【第十五章 輝きは此処に無く】

6 無垢なる百合は、其処にて眠る


 音は聞こえる。肌冷えする寒さも感じる。左手には、じんわりと沁みる温もりが伝わる。覚えのある甘い香りも、傍で仄かに匂う。殴られ、蹴られたあたりは、まだ痛い。胸は苦しいが、呼吸が出来ないことはない。だが光だけは、見ることが叶わなかった。
「どうだい。彼の意識は」
 足音が近付き、そして止まる。聞こえたのはユインの兄であり、シャグライ族を統率する男、イェガンの静かな声だった。
 ここはラムレイルグ族の拠点。前族長ダグゼン氏が、ユインとリストリアンスの二人を匿い立て籠っている、あの小屋の中だった。
「まだ、分からない」
 喉から絞り出したようなユインの声が、小刻みに震えている。少し冷たくなったリストリアンスの手を包むように握るユインの両手に、ぎゅっと力が籠った。
「……聞いてくれ、ユイン。あまり言いたくはないことだけど、会戦まで時間がないんだ。だから、どうか君も」
「嫌だ」
 全てはラムレイルグの戦士たちの士気を上げるため。下手に説得に出たイェガンだが、それもユインは、突っぱねるように一蹴した。
「俺は、こんな戦争に関係ない。関わりたくなんかない」
「でも君は、オブリルトレの家に生まれた女性なんだ。その意味が、君にだって分かるだろう」
「でも、そんな女王を捨てたのは他でもないシャグライ、 山ノ民サラニンだ。なんで、なんでそんな奴らの為に身を捧げなきゃならないわけ?」
 ダグゼンが用意した寝具の上に寝たまま、全く動く気配を見せないリストリアンスの手を握り、床に座り込むユインは、イェガンを睨むように見る。ユインのその目にうっすらと浮かぶ涙。それはどこかにぶつけたくても、イェガンにはぶつけられない、やりどころのない怒り、妬み、憎しみの結晶だった。
「……嘘でも、良いんだ」
 ユインが今までに、どれほど理不尽な仕打ちを受けてきたのか。それはイェガンも知っている。だからこそ、こんなことを切り出すことが本当に正しいのか。イェガンには、分からなかった。だがヌアザンがそう言っている以上、彼に協力するしかなかった。
 ユイン。彼女を利用しなければ、一族は生き残れないのだ。
「君が、女王である君が、一言でも声を掛けてくれれば、彼らの士気は」
「リスタをこんな目に遭わせた奴らの為に、そんなことをしようと思えるほど俺は善人じゃない! 戦いたければ、勝手に戦えばいいだろ! 勝手に戦って、勝手に死んでこいよ! 俺には関係ないし、これ以上巻き込まないでくれ!!」
「ユイン……!」
 そうユインが言い出すことくらい、イェガンには予想出来ていた。だが予想出来ていたからといえ、それに対する策を練れていたわけではない。どう返せばいいのかも分からず、ただ固まった。
 彼女がこう言いたくなる気持ちも、イェガンには分かった。頭ごなしに否定して隷属させることだけは出来なかったし、したくなかったのだ。だからこうして、下手に出て、懇願するしかなかった。
「……ユイン、頼む。君だけが頼りなんだ」
「……」
「君の声にしか、ファルロンらは耳を傾ける気がないんだ。ヌアザンが何を言っても、暴徒となってしまった彼らには届かない。もうダグゼン氏の言葉にも、耳を傾けようともしないんだ。だから嘘でもいい。彼らを、ヌアザンに従うよう 諭さとして欲しい。それだけで、良いんだ。その一言さえ君の口から」
 嫌だ。
 そう言われると、イェガンが覚悟したとき。ユインの腕が下に引かれた。
「……ユイン」
「リスタ!」
 ゆっくりと起き上がるリストリアンス。だが、その瞼が開くことはない。それでも見えているかのような振舞いを見せるリストリアンスはユインの方へ向くと、我儘を言う子供を諌めるように言った。
「彼の言うことに、君は従うべきだよ」
「なんでだよ!」
「……分別を無くした犬を躾けることが、その首輪を握る者の最低限の務めだって、ディダンがよく言ってたじゃないか。それに彼らの飼い主は他でもないユイン、君なんだよ」
 ユインの頭を撫でる、リストリアンスの冷たい手。その手は少しだけ弱々しく、僅かに痙攣していた。
「一度は君を捨てた山ノ民たちが、今は君を求めてる。だから君は、それに応えなきゃならない。それが偶像に与えられた、偶像にしか成し得ない役目なんだ」
 そしてユインから離れたリストリアンスの手は、リストリアンス自身の口を覆う。リストリアンスの細い指の隙間を縫って出てきたのは、どろっとした血液だった。苦悶に歪むリストリアンスの表情。イェガンは目を逸らさざるを得なかった。
「リスタ、ねぇリスタ!?」
「……すまない、ユイン。僕は、もう駄目みたいだ。動脈がちょっと、やられちゃったみたいで……ッ!」
「そんなの、そんなこと言わないでよ。まだ、まだ分からないだろ……?」
 酷く咳き込むリストリアンスから体温は引き、血は流れ出て行く。それは人が生きているが故に、いつかは訪れる引き潮の波。でも、ユインは許せなかった。その潮は自然に訪れたものでないから。人為的に引き起こされた、憎むべきものだから。
「もういいよ、喋らないで! お願いだから、横になって、体を温めなきゃ。だから起きてちゃダメだって、酸素が……!」
 リストリアンスの肩に置かれたユインの白い手も、気がつけば腕まで赤く染まっている。どうすればいいの。ユインは取り乱していた。
 人が血を吐いたとき、どう対処すれば良かったんだっけ。メズンは教えてくれていたような気がした。メズンはユインに、やってくれていたような気がした。でも、思い出せない。離宮で目が覚めたあの時から、ユインとしての記憶が虫食われたようにところどころ抜け落ちている。思い出せない。どうして、なんで、どうしたらいいの。リストリアンスの首筋に滑らせた指の腹は、脈動が弱まっているのを脳に伝えている。それでもリストリアンスは、落ち着いていた。
「……ユイン」
「だから!」
 冷たい手だった。ユインの頬に触れたのは。そしてリストリアンスは静かに、にこりと微笑む。そしてゆっくりと、起こしていた体を寝かせた。
「また、泣かせちゃったね。……君の、可愛い泣き顔が、最期に、見れ、なくて……残……っ、念だ」
「やだよ、なんでそんなこと言うの、まだ、だって……」
「……君との、未来も……見てみたかった、な……――――」
「リスタ、リスタ!! 起きてよ! ねぇ、ねぇったら、起きて!! ……嫌だ、嫌だよ、措いてかないで……リスタ!!」
 叫ぶように泣きながら、ユインは自分の頭を掻き毟る。
 また、自分の所為で人が傷付いた。
 また、大事な人が消えた。
 また、自分の所為で大事な人が目の前から消えてしまった。
 ユインは自分を責めた。今までのように、何度も何度もしてきたように。だが彼女が自分自身を責めるには、あまりにも彼の寝顔は穏やかすぎた。
「……嫌だ、やだよ、なんで、いつもこうなるの……!!」
「落ち着きなさい。落ち着くんです、ユイン!」
 イェガンは後ろから、ユインを押さえつけるように抱き締めると、彼女の動きを封じた。出来るだけ早い段階で彼女を押さえつけないと、あとで彼女はとんでもないことを仕出かすからだ。自分の体を傷つけ、果てには自殺行為に走り出す。その前に、止めないといけない。嫌がられようと、抗われようと、押さえつけなければならなかった。まだ彼女に死なれては、困るから。
 そうして時が経つとユインは次第に落ち着き始め、叫ぶことを止めた。ユインは座り込み、ただイェガンの胸を借りて泣く。このとき初めてイェガンは、兄の務めを果たしていた。
「……いいですか、ユイン。よく聞いてください」
「……」
 出来るだけゆっくりと、努めて冷静に。イェガンは今一度、ユインに協力を求める。諭すように、誘導するように。今の彼女なら、思考を放棄してる。だから。
「彼をこうしたのは、君じゃなくファルロンたちだ。そして彼らを放っておくと、また彼のような不要な犠牲者が出てしまうかもしれない。だから、ヌアザンに手を貸してやって欲しいんだ」
「……」
「一言だけでいい。君の口から、ヌアザンの命令に従うよう言ってくれれば、それだけでいいんだ。今のラムレイルグはファルロンが戻ってきたせいで二つに分かれてしまい、戦士たちが混乱してる。ヌアザンに従うべきなのか、ファルロンに従うのがいいのか、それが分からなくなってしまっているんだ。だから君から、道を示してやってくれないか。ラムレイルグの戦士は、黙って族長に従うべきなんだと。それ以外の行動は、女王の意思に沿わぬと」
 こくり、と無言でユインは頷く。その前に、体を清めましょう。そう言いながらイェガンがユインに手を差し伸べ、立ち上がらせたとき。外では、猛獣と龍神の怒鳴り声が轟いていた。
「おい、クソ親父! リスタが瀕死だァ聞いてねぇぞ、どういこった!!」
「ダグゼン! 事情を説明しやがれ!!」
 簡易小屋の扉が乱暴に蹴破られ、留め具が壊れた扉はあらぬ方向に傾き、倒れた。そこには藍晶を靡かせ剣〈 聖水カリス〉の牙を引き抜き構えるパヴァルと、毛並みを逆立て唸るウィク、そして眉間に皺を寄せたクルスムと、おどおどとした様子のラズミラが立っていた。
「クルスム……?」
「イェガン! お前、あのクソ親父を知ら……――――」
 ずかずかと上がり込んできたクルスムは一度声を荒らげたが、それもリストリアンスの姿を見るなり黙り込んだ。三白眼を剥き、口を半開きにして、顔を青くさせる。パヴァルも剣を納めると目元を強張らせ、ウィクは下を向き、ラズミラは短く悲鳴を上げた。
「……血さえなけりゃ、随分と綺麗な寝顔じゃねぇか」
 パヴァルは呟く。忌々しげに。そしてクルスムはイェガンとユインの二人に近付くと、そっと訊ねた。
「ファルロン・セス、だな。やったのは」
「ええ、そう言えるでしょうね」
 頷くイェガンと、俯き下唇を噛みながら涙をぽろぽろと流すユイン。そしてクルスムの米神には、青筋がくっきりと浮かび上がる。
 クルスムが同郷のものを愛称でなく、本名で呼ぶとき。それは怒りが怒りの範疇を超え、明確な殺意に変わったことを意味していた。
「……そろそろ痛い目を見させて、自分の罪に気付かせてやらねぇとなァ……」
 歪むクルスムの表情。そして彼女はブリュンナルカを携えると、イェガンとユインの二人から背を向け、ウィクに跨る。
「ウィク、ファルロン・セスのもとに行くよ」
「合点承知」
 電光石火の如く走り去るウィクを横目に、パヴァルは一つ溜息を吐く。そして仏頂面で、こう言った。
「ユン。お前には、俺の仕事を手伝って貰わにゃならねぇ」
「……」
「お前がヌアザンと共に、ラムレイルグを率いて戦場に立て。後は、分かるな」
 一切笑わぬパヴァルは、一本の斧槍をどこからともなく取り出し、それをユインに受け取るよう促した。ユインはよろよろと立ち上がりながら、パヴァルのもとまで歩く。その斧槍を掴んだ。
「断罪の斧槍、シュロンダイヌ。〈炎ノ聖獣使いシラン・サーガ・レイ〉の嬢ちゃんが持っていても宝の持ち腐れだと、〈炎ノ聖獣シラン・レイ〉さまから直々に、お前に渡すよう命じられた」
 するとパヴァルの藍晶の裏から、子狐リシュが顔を出した。そしてリシュはパヴァルの胸を這いあがるように上がっていくと、パヴァルの肩の上で一度安定し、それからユインの肩に飛び移った。
「勘違いするなよ、山の女王。俺はお前じゃなく、あの聞かん坊のウィルが心配なだけだからな。本来であれば〈炎ノ聖獣使いシラン・サーガ・レイ〉になるはずだったウィルを傍で見守っていたいだけだし、その神器を扱うに相応しい人間の手に渡したかっただけだ。無論、それはウィルだが」
 そんなリシュの言葉のあとに、遅れて小屋に顔を出したのはルドウィルだった。無事だったんだね、ユン姉ちゃん。ルドウィルがそう表情を輝かせたのも束の間、目覚めることのないリストリアンスを見るなり表情を曇らせた。
「……リスタ……?! どうしたの、リスタは!」
「……殺された」
「誰に!?」
「……ファルロン」
「……そんな、どうして」
「そういうわけだ、ユイン。お前は戦場に立て。戦うも戦わないもお前の自由だ。だが、戦場からは決して逃げるな。いいな」
「ユン姉ちゃんが、戦場に立つ? どういうことだよ、オッサン」
「ルドウィル、お前には関係のないことだ」
 表情を一切取り繕ろうとしないパヴァルの顔は、普段以上に冷めていた。それが何を示しているのかを、ユインはすぐに察した。
「そうやってはぐらかそうとするな! 関係なくないよ、俺はユン姉ちゃんを護る役目を」
「その役目は終わった。お前が守るべき女王は死んだ。そこに居るのはただのユインだ、女王じゃない」
「ワケ分かんねぇよ、説明になってないだろ!!」
「お前には関係のないことだ。何度も言わせるな」
「納得できねぇから聞いてんだよ、オッサン! って、おい、どこに行くんだよ、おい!! クソジジィ!!」
 この人は、早く次の段階に移りたいんだと。少なくともこの世界に愛着のある民の思いなど眼中になく、それを考慮する気も毛頭ないのだと。それが公明正大の体現者たる官の務めであると、信じて疑っていないのだ。
「……クソッ、あのジジィ。いっつもああだ。肝心なことは何も教えてくない。お前には関係ないって、じゃあアンタは関係あんのかよ。一体何さまのつもりなんだよ、あのクソジジィ」
 俺は、戻りたくない。あんな世界に。
 唯一無二の親友だったアレックスも既に亡くて、リスタもクルスムもラズミラも居なくて、ユニもユニじゃなくて、エリーヌもレーニンも居なくて、なにもない世界に。
 ここなんかと比べ物にならないくらいに不条理に出来てて、富める者や強い者はどこまでも富を独占していてどこまでも強くて、貧しい者や弱い者はどこまでも貧しくてどこまでも弱くて、自由や平等は名ばかりのあの世界に。
 どこかも分からない地下室に監禁されて、誰とも会えなくて、曜日感覚が分からなくなって、朝と晩の均衡感覚も狂って、体を裂かれ薬剤を投与され酷い目に遭わされて、それでも死ねなくて、頭が心がおかしくなって、それでも死ねなくて。

 あんな生活に、戻りたくない。
 ならばいっそ、壊してしまえ。
 何もかも、自分そのものを。

 その時ユインが見ているこの世界が一瞬、ぐにゃりと歪んでみせたのだった。