【第十七章 天翔る白き翼】

2 隼の慧眼



 昨日、一昨日からずーっと、ドえらいこっちゃの連続や。
 何を信じ、何を疑えばいいのかが、もう分からへん。
 嫌やなぁ、面倒やわぁ。
 どないしよ、うち。

「〈革新リボルヴァルッタ〉」
「なんや? ……じゃなかった。イゼルナさま、どうかなされましたか?」
 神国軍拠点の中に設けられた《光帝シサカ》専用の天幕。そこにヴィディアは、イゼルナとその他従者たちと共に居たのだった。
 ヴィディアが突然の人事異動でイゼルナの警護から外されたのも束の間のこと。今日の朝にはこうして、またイゼルナの警護にヴィディアは戻されていた。異動の理由も聞かされず、また再異動の理由も知らされず。ヴィディアとしては非常に納得がいっていないのだが、きっと知らせてこなかったのはキャスもしくはパヴなりになんか理由があってのことなんやろ。今は、そんな風に自分を誤魔化していた。
 とはいえ昨日、一昨日とで散々な目に遭っていたし、鬱憤がたまっていることもまた事実。知りたくなかったことや知らなかったことを色々と突き付けられ、色んなことが変わりに変わり、情報が頭の中で整理できていなかった。
「……私の頭が、もう限界です……」
 はぁ、とイゼルナは重苦しい息を吐き、頬杖をつく。そんな彼女の額には、霊力の無い者でも見えるくらい濃くハッキリとした聖光ノ紋章が刻まれていた。
「私もでございます。何がなんだか、理解が追い付きません……」
 気だるげなイゼルナの左手は宙を彷徨う。けれどもその手つきは、獣の頭を撫でているかのようでもあった。
 そこに、〈光ノ聖獣シラン・シ〉とやらが存在しているのだろうか。ヴィディアは目を凝らしてみるも、獣の姿は目に見えない。けれどもイゼルナの手は、何かしらの見えない獣を撫でていた。
「まさか私のような者が《光帝シサカ》になるなんて、思ってもおりませんでした。今までは第二分家の零落者と散々に罵られてきたというのに」
 イゼルナ。
 輝かしいイェゼラという原義の名を持つ彼女は、《光帝シサカ》となっていた。
 継承ノ儀は〈大神術師アル・シャ・ガ〉の宣言のみと手早く済ませ、シェリアラを《光帝シサカ》から引きずり下ろしたのだ。これはシルスウォッドが仕組んだこと。シェリアラよりもイゼルナのほうが王に相応しい、という彼の意見を、〈大神術師アル・シャ・ガ〉が聞きうけて行われたものだった。
 イゼルナ自身、シェリアラのことは同族でありながらも親の仇の娘である以上憎んでいたし、何よりも第二分家であるということで見下され馬鹿にされ続けていたからこそ、それをこういう形で見返してやったということを清々しく思っていた。けれども、その感情を表に出さぬよう慎むようにしている。それは清々しいと同時に、とてつもない罪悪感を伴っていたからだ。
「……手のひら返し、というものなのでしょうか」
 けれどもイゼルナが《光帝シサカ》となってしまった以上、王としての務めは果たさなければならない。
 どうしてシルスウォッド卿が、〈大神術師アル・シャ・ガ〉が、第二分家の者である彼女を《光帝シサカ》として認めたのか。その理由はイゼルナなりに理解していたつもりだ。

 故に、期待に応えねばならない。
 その為には、己の手を汚さなければならなかった。
 望もうが、望むまいが。

「〈革新リボルヴァルッタ〉、あなたに頼みたいことがあるのですが」
「何なりとお申し付けください」
「……会戦の前に、シェリアラをここに連れてきて欲しいのです」
 イゼルナの青い瞳には覚悟を決めた者特有の力強い光が宿り、ヴィディアの目は良心の呵責に揺らぐ。
 《光帝シサカ》イゼルナ、彼女はある重大な決断を下そうとしていた。





 先ほど、シェリアラが軟禁されている天幕にヴィディアが訪れ、お達しを伝えてきた。
「シェッリアッラさっま〜、《光帝シサカ》さまからお達しでーす」
「何を言っているの、〈丘陵ルズベラ〉。私が《光帝シサカ》よ?」
「なーにを仰られてるんですか、シェリアラさま。あなたはもう《光帝シサカ》じゃないんですよ。今の《光帝シサカ》は、イゼルナさまですから」
 失礼だぞ、と眉を一文字にしたベンスはリュンを諌める。だがリュンはただ笑顔で「でも事実だし」とだけ言った。
「……リュン!」
「ボク、嘘はできるだけ吐きたくない主義なんだ。ごめんねー、ベン」
「お前の主義は聞いていない!」
 リュンはとにかく、不機嫌だった。
 まだベンスやシェリアラには伝えていないが、先ほどここに来たクルスムがリスタの死を告げてきたのだ。クルスム曰く、ユインの目の前でリスタは、ファルロンに撲殺されたのだという。言葉だけの報告ではどうにも実感が湧かないが、そう伝えてきたクルスムの表情の翳り具合から察するに、それは事実なのだろう。
 どうしてリスタが死ななきゃならないんだよ。そう考えるだけで、リュンは無性に苛立ち、殺気立った。でもまだベンスに、そのことは言ってなかった。今それをベンスに伝えれば、わけもなく混乱することだろう。ただでさえシェリアラを前に混乱しているというのに。それは彼の判断力を欠如させたくないからこその判断だった。
 それともう一つ、苛立つのには理由がある。リュンはシェリアラが大嫌いになっていたのだ。
 以前は美人だなーと思っていたリュンだが、長く彼女と接するにつれラントがああも 窶やつれ果てた理由に気付いたのだ。シェリアラさまは美人だけど、綺麗なのは顔だけ。それ以外はあまりにも我儘だし愚かすぎる、と。ベンスは生粋の女性恐怖症のお蔭でガチゴチに固まりそれどころじゃないようだが、リュンはシェリアラという女性に嫌気がさしていた。
 どうりでシルス卿は、彼女を《光帝シサカ》にしたくなかったわけだ。
 そんな皮肉を心の中で零しつつ、リュンはいつかのディダンの言葉を思い出していた。
『王宮は財政難でエディス・ベジェン大臣が毎日キーキー騒ぎ立ててると言うのに、シェリアラさまはその事実を知らない。衣服や装飾品に費やされる彼女の浪費癖もまた、財政難を悪化させる原因の一つなんですがね』
 ディダンはそのとき「私はシェリアラさまが正直好きになれません」とも言っていたような気もする。そして彼はリュンに、別のことも教えてくれた。シアルの本家がいかに第二分家を見下し、差別してきたかということを。その中で、イゼルナの両親が、シェリアラの母にあたるシェリラによって消されたという話も聞かされた。イゼルナの両親、ということは同時にリスタの両親ということにもなる。
 であればイゼルナの住まう離宮の警護が強固であることと、リスタがアルダンに匿われていたというのは、彼女らが本家の人間に命を狙われていたからなのだろうか。
 そう考えると、目の前のシェリアラが自ずと憎く見えてくるのだ。
「そんでシェリアラさま、《光帝シサカ》さまの天幕に来いとお呼び出しが掛かってますから、行きましょうねー」
 リュンはシェリアラに対し、間延びした口調でそう言う。そうするように諭しているというよりは、遠巻きに馬鹿にしながら命令しているといったほうが正しい口調。だがシェリアラは頑として譲らない。
 私が《光帝シサカ》なの。
 それの一点張りだ。
「ならばあちらのほうからここに来るよう、伝えてきなさい。第二分家の零落者ごときが、何を意気がっているのだか」
「そりゃあなたのほうですよ、シェリアラさま。もうあなたは《光帝シサカ》じゃないの、意気がってるのはアナタ。懐の広いシルスさまに見捨てられ切り捨てられたんだ、あなたはそれだけのことをしたってこと。ささ、行きましょ。今はあなたのほうが零落者なんだからね」
「リュン、だから口を慎めと!」
「零落者さまに慎む口はないよ。それにボクは言わせてもらうけどシェリアラさまが大ッ嫌いだ。ラン兄をあんなにボロボロにしたのはシェリアラさまだよ、許せるわけないじゃん」
「どうしたんだよ、お前……」
「どうしたもこうしたもないよ、仲間のかたきに優しくしろなんてボクには出来っこないし、したくもないね!イゼルナさまが今、どんな思いでいられることか!!」
「仲間の敵? どういうことだ、おい」
 しまった、とリュンは目を見開く。ベンスの眉が僅かに歪み、眉根がつり上がった。
「それはあとで話すよ、ベン。ねぇ、従者さんたち! 否が応でもシェリアラさまを連れ出して、《光帝シサカ》さまの天幕まで運んでくれるかな」
 てへっ、とリュンは黒装束の従者たちに向かって笑みを繕うが、誰一人として快諾したような返事は無かった。黒い布の裏で皆が嫌そうに、シェリアラを見ている。
 彼女はどこまでも狭い世界に居て、無知で孤独で独りだ。
 憐れむような視線を、リュンはシェリアラに送る。
 けれども機会は幾らでもあったはずなのに、狭い箱庭の外を知ろうとしなかったのも、俗世について少しでも学ぼうともしなかったのも、こうして孤独を選んだのも、それは彼女だ。
 自業自得。そうとしかリュンには、言いようがなかった。




 ベンスが羽交い絞めにして抱き上げることで、シェリアラの移動は完了した。だがそれを終えた後のベンスの顔といえば酷いもので、緑色の目は虚ろになっている。そして半開きの口で、フリア、フリア、フリアと妻の名を連呼していた。
 だがリュンはそんな彼に構うことなく、イゼルナの天幕に着くなり、何食わぬ顔でイゼルナの傍らに立つヴィディアの横に並んだ。
「ねぇ、ヴィッデ」
「なんや?」
「クル姐から聞いたかな、リスタのこと」
 そう話題を切りだすと、ヴィディアは何を言ってるんだという風に顔を顰めた。どうやら、聞かされていないようだ。「いいや、クルちゃんはここには来てへんな」
「あの凄く言い辛いんだけど……リッタが、死んだって」
「なんやて?!」
 ヴィディアが声を上げる。そしてリュンの声を聞いていたのか、ヴィディアの横に座っていたイゼルナがハッとリュンを見たのだ。限界まで開ききった青い目。彼女の肩が、小刻みに震え始めた。
「〈丘陵ルズベラ〉、それはどういうことですか」
「あ、あの、その、それは」
「兄上さまの身に、何があったというのですか! 説明してください!!」
 椅子から立ち上がるなりイゼルナは、リュンに対してそう詰め寄る。鬼気迫る表情は、決してイゼルナらしくはなかった。
「本日未明、リストリアンス卿はラムレイルグの拠点のほうでお亡くなりになられたと……」
「死因は?!」
「……撲殺、だと聞いております」
「誰がやったのですか!!」
「元〈咆哮ベイグラン〉ファルロン・セスら、暴徒と化した一部ラムレイルグ族の者たちだそうです。またファルロン・セスは先日付で〈神護ノ十剣トウィンガル・ラン・アルダン〉から追放されています」
「ファロンちゃんがアルダンから追放?! 聞いてへんで、そんなこと!!」
「でも、パヴがそう言ってたよ。アイツは追放だ、見つけ次第ぶった斬るって」
「何故、どうして兄上さまが殺されなくてはならなかったのですか!」
「昔からファルロンは、リストリアンス卿のことを恨んでいました。シアルの人間だからと。それに加えて、彼らはユインを取り合っていたような仲だったらしいです、クル姐が言うには。勿論一方的にファルロンが攻撃を仕掛けていただけで、ユインとリストリアンス卿は落花流水の……」
「……あぁ、何故なの。どうして兄上さまが、兄上さまが……!」
 ぐらり。イゼルナの体が揺れて、その場に力なく座り込んだ。閉じられた瞼の隙間から、大粒の涙が止めどなく溢れ出ては零れ落ちていく。彼女に仕える黒装束の従者たちはあたふたとし始め、ある者はイゼルナの肩にそっと手を置き慰め、ある者はイゼルナの涙を布で拭い、ある者はイゼルナの手を引き立ちあがらせ、椅子に彼女を座らせ、ある者はイゼルナと共に涙を流していた。ヴィディアもイゼルナの背をそっと擦っている。その光景に、リュンはただ目を疑った。
 従者、特に侍女といえば、自分の仕える主の愚痴ばかりをいって、仕事に対しても意欲がなく、どこまでも無愛想な人間しかいないと思っていた。
 それなのに、彼女の周りに居る従者たちは違う。誰もが彼女を愛し、敬い、好いているように、リュンの目には映っていた。
「今の話は、本当なのか」
 足音も立てずにリュンの近くに寄ったベンスは、ひそひそ声でそう問いかける。リュンはただ無言で頷いた。
「……ユインは」
「体は無事だって。心は分からないけど。ユン姉は意外と壊れやすいから。でも今はルドウィルくんが傍に付いてるはずだよ。クル姐はそう言ってから」
 イゼルナの嘆き泣く涙と、従者たちの悲しみに暮れる声ばかりが聞こえてくる。
 でも、なってしまったことはなってしまったことだ。嘆き悲しんだところで、失ったものは戻ってこない。でも、だからといえすぐに心を切り換えることが出来る人はそう居ないし、なにより泣くことで整理を付けるというのは大事なことでもある。
 そんな意味のないことに考えを巡らせながら、リュンは「うーん……」とただ唸る。そんな時だった。カラカラと乾いた笑い声が、空気の中に混じったのは。
「何故死んだか、ですって? 所詮、彼は第二分家の者でしかないからでしょうに」
 シェリアラだった。
 淀んだ青い目が蔑むようにイゼルナを見る。その視線は、自分をも蔑んでいるとも知らずに。
「神祖シサカの寵愛を受けていない、王家に相応しくない穢れた零落者だからこそ」
「それ以上はやめて下さい! シェリアラ、いくら王族である貴女でも、兄上さまの名誉を穢すのであれば赦しはしません!」
 イゼルナも立ちあがり、シェリアラを睨み据えた。胃に悪い緊張感が張り詰める。リュンとベンスは一、二歩と後退り、ヴィディアはイゼルナの前に一歩出た。前に出たのと同時にヴィディアが引き抜くのは、二叉の剣〈革新リボルヴァルッタ〉。赤黒く光る鋼からは火花が散る。そしてその切っ先は、シェリアラの喉首に照準が合わせられていた。
「シェリアラ。貴女にはもう、この国を治める王たる《光帝シサカ》の資格はありません。その証拠に、サノンは貴女を選ばなかった。サノンは私と兄上さまを選んだのです。私の額には聖光ノ紋章があり、兄上さまの右肩にも聖光ノ紋章は現れておられましたことがその証。けれども、貴女に紋章はない。薄く現れていたものも、既に消えて等しい。そして貴女には今この瞬間も、サノンの言葉が聞こえていなかった」
 イゼルナの澄んだ声に乗せられた鋭い言葉が、張り詰めた空気を震わせる。彼女が放つ超然とした雰囲気は、畏怖さえも周りに抱かせた。
 それは彼女が神話に登場する、心優しくも強かで、時に厳しい神祖シサカの化身であると思わせるには、十分すぎる材料だった。
「サノンは言っている。シェリアラ、貴女は純真無垢で無知であるからこそ、誰よりも歪に曲がって穢れていると」
 イゼルナはあくまで、虚心坦懐だった。邪な考えや先入観など無く、あくまで公私を分け隔てた無心の状態であると。奢り高ぶり人を見下している、傲岸不遜なシェリアラとは違って。その青い目に湛えられた、力強くも虚ろな光がそれを物語っていた。
「それに私は、やっぱり貴女を受け入れることができません。王宮という箱庭に満足している貴女を、他者にばかり施しを求めて、自分では他者に対して何もしようとしない貴女を、他者は自分に対して施しを与えるべきものだと、それが当たり前だと思っている貴女を、そして自分以外の人間を馬鹿にし蔑む貴女を」
「なっ、なにを言っているのよイゼルナ! 私は、私は……!!」
「貴女はいつも、私たち第二分家の者を王宮のお荷物、零落者と嘲り笑ってきた。それに貴女の母、シェリラは私と兄上さまから父ラルグドレンス卿を、母シェルティナを奪った! そして貴女は反乱因子のシエングランゲラを排除するどころか、彼女をシアル騎士団団長として認め、彼女の振り撒く災いを助長し、その結果私から兄上さまをも奪い去ったのです!! だから私は、貴女のことを決して受け入れられない。いや、絶対に赦すことができません」
 一歩、また一歩。剣〈革新リボルヴァルッタ〉を構えたヴィディアが、シェリアラに近付いて行く。彼女の周りから従者たちは一歩、また一歩と遠ざかる。天幕から逃げ出す者も居た。
 そして彼女を守護すべき立場にあるベンスやリュンも、イゼルナの傍から決して動かない。それは彼女を護るという役目を、放棄したという意思表示だった。
「仮にこのまま貴女を王宮内で飼い殺しにしていても、貴女は自分自身を着飾るために、王政の限りある財源を徒に食い潰すだけ。そんなことの為に財源を棒に振るくらいなら、私はその財源で飢えに苦しむ民を一人でも多く救いたい。それに貴女は王宮にとって、そしてシアルン神国にとって、居ても居なくても変わらない存在。今までは祀られる為だけに育てられてきたけれども、私が《光帝シサカ》になった今となっては貴女はもう不要。私が貴女に代わって、叔父上さまや文武資法の四大臣たちと共に国を導いていきます。民たちの心に触れたことがない者に、王は務まらないのですから」
 一度深く息を吐くイゼルナは目を閉じると、またゆっくりと瞼を開ける。青い目に燈る覚悟の炎。そして大きな声で、彼女は宣告した。
「全能の偉大なる主神《秩序ウカル》の化身であられる〈大神術師アル・シャ・ガ〉さまが一人だけであるように、人を治める王たる《光帝シサカ》は二人もいらないのです。それに、ただの偶像ほど必要ないものは他にないわ。だからこの場において、私は貴女を処分する」
「どうか、お覚悟を」
 ヴィディアは椅子に座るシェリアラの前に立つ。ヴィディアの琥珀色の瞳には、翳が落ちていた。そして〈革新リボルヴァルッタ〉の刃をシェリアラの首の横に当てると、片方しかない腕で柄をぎゅっと握りしめ、水平に振りかぶる。見開かれるシェリアラの目、何かを発しようと開かれた口。けれども、全ては一瞬だった。あっさりと、彼女の首が飛んだのは。
 その頃には彼女に仕えていた従者たちの姿はもう何処にもなく、彼女の体は椅子に取り残されたまま、美しい金色の髪を床に広げ、首はぽとりと落ちた。
「ヴィッデ」
 憔悴したイゼルナはまた床に座り込み、従者たちはそんな彼女に駆け寄り、ベンスは目を開ききったまま固まり、ヴィディアは剣を鞘に納めると、床に転がるシェリアラの頭を呆然と見つめる。ぼうっとするヴィディアの傍に、リュンが近寄った。
「これも、パヴからの命令のうちだったの」
「……分からん。でも、これで良かったんやろ。いずれにせよ、いつかシェリアラさまを処分することは、イゼルナさまが《光帝シサカ》に即位なされた時に決まってたも同然なんやから」
 その時、開戦を告げる角笛が彼らのもとにも届く。
「ついに、始まっちゃったね……」
「……せやな」
 天幕の外からは男たちの勇み声が聞こえる。それらは重なり合い空気を震わせ、それによって彼らの心を共鳴させて、彼らを鼓舞させているのだろう。だがその渦中に居ないリュンたちからしてみれば不快で耳障りな不協和音でしかなく、耳を塞ぎたい気分にさせられている。でもその声が持つ波動は、奇妙なものだった。不思議と興奮はしてくる。でも、何故だろう。今はこの天幕の外を出てはいけない気がしたのだ。
「今この外に出たら危ないって感じてるのは、ボクだけなのかな」
 リュンはヴィディアに、ベンスにそう問う。ベンスは眉を顰め、ヴィディアは天上を見上げて言った。
「ウチもそう思ってたとこや」
「……なんだか胸がザワザワするんだ。天変地異みたいな、そんな大きな何かが起こるかもって」
「天変地異だけで済めば、とても良いのですがね」
 イゼルナが突然、そんな物騒なことを口走る。
「それって一体どういう……」
「開国神話の話です。白いワタリガラス、またの名を英霊ラント。彼は世界に滅びを齎す黒い烏が舞い降りた時に、それを討つためにまたこの地を踏むと言われていました」
 シアルン神国に古くから伝わる、神祖シサカが山に潜む銀色で紫色の悪魔を打ち倒し、シアルン神国を拓くまでの叙事詩“開国神話”。
 知っているようで、あまりよく知らないその話。まさかとは思いつつも、リュンはこの戦争と関係があるのではないかと感じ取り、その話に興味を持った。
「イゼルナさま、もっとその話を聞かせてもらえますか」
「ええ、構いませんよ」
 そしてイゼルナは、開国神話について語り始めた。
「黒い烏が舞い降りると、世には混乱を齎す“黒い烏の落とした子ジェン・グラン・ゲッラ”が現れて、災いとなる火種を振り撒きます。すると封じたはずの銀色で紫色の悪魔が蘇り、また戦争を仕掛けてくるのだそうです。そして銀色で紫色の悪魔とシサカが《神託ノ地ヴァルチケィア》でまた衝突するとき、英霊ラントは白いワタリガラスの姿で現れて、シサカの兵士たちを鼓舞させるのだといいます。彼の鳴き声は兵を狂戦士に仕立て上げ、戦場に混乱を齎し、世界を掻き乱すとされています。すると“黒い烏の落とした子ジェン・グラン・ゲッラ”は混乱に乗じて狂った兵士たちをいいように束ねて、無益な争いをいたる所で起こさせるのだそうです。そこから先は文献が残ってないせいで、私にはわかりません」
「……ジェン・グラン・ゲッラと、シエングランゲラ。なんだか、似てるなぁ……」
 英霊ラントは、きっとラン兄のことをそのまま指しているのだろう、とリュンは考える。何故ならリュンは王宮を発つ時、彼の変貌した姿を見て非常に驚いたからだ。白い羽毛に覆われた腕や背中、変形し始めている肩甲骨。きっと白いワタリガラスに変わろうとしてる。本人の意思にかかわらずに。
 そして銀色で紫色の悪魔は、いうまでもなく旧オブリルトレ王家、それもユインのことだ。死んだはずなのに蘇り、そして今こうして会戦をしてしまっている。神話のそのままだった。
 それでシサカはシアル王家のことで、“黒い烏の落とした子ジェン・グラン・ゲッラ”はシエングランゲラのことを示しているのだろうか。
 だとすれば今聞こえてきているこの男たちの声は、白いワタリガラスのせいで興奮し狂戦士となった者たちの雄叫びなのだろうか。
「仮にこれが神話の通りなら、外から聞こえてきている声が止むか遠のくまで、ここから外には出ないほうが良さそうだね」
 リュンは落ち着いた素振りでそう言う。皆もそれに頷いた。