【第十六章 胡蝶の夢】

1 筆記者の導き


「ルドウィルくん」
 あのクソジジィ、いつかぶっ殺してやる。そんな悪態を吐きながら、藍晶姿でラムレイルグの拠点内をうろうろと彷徨っていたルドウィルは、突然目の前に現れたスザンに呼び止められたのだった。そんなスザンの横にシクはなく、ただスザンだけがそこに立っていた。けれども、ルドウィルは疑問に思う。何故ここにスザンが居るのかと。
 昨晩スザンは、この戦争に自分は関わりたくないから王都で待機していると言っていた。母のフリアも、それで同じく王都に残っているはず。それなのに、スザンがここに居る。明らかにおかしかった。
「スザン?」
「やぁ、ルドウィルくん。ちょっと君に話しそびれたことがあってね。やっぱり、来ちゃったんだ」
「……どうやって?」
「まぁ、色々とね。頑張って歩きで、なんてのは嘘だけど」
 ははっ、と笑顔が常套だったリスタのように笑って誤魔化そうとするスザン。作り笑顔のその裏に、一体何があるのかとルドウィルは詮索を試みたが、どうにもこうにも腹の底が探れない。それがスザンらしくなく、とても不気味に思えていた。
「笑って誤魔化すなよ。無理してリスタの真似してるみたいで、気味が悪い」
「そうだね。でも僕とリスタさんは違うよ。あの人の笑顔の裏には、なんだかんだでいつも悪巧みのようなものは何もなかったし。意外とリスタさんは策士なんかじゃなくて、ベンスくん並みとは言わないけど、本当はお馬鹿さんだったしね。昔はとても頭の良い策士、それこそディダンくん以上だったらしいんだけど、色々あって、重い障害と闘ってたみたいでさ。でもそれを、僕達にはずっと隠してた。あの笑顔は、障害と闘ってるのを隠す為の笑顔だったんだよ。だから案外、リスタさんは強がりな人だったのかもね。けれども同時に傷を抱えた弱い人でも、心と体が一致してない脆い人あった。まるでユインさんみたいに。だから、惹かれあってしまったのかもしれないね、似た者同士でさ」
「……リスタが?」
「まあそれはいいとして。けども今の僕の笑顔の裏には、確実に何かがある。流石だね、ルドウィルくん。こんな早くに見抜いてくれるなんてさ」
 なんか変だよ、スザン。ルドウィルはそう言う。そうかもしれないね、とスザンは言った。今までの僕とはちょっと違うかもだから、と笑いながら。
「それじゃあ、ちょっと場所を移そうか。他の人たちに聞かれると、少し気拙いからさ」
「どうしてさ」
「……僕としては、あんまり口外はしたくない恥ずかしい話になるからさ」
 気拙そうな笑顔でそう言うスザンだが、それすらも嘘であることをルドウィルは瞬時に察した。
 そうしてスザンに促されるまま、拠点から少し離れた場所にきた。そしてルドウィルは真っ先に、気になったことをスザンにぶつける。「でさ、スザン」
「なんだい?」
「シクは、どうしたの」
 うーん、と眉根を顰めるスザン。僕もよく分かんないんだよね、と言った。
「決別、ってとこなのかな。シクったら昨日の夜に急にへそ曲げちゃって、スザンにはもう付いていけませんって竪琴取り上げられちゃったんだ。だから、今の僕は実質的には〈水ノ聖獣使いシラン・サーガ・セク〉じゃない。けれどもシクがまだ他の主を見つけてないから、こうして髪の毛は青いまま、目も青いままってわけなんだ」
「本当に?」
「これは、本当の話だよ。だから昨日の夜からシクは行方知れずで。でも僕にシクはもう必要ないし、探すつもりも毛頭ないよ」
「……なんだか、冷めてない?」
 あれだけシクに依存してたくせに、とルドウィルは思うが、言葉には出さない。今は必要がないように感じられたからだ。
「そうだね、冷めちゃった。でも今の僕はもうスザンじゃないし、小さな肩書きに囚われているわけにはいかなくなっちゃってね」
「スザンじゃない?」
 先程からスザンの言動にルドウィルは、疑問符が止まらないでいた。もう訳が分からないと。今度は何を言い出すのかと思えば、僕はスザンじゃない。じゃあ誰なんだ! 疑問符も止まらなければ、苛立ちも止まらずにいた。
「はぁ?!」
「そう怒るのも分かるよ、ルドウィルくん。でも僕は、スザンじゃなかったんだって昨日の夜にハッと思い出してね。ユニ夫人とダルラ卿とお話をさせてもらってたんだけど、その中で自分の使命を忘れてたって思い出せたんだ。僕は世界の理を正す、流れる時間を刻む筆記者だったんだって。あの二人には本当に感謝しなくちゃ」
「そりゃだってスザン、メズンのおっさんから役目を継いでたし、それに」
「その筆記者じゃない。僕が刻むものは、重なりあう次元たち全ての記録なんだ。そして歪みが生まれないように、災いの芽を摘み取る者でもある。僕はこの世界に、その災いの芽を摘みに来た」
 ゆっくりと瞬きをするスザン。閉じた瞼がまた開いた時、ルドウィルは一歩二歩と後退った。何故ならスザンの目の色が、変化していたからだ。〈水ノ聖獣使いシラン・サーガ・セク〉の青い瞳じゃない。奇妙に、だが神秘的に光り輝く黄緑色の瞳だった。
「僕は、時間を正常に運行させる銀輪を回す者。それと同時に運命の糸を紡ぎ、起こり得た事象を全て記録する役。本来であれば目に見えない存在だし、僕は僕だけで僕の代わりは存在しないから、性別とかも寿命もない。ある意味では、君たちが敬い讃え畏れる神様に近いのかもしれないね」
「……スザンが、神?」
「そう。今の僕はこうして男の姿だけれど、昔は女性の姿でときどき世界を巡り歩いてたのさ。昼と夜を正常に運行させて、季節を順番に移ろわせて、栄枯盛衰のことわりを回していたんだよ。僕は一応自分自身を君たち人間の前ではアリアンフロドと名乗ってるけど、人々は色々な名で僕を呼んでね。僕を月から来た月の住人と見立てた変な人もいたし、僕を元にして生まれた神話の女神の名前、アリアンロッド、アランロドと僕を呼ぶ人もいたし、クロノスと呼ぶ人もいた。他には時量師神ときはかしのかみとかブラフマー、アイオーンとかもあったような気がするね。そこから色々な神話も生まれた。まあ、そういうことなのさ」
 そういうことなのさ、と言われてもルドウィルにはさっぱり理解出来ない。下瞼を上げ、首を傾げる。けれどもお構いなしにスザンは、喋り続けるのだ。
「僕がこの“シアルン神国”という国、というよりも亜空間に干渉した理由は、この歪んだ亜空間自体を消し去ることだったんだ。この亜空間は本来存在してはいけない、次元の歪みそのものだからね。だからシアルン神国は国を名乗っていながらも、その周りに国はないんだ。神国の周りを取り囲むのは、果てのない樹海だけ。そして樹海の涯てには、何もないし決してたどり着けない。そこは重力で綴じられているからね」
「……へぇ、歪み。そうなんだ……」
 さっぱり、分からない。
「世界っていうのは存外に脆弱なものでね、たった一つの歪みが開いてしまうだけで、世界全体が少しずつ傾いてしまう。そして全体の挙動が予測不可能に陥ってしまうのさ。そうすることによって、本来であれば成立する予定調和も歪みにより掻き乱され、辿るべき道から逸れてしまうことがあるんだ。そして世界の均衡が崩れてしまう。予定されている世界の崩壊が早まってしまうのさ。だからそれを、阻止しなくちゃならない。そうなる原因を出来るだけ速やかに排除しなければならないんだ。それなのに」
 はぁ、と突然溜息を吐くスザン。そして彼は自分の頭をコンコンッと叩くと、また話を始めた。
「僕ったらドジ踏んじゃってね。このシアルン神国に干渉したその瞬間に、亜空間を生み出した張本人の罠に嵌められちゃって。記憶をごっそり封印されて、あらかた改竄されちゃったのさ。そうしてスザンという人格が組み上げられて、一時的に僕は自分の役目、世界の時を回すという務めを放棄して、この亜空間の住民になってしまったわけさ。それが、君のお母さんが〈炎ノ聖獣使いシラン・サーガ・レイ〉になってしまった日。全てが狂ったあの瞬間だったんだ」
「務めを放棄すると、どうなるわけ?」
「僕が務めを放棄したから、だから今は、世界全体の動きが止まってる。このシアルン神国に流れるイカサマの時間は除いてね。僕がこの世界から抜け出せれば、他の世界はまた動き出す。正常にね。だからこの亜空間で流れた時間、十年でも五十年でも六千年でも、それは結局外の世界ではたった一瞬にしか過ぎない出来事なんだ。だから、その止まっている時間の中に本来は居るべき人たちは一切老けてないんだ。それがパヴァルさんであり、シルスウォッド卿であり、〈大神術師アル・シャ・ガ〉さまであり、ユインさん、ユニ夫人である。であるからこそ、今ならまだ取り返しが付く。その為にも、この閉じられた亜空間をどうにか突破して、外から閉じなければならない。その鍵が君、ルドウィルくんなんだ」
「オレ? まさか、そんな」
 突拍子もないスザンの話に、とうとう自分が巻き込まれた。苦笑いを浮かべるルドウィル。けれどもスザンの黄緑に光る目は、真剣そのものだった。
「これはね、ルドウィルくん。全て神の悪戯なんだ。主神《秩序ウカル》とか《業火シレイヌ》とか《霊水ヴィテナ》なんていう空想の女神さま、概念としての神じゃない。本当に本当の神様、種族としての神の仕業なんだ。僕のような神でありながらも、果たすべき務めを放棄したものの仕業。次元の歪みをこうして開いて、好き放題に遊んでいる神のね」
「種族としての、神?」
「そう、人という種があるように、神という種もあるんだ。そして僕たちの本当の敵は、その神なのさ。黒羽の烏を騙る、実態無き存在にして絶対を否定するもの。可能性の全てを秘め、あらゆる歪みを生み出す存在、キミア。最初にそれを見つけた彼は、敢えてそれをアバロセレンと名付けた。神の力を人が自由に支配できるようにするためにね。彼はそれを実現してみせたんだ。あの時ばかりは僕も驚いたよ、人間が神を従えたのかってね。けれども彼は代償に、キミアから永遠に終わることのない命、神の命を与えられたんだ。それで彼は、半神半人になるという禁忌を冒した。そして、それを仕組んだキミアこそが」
「……メク」
 ルドウィルくんは、鋭いね。スザンはフッと笑う。そして《神託ノ地ヴァルチケィア》を指差した。
「君は理屈を、次元を超えた特別な存在なんだ。実在する父と、実在しない母から生まれた、どちらでもないし、どちらにもなれる存在。僕のように、どちらにもなれない神とはまた違う。この広い世界の中でも唯一の例外。だから君のことを、彼が必要としてる。急いで援護に向かってあげて。彼だけじゃ、神の力を覆せないから。彼だけの力じゃ、この亜空間から抜け出せないんだ」
「彼って、誰のことだよ」
「ペルモンド・バルロッツィ。咎を背負わされた、人にも龍にもなれない異形の怪物。行けば分かるよ、ルドウィルくん。君が必要なんだよ。彼にとっても、神のせいで歪んでしまった世界の理のためにも」
 君に僕の力の一部を託すから。そう言いながらスザンはルドウィルの右手を取ると、その手を両手で包んだ。スザンの掌からルドウィルの中に、冷たい何かが伝わっていく。そしてそれが、体の芯に浸透していった。自然と体が温まる。ルドウィルは精力剤のようなものを飲まされた気分になっていた。
「あの神を、キミアを完全に打ち砕くことは不可能だ。僕のように、寿命とか絶命という概念がないからね。けれども、あの神がこうして積み上げた“シアルン神国”という亜空間の理を覆すことは出来る。既に楔を打ち込む用意は出来た。だから君は、その楔を世界を組み立てる理に深く突き刺すんだ。そうすれば、この世界は崩れて滅びる。そうすれば理は正しき道へ、逸れてしまっていた軌道が元に戻るんだ」
「楔? そんなことを急に言われても、オレには分からないよ」
「今は分からなくていい。きっといつか、分かるから。お願いだ、ルドウィルくん。だから彼のもとに向かってくれ。彼に手を貸してやってくれないか」
 そう言い終えるとスザンの体は、徐々に黄緑色の燐光を発し始める。どうなっているのかと訊ねる暇もないまま、スザンの体は光に溶けて消えていった。あとに残ったものは、ルドウィルの中にある。ドクン、ドクン。心ノ臓が打つ鼓動が、強く早くなっていた。
「……何がどうなってるんだよ、ワケ分かんねーよ!!」
 ルドウィルは苛立ち混じりの大声を上げると馬に飛び乗り、馬に走るよう指示を出す。方角はさっきスザンが指していた、《神託ノ地ヴァルチケィア》のド真ん中。馬はそこだけを目指し、真っ直ぐに駆けて行った。