【第十七章 天翔る白き翼】

4 白百合は嘘に彩られ


 担架を担いだクルスムは、ウィクと共にダグゼンの小屋へと向かう。イェガンに一つ、頼まれごとをされたのだ。リスタを丁重に葬ってやってはくれないか、と。
 そして小屋に着くなり、ウィクは不穏なことを言い出した。
「……なぁ、クルスム。俺ァずっと変に感じてたんだがよ」
「変って、何がだ?」
「リスタだ」
 のそのそと歩くウィクは、黒い布を顔に掛けられたリスタの骸に近付いて行く。そして大きな鼻面をスンスンと動かしながら、リスタの周囲の匂いを嗅ぎだした。そうして頭から足まで一周し終えると、ウィクはクルスムのほうに向き直り、首を傾げてみせるのだ。
「どうにもリスタからは、臭いがしねぇんだ」
「……臭いが、しない?」
「ああ。って言っても、無臭ってワケじゃぁねぇ。なんて言うんだ、その……男の臭いってヤツがしねぇんだ」
「そういう体質だったんじゃないのか、リスタは」
 人間は、というよりも人間に限らず、生き物には臭いというものが必ずあるものだ。意識せずとも、自然と体から出る生理現象である。また、オスかメスかで臭いは変わってくる。それはクルスムも知っていることだ。
 けれども、臭いには個体差というものがある。強い個体もいれば、弱い個体もいることだろう。だから別に、不思議なことではない。クルスムはそう考えていた。単にリスタは、臭いとやらが弱い体質だったんじゃないのか、と。
 だがウィクはどうやら違うらしく、そうじゃねぇよと言いたげな目でクルスムを見ていた。
「人間の嗅覚じゃ嗅ぎとれないだろうが、獣の鋭い嗅覚にゃ分かンだよ。リスタの臭いは男じゃねぇ、女だ。さっき水龍が血を拭う時に洗っちまった関係で今は臭いが薄いが、これは人間の男の汗臭くて酸っぱい嫌な臭いじゃねぇよ。女の、少し甘い臭いだ」
「どういうことだ、そりゃ」
 まさか、そんな、あるわけがない。だって、リスタは男なはずだ。そうじゃなけりゃ、男好きのユンが近寄るわけがない。クルスムはそう思いながらも、リスタの亡骸に近付いて行った。
「……まさか、とは思いたくはねぇが……」
 思えばクルスムは、リスタの体など見たことがない。クルスムには男と夜を共にするような趣味も無いし、かといって他人の風呂を覗くとか一緒に入るなどということをすることもない。それに同性であり昔からよく知っているラズミラやユインならまだしも、異性でありガキの頃からの付き合いというわけではないリスタとなど、絶対にありえなかった。
 そう。考えてみればクルスムの頭には、リスタは男だという情報しかなく、実際に目で見て確かめたという覚えはないのだ。
 そして色々と思い出してみれば、不自然な点は意外と上がってくるものだ。
 リスタが髭を剃っているところなど、見かけたことが一度でもあっただろうか。いや、そもそも剃り跡もなければ髭が生えているような感じもしなかった。髭など、彼にはあったのだろうか。
 それに、よくリスタを“女顔”とからかっていたが、女性的なのは顔だけでは無かったような気もする。性格は勿論だし、体もそんな気がしていた。パヴァルやベンス、ラントやファルロンといったアルダンの男たちの腕といえば、岩のように固く、木の幹のように太くて如何にも頑丈で屈強そうだったというのに、リスタは他隊員たちと比べれば、細かったものだ。そこそこに鍛えている女性の腕、と言われても不思議でない。
 そして服の上から見える体の線も、細かった。脚も、思えば男らしい筋肉の付き方ではなかった気がする。
 あとリスタといえば、痔によく悩まされていたような気がする。月に一度くらい、いぼ痔で血が出るなどと言っていただろうか。もしかすると、あれは痔などではなかったのかもしれない。周期からして、月経であった可能性もある。
 とすれば、やはり。クルスムがムッと眉根を顰める。するとウィクはリスタの服に顔を突っ込んだ。ウィクは服の裾を鼻面で器用に捲りあげ、臍を出させる。綺麗な腹だな、とクルスムが呟いたとき、小屋の中に冷たい風が吹き込んだ。
 クルスムが振り返ってみればそこには、斧槍シュロンダイヌと子狐リシュを抱えたユインが立っていた。
「……それ以上は、やめて。リスタの尊厳に、関わるから」
 小屋の中に入ってきたユインはリスタに近付くと、ウィクが捲りあげた服を正した。ユインの腕の中から降りたリシュはウィクの横に並ぶと、ぶるぶるっと小さな体を震わせる。九本生えている尻尾に燈る火の勢いが、少しだけ強くなった。
「尊厳というと、やっぱりリスタは」
 男じゃなかった、ってことなのかい。
 そう言おうとしたクルスムだったが、その瞬間ユインに睨まれた。とても鋭く、きつい眼差しで。
 今まで一度たりとも、こんな目をしたユインをクルスムは見たことが無かった。それにユインに睨まれたことは、一度もなかった。だからこそ、舌先まで出かけた言葉は喉元に引っ込む。クルスムはユインから視線を少し逸らすと、すまない、とだけ一言謝った。
 するとユインは、喋り出した。途切れ途切れで片言でさえもある、辿々しい口調で。
「……リスタは何も知らなかった」
「知らなかった?」
「昔からリスタは、男として育てられてきた。だから自分を、そうだと思い込んでた。生まれてからずっと、親にも周りの人間からもそう言われ続けていた。教え込まれていた。だから、自分を疑うはずもなかった。それでいて、他の男の人の体なんか見たこと無かったから、気付けるはずもなかった。男という性別に違和感は感じてるとは言ってたけど、だからって自分の性別がそもそも違ってただなんて、考えるわけもなかった。だから、仕方無かった。知らないほうがいいことも、きっとあるから」
「そんな」
「イゼルナさまの紋章は後天的なものだけど、リスタには生まれつき、肩に聖光ノ紋章が出てた。本家のシェリアラさまよりもずっと濃くてハッキリした紋章が、第二分家の子に出てしまった」
「……」
「その真実がばれてしまえば、当時の《光帝シサカ》シェリラに生まれたばかりの子の命を取られかねない。だからそれを隠すためにリスタの両親、ラルグドレンス卿とシェルティナ夫人は、全てを完璧に偽った。名前だって、本当は白百合を意味する女性名のレイリアなのに、本人には光輝く者って意味の男性名リストリアンスだって教え込んだ。男の子として育てあげれば、《光帝シサカ》になることは先ずあり得ない。だから周囲の人間全てを、そしてリスタをも完璧に騙したんだ。こうして、最期まで」
「アンタ、リスタに教えてやらなかったんだね。知っていながらも、分かっていながらも、嘘を塗りたくり続けた」
 俯くユインは、黙って頷く。
「……それがリスタのためだって、パヴァルに口止めされてたから。それにラントもディダンもエレイヌも、全部知ってた。それでも黙ってた。だから」
「リスタのため、か」
 あまりにも残酷すぎる真実だった。塗り重ねられた嘘が、いつの間にか真実にすり変わっていたのだ。
 性別を、名前を偽らなければ産まれてくることも許されず、そして一度は死ななければ生き延びることも出来なかっただなんて。非情過ぎる世界だ、とクルスムは思う。シアル王家という一族も、この世界の仕組み自体も。
 なんて、憐れなんだろう。生まれながらに、こんなにも不条理な運命を背負わされて。ただ純粋で、少し間抜けなだけだったのに。どうしてそんなにも大きな業を、課せられてしまったのだろうか。
「……一つの真実で突けば簡単に壊れてしまう、嘘で塗り固められた 脆もろい“リスタ”を、“リスタ”のままで守りたかった。壊れてしまったら最後、“リスタ”には二度と戻れないから。でも、それなのに、守られてたのは結局」
「そうだね。リスタはアンタを守っていたばかりに、こうして死んだ。けど悪いのは、アンタじゃない。恨むならファルロン・セスを恨め。アイツが、殺したんだ」
 それも全て、神とやらが裁量を定めているのだろうか。
 もしそうであるのなら、そんな神がどれだけ憎いことか。
 人々が祀り、崇め、敬うその存在。けれども人々に対して、それはどれだけの恵みを齎しているというのだろうか。
 神話の世界でも、女神が齎すのは常に災厄ばかりだ。人々が起こした小さなことで、女神たちはすぐに怒った。そして〈下界シャンライア〉に災厄を齎す。《業火シレイヌ》は火山を噴火させては大地に息づく全ての生命を焼き尽くし、《霊水ヴィテナ》は大雨を降らせては川を氾濫させて全てを呑み込み、《息吹アニェン》は旋風を巻き起こしては大地を削り取り建物の全てを破壊し、雷を落としてはその光で目を潰した。主神《秩序ウカル》に至っては、世界そのものを破壊し創りなおす始末。
 そんなものを、信仰しろと言われてできるものだろうか。少なくともクルスムには、出来なかった。だから彼女は、神を信じていなかった。今までも、これからも。その思いに変わりはない。
「……すまない、ユン。やっぱりアタシにゃ、やらなきゃならねぇことがある。イェガンに、手伝えないと伝えておいちゃくれねぇか」
 リスタをこんな目に遭わせた神が実際に存在しているのだとすれば。
 そうだとしたところで、彼女のやることはたった一つしかない。
「ウィク。やっぱり水龍さんの手助けに行くよ」
「合点承知。俺もあのクソ烏を最後に八つ裂きにしてやりてぇところだ」
 その神とやらを、ぶっ潰す。ただ、それだけのこと。
 そしてクルスムはウィクに手早く鞍を装着すると、その上に跨る。ウィクの毛並みは興奮からか逆立ち始め、それを見ていたリシュの毛並みもぶわっと逆立った。
 行くぜ、とウィクは猛々しい吠え声を上げ、身を屈めた。鞍を握るクルスムの手には力が籠る。そしてウィクは走り出した。光の矢が空を駆け抜けていくように、目にも止まらぬ速さで。後には強い風だけが吹き抜けて行った。
「そんじゃ、女王。俺たちもそろそろ行くか、ウィルのもとに」
 ブルブルッと身を震わせたリシュは、子狐だった姿を成体に変化させる。ウィクと同じ大きさくらいになったリシュは黄色い瞳で、ユインが握る斧槍シュロンダイヌを見つめた。ユインは頷くが、ちょっと待って。そうも言った。
「なんだよ、女王」
「その前に、片付けたいことがある」
 斧槍を構えた彼女の何もない目に、一瞬だけ浮かんだ感情。リシュはそれを読み取ったが、敢えて止めはしなかった。ただ一言、手早く済ませろとだけを言って。
「分かってる。すぐに、終わるから」
 その後、彼女が斧槍シュロンダイヌで貫いたもの。それはかつての友人であり、今では何にも代えられない大切な人の仇である、とある男の左胸。とはいえ心ノ臓ではなく、肺だった。
 リシュは問う、心ノ臓でなくて良かったのかと。だが彼女は答えた、心ノ臓よりも肺のほうがより長い時間苦しんでから死ぬから、と。
「シュロンダイヌで心ノ臓を突かれた人間の魂は、永遠に救われぬ火山の火の中に落とされると言われてるんだがな。そっちのほうが良かったんじゃないのか?」
「……肺を突けば、永遠に地の底に囚われて魂は一切動けなくなる。だから」
「よく知ってんなぁ、流石は女王だ。……つーか、それよりも恐ろしいな。フリアよりも、よっぽど怖いじゃないか」
「だから、なに」
「と、取り敢えず、早くウィルのもとに向かおう。……な?」





 ルドウィルは既に、《神託ノ地ヴァルチケィア》の臍に到達していた。
「何がなんだか分かんねぇっつってンだろ! イチから説明しろよ、オッサン!」
「そのようなことをしている余裕はない。今は黙っていろ、ルドウィル」
 そこには何故か、龍神カリスと共に珍しく眼帯をしていないパヴァルが居た。眼帯によって普段は隠されていた、龍神カリスと全く同じ爬虫類のようなパヴァルの右目が、今日だけは恥ずかしげもなく日の目を見ている。そして姿を消していたスザン、否、大神アリアンフロドもパヴァルの横に居る。〈大神術師アル・シャ・ガ〉の横に常に居た、メクという大きな黒い鳥の姿もある。
 そんな異様な空間には、異様な緊張感だけが満ちていた。
 灼熱の砂漠の中には、氷の柱が幾柱も立っている。それはまるで檻のようでもあって、メクを取り囲むように聳え立っていた。中に閉じ込められたメクは疎ましげにパヴァルやカリスを睨みつけていて、またパヴァルとカリスも中に閉じ込められているメクを忌々しげに睨んでいる。アリアンフロドもメクに対して、蔑むような眼差しを送り付けていた。
「なんで、どうして鳥なんかを閉じ込めてんのさ。可哀想だろ?」
 ルドウィルには、さっぱり理解出来なかった。何故ただの鳥を、この人たちは檻の中に閉じ込めているのかと。そんなルドウィルの言葉に、中に閉じ込められていたメクはウンウンと頷く。坊主、分かってンじゃねぇかェ。出してくれよォ、オイちん可哀想だろ? ルドウィルに対しそう囁くメクだが、それをアリアンフロドは遮った。
「ルドウィルくん、キミアの話に耳を傾けては駄目だ。キミアの言葉は悪魔の囁きも同然。さっき僕がした話を思い出してくれ」
「でも、本当にメクが」
「コイツがクソ神キミアだ。だからお前はアリアンフロドの言葉だけに耳を傾けろ、いいな」
 どこか焦りに満ちた声でそう言ったのはパヴァル。何か一点に集中しているのだろうか、彼の表情はルドウィルが今までに一度も見たこと無いほど険しいものに変わっていた。龍神カリスは宙を漂いながら、メク、否、キミアを取り囲む檻の周りを泳ぎ回っている。そしてまた地中から、氷の柱が砂を割いて空を穿つように飛び出てきた。
 キミアを取り囲む檻の隙間は徐々に狭くなっていき、檻の周囲の気温も低くなってきている。寒っ、と身震いをするルドウィル。生憎ルドウィルが着てきた藍晶の羽織は春や秋先に着る薄手のもので、冬に着る厚手のものではない。砂漠なのにどうしてこんなに寒いんだよ、とルドウィルは悪態を吐く。その横でパヴァルは独り言のように、何かを呟き始めた。
「……メクの綴りはMech、アナグラムになっていたのか。置き換えればChem、ケミストリーの略語だ。それに……何故今まで気付かなかったんだ、俺は」
「アナグラム? ケミストリー? なんだよ、それ。聞いたこともねぇよ、オッサン」
「いや、気にするな。異国の言葉だ、お前に理解出来る筈もない」
「教えてくれないのかよ」
「そんな暇もない」
「クソジジィ」
「……」
 みるみるうちに大気は冷えて行き、氷柱はキミアを取り囲むように地中から次々と姿を現していく。冷える体。けれどもパヴァルやアリアンフロドはこの冷気を感じていないのか、ビクともしていない。
 けれどもそんな冷たい空気を掻き消すように、ある熱い雄叫びが聞こえてきた。砂の大地を揺らし、連なる氷柱の間を轟き揺らすその雄叫びは、猛烈な光と共にルドウィルらに近付いてくる。クルスムだ。ルドウィルがそう気付いた時、既に彼女とウィクはルドウィルの目の前に立っていた。
 そして続いて、別方向から馬がやってくる。黒い毛並みの、大きな馬だった。見覚えがある、と目を凝らしたルドウィルはハッと気付く。あれはパヴァルの愛馬、暴れ馬ソルドだと。けれども乗っているのはパヴァルじゃない。だってパヴァルはここに居る。なら、あの暴れ馬を乗りこなしているのは誰だ。更にルドウィルは目を凝らす。見覚えがあるような気がする枯草色の長い髪。まさか、あの馬鹿は。そう呟いたのはパヴァル。馬鹿はどちらだ、ペルモンド! そんな怒号が、聞こえて来ていた。
「……シルスウォッド卿?!」
「シルス、シエングランゲラはどうしたんだ!」
「罅は入れた、これから砕く」
「これから……ってことはお前、失敗したのか?!」
「いいや、プランをAからBに変更しただけのこと。どちらにせよ、凶暴化した敵はこちらに来てくれるのだからな。返し討ちあるのみだ」
「それは要するに、失敗したということだよな?」
 ギリリッと馬上のシルスウォッドを睨むパヴァル。別の不穏な空気がその場に停滞しようとしかけたその時、「あーっ!」とクルスムとウィクが声を荒らげ捲し立て始めた。
「プランエーやらビーやらがなんだかは知らねぇが、今の状況を見てくれよ水龍さん! 聞こえるか、あの雄叫びが。これから凶暴化した大群が押し寄せてくるってのに、ここには守りに回る戦力が足りてない、そうだろ?!」
「だから俺たちゃここに来たんだよ! これからクソ烏を葬ってくれるこの氷の檻に、少しでも神国軍を近付けさせねぇためにな! シルス卿、オメェも同じなンだろ?!」
「ああ、そうだ」
 ウィクの言葉に、シルスウォッドは頷く。そして彼は来た道を振り返った。また、馬が来る。それも三頭もだ。先頭を走る馬には〈大神術師アル・シャ・ガ〉が乗っていて、それに続く小ぶりな黒馬にはディダンとリュン、ベンスの三人、そして最後尾を走る馬にはヴィディアとケリスの二人が跨っている。更に逆方向、クルスムが来た方角からは成体の姿になったリシュと共に砂漠を馬に乗って走るユインの姿も見えていた。彼女の背には、斧槍シュロンダイヌが背負われている。
「作戦は単純だ。ペルモンド、お前はそこの烏にだけ集中していればそれでいい。お前が烏と格闘している間、〈大神術師アル・シャ・ガ〉には守護結界を張らせる。そして近付いてくる雑魚どもやシエングランゲラらは私たちで払う。それでいいな」
 シルスウォッドは携えていた細剣を抜き、パヴァルを馬上から見下ろす。
「ああ、それでいい」
 パヴァルは頷き、そして剣〈聖水カリス〉を構える。クルスムもブリュンナルカを構え、ウィクは闘志に満ちた咆哮を上げる。その間にも〈大神術師アル・シャ・ガ〉らも到着し、それぞれが各々の持ち場に各自の判断でつく。ルドウィルも同じく開いている場所に向かおうとする。けれどもそんな彼を、ユインとリシュが引き留めた。
「ルドウィル、待って」
「おい、ウィル。お前の持つべき武器と待機しているべき場所が違ってるぞ」
 ぶるっと大きな体で身震いをしたリシュは、また小さな子狐の姿に戻る。そしてスタスタとルドウィルの足下に近寄ると、何食わぬ顔でルドウィルの横に座る。どうしたんだよ、リシュ。首を傾げるルドウィル。そんな彼の前にユインより差し出されたのは、一本の大きな斧槍。彼の母親が怒ると偶に出していた斧槍シュロンダイヌ。更にルドウィルは首を傾げた。
「ユン姉ちゃん? これって、母さんの」
「違うぞ、ウィル」
 ユインはルドウィルの手を取ると、斧槍シュロンダイヌの柄を無理矢理彼の手の中に捻じ込み握らせる。大きさの割には、それに見合った質量を感じさせないその斧槍。そして何より奇妙だったのは、ルドウィル自身は初めて持つはずなのに妙に手にしっくりとくる感覚だった。
 母が持つときはいつも扱い辛そうにしていたのに、オレはどうして。疑問の雨は止まない。けれども打ち付けるその雨に、リシュが終わりを告げた。
「ウィル。本来であればお前が〈炎ノ聖獣使いシラン・サーガ・レイ〉になるはずだったんだよ」
「リシュ?」
「お前の魂に宿る炎のほうが、フリアのよりもよっぽど純粋だった。それもそうだよな、お前こそが魂に女神《業火シレイヌ》の純なる炎を宿した人間だったんだから。フリアはそんなお前を生むための、ただの前座でしかなかったってのによ。それなのに俺は、間違えてお前じゃなくフリアを選んじまった。大失態だよな、チクショッ……!」
 リシュはそう言いながら、全身の毛並みを逆立てる。ルドウィルは斧槍シュロンダイヌの感覚を確かめながら、リシュの言葉をただ聞いていた。そしてユインはルドウィルの腰に下げられていた剣〈獅子(レオナディア)〉をそっと抜き取り、鞘から剣を引き抜いた。
「ルドウィルは、パヴァルの傍に居て」
「ユン姉ちゃん、何をする気なんだよ」
「〈神護ノ十剣トウィンガル・ラン・アルダン〉の剣を握る者の役目を、果たすだけ。〈聖獣使いシラン・サーガ〉護衛の任は、まだ解かれていないから」
 そしてルドウィルに背を向けるユイン。彼女の腰にはまた別の剣、〈不死鳥レイゾルナ〉が下げられている。後ろから見えた、ユインの横顔。その顔には覚悟を決めたというよりも、全てを割りきったという小ざっぱりとした冷たく乾いた風が吹いていた。
「でもオレは〈聖獣使いシラン・サーガ〉じゃない」
「違う。ルドウィルが、〈炎ノ聖獣使いシラン・サーガ・レイ〉。リシュがそう言っているんだから」
「でもオレが〈神護ノ十剣トウィンガル・ラン・アルダン〉で、オブリルトレの女王であるユン姉ちゃんを護るっていう役目が」
「それは終わった。オブリルトレの女王は、宵の明星は落ちた」
 宵の明星。その言葉にルドウィルは反応した。暮ノ戦記ラゴン・ラ・ゲルテ、最終節。宵の明星の詩。
「新たに昇るのは、明けの明星。明けの明星が齎すのは、万物の夜明け。燃え盛る槍と共に、白き夜明けを齎す……!」
 それまでは、淡々としていたユインの口調。それなのに今こうして彼女の口から発せられた言葉だけは、やけに気迫が込められていた。そして最後にユインは、ふふっと狂気じみた笑みを浮かべる。
 少しだけ、斧槍シュロンダイヌを握るルドウィルの手に力が込められた。





 再びの落ち着きを取り戻したイゼルナは天幕の中に戻り、ある手記に目を通していた。その傍に従者たちの姿はなく、代わりに一人、エレイヌだけがそこに座っている。疲れ果てやつれたエレイヌはただ黙っていて、そこにあるのは沈黙だけ。そんな沈黙の中に、音が生まれる。ふぅ、とイゼルナが深呼吸をしたのだ。
「エレイヌ。ひとつだけ、あなたに訊いても構いませんか?」
 イゼルナは手記からエレイヌへと、視線を移す。それまでずっと自分の足元を見ていたエレイヌもまた、このとき視線を上げた。こくりと無言で頷くエレイヌ。するとイゼルナは合わせていた視線を斜め下に逸らし、また深呼吸をしたのだった。
「あなたも、知っていらしたのですか。兄上さまの出生を」
「リっちゃんの出生、ですか?」
「……主に、性別のことです」
 エレイヌはまた、黙り込む。本人に教えたことのない真実を彼女に教えるべきなのか、それとも本人にしたように嘘を吐いて誤魔化すべきなのか、それを迷っていたのだ。
 イゼルナが読んでいた手記は、彼女の母親であるシェルティナ妃が遺した遺品。それを元々持っていたのは叔父であるシルスウォッド卿で、彼女がこれを受け取ったのはつい最近、《光帝シサカ》継承ノ儀の直前の朝だった。
 あの朝、彼女は叔父の口からあの夜の真実を聞かされた。それまで両親は不治の病で若くして病死したのだと、そして兄は事故に遭って以来、行方知れずで今や亡くなっている可能性が高いと教え込まれていた彼女にとってそれは、そう簡単に受け止められることでは無かった。
 自分達は当時の《光帝シサカ》、暴君のシェリラに命を狙われていて、彼女が放った隠密によって、両親の命は奪われた。そして一番の標的とされていた兄のリストリアンスは、安全を確保するために〈神護ノ十剣トウィンガル・ラン・アルダン〉で今まで匿われていたのだと、教えられたのだ。
 彼は死んでいたわけでは無かった。けれども“リストリアンス”という存在は殺さなければならなかった。シルスウォッドはそう言った。リストリアンスが死んだあとの彼の名前は「リスタ」で、時には「レゼット」という従者の姿で王宮に立ち入っていたということも、同時に教えられた。そのときにイゼルナは、自分自身の愚かさを激しく恨んだ。レゼットという従者とは、王宮内で何度も顔を合わせている。それなのにどうして自分は見抜けなかったのかと。
 だが気付けないのは、仕方もないことだった。彼女らが引き裂いていた時間は長く、《光帝シサカ》継承ノ儀を迎えた時点では、約三十年もの歳月が流れていたのだから。あの夜のとき、兄は十三歳で自分は八歳だった。けれども今は、そうじゃない。兄はイゼルナの記憶が間違っていなければ四十四歳くらいで、イゼルナも三十九になる。
 それでも、お互いにそんな年齢に見えなかったことが、イゼルナにはとても不思議でならなかった。長めな金色の髪を靡かせながら歩いていた兄は、まだ三十代も前半の若い男性に見えていたし、イゼルナ自身もまだ二十代前半だといえるような、あどけなさが抜け切っていない顔をしている。皺やたるみのようなものも見当たらない。思えば叔父であるシルスウォッド卿だって、まだ壮年のように見えているものの、年齢だけを見れば七十を超えているはず。
 この世界の人間には、老けるという概念がないのだろうかとも思えてしまうが、けれども武ノ大臣ケリス・シャドロフのように年相応に老いていっている者たちが周りに居るのも事実。この世界に流れる時間はどうなっているのだろうか、と疑問に思うのだが、イゼルナにはこの世界の仕組みがまだ分からないままだ。
 というのはさて措き、イゼルナは叔父シルスウォッド卿から全てを教えられたとき、同時に母が遺したというこの手記も渡されたのだ。叔父が言うには、この手記に全てが記されているらしく、全てを受け入れるだけの心の準備が出来た時に開けば良いと言われていた。だからイゼルナは、今までこの手記を開いたことが無かった。真実というものを受け入れられる自信が、イゼルナには無かったからだ。
 けれども、そんな甘えたことを言っていられぬ事態となってしまった。だから彼女は、まずこの手記を読むべきだと悟ったのだ。
 そして開いてみた手記から出てきたのは、失われていた第二分家の家系図。そこには兄のリストリアンスの名前はなく、その名があるべき場所には代わりに“レイリア”という知らない女性の名前が書き込まれていたのだ。そして手記を読み進めてみれば、その理由を知ることが出来た。
「兄が兄ではなく、本当は姉で、それに名前はリストリアンスではなくレイリアだった、と」
「……」
「兄上……いえ、姉上さまの肩には生まれつき聖光ノ紋章が出てしまった所為で、両親は嘘で姉上さまを隠さなければならなかった。その為に両親は姉上さまにリストリアンスという名前を与えて、男性として育てた。男性であれば、たとえ紋章が出てしまったとしても《光帝シサカ》になるという資格は与えられない。そうすれば、本家の人間に命を狙われずに済むかもしれない、と」
「……そこまでの事情は知りませんでしたけれども、リっちゃんが女の子だったというのは、知っていました」
 そう言うエレイヌの視線は、また足下に落ちる。そして彼女は溜息を吐くと、覚悟を決めた。自分の知っている全てを、彼女に話そう。それを彼女が求めているのだから、と。
「それでも事実を知っていたアルダンの隊員たちは皆、彼に黙っていたのです。それがリっちゃんの為だから、って。今となっては本当にそれが良かったのかは分かりませんけど、でも彼はそのお蔭で、きっと最期までリっちゃんとして居られたんだと思います。レイリアではなく、リっちゃんとして生きられたって」
「……」
「イゼルナさまはきっと知らされてないことだと思うのですが、実は彼、十四歳の時に酷い目に遭っているんです。ある二流貴族の男に二日も地下に監禁されて、好き放題に玩ばれたことがあって」
「好き放題に?」
「……殴られて、蹴られて、服従させられた後に、強姦。多分、何回もされたんでしょうね。救い出したときの彼は酷く憔悴しきってて。辛かったと、思います。それで体力が少し回復した頃に、彼は自殺しようとしたんです」
「兄上さまが……!?」
「ええ。命ばかりはどうにか救えたんですけど、あの頃は本当に……ただ呼吸をして生きているだけの状態でした。幸か不幸かは私には分かりませんけど、リっちゃんにその頃の記憶はなくて。でも知らなくていいと思うんです、その空白の間に起きた出来事は」
「何が、あったんですか」
「……当然のことですけど、リっちゃんはやっぱり体は女の子だったので。何度も犯されていれば、妊娠は免れませんでした。だから彼の意識がないうちに、パヴァルがお腹にいた胎児を取り攫ったんです。リっちゃんが妊娠してしまっていたことに気付いたのが遅かった所為で、通常より体を傷つけてしまうやり方になってしまったんですけど、どうにか」
「……中絶、ですか」
「ええ、中絶です」
 エレイヌの記憶に、その光景は今でも鮮烈に刻み込まれていた。
 あの時エレイヌは、ラントと共にパヴァルを手伝っていた。嫌ではあったものの、ラントとエレイヌ以外に手が開いている者は居なく、やるしかなかったからだ。当時のディダンはまだ四歳だったし、ケリスは王宮の執務室に居るし、かといってヴィディアは片腕しかなく手伝いという手伝いもできないだろうし、何より彼女には子供を亡くした過去がある。そんな彼女の目の前で、中絶などという行為が出来る筈もなかったからだ。
 パヴァルはとても慎重に、丁寧に作業を行っていた。それでも中絶というもの自体が、器具で膣を強引にこじ開けて広げ、子宮まで鉄の棒を突っ込み、子宮の中で胎児をバラバラに引き裂き潰して、その破片を体外に出していくという母体に損傷を与える行為である以上、傷は避けられない。でもパヴァルは、それをやりきった。後にリスタが感染症などに罹ることもなく、無事に事を終えたのだ。
 けれどもエレイヌには、中絶をすると言ったパヴァルのあの判断が正しかったのかは、未だによく分からなかった。あの時、パヴァルがかき出した胎児の欠片を集める作業をしていたのはエレイヌだ。オオサンショウウオにも似た半透明な胎児の欠片を、ただ黙々と集めていた。頭になる筈だった欠片、腕になる筈だった欠片、胴体の上半分になる筈だった欠片、胴体の下半分になる筈だった欠片、足になる筈だった欠片、それらを出来るだけ元の形に近くなるように銀盆の上に配置して。
 それがどれだけ、辛かったことか。たとえ望まれないかたちで誕生してしまった命だったとしても、それが命であることには変わりない。この命に罪はないのに、どうして生まれる前から他者の判断で命を奪われなくてはならないのかと。でもそれをぶつけた時にパヴァルに返された言葉は、どこまでも血が通ってなかった。

 ならその子供が産まれた時の責任を、リスタでなくお前が取れるのか。
 それに人間として、ひとつの命として認められるのは、母体の外に出た瞬間、ひとつの個として独立した時からだ。胎の中の胎児に、その権利は認められない。
 何より中絶という判断は、リスタのことを考えた末の決断だ。これから生まれてくるかも分からん胎児より、既にこの世に生を受けている人間を第一に考えるべきであるからな。

「……だからリっちゃんが実は女の子なんだっていうことを本人に教える時には、同時にその知らぬ間に中絶をされていたっていう事実を教えなくちゃいけなくなる。本人は知らない、その事実を。だったら知らなくていいこともあるんじゃないのかって、皆で黙っていたんです。ずっと、嘘を吐いて。だからリっちゃんは、嘘で塗り固められて出来た虚像でしかなかった。でもそれで仮に彼が少しでも幸せだったって思えていたのなら、それが正しかったんじゃないのかなって思います。……って今更言っても、自己を正当化するための言い訳にしかなりませんけどね」
 自分がどれだけ勝手なことを言っているのか、エレイヌにはよく分かっていた。それでも、そう言うしかなかった。そうでなければあまりの罪の意識に、自分が呑み込まれてしまいそうで。
「兄上さまのことを教えていただき、有難う御座います。……失礼なことですけど、今は少し一人にさせてもらってもいいですか?」
 そう言うイゼルナの声は、小刻みに震えている。構いませんよ、と作り笑顔を浮かべながら言ったエレイヌは立ち上がると、天幕の外に出て行く。やっぱり、彼女に教えたのは正しいことだったのだろうか。エレイヌには、分からなかった。