【第十七章 天翔る白き翼】

5 異界と融合せし刻



 新たに昇るのは、明けの明星。明けの明星が齎すのは、万物の夜明け。燃え盛る槍と共に、白き夜明けを齎す。

 そんな言葉の後に、ユインは薄気味悪い笑い声を上げ始めた。始めはほくそ笑むような、ふふっという微笑み。だが今は違う。開き直ったかのような、高らかな笑い声に変わっていた。この世界に生きる全ての生命たちを見下し馬鹿にしているかのような、聞いているだけでゾッとするその音に、ルドウィルは数歩後ろに下がっていた。握る斧槍シュロンダイヌの柄を更に強く握り、槍の先を無意識のうちにユインの背中に向ける。
「どうしたんだよ、ユン姉ちゃん……」
「そうだよ、ルドウィル。それでいいの」
「何がだよ?!」
 それまで背を向けていたユインが、ルドウィルのほうに振り返った。ユインの朱い唇は固く閉じられていて、口角は引き攣り上がっている。そしてまた、ルドウィルは数歩後ろに下がらざるを得なかった。恐怖を感じたのだ。彼女の、その目に。
「……赤い目ソロナ・ライ……!」
 朱い唇と同じくらいに、彼女の瞳は赤く染まっていた。新鮮な血のように赤い目。〈大神術師アル・シャ・ガ〉やフリアのような赤紫の紛い物じゃない。純粋に赤いその瞳。ルドウィルの口から真っ先に飛び出したのは、ソロナ・ライという言葉だった。
  悪魔ソロナライ。それは赤い瞳のことを指している言葉だ。その起源は諸説残されているが、一番有力とされている説は「開国神話の“銀色で紫色の悪魔”の瞳が赤だった」というものだ。
 “銀色で紫色の悪魔”は〈下界シャンライア〉をかつて支配していた古き神が、好戦と不和を司る側面を持つ光の女神《光帝シサカ》により堕とされた姿のことで、時にその古き神は六大女神が一柱の闇の女神《 幻影ノクス》に置き換えて見られることがある。トルカスという遊戯で白い駒をシサカ、黒い駒をノクスと呼び争うのも、それが起源だとされていた。
「……なんなんだよ、わけ分かんねぇよ……!」
 闇の女神《幻影ノクス》が司るもの。
 それこそが宵闇と夜明けであり、性愛であり、万物の死であり、予定調和だ。
 それに“銀色で紫色の悪魔”の別称は「曙の主」。それは夜が明ける頃には輝きを失っていく空の星たちの中でただ一つだけ、陽の光に飲まれることなく強く光り輝き続ける金星、明けの明星を示唆する言葉である。それと同時にオブリルトレの女王は、宵の明星に譬えられていた。文献によっては、女王そのものを宵の明星とするものも存在している。
 そのどちらにも共通するもの。それは、金星という星だ。
 明けの明星も宵の明星も、呼び方が違うだけだ。明け方に見える星が「明けの明星」で、夕方に見えるのが「宵の明星」。星自体は同じもの。
 ならば“銀色で紫色の悪魔”とオブリルトレの女王とはどういう関係があるのか。その違いはなんだ。そんな疑問がルドウィルの中で浮かび、繋がる。そして答えを、ユインが教えた。
「金星は古代アステカでは、あらゆる災いを齎すものだとされていると聞いたことがあった。それもあながち、外れじゃなかったのかもしれない。金星神でもあった古代アステカの破壊神、トラウィスカルパンテクートリは太陽神トナティウに喧嘩を売って負けたから、イツラコリウキという情けない姿に変わってしまった。明けの明星という異名を持つカナン神話のシャヘル神も、太陽神に反逆したから堕とされた。明けの明星と譬えられた、最も美しく光輝く天使ルシファーも、神に叛いたために、天国から地獄に堕ちざるを得なかった。ならきっと、この世界の金星も同じ。彼らと同じく、災いを齎す存在なのだろう。そして極東の地で祀られていた金星の神、天津甕星のように、最後まで平定に抗い、絶対にまつろわぬ」
 “銀色で紫色の悪魔”も《幻影ノクス》もオブリルトレの女王も、同一の存在なのではないのか。
 それはシアル王家の女王が自らを、光の女神《光帝シサカ》であると謳っているのと同じように。「宵の明星」は“死んだ”オブリルトレの女王で、「明けの明星」を“蘇った”オブリルトレの女王とするのなら。
「……栄華を齎す上げ潮は、二度とこの地に訪れることはないだろう。ならば、泡沫の幻想は滅ぼしてくれるまで……」
 暮ノ戦記ラゴン・ラ・ゲルテ 最終章 宵の明星の詩。
 その詩が示す未来の結末が、自ずと見えてくる。
「そんな、そんなのオレは……!!」


 十武神の封印が解かれし刻。
 我は明けの明星と共に、再びこの地へ舞い戻る。
 二羽の烏の鳴き声で、水は溢れ、風は荒び、
 火炎を纏いし死の竜巻が、神の降りた地を汚すことだろう。
 民も王もそこには無くなり、
 ただ獣どもが、始を待つのみになる……――――



「オレは、オレはそんなの嫌だよ、ユン姉ちゃん!」
「ルドウィルくん、離れて!」
 ユインに近寄ろうとしたルドウィルのその腕を、アリアンフロドが掴んで強引に引き止める。やめろ、放せよ! ルドウィルは抗おうとするも、アリアンフロドのほうが強かった。ルドウィルの足下にいたリシュはそそくさとルドウィルの肩まで駆け登り、怯えているような弱々しい鳴き声を上げてみせる。それだけ、今のユインが纏う雰囲気は恐ろしかった。
「……汝、十柱の武神を成すものよ。我は曙を支配する者、明けの明星の化身。明け星の名の下に、汝らに処された封印を解かん。我が声に応えよ、十の剣たち。いにしえに誓いし忠義を今、此処に示せ!」
 ユインはそう大声で語りながら、剣〈獅子レオナディア〉を天に向かって振り上げる。そしてアリアンフロドも叫んだ。
「アルダンの皆さん、剣を今すぐ捨てて下さい! 武神の力に呑み込まれますよ!」
 その場に居たパヴァルとルドウィルを除くアルダンの隊員たち――ディダン、リュン、ベンス、ケリス、ヴィディアの五人――はわけも分からぬままに剣を足元に投げ捨てる。「いきなり何だよスザンくん!」と金切り声をあげるのはリュン。それも当然だった。敵の第一陣はもう少しでこちらに近付いてくると言うのに、アリアンフロドは剣を捨てろと言ったのだから。
 けれども、そんなリュンの金切り声を揉み消すようにユインは大声を上げる。その瞬間、リュンが投げ捨てた〈丘陵ルズベラ〉の二つの硝子の刃が、パリィン……と音を立て割れた。〈聖水カリス〉を除いた他の剣たちも同じように刀身に罅が入り、木っ端微塵に砕けていく。そして砕けた鉄屑の間からは、黒い霧のような影が立ち昇り始めていた。
「汝、砂漠を荒らす竜巻、丘陵を往く者、風神ルズベラよ。巻き起こせ、旋風を」
 〈丘陵ルズベラ〉を成していたものから昇る影は、次第に緑色に染め上げられ、明確な形を形成していった。そうして現れたのは、全身が緑色の人とも鳥ともつかない、恐らく女型の異形だった。
 黄緑色の長い髪は重力に屈することなく逆立っており、人間に似た顔には眉と表情がなく、その額には黄色の宝石らしきものが埋め込まれている。腕らしきものはなく、肩からは鳥の翼が生えていた。また、腰から下の体は見えない。代わりに腰から下には、小さな竜巻が渦を巻いていた。
 その異形――それまで剣に封じられていた風神ルズベラ――は翼を羽ばたかせ天高く舞い上がると、近付いて来ている神国軍の第一陣に向かって突っ込んでいく。そして彼らの上空でくるりと身を翻すのだった。途端、巻き起こったのは巨大な竜巻。それは砂漠の乾いた赤い砂を巻き上げ、また人すらをもあたかも塵であるかのように巻き上げていった。
 砂漠の砂と人を巻き込み徐々に大きくなっていく赤い竜巻は、空を舞う風神ルズベラの後を追うように進んでいく。緑色の翼が赤い竜巻を導いていくその方角には、シアル王家とも旧オブリルトレ王家とも一切関係のない、サイラン自治区が見据えられていた。そっちに行っちゃ駄目だ、とルドウィルは声を上げる。けれども塵も同然であるたかが人如きの声が、遥か彼方の空を飛行するかの神に届いているわけもなかった。
「汝、愚者を騙す仮面、道化を演ずる者、偽神ジェイスクよ。嘯け、迷える獣どもに」
 次に姿を成し始めたのは、〈道化師ジェイスク〉から昇る影だった。黒から薄暗い灰色に変色し始めたそれは、砂の上を滑るように這って進んでいく。霧だった影は、一匹の巨大な蛇へと姿を変えていた。その蛇―― 偽神ジョカルジェイスク――が進んでいく方向からは、ヌアザンが率いるラムレイルグの戦士達、その中でも山犬や山獅子のいる隊が進軍してきている。何をするつもりなんだい、ユン! ユインに近寄りその胸倉を掴み上げたクルスムは、ユインに対してそう怒鳴る。けれどもユインは狂気じみた笑みを浮かべるばかりで、答えはしない。ただ高笑い、そんなクルスムを突き放すだけだった。
 するとラムレイルグの戦士たちが向かってきている方角から、獣たちの咆哮が次々に上がっていく。ありとあらゆる言葉を持たぬ咆哮は入り雑じり、言葉を持つ人々の背は凍りついた。何故ならそこで始まっていたのは、獣同士の戦い。互いの体を強靭で鋭利な爪で引っ掻き合い、互いに巨体同士で衝突し合い、互いの首筋に牙を突き立てていたのだ。その光景を遠く離れた場所で漠然と見つめながら、クルスムはその場で項垂れる。ラムレイルグの宝、大事に育ててきた獣たちは死合っていたのだから。
 それでもなお、ユインの詠唱は終わらない。
「汝、裁きを下す公平な牙、獅子を連れる者、雷神レオナディアよ。落とせ、裁きの雷を」
 それまでずっと握っていた〈獅子レオナディア〉の柄をユインは手放す。その瞬間、〈獅子レオナディア〉の柄から、一体の巨大な光の獅子――雷神レオナディア――が飛び出て行った。
 光は空に舞い上がり、水の都アルヴィヌの方角へと真っ直ぐに飛んで行く。轟雷を落としながら、水平線の彼方に消えていった。
「汝、血に乾いた鎌の刃、三日月を背負う者、冥神ルヌレクタルよ。狩り取れ、愚かなる民の首を」
 〈三日月ルヌレクタル〉の破片から昇る影も、徐々に形を成していく。そして現れたのは紫色のエナン帽で髪を隠し、顔も黒い布で覆い隠した、趣味の悪い紫色のドレスに身を包んだ女性のようにも見える神、冥神ルヌレクタルだった。冥神ルヌレクタルは刃が三日月のように湾曲している大きな鎌を構えると、空を飛んで何処かに向かっていた。その方角は、王都ブルサヌ。嫌な予感しかしない。ベンスは小さくそう呟く。嫌な予感も何も、これから起ころうとしているのはまさしく、ルヌレクタルという死神による魂狩りだった。
「汝、丘を輝かす篝火、革新を齎す者、炎神リボルヴァルッタよ。燃やし尽くせ、全ての生命を」
 〈革新リボルヴァルッタ〉の破片から上っていたのは、影ではなく炎だった。上る炎の火力は強まっていき、傍に立っていたヴィディアは一歩二歩と後ろに下がっていく。そして突然、立ち上ったのは天をも穿つ巨大な火柱。その火柱の頂上に居たのは、全身が炎に包まれた女性のような姿をした神、炎神リボルヴァルッタ。そして炎神リボルヴァルッタは目にも止まらぬ速さで、大気を裂き飛んで行く。向かっていった先はサラネムの山々。もう止めてくれ! クルスムは叫び、ウィクは吠える。けれども全ては手遅れだった。今頃サラネムの山は、火の山と化していることだろうから。
「汝、全ての希望が眠る場所、墓を護る者、刻神カリヴァナよ。冥界へ送れ、全ての魂を」
 大剣〈聖堂カリヴァナ〉の威風堂々たる姿も無様に散り砕け、破片は全て風に吹かれ飛ばされていった。ふと吹かれざまに見えた煌めきは一瞬で消え、それは空に昇り消えていく。その煌きが、一体何を導いていたというのか。それは人には分からず、それを理解し黙って彼らを見送っていたのは神なるアリアンフロドだけだった。
「汝、天上への誘い、不死鳥の加護を受けし者、霊神レイゾルナよ。照らせ、全てを白に」
 そして〈不死鳥レイゾルナ〉の麗しき銀色の刃も遂に砕けた。粉々になった鉄屑の間から湧き立つのは、淡い光。そして光は集まり、大きな鳥の姿に変わる。鷲や鷹にも見えるその光の鳥。それは大きな光の翼を羽ばたかせ天高くに舞い上がり、そして空を光で照らした。どこまでも白い、真っ白な光で。
「汝、広野を飲み込む大波、聖杯を運びし者、水神カリスよ。呑み込め、かの神キミアを」
 唯一砕け散ることなく、そのままの形で残された剣〈聖水カリス〉。一体何が起こるのか、とディダンが目を凝らしてみれば、威嚇をしながら空中を飛び回っていた龍神カリスの様子がおかしいことに気が付く。どうしたんだ、と首を傾げるディダン。その時、パヴァルがカリスの水で構成されていた体を剣〈聖水カリス〉で斬った。水は弾けて飛び散り、龍の姿はどこにも無い。けれども代わりに、なにやら空が暗く翳り始めていた。
 誰もが空を見上げ、そして恐れ慄く。そこには悠然と空に佇む、一体の巨大な青い竜の姿があったからだ。蜥蜴のような体に、蝙蝠のような大きな翼が生え、そして蒼い鱗で覆われたその容貌は、神という種族の名に恥じぬだけの威厳と威圧を周囲に感じさせていた。
 カリスのその姿を見るなり、パヴァルは一人笑顔を浮かべる。久しぶりだな、カリス。そしてカリスも笑う。久しぶりだな、ペルモンド。
 バサッ、バサッとカリスは翼を動かす。冷たい風が吹き、氷の檻の中に囚われているキミアの黒い羽には霜が降りていた。
「汝、無へと向かう引き潮、畏怖で人を従えし者、昏神ケィスよ。穿て、抜け穴を」
 待てェッ!と声を上げるキミア。黙らないか烏めがァッ!と声に声を被せたのはカリス。パヴァルは剣〈聖水カリス〉の刃を砂の上に突き立て、あるだけの水を地底深くから引き摺り上げると、更に氷柱を作り出していった。
 ユインは何かに取り憑かれたような虚ろな目で天を仰ぎ続け、ルドウィルはその光景をただただ見つめ、アリアンフロドは何かに備えるよう準備をし始め、ディダンはシエングランゲラ率いる神国軍の残党がこちらに向かっていることを確認し、〈大神術師アル・シャ・ガ〉は守護結界の完成を急ぎ、シルスウォッドは馬に拍車を掛けると、神国軍の残党を迎撃に単身向かっていく。それ以外の者たちはどうすることもなく、またどうすることも出来ず、ぼうっと突っ立っているばかり。
 そして彼らの頭上、姿を現したのは白い烏。白い烏はキミアを取り囲む檻の上を一周回ると、天高くを目指して翔けていった。
「さあ、還れ。――――……真なる白へ」
 天高く昇っていった白い烏が消えた空の先に、白き大穴が開く。それと同時に竜神カリスが口を開き、再度横に立つパヴァルを横目で見た。パヴァルは無言で頷く。するとカリスは大きな翼を羽ばたかせ、風を巻き起こした。
 それはとても冷たい風だった。風が横を掠めるたびに、肌に氷の槍が突き刺さるかのような痛みが体を芯から震えあがらせていく。その冷たさに、誰もが後ろに引き下がっていった。キミアを取り囲むように聳え立つ氷柱の檻にも罅が刻まれ、そして割れていく。砕けた氷の破片はキミアの黒い羽に降り注ぎ、黒い羽は青白い光を帯び始めた。キキーッ!と悲鳴にも似た鳴き声を上げるキミア。それでもカリスは翼を動かすのを止めない。それどころか前後に動く感覚は早まっていく。キミアの羽は、凍りついていた。
 キミアを氷漬けにしたところで、一体何が起こるというのか。ルドウィルは考える。けれども分かる筈もない。むっと眉を顰めるルドウィル。その肩に乗っていたリシュは何かを感じ取ったかのように毛を逆立たせると、ルドウィルの肩の上から地表へと飛び降りた。
 その瞬間だった。ルドウィルの背中を誰かが押して、突き倒したのは。けれどもルドウィルの体は倒れていない。背をぴんと伸ばし、しゃんと胸を張った姿勢のまま、斧槍シュロンダイヌを携えて立っている。それでも明らかに、おかしかった。体が動かない。意識はあるのに、どうして。そして考えを巡らせ始めるルドウィルの頭の中、アリアンフロドの声が響いた。
――ごめんね、ルドウィルくん。少しだけ、君の体を借りるよ。
 否応も言わせずに、ルドウィルの体は勝手に動いていく。本人の意思とは無関係に。構えられた斧槍シュロンダイヌ。先端の槍は、ユインに向けられていた。
 ユン姉ちゃんに、何をするつもりなんだよ。ルドウィルは音にならない声で、そう言う。けれどもアリアンフロドからの答えはない。そして体は動く。真っ直ぐに振り上げられた斧槍シュロンダイヌからは、燃えない炎が盛り輝く。斧部がユインの白い首筋に垂直になるよう突き立てられ、切り裂いた。
 けれども手ごたえはない。まるで幽霊の体を裂いたかのように、もしくは実体のない斧が体を傷付けることなくすり抜けて行ったように。でもユインは、確かにその場に倒れていた。ぴくりとも動きはせず、呼吸をしているようにも見えない。
 何をしたんだよ、スザン。ルドウィルは怒りに震える。だがアリアンフロドは答えない。その代わりにリシュが、ルドウィルの問いに答えた。魂と肉体を繋ぐ糸を絶った。それが何をしても死ねない不死者を殺す唯一の手であり、それこそがシュロンダイヌが存在する意味だからだ、と。
 それでも倒れ込んだユインの表情に、少なくとも苦悶や驚愕といったものは無かった。例えて言うならそれは安堵。それが望んだ結末であったかのように。そしてキミアは嗤う。ケケケッ、認めてやらぁ俺サマの黒星をヨ。カリスは翼を一際大きく振るって、キミアは一際大きく笑い声を上げて。不快な笑い声が反響し、木霊する。
 チッ、とパヴァルが舌打ちをしたその刹那。キミアの体が粉々に砕け、弾け消散していった。憎いほどに眩く綺麗な青白い燐光を放ちながら、きらきらと輝く粒子の集合体となっていったのだ。
 わけも分からぬまま、誰もが皆その異様な光を見惚れていく。その中で、シルスウォッドは叫んだ。あの光を直視するんじゃない! けれども、既に直視してしまった者たちは頭を抱え込み、悶え苦しんでいた。同じく光を直視してしまっていたルドウィルも、突然襲ってきた激しい頭痛に襲われ身動きが取れずにいる。そんな彼の腕を誰かが強引に掴み引き上げ、立ち上がらせた。
「ルドウィルくん、よく聞いて」
 アリアンフロドの声がする。ルドウィルは光を感じていた。とても冷たくそれでいて熱い、その光を。ルドウィルは両の瞼は閉じていた。それでもあの光は感じている。それが徐々に輝きを増していって、それに自分が近付いて行っていることも感じていた。
「これから君を、別の次元に転移させる。僕はその援護するし、君の傍には彼らが居る。だから、何も考えなくていい。ただ彼らを信用して、体を預けて」
「……別の次元に、転移?」
「そう。これから君はこの穴に潜る。時空に開いた、歪みの大穴にね。ユインさんを通じて、彼女の体のある場所に繋ぐことが出来た。だからそこに、君を送る」
「……」
「いいかい、君がそこに行くことによって運命の全ては新しく書き換えられることになる。君のような例外に対応するためにね。これから銀の糸で紡がれていく新しい世界の物語に、君という存在が必要不可欠になるんだ。だから君には悪いけど、否が応でも飛ばさせてもらうよ。それが、世界の予定調和に繋がるのだから」
 強く引かれるルドウィルの腕。だが瞼はやはり、開けられない。光は更に強くなっているからだ。
「シルスウォッド、あなたは案内を。アバロセレンと体を同じくするあなたであれば、この歪みがどこに通じているのかは分かるはずですから。そしてペルモンド、あなたはカリスと共に歪みを抜けて行って下さい。あとのことは、あなた方に」
「ああ、頼まれた」
「最後に、ペルモンドよ」
「なんだ?」
「私はいずれ、あなたを始末しなければならない。……お覚悟を」
「そうか。なら、また会おう。俺は死神を、いつでも待ってるぜ」
 岩のように硬く大木のように太い腕でぎゅっと絞められたルドウィルの脇腹。その力は強く、とてもルドウィルが敵いそうになかった。なす術もないまま、ルドウィルは青白い光の中を潜り抜けて行く。
 その時、シアルン神国が白く塗り潰された。
 それが果たしてルドウィルが光の中に飛び込んだ所為でそう見えただけなのか、それともシアルン神国自体が白に溶けて行ったのか、それはルドウィルには分からない。分かる瞬間などこの先もずっと、半永久的に訪れることはないのだろう。
 アリアンフロドは黄緑色の目を伏せる。
「……これもまた、創造主の思し召し」
 そして呼び出した銀車輪を、アリアンフロドは掌でくるくると回し始める。そして時は、再び運行を開始した。
「さぁ、そこのお二人さん。お喋りしてないで、行きますよ。――――あなた達にも、使命が与えられているんですからね」





 竜巻は、サイラン自治区を荒らして回った。
 暴れ出した獣たちに、ラムレイルグの戦士達は襲われて全滅した。
 アルヴィヌ領も、突然の雷雨に見舞われ河川が氾濫。何もかもが、濁流に呑まれていった。
 王都ブルサヌも突如姿を現した謎の影により、全ての生あるものが慈悲もなく斬り伏せられていった。大人であろうが子供であろうが、例外なしに。
 そしてサラネムの山々も炎に包みこまれ全てが死に絶えて、《神託ノ地ヴァルチケィア》に残されていた神国軍のシエングランゲラ率いる残党も全てが、シルスウォッドによって切り捨てられた。
 そののち、シアルン神国の長きに続いた歴史は、光に塗りつぶされて消え去っていった。
 でも、全ては一瞬の出来事でもあったんだよね。アリアンフロドはそう微笑む。この世界では確かに、一億二千年という長い年月が流れていた。だが外の世界はその間、ずっと時間が止まっていた。だから全ては一瞬の出来事でしかなかった。けれどもその一瞬の間に、そこに引きずり込まれた神々や人間たちは、偽りの記憶を刷り込まれてしまったのだ。
 真っ先に引きずり込まれたのは、カリスを除く、十武神と呼ばれる上位の神々たちだった。ベイグラン、ルズベラ、ジェイスク、レオナディア、ルヌレクタル、リボルヴァルッタ、カリヴァナ、レイゾルナ、ケィス。けれども彼らは一億二千年の間に、随分と様を変えてしまっていた。
 人々を見下し、生贄さえも時には要求する神であったベイグランは、いつしか人々に従順な調教された獣に変わってしまっていた。
 生き物を傷つけない範囲で砂漠を荒らし遊び回っていた陽気なルズベラも、いつしか感情を捨て去った殺戮兵器と化していた。
 嘘も方便が信条で、嘘によって世に平和を齎していたジェイスクもまた、嘘によって世に不和を齎すことを楽しむようになっていた。
 勇猛果敢で強気を憎み、弱きを助けて偉大なる英雄神と称えられていたレオナディアですらも、いつしか嵐を齎すだけの意思無き怪物になり下がっていた。
 占術により未来を読み、神託と知識を人々に齎す者として崇められていたカリヴァナも、いつしか神託も知識も齎さなくなった。
 不死なる者として生命を見守る役目を持っていた不死鳥レイゾルナも、いつしか生き物たちの前に姿を現すこともなくなった。
 ケィスについては、姿も力も全てキミアに奪われてしまった始末だ。もはやケィスには何も残されておらず、抜け殻だけが白いワタリガラスとして人の魂と融合され、キミアの好き放題に玩ばれてもいた。
 その中でもカリスだけは、十武神の中でも異なっていた。カリスだけは他の十武神と違い、元からシアルン神国に居たのではなく、途中から接触を図っていたのだ。それも他の武神たちのように、行き場をなくして彷徨っていたところをキミアに引き摺りこまれたのではなく、明らかに“何か”をそこに求めて飛び込んで行ったのだ。だからアリアンフロドは、不審に思った。どうしてあの傍若無人なカリスが、わざわざ何かを求めて接触を図ろうとしているのかと。だからアリアンフロドも、シアルン神国に接触を図った。そしてあの時、スザンにされてしまったのだ。キミアという、あの神に。
 アリアンフロドには今まで、ずっと謎だった。カリスがあの時、どうしてああまでも必死だったのかと。けれどもスザンになって、よく分かった。カリスは必要としていたのだ。ペルモンド・バルロッツィという、あの男を。
 スザンからアリアンフロドに戻れた時、アリアンフロドは彼の過去を失礼ながらも覗かせてもらっていた。そうして分かったのだ。どうやら彼は、とてもじゃないが幸せだったとは言い難い男だったらしいと。
 彼の悲惨な境遇に同情したカリスが、神としての力を彼に分け与えたことで彼を救い、それから彼らは運命を共にする関係になったようだ。
 けれども、そんなカリスの行動が全てを狂わせてしまった。一つ一つは小さな歪み。けれども小さな歪みが積もりに積もって、大きな歪みとなってしまったのだ。
 そしてキミアは、そんな二つを切り離すために今回の騒動を企てたのである。ペルモンドを亜空間に閉じ込め、カリスと隔離したのだ。けれども、そんなキミアの計画も失敗に終わった。カリスが亜空間に接触してしまったが為に、全てが台無しとなってしまったのだ。
 キミアの行動は、果たして正しかったのか。それとも間違っていたのか。
 その判別は、アリアンフロドでも出来ないことだった。
 だが、全ては終わった。だから、前を向くしかない。そして今あるもの、新しく変わった未来の運命を受け入れ、目の前の与えられた道を進むしかないのだ。
 全ては予定調和を迎えるため。
 予定調和がどんなものなのか、それにどんな意味があるのか。考えたところで答えは出ないのだろう。けれども創造主がアリアンフロドに与えた役目は、予定調和への導きなのだ。だからアリアンフロドはその役目を果たすだけ。
 そこに理由など、存在していなかった。





 彼女は常に、不安定だった。二つの人格の間で、常に揺れていた。果たして自分は、自由で適当な薬師のメズンに育てられた、自由で適当な天災ユインなのか。それとも病室に閉じ込められ、常に自由に恋い焦がれ、何より自由を憎んだ卑屈な少女ユンなのか。でも答えは出なかった。今も、こうして出ないでいる。でもどちらの人格にも、共通点はあった。なによりも“普通”に憧れていたのだ。
 けれどもう、全ては手遅れだった。目の前の視界は全てが白に包まれていて、そこにただ一人取り残されている。そこで一人、泣いていた。どうしてこうなったの、と。全部自分の所為だ。彼女はまた、自分を恨む。自分を責める。延々と、その繰り返し。救えない、負の連鎖は断ち切られないまま、永遠に続いていく。今までも、これからも。
 けれどもそんな彼女の後ろから、足音が近付いてきた。そんなことはない、君は何も悪くない。悪かったのは全部、神さまだ。そして足音の主は、彼女の肩にそっと細い手指を乗せる。柔らかな長い金色の髪を揺らしながら、心からの優しい頬笑みを湛えて。長い脚を曲げて膝をつき、彼女の横に座る。そして彼女の白い髪を、そっと撫でるのだった。
「……ただ“普通”でいたかった、幸せになりたかっただけなのに。それを望むことって、悪いことだったのかな……」
 彼女はもっと泣いた。
 彼女はただ、普通であることを望んでいた。幸せになることを望んでいた。それは誰もが当たり前に持っている願望だった。
 五体満足で、健康な“普通”の体でありたい、恵まれた“普通”の生活水準の中で暮らしたい、“普通”に学校に通いたい、“普通”に食事を食べたい、“普通”に夢を見たい、“普通”に恋をしたい、“普通”に結婚をしたい、“普通”に子供に恵まれたい、“普通”に生きて、“普通”に死んでいきたい。
 そんな普通が幸せなんだと、純粋に信じていた。そうなりたいと望んでいた。
 でも彼女にとってそれは、空の月を掴むように決して叶わぬ望みだった。
「普通と幸せの定義にも依るだろうね。僕には何が普通で、何が幸せなのかも、もうよく分からないけど」
 彼女の横に座る金髪の彼、または彼女にとっても、普通は普通でなく、普通の幸せは得られることはなかった。そして自分自身すらも、分からなくなっていた。自分が本当は誰なのか。そんなことすら、自分で分からないのだ。
「……」
 そんな憐れともいえる彼女らの魂を、アリアンフロドは遠巻きにただ見つめていた。
 ユン。彼女はとても薄幸な少女だった。生まれながらに奇病に侵され、自我が崩壊していく恐怖に怯えながら、薄暗闇の中で日々を潰していたのだから。卑屈になってしまったのも、仕方がないといえば仕方がなかった。でも彼女が卑屈であるからこそ、不幸の環(わ)が終わらなかったのもまた事実だった。
 ユイン。彼女もまた、哀れな女性だった。武神ノ邪眼を持っていたというだけで、彼女は人々から疎まれて嫌われていた。女であるというだけで、彼女は男たちの性の捌け口にされ、暴力も振るわれ、服従せざるを得なくなって、自由を奪われ支配されていた。子供のころから、ずっと。だから全て、何か悪いことが起これば原因は自分にあるのだと信じて疑わなかった。どこまでも救いようのない、哀れな女性だったのだ。
 そしてレイリア、もしくはリスタ、リストリアンスと呼ばれていた彼または彼女もまた、可哀想な人物だった。彼女自身は、どこまでも無垢だった。それなのに彼女は自分でも知らないうちに、自分というものを嘘で塗りたくられ固められ、いつの間にかに穢されていたのだ。
 それはまた、彼女にしつこく憑き纏っていた強い影、怨霊となった魂を見れば分かることだった。
 スザンには、彼女に付き纏うその影の正体が分からなかった。あまりにも強烈で、それなのに純粋すぎるあの怨恨。スザンは始め、あれはファルロンという男の怨念だと思っていた。でも、違ったのだ。それはアリアンフロドに戻り、彼女の過去を覗いた時に分かったことだった。
 その怨念は、生まれることを許されなかった上に、体をずたずたに裂かれた水子の魂だった。時折彼女が激しい頭痛を訴え、酷い時は嘔吐し、体を引き裂かれるような痛みに襲われ悶え苦しんでいたのも、全てはその水子の仕業だった。
 その水子は、彼女に対してずっと怒っていたのだ。どうして自分を産んでくれなかったのか、どうして自分の体を引き裂いたのか、どうして自分に気付いてくれないのか、と。
 でも、仕方がないことだった。彼女は何も、知らなかったのだから。自分が知らぬ間に命を孕んでいたことも、自分が知らぬ間にその命を奪われていたことも、その命の存在すらも何も知らなかったのだから。だが、それが同じく無知なる水子に通るわけもない。だからこうして今も、魂だけの存在となった彼女の影となって、離れることなく纏わりついているのだ。そして今も、彼女に気付かれていない。
 とても可哀想な二つの魂。だがアリアンフロドにはどうすることも出来ない。アリアンフロドの務めのうちに、魂の浄化というものは入っていないのだから。
「さぁ、そこのお二人さん。お喋りしてないで、行きますよ。――――あなた達にも、使命が与えられているんですからね」
 アリアンフロドの声に反応し、アリアンフロドの姿を探すように辺りを見渡し始める三つの魂。彼女らに近づいたアリアンフロドはそっとその背を押すと、まだ閉じてはいない時空の歪みの中へと、その魂を落とす。そして自分も、その中に入っていった。





 突如研究室に鳴り響いた、警戒態勢を示唆するサイレン。無数に並んだモニターにそれぞれ開かれたウィンドウには、毒々しい赤字で「WARNING!!」という文字が映し出される。それまでずっと、これら無数のモニターを監視するように見つめ続けていた科学者ユラン・レーゼは、突然の事態に驚ろきを隠せなかった。
「……なによ、これ。どうしたのよ……!」
 システムにバクでも起こったのだろうか。いや、でも私とウェインスが共同で作り上げたもの。完璧なはずだけれど……。でも、実験には想定外の出来事も付きものよね。そう思ったユラン・レーゼは、キーボードに指を伸ばす。だが、それをさせまいとでも言わんばかりに突然、キーボードのキーの小さな隙間からは高温の蒸気が噴き上がってきた。熱い。ユラン・レーゼは反射的にその手を引っ込める。
「ちくしょっ……なんなのよ、一体!!」
 彼女は舌打ちをしながら、研究室の隅の方を見やる。そこには特殊な脳波の発生を脳に直接促す装置に繋がれた、人型の人工生命体の姿があった。それに繋げられた装置からもまた、蒸気がもくもくと上がっている。
 故障でもしたのだろうか。太陽フレア、それか電磁パルスだろうか。でも、それ以外のコンピューターに故障は見られない。不気味でいて不可解な現象が今、彼女の目の前で起こっていた。
「……」
 ユラン・レーゼは一度、深呼吸をする。落ち着いたところで一つのモニターを睨み据えると、蒸気を発していないキーボードを乱暴に自分のもとへと引き寄せた。
 ユラン・レーゼはキーを指の腹で叩くように打ち、思いついた限りの強制終了のコードをコンピュータへと送りつけていく。だが、どういうわけか増えていくのはエラーを告げるウィンドウばかり。コンピュータはシャットダウンをしようとしなかった。
「何が、起こっているっていうの……?」
 ユラン・レーゼは堪らずキーボードを床に投げ捨てる。その時だった。エラーウィンドウの中に表示された、エラーログでない文章。連続した二つのそれが、純番に表示されたのは。

『I just came back!! We'll show you.』
  “俺は戻ったぞ!
   今すぐそっちに行ってやる、せいぜい首を洗って待ってやがれ“

『PS : You're stupid dirty bitch!』
   “追伸 : アバズレの能無しクソ女!”

「……まさか、そんな!」
 こんな汚い言葉を使う人間など、ユラン・レーゼが知る中では一人しかいなかった。
 ペルモンド・バルロッツィ高位技士官僚。
 明晰な頭脳と浮世離れした突飛な発想力を持ち合わせている、人類史上最も輝かしい数多くの功績を上げたと持て囃される天才の男だ。だが彼は、その功績に相応しくない振る舞いばかりをするのだ。
 汚らしい言葉をわざと扱い、敢えて人を馬鹿にして笑う。そして後進を育て上げることにしか興味がない、頭のおかしな技士だった。そのうえ彼は家庭を持ち、生活の安定と安寧の安らぎだけを求め始め、研究のペースを落とし、それどころか人類の更なる展望に関わる大きな実験の妨害すらもし始めたのだ。
 だからユラン・レーゼは、かの天才の頭脳を救った。天才からまず妻を奪い、それから娘を人質にとって研究に励ませた。それがオウェイン実験。アバロセレンを用いて、クローンとはまた違う、人工生命体というものを作り出そうという技術の開発実験のことだ。
 そしてオウェイン実験は天才の頭脳によって、十年という歳月を経て完成してみせた。それがU-1、U-2と呼ばれた二つの個体だ。けれどもその天才は、あろうことか実験の賜物を外部に逃したのだ。直属の部下であるテレーザ・エルトルに命令して。だからユラン・レーゼは処分した。天才と呼ばれた男ペルモンド・バルロッツィを、そして部下のテレーザ・エルトルもまとめて。
 その後、何年掛かったことだろう。逃げ出した二つの個体を探し出すのに。けれども意外なことに、その個体はすぐ近くに存在していた。ユラン・レーゼの同僚の男が隠していたのだ。
 その男の名はレーニン・エルトル。テレーザ・エルトルの弟であり、ペルモンド・バルロッツィの義理の息子である男だ。そしてユラン・レーゼはレーニン・エルトルを処分し、同時に二つの個体を手に入れた。そうして彼女の夢はようやく叶ったのだ。

 それなのに、あの天才が戻ってきてしまった。
 処分したはずなのに、どうして。

「よぉ、ユラン・レーゼ。さっきぶりか、それともン十年ぶりか? 俺の時間はイカれてる所為で、今がいつで今日が何年何月何曜日なのかすら分かりゃぁしねぇもんでな」
 背後から聞こえた、聞き覚えのある男の声。
「……そんな、あなたは死んだはず……!」
 振り返ったユラン・レーゼは、背後にいつの間にか立っていた男を見る。そしてずれた眼鏡を、掛け直した。
 乱れたダークブラウンの髪。黒ぶち眼鏡の下から覗く、虚ろな空色の瞳。鷲鼻、不精髭、黒のタートルネックシャツ、脛まである丈の長い白衣、灰色のスラックス、白の皮靴。にやりと人を馬鹿にしているかのように歪む口元はあの天才、ペルモンド・バルロッツィその人に間違いなかった。
「悪いが俺は、とある神サマとの契約で当面は死ねない体になったもんでな。というわけで、お前が大事に育てたシャングリラ計画は、大失敗に終わったってことだ。残念だったな、ユラン・レーゼ」
 ペルモンド・バルロッツィはそう言いながら、白い革靴の尖った妻先で、巨大なコンピューターの本体を蹴る。ガンッ!と衝撃音が鳴ったと思ったその瞬間、機械は一瞬で形を失くし、水になって床を濡らした。モニターの電源が全て落ち、警報音は止み、悲鳴が上がる。悲鳴の主は、コンピューターが強制終了されたが為に意識を取り戻した、人型の人工生命体だった。
 人工生命体は劈くような悲鳴を上げながら、自分に繋がれた管の全てを体から闇雲に引き抜こうとした。無論、無理に引き抜けばそれだけ痛みは増し、体も傷つく。管を引き抜いた痕からは、痛々しく血が滲み出ていた。
「何をしたのよ!!」
 ユラン・レーゼは取り乱し、怒鳴り立てる。私の世界が壊れて行く、私の世界が壊されていく。落ち着いていられるわけがなかった。彼女にとってそれは、自分の人格を踏みにじられることよりも辛いことだったからだ。研究の成果を、こんなにも簡単に破壊されるということは。
 けれどもペルモンド・バルロッツィは、あくまで笑いながら言った。
「この機械に使われている全てのパーツ、それらを構成する原子を強制的に捻じ曲げて作り替え、水に変換した。これでお前の成し遂げたもの全てが水の泡ってわけだ。水だけにな」
「原子を作りかえるだなんて、そんなふざけたことが人に出来るとでもいうの?!」
「出来るさ、俺には。俺は人であり、神であるからな。だから神の名において、お前を消す。悪く思うな、全ては竜神さまの思し召しだ」
 ペルモンド・バルロッツィは、ユラン・レーゼの頭をわしっと掴む。その手には強く力が込められていて、それはまるで彼女の頭蓋骨を握りつぶそうとでもしているかのようだった。
「安心しろ、俺は魂とやらも食らって消してやる。天国も地獄も来世にも、どこにもお前を逝かせはしない。なぜならお前は排除すべき災いの種だからだ。跡形もなく無に帰してやる、欠片も残さずな」
「やめなさっ……――――!」
 一際大きい水の塊が床に落ち、ばしゃんと跳ね返った。ペルモンド・バルロッツィの足元を水が濡らす。そこにユラン・レーゼの姿は無い。彼女は水の泡となり消えたのだ。
「ユイン。お前は俺について来い。いつかリスタは蘇らせてやる。約束しよう、それだけは。だから、今は落ち着くんだ」
 水を踏みながら、ペルモンド・バルロッツィは悲鳴を上げる人工生命体に歩み寄る。シアル語。そんな言語で話しかけながら。すると人工生命体の動きが止まる。血走った赤い目は、どこかを彷徨っていた。
「パヴァル?」
「そうだ。俺はパヴァルだ」
「どこに居るの、パヴァル? 何も見えない。何が起きてるの?」
 ペルモンド・バルロッツィは人工生命体――かつては「ユン」と呼ばれた少女――の傍に寄ると、彼女の体に繋がれた管を一つ一つ丁寧に取り外してく。出来るだけ傷が残らず、痛みがないように。そして彼女を起き上がらせると、自分が纏っていた白衣をその肩に掛けて、ボタンを閉め、抱きあげた。
 白衣を着せたのは彼女は衣服らしい衣服を着ていなかったからで、抱きあげたのは一人で立って歩くということが困難そうに見受けられたからだ。目が見えない。彼女はそう言っていた。だが、とにかくこれを連れてこの場から立ち去らなければならなかったのだ。
 そして、忘れてはならない少年も居た。
「来い、ルドウィル」
 ペルモンド・バルロッツィがそう大声をあげた瞬間、部屋は一瞬にして炎に包まれる。だがその炎には質量という概念が存在しないのか、温度がなかった。
 そんな炎の中心部、そこには蹲るルドウィルの姿があった。
「立て、ルドウィル! 早くしろ!!」
 だがルドウィルは、一切反応を見せなかった。ペルモンド・バルロッツィは繰り返し彼の名を呼ぶが、ルドウィルはうんともすんとも言わず、蹲ったままだった。そして燃え盛る炎に火災報知機が反応し、火災を告げるサイレンが鳴る。スプリンクラーの雨が降り始めていた。
「クソッ、諦めるしかないのか……!」
 非常用のドアを蹴破り、少女を抱えたペルモンド・バルロッツィは、ユラン・レーゼの研究室から走り去っていく。そして彼と入れ違いでやってきたのは、白衣姿の初老の男だった。
「……大変だ、火の中に少年が居るじゃないか!」
 徐々に衰えを見せ鎮んでいく火の中に、初老の男は飛び込んでいく。
 彼の名は、カイザー・ブルーメ。
 彼との運命的な出会いが、その後のルドウィルの人生を大きく狂わせることになるのだが、まだ意識がはっきりとしないルドウィルには分かるはずもなかった。