【第十七章 天翔る白き翼】

3 戦天翔ける災禍


 今の彼のことを、人と呼んでいいものなのか。
 エレイヌ若しくはエリーヌは、迷っていた。
「どうすればいいのよ」
 神国軍の拠点から、〈大神術師アル・シャ・ガ〉の拠点が構えられている高台へと戻ってきたエレイヌは、一人天幕の外に立ち、崖から眼下に広がる砂の平原を眺めていた。
 陽は昇った。眠れぬ夜は良くも悪くも明けてしまって、憎いほどに美しかった朝焼けは何処へやら、空は曇天の薄暗い灰色に衣変わりしている。少しだけ冷える朝の中で、エレイヌは《神託ノ地ヴァルチケィア》砂漠の臍を静かに見据えていた。
 砂漠の中央に佇む、豆粒ほどの小さな影。その影が誰なのかを、エレイヌは知っていた。
「……ねぇ、パヴァル」
 それは独眼の水龍、パヴァル・セルダッド。
 またの名を、ペルモンド・バルロッツィ高位技師官僚。
「私の父親だって言うなら教えなさいよ、こんなときはどうしたらいいのかって」
 彼は、少々乱雑な扱いをしながらも、自分をここまで育てあげてくれた暗殺者の男なのか。
 それとも、大事に自分を育てあげてくれた、化学者だった父なのか。
 もしくは、そのどちらでもない赤の他人なのか。
 どっちの顔が本当なのか、それともどちらも嘘で、本当の顔は別にあるのか。その判別すら、エレイヌには付けられなかった。
 理解に苦しむような情報が、一遍に頭の中に流れ込んできているのだ。それも、自分の人生を頭から否定するような真実ばかりが。混乱して、疑心暗鬼になって、何も誰も信じられない。自分すらも、信じられないくらいだ。それなのに、他人のことまでどうしろというのだろう。
「……何も考えたくない。あぁっ、もう何なのよ! ふざけんじゃないわよ!!」
 エレイヌは雲の隙間から覗く朝日に向って、そう叫ぶ。
 そんな時だった。天幕の内側から、ディダンの大声が聞こえたのは。
「ラント! 待ちなさい、何処に行くつもりですか!!」
 天幕の入口が内側から開けられ、中から人、いや、かつては人だったものが飛び立っていく。その後を追ってディダンと〈大神術師アル・シャ・ガ〉の二人も外に出てきた。
「ああ、ラント。……なんてこった。話が違うじゃないか、あのクソジジィめ……!」
 文字通り、彼は飛び立っていったのだ。鳥の翼のように変形した白い腕を大きく振るい、空高くに向かって。
「……どうしてなの、ラン……!」
 ラントのなれの果ては、人間とは決して呼べるものではなかった。
 例えていうなら、いつか文献で見かけた伝説の生物ハルピュイアに似ていた。胸から上は人なのに、腕は翼に変容して、脚も人の脚ではなく、鷹や鷲のような強靭な鳥の脚に変わってしまっていたのだ。
 彼はもう、彼ではなかった。ただの怪物になっていたのだ。
 その証拠に、ディダンが幾ら名を叫ぼうが、エレイヌが呼び戻そうとしようが、彼は一切反応を示さない。天幕の遥か上空で、ばさばさと大きな翼を羽ばたかせているだけ。感情も何も燈っていない虚ろな目は、《神託ノ地ヴァルチケィア》だけを見ている。そして彼は、上空で身を翻した。体は真っ逆さまに、あの砂漠に向かって落ちていく。
 そり立つ崖のような高台から身を乗り出し、エレイヌはラントが落ちて行った砂漠を見た。
「待って、待ってよラン! 何処に行くのよ!!」
 彼女がラントの姿を目視したその時には、何もかもが手遅れになっていた。
 赤い天幕――即ち、神国軍の拠点――が張られた地に向かって、一矢の白き光が空を穿ち往く。
 とても大きな白いカラスが、悠然と空を飛んでいた。銀色に輝く羽根をひとつ、エレイヌのもとに残して。
「ラン、ラント! 戻ってきてよ、ラン!!」
「エレイヌくん、耳を塞ぐんだ!!」
 崖から飛び出そうとしたエレイヌの腕を、ディダンが強く引っ張って引き止める。そして〈大神術師アル・シャ・ガ〉はエレイヌにそう言った。
 エレイヌも、ディダンも、〈大神術師アル・シャ・ガ〉も、一様に両耳を手で押さえ、耳を塞ぐ。その直後に響いたのは、聞くにも堪えない汚い鳥の鳴き声だった。その鳴き声は少しばかり長く続いて、やがて止んだ。〈大神術師アル・シャ・ガ〉は耳を塞いでいた手を耳から離し、カラスの消えて行った方角を赤紫色の瞳で捉える。そして呟いた。
「遂に、始まってしまったな」
 ディダンは黙って頷き、エレイヌは地べたに突っ伏す。ランが、アイツが一体なにをしたっていうの。彼女はそう泣き叫んでいた。
「……この世界の、黄昏が」
 曇天だった空から、立ち込めていた雲が一斉に引いていく。かつてモーセが海を割ったように、白いカラスは空を割っていった。だがカラスが通った跡から覗くのは、青い空ではなく白い光。何もない、空白がそこにあった。





「白いワタリガラスが来たぞ! 総員、耳を塞ぐか天幕の中に逃げ込め!! 犬も忘れるんじゃないぞ!!」
 ユインの横に立つヌアザンが発した号令に、ラムレイルグの戦士たち皆が従う。クルスムは自分の両耳に予め用意していた耳栓を詰めると、足元で伏せをするウィクの両耳を両手で塞いでやった。椅子に座るユインもまた耳に栓を詰めると、膝の上で丸くなっているリシュの耳を手で塞いでやる。クゥーン、とリシュはわざとらしい鳴き声をあげた。
「別に俺にはやってくれなくてもいいんだぜ、山の女王さまよ。聖獣サマにまやかしは通用しないだろうからな」
「……どうして、そう言いきれるの」
 リシュを見る、ユインの冷たい眼差し。人間らしい感情が宿っていないその目に、リシュは恐怖を覚えざるを得なかった。「それは、だな……」
「……根拠のない自信なら、信用できない。暴れられたら困るから、これをしてる。クルスムがウィクにも、同じことをしてる。だから、従って」
「はいはい、分かった分かった。従えばいいんだろう、女王さまよ」
 ユインの喋りはとても途切れ途切れで、辿々しい口調になっていた。それがあまりにも薄気味悪く、リシュは今にも逃げ出したい気分ではあるのだが、斧槍シュロンダイヌは今ユインの手に握られている。それを彼女が持っている以上、リシュは彼女の傍から離れられなかった。
 何故なら聖獣には、己が持つ神器を守護しなければならないという役目があるからだ。早くそれをルドウィルの手に渡してくれればいいんだがな、とリシュは心の中でぼやく。けれども彼女には、その心の声は届いていないようだった。
 今のユインはまるで、自我の無い操り人形のようだ。リシュはそう感じていた。
 何故ならば彼女は先ほどから、自分の頭で考えて行動するということを一切していない。こうして今、ラムレイルグの兵士たちを前にヌアザンの隣に座っているのも、それはクルスムがそうするよう促したから。彼女が斧槍シュロンダイヌを持っているのも、パヴァルから今はそれを持っているよう指示をされていたから。そして、それを然るべき時にルドウィルに渡すようにも、彼女は指示されている。
 果たしてその“然るべき時”に、彼女はルドウィルに斧槍シュロンダイヌを引き渡せるのか。それがリシュには、心配でならなかった。
「……ウィルの坊主が、水龍のもとに辿り着いていればいいんだがな……」
 リシュはそれまでの主であったフリアを見限った。そしてパヴァルの肩に乗り、砂漠にまで逃げてきたのだ。己が守るべき神器、斧槍シュロンダイヌと共に。
 何故、リシュはパヴァルについてきたのか。
 それはリシュが、パヴァルの計画に加担しているうちの一匹だったからだ。
 リシュは本来、リシュではない。ある低次元に位置する世界で生まれた、神という種族のうちの一つ。その世界に存在した、とある極東の国で生まれた存在だった。
 お稲荷さん。そんな風に人々からは呼ばれて、崇められていたリシュ。だがいつからだろうか、人々はそんな神に対する信仰を失くした。大好きだった稲荷寿司も、あまり食べれなくなった。そして徐々にリシュの居場所は、その世界には無くなってしまった。それからは地を点々と回り、当てつけのように人々を化かして回っては、食いものくすねた。けれどもそうしているうちに邪神や妖怪と忌み嫌われ、終いにはその世界を去らねばならぬ時がきた。他の神々たちに、追い出されたのだ。
 渋々、その世界を後にしたリシュ。そんな彼が行き着いた世界は次元の歪み、このシアルン神国だった。
 とはいえ行き着いたというよりも、引きずりこまれたと言ったほうが正しいのかもしれない。リシュよりも更に強大な神の力、それこそ大神アリアンフロドに匹敵するものを持った者の力によって。そうしてこの世界に堕とされたリシュには、リシュとしての作られた記憶が埋め込まれた。
 それが、フリアという少女にぶつかったあの日。悪魔狩りの日だった。
「……ルドウィルなら、大丈夫。たとえ納得がいかないことだとしても、その場において最善の策であるならば、必ず実行できる子だから」
「そういう風に思考するよう、水龍に調教されているからだろ。……だが、それでも成功する確率が十割ってわけじゃぁない。だから、俺は心配なんだよ」
「……どうして」
「俺だって水龍と同じように、元の世界に意地でも戻りたいからだ」
「……そんなに戻りたいの、あんなところに。居場所なんて、今頃無くなってるかもしれないのに」
「居場所なんて、また作りゃいいだけだろ。それに、居場所っつーのは誰かに用意してもらうもんじゃない。自分で決めるもんだ」
 お酢の酸味と香りが懐かしくなってきたぜ、とリシュは零す。そんなリシュの頭上を、銀色の大きなカラスが汚らしい鳴き声をあげながら通り過ぎて行った。
 まともに聞いていたのなら、鼓膜を破られかねない鳴き声。そんな音も遠のいて聞こえなくなった頃、ユインの横に立っていたヌアザンが自分の耳から手を離す。それを合図に他の者たちも、耳を塞いでいた手を降ろし始めた。ユインも耳栓を外す。そして遠くから聞こえる雑音に耳を澄ました。
「おい、女王。どうしたんだ」
「……静かにして」
 獣の咆哮のように勇ましい雄叫びが、風に乗って遠くから運ばれてくる。その声に込められた熱は、異常なまでに温度が上がっていた。単に興奮した人間の声というよりは、ドラッグを打たれて錯乱した人間の声にも似ている。
 兎にも角にもその雄叫びは、異常だった。
「……ザン」
「おう。どうしたんだ、ユン」
 努めて明るい声色で、ユインの呼び掛けに応えたヌアザンだったが、そんな彼の表情は焦りに満ちていた。視線はユインと合わないし、クルスムによく似た鋭い茶色のつり目は、《神託ノ地ヴァルチケィア》のただ一点を見つめている。どうやら彼も、ユインと同じことを考えているようだった。
「ラムレイルグの戦士たちは、白いワタリガラスのあの声を聞かなかった。でも神国軍は、違うみたい。だから」
「……分かってるよ、ユン。お前の言いたいことは。だがこうなっちまった以上、引き下がれねぇうえに、引き下がる理由もないんだ」
 全兵、配置に付け! そんな号令をヌアザンは出すと、戦士となったラムレイルグの民たちは一斉に動き出す。とはいえ彼らは神国軍とは違い、まともな武装はしていない。そんな準備をしている暇もなかったからだ。
 鎖帷子も鋼鉄の防具などあるはずもなく、あるのは少し固い革の鎧だけ。獣たちも同じ、素のままの姿だった。
 剣だって、まともなものはない。ヌアザンのように短剣だけを持つ者もいれば、草を刈り道を開く為の鎌を持つ者もいたし、薪を割るための鉈や斧を持つ者もいる。獣の肉を裁くための大きめな肉切り包丁を構えている者もいた。
 槍を持っている者は一握りだけ。弓も、狩猟のために使われる簡素なものばかり。矢数も到底足りているとは思えなければ、弩や投擲なんてものはあるわけもない。
 足となる十分な馬もない。鷹の奇襲部隊だって、数は無い。山犬たちも、山獅子たちの数も少ない。そもそも人間の兵数すら、三百もない。
 それなのに相手は、万の兵を持っている。
 鎖帷子も、鋼鉄の防具も持っている。剣だって、そこそこには切れるものを持っていることだろう。槍だって、長く鋭いものを持っているはずだ。弓だって、威力があるだろう。矢だって十分な数を持たされているはずだ。鷹や山犬や山獅子は居なくても、馬なら十分な数を保有しているはず。
 それでいて相手は、今や節度や恐怖というものを忘れ去った狂戦士たちだ。
 勝ち目がない、不利な戦。誰にだって分かる現実。普通は、引き下がるべき状況だ。
 それなのに、ヌアザンは引き下がれないと言った。
 彼の目に希望は無い。それは諦めにも近い覚悟。ヌアザンの顔は、どこまでも翳っていた。
「もう山ノ民に未来がないことくらい、誰の目にも分かり切ったことなんだ。戦で勇猛に散っていけるなら、それが本望だ。だからユン、お前は山ノ民たちの最期っ屁を見届けてくれれば、それだけでいい」
「そんなこと」
「そんなことが、あるのさ。だが俺なりに、最期まで策は敷き続ける。抗い続けてみせるさ、定められた結末から。……それが叶わないと分かりきっていてもな」
 物語の結末は、別にある。
 それを知り得ていながらも尚、ユインはそれを彼らに伝える気にはなれなかった。





 カラスの鳴き声が遠のいた頃、リュンはイゼルナの天幕から恐る恐る顔を出した。
「わぁ、すごいや」
「具体的にどう凄いんや、おりゅんちゃん」
「あのね、凄い。なんていうのかな、その……とにかく、目で見たほうが早いよ」
 リュンが見た景色。それは人気のなくなった、がらんどうの寂びれた拠点の有様だった。
 さっきまであれだけ人でごった返してたのに。リュンはただ、驚く。こんな短時間のうちに皆が居なくなっちゃった、と。
「あんれまぁ、ほんまや。ものの見事に、もぬけの殻になっとるわ」
「ですわね」
「……どうなってるんだ、これは」
 次々に、天幕の外へと人は出て行く。ヴィディアもイゼルナもベンスも、リュンに続いて外に出始めた。
 赤い鎧の兵たちは何処へ、今や神国軍の拠点には青い鎧のアルダン隊員が三名と、《光帝シサカ》イゼルナ、それと黒装束の従者たちが十数名しか残っていないようにも思われた。
 ただ茫然と立ち尽くすリュンたち。そこにまた一人、青い軍服を着た白髪頭の老齢の男と、その白髪頭の男の肩を借りながら、腹部を庇うようにして歩く黒い軍服を着た金髪の男がやって来た。
「あっ、誰か来たよ」
「……叔父上さま!」
 それはケリスとシルスウォッドの二人だった。そんな二人に真っ先に気付いたのは、イゼルナだった。「叔父上さま!」と声を上げるなり、彼女は従者たちに、天幕の中から椅子を持ってくるよう指示を出す。ヴィディアはシルスウォッドら二人に駆け寄ると、ケリスには一瞥もすることなく、シルスウォッドに近付く。そしてシルスウォッドに、従者が用意した椅子に座るよう促した。
「どないしたんや、シルスさま! 今すぐ手当せんと……」
「いや、大丈夫だ。私に構う必要はない」
 けれどもそれを、シルスウォッドは跳ね退ける。そういうわけにはいきませんえ、とヴィディアは言うものの、彼はあくまで大丈夫だと言い張った。
 彼の傷は、腹部を槍で突かれたようなもの。血は既に止まっているようだが、だからといって杜撰な処置のまま放置すれば、そこから何らかに感染する可能性だってある。それなのに、どうして。睨むようにシルスウォッドを見るヴィディアだが、彼の意思は固くその程度では揺るぎそうもない。
 少々の睨み合いの末、ヴィディアのほうが折れた。
「……ウチは知りまへんからな」
「でも、シルスさま。一応手当はしとかないと、やっぱダメですよ」
「そうですよ、シルス卿。消毒だけでもしなければ、感染症の恐れが」
「叔父上さま……」
 リュンもベンスもイゼルナも心配するようにシルスウォッドを見るものの、やはり彼は動じなかった。
「私も〈聖水カリス〉とさして変わらぬ怪物だ。この程度の傷如きで、立ち止まるわけにはいかない」
 意味深な言葉と共に不敵な微笑みを小さく浮かべると、彼は周囲を見渡す。そして眉を顰めた。
「やはり馬は、残っていないようだな……」
 馬ですか、と首を傾げるリュンとベンス。見渡す限り、あれだけ仰山といたはずの馬の姿は、一頭たりとも見当たらなかった。首をきょろきょろと動かし、馬を捜し出すリュンとベンス。そんな二人に、ヴィディアはすかさず突っ込みを入れる。問題はそこやないで、と。
「叔父上さま、まさかあの戦場に行かれるとお言いになられるのですか……!」
「ああ、そうだ。行かねばならぬのだよ」
「どうして、どうしてなのですか。叔父上さまだけでもどうか……」
 漸く泣き止んだばかりだというのに、イゼルナの目からはまた大粒の涙が零れ落ちる。
 何故ならばシアル王家にはもう、イゼルナとシルスウォッドの二人しか残されていなかったからだ。
 イゼルナの父親でありシルスウォッドの義兄に当たるラルグドレンス卿は、当の昔に故人となっている。イゼルナの母に当たるシェルティナも、同じだ。そして両親の仇であるシェリラの娘、シェリアラも死んだ。兄に当たるリストリアンスも死んだ。それにシエングランゲラは既に王族ではない上に、彼女は死人も同然だ。
 それなのにシルスウォッドまでもが、自ら死に行こうとしている。
 そうなればシアル王家に残されるのは、イゼルナただ一人だけになってしまう。
「叔父上さま!」
「リストリアンスのことは聞いている。さぞかし辛いことだろう、イゼルナ。だがこればかりは私の果たすべき務めである以上、どうしても果たさなければならないのだよ」
「そんな、私はどうしたら……!」
 イゼルナは泣きじゃくり、ヴィディアや従者たちは慌てて彼女に駆け寄り、ケリスは頭を抱えて溜息を吐く。そんな中でもリュンだけは、少々視点がズレていた。リュンが見ていたのは〈大神術師アル・シャ・ガ〉の拠点がある方角。そこからやってくる者たちの姿に、あっと声を上げた。
「シルス卿、馬が来ましたよ!」
「それは真か、〈丘陵ルズベラ〉」
「はい。ほら、あそこです!」
 リュンが指し示した先には、馬に乗ったディダンとエレイヌ、それと〈大神術師アル・シャ・ガ〉の三人の姿が見える。馬は総勢四頭、ディダンが余分に一頭連れて来ていたのだ。
「わぁ、流石だねダンは。状況をよく分かってるや、キャスと違って」
 それを見たリュンの口からは、感想がだだ漏れる。ディダンとの引き合いに出された当のケリスは、表情を強張らせた。「……〈丘陵ルズベラ〉、お前は一体なにを」
「だって、ホントのことだよ。ごめんね、キャス。でもボクね、キャスよりダンのほうが〈聖堂カリヴァナ〉に相応しいと思ってるんだ。だってキャスはさ、暴挙に出た神国軍に対してどんな手を打った? 何もしてないでしょ、全部パヴに任せきりで。それでダンがどれだけ鬱憤を溜めてたか知ってる? ダンはリッタが敵に寝返ったわけじゃないって気付いていながらも、それを確かめることが出来なかったんだよ、キャスが手出しをするなとか邪魔をしてたせいで。もっと早くにダンが行動を起こせていたのなら、今頃こうなってなかったのかもしれない。リッタだって、死なずに済んだかもしれなかったじゃん。だから、ボクは」
「リュン、それくらいにしておけ」
 過激になっていくリュンの言葉を、途中でベンスは遮る。けれどもリュンはそんなベンスに対しても、辛辣な言葉を突き付けた。
「うるさいな、ベン。そうやってベンはいつも良い子ちゃん面してさ。何も考えてない馬鹿のくせに。あっ、馬鹿で何も考えられないから、一番無難な良い子ちゃん面してるのか。あはは、ごめんごめん」
「お前っ……!」
「おりゅんちゃんもベンちゃんも、やめなはれ。ウチもキャスが云々には全くの同意見やけど、それくらいにしておくんや」
「ヴィディア?」
「すまへんなぁ、キャス。ウチもキャスかダンちゃんのどっちか選べゆわれたら、ダンちゃんを選ぶわ。あの子ほど、人を支配する術に長けた子はそう居らへんからなぁ。パヴですらも、ダンちゃんが後から動いてアレコレしてくれるから、あれだけ動けるちゅうもんや言うてたし」
 どことなく流れる不穏な雰囲気。けれどもそんな重い空気を吹き飛ばすように、ディダンは馬に乗って爽やかに登場する。ディダンは小柄の馬からひょいと降りると、シルスウォッドに対して一礼をした。
「ご無事でしたか、シルス卿!」
「ああ、勿論だ」
「正直、死んだんじゃないのかって心配になってたんですよ。よかったです、本当に」
 珍しく作り笑顔ではない心の底からの安堵の笑顔を浮かべるディダンは、握っていた二種類の手綱のうちのひとつをシルスウォッドに渡す。それはディダンが余分に連れていたもう一頭、パヴァルが途中で乗り捨て、〈大神術師アル・シャ・ガ〉のもとに迷い込んだ黒馬アルヴェンラガドだった。
「〈聖水カリス〉が途中で捨ていった、アルヴェンラガドのソルドです。私みたくチビではないシルス卿には、キャナッシュロドンだなんていうチビ馬よりも、大柄のアルヴェンラガドのほうが乗りやすいかと思いまして」
「礼を言わせてくれ、ディドラグリュル」
「そんな、礼だなんて要りませんよ。私は文武資法と政の五大臣をお助けする大臣補佐官として、当然の務めを果たしたまでですので」
 気障にディダンはそう言う。シルスウォッドは手綱を受け取ると、その大柄の黒馬に乗って《神託ノ地ヴァルチケィア》の戦場に向かって行った。
 そしてシルスウォッドと入れ替わるように、エレイヌと〈大神術師アル・シャ・ガ〉の二人が遅れて到着する。エレイヌは到着するなりその場で降りたのだが、〈大神術師アル・シャ・ガ〉は異なり、止まることなくシルスウォッドの後を追ってそのまま《神託ノ地ヴァルチケィア》へと向かっていった。
 鬼気迫る〈大神術師アル・シャ・ガ〉の表情を瞬間見たリュンは、ぶるっと背筋を震わせる。〈大神術師アル・シャ・ガ〉さまの表情に気付きましたか、とディダンはリュンの肩を小突いた。
「なんか〈大神術師アル・シャ・ガ〉さま、怒ってなかった?」
「そりゃそうですよ。信用していたカラスに裏切られたのですから」
 ディダンはそう言い、ハハッと笑う。そしてリュンに、ベンスに、ヴィディアに、ケリスに目配せをし、今度はフフッと笑った。
「なにボサッとしてるんですか、あなた方。私たちも、かの地《神託ノ地ヴァルチケィア》に向かわなきゃならないんですから」
「なんでだよ」
 どうして、自分たちまでも行かなければならないのか。リュンは首を傾げるも、ディダンは答えを教えてはくれない。理由なんかどうでもいい、とにかく行くんです。そう言って、はぐらかすばかりだ。
「さあ、早く馬に乗りなさいな! 私の馬には頑張れば三人乗れますから、ベンスとリュン、あなたたちも乗りなさい。そしてエレナの姉御が乗ってきた馬に、ヴィディアとそこの老害ゴミクズが。ほら、早くしなさい。行きますよ!」
 こういう時ぐらいしか、あの男に貸しは作れないですからね。
 そんなディダンの独り言は、リュンの金切り声に掻き消される。あーん、もうわけが分からないよ! けれどもその場に、わけが分かっているものなど誰ひとりとして存在していなかった。