オラクル

序章: ある日の出来事

 それは、二〇一四年のある夏の日のことだった。
「どうしたんだ? だって、らしくないじゃないか。かいがそんなに慌てているだなんて。――……んあ? ちょっと、待て。お前、何をそんなに……」
 町田泰介、三十歳。なんてことない、ただの営業マン。そんな彼は、仕事柄ゆえに滅多に日本に帰ってこない妻の帰りを待ちながら、なんてことない休日を過ごしていた。
 猫が爪を研いだであろう傷が目立つ、淡い水色をした安物のソファーに座って。ソファーの前に設置された小さなちゃぶ台には、埃を被ったテレビリモコンと開封されたポテトチップスの袋、そして駅前のピザ屋で購入したMサイズのマルゲリータ。それと冷蔵庫の野菜室にあった葉もの野菜で適当に作ったサラダの、マヨネーズ&どろどろチェダーチーズ合え。あと、缶ビール。いつも通りの、堕落しきった休日の光景が広がっている――……はずだった。
「落ち着け、海。何があったんだよ?」
 彼の膝の上では、飼い猫――メスでありながらも名前を"みかん号"という、逆三角形の顔と短い尻尾が印象的な、老齢の三毛猫――が心地良さそうな寝顔を見せている。一方、飼い猫を膝の上に乗せている町田泰介の顔は、深刻な雰囲気を漂わせていた。
 そんな彼はスマートフォン端末を耳に当て、誰かと電話をしていたのだ。そして、その相手は海外に行っている妻。世界の暗部を写真に捉えるフォトジャーナリスト、町田海だった。
『早く、テレビを点けて。きっと日本のテレビ局も、速報として情報を流してるはずだから』
 そういう電話越しの妻の声は、震えている。喋りも、焦っているのか早口だ。そしてどことなく、涙ぐんでいるようにも感じられる。そんな妻の様子に、町田泰介は緊張から表情筋を強張らせていた。
 町田泰介は右手で持っていたスマートフォン端末を左手に持ち替えると、右手をちゃぶ台の上に置かれたテレビリモコンに伸ばす。そしてリモコンを手に取ると、彼は二週間ぶりにテレビの電源を点けた。
 テレビのチャンネルを国営放送に合わせ、町田泰介はリモコンを再びちゃぶ台の上に置く。二十三インチの液晶テレビには、妻の言葉通り、速報という文字が映し出されていた。
 そして速報の内容は、実にショッキングな内容だったのだ。
「今、テレビを点けた。なあ、海。これって、映画のワンシーンか、何かなのか?」
『それは一〇分前に起きた、現実の映像。残念ながら、ね……』
 速報を読み上げる男性アナウンサーの声も、電話越しの妻のように早口だった。またアナウンサーの表情も、険しいものだった。
 テレビに映るアナウンサーの顔の、眉間に深く刻まれた皺は、無言でスタジオに張り詰める緊張感を伝えてくる。その緊張感は、一九八〇年代にありがちな過激なアクション映画のようにも思える爆発映像が、CGではなく現実に起こったものであると不特定多数の視聴者に訴えていた。
 すると電話越しに、妻が言う。
『三度目の核爆弾は、東洋でなく中東で爆発した。それも事故じゃない。テロ、らしいんだ』
 テレビに映るアナウンサーも、妻と同じことを言っていた。それに黒々と立ち上るキノコ雲の映像には、テロップが被っている。
 イスラエル、エルサレム地区で、核と思われる大規模な爆発が発生。死傷者の数は、現在不明。イスラエル政府はこれを、重大なテロ事件であると……――
「エルサレムって、あのエルサレムか? キリスト教の、うんちゃら」
『キリスト教だけじゃない。ユダヤ、イスラーム。仲の悪い兄弟のように密接に絡み合った、三つの宗教の聖地。そして二つの国家が自分達のものであると主張し、醜い争いを続けている、呪いのような都』
 スピーカーから届く妻の声は、次第に低くなっていく。町田泰介はスマートフォン端末を持つ左手が、汗ばんでいくのを感じた。
 彼は、経験から知っていたのだ。徐々に低くなっていく声色は、最高に好ましくない報せの前触れであることを。
 そして、電話の向こうからは鼻をすするような音が聞こえてきた。それから、妻は言う。
『どういうわけか、そのテロとやらの犯人が判明したみたいでさ。それが北ガザ出身の、パレスチナ人の少年だって……』
「犯人が分かってるのか? そりゃ、良いことじゃないか」
『私、その子と七時間前に喋ってた。エルサレムで偶然出会って、なんてことない世間話をしてた』
 その瞬間、町田泰介の頭は静止した。妻の声は左から右に流れ、テレビに映る映像も写真も、目に飛び込んではどこかへと消えていく。
 そして液晶テレビには鮮明な画像で、"テロリスト"と認定された青年の顔写真が掲載された。
「……もしかして、五年前のあの子か? 両親は他界していて、妹と二人、その日暮らしも同然な生活を送ってるっていう、緑色の瞳の、あの」
『あの、ジャーファル。彼が、やったって。でも、きっと言いがかりで、自作自演のはず。イスラエルっていう腐った国がよくやる、常套手段だもの。だって、学校にもろくに通えていない十五歳の子に、そんなことが出来るはずない。たとえ、彼が破格の頭脳を持ってたとしても、でも、そんなわけが……――』
 なんだかニュースを見ていると、気分が悪くなる。とにかく、その、胸くそ悪い。
 そう感じた町田泰介は、リモコンを再び手に取り、テレビを消す。遂に嗚咽を上げて泣きはじめた妻の声と言葉にだけ、意識を集中させた。
『私、知らなかった。ジャーファルが孤独になってしまったってことを。唯一の肉親だった妹も五年前、私がパレスチナを発った直後に、ミサイルで崩れた学校の下敷きになって……』
「…………」
『彼は、随分と幼い頃に父親を亡くしてる。それも彼の父親は濡れ衣を着せられ、裁判を受けることもなく、銃殺された。幼い彼と、赤ん坊を抱いた母親の目の前で。それに母親は彼が八歳の時に、イスラエルの不法入植者によって殺されている。子供たちの前でレイプされた末に、首を絞められて。それで、そのとき、彼は不法入植者を、ナイフで……』
「海。もういい。何も言わなくていい。お前が、イスラエルって国が大嫌いだってことは分かったから。だから、海」
『私は数時間前に、彼と会った。彼と話した。なのに、彼の心を見逃した! もし報道が事実なら、私は、私は……――!』
「海。これだけは、確かだ。お前は何も、悪くない。お前が彼を、悪い方向に変えた訳じゃない。なあ、そうだろ? それに憎しみには、何物も勝てないんだってこと、お前ならよく知ってるだろ? 理性も愛も、憎しみには勝てないんだよ。彼も、きっと……」
 町田泰介の言葉に、電話の向こうの妻は黙り込む。そして暫くの間、沈黙が流れた。そして数十秒後、沈黙が破られる。声を発したのは、妻のほうだった。
『私は今、イスラエルの国際空港に居る。これから、日本に帰る便に乗るから。それじゃ、また』
 ブツッ。そうして通話は、一方的に切断された。町田泰介は、溜め息を溢す。その一方で、彼の膝の上で猫は、うぅ~んと気持ち良さそうな伸びをし、オマケに欠伸までしてみせるのであった。
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