うと、言い訳を述べた。
「聞いちまったんだよ。お前のことを狙ってるっつー連中がいるっていう話を、ラーナー次長が誰かとしてたのを。だから、放っておけなくてさ」
「はぁーっ、呆れた。だったら何か……――」
 言い訳を述べ終えたニールは、気拙そうに顔を俯かせる。そんなニールに対しアレクサンダーは厳しい視線を向けた。そしてアレクサンダーが続きの言葉を発しようとしたとき、その前に父親がアレクサンダーを制した。
「アレクサンダー、それぐらいにしておけ。ニールくんだってお前のことを思ってくれていたわけだ。これ以上責めたら、さすがに彼が可哀想だぞ」
「けどよ!」
「監視されていたせいで気分が悪いのは分かるさ。けれどだ、アレクサンダー。この国において国民は、公権力やら何やらに日常的に監視されてるようなものなんだ。だからこの国はとても平和で、民間人は過ごしやすくなっている。……とはいえそれも、根本的な解決がなされていない上辺だけの平和でしかないがな」
 そう言い終えると、父親は浮かない顔で重たい息を吐く。そうして訪れた数十秒ほどの沈黙。けれども、そんな沈黙も慌てふためいたような足音と、勢いよく開けられたドアの音によって破られた。
「うちのバカ息子は、また何をやらかしたの! アレクサンダーちゃんにも、ダグラスさんにも迷惑を掛けて……――まったく、このアホンダラは!」
 怒鳴り声と共にやってきたのはニールの母親。ニールの母親の顔は怒りに震え、唐辛子のように赤くなっている。だが反面、その両手は血が止まっているかのように蒼白くなっていた。
 ニールの母親は赤く火照った顔を、顔面蒼白のニールに近付ける。そして彼の目と鼻の先で怒鳴った。「何があったの、ニール! ちゃんと説明して!!」
「……えぇっと、そのー……」
「どうして、サンレイズ研究所なんていう郊外に出かけたの?! 母さんがどれだけ心配したか、アンタは分かってるのかい!?」
「頼むから、母ちゃん。とりあえず落ち着けって、なぁ?」
「このバカッ、誰がこの状況で落ち着けるもんですか! 大事な一人息子が大ケガをして病院送りになるだなんて、心配しない親がいるわけないでしょう?!」
 ニールの母親は、次第にヒートアップしていく。大ケガをしてベッドに寝かされている息子の胸倉を掴み上げると、ニールの母親は彼の耳元で叫び始めた。
 そんな母親を相手に、ニールはどうすることも出来ないというような困惑した表情を浮かべる。それを見かねたアレクサンダーの父親は、ニールに助け船をそっと出した。
「西欧系移民のチンピラですよ。サンレイズ研究所跡地付近には、そういった移民が集まるスラム街がありますからね。彼らが望んでいたものをニールくんは生憎持ち合わせていなかった、だから彼らの機嫌を損ねて、このとおり病院送りになってしまったというわけです。……君もまだ未成年なんだから、夜間に町を出歩く時は十分気をつけるんだ。それと、危ない場所には不用意に近付かないこと。分かったか、ニールくん?」
 このジジィ。今、さらっと嘘を吐きやがった。
 そんな独り言を言いかけたアレクサンダーの口を、父親はすかさず手で覆い隠して塞ぐ。ニールは無言でこくりと頷き、彼の母親はそんな息子の頭を平手で叩いた。
 聞くにも堪えないような、痛々しい破裂音がニールの頭から鳴る。それから彼の母親はアレクサンダーらのほうに向くと、深々と頭を下げた。アレクサンダーにとっては、本日二度目の光景だ。
「うちの息子が、ご迷惑をおかけしました。本当に、なんとお礼を言えば……」
「いいんですよ、バーバラさん。うちのこの可愛かない娘も、度々おたくに迷惑をお掛けしてるわけですし。持ちつ持たれつ、貸し借りはなしってことで」
 それでは、失礼します。父親はそう言って軽い会釈をニールの母親にすると、アレクサンダーの口を塞いだまま、アレクサンダーを引きずるように病室を後にする。
 それからアレクサンダーは車の中に放り込まれ、家に着くまでの間、父親から「余計なことを言うな」だの「ASIに目を付けられるような真似を、お前は一体いつしたんだ?!」などと小言を言われ続けたのであった。
「ASIに目を付けられるような真似をいつしたか、だって?! アタシのほうがそれを聞きたいよ!!」
「お前はどうせ、気付かぬうちに余計なことに首突っ込んだんだろ?! 正直に言え、お前はエリーヌさんの娘に何をした!?」
「何もしてねぇっつってンだろ?! フツーに、友人として接してただけだってのに、なんでこんなことになってんだよ! ワケ分かんねぇーんだけど!?」
「父さんのほうがワケ分からん! この猪突猛進のバカ娘が、行動に移す前にもう少し考える時間を設けろ! お前がとる行動の一つ一つに責任が付きまとうことをそろそろ学習してくれ!!」
「ああ、分かりましたとも! アタシゃどうせ、可愛かねぇバカ娘だよ!!」





 人ん家の玄関で泣いてた新米刑事が、今や立派な父親になっているとは。
 ……時間の流れは、俺が思っていたよりもずっと早かったようだな。
「……って、あの人が言ってたんだよ」
「あの人ってのは十中八九、高位技師官僚?」
「そう、あの人。前から疑問に思ってたんだけど、親父とあの人ってどういう関係なわけ?」
 夕飯の席で使った食器洗いを手伝いながら、アレクサンダーは母親にそう訊ねる。アレクサンダーの左隣りで、洗い終わった食器を拭いていた母親は、うーんと唸り声をあげながら両瞼を閉じる。そして小さな声で呟いた。「……言ってもいいんだけど、言っていいのかしら」
「どっちだよ」
「お父さんからすれば、ちょーっと恥ずかしい話になるからねぇ。どうしましょうか」
「恥ずかしい話なら、なおさら気になる」
「そうねぇ。まっ、いいか。五十も過ぎたジジィに尊厳もクソもないわよねぇ。おほほほー」
 母親はきゅっきゅっと音を立てながら、布巾で平皿から水気を吸い取っていく。アレクサンダーは皿から油を落としていた手を止めると、右手に持っていたぼろぼろのスポンジをぎゅっと握る。スポンジからは洗剤が生んだ小さな泡が吹き出て、泡は母親の目の前を通り過ぎて行った。
「アレックスも知ってるでしょう。お父さんがまだ二十代だったころ、ボストン市警に勤めてたって」
「うん、まあ。それで、あの病院で起きた事件を担当したんだっけ」
「ええ、そう。あれがお父さんにとって、初めて回ってきた大仕事だったってわけ。つまり、張り切っていたってわけなのよ。それであの時の私は、事件が起きた病院のB棟四階の小児科で看護師をしてたわけ。けど事件が起きたのは、同じB棟でも三階の産婦人科。小児科の看護師の私は、事件に直接的な関わりはないし、精々いかにもベテランって感じの刑事さんに一度だけ話を軽く聞かれたくらいだったわ」
 えっ、看護師だったの? それも小児科? ――それはアレクサンダーにとって、その話は初めて聞くものだった。しかし母親は看護師時代のことは深く語らず、事件のことだけを話す。
「だから、あの事件に対して私はさほど関心はなかったし、関わるべきじゃないって思って距離を置いてたの。けどね、事件の捜査が打ち切られたあとも、何度も足しげく病院に通っていたお父さんのことはよくチェックしてた。それが始まりかしらね。単独捜査の進展はどうですか、とか訊ねてるうちに、お父さんと親しくなって。気が付いたら交際してて、気が付いたら結婚してたわねー」
「どんな馴れ初めだよ! ……って、そんな話を今聞いてたわけじゃないんだけど」
「そうね、話が逸れた。それでお父さんとあの人との接点なんだけど、実はそんな大したものでもないのよ。捜査の打ち切りが決まった次の日に、罪悪感に突き動かされたお父さんが、ひとり謝罪をしにあの人の家を訪ねたらしいのよね。まぁ、そんな報告をしにきた人間が歓迎されるわけもなく、すぐに追い返されたらしいわ」
「へぇー……」
「それでお父さんはその時に、悔しさのあまりに玄関の前で号泣したって話よ。すみません、すみませんって謝りながらね」
「……なにそれ、恥ずかしっ」
 うわー、という顔をしながら、アレクサンダーはスポンジを握る力を強める。スポンジからはまた泡が吹き上がり、今度はアレクサンダーの顔の前を泡は通って行った。
 すると母は、新しい平皿を拭いながら溜息を吐く。そして呟いた。
「昔は、可愛げのある素直な熱血ボーイだったのよ。けど今じゃ、冷めちゃって、変な風にねじ曲がって。偏屈ジジィって感じ。そのうえ全然、稼がない。嫌になるわよ、あんな男。はぁー、離婚したいわぁー」
 カチッという、皿が重なりあうときの固い音が鳴る。可愛げのある素直な熱血ボーイ。そんな母の言葉に首を傾げさせながら、アレクサンダーは泡だらけになった皿を水ですすいだ。


次話へ