【第十五章 輝きは此処に無く】

4 影は追い、恋慕は縛りて華を染め


 ファルロンとリスタの間に流れる空気は一向に改善されないまま、気が付けば四年の歳月が流れていた。
「ちょっと付き合って、レゼットくん。……あ、付き合うっていってもアッチじゃないからさ。買い物ね、買い物。買わなきゃいけない薬草とかが沢山あって、だから荷物持ち係をやって欲しいんだ」
 敢えて“リスタ”と呼ばずに“レゼット”と指名してきたユイン。それが意味するのは、王都の繁華街に出るということだった。
「……分かりました、すぐ支度をしてきますので待っててくださいよ」
「ひゃー、助かったわ。パヴァルは今サイランに行ってて居ないし、リュンとカレッサゴッレンを歩くとよく分からない店に引きずり込まれるし、クルスムもラジーも山犬のお産を補助しなくちゃいけないとかで無理っぽいし。だから頼れるのリスタしかいなかったんだよ。はー、良かったー」
 気が付けば“パヴァルの補佐役”だったレゼットは、今や“アルダンの問題児ユインの監視役兼雑用係”のレゼットと変わり果てていた。また、忙しく動き回るパヴァルから直々にユインを見張るよう命令されていたというのもあるし、ユインのほうも何かがあれば最近はリスタを頼ってくる。こんな風に、主に雑用を。
 そうしてリスタは一度、猛獣舎内の自室に戻ってレゼット用の 鬘かつらをパッと被り、その上から笠を被って、藍晶のようにみえた羽織をサッと羽織る。そして猛獣舎から出て、ユインのもとに戻った。
「終わりましたよ」
 リスタが彼女に声を掛けるなり早々、ユインは表情を曇らせる。
「……あっと、えっと、リスタさん?」
「はい」
「羽織、藍晶じゃなくて紫紺だよ、それ。藍色じゃなくて紫。アルダンの雑用係であるレゼットくんに紫紺なんて高級なものを着せられるかって、ディダンがよく言ってるだろ? 紫紺を着ていいのは赤毛の鬘、西アルヴィヌの商人ダスラグさんのときだって。それで砂塵を着るのは、一般人の中に紛れ込むときだけってさ」
 纏った羽織を見るリスタは、はっと気付く。よく見ればいつも着てるヤツより、若干灰色が明るく見える、と。黒羽、藍晶、紫紺、砂塵と四色ある中でも、この明るさは紫紺の色だ。
「……今すぐ換えてきます」
「急いでねー」
 そして急いで紫紺を藍晶に取り替えたリスタは、ユインと二人でカレッサゴッレンへと向かって行った。
 その道中の出来事。特に会話を交わすわけでもなく、ただ歩いていただけの二人。周りに誰も居ない農村地帯を通りかかったときだった。ユインが喋り出したのは。
「そういえばリスタに話したっけ。俺がこうして、男装してる理由って」
「いえ、そういえば聞いたことはありませんね」
 そんな話は、聞いたこともなかった。クルスムからは、昔からユインはあんな風だと聞いていたから、さしたる意味もないのではと思っていたというのもある。だから、わざわざ訊くようなものでもないと。けれども沈みかけた彼女の表情を見る限り、理由がないわけではないらしい。というわけで、取り敢えずリスタは聞くことにした。
「自分が女だってことを、認めたくなくてさ。だって女であるからこそ疎まれて家から追い出されて、それも遊郭に売られて。体だって元から異常だったけど、それが更にボロボロになってさ」
「……」
「だからこうして、男のフリして過ごしてる。そうすれば誰も女として俺を扱わないからさ」
「……そう、だったんですね」
 そんなことは、ありませんよ。
 彼女の言葉を、そんな言葉で否定するのは憚られた。
 当の本人でない、あくまで他人であるリスタに、それを否定することができようものか。それが仮に間違っていたものだとしても、他人である自分が咎める必要はない。ただ受け止めることが、この場では正解のように思えたのだ。
「でも、だからって男のフリが楽しいわけじゃないさ。自由だし、余計な肩の荷も背負い込まずに済むけど、でも出来れば嘘なんて吐いていたくない」
「……それはつまり、男装は嫌だってことですか?」
「男装は好きだよ、だって動きやすいから。それにスカートの裾がめくれて下着が見える、だなんて心配をしなくてもいいし。けどそうじゃなくて。女だってのがバレたらどうしよう、なんて怯えながら過ごすのが嫌ってこと。けど他の隊員、特にキャスにバレたら最後、アルダンには居られなくなるだろうしさ」
 ケリスにバレてしまえば、その後どうなるかは分かったものじゃない。それはリスタも同じだった。
 〈聖堂カリヴァナ〉であるはずのケリスというのは案外、アルダンの隊員たちについても、シアルン神国の政治についても、何も知らされていないのだ。
 何故ならばケリスというのは、シルスウォッド卿のよき相棒である〈聖水カリス〉に操られている手駒でしかないからなのだ。当人はパヴァルのことを自身の懐刀とでも思っているのだろうが、事実は違う。上下関係は真逆そのものである。
 ケリスに与えられた“武ノ大臣”という肩書は、面倒な書類仕事をパヴァルの代わりに片付けさせる為のものでしかない。だから武ノ大臣としての実務はパヴァルが全てこなしているし、パヴァルがシアルン神国の全ての武力を支配しているといっても過言ではないのである。
 だからこそ、パヴァルはああも政治的権力を持つ貴族たちから畏れられ、疎まれ、忌み嫌われているのだ。“ノクス”を演じる老獪な竜、パヴァル・セルダット大臣、と。
「……」
 表の政――財政を掌握し、貴族を束ね、ありとあらゆる叡智を結集し、正しき方法で国を運営すること――を回すことがシルスウォッド卿の役なのであれば、裏の政――武力を編纂し、闇の権力者を服従させ、都合の良い情報をあたかも真実であるかのように流し、国の良いように民を陽動すること――を回すのはパヴァルの役だ。だからパヴァルの権力は文武資法の四大臣と同等だと言われているが、実際はそれ以上。四大臣の上に立つ政ノ大臣と同等の権力を握っているのだ。ケリスよりも、遥かに強い権力を。
 けれども、ケリスにも飾りなりに地位があるのは事実で、ユインやリスタの地位がそれに到底及ばないこともまた事実。それも公には存在しないこととなっている影に潜む者である以上、捨てるなど造作もないことだろう。
 だからこそ、欺かなければならない。ただでさえ鈍いケリスの目を、騙し通さねばならないのだ。
「だから、さ。四年前のあの時も、それ以降も、実はリスタをずっと試してた。リスタはどういう風に俺のことを見てるのかーとか、色々ね」
「試してた?」
「そうだよ。昼でも夜でも、ずっとね。さっきの荷物持ちを頼んだときだってそうさ」
 女はいつでも男を試してんのさ、とユインは言う。なんだかなぁ〜、とリスタは苦笑いを浮かべた。
「でも、それはリスタだけじゃないさ。ファンだってそうだし、まだガキんちょだけどルドウィルだってそう。ラントとかベンス、ディダンとかでも試したりしてるよ。それで、やっぱりファンの野郎は自分のことしか考えてない自己中野郎だし、ラントはなんだかんだで女誑しじゃなくて、男誑しの女に引っかき回されてる可哀想な男だし」
「ラントが誑しじゃない?!」
「そうだよ、ランが女を宿に連れ込んでるんじゃなくて、女がランを連れ込んでるのさ。それでランは一晩中、女たちに説教垂れてんの。自分の体をもっと大事にしろーとかね。でも宿代払ってくれるあたり、意外と紳士なんだよ、アイツ。エレナの姉御も惚れるわけだ」
「紳士。……あのラントが、紳士?」
「それでベンスはやっぱり致命的な馬鹿だし、ディダンはどこまでも性根が曲がってて、ルドウィルは好奇心の塊で後先を考える能力がない。けど、リスタ」
「はい」
「リスタはやっぱり、馬鹿だと思う」
「はい?」
 何を言われるかとリスタが身構えてみれば、またもユインに“馬鹿”と罵られた。それも、可憐な笑顔で。別に貶してるわけじゃないよ、とユインは笑う。どう聞いても蔑んでるようにしか聞こえません、とリスタは拗ねて見せた。
「リスタは馬鹿。良い意味での馬鹿だよ」
「馬鹿に良いも悪いもないでしょうに」
「んー、じゃあ言葉変える?」
 ふふっ、と不敵に微笑むユインはほんの少しの間、黙りこくる。そしてリスタから視線を逸らし、小さな声で呟くように囁いた。
「……優しすぎる馬鹿、かな」
「優しすぎる馬鹿?」
「あぁ、いや、なんでもない。それより、これ。頼まれ物一覧。リスタはこれを全部買ってきて。パヴァルとかリュンがあれがない、これがないって色々言ってたからさ。それで買い物が終わったら事務所で合流しよ。それでいいよね」
「ええ、分かりました」
 リスタはカレッサゴッレンへ向かう道へ、ユインはシャレーイナグラへ向かう道へと進み、そこで二人は一度別れた。
 それはフリアら家族がサイランへの帰郷を決行した日。けれども時を同じくして、サラネムからの招かれざる客がブルサヌに来訪していたなど、リスタにはまだ知る由もなかった。




「アンタも忙しいのねぇ、レゼットちゃん。十本剣さんの雑用係だなんて、さぞかし苦労も多いでしょうに。それも今はあの天才ユインちゃんの監視役なんだってねぇ。さぞかし振り回されてるんでしょう?」
 リスタが馴染みの仕立屋に顔を出すと、いつもの女将が真っ先に出てきた。いつもこの店でアルダンの藍晶は仕立ててもらっており、あらかじめユインが注文してあったものが出来上がったということで、リスタはその受け取りに訪れたのだ。
「でもアルダンには拾ってもらった恩がありますので。それに今更、他に行く当てもありませんし、この程度のことでお役に立てるのなら、それ以上のことはありませんよ」
 ただしあくまで“レゼット”として、だ。
「健気ねぇ、もう。そんなレゼットちゃんには、オバチャンからオマケつけてあげる。はい、藍晶をもう一枚。どうせパヴやんがすぐに破くなり汚すなりするでしょう?」
「いいんですか!?」
「ここら一帯を烏の黒羽から守ってもらってるご恩も兼ねてだからね。気にしないで頂戴な。だから、受け取りなさい」
 十数枚と積まれた藍晶の山の上に、更に女将は一枚追加する。ありがとうございます、とリスタは言いながらも、内心少し焦った。この荷物を、果たして一人で持ちきれるだろうか。いや、持てないことは無い。だが、まだまだ回るべき店は沢山ある。となればここは一度事務所に戻り、荷物を置いてくると言うのが賢明というところだろう。
「では、またそう遠くないうちに」
「ええ、その時まで藍晶をたんまりと仕立てて待ってるよ」
 店から出たリスタは、王宮に向かう方角を見る。ついでに馬を拾ってこようかな、と考える彼の目の前、一台の馬車が通り過ぎる。馬の尻を鞭で叩く男、即ちパヴァルと一瞬目があった。
「レゼットー。お前、ユインの見張りはどうしたんだー」
 馬車が通り過ぎて行く。その間に聞こえた、ヤケに間延びした声。それと馬車の中、窓越しからリスタに手を振るルドウィル少年。リスタも笑顔で手を振り返した。
「……取り敢えず、先に事務所に戻ってこの荷物を置いてこないと……」
 それからリスタは、王宮敷地内の〈神護ノ十剣トウィンガル・ラン・アルダン〉事務所に戻った。一旦荷物を置いて、そして再びカレッサゴッレンへと戻ろうと、王宮と外界を唯一繋ぐ門をくぐる。そのときだった。
「君はレゼット、だったかい」
 門を出てすぐのところで、そう声を掛けられたのは。
「はい、そうですけれども」
 リスタはそう答えて、振り返る。そしてそこに居た人物に、リスタは戸惑いを覚えざるを得なかった。
 くせっ毛でクルクルとうねった茶髪と、垂れ目がちな琥珀色の目。ダルラ卿、もしくは過ぎ去りし過去の友人ダルトレイニアンス。取り繕っていたリスタの笑顔が、僅かに強張る。だがそれはあちらも同じで、リスタを見るダルラの表情もまた強張っていた。けれどもリスタは過った念を頭の片隅に追いやり、また笑顔を繕い直す。そして言った。
「〈神護ノ十剣トウィンガル・ラン・アルダン〉になにかご用でしょうか? でしたらシアル王宮内二階の武ノ大臣執務室まで」
「いや、〈神護ノ十剣トウィンガル・ラン・アルダン〉に用があるわけじゃない。レゼット、君に用があるんだ」
「私に? まさか、何かの間違いじゃありませんか?」
 嫌な汗が握りしめた掌を濡らし、湿らす。
「あくまで私はただの雑用ですし、それに……」
「場所を移そう、少し君に話があるんだ。〈神護ノ十剣トウィンガル・ラン・アルダン〉ではなく、君に」
 嫌な予感は、どうやっても拭いきれない。リスタの表情から笑顔は消え、代わりに嫌悪感が露わになる。リスタを見るダルラの眉間には皺が寄った。
 嫌とは言わせないぞ。そう脅しているようでもあった。
「分かりました、けれども手短にお願いします。後に予定が詰まってるので……」
 渋々承諾するリスタは、王宮前に停められていたユライン家の馬車の中に誘導される。馬車に乗るのはあの件以来で、余計に背筋は凍りつく。そして狭い密室の中、リスタはダルラと共に取り残される。凍り付き、緊張した空気の中で、まず口を開いたのダルラだった。
「君」
「はい」
「被り物を、全部取ってみてはくれないか」
 ダルラの垂れ目がちな目が、吊り上がる。自分は今、試されているのだろうか。そこでリスタは、被っていた笠を外した。
 これでどうだ、とリスタがダルラに視線をやったとき。ダルラはうんざりとした表情を浮かべると立ち上がり、リスタの頭を、茶髪の鬘を掴んだ。
「これだけは意地でも外さないというのか、リストリアンス」
「……」
 取り払った鬘をダルラは馬車の座席の上に置く。そして鬘の下、リスタの長い髪を結い纏めていた紐を解いた。それから馬車の窓を、カーテンで覆い隠す。薄暗くなった車内。それでも金色の髪は、僅かな光に反応してきらきらと輝く。心ノ臓が脈打つ鼓動は、緊張により早くなっていた。
「やっぱり君はイゼルナさまの信じていた通り、死んでなどいなかった」
「……どうして、分かったんですか」
「顔を見て分かったよ。中性的な目鼻立ちは、昔から変わってないようだから」
「……顔で?」
「ああ、そうさ。これでも今は憲兵団で一つの隊を任されてる身だ。それくらい見分けられる能力でもないと、仕事が務まらないからね」
 そう指摘したダルラはリスタの向かいに腰を据えると、リスタの目をじっと見る。そんなダルラも昔から変わらず、身長は群を抜いて高かった。世の男性の平均身長と同じくらいであるリスタに対し、ダルラはそれよりも頭一つ大きい。その見降ろされている感覚が余計に緊張感を煽るが、なんとかリスタは笑顔を取り繕った。
 大抵のことは、笑顔さえ取り繕っておけばなんとか乗り越えられる。
 これは、それに当てはまるものではないと薄々気付いておきながらも、いつものクセでリスタは笑顔を浮かべる。けれどもダルラは眉間に皺を寄せ、訝るようにリスタを睨んでいた。
「……」
「それで、話というのは」
「……君が監視を任されてるというユイン、彼女についてだ」
「彼女? いえ、彼は男性であって、じょせッ……――」
「リストリアンス、君まで〈畏怖アルント〉のような見え透いた嘘を吐くとは、失望したよ。彼女が女性だということくらい、こっちは分かっている。何故なら彼女は私の妻、ユニであるからだ。だから彼女を、私に引き渡してもらいたい」
 リスタを見るダルラの顔は至極真剣そのものだが、ダルラを見つめるリスタは吹き出したい衝動を必死に堪えていた。
 まさかユインが結婚していただなんてそんな、ありえない。彼女は家庭に収まるような器ではないし、それにダルラのような男に興味があるとは到底思えなかった。それに“ユニ”だなんて名前は、一度たりとも聞いたことが無かった。
「ユニ、ですか?」
「そうだ」
「何かの間違いでは? ユインはユインですし、そんな名前は一度も聞いたことはありませんよ」
「君まで嘘を」
「私は嘘なんか吐いていませんし、今は嘘を吐けるような頭もありません。そんな冗談のような話だけでしたら、今日のところは失礼させてもらいます。今日中に済ませたい用事も詰まってるので。それに人探しなら、〈聖水カリス〉を頼ったらどうでしょうか」
「待て、リストリアンス! まだ話は終わってないぞ!」
 リスタは長い髪を束ね、結いあげると笠を被り、ダルラの静止を無視して馬車から下りる。カレッサゴッレンの町を早足で歩いた。そして次なる目的地であるシャレーイナグラを目指すリスタのその後を、ダルラは追いかける。
「待てと言っているだろう、おい! リストリアンス!!」
 けれどもリスタはこの時、すっかり気付いていなかった。
 自分が“リスタ”のまま町を歩いていたということに。
 ダルラが、リストリアンスと名を叫び続けていたということに。
 そんなリスタを見て、民たちは「亡きリストリアンス卿の幽霊が出た」と顔を青くしていたということに。
「……あれは、シャグライ族……?」
 それが後にシエングランゲラという名の悪魔の耳に入り、全てを失う結果になるとは、ドジで間の抜けた頭の足りない彼に予想出来るはずもなかった。
「……気のせいであればいいんですが……」
 そしてシャレーイナグラに入ったリスタは、自分に向けられる冷たい視線には気付かぬまま、通りを横切った見慣れぬ白い頭の集団に気を取られていた。運命か、はたまた偶然か。リスタの色の無い視界の中、その白い頭だけは自信を持って断言できた。
 あれは老人の白髪じゃない、シャグライ族だ、と。
 なにせあの頭達は、老人だとすれば異様に身長が高かった。そしてシャグライ族と思しき集団は、路地裏に入っていった。あの路地を行った先には、リスタの記憶が正しければ、おんぼろの小屋のような建物があったはず。
 怪しい。怪しすぎた。
「……まさか、そんな」
 リスタの頭に、一抹の不安が浮かぶ。シャレーイナグラの深いところまで自分は来ているが、道中でユインを見かけていないのだ。
 それに風俗街シャレーイナグラという通りは繁華街カレッサゴッレンとは違い、人通りはそう多くない。昼間なら、尚更だ。だからユインが居ればすぐ気付くし、第一彼女は何処に行っても何かしらの問題を起こすため、気付かざるを得ない。けれども、シャレーイナグラに行ったはずの彼女の姿を、リスタはまだ見かけていなかった。
 それにここから先は、店らしき店はないし、裸同然の娼婦たちか、レデタッドに人生の全てを狂わされた堕ちた人間しか居ないようなもの。とかく汚いもの、過去の自分にそっくりなものを嫌うユインが、こんなところにわざわざ足を運ぶとは、とてもじゃないが思えなかった。
 だとすれば、何者かに追われてここまで逃げてきたのだろうか。
「……いや、その“まさか”かもしれない……」
 シャグライ族らしき集団が消えて行った路地に、リスタもゆっくりと入っていく。そんなリスタの後ろ、漸く追いついたダルラもまた路地に入ってきた。
「……リストリアンス?」
「……黙って下さい、今は集中してるんで」
 路地の奥、襤褸屋が見える。締まっている扉、それでも聞こえてくる男の声。リスタはその声に、耳をそばだてた。
「お前は、邪魔なんだ」
 恨み、嫉み、妬み。それは、そういった負の感情がぎゅうぎゅうに詰め込まれたかのような、ひどく憎しみに満ちた声だった。
「長男でもなく家を継ぐわけでもない女のお前が、呪われた忌み子のお前が、何故その名前を賜ったのか。赦せないんだよ」
 その言葉が向けられているわけでもないリスタも、声を聞きながらぞっとした。そして忌み子という言葉が、やけに耳にこびり付いた。何故か、聞き覚えがあるような気がしたのだ。
「忌み子は大人しく蔵に籠って、勝手に死んでればいいんだ。それなのにお前は、ラムレイルグの長の娘の手引きで蔵の外から出た。そして、一族の裏切り者のメズンに洗脳され俺たちに 叛そむくようになり、勝手な行動を取り始めた」
 忌み子、蔵、ラムレイルグの長の娘、メズン。ラムレイルグの長の娘は、きっとクルスムを指しているのだろう。それにメズンという名も、聞き覚えがある。偏屈ジジィ。クルスムがそんなことを言っていただろうか。
「……」
「イェガンだけでも俺たちにとっては邪魔だってんのによ、更に邪魔なお前が王都で、それも十本剣の輩どもとつるみ始めたってンなら……分かってんだろうな」
 イェガン。たしかそれは、ユインの兄の名前だ。そして十本剣、言わずもがなアルダンを指しているのは明白のこと。
「……!」
 忌み子、蔵、クルスム、メズン、イェガン、十本剣。全てが繋がり、答えが出る。
 その瞬間、リスタの呼吸が止まった。
「お前ら、その汚ぇ体に切り落としたのを全部繋げとけ。数十ダルも経った頃にはくっ付いてんだろうからよ。そしたらァ……」
 何があったんだ、ユイン。
「気が済むまで、それを嬲ってやれ。どうせ元は端金で売られた娼婦だったんだからな。……あとだお前ら。そいつがまた声を出すようなことをしたら、二度と体が再生できなくなるくらいにまでギッタギタに切り刻んでやれ」
 襤褸屋の壁に開いた小さな穴、そこから一瞬だけ見えた光景。リスタはその現実を、出来ることなら否定したかった。衣服の全てを剥ぎ取られ、尚且つ男に取り囲まれている彼女の哀れな姿を。酷い顔だった。声を出していなくとも、泣き叫んでいることくらい目に見えていた。
「……ダルラ、一つ頼み事をしても良いですか」
 ダルラを一切見ることなく、リスタは彼に対しそう言った。ダルラは無言で、ただ頷く。
「……新しい服を、どこかで調達してきてはくれませんか。出来れば大きめの男性ものを。それと馬車をここまで連れて来てもらいたいのです」
「……どうして?」
「……説明してる暇などありません。出来るだけ早く、お願いします」
 納得がいかない、という表情を浮かべながらも、ダルラは走ってシャレーイナグラの町を引き返していく。そしてダルラが去って行ったあと、リスタはゆっくりとその襤褸屋に近寄って行った。
 足音を殺し、息を殺し、出来るだけ物音を立てないように、そっと。そうやって襤褸屋の外壁に触れられるだけの距離まで来たとき、リスタは再度、襤褸屋の中を隙間から覗きこんだ。
 ユインを取り囲むように立つ男は五人ほど、そして離れた位置からその様子を窺い見る男が一人。その男は片腕で体格も貧相なものだったが、他の男たちは違う。長身で、ガタイも良い。このまま考えなしにリスタが突っ込んだところで、勝ち目はないようにも思えた。それに今は、武器という武器など何一つ携えていない。もどかしいが、状況が変わるまで今は待つしかない。そしてリスタは目を逸らし、俯きざまに歯を食いしばる。どうしようもなかったのだ。
「…………」
 これといってリスタには、顔以外に取り柄というものが存在しなかった。パヴァルのような強さもなく、ヴィディアのように寛容なわけでもないし、ベンスのように危機察知能力が高いというわけでもなく、リュンのように素早いわけでも、ラントのように冗談が言えるわけでも、ユインのように勉学に通じ賢いわけでも、ディダンのように弁が立ち頭が回るわけでもない。
 だからこそ、それが悩ましかった。
「……一体どうすれば」
 そうして時間だけが過ぎて行く。馬車を連れたダルラが戻ってきて、彼はリスタに新調された衣類一式を手渡した。
 その時だった。また、あの怨嗟が込められた声が聞こえてきたのは。
「お前が“誉れ高き者ユイン”か? 笑わせんなよ、ド畜生が」
 虫唾の走る声が聞こえる。その声にリスタは、無性に苛立ちを覚えた。初めてだった、こんな気分は。胸糞悪い。リュンがディダンに対しよくそう言っているが、きっとこういうことなのだろう。胸糞が悪い、というのを、リスタは初めて理解した。
「……大丈夫か、リストリアンス」
「…………」
 殺してやる。
 そんな言葉が思い浮かび、そして消えた。
 殺す。そんな生温いものじゃ足りない。
 もっと苦しいものを、彼女が今まで受け続けた苦しみと同等の痛みを。
 死にたくても死にきれない生き地獄を、永遠に。
「……ユイン……!」
 拳を握りしめ、襤褸屋に殴り込もうとリスタが力んだのと、同じ時だった。襤褸屋の中から、雷でも落ちたかのような轟音が鳴ったのは。突然の轟音に、ダルラもリスタも耳を塞ぐ。そして轟音が去ったあと、次は何か重いものが落ちる音がした。ごとっ、ごとっ、ごとっ。そんな音が五回続き、止む。その後に聞こえた声は怯えた子犬のような、情けなく震えた男の声だった。
「何が、起こったんだ?」
 バチッという破裂音が鳴り、襤褸屋の扉が開いた。そして白い髪に片腕の貧弱な男が、脱兎の如く逃げて行く。
「……」
 あれがユインを苦しめてきた男、ヤムンなのだろうか。
 だがリスタには逃げ帰っていく男を追う気にはなれなかった。リスタの目は暗く翳る。そして自分が羽織っていた藍晶をリスタは脱ぐと、先程ダルラから受け取った服をそれに包み、襤褸屋の中に入って行った。
 薄暗い小屋の中。血塗れの床に転がる、五つの人間の頭と首がない胴体が五つ。その中心に座り込み、剣〈獅子レオナディア〉を握りしめていたのは傷だらけのユインだった。そんなユインの横には、見慣れぬ女性も座っている。まるでユインを労わるように、傷の無い手で彼女の肩に触れていた。
「…………?」
 その女性はユインと同じ、白い髪に紫色の目をしていた。それどころか、鏡を見ているかのようにユインと顔が似ている。いや、傷がないだけでユインそのものだ。
 けれども彼女の白い髪は腰までと長く、まな板のように胸がないユインとは対照的に、クルスムのような豊満さがあった。そしてリスタの後ろから中を覗き込むダルラが、そっと呟く。ユニ、と。そこでリスタは気付く、その長い髪の彼女がダルラの言うところの“ユニ”なのだろう、と。
 そしてリスタは長い髪の彼女に視線をやると、言った。
「外でダルラ……いえ、ダルトレイニアンス様が待っておられます。あなたさまはユライン邸へお戻りください」
 長い髪の彼女はこくりと頷き、ゆっくりと立ち上がる。よろよろと覚束ない足取り。彼女もまたユイン同様に服を着ておらず、すぐさま駆け寄ったダルラは外套を脱ぐと、彼女に着せつけた。ありがとう、ダルラ。ユニ、今まで君は何処に行っていたんだ。ごめんなさい、私、全然記憶がないの。そんな二人の遣り取りを横目に、リスタはユインに近寄り、座りこむ彼女の前に膝をつく。そして彼女に、藍晶に包んだ衣類一式を差し出した。
「替えの服は持ってきてあります。それに着替え次第、事務所に戻りますよ、ユイン」
 それを受取ろうとするユインの手は酷く震えていて、彼女の目から生気という光は消え去っていた。
 もっと早くに突入出来ていたのなら、どれほど良かったことだろう。リスタは後悔に苛まれながらも、がくがくと震えるユインの着替えの補助をした。そんなユインの姿がふと昔の自分の影と重なり、どう言葉で表せばいいのかが分からない感情が渦巻く。
 もやもやと胸の内に蟠りが残り、それでいて吐き気のようなものも込み上げて来ている、この感覚。
 恨みでも怒りでも、悲しみでもない。後悔という言葉だけでは表わしきれない、複雑な感情だった。
 そうして着替え終わったユインをリスタは両腕で抱きあげ、立ち上がる。思っていたよりも軽いその体重。噴き上がってきた思いからは目を逸らしつつ、彼女を抱えたリスタは襤褸屋の外に出た。
「君たちも乗っていくかい」
 ダルラは問う。
「勿論、そのつもりです。王宮までお願いします」
 リスタは頷き、ユインを抱えたままユライン家の馬車に乗り込む。そして座席の上に置かれたままになっていた鬘を見るなり、リスタは固まったのだった。





 事務所に戻ったあの後、ユインは一人にしてくれと書かれた紙きれをリスタに突き出したのを最後に、部屋に閉じこもってしまった。
 考えることのできないリスタは彼女の指示通り彼女を一人にしてしまったのだが、はたしてそれが本当に良かったのか。二年の歳月を経た今でも、リスタはそのことをずっと悔み続けていた。
「どうしたの、リッタ。ユン姉ちゃんずっと見てるけど。落ち込んでるの?」
「……あぁ、いや。そうじゃないよ。ちょっと考え事をしてただけさ」
 この二年の間に、様々な変化が起こっていた。
 今こうしてリスタの横に座り、同じくユインを漠然と眺めていたルドウィル少年。彼と母親であるフリアとの仲は、この二年間の間で拗れに拗れ、気が付けばこうして猛獣舎に遊びに来ることが多くなっていた。猛獣部隊隊長という肩書すらも放棄しかけているファルロンに代わって、近頃よく王宮に顔を出すようになったクルスムが、王宮から猛獣舎に戻る道中でルドウィルを拾ってくるのだ。そうして彼を一晩ここに泊めて、また翌日には王宮に送り届ける。それが週に三度ほど。最早ルドウィルは、猛獣舎の住人になりかけているくらいだ。「なんで?」「どうして?」が口癖の少年が居ないだけで、どこか淋しく感じるようになってすらいる。
 そして先程名前が出たクルスムにも、少しずつだが変化が表れていた。
 ファルロンの仕事を肩代わりしている彼女は、その関係で度々王宮に顔を出すのだが、その中でどういうわけか〈大神術師アル・シャ・ガ〉と親しくなったのだというらしい。その所為か否か、近頃は彼女の纏う雰囲気が変わりつつあった。理知さが上がったというのか、性格が丸くなったというのか。けれども彼女に付き従う聖獣であるウィクは正反対で、どうやら〈大神術師アル・シャ・ガ〉の傍にいるメクという名の黒い烏が嫌いらしく、刺々しさに磨きがかかっている気がしなくもない。
 あのクソカラス、焼き鳥にしてやりてぇ!
 それが最近の、ウィクの口癖だ。
「……ユインは男装をしてたときが一番輝いてたなぁ、ってね」
「リッタはユン姉ちゃんじゃなくて、兄ちゃんだったときのほうが好きだったってこと?」
「ユインのことは好きだし愛してるさ、ルドウィルくんと同じでね。でも昔の方が彼女らしかったかな、って思うんだ。……けど、ファロンには絶対に内緒だよ」
「なんで?」
「なんでって言われてもなぁ。色々と複雑なんだよ、ははは……」
 恋敵である、だなんてことは八歳の少年相手に言えるわけもない。
 実際はそれ以上に毒々しい間柄ではあるのだが、子供の前でそんな醜い部分を晒すわけにはいかないし。リスタは適当に笑って、言葉を濁す。ルドウィルは不服気に、大きな猫目でじとーっとリスタを見つめた。
「フクザツ? どう複雑なの?」
 この二年間で一番大きく変わったのは紛れもなく彼女、ユインだった。
 変わったというより、変わるよう強制されたと言ったほうが正しいのかもしれない。今の彼女は彼女でなく、ファルロンの描く彼女像に矯正された彼女だったからだ。
 近頃のユインは、服も好んで着ていた男性ものではなく、ファルロン好みの女性服を着せられている。靴も不慣れな踵の高い靴を履かされていて、ぎこちなくよろよろと歩く姿は憐れとしか例えようがなかった。
「どう、って言われてもねぇ」
「教えてよ」
「それを知るのは、まだ君には早いよルドウィルくん」
「どうして? なんで僕にはまだ早いの?」
「きっと君にも、いつか分かる時が来るさ。……僕の口からは、到底教えられないよ」
「なんでー、ねぇ、どうしてー?」
「大人の世界は、色んなものが渦巻いてて、ドロドロとしてるのさ。本当に恐ろしい世界だよ」
 あんなによく笑い、よく怒り、よく拗ねてよく泣いていたユインだが、今ではそのどれも表に出すことはない。ファルロンの前では勿論のこと、姉貴分であるクルスムの前でも、親友であるというラズミラの前でも、ルドウィルの前でもだ。
 そしてリスタはあからさまに、ユインから避けられていた。というよりも、彼女がリスタに接触を図ろうとすれば、必ずファルロンが妨害するのだ。そしてリスタのほうから彼女に話しかけ、業務連絡のようなことを二、三交わすだけでも、ファルロンは機嫌を悪くし果てはリスタに掴みかかってくる始末。以前はそれを仕方なく受け止めていたが、流石のリスタも最近は堪忍袋の緒が切れた関係で、容赦なく反撃を食らわせている。その所為でクルスムやラズミラに多々迷惑を掛けているが、こればかりは許せなかった。
 近頃のファルロンの横柄な行動を許してしまえば、それは無いようで有るリスタの信念に逆らうことになるからだ。
 だからこそ、リスタはファルロンのことを仲間だとは既に思っていない。かといって恋敵などという生温いものでもない。天敵とみなしていた。
 それくらい、ファルロンとリスタの関係というのは冷え切ってしまっている。けれども、その原因を作ったのはファルロンだ。これだけは自信を持って言える、アイツが悪いと。
「……本当に、恐ろしいと思う」
 元々ファルロンは、リスタのことを嫌っていたと思う。初めて事務所で顔を合わせたときだって、挨拶よりも先に飛んできたのは敵意の拳だった。シアルの男。ただそれだけで。
 ファルロンはそんな憎い男に、自分の敬愛する女性、即ちユインを取られそうになった。その末に、ファルロンが取った行動。それがユインを束縛することだった。
 きっと、ファルロンは疑いもしていないのだろう。そうであることが、ユインにとっての幸せなのだと。
 けれども事実は違う。時折ユインがリスタに対し向けてくる、助けを求めるような苦しそうな眼差しが、その全てを物語っていた。
 そして今まさに、その眼差しが送られている。けれどもリスタは、見つめ返すことしか出来なかった。

 解決策が思い浮かばないのなら、お前は下手に動かない方が賢明だ。
 大人しく、時が来るのを待て。

 パヴァルに言われたその言葉が、酷く胸に突き刺さっていたからだ。
 現に、行き当たりばったりで行動して、良い結果が得られた試しは一度もない。だから何も、手を出すことが出来なかった。
 下手に動いて、それがユインを苦しめる結果になることが、怖かったのだ。
「……ユン姉ちゃん、こっち見てるの?」
 ユインがこちらをじっと見つめていたことに、ファルロンが気付いたのだろう。彼はユインの手を引くと、どこか別の部屋へと移っていく。はぁ、とまた一つ重い溜息をリスタは零した。そしてリスタの横に座るルドウィルもまた、溜息を吐く。
「なんか本当に、ギスギスしてるんだね」
「そうなんだよねー。色々あって喧嘩したっきり、ずっとこんな感じさ」
「どうしてリッタは、ファン兄ちゃんと喧嘩したの?」
「正直、僕には原因が分からないんだ。気が付いた時にはファロンが怒っててね」
「……へぇー……」
「あ、リッタ! ちょっと、いいかな」
 即興の嘘で場を丸く収めたところで、ラズミラがリスタに声を掛けてくる。そんな彼女の手には鋏が握られていて、その鋏の柄を彼女はリスタに向けていた。受け取れ、と言っているかのように。
 ラズミラはにこっと笑う。ああ、そういうことですか。リスタはラズミラの言いたいことを即座に察し、その鋏を受け取った。その一連のやりとりに、ルドウィルは首をかしげる。「ハサミ?」
「……頼めるかな、リッタ。もう準備はしてあるんだけど」
「ええ、大丈夫ですよ。ちょうど暇をしてたところですし」
 猛獣舎の中での散髪担当であるリスタに鋏を渡すということは、つまり髪を切って欲しいということだ。
「いつもの部屋ですか?」
「そうそう、いつもの部屋」
 ラズミラの後をついて行くように、リスタは歩く。その後ろを、ルドウィルはついて歩いた。




「こんな感じで、どうでしょうかね」
 一通りラズミラの髪を切り終えたリスタは、彼女に手鏡を渡す。満足げにラズミラは笑顔を浮かべて一言、ありがとうと言った。
「自分で切ると、とんでもないことになっちゃうんだよね。だからってクル姉には頼めないし。自分でやるよりも酷いことになるから。昔はユンちゃにやってもらってたけど、ユンちゃも雑だし。だから本当にリッタの技術って凄いよ。これが 無料ただとか、ホントにありがたいわ〜」
「いえいえ、それほどのことでも」
「だってユンちゃに梳いてもらうと、あとあと髪の毛がとんでもないことになるんだよ。梳いたはずなのに、却って量が増えて見える、みたいな。でもリッタにやってもらうとそれがなくて。どうやってるの、教えてよ〜」
「増えて見えるようになるのは、根元から切ってしまっているからでしょうね。髪の毛を短く切ってしまうと、あらぬ方向にうねって伸び始めますから、結果的に量が増えて見えるようになるんです。ですから、髪を根元から切らなければいいだけの話なんですよ。まあ、これを教えてくれたのはパヴァルなんですけど」
 今回の散発は毛先を中指の第一関節ほど切り、髪を梳いて、最後に段を入れて終わった。リスタはラズミラの肩に掛けていた布を外し、下に散らばった毛の海を見る。
 これから、掃除をしなければならないのか。そんなことを考えると、少し憂鬱な気分になる。そんなとき、ずっと散髪の光景を眺めていただけのルドウィルが声を出した。
「あ、ユン姉ちゃん」
「ユイン?」
「あーっ、ちょうど噂をしてればユンちゃー。あのクソ兄貴をようやく振り払えたの?」
 開いていた扉の向こうに立っていたユインは、ラズミラのそんな問い掛けに対し、無言でこくりと頷く。少しうんざりとしているかのように、彼女は眉根を潜めた。
「……」
 ユインといえば昔、毛先が首に掛かるか掛からないかというくらいの短髪だったのに。最後に彼女の髪を切ったのはいつだろう、とリスタは思い出す。二年以上前であることは確かだ。
 今や彼女の白い髪は、肩甲骨を覆い隠すほどの長さまで伸びている。そして時折、彼女はその髪を邪魔臭そうに掻きあげるような仕草をしていた。だからきっと、髪を切りたいとは思っているはずだ。
「今、ちょうどラズミラの髪を切り終えたところなんですけど。ユイン、あなたもどうですか? 今なら道具も揃ってますし、すぐに取り掛かれますけど」
「そうだよ、ユンちゃ。この間、後ろ髪が伸びて邪魔臭いって言ってたでしょ。だから切るなら今だよー」
 努めて自然に、笑顔でリスタは彼女に聞く。ラズミラもユインの背を押すように、そう言った。それに対して、ユインは少し微笑む。けれども彼女は首を横に振った。遠慮する。そういうことらしい。
「もしかして、あの馬鹿兄貴のこと? だったら気にしなくていいのに」
 ラズミラはユインの手を引き部屋の中へ招き入れると、彼女をリスタの前に置かれた椅子に強引に座らせる。けれどもユインは髪を切るとは言わず、紙に何かを書き始めた。そして書き終えると、その紙をラズミラに手渡す。ラズミラは納得がいかぬと口を尖らせ、その紙をリスタに回した。

 だって髪を切れば、ファルロンが機嫌を悪くする。
 そしたら、またリスタが怪我するでしょ。
 迷惑掛けたくないから、いいよ。
 遠慮しておく。

「……本当にあなたは、それでいいんですか」
 ファルロンの趣味の女性服。決して彼女に似合ってないわけじゃない。それはそれで、魅力的だった。
 けれども、それを着る彼女の顔は酷く沈んでいる。
「あなたは、“あなた”だ。ファルロンの言うこと全てに、自分を押し殺してまで従う必要はない」
 ユインはまるで、物言わぬ着せ替え人形のようだった。
「……」
 気まずそうにリスタから視線を逸らし、ユインは俯く。その横でラズミラはルドウィルを連れ、そそくさと退散していった。そしてリスタとユインの二人だけが、部屋に残される形となった。
「男装をしたければすればいい、書き物をしたければすればいい、髪を短くしたければそうすればいい」
  “君は既に、私のものなのだ!”
  “ただ黙って、主である私の命令に従え!”
「ただ、それだけのことじゃないか」
 自分自身が、自分のものでなくなる。
 その痛みは、その辛さは、リスタもよく知っていた。
 無理矢理飲まされた薬で麻痺した体を、好き放題に玩ばれた。意思無き美麗な人形を着せかえるかのように、人語を語らぬ愛玩動物を愛でるように、恐怖で縛り自我を抑えつけ、思考を奪い、隷属させられた。
「……仮にあなたがそれで良いと言うなら、僕はそれを止めることはしません。でも」
「…………」
「……僕と同じ目に遭っているあなたを、これ以上は見てられない」
 顔を上げたユインが、リスタの目を見た。何が、言いたいの。ユインの視線はそう言いたげに、処女雪のように白く冷めていた。けれどもリスタはその冷たさをものともせず、彼女の前に立つと手を差し伸べる。
「久しぶりに、山犬ではなく鷹でも見ていきませんか。ラルガスの演習はこれから行う予定ですから」
 上に向けられたリスタの掌に、ユインは自分の掌を重ねる。
「……」
 ファルロンは今頃、山犬たちの世話でもしているだろう。何故なら今日は、パヴァルとディダンの二人が山犬の様子を視察しに来ているからだ。その間はあのファルロンも、身動きが取れないはずだ。パヴァルに少しでも不審に思われれば、それは彼の身に危険が及ぶことになるのだから。
 ならば、今しかなかった。
 ユインは少しだけ微笑み、小さく頷く。決まりですね、とリスタは彼女の手を握ると、その手を引いて立ちあがらせた。




 ピィー……と甲高い指笛が、曇りない蒼天の空を突き抜けて行った。そして餌掛けを装着したリスタの腕に止まるラルガスは、天高く舞い上がる。鷹は吹きぬけていった上向きの追い風に身を任せ、悠々閑々と大きな翼を広げ翔けていった。
 自由で、気高く、猛々しく、凛々しい威容。空の王者という言葉が相応しい、羨望さえも抱くその姿。
 何度も見ているはずなのに。鷹が舞い上がるこの瞬間、リスタは毎回虚しさを覚えるのだ。飛べもしなければ自由もなく、気高さも猛々しさも凛々しさもない、何もない自分に。
「そういえば、あなたの昔話はよく聞いてましたけれども、僕の昔話はしたことがありませんでしたよね」
 ラルガスの足環に括りつけた手綱を操るリスタは、そんなことを言いながら、切り株の上に腰を下ろしたユインを見た。
 ふんわりとした白い袖口に少し肌蹴た胸元と、踝までの長さがある黒の巻きスカート。似合っているようで、どこか違和感を覚えるその姿に、リスタは少しの淋しさを覚える。と、そのとき。強く冷たい向かい風が吹き抜けていった。ぶるっと震えたユインの肩。リスタは纏っていた厚手の藍晶を脱ぐと、震えるその肩に藍晶を掛けた。
 季節はもうすぐ冬に入るだろう時期。短くあっという間に終わった灼熱の夏はとうに過ぎ、緩やかに長く続いた快適な秋もじき終わる。過ごしやすかった気候も移ろい始め、大方の作物は収穫を終えているだろうし、サラネムのほうでは雪が降り始めているという話も聞くようになった。
 そろそろ王都にも、長い冬が訪れることだろう。それなのに、この胸の肌蹴た服は、見るからに寒すぎた。
 どうせファルロンは彼女のことなど何も考えてはいないのだろう。
 本当に、どこまでも、ユインが憐れでならなかった。
「……?」

 “リストリアンス”だった頃の話?

 そう書かれた紙きれをリスタに見せながら、ユインは少しだけ首を傾げる。その間にリスタはまた指笛を吹き、空を舞うラルガスに指示を出した。始めは高い音を出し、徐々に音を低くしていく。そして最後にもう一度、高い音を短く強く吹き鳴らすのだ。それは降下した後、獲物を捕獲し、また上昇して戻って来いという意味。その指笛の指示通りにラルガスは急降下していき、獲物代りに用意した死んだ雄鶏に爪を立て、ガッチリと両足で掴むと、また空に羽ばたいていき、上空で旋回した。
「いえ、リスタとしての昔話ですよ。それこそアルダンに来たばっかりで、まだ三歳だったディダンのお守りをさせられていたときのことです。……四歳だったかな。まあ彼がそれくらいの頃ですよ。ですから僕が、十三、十四のときの話になりますね」
「……」
「パヴァルに連れられて、初めて王宮内に足を運んだときでした。勿論、レゼットとして。あの時は目の前でごった返す人の波が怖くて、ずっとパヴァルの背中にくっ付いて……」
 長く封印していた記憶を、リスタは思い出していた。
 自分をちらちらと見ながら横を過ぎて行く黒装束の侍女たちや、着飾った貴族たち。彼らが放つ異様な空気は、ただでさえ緊張で震えあがっていたリスタを更に怯えさせた。今でこそあの空気感には慣れたものの、あの場に居ると自然と緊張し、そして苛立つ。それは今でも変わらなかった。
「それでも、あの時は本当に一瞬でした。気を抜いた瞬間に羽交い絞めにされて。抵抗できないように四肢を持ち上げられ、口には猿轡を嵌められて。気が付けば、どこの家のものかも分からない馬車の中に押し込まれて、貴族の醜い男に薬を飲まされ、眠らされて。そしてどこかに連れていかれてました」
 金槌で断続的に叩かれているかのような鈍い痛みを訴え始める脳と、ピクピクと震え始めた右手首。ユインから顔を背けたリスタはゆっくりと瞼を閉じて、深く息を吸う。少しだけ、呼気が乱れていた。
「目が覚めた時は、暗い地下牢みたいなところに閉じ込められてました。服は着替えさせられてて、真っ青なドレスを着せられてました。ばっちり化粧もされてましたし、レゼットとしての茶色の鬘も奪われて、この金色の髪が剥き出しの状態にされてましたね。それで僕を攫った男が、僕に対してこう言ったんですよ。君は既に私のものなのだ、黙って主である私の命令に従え、って。当然、僕は反発しました。僕は僕だ、お前の所有物じゃないと。そしたら、散々な目に遭いました」
 自分でも分かるくらいに、喋る声が震えている。でも、リスタは喋るのを止めることは無かった。止めてしまえば、次に洩れ出るのは嗚咽なのではないかと思ったから。ユインの前で涙を流すのだけは、不思議と嫌だと思ったのだ。
「口の中が血の味で充満するくらい頬を打たれましたし、腹も蹴られましたし、突き飛ばされましたし、首も締められましたし、犯されました。何度も、何度も。そのうち恐怖が勝って、あの男に従順な奴隷に成り変わって。でも二日後には、パヴァルが助けに来てくれたみたいで」
「……」
「これはラントやエレイヌから伝え聞いた話でしかないですけど、その時のパヴァルは、僕を攫った男を剣でめった刺しにしたらしいです。いつもは苦しまぬよう一撃で殺してみせるパヴァルが、一撃で殺さなかったって。……まあ、そのときの記憶は僕には無いんですけど」
「…………」
「でも助け出されたところで、地獄が終わったわけじゃありませんでした。また襲われるんじゃないのか、なんていう妄想に囚われて、それを吐き出せないまま一人で溜め込んでしまって。そうして、首をくくって死を選ぼうとしました。結果的に死に損なって、中途半端に生き残ってしまったんです」
「…………」
「本当に、迷惑を掛けました。ディダンにもエレイヌにもラントにも、パヴァルにもヴィディアにも。償っても、償いきれません。……ディダンなんかは僕のせいで、未だに襟巻をきっちりと締めることが出来ないんですから。もう、どうしたらいいんだか」
 鳥の羽音を聞き取ったリスタは瞼を開け、餌掛けをはめた腕を上げる。その手に止まったラルガスは、掴んでいた雄鶏をその拍子に地面に落とした。そしてリスタはラルガスの目を見ながら一言、よし、と言う。リスタの手から降りたラルガスは雄鶏の上に乗ると、それを啄ばみ始めた。この雄鶏が、ラルガスの夕食となる。事前に雄鶏からは血を抜いてある為、食べさせるのに問題は無いだろう。
「……だから僕は、今のあなたがとてもじゃないけれど見てられないんです。昔の自分とそっくりで。けれども下手に手を出せば、ファルロンを挑発することになって、状況をより悪化させるかもしれない。そう思うと、どうしていいのかが分からなくて」
 何かを紙に書いたユインは立ちあがると、その紙をリスタに渡す。そして少しだけ微笑んでみせた。
「……」

 心配してくれてありがとう。でも、大丈夫だから気にしないで。
 それと久しぶりに笑顔じゃないリスタが見れて、良かった。
 最近のリスタは作り笑いばかりだったから。
 クルスムとラジーが何か抱えてるんじゃないのかって、心配してたよ。

「……ユイン……」
 どうしてあなたはそうやって、自分のことになるといつも強がるんですか。
 とってつけたような笑みを浮かべるユインを、リスタは無言でじっと見つめた。そしてその時、遠くから聞かん坊の声が聞こえてくる。リスター、ユンねーちゃーん! 二人のもとにやってきたのは、父親から貰った小遣いを携えたルドウィルだった。
「どうしたんだい、ルドウィルくん」
 少し身を屈め、視点をルドウィルと同位置にやったリスタはルドウィルに対しそう訊く。するとルドウィルはちらりとユインを一度見て、そしてリスタに視線を戻した。
「ねぇ、リスタ」
「うん?」
「ユン姉ちゃん、ちょっと借りていい?」
「……借りる?!」
 リスタはユインに視線をやる。ユインはこくりと頷いた。
 別にいいよ。
 多分、そういうことだろう。少なくともリスタは、そう感じた。
「あ、うん。いいみたいだよ」
「ホント?! やったーっ! じゃあリスタ、これファン兄ちゃんに渡しておいて! 僕、ユン姉ちゃんとカレッサゴッレンに行ってくるから!」
 問答無用で押し付けられた紙きれ。そこには子供らしい大小さまざまな文字で一言、ユン姉ちゃんと出かけてきます、と書かれている。分かったよ、渡しておくね。リスタがそう言う間もなくルドウィルはユインの手を引き、どこかに去っていった。
「……ルドウィルくん、元気だなー。それにしてもあんな薄手の服で、はたして寒くないんだろうか。……まあ子供は元気だし、多少の寒さは大丈夫なのかな……」
 遠ざかっていく二人の影を見送ると、今度は逆に近付いてきた二人の影が見えてきた。頭二個分も違う身長差からして、どうやらパヴァルとディダンの二人組みであるらしい。そして近付いてきたパヴァルの腕には、先ほどユインに貸したリスタの藍晶が掛けられていた。
「あ、藍晶」
「ユインからお前に返しといてくれって頼まれてな。それにしてもルドウィルのガキんちょときたら、元気なもんだぜ。ったくよ……」
 そう言うパヴァルの声は、感心しているというよりは呆れているという感じで、片方しかない蒼い目は疎ましげにルドウィルとユインの二人が消えて行った方角を睨んでいた。
「ですね」
「それで今ちょうど、私たちの仕事が増えたところです。あの少年の護衛と、ユインの監視という仕事が」
 はぁ、とこれまた溜息を吐くのはディダンこと、ディドラグリュル・ダナディラン・ドレインス大臣補佐官。今日は定例会議に出席中であるケリスの代わりに、パヴァルと共に猛獣舎を視察してくるようパシりに出されたのだという。ただでさえ不服気な顔は、更に苛立ちも交じって、不機嫌そのものになっている。
「行ってらっしゃいませ」
 見るからにやる気もなければダルさしかない二人を前に、リスタはそれしか掛ける言葉が思いつかなかった。
「行ってらっしゃいませって、どこの従者だってンだよテメェは」
「馬鹿犬をさっきまで相手してた私たちの苦労もしらないくせに、行ってらっしゃいませ〜って何なんですか、もう……」
 ブツクサと不平不満を漏らしながらも、パヴァルとディダンの二人はルドウィルらの後を追って走り出す。そしてリスタは雄鶏を食べ終わったラルガスを見て、次にルドウィルから渡された紙きれを見やる。これをファルロンに渡すか、否か。そんなことを迷い始めていた。