オラクル

不幸: 続けてやってくるもの

 二〇二四年、七月。翌月に近付いたパリオリンピックに向けてのテロ対策が、世界各国で声高に叫ばれている今日この頃。真夏のアメリカ合衆国、マサチューセッツ州北東部サフォーク群ボストン市。かつて"世界の中心"とも呼ばれたその街の、タイラー・ストリート沿い。中華街に近い場所に、一棟の古びた五階アパートが建っていた。
 そのアパートの四階、四〇五号室。そこに一人の男と、風変わりな少女が住んでいた。
「パッティ。おい、おーい。起きてるのかい」
「……ミルク……シリアル……フルーツグラノーラ……」
「パッティ?」
「……リッキー。彼は、ミルクが嫌い」
「あー、パッティ。分かったよ。牛乳は、ボールに注がない。だから、せめてグラノーラだけでも食べてくれ」
「…………」
「パッティ。朝御飯は食べなさい。じゃないと、お薬が飲めないから。分かったか?」
 年代物の青い冷蔵庫の前に、無造作に置かれた狭い猫足テーブル。その脇に置かれた対の椅子には、中年の男とティーンエイジャーの少女が座っている。
 男の方の名前は、ダニエル・ベル。アメリカではそれなりに有名なSF小説家で、俗に言う“男やもめ”だ。
 “どこまでも下品な女”こと女房のロリとは、十七年前に別居。離婚はしていないが、事実上結婚生活というものは破綻していた。そして彼の下で自由に、のびのびと育った才気溢れる美しい愛娘イライザも、去年イギリスのリーズ大学に進学したため、アメリカには居ない。そんなわけでダニエルは暫くの間、ぼろアパートの一部屋に一人で生活をしていた。
 そんなダニエルの人生に、半年ほど前に突然現れたのが、ティーンエイジャーの少女。ダニエルが“パッティ”と呼んでいる、年齢本名ともに不明の少女だ。
「パッティ、聞いているのかい?」
「……はい、ダニー。朝ごはんは、ちゃんと、食べるわ」
 パッティという少女は、突然彼の前に現れたのだ。半年前のある日の真夜中、土砂降りの雨が降って凍えるように寒かった冬の日。ダニエルが新作の執筆に勤しんでいたときだ。玄関扉のドアチャイムが鳴ったのだ。そうしてダニエルが扉を開けると、目の前にはずぶ濡れで佇む少女が立っていたのだ。青ざめた顔で、虚ろな目で、無言で佇む少女が、そこには居たのだ。
 その少女は、彼の娘イライザよりも四~五歳ほど年下、のように見えた。それゆえにダニエルの目には、娘イライザの面影が被って見えてしまったのだ。
 ダニエルは少女に詳しい事情を聞くこともなく、彼女を家の中に入れてしまった。そしてダニエルは娘イライザが残していった寝間着と下着をかき集めると、彼女にまずシャワーを浴びるように言い、バスルームへと誘導した。彼女がシャワーを浴びて服を着てリビングに来ると、ダニエルは彼女をソファーに座らせて、彼女の長い栗色の髪の毛をドライヤーで乾かしてやった。そして夕食を振る舞い、急な来客のためにいつも備えてある新品の使い捨て歯ブラシを渡して彼女に歯磨きをさせ、自分の寝室に彼女を寝かせ、自分はリビングのソファーで寝た。
 それは一晩だけの親切で終わる、はずだった。しかし親切は一晩で終わることなく、こうして今も続いていた。
「……パッティ」
「なぁに、ダニー」
「イチゴとマンゴー、それとパイナップルだけを撰んで食べるのは、やめなさい。全部ちゃんと食べること。ほら、このナントカかんとか麦とか、美味しいんだぞ?」
「…………」
「パッティ」
「……分かった」
 ダニエルは少女が現れたその翌日に、ボストン市警察署に出向いた。勿論、少女を連れて。ダニエルは市警に一通りの事情を説明し、失踪者リストに少女が載っていないかを調べてもらったのだ。一週間ほど粘ったが、結果を言うと無駄だった。彼女に関する情報は何もなく、また彼女の口からも語られることはなかった。
 そして市警の失踪課に所属するひとりの刑事はダニエルに、こんなことを告げてきた。
『まあ、その子について何かが分かり次第、あなたに連絡をします。それまでは、その子をお宅で預かってもらえませんかね? その子も、あなたに懐いているようですし。それにダニエル・ベル大先生になら、安心して託せます。つーわけで、お願いしますねー』
 以降、市警からの連絡は何もない。ダニエルもありとあらゆるコネを伝って、情報を撒き散らし同時にかき集めているのだが、そこでも収穫は何もなく。摩訶不思議な居候とも、かれこれ半年ほどの仲となっていた。
 事態はイギリスに居る娘イライザも耳にしており、毎週金曜日の夕方五時半――イギリスでは夜一〇時半に相当――に行われる恒例の父娘テレビ電話には、今やパッティも仲間入りしている。イライザは電話越しにパッティのことを可愛がっており、マイペースなパッティもイライザのことを姉のように慕っていた。
 そんな奇妙な生活も、今やダニエルにとっての普通の日常と化している。しかしダニエルも、理解はしていた。このままでは駄目だと。パッティを、本当の家族のもとに帰さなければいけないと。
 そう、分かっているのだ。だが……。
「なあ、パッティ」
「なぁに、ダニー」
「君の、本当の名前を、そろそろ教えてくれないか」
 パッティ。彼女は自分の本名を、教えてくれないのだ。ダニエルにも、イライザにも、警察署にも。誰も、彼女の名前を知らない。国のデータベースにも、彼女に関するデータは何一つとして存在しない。まるで過去が存在しないかのように、彼女の経歴は真っ白なのだ。
 そして彼女に名前を尋ねると、決まって返ってくる答えがある。
「名前? リッキーだよ。パトリック・ラーナー」
「それは“彼の”名前なんだろう? 僕が聞いているのは、君の名前なんだよ」
「私の、名前?」
「そうだ。君の本名を教えてくれ」
「私の、名前は……パッティ、だよ。だってダニーは私のことを、パッティって呼んでるから」
「……そう、だな。すまない」
「変なことを訊くんだね、ダニーって」
 まず彼女の口から飛び出してくるのは、パトリック・"リッキー"・ラーナーという男の名前なのだ。
 これは彼女に未だ付きまとっている空想上の友達の名前で、彼女の呼び名であるパッティの元となった名前だ。そして空想上の友達パトリックの設定は、ダニエルもよく知るSF小説と同じ。ヤヨイ・クレヅキという日本人女流作家が書いた『ア悪夢のゆりかご』という物語の主人公、MI6に勤める童顔低身長の尋問官パトリック・ラーナー、そっくりそのまま。
 そして彼女が次に答える名前は、パッティ。ダニエルが、仮のものとして彼女に付けた呼び名である。これも勿論、彼女の本名ではない。
「はぁ、パッティ……君は本当に、どこから来たんだか」
「…………」
「ごめんよ、何でもない。ただの独り言だ、気にしないでくれ……」
 半年間、なぜか一緒にいる少女、パッティ。
 自分の娘も同然に愛している少女、パッティ。
 しかしダニエルが彼女について知っていることは、まるで少ない。その点についても、ダニエルはこのままでは駄目だと感じていた。
 ダニエルが彼女について知っていることといえば、食べ物の好みと、自閉症で統合失調症を併発している疑いがあり、リスペリドンが欠かせないことくらいだ。
 パッティは果物ならほぼ全部好きで、大抵のものは文句を言わずに食べてくれる。のだが、肉も野菜も穀物も、パンもジャンクフードもお菓子も嫌いで、朝食夕食はダニエルにとって地獄のような時間だ。最近は随分とマシになってきたが、それでも……苦労は絶えない。
 それにパッティは、ダニエルとイライザ以外の他人を、ひどく怖がる(外出先だと彼女は終始、ガチゴチに固まっている)。それと動物が好きで大自然のドキュメンタリー番組はよく見るが、ドラマやらバラエティーやら、一般的なテレビ番組は全て駄目で大嫌い。ニュース番組で殺人事件が報道されようものなら、パッティは悲鳴を上げて泣き叫んで……大変なんて騒ぎじゃない。とにかく、彼女は繊細なのだ。そこが可愛らしくもあるのだが、相手をするのに体力気力ともにひどく擦り減らすことも事実であり……――ダニエルの心境は、複雑である。
 それに彼女はデイドリーマー体質で、時折意識がどこかに飛んでしまうことがある。あとひどい寂しがりやで怖がりで、夜は一人で寝ることが出来ない。そして夜になると彼女は口癖のように、こう言った。
 白い狼が、鏡の世界からやってくる。
「…………」
 ボールに入れられたフルーツグラノーラの中から、自分の好きなドライフルーツだけを選んで食べるパッティの姿を見つめながら、ダニエルは溜息を一つ吐く。と、そのとき。パッティの両肩が緊張したように上がり、ぶるりと震える。彼女の動きが止まった。
 パッティの異変を察知し、ダニエルは椅子から立ち上がる。彼は半年に及ぶ共同生活の経験から知っていた。来客が玄関ドアの前に立っていて、今まさにドアチャイムを押そうとしていると。
 ダニエルはパッティの横を通り過ぎ、玄関へと向かおうとする。するとパッティが慌てふためいた様子で、ダニエルの手首をつかんで引き留めようとした。そしてパッティは言う。
「……ダニー、行っちゃダメ」
「大丈夫だよ、パッティ。どうせ宅配だ。すぐ終わるから、ちょっとだけ待っ……」
「ダメ。アルファードが来てる。彼女、拳銃を持ってる。ベレッタ92」
「アルファード? トヨタが出してる車の、あのアルファードか」
「違う、彼女の名前。水色のヒジャヴを巻いた、アラブ人の女。ダニーが玄関に出た瞬間、彼女はダニーにベレッタ92を突きつける。そして明るい茶色の麻袋をふたつ渡してきて、それを被れって」
「落ち着きなさい、パッティ。深呼吸だ。ほら、吸ってー……吐いて、もう一回吸って」
「でもダニー!」
 パッティが悲鳴のような声を上げたのとほぼ同時に、ドアチャイムが鳴る。
「いいかい、パッティ。すぐ戻ってくるから。きっと一昨日にネットで注文したEMSのベルトが届いたんだろう。たぶん宅配業者の人で、拳銃を持ったアラブ人の女じゃないよ」
 ダニエルはそう言ってパッティを宥め、玄関へと向かう。そうしてダニエルはドアの前に立つと、ドアスコープから来客の様子を確認することなく、不用心にもドアを躊躇いなく全開に開ける。それからダニエルは、迷いなく両手を頭よりも高く挙げた。
「勘弁してくれよ、おい。……冗談だろ?」
 ドアを開けた先で待っていたのは、見慣れた制服の宅配業者ではなかった。水色のヒジャヴを頭に巻いて髪をすっぽりと隠した、パンツスーツ姿のアラブ人と思われる小麦色の肌の女だった。
 ひときわ強い生気が満ちた黒い瞳でダニエルをじっと見つめてきた女の手には、拳銃が握られていた。それもベレッタ92。ベレッタの銃口はダニエルに向けられていて、女は意味深な笑みを浮かべている。すると女は浮かべた笑みをそのままに、両手を上に挙げているダニエルにこう言った。
「あなたが、オマージュという名の盗作行為で有名な、名ばかりの小説家ダニエル・ベルね」
「……それに関してはおおむね事実だから、反論の余地なし、かな?」
「私は国土安全保障省、ファティマ・ダルウィーシュ特別捜査官。あなたとパトリシアの二人を、これから拉致する」
 ファティマ・ダルウィーシュと名乗った女が手に持つベレッタが、じりじりとダニエルに近づいてくる。手を挙げたままのダニエルは苦笑いで応答すると、ファティマは笑顔を消した。
 そして彼女が次にダニエルに見せたのは、二枚の麻袋。それも、明るい茶色のものだった。
「さあ、パトリシアをここに呼びなさい。それから下に止めてあるバンに乗り、二人にこの麻袋を被ってもらう。そして、あなた方をガレージに連れていくわ」
 銃を突き付けられ、麻袋を見せつけられたダニエルは、苦し紛れの笑顔で硬直する。そんな彼は突如訪れた滅茶苦茶な状況に混乱し、頭が真っ白になりつつあった。そして気が付けば、恐怖に急かされたダニエルの舌が勝手に動いていた。
「……ははは。こりゃ、参ったな。国土安全保障省だって? 僕は何か、拙いことでもやらかしたのか?」
 途轍もなく不思議で、どこまでも理解しがたい現象が今、ダニエルの身に起こっていた。
「いいえ、あなたは原作殺しという罪のほかには、これといって法は犯していない。とはいえ、著作権侵害という点においてはグレーゾーンに居るかもしれないわね。でもそれは、今はどうでもいい。問題はパトリシアよ」
 ついさっきパッティが口にした言葉が今のところ全て、現実になっているのだ。
「それにしても、ダルヴィッシュってのも変わった名前だ。そういえば、そんな名前の野球選手が」
 それはまるで、パッティに未来が見えているかのような……――。
「私の姓は、ダルウィーシュよ」
「ところでパトリシアってのは、誰のことだ?」
「とぼけないで」
「いやぁ、そんな名前の知り合いは生憎いなっ……」
「パトリシア・ヴェラスケス。当然、知っているでしょう」
「あっ、あー、思い出した。映画ハムナプトラで、アナクスナムンを演じていた女優か。美しいよなぁ、彼女。あんな素晴らしい女性と知り合いだったらそりゃ良かったんだが、残念ながら僕は」
「同姓同名だけれども、まったくの別人ね。私が言っているパトリシアは、あなたが匿っている少女のことよ」
「パトリシア? うーん、パトリシア。パト、パッ、パット……」
「…………」
「……――パッティ?!」
 ダニエルが間の抜けた声でそう叫んだときだった。ダニエルの後ろ――リビングルームの方向――から、パッティの泣き叫ぶような悲鳴が聞こえてきた。それも運悪く殺人事件のニュースを目撃してしまった時の、宥めるのに時間が掛かる最上級のパニックだ。
「あぁっ、パッティ! 今そっちに行くから、落ち着いてくれ! パッティ、パッティーッ!!」
 銃を突きつけられていることも忘れ、ダニエルは一目散にパッティのもとへと走っていく。玄関にぽつんと一人取り残されたファティマは、ハナから撃つ気もなかった銃をしまうと舌打ちをする。そんなファティマは、大声で「あそこに戻りたくない」と泣き叫ぶ少女の声をただ黙って聞いていた。





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