【第十六章 胡蝶の夢】

3 竜の威を借る溝鼠


 朝焼けに照らされ赤く染まる砂の上に立つパヴァルは、神国軍の拠点をまじまじと見つめていた。シルスの野郎がドジ踏んでなけりゃいいがな、と溜息を吐く。そんなパヴァルの右目には眼帯がなく、右目に埋め込まれた人ならざる黄色い異形の眼、蛇のような細長い瞳孔が剥き出しにされていた。昇りゆく陽が放つ眩い光にパヴァルが目を細めると、水龍神カリスが姿を現す。この辺りは随分と水が少ないな、とぼやくカリス。当り前だ、ここは砂漠だぞ。パヴァルはそう返した。
「まっ、真ッ昼間じゃねぇだけマシだ。あの作り物の日が昇りきり砂漠の水が枯れる前に、全てを終わらすぞ」
「そう上手く事が進めばいいのだが……」
 カリスは不安を煽るようにそう言う。
「進んでもらわねば、俺が困るからな。意地でも事は進めさせてもらう」
 ニタッと口元を歪めて笑うと、パヴァルは羽織っていた藍晶を脱ぎ捨てた。強い向かい風に吹かれ、藍羽織は天高く舞い上がり、そして消える。見えなくなったのではなく、気化した。青白い光を放ち、消散したのだ。藍晶が消えた地点、そこがこの閉じられた亜空間の天井。天高く広がっているように見える大空の先に、いつか地球と呼ばれた星で見上げた宇宙は無い。
 ならばその先に何が広がっているのか。それは分からないし、今はまだ知る必要もないだろう。何故ならこの空間から外に出ることは出来ないし、そんなことは求めていない。求めているのは、この空間から他次元へ転移すること。その為には、あのクソ神を利用しなければならず、また相棒とも運命共同体ともいえるこの水龍神の補助も必要だった。
「……確認だ、カリス。お前はアレを、絶対零度近くの温度で氷漬けすることが本当に出来るんだろうな。絶対零度ではなく、限りなく絶対零度に近い、だぞ」
「あぁ、当たり前だわい。炎神イガルリボルヴァルッタの邪魔さえ入らなければ、余裕というものよ。だから絶対に、我のもとに近づけるのではないぞ、あの暴走女神だけは」
 世界五分前仮説。
 今となっては大昔。昔懐かしのあの惑星で、ペルモンド・バルロッツィという名で大学に通い、研究漬けになっていた若かりしあの頃。同じ部屋に居候として暮らしていた金髪で甘党の友人が、いつだったか大真面目な顔をして力説していた。
 もしかすると世界は五分前に始まったもので、それ以前の記憶は誰かが作り上げた偽物の人格であるかもしれない、という可能性が決してないというわけじゃないだろう。なぁ、そう思うだろペルモンド。
 あのとき、ペルモンド・バルロッツィは適当な皮肉を織り交ぜた相槌を打って会話を終わらせた。

 どこかで頭でも打ちつけたのか、シルスウォッドくん。

 そんな風に、彼の話を適当に受け流した。だが、あの仮説はあながち外れでは無かったらしい。現にこうして、起こったのだから。
「ヴィディアを近付けさせなければいいのか?」
 全てが始まったのは、あの瞬間。サイランで起こった悪魔狩り。シアルン神国という亜空間が誕生したのも、その空間を流れる時間が動き始めたのも、リシュが誤ってフリアという少女を〈炎ノ聖獣使いシラン・サーガ・レイ〉に選んでしまったあの時だったのだ。
 それは全て、あの黒羽の烏を騙る神が仕組んだこと。この“シアルン神国”という亜空間を作りあげる計画のインスピレーションをある科学者の頭に刷り込んだのも、そうして生まれた疑似空間を自分の支配下に置いてシステムを暴走させたのも、そこに息づいていた“人々”を構築するデータを改竄し都合よく塗り替えたのも、全てがメクと呼ばれたあの烏、キミアという名のクソ神の仕業だった。
 それと同時にあの瞬間、アリアンフロドという世界全体の時を司る大神が、この亜空間に接触していた。この開いてしまった亜空間を閉じ、世界の歪みを正すために。だがアリアンフロドは、キミアが張り巡らせた様々な罠のうちの一つに引っ掛かり、その記憶も同様に改竄され、人格を塗り替えられてしまったのだ。それこそがスザンという吟遊詩人だ。
 あれは人でありながらも、どこか大自然を思わす超然的な雰囲気を醸し出す、一風変わった青年だった。また、そんな彼がパヴァルの前に現れたことにより、パヴァルという人格に塗り替えられていたペルモンドが“シアルン神国”という世界に疑問を抱くキッカケを与えてくれたのだ。善い神さまってのも居たもんだな、と皮肉を思い浮かべる。だが同時に、悪戯が過ぎる神も存在するが、と。
「違うわい! あの隻腕の女が持つ剣、その中に居る武神のほうだ。火を口から吹きながらマッハで空を飛び回る、あのお転婆すぎる女神のことよ」
「ああ、そっちか」
 そうしてペルモンドは曲りなりに疑問や矛盾点を突き詰めていくうちに、ある仮説に至った。
 それこそが世界五分前仮説。
 そしてその頃、同じ仮説に辿り着いた者たちがペルモンドの他に二人存在していた。それが〈大神術師アル・シャ・ガ〉と、政ノ大臣シルスウォッドの二人だった。
 〈大神術師アル・シャ・ガ〉ことアルスル・ペヴァロッサムは、ペルモンドのかつての教え子であり部下であった。そしてシルスウォッドはあのシルスウォッド、唯一無二の友人で且つ手のつけようがないほど紅茶に角砂糖を入れまくる甘党の変人、かのエルトルだった。
 そうして偽りの記憶は徐々に剥がれていき、封じられていた過去の記憶が取り戻されていったのだ。
「……」
 ありとあらゆる疑問が“アバロセレン”という中間点を通して“キミア、もしくはメク”という神に繋がったとき、ペルモンドは動きだした。
 あの神を利用する。ヤツをけしかければ、何かが変わるかもしれない、と。
 無謀と言えば、無謀な計画だ。超人や天才と持て囃されたペルモンドも、所詮は命ばかりが他の個体より長いだけの人間に過ぎない。大神アリアンフロドのように、先の未来を読めるわけじゃないのだ。
 だからこれは、賭けだった。ヤケクソで起こした勝ち目のない賭博。その中でも出来る限り策を張り巡らせた、イカサマの賭け。
「……人事は尽くした。あとはラントに賭け、天命を待つしかない」
 三つの武神ノ邪眼。あれもまた、キミアという神がこの空間を支配しやすくするために創り出した道具でしかなかった。
 一つ目の邪眼は〈大神術師アル・シャ・ガ〉の持つ錫杖に埋め込まれた大きな宝玉。あれこそが、ペルモンドを始め様々な人間の記憶を改竄し人格を塗り替える利器だった。
 ペルモンドはリスタとユインをサイランへと送り出したあとの晩、その宝玉を破壊した。すると、どうだろう。自分をスザンだと思い込んでいたアリアンフロドが、呪縛から解き放たれたのだ。そしてアリアンフロドのほうからペルモンドらに接触を図ってきた。キミアは一刻も早く抑えつけなければならない、だから自分も協力させてくれ、と。そしてアリアンフロドに、ペルモンドが企てた計画の上でも最も重大な任務を任せた。それが、理から外れた存在であるルドウィルの誘導だった。
「天命とは、神頼みか。はてさて、お主に手助けしてくれる物好きの神が、我以外に居ると思うのかね」
 二つ目の邪眼は、エレイヌの左目。琥珀色のほうだった。それは俗に言う千里眼というものだ。現在起こっている事象を見通せる、監視の目。だが彼女はその存在に気付いても居ないだろう。何故なら邪眼の能力は、全てカリスを通じてペルモンドの右目へと流していたからだ。それがエレイヌのためであり、そしてペルモンドの作業能率を上げるためでもあった。邪眼を使うことにより、ペルモンドの一つだけしかない目を補うことが出来たのだ。それはシアルン神国内に張り巡らされた幾つもの監視カメラの全てを一度に見ているようで、慣れないうちは気持ち悪いったらありゃしなかったが、慣れてしまえば非常に便利な道具だった。
 神出鬼没の独眼の水龍。
 そんな世間の評価は、この邪眼によるところが大きいことだろう。
「そんな物好きが居てくれることを願うしかない。俺も万能じゃぁないからな」
 三つ目の邪眼は、ユインの左目であったものであり、今はラントの左目となっているもの。即ち未来を見通すものだ。
 因みに、ラントにその邪眼を寄生させたのには理由があった。あれの体が鳥化するのを、敢えて誘発するためだ。処方していた薬剤も同じ理由だ。非常に残酷なことではあるが、黒い烏に抗うためには白い烏が必要だったのだ。
 開国神話の一節にある記述、空を割る白きワタリガラスというものを信じて。
「それを言うなら、神だって万能じゃぁないのだぞ?」
 そう言ったカリスの声のあと、薄気味悪い嗤い声が続く。ケケッ、ケーケケッ。声のした方角を向くペルモンドは、声の主を見るなり舌打ちをする。
 そこには大柄の黒羽の烏を騙る神キミアが立っていた。
「相変わらずお前は憐れな男だ、ペルモンド・バルロッツィ! まさに、竜の威を借る溝鼠だ!」
「そうだろうな。俺が溝鼠なのも、竜の威を借りているのも、間違っちゃいない。俺は結局、根っこは孤独な星のままだからな」
 興奮したかのように、ブワッと膨らむキミアの尾。開閉を繰り返す嘴は閉まる度にカチカチと音を立てながらも、更にうるさくガーガーと捲し立てる。
「この世界は俺サマが全て、この俺サマがルールだ! 所詮は人間風情であるお前に神の理は越えられない、いや越えさせやしねぇ!! お前とカリスの仲など、何度だって裂いてやらぁ!!」
 ケーッケッケッ。高笑うキミアに、カリスは嘲笑で返す。シャー……ッ、シャー……ッ。龍の囁きが、高笑いを打ち消した。
「残念だがなぁ、キミアよ。否、アバロセレンか? 我とペルモンドの絆は、お前如きが切れるほど脆いものではない」
「……絆、か。陳腐な言葉だぜ……」
「ペルモンド、お主は黙っておれ」
「……」
「それでだ、キミアよ。実は人間風情にでも、お主の定めたルールとやらは覆せるのだ。なにせ抜け穴だらけだからのぉ? それに、だ。偉大なる時司の神アリアンフロドの銀輪の支配下にないこの世界に、確約された未来とやらは存在しないのだよ。故に、いくらでもテコ入れが利くのだ」
「何が言いてぇンだ、カリス。今になって守護者サマ気取りか? 地下に住まう守護者だった龍は人間に裏切られ、代わりに人間を屠る悪龍に変わったんじゃァなかったのかェ?」
「我は我のために行動しているに過ぎない。故に我は、ペルモンドに手を貸した。お主に巻き込まれて、我までも消し炭となるのは御免だからのぉ」
「つまりはエゴか。なら、その男を永遠という鎖で縛りつけてるのも、またエゴかェ?」
「何が言いたいのだ、キミアよ」
「いいや。俺サマは、お前の魔の手から……――」
 キミアの言葉を遮るように、神国軍の拠点からは角笛が雄叫びをあげる。そしてペルモンドは空を見上げた。おおよそ、時刻は明ノ三刻サ・ゼクテ(午前六時)というところだろう。
「会戦したか」
 ペルモンドは口元に微笑を湛える。そして引き抜くのは、剣〈聖水カリス〉。
「悪いが、キミア。今はお前が敵だ。――……その件は、また別の機会で頼む」
 浮かべた笑みは引き攣り、瞳孔は開ききる。
 狂乱の宴が、幕を上げたのだった。