【第十五章 輝きは此処に無く】

5 蛇は誘い、光は堕ちて闇を見る


 ルドウィルが〈獅子レオナディア〉という名前を賜ってから、二年が経った。
「……あー、もう……」
 因みにあの時、リスタはその場に居合わせていなかった。パヴァルに徴集を掛けられたのだが、体調がそれどころでなく、パヴァルの許可を得てあの日だけは一日中自室に籠って横になっていたからだ。
 勿論そのことをディダンやケリス、ヴィディアやラント、クルスムなどは知っている。だが、知らない隊員たちも居たのはまた事実。そうして、そこに付け込んだファルロンが良からぬ噂を流した。その所為で、リスタの印象とやらは絶望的なまでに悪くなっていることだろう。現にリュンやベンス、ルドウィルから注がれる視線はどこか冷たくなっていた。
「……一体僕が、何をしたというんですか……」
 そして相も変わらず、ファルロンという障壁に阻まれ、ユインには近寄ることができなかった。
 最近の彼女は体調を崩してばかりで、毎日のように寝込んでいた。けれども、ファルロンはそんな彼女を放置している。けれども彼女に誰かが触れることだけは、決して許さなかった。
 故にクルスムとルドウィルは時折ユインの部屋に突入して、熱を出したユインの看護にあたった。だが、そうするとファルロンは激昂し、またクルスムもひどく憤慨する。そうして、二人は大喧嘩を起こすのだ。その喧嘩の程度といえば、普段は片時もクルスムの傍から離れることのないウィクが、呆れてリスタの部屋に逃げ込んで来るほどである。
 けれどもリスタは、やはり何も出来ずにいた。

 アンタは下手に手を出してくれなくていいよ、リスタ。変に拗れるだけだから。

 そうクルスムに言われたのもあるし、実際に手を出そうとすると、クルスムに可也嫌そうな顔をされるからだ。だから自分は、下手に関わらないほうがいいのだろう。今はそう割り切って、見て見ぬ振りを続けている。
 でもやはり、もやもやと、どこかがむず痒く疼くのだ。
「……って、エルサスに聞いても分からないよね。ごめん」
 メルデス、エルサス、ラルガスの三羽に餌を出したあと、リスタは猛禽舎の隅に座り込む。そして一人、溜息を吐いた。
「……あー、なんだかワケもなく疲れたな」
 思えば最近、リスタは笑顔を取り繕うことを忘れていた。無表情であるときが増えている気がする。今までも別に意味があって笑っていたわけではないが、笑わなくなったことで意味もなく気が滅入っていることは確かである。
 けれども、上手く笑顔が作れないのだ。
 老けたのかな、気はまだ若いつもりだったんだけど。そんなことを考えつつ、リスタは立ち上がる。あとの予定は特にない。だから今日は、もう戻って休んでしまおうか。立ち上がりざまにリスタは背筋を伸ばし、二、三度屈伸をする。そして猛禽舎の外に出る。戸に錠を掛けたことを確認し、リスタが振りかえったとき。そこにはスザンとシクが、音もなく佇んでいた。
「スザッ……?!」
「驚かせてしまって、すみません。先ほどからずっと、独りごとを聞かせて貰ってたので……」
「き、聞いてたんですか!?」
「ええ。リスタさんみたいにいつも笑顔で爽やかな人にも、悩みってあるんだなーって。というかやっぱり、ファルロンさんと仲悪いんですね」
 無邪気な笑顔を浮かべるスザンだが、対するリスタの表情は引き攣った。全身の毛穴という毛穴から、嫌な汗が吹き出す。
 さっきから一体、どれだけの愚痴を一人で零し続けていただろうか。どれも取るに足らない、くだらない小言ばかり。アルダンに居ても居心地は悪いだの、何よりも居場所がないだの、これも全部ファルロンの所為だの、なんだの。自分で何を言ったかを思い出すだけで、情けなくなってくるようなものばかり。そんなものを、他人に聞かれていだなんて。穴があれば飛び込みたい気分だ。
「……聞かれてましたか」
「聞いてました、ごめんなさい。でも二年前のルドウィルくんの簡易叙任式の時にリスタさんが居なかったのって、体調が悪かったからなんですね。徴集を無視してすっぽかしたって聞いたことがあったので、てっきりそうかと思ってたんですが」
「あれならファルロンが言いふらした法螺ですよ。それなのにあたかもそれが事実であるかのように広まっていて、もうどうしたもんだか。あの時の酷い頭痛を、アイツに味あわせ……――あっ」
 本音が、洩れた。
「今のは、聞かなかったことにしておきます」
「……すみません」
 リスタは額に手を当て、項垂れる。そしていつもの常套句、「すみません」を口にした。
 ひどく調子が狂っている。それはリスタ自身が、一番分かっていた。昔ならこんなにも、誰かに対する不満をグチグチと垂れることは無かったのに、一体自分は、どうしたのだろうか。どこまでも今の自分が情けなくて。情けなくて情けなくて落ち込んで、果てには消え去ってしまいたくなるのだ。
「……」
 まぁそう落ち込まないで、少し話しましょう。スザンはそう言いながら、リスタの手を引いた。
「それに最近のリスタさんは顔色が悪すぎるし、体調が優れないんじゃないんですか? だから少し、原因を取り除いてみましょう」
「原因を取り除く? そんなことが出来るんですか」
「完璧には無理ですけど、少し軽くすることは出来ますよ。それが命の水の素養を持つ者、水の女神《霊水ヴィテナ》の寵愛を受けた〈水ノ聖獣使いシラン・サーガ・セク〉の務めですから」
 そう言いながら、リスタを先導するスザンの左腕。そこには聖獣が持つ神器のひとつ、白波を模した竪琴ヴェレナーシュが携えられていた。
「それじゃあ、そこにでも座ってて下さい」
 スザンが指定したのは、近くにあった切り株の上。取り敢えずリスタは、そこに腰を下ろした。
「……」
 噂では聞いたことがあったような気がする。〈水ノ聖獣使いシラン・サーガ・セク〉の歌声は、傷や病を癒すのだと。だから〈水ノ聖獣使いシラン・サーガ・セク〉は烏の黒羽の標的になりやすく、酒場でおちおち寝ようものなら捕らえられて人身売買に出されることもあって、不運な最期を遂げた者も数多いというらしい。
 けれども、それは噂でしかないんじゃないのだろうか。今までスザンからそのような技術を持っているという話は聞いたこともないし、彼がそんなことをしていたという話も聞いたことはなかった。
 疑いの目でスザンを見るリスタに気付いたのか、スザンはにこりと笑う。疑ってるでしょ、そう言って。すると彼は竪琴を構え、張られた十本の弦を適当に指で弾いた。それに合わせるように、シクは蹄を固い地面に打ち付けて鳴らす。
「どうですか、不思議な感覚でしょう?」
 音は張り詰めた高音から、優しく広がる低音へと緩やかに変化していく。旋律の無い音を並べるスザンは楽しげに口元をほころばせ、リスタの身体はぶるっと震えた。その音が含む、異様な空気感。包みこむように温かく優しい響きがありながらも、威厳に満ちた空気感。それが人間の理解を超えたものであることは、なんとなく察しがついた。
「普段はこの竪琴、ヴェレナーシュを使って演奏することはないんです。だから、僕も久しぶりに弾くんですよね。なんだか変な感じです。それでヴェレナーシュの音には癒しの力があって、傷や病を少しだけ治すことが出来るんですよ」
「そうなんですか」
「普段は力を悪用されないためにひた隠しにしてるんですけど、リスタさんだけは特別に。顔色が悪すぎて、なんだか心配になっちゃったから。だからこのことは、秘密にしておいて下さいね」
 そうしてスザンは、竪琴を奏でながら歌い始めた。
 古代シアル語で書かれたという、その歌詞。リスタには何を歌っているのかなどサッパリ理解出来なかったが、けれども暗澹とした夜の雨中を連想させる、静かで物悲しく悄然とした旋律は、“何か”を訴えるには十分だった。
「……」
 いつの間にか力が抜けきり、重くなった手足。四肢は重く、背筋は気付かぬうちに丸く猫背になっていたが、何故だか頭だけはハッキリとしていた。それまでは霧の中を彷徨っているかのようにぼんやりとしていたというのに、視界が明瞭と見えるようになっている。立ち上がってみればその身体はとても軽く、さっきまでの倦怠感がまるで嘘であったかのように吹き飛んでいた。
「身体が軽い……!」
「それなら、良かったです。よくない影がリスタさんに憑き纏っているのが見えたとシクが言うので、弱い影は払って、払いきれそうもないものは極力遠ざけました。きっとファルロンさんの怨念みたいなのも、重荷になってたんだと思いますよ」
「よくない影、ですか?」
 ファルロンの怨念。リスタはその言葉に、寒気を覚えた。
「ええ。不吉な予兆というか、定められている運命を歪めて不吉なものを人に齎そうとする気の流れです。薄い影は人の恨みとか妬み、嫉みといった負の感情が気の流れに干渉したものだとされていて、濃いものはその人に課せられた業だとされています。見える人には黒い腕が肩や腕に纏わりついて見えるらしいので、よく“影”と呼ばれるんです。体の倦怠感とか、負の感情を溜め込みやすくなるのは、その影が傍に居るからなんですよ。ですから、それを出来る限り遠ざけました」
 スザンは竪琴を、肩から掛けていた鞄に仕舞う。そして純粋に青い瞳でリスタを見ると、彼は表情を強張らせ、眉間に力を込めた。
「でも、あくまでこれは一時的な措置です。また影は近寄ってくるでしょうし、よからぬ出来事がこれから続くと思います。……こればかりは、主神《秩序ウカル》があなたに課せた業なので、僕にはどうすることもできませんし、それがどんな業なのかは知る由もありませんが……」
「そうなれば 撥はね返せばいいだけですよ、業なんて」
「それが出来たら、いいんですけどね」
 スザンは苦笑う。
「現状、業を絶つ術を持つのは斧槍シュロンダイヌを与えられた〈炎ノ聖獣使いシラン・サーガ・レイ〉のみですが、当の彼女がシュロンダイヌの正しい扱い方を知っているのかといえば、あまり期待は……。それに性格の悪いことに定評のあるリシュのことですから、本来であれば〈炎ノ聖獣使いシラン・サーガ・レイ〉には相応しくない彼女に教えてなどいないことでしょうし」
 シクはシャッシャッと蹄で土を抉りながら、そう言った。
「業はどうにしろ、ありがとうスザン。大分、体は楽になったよ」
 リスタは笑顔を浮かべ、軽く腕を回してみせる。
 体は楽になった。けれども、不安は積み重なった。
 不吉な影。課せられた業。
 それが一体どんなものなのか、これからリスタ自身に何が起こると言うのか。それは誰にも、予知の邪眼を持ったユインにですらも、予想出来るわけがなかった。





 リストリアンスさまの幽霊が、たびたび城下町に出没しているらしい。
 そんな話をレゼットに扮して町に繰り出していたリスタが耳にしたのは、スザンから不気味な話を聞かされたその三日後のことだった。クルスムとウィクと共に王宮に向かう道のりの中で、町を行き交う女性たちがそんな会話をしていたのを盗み聞いたのである。手に汗握るリスタだが、幸いなことにも誰ひとりとしてリスタをじろじろと見てくる町人はいない。リスタに話しかけてくる人間はおらず、同じくその会話を盗み聞いていたクルスムやウィクも、さして気に留めている様子は無かった。
「へぇ、幽霊か。是非とも会ってみたいもんだぜ」
 ウィクは歩きながら、そんなことを言う。
「そっれにしてもリストリアンスってのは変な名前じゃねぇのか。誰だか知らねぇが、長ったらしいったらありゃしねぇよ」
 クルスムはあくびをしながら、そう返す。
「たしか、第二分家の亡くなられた御子息さまの名前だったと思いますよ。私の記憶が正しければ、イゼルナさまの兄にあたるお方でしたと」
 過去の自分を第三者視点で解説する日が来ることになるとは、と冷や汗をかきつつリスタはそう付け加える。
「へぇ。よく知ってるモンだねぇ、レゼット」
「なぁー。俺ぁ初耳だぜ」
「王宮に長く仕えていれば、そのような情報は一度や二度くらい耳にしますから」
 耳にするも何も、自分自身のことだ。
 心の中では自分に対しそんな悪態を吐きながら、顔では笑顔を取り繕う。昔ほど自然には笑えない。スザンの奏でた歌を聞いてから二日は一時的に改善されていたが、やはり一時的な措置でしかなかった。三日が経った今では元通り、笑みを浮かべれば自然と口角が引き攣る。
 クルスムやウィクも何か異変を嗅ぎ取ったような素振りを見せているが、かといって指摘してきたり咎めたりしてくる様子は無い。そんな彼女らの様子を窺いながらも、リスタは道を歩いて行く。そんな彼の真横、黒い影が風を切り凄まじい速さで横切って行ったような気がしていた。




「……え、あの、ハイ?」
「シエングランゲラさまが貴様をお待ちしている。だから、我々と共に来いと言っているのだ。何度も言わせるでない、レゼット」
 クルスムとウィクと別れたのちに、王宮内庭園を歩き回っていたレゼットことリスタは、気が付けばシアル騎士団の赤い軍服に身を包んだ屈強で大柄な男たちに囲まれていた。
「なっ、な、何かの間違いじゃありませんか?」
「いいや、シエングランゲラさまはたしかにお前を指名していた」
「だとしても、用件がある場合は〈神護ノ十剣トウィンガル・ラン・アルダン〉のほうにまず申し出ていただけないと、非常に困るのですが。ですので、用件があるのでしたら執務室に駐在している〈聖堂カリヴァナ〉ケリス・シャドロフ大臣、または〈道化師ジェイスク〉ディドラグリュル・ダナディラン・ドレインス大臣補佐官まで……」
 大抵の貴族たちは、こう言いさえすれば引っ込んでくれる。下心のようなものがあってリスタに声を掛けてくる者たちも、中には少なくないからだ。そんな不純な動機を持って声を掛けて来る者たちには、こうして〈神護ノ十剣トウィンガル・ラン・アルダン〉もしくは〈聖堂カリヴァナ〉の名前を出せば、あっさりと引き下がってくれるのである。
 だから引き下がってくれることを願ってそう切り出したのだが、リスタの目と鼻の先で鬼のような面構えをしているこの男はどうにも引き下がってくれそうにないようだ。
「意地でも自分は、ただの下っ端だと言い張るつもりか、レゼット」
 ふんっと鼻で笑う目の前の男は、リスタが羽織る藍晶の裾を捲って見せた。露わになるのは、剣〈不死鳥レイゾルナ〉。シアル騎士団の軍服を着た男は、それを指した。
「ならば、貴様が携えているその剣はなんだ。霊剣〈不死鳥レイゾルナ〉じゃないのか」
 シアル騎士団の軍服を着た男たちは、皆一様に醜い笑みを口元に湛えていた。
「貴様の正体は把握済みだ、亡霊」
「否が応でも来てもらうぞ、リストリアンス卿」
「違います、私はレゼッ……――――」
「いつまでも下手な嘘が通じると思うな、第二分家の零落者がァッ!」
 リスタの耳元で怒鳴る男はリスタの胸倉を掴み上げ、首周りにゆるく巻いていた襟巻を締め上げた。リスタの息は詰まり、顔から血の気は引いていく。呼吸が出来ない。辛うじて開けた瞼から、リスタは襟巻を絞める男を青い目で睨んだ。
 それでも男は、嗤っている。
 その姿は、とても醜かった。
「どうだ、苦しいだろ。ひ弱な第二分家の零落者サマは、抗う術も持ち合わせていないとな?」
 ふとリスタの頭を過る、両親と妹の面影。
 父であるラルグドレンス卿はいつでも聡明で、正しかった。
 母であるシェルティナはいつでも強く、そして慈愛に満ちていた。
 妹のイゼルナだって、聡く正しく強く、それでいながらも慈愛に満ちている。
 シアル第二分家が零落したと、いつ誰が決めたのか。
 第二分家であるからと不当な扱いをするなど、赦されるものだろうか。
「……離せ」
 それが王族であろうが民であろうが関係ない。
 人は、人だ。
 みな対等であり、平等であるべきだ。
「離せと言っている!」
 リスタは右足を軸にして力強く踏ん張り、左脚を勢いに任せて蹴り上げた。曲げた膝は男の脇腹に入り、男は怯んだ拍子にリスタの襟巻から手を離した。その隙にリスタは体を右回りに捻り、男の巨体を背負いあげると、男の左腕を掴み、捻り、その巨体を放り投げた。どさっと地面に落ちた巨体。土ぼこりが舞った。
「……」
 リスタは男を投げてから思う。これは相当なことをしてしまった、と。そうして次は一体誰が襲いかかってくるのかと臨戦態勢を取ったとき、どこからか拍手が鳴った。
「見事だな」
 物陰から、小柄の若い女が姿を現した。
「流石は、神を護りし十の剣が一剣だ。レゼット。いや、〈不死鳥レイゾルナ〉のリストリアンス・シャグリィアイグ・シアル卿とお呼びしたほうが正しいのかな?」
 鋳物のように光り輝く長い金髪を後頭部で束ね、シアル騎士団の赤い軍服を着こなし、青い瞳でリスタを見定めている彼女は、噂に伝え聞いていたお転婆姫さまのようだった。
「……シエラ……!」
 彼女は政ノ大臣シルスウォッド卿の娘、悪名高きシエングランゲラだ。
 お転婆姫や姫騎士などと呼ばれ可愛がられていた時期もあったが、母親が分からぬ忌み子として貴族連中から嫌われていたのも事実で、また父親であるシルスウォッド卿も彼女のことを“神の落とし子ジェン・グラング・アル(親の分からない子供のこと。または孤児を指す)”と呼んで敬遠していた。そんな彼女が今、リスタの目の前に居る。それも、正体を見抜かれていた。
「その名はとうの昔に捨てた。我が名はシエングランゲラ・シャグリィアイグ・シアル。シエングランゲラ、そう呼べ。それが出来ないのなら、貴様の首をこの場で刎ねるぞ」
 一体、何のためにシエングランゲラは接触を図ってきたのか。少なくとも、何かしら目的があることは確かなのだろう。だが、その目的とは。リスタには、見当もつかなかった。
「……」
 シエングランゲラの明らかに見下しているかのような口調に苛立ちを覚えながらも、リスタはシエングランゲラとその部下たちを警戒するようにキッと睨む。部下たちは一歩、また一歩と後退っていくが、シエングランゲラだけは違かった。まるで馬鹿にしているかのように、ハッと高笑う。威勢だけは立派なようだ。そうも言ってのけた。
「まあ、そう怒るな。リストリアンス卿よ。状況は一対十五なうえに、貴様はかの零落した第二分家の者だ。どうせ貴様に勝ち目など無い。素直に諦めたらどうだ、ええ?」
「……何が、目的だ」
 リスタの清らかな光を湛えた純朴な瞳は、シエングランゲラの昏い闇に包まれ淀んだ瞳に潜んだ、あるものをを探ろうとする。だが悪意を悪意として受け取れぬリスタに、彼女の歪んだ悪意に気付けるはずもなかった。
「私の目的だと? 愚問だな。聞かずもがな、分かっているんじゃないのか」
 またシエングランゲラもその昏い闇に蝕まれ苦しむ瞳で、リスタの穢れ無いように見える純朴な瞳の奥にある、秘密を暴き出そうとしていた。けれども嘘偽りない正直な心など無いと考える彼女に、彼の嘘など吐けないどこまでも愚直な心は理解出来るはずもなかった。
 シエングランゲアの抱える闇は、あまりにも暗すぎて。
 リスタの湛える光は、あまりにも明るすぎたのだ。
 相殺しあうその二つは、お互いにお互いの心の内を探ることが出来なかった。
 だからこそ、睨みあいが続いていた。
「開国神話の“銀色で紫色の悪魔”、または銀の髪の女王、旧オブリルトレ王家。これらの言葉に、聞き覚えはあるだろう」
「……」
「私も最近耳にしたばかりの話でな。シアルン神国という国が、神祖シサカの手によって平定される以前。この国は実りと火山のサラネム、飢えと砂漠のブルサヌ、交易と水のアルヴィヌ、その三つに分断されていたのだというらしい。ブルサヌはシアル王家、サラネムはオブリルトレ王家が、アルヴィヌはオブリルトレ家に仕える神官〈大神術師アル・シャ・ガ〉が治めていたという。そして白金戦争が起こり、開国に至ったわけだ」
 リスタにとってその話は、全てユインから聞かされたものだった。
『開国神話に出てくる悪魔っているでしょ。神祖シサカに討たれる“銀色で紫色の悪魔”。あれってね、旧オブリルトレ王家のことなんだ。言わずもがな、銀色ってのは髪のことで、紫は目の色のこと。だからシャグライは、悪魔って呼ばれて迫害されて来たんだ』
『昔、それこそ六千年も昔。この国には三人の支配者が居たっていわれてる。金の髪のシアル、銀の髪のオブリルトレ、それと〈大神術師アル・シャ・ガ〉の三人ね』
『でも、この三人の支配者、三つの家は、元を辿れば一つの一族に行き着くんだ。それこそ八千年前、全ての人間たちは皆サラネムに住んでいた頃にね。その時の人間は本当に少数で、今の人口の十分の一にも満たなかったと言われてる。でもその時、人間たちは一つの大きな家族だったんだ。一人の支配者の下、優れた能力を持った首長の下にね』
『その時の人間たちは、今みたいに髪の色や目の色で区分されることはなかった。後にラムレイルグと呼ばれるようになる茶髪茶眼ラファスレムの民、西アルヴィヌを中心に根付くことになる茶髪緑眼ラファスドロの民、北アルヴィヌに多く根付いている茶髪碧眼ラファスアルの民、東アルヴィヌの限られた地域に迫われた黒髪黒眼ソメソクロンの民、そしてシャグライの祖先である白髪紫眼オブリルトレの民と、シアル王家の祖先である金髪碧眼シアルの民。皆、同じ仲間だった。同じ人間だった。それなのに、いつからか歪んでしまった。皆を取りまとめることが出来る、相応しい能力を持った者が指導者になるという仕組みが壊されて、王になるべくして産まれてくる血脈、王族というものが作られてしまってから、世の中には不条理というものが産まれてしまった。そんな悲劇が今もなお、こうして当たり前のように続いてるのさ』
『だから、こんな世界が嫌いなんだ。髪色とか家柄とかで人が左右される、不条理な世界が』
 ユインはそう言っていた。リスタもそう思っていた。
 シアル王家の美しい金色の髪を青い瞳を持つからと持て囃され、また恨まれる。
 シャグライの神秘的な白い髪に紫色の瞳を持っているからと疎まれ、また羨望の視線を注がれる。
 持て囃し、恨み、疎み、羨望する人々は不条理に思うことだろう。どうしてそれを自分は持っていないのかと。でも持て囃され、恨まれ、疎まれ、羨望される人々もまた不条理に思うのだ。どうしてそれを自分は持ってしまっているのかと。
 そんな負の感情しか生み出さない不条理が「秩序」というものならば、そんなものはいらない。そんなものは、無くていい。だって昔は、そんなものがなくても人間の世界は成り立っていたのだから。
 だから、そんな世界が見てみたかった。
「それで、どうなんだリストリアンス卿。貴様は知っているのか、オブリルトレの女王を」
 シエングランゲラの目は依然闇の中を漂い淀んだままだ。その闇の中では姑息な毒蛇が細長い舌をすばしっこく出し入れしては、リスタを闇の中へと誘うように拱いている。
「答えないのか、ええ?」
 だがリスタは屈しなかった。ここにきて漸く、彼女がリスタから引き出したい情報の察しがついたからだ。
 オブリルトレの女王。それは即ち、ユインのことだ。
 ユインのことを聞き出して、シエングランゲラが一体なにを仕出かそうと企んでいるのか。それはリスタには分からない。けれども、ユインという名前を出してはいけないような気がしたのだ。
 僕は彼女を、守ると決めた。たとえ、この身に変えることになったとしても。
 だからこそ、引き下がるわけにはいかなかったのだ。
「聞いたことなら、ある。オブリルトレというのは、かつてサラネム一帯を支配していた王族だと。優れた神術の腕を以てして、十柱の神を従え、雷槍ミズオルゲイルグスの光の下に、民を支配し富と名声を意のままにしていたと」
「ほぅ、やはり知っていたか。かの忌々しいオブリルトレ家の末裔と通じているだけはある」
「何のことだか」
「すっとぼけても無駄だぞ、リストリアンス卿よ。貴様の動向の全てを、私は把握している。シャグライ族の長の娘、ユイン・シャグリィアイグ・オブリルトレ。シアルン神国に仇なそうと息を潜めている女と、情を通じあっているそうじゃないか」
 シエングランゲラの浮かべる不敵な笑みは揺るがず、だがリスタの目は揺らぐ。アルダンの仲間にも知られていないことを、どうして敵が握っているのか。不可解でならなかったのだ。
 一体この毒蛇は、いままでどこに潜んでいたというのだろうか。リスタは考える。分からない。それも、そのはずだった。パヴァルやエレイヌが勘付いていることに、気付いていなかったから。ディダンやクルスムも薄々そうだと気付いていながらも、それを表に一切出していなかったから。
 決して、完璧に隠し通せていたわけでは無かった。小さな穴はあった、至るところに。その小さな穴からこの毒蛇は侵入していたのだから。
 穴と穴の間を潜り抜けて行く鼠を、気配を消して音もなく追う姑息な蛇。
 堂々と獲物に真正面から襲い掛かる龍とは異なる、闇に潜む者特有の卑怯さ。
 その卑怯さこそがシエングランゲラの武器であり、同時に弱点でもあった。
「私の目的はただ一つ。貴様が私の計画に協力すること、それだけだ。だが寛大なこの私は、貴様に拒否する権利も与えてやろう。まあ、貴様が拒否権を行使する時は、離宮を襲撃するだけだがな。可愛い可愛い妹の命は、無いものだと思え」
 最後に蛇は舌を出して笑うと、赤くて金色の細い体を翻して、リスタの前から立ち去って行った。御供たちも引き連れて。
「……イゼルナ……」
 一難去り、緊張が解けるのも束の間、リスタの胸打つ鼓動は落ち着くばかりか早まっていく。強く、早く。そして遠のいていく足音とは別に、近付いてくる足音が聞こえてきていた。
「大丈夫か、リスタ」
「……パヴァル?」
 振り返ればそこには、腕を組み、壁に凭れかかるようにして立つパヴァルが居た。パヴァルの目は冷たく、シエングランゲラの背中を視線で射抜くようにじっと見ている。そこに感情は無く、動く標的を目で追っているだけの虎ような雰囲気すら感じさせた。
「悪かったな、リスタ。助けに入れなくて」
「聞いていたんですか、全て」
「ああ、そうだ。聞かせてもらっていた。運が良かったってモンだ。ン十日張り付いて終に得られなかった情報を、お前を通じてシエングランゲラから易とも簡単に引き出させたんだから」
 よくやったな、リスタ。そう言いながらリスタの肩をポンポンっと叩くパヴァルの蒼い目は、まだシエングランゲラの背を睨んでいた。
「……やはりシエングランゲラは、何かを企んでいるんですか」
 そんなパヴァルの異様な雰囲気から、リスタの疑問は確信に変わった。
 シエングランゲラは何かを企んでいる。
 だがそれが何かは、皆目見当が付かない。
「ああ、どうやらこの国を揺さぶりに掛かろうとしているらしい。……だが、行動原理が分からない。まさか、自分の親父に構ってほしいなどという下らん理由ではないだろうしな……」
 珍しく、パヴァルの語尾が曖昧に濁された。どうしたのだろうか、とリスタはパヴァルの顔をまじまじと覗き込んだ。すると、パヴァルの視線がリスタに向く。そしてパヴァルは言った。
「それにお前の正体が敵に漏れてしまっていた以上、これ以上レゼットとして隠し通すのは不可能だろう。王宮中に噂が広まるのも時間の問題だ」
「……」
「……ならば、それを逆手に取ればいい」
「……逆手に、取る?」
 ニヤリ。引き攣るように上がるパヴァルの口角。けれども、やはり目は笑っていない。嫌な予感を感じ取り、リスタの表情は自然と固まった。
「リストリアンスには、生き還ってもらうとするか」
「……!?」
「そうしたほうが、お前も安全なんだ。それにイゼルナさまも、な。多少の犠牲は払うことになりそうだが、それも致し方ない」
 致し方ない。
 嫌な、言葉だ。
「さて、リストリアンス。お前にはこれから一芝居打ってもらう。《光帝シサカ》継承ノ儀まで、敵の目を欺き俺に情報を流すんだ。その際、神国の為とはいえ仲間の目も欺くことにはなるが……出来るか、リスタ」
 出来る、とは決して言いたくは無かった。成し遂げられる自信もなかったし、仲間を騙すなどしたくはない。
 それでも、やるしかなかったのだ。
 神国の為。その為にあるのが特務機関〈神護ノ十剣トウィンガル・ラン・アルダン〉。
 それに所属している以上、その使命を果たすのが務め。
 それすらも果たせぬ者に、剣を賜わう資格は無い。
 だから。
「……やります」
 その決断が果たして正しかったのか、はたまた間違っていたのか。それは結局、誰にも分からなかった。そう決めたリスタすらも、はたまたそうするよう促したパヴァルにさえも。
 そして定められていた運命は捻じ曲げられた。
 リスタに付き纏う影、絶対を否定する者、Chemistryの名を持つ“神”の手によって。

 黒羽の神は、ただ嗤う。ケーケッケ、と。
 だがその嗤い声は、誰にも聞こえていなかった。





 どうして、こうなった。
 リストリアンスが全てを後悔したとき、何もかもが手遅れとなっていた。
「……」
 ケリスによって放り込まれたのは、がらんどうの地下牢だった。そこは何十年と人が立ち入ることが無かったせいか、じめじめと湿っていてカビ臭い。薄気味悪い暗闇だった。そしてリストリアンスの周りを取り囲んでいたのは、温度の無い冷たい鉄格子。
 覚えのある感覚だった。あぁ、とリストリアンスは思い出す。
「……もう、何年も前の話だろう……」
 それはずっと昔の話。二十年以上も、前のこと。
 非力だった憐れな子供は、地下に囚われた。そこで散々に弄ばれた。自由を奪われて、呼吸も出来なくて、声を上げることも許されず、玩具にされた。
 そうして子供は、心を病んだ。心を閉ざした。死に逃げようと、死に救済を求めた。
 でも神はそんな子を〈天界アルラウン〉に迎え入れるのを拒んだ。
 あくまで神は、子を〈下界シャンライア〉に送り返したのだ。
「……あの時に、僕なんて死んでいれば良かったんだ。そうすれば、彼女はこうならなくて済んだ。僕は……」
 地下牢の隅に蹲るリストリアンスは、自分の金色の髪を右手で鷲掴む。その手はふるふると痙攣していた。
 《光帝シサカ》継承ノ儀。
 あれは全て、シエングランゲラが立てた台本通りに進んで行った。
 聖杯は破壊された。メズンという薬師も死んだ。
 そしてオブリルトレの女王を、ユインを、この手でリストリアンスが壊した。
「……それなのに、どうして生きている……!」
 リストリアンスの手には、抜けることなくまだ染みついていた。ユインの肌の温度も、彼女のいやに生暖かい血の温もりも。耳の中では、あの劈く悲鳴が山彦のように反響を繰り返している。
 どうしていつも、こうなるの。
「……全部、僕の所為だ……」
 リストリアンスは左手で、震える右手首をきつく握りしめて押さえつけた。だが一向に右手首の痙攣は治まらない。それどころか、震えは激しくなっていくばかりだ。
 最後にあの薬を呑んだのはいつだろうか。リストリアンスは思い返す。五日も前のような気もする。道理で体の自由が利かないわけだ、とリストリアンスは納得した。下半身はもう既に、思うように動かなくなっていたからだ。
 どうやって力を入れれば、立ち上がれるのか。体が、脳が、分からなくなってきている。でも薬は、手元にない。シエングランゲラの下に降ることになった時、パヴァルから多めに貰っていたものも全て無くなってしまっていたのだ。あとはこの身体を、騙し騙しでどこまで保てるか。そこに全てが賭かっていた。
 と、そのとき。地下牢と外界を隔てていた、岩の戸が開けられる。誰かが地下牢に降りてきたのだ。長身で、小太りな男だろうか。僅かに差す光を受けたその人影は、そんな風に見えていた。
「……ふっ。シルスウォッド卿も、お忘れになられていたのかな。この地下牢は今も法ノ大臣の管轄下にあり、それは政ノ大臣であろうと〈大神術師アル・シャ・ガ〉であろうと、はたまた《光帝シサカ》であろうと手が出せないということに」
 聞こえてきたその声は、法ノ大臣ヤンダル・ガルト・ヴァルダス。年老い白くなった頭が、闇の中に見える。そして彼はリストリアンスが入れられていた牢の鍵を開けた。すると彼の背後から、シエングランゲラが姿を現す。
「ご苦労だった、ヤンダル・ガルト・ヴァルダス。さぁ、リストリアンス卿。早く立たぬか」
 卑しく笑う、姑息な蛇。それはリストリアンスの腕を強引に掴むと引っ張り上げ、立ち上がらせた。
「貴様の仕事は、まだ残っているのだからな」
 闇はどこまでも深く、涯ては無い。そんな闇の中に、リストリアンスは堕とされていた。
 逃げ場は何処にも残されていない。それに自力で抜け出すには、もう手遅れのようにも感じられる。そんな深い暗い闇の中。更なる深みへと、今まさに引き擦り落とされようとしていた。
 けれども、抗う手段はどこにも残されていない。
 まるで、いつかのあの時のように。
「……」
 されるがまま、流されるがままに彼の身体はただ動く。自我は徐々に、崩れ始めていた。





 牢獄からリストリアンスが解放されてから、約一月が過ぎようとしていた。
「……なんてことを、してしまったんだろ……」
 ユインが儀の前に認めていた、一通の書。それが遂に、リストリアンスの手に届いてしまった。ルドウィルという、鍵の青年を通じて。


 私の、この体は直に朽ちる。
 真なる終わりへと進む道を探し求めるのでしょう。
 もし神が存在しているなら
 それが時至れりと思しめされるのであれば
 この世全ての罪と共に、何もかもを御許へお返しいたしましょう。

 もう私が、過去の幸福を羨むこともありません。
 遥か昔に過ごした一時だけの幸福な日々を
 取り戻したいとは望みもしません。
 ただ希むも、叶えるも終焉のみ。
 この命を以てして、
 神と言う幻想に囚われた者たちの
 永遠の解放だけをただ望み、
 実現してさしあげましょう。

 深き青の上げ潮と共に齎される黄金の輝きは、
 濁りし茶の猛々しき引き潮と共に奪いゆく白い光へ。
 上げ潮は貴殿に何を齎し、
 引き潮は貴殿の手から何を持ち去るのでしょう。

 栄華は束の間の夢、
 上げ潮のあとに引き潮が来るが故に。
 だから私は
 私は期待をしない。
 引き潮のあとに上げ潮が、この世そして貴殿の許へと訪れることを。



 彼女がこれを書いているその横でリストリアンスも呼んでいた時、さっぱり意味が分からなかった。だから、問い掛けた。これはどういう意味なんだい、と。すると彼女は、こう言った。
『大昔に書かれた詩でさ。ゲルテアラの歌、っていうんだ。……けど、大した意味はないよ。だから考えたところでこの文に明確な答えは無いし、感じ取ってもらえればそれでいい』
 それからリストリアンスなりに、考えたのだ。この文章の答えを。
 その答えが、シアル王家に対するサラネムからの宣戦布告だった。
 だからこそ彼は、それが届いた瞬間に発令したのだ。宣戦布告を。そして、それこそが彼の最後の役目だったのだろう。今やシエングランゲラが、リストリアンスのもとを訪ねることはない。だからこうして何日も彼は部屋に監禁されたまま、放置されていたのだ。
「……僕は、あれで良かったのかな。宣戦布告なんて、出してしまって……」
 食事なんて、まともに摂れていない。摂らせてもらえないのだから。水も飲めるわけがない。飲ませてもらえないのだから。
 それにパヴァルから処方される薬も断ってから、一ヶ月以上が経過していた。視界には靄が掛かって、物を認識することが出来なくなっていた。色の無いリストリアンスの世界の中でそれは、とても致命的な欠陥だった。
 もう、何が何だか分からない。混乱し、自我も保てなくなる。今は辛うじて、千切れてしまいそうなくらいの細い糸で自我を繋ぎ止めているものの、これがいつ切れてしまうかも分からなかった。
 そんな恐怖だけが、リストリアンスの心を蹂躙していた。
「……教えてくれないか……」
 体なんて、動くはずもない。彼の身体は三日前に床に倒れたっきり、そのままの状態で転がっていた。自力で立ち上がれもしない。腕にも脚にも力は入らないし、体を動かす指令を送る方法を脳が忘れてしまっていた。呼吸にしても、今はなんとか保てているが、いつ止まってしまうかも分かったものじゃなかった。
「…………ユ……ッ……」
 半開きの瞼から覗く青い目は、淀んでいた。いつかの純朴な輝きは消え失せ、にじり寄る死の足音に怯える恐怖だけが、その目を支配していた。
 だがそんな彼の前に、一筋の光が差す。仄明るく、それでいて優しく、どこか懐かしい光。いつか見たような気もする、昔懐かしい馬のような足音も近付いていた。馬のようだが、馬でない。かといって、〈 水ノ聖獣シラン・セク〉である一角獣のシクとは異なる足音だった。
 龍のような頭と、淡く光る馬のような白い体。全てを見通す黄色の瞳と、光り輝く金色の鬣。
 それは〈光ノ聖獣シラン・シ〉、幻獣サノンの姿だった。
『リストリアンス、気を確かに持つのです、リストリアンス!』
「……サノ……ン……?」
 続いて聞こえたのは、覚えのある三人の声。
「〈聖水カリス〉さま、サノンがこの部屋に入って行きましたわ! 兄上さまはきっと、この中です!!」
「よし、この部屋か。シエングランゲラの野郎、手間かけさせやがって。……ヴィッデ、お前は先にイゼルナさまを離宮に誘導しろ。俺は後から、リスタを連れてそっちに向かう」
「了解や! さぁイゼルナさま、こちらへ」
 声が途切れたその瞬間、バンッ!と豪快に蹴破られた部屋の扉。そこに誰が立っているのか、顔が見えなくともリストリアンスには分かった。
「待たせたな、リスタ!」
 パヴァルだ。
「すまなかったな、救助が遅れて。ケリスっつー予想外の邪魔が、横から入ったもんでよ。んじゃ、離宮に一度向かうぞ。そこで点滴を打つ。二、三日はそのまま絶対安静だ。分かったか、リスタ」
 はい、と答える間もなく、リストリアンスの体はパヴァルに担ぎあげられる。そしてパヴァルは、走り出した。
 外は暗く、きっと時刻は夜なのだろう。侍女たちも既に退き、人は一人もない王宮の廊下を、パヴァルは音を立てずに走り抜けていく。
 パヴァルに担がれたリストリアンスの体には力がなく、乱れた金色の長髪もゆさゆさと風に揺れる。乱れた髪にも、虚ろな目にも、血の気が失せた青白い肌にも以前の美しい輝きは、煌めきは何処にも存在していなかった。
 それらが取り戻されることは、もう二度とない。
「…………」
 その事実は、リストリアンス本人が一番理解していた。