【第十五章 輝きは此処に無く】

1 悪夢に囚われ、震えて眠れ


 あれは、とても静かな夜だった。
「……兄上さま……」
 当時まだ八つだったイゼルナが、一人が怖いとリストリアンスの寝室にやってきた夜。従者など居ない離宮には、第二分家の者と警護の者以外は居ないはず。それなのにイゼルナは、両親の部屋に向かう誰かの足音を聞いたと言った。よく分からないけれど怖いのです、兄上さま。そう涙ぐむ幼いイゼルナの肩を抱き寄せるとリストリアンスは、消えていた蝋燭に火を燈した。
「大丈夫、だからイゼルナはここで待っていなさい。僕は様子を」
 彼らの両親の部屋は、彼らの部屋の上、三階にある。リストリアンスは一人、様子を見に行こうとしていたのだ。だがその腕を、イゼルナが握る。
「嫌です、私も行きます!」
「……イゼルナ、君には危ないよ」
「兄上さまと、離れたくありません!」
 イゼルナはぎゅっと腕にしがみつく。離してくれそうにもなかった。
「……分かったよ、イゼルナ。その代わり、僕の傍から離れるんじゃないよ」
 この日は、リストリアンスが十三歳になった日だ。だからといえ、何か祝い事があるわけじゃない。第二分家はどんな祝い事でも祝ってはいけないのだと、父が言っていたからだ。
 《光帝シサカ》に、そう言われているから。息子の誕生日祝いに、おめでとうのただ一言でさえも言えないんだ、と。
 だから、なんてことない日常の中の一つ。そうなって終わるはずだった。
 それなのに。
「父上、母上」
 三階に上がり、リストリアンスとイゼルナの二人は両親の寝室の前に立つ。声を掛けるも返事はないが、物音は聞こえていた。リストリアンスはイゼルナに一歩下がるよう手で指示を出すと、傍に置かれていた銀の燭台を握る。そして音を立てず静かに、ゆっくりと扉を開けたのだ。
「……母上!」
 床に突っ伏している父・ラルグドレンスは、既に事切れている。そして母・シェルティナは後ろから何者かに押さえつけられている。それでも母は必死に抵抗しながら、リストリアンス向かって叫んでいた。
「駄目よ、リート! 来ては駄目! イゼルナと逃げなさい!!」
「ですが母上!」
「あなたたちは逃げなさい! 早く!!」
 イゼルナを抱き上げたリストリアンスは、後ろ髪を引かれる思いを振り切り、階段を駆け下りた。そうして一階に降りたとき、上から母親の断末魔が届く。母上さま! イゼルナは泣き声を上げた。それと同時に、離宮の門が乱暴に開かれる。大人の男が二人、そこには立っていた。
「リストリアンス、イゼルナ! お前達は無事なんだな!!」
「叔父上さま?!」
 一人は叔父のシルスウォッド卿。彼は構えていた細剣を鞘に納めると、リストリアンスとイゼルナに駆け寄る。やってきたのがよく知る人物で安心したのか、びくびくと震えていたイゼルナもいつの間にか気を失っていた。そしてシルスウォッド卿は気を失ったイゼルナを抱き上げると、もう一人の男、水龍神を連れたパヴァルに指示を出した。
「〈聖水カリス〉、お前はシェリラの“ノクス(「隠密」を指す隠語)”を追え! 見つけ次第、始末しろ!」
「分かってらぁ! ……ったく、シェリラさまの暴挙にゃ付き合ってられねぇぜ」
 そう吐き捨てるパヴァルは龍神と共に、まるで飛ぶように階段を駆け上っていく。この世のものとは思えない獣の咆哮が上がり、そして鎮まった。
「……叔父上さま……」
 両親が死んだ。ある日、突然。
「リストリアンス、ここは危険だ。場所を移そう。話はそれからだ」
 来なさい、とシルスウォッド卿に促されたリストリアンスは、卿の後をとぼとぼと付いて行く。そして連れてこられたのは、〈神護ノ十剣トウィンガル・ラン・アルダン〉事務所だった。
 出入り口の前では、既に仕事を終えたパヴァルが腕を組み待機していた。品定めをしているかのような蒼い目が、まだあどけなさが抜け切っていない少年を見下ろしている。その目を見つめ返しながら、少年は悟った。もう王族には、戻れないのだと。
「……噂にゃ聞いてたが、第二分家の御子息サマは見込みがありそうだ」
 パヴァルの目はあくまで冷たく、口元に湛えている笑みはあくまで飾りでしかない。そんなパヴァルを訝るように見る少年に、パヴァルはニタッと笑ってみせる。そして頭を鷲掴むように撫で、もみくちゃにした。
「今この瞬間から、お前の名は“リスタ”だ。〈不死鳥レイゾルナ〉が相応しいことだろうよ。というわけだ、〈神護ノ十剣トウィンガル・ラン・アルダン〉はお前を歓迎する」
「わっ、私の名はリスト……――――」
「お前の名は、リスタだ。リストリアンスは今この瞬間に、死んだ。お前はリスタだ。よって妹にはもう二度と会えないと思え」
 受け入れたくないだろうが、これはお前が生き抜くために必要なことなんだよ。そんな言葉が、リスタとなった少年の心に突き刺さる。
「……では、私は行く」
「おうよ。お疲れサンっと」
 イゼルナを抱きかかえ、王宮へと去り行くシルスウォッド卿。その背中が、段々と遠のいて行く。
 第二分家は、王宮の嫌われ者。
 だからきっと、叔父上さまも……――――
 よく、分からない。怒りでも恨みでもない、この感情が。
「……」
 リスタは黙り込み、目を閉じる。その横でパヴァルは、薄気味悪い笑みを浮かべていた。





「まぁーた負けたー! リスタ、絶対イカサマしてるだろー!」
 ぶぅ、と頬を膨らませるディダンは不機嫌そうに、疑いの目でリスタを睨む。
「イカサマなんてしてませんよ。ディダンが弱いから、こうして僕が勝ってるんです」
 ふふっ、と笑うリスタはディダンの駒を一つ裏返す。白から黒に、シサカからノクスに。あぁっ!と声を上げたディダンは悔しげに、キノコのような髪形の自分の頭を掻きむしった。
「嘘だ! 絶対イカサマだ!」
「君は自分が次に取ろうとしている行動を、僕に対して隠し切れていないんだ。だから僕には、君の考えていることが筒抜けなのさ。それで君の策は、僕に逆手に取られてしまう。トルカスは頭脳戦だよ。もっと狡賢く、頭を回さないと」
 比較的有利な後手を譲ってあげましたのに、と言いながら盤上の駒を片付けるリスタ。
 リスタがアルダンに来てから、約一年半。その間に、トルカスは嫌というほどやり込んでいた。ちょうど十歳下にあたるディダンが、相手をしてくれと 強請ねだるから。それで相手をしていくうちに、この遊戯の勝ち方が分かるようになってきたのだ。
 トルカス。それは陣取り合戦という意味を持つ遊びだ。縦横八マスの盤に並べられた、裏表のある円盤状の駒。駒の表は白で後手“シサカ”と呼び、裏は黒で先手“ノクス”。やり方は簡単、黒白交互に駒を盤に打ち、相手の駒を自分の駒で挟んで奪っていくだけ。駒が盤面の六十四マスを全て埋め尽くすか、打つ場所が両者ともなくなるか、盤面がどちらかの石一色になった時点で、勝敗が決まる。それだけの、簡単な遊びだ。
「ねぇリスタ、もう一回、もう一回!」
 片付けようとするリスタの手を止めようとするディダン。先ほどリスタは「頭を回さないと」とディダンに言っていたが、彼はまだ四歳。四歳にしては上々の出来。本来なら褒めてやるべきなのだろうが、「ディダンは絶対に褒めるな」とパヴァルに言いつけられているため、リスタもそうするしかない。けれどもそれがあってなのか、近頃腕前がめきめきと上達しているとは感じていた。
「でも、そろそろパヴァルが戻ってくるでしょうし。ラントの次は僕の番ですから」
「えー、でもーランはトルカス嫌いだから相手してくれないよー!」
「んー……なら、エレイヌに頼んだらどうだろう」
「……エレナは……」
「エレナは?」
「……強すぎるから勝てないんだもん」
「なら、丁度いいじゃないか。勝つ方法を、エレイヌに手解きしてもらいなよ。……まあ、もしかするとこの時間帯はまだ寝てるかもしれないけどね」
「寝てるよ、多分。エレナは夜更かしと二度寝の常習犯だもん」
 折りたたんだ盤と、入れ物にしまった駒をリスタはディダンに渡す。するとディダンは渋々、エレイヌの部屋へと向かっていった。小さい影が階段を駆け上っていく。僕もそろそろ支度をしないと。リスタもそう思い立ち上がった時だった。事務所の出入り口が開く。戻ってきたのはフラフラのラントと、呆れたように腕を組みながらガニ股で歩くパヴァルだった。
 ったく、お前って奴はどこまでヘタレなんだか。
 うるせー、お前がバケモノなんだろ。
 そんな態度だから、いつまで経っても成長しないんだろうが。
 うるっせ、これでも昔より成長してる。
 昔ってのは、赤子の頃かぁ〜?
 なんだと、クソジジィ!
「あの、お二人さん?」
 軽く身支度を整えたリスタは、くだらない言い争いを繰り広げるパヴァルとラントに声を掛ける。ラントの灰色の目はリスタを意味もなく睨め付け、パヴァルはそんなラントの頭を平手で叩く。バンッ!という痛みが容易に想像できる音が鳴った。
「リスタ、手早く仕度を済ませろ。今日の鍛錬はなし、代わりに王宮に行く」
「王宮、ですか?」
「そう、王宮だ。政ノ大臣サマに、偶には顔くらい出してやれ」
 王宮。その言葉に、リスタは戸惑った。何故かと言えば彼は、生まれてこのかた一度もシアル王宮に立ち入ったことがないからだ。
「……」
「どうした、黙りこくって。王宮が怖いのか?」
 第二分家の者として世を忍んでいた頃は、滅多に離宮の外に出ることが無かった。イゼルナに強請られるか、唯一の友人だったユライン家の子息ダルラが遊びに来た時くらいしか、庭園に出ていなかったような気がする。だから普段は屋内で読書に耽っていたりすることが多かったのだ。今のように毎日パヴァルに外に連れ出されて、ディア湖の周りを何周も走らされることなんて、昔は一度もなかった。
「……怖くないと言えば、嘘になります」
 それにシアル第二分家は、王族の中でも忌み嫌われている。何故ならば、王族の者として果たすべき明確な役目というのが、第二分家には存在しないからだ。
 シルスウォッド卿を見れば分かるが、第一分家は《光帝シサカ》の傍につき、政を回す上での補助をしなければならない。だから第一分家の当主には政ノ大臣という肩書が与えられ、その役目を果たさなければならない。そしてその者は、女である《光帝シサカ》と対になるように男でなくてはならない。そう、第一分家には明確な役割がある。
 だが、第二分家にはそのようなものはない。謂わばオマケ、お荷物のような存在だったのだ。だから役立たずの第二分家と馬鹿にされ、王宮内での地位は非常に低く、祝い事の行事に出席すること、ましてや開催することも許されなければ、シアル王宮の敷居を跨ぐことも許されなかった。だからリスタも、今まで一度もシアル王宮内に踏み入ったことはない。踏み入ろうと考えたことすらなかったのだから。
「まっ、それも仕方ねぇだろな。《光帝シサカ》が聡明なシェミルさまから暴君シェリラに代替わりしてからは、王宮内の空気は不穏そのものだしよ。この俺だって、正直おっかなびっくりだしな」
「嘘つけ」
「ラント、お前は黙ってろ」
「……」
 とにかく支度を済ませて来い、とパヴァルに急かされリスタは慌てて取り掛かる。男にしては少し長すぎる金色の髪を後ろで束ねて纏めると、それを上に押し上げる。その上から茶髪の 鬘かつらを被り、ズレないように留め、最後に帽子を被る。目の色はどうやっても誤魔化せないが、髪は鬘を被ればどうにか誤魔化せる。金髪碧眼だとシアル王家と縁のあるものだということがあからさまにバレてしまうが、茶髪碧眼であればパヴァルと同じ北アルヴィヌの者だと誤魔化せる。そんな風にみの隠れをしてでしか、外には出れない。不便そのものでしかなかった。
「変装しても美少年たぁ羨ましい限りだなぁ、レゼットちゃん」
「ラントは黙ってて下さいよ、私の苦労も知らないくせに……」
 そして身分は、パヴァルに貧困街で拾われた侍童のレゼットということになっていた。レゼットというのは、北アルヴィヌではごく普通のありふれた男性名らしい。パヴァルがいうには十人に一人、レゼットという名の男が居るんだという。
「よし、それじゃ行くか」
「……はい……」
「頑張れ、レゼット」
「私はリスタです。レゼットじゃありません」
「ラント。お前は、黙ってろ」
「うっせー、クソジジィ」
「……」
「……リスタ、そんな目で俺を見るなよ」
「……大人気ない」
「……」
「ははっ、違いねぇ」
 そうしてパヴァルに王宮へと連れて行かれたリスタ。そんな彼は、広いようで狭い王宮内をごった返す人の波に驚いていた。黒装束姿の従者たちが、所狭しと忙しなく蠢いている。朝早くの、最も忙しい時間帯だからという理由もあるのだろう。それにしても、居心地が悪かった。
「大丈夫か、レゼット。顔色が悪いが」
「……いえ、何でもありません」
 黒装束の従者たちは、顔を黒衣のように布で隠しているため、表情は見ることができない。けれどもリスタは、確かな視線を感じていた。女中たちはこそこそと小声で話しながら、ちらちらとこちらを見ている。
 あれはカリスさまかしら、あの子は侍童なのかしらね、可愛いわ、あらアナタそういう趣味なの。きっと、なんてことない意味も無ければ他愛もない会話でしかないのだろう。それでも、一度気になってしまうと全てが自分を悪く言っているようにしか感じられなくなってしまう。
 素性がバレてしまっていないだろうか、自分の所為でパヴァルに迷惑を掛けていないだろうか。全てが悪い方向にしか見えない。逃げ出したい。そう思いながらも、人を掻き分けながら必死にパヴァルの後を追う。
 訳もなく息が上がり、気持ちの良くない汗が額から滲み出る。前を向けない。気持ち悪い。ああ、もう無理だ。リスタが堪らず目を閉じたとき、どんっとパヴァルの背中にぶつかる。パヴァルが突然、立ち止ったのだ。恐る恐る、パヴァルの背後から顔を出し覗き見る。パヴァルの前には、キツイ顔立ちの女性が立っていた。あまり見かけない、烏の濡れ羽のように黒い髪と、純度の高い翡翠を埋め込んだかのような瞳。どうやら彼女が噂に聞いたことのある王宮の新参者、資ノ大臣エディス・ベジェンのようだ。
「ベジェンか。お前さん、会議があるんじゃなかったのか?」
「あぁ、〈聖水カリス〉さま。丁度いいところに。シルスさまが探して居られましたわよ」
「そうか。それでシルスの野郎は」
「執務室ですわ。武ノ大臣ケリス・シャドロフと、文ノ大臣のあのハゲジジィとシルスさまは」
「ルディガンド・パンデモッダ・チャニラス、な。いい加減に名前を覚えたらどうだ、ベジェン。まともに人の名前も言えねぇ大臣は、侍女どもから舐めら……――――」
 パヴァルの意識が、エディスに逸れている。その僅かな隙だった。
 パヴァルとエディスの横を、貴族らしき身なりをした肥えた男とその従者たちが通り過ぎる。そして男らがリスタの横を通り過ぎようとした刹那、リスタは腕を強く引かれ、身動きがとれないようにと体を押さえつけられたのだ。離せ、と声をあげようとするも、開けたその口に猿轡を嵌められて、声が思うように出せない。そして両脚をも何者かに掴まれ、持ち上げられた。まだまともにパヴァルから体術を教わっていなかったリスタに、抗う術は残されていない。気がつけば、無駄に豪勢な馬車の中に押し込まれていた。
「評判通りの美男子だなぁ、レゼットくん」
「……!」
 リスタの横に乗り込んできた男。それはさっき横をすれ違った、よく肥えた豚のような貴族の男。見ているだけで不快感を覚える脂汗を垂らしながら、リスタに寄ってくる。男の顔が、目の前に近付いていた。
「いやぁ。それにしても君みたいな綺麗な子が、あの薄汚い男に仕えてるだなんて、私には許せなくて許せなくて仕方がなかったんだよ」
 男はリスタの口に嵌められていた猿轡を外す。そして鬘の髪に触れた。
「栗色の艶やかな髪。いつも被ってるこのハンチング帽。シャグライのように白い肌。華奢なその腕で重い剣を必死に振り回す姿。いつも私は、君を見ていたよ。あの男、〈聖水カリス〉などより私の方が君を大事にしてやれる。だから君が、欲しいんだ。私だけにその笑顔を向けてくれないか、私だけにその声を聞かせてくれないか」
 脂ぎった指が、リスタの頬に触れる。悪寒が走った。吐き気を覚えた。逃げ出したかった。けれどもその瞬間に閉じられる馬車の戸。もう逃げ道は、残されていない。
「さぁ、私のレゼット。これを飲むんだ。そうすれば君は、私のものになる」
 馬車の椅子の下。男はそこから葡萄酒の瓶と金色の杯を取り出すと、杯に葡萄酒を注ぐ。赤い色が、徐々に金色に輝く杯を満たしていく。けれども、その葡萄酒はどうも様子がおかしかった。油のような無色透明の膜が、葡萄酒の表面に浮いている。そして察した。これは決して飲んではいけないものだと。それに昔、リスタは亡き父親ラルグドレンスから教わっていた。他人からの供物、特に飲食するものは不用心に受け取ってはならない。毒や薬が仕込まれている場合があるから、と。
「……イヤです。絶対に……ッ!」
「飲めと言っているんだよ、レゼット! 君は私の言うことを聞いていればいいんだ、それが分からないのか!!」
 リスタの唇に強引に押し当てられた杯から、葡萄酒が直に喉へと注がれる。手足は縛られているために拒むことは出来ず、胃に流れてしまったものを吐き出すことも出来なかった。そして杯が空になった段階で、漸く押し当てられていたものが離れる。項垂れるようにリスタの首は、前のめりに落ちた。
「それでこそ、私の可愛いレゼットだ」
 君の悪い笑みを浮かべる男は、反応が鈍くなっているリスタの肩を抱き寄せ、まだ柔い頬を撫でる。ガタンっと揺れた車内。リスタは男の腕の中で、既に眠りに落ちていた。




 じめっとした居心地の悪い暗所で、リスタは目を覚ました。どこかの地下室なのだろうか。床は冷たく、前にも横にも後ろにも鉄格子が張り巡らされている。足を縛っていたものは外されていたが、腕は生憎縛られたままで、それも鉄格子に固定されていた。
「お目覚めかい、レゼットくん」
 暗い部屋に一筋の光が射し、光の幅は徐々に広くなっていく。そして明るくなった部屋。鉄格子の前には上へと通じる階段があり、そこからあの肥えた男が降りてきた。カチャリ。錠が開く。男が鉄格子の中に、入ってきた。
「……いや。リストリアンスくん、と言ったほうが正しいのかな?」
「……ッ!?」
 男が持っていた燭台が燈す蝋燭の明かりがリスタの視界が開き、彼は自分の服装を視認するなり戸惑った。
 鮮やかな青のドレス。それはどう考えても、女性ものの衣服だ。
「女装は初めてかい? でも君に、よく似合ってるよ。とても美人だ」
 そうして男がリスタの前に翳すのは、鏡だった。男は鏡でリスタの顔を映す。けれどもそこにあるのは、普段のリスタの顔じゃなかった。白いドーランの塗られた肌と、唇に引かれた濃い赤の紅、目元を彩る蒼。茶髪の鬘はどこかに消え、露わにされていた少し長めの金色の柔い髪は、綺麗に梳かれて真っ直ぐに整えられている。
 それはどう見ても、男の姿じゃない。
 紛れもない、女の姿だった。
「……私の天使、リストリアンス。君は死んだものだと思っていた。それがまさか、こんな近くに居たなんて。嗚呼、レゼット。君が実はリストリアンスだったなんて、どうして私に隠していたんだい?」
 男の手が、リスタの頬に触れる。愛玩動物を優しく愛でているようでもありながら、同時に愛情の対象を力という恐怖で支配しようとしているような乱暴でもある手つき。
 リスタは瞬時に察し取った。この男は二面性の持ち主なのだと。優しい言葉で愛を囁きながら、強引に自分色へと染めようとしている。
 でも全てが嘘の詐欺師とは違ってこの男は、建前の甘く優しい言葉の全てが嘘だとは決して言い切れない。だからこそ、タチが悪かった。だからこそ、恐ろしかったのだ。
「でもこうして、また巡り合えた。これも全て、《秩序ウカル》さまの思し召しになられたことなのだろう。そう、これは運命なんだ。君と私は出会うべくして出会ったんだ。だからねぇ、私のリストリアンス。君は誰にも渡さない。君はもう、私だけのものなんだ。そうなってくれるよねぇ、うん?」
 選択を間違えれば、男は支配者の顔を表に出す。だから本来であれば慎重に選ばなければいけない選択だった。
 それなのに。
「嫌です、絶対に! 私は私だ、誰の所有物でもない!!」
 突っ走った感情に任せて、選択を取り違えてしまったのだ。男の顔は、みるみるうちに歪んでいく。拳を握り、怒りに震え、手に持っていた鏡を壁に向かって投げつけた。パリィン……と鏡が割れて砕ける音がする。
 完全に怒らせてしまった。
 怯えた目でリスタは男を見る。そして男も、リスタを見た。つり上がった目。開く口。そしてリスタは男に、右頬を拳で殴られた。続けて左頬も殴られる。ラントが冗談でやる平手打ちとは比べ物にならないくらい、痛かった。それは、頬骨が砕けるんじゃないかとも思える衝撃。それだけ相手の男は、怒っていたのだ。リスタを殺しかねない勢いで、殴ってきた。たった二発殴られただけなのに、既に口内には血の味が広がっている。そしてまた、右頬を殴られた。それに加えて男は、更に大声でリスタを怒鳴り付け始めた。
「私の言う事が聞けないのか、リストリアンス! 君は既に、私のものなのだ! ただ黙って主である私の命令に従え! 君はもう二度と声を出すんじゃない、分かったか!!」
 最後にもう一発、左頬を殴られる。リスタの体が右に傾き、その拍子に手首を縛り付け鉄格子の柵に固定していた縄が解けた。そのままリスタの体は、床に倒れ込む。起き上がろうとするも、睡眠薬の副作用か、なんなのか。体に力が上手く入らず、思うように動けない。その当てつけにリスタが男を睨みつけたときだった。男は自分の衣服を脱ぎ始めていた。リスタの恐怖心が許容量の限界を超え、警鐘を鳴らし始める。
 逃げろ。
 さもなくば、こいつに。
「……なっ、なにをするつもりですか!」
「だから君は二度と喋るなと言っただろう、リストリアンス……!!」
 頬を殴りつけられ、髪を乱暴に掴まれ、頭を持ち上げられる。そして顎を強く掴まれた。勝手に喋っているのは、この口か。下賤に卑しく歪む男の顔。その顔が近づいてくる。身に迫る危険を理性で認識したときには、本能に準じて体が動いていた。まだ薬が抜け切らず鈍く思い体を奮い立たせならが、拘束が解けている手を振り上げ、男の顔を引っ掻く。出来るだけ爪を立て、鋭く、深く、抉る。そして自分の行いをリスタが後悔したときは既に遅く、リスタは男に突き倒された。その上に覆いかぶさる男。重く、苦しく、もう逃げられなかった。
「さぁ、悪い子にはお仕置きをしなくちゃならないね」
 リスタの首に回る、男の両手。気道と動脈を指先で探りながら、首を掌で包むように。そして狙いを定めると、男はその手に力を込めた。
「どうだい、リストリアンス。苦しいだろう? 君が私に反抗的な態度を取ったからいけないんだ」
 呼吸が出来なかった。苦しい。頭の中は、それだけで満ちる。右手首が激しい痙攣を引き起こし、震えが止まらない。でもそれ以上に恐ろしいことは、この震えが恐怖から来ているものではないということだった。
 体が異常を訴えている。死の足音がにじり寄ってきている。限界まで開ききった目からは涙が滲んで、零れ出た。けれども泣いているわけではない。前にパヴァルが言っていたのだ。首を絞めると人間は、全身の穴という穴から水分が噴き出すのだと。そうして限界に達して筋肉が全て緩まれば、目玉は飛び出し、排泄物はダダ漏れになるとも言っていた。自分もそうなってしまうのだろうか。そして意識が白に塗りつぶされそうになった直前で、男の手は首から離れた。開いた気道に、それまで堰止められていた大量の空気が流れ込み、咽る。咳き込む胸が、ズキズキと痛んだ。
「涙なんか流して、君は本当に可愛いねぇ。まるで女の子みたいだ。綺麗で可愛くて可憐な、私のリストリアンス。そんな君が男の子だなんて、信じられないよ」
 リスタに着せられている青いドレスの裾を、男はゆっくり捲り上げる。着ていた下着も同時に、脱がされたような気がした。
「さぁ、私に君の啼き声を聞かせてくれ」
 抗う術は無い。
「……」
 もう、元には戻れないのだろう。
 そしてリスタは目を閉じ、口も閉ざした。歯を食いしばり、痛みに耐える。誰かが、助けにきてくれるかもしれない。そんな淡い期待は捨て、リスタは全てを諦めた。





 暖かい。
 そんな感覚に刺激されたのか、リスタの瞼はゆっくりと開いた。
「気が付いた?」
 そこは〈神護ノ十剣トウィンガル・ラン・アルダン〉事務所内の大浴場。白く濁ったお湯の中で、リスタは半ば溺れかけていた。そんなリスタの横に座っていたのはエレイヌ。そしてエレイヌは濡れた手でリスタの頬にそっと触れた。
「リッちゃん」
「……」
「あなたは、よく耐えたわ。二日も地下に監禁されて、酷い目に遭わされて。私だったら、途中で自分の首でも掻っ切って逃げ出してたかも」
「…………」
「まあでも、安心してね。パヴァルが、悪い奴らを片付けたから。暫くはゆっくり体を休めてね。そしたらパヴァルが、特訓を始めるって。そう言ってたわ」
 何も言葉を返さなければ、真顔のまま表情を取り繕うこともしないリスタに、エレイヌはただ一方的に喋り続ける。パヴァルが言っていた今後のことについての話や、他愛もないようなくだらない話。リスタが一切反応しなくても、それでも喋る。それはエレイヌが予め理解していたからだ。リスタが一切反応を示さない、示すことが今は出来ないということを。
「ダンちゃにね、この間初めてトルカスで負けたのよ。あの子、いつの間にか強くなってたのね」
 極限まで追い詰められれば、人間は壊れる。
 嫌でもその姿を、エレイヌは見せられてきたものだ。
「……」
 カレッサゴッレンの奥に行けば、“人間”からあぶれてしまった女たちが全裸で寝転がっているし、シャレーイナグラの裏通りには、レデタッドで頭も人生もボロボロに冒された老若男女が獣のようになり暴れている。アルヴィヌの町にも、そういったのはごまんと存在していた。人を殺してまでも盗みをはたらく少年少女が居れば、目に入ったもの全てを理由もなく殴り壊す男も居たし、生まれた子供たちに手を上げる親たちも大勢存在していて、町の至るところに腐った死骸が山積みにされていたものだ。
「……リッちゃん」
 リスタの心は、ズタズタに引き裂かれボロボロになっていることだろう。でもこれは、それ以前の問題。それはリスタの首に残された、青紫色に変色した手形。どうやら首を、それも気道を重点的に締め付けられていたようだった。
「パヴァルは早ければ二、三日で喋れるようになるって言ってたけど……――今はそれを信じるしかないわよね」
 きっと、相手には殺意が無かったのだ。代わりに、恐怖を植え付け苦しめたかったのだろう。
 恐怖に喘ぎ怯えるさまを見たかったのか、それとも恐怖で支配し服従させたかったのか。どちらにせよ、苦痛を味あわせたことに変わりはない。一生残るであろう、深い傷を。体にも、心にも。
「私よりもリッちゃんの方が、十一も年下なのよ。まだ人生これからだってのに、その歳で老害のゴミクズに人生ブチ壊されるのは勿体無さすぎるわ。ねぇ、そうでしょ?」
 エレイヌがリスタのほうに視線をやったとき、リスタの瞼はまた閉じられていた。呼吸は緩やかで、浅い。
「……力の弱い女の子に手を上げるだなんて、許せない。外道のパヴァルだって、絶対にそれだけはしないのに……――!」
 首、胸、腹、頬、手首、背中。至るところに残された痣をエレイヌは見つめながら、怒りに震える声でそう呟いた。




 その翌朝だった。リスタの様子を見に行ったディダンが、彼の部屋の戸を開けるなり大声を上げたのは。
「誰か来て! 助けて!!」
 生憎その朝はアルダンの正規隊員であるケリスやパヴァル、ヴィディアの三人が早々に王宮へと出ていた為に、ディダンとリスタのほかに居るのはラントとエレイヌの二人のみ。そしてディダンが大声をあげたとき、二人はちょうど朝飯に何を作るかで小さな口論を巻き起こしていた最中だった。よって、二人ともその声を聞いていた。だから二人でディダンの声がしたほうに駆け付けたのだ。
「どうしたの、ダンちゃん」
 開いた扉の前で固まるディダンに、エレイヌはそう訊ねる。そしてディダンはぷるぷると震える手で、リスタの部屋の中、天井を指差した。ラントとエレイヌは、中を覗きこむ。そして一瞬、動けなくなった。
「……リっちゃん……!?」
 天井から垂れる縄。床に倒れた、脚の高い椅子。宙ぶらりで床に届いていない爪先と、だらりと力なく垂れた腕、そして血の気の引いた青い顔に、乱れた金色の髪。間違いなくそれはリスタで、リスタは首を吊っていた。
「……ヴィッデが言ってた通り、やっぱり部屋に一人置き去りにするべきじゃなかったのか……!」
 ラントは偶然に携帯していた短剣を引き抜くと、部屋に飛び込み、天井から吊られた縄の付け根を切り落とす。そして床に落ちたリスタの体をエレイヌが受け止めると、彼女はリスタの首筋に指先を当て、脈を探した。
「……どうしよう、脈がないし呼吸してない……!」
「俺はパヴァルに報告してくる! エレナ、お前は蘇生を試みてくれ! 出来るよな!」
「殺す方法は知ってても、蘇らせる方法なんて知らないわよ!!」
「じゃあ逆だ! 俺がやる、だからお前は王宮に行け! たしかパヴァルは今日、政務室に居るっつってたからな、急げ!!」
「分かった!」
 エレイヌはリスタの体をラントに預けると、一人走って王宮に向かう。そしてラントは仰向けに寝かせたリスタの肋骨の上に両手を重ねて置くと、全体重を腕に掛けるように、肋骨を折る勢いで胸を圧迫し始めた。固まったまま、体が思うように動けずにいるディダンは、その様子をただ眺めている。
 ラントはリスタを、殺す気なのだろうか。
 それとも、これが蘇生っていうやつなのか。
 よく、分からない。
 そうしてラントが圧迫を繰り返し、時に口に口を当て息を送り込んだりをしているうちに、時間は経つ。事務所の扉が乱暴に開けられる音が鳴り、エレイヌのキンキンうるさい声とパヴァルの怒鳴り声が続き、ぼうっと突っ立っていたディダンの小さな体は邪魔だと突き飛ばされた。そんなディダンの前を、褪せた色合いの見慣れた藍羽織が霞める。パヴァルが到着したのだ。
「ラント、蘇生術は試みたか」
「今やってンだよ!! でも全然ダメなんだ!」
 赤くなったラントの額からは汗が吹き出し、それがリスタの服に垂れシミを作っている。そんなラントに近付くパヴァルの顔には普段の嫌味な笑みは無く、眉間には皺が寄っていた。そしてあくまで冷静に、ダメな点を指摘する。
「ダメなのはお前だ。その程度の力で効くわけがないだろ。もっと強くやれ」
「これでも全力だ!!」
「ならいい、代われ。俺がやったほうが早い」
 そうしてラントもディダンもエレイヌも、部屋から追い出され扉を閉められる。
「……リスタ、死ぬのかな」
 俯きながら、ディダンは小さな声でそう呟く。大きな目から、ぽたぽたと小ぶりな涙が零れた。
「大丈夫、そんなことない。パヴァルがどうにかしてくれるから」
 ディダンを抱き寄せて、その頭を撫でるエレイヌはそう言う。

 後に、ディダンはこう言いながら笑った。
 後にも先にも、人の死があんなに悲しく感じられたのはあの時だけですよ、と。
 自分の親を焼き殺しても何も感じなかったのに、ホント変ですよね、と。