【第十四章 回る天に、慟き哭け】

4 静寂の轟音


 追われている。
 そんな気は、感じ取っていた。
「……追手が、居るみたいだね」
 月明かりもない暗闇の中、後方からは激しい殺気が伝わってくる。点々と散らばる松明の明かりも、いくつか見えていた
「ユイン。ざっと何人ぐらいか、分かりますか?」
「一人は確定。あの影から見て、どうやらルドウィルの予想通り、ファルロンみたいだ。それともしかすると……」
 全速力で走る馬は向かい風を裂くように走り、その所為で身に纏っている衣類が吹き飛ばされそうになっていた。既にユインのエナン帽は何処かに飛び去り、そして今、リストリアンスのハンチング帽も天高くに攫われていった。束ねた髪を押さえていた紐も緩まり、少し長めな金色の髪は、吹き荒れる砂漠の暴風に玩ばれている。その髪を避けるようにユインは、少しだけ態勢を低くした。
「囲われたかも」
 駆けていた馬の足が止まり、一層強い向かい風が吹く。乾いた砂は舞い上がり、地表で小さな渦を巻いた。夜空の星を生成りに染まった大気が掻き消し、眼球に飛び込んできた砂粒に瞼を瞬かせる。この砂埃じゃ、目を開けていられない。そうしてユインが右の瞼を閉じ、リストリアンスの背に隠れるよう少し身をかがめる。横目に見えていたのは無数の明かり。四方八方、囲われていた。
「……どうやら、そのようです」
 揺れる炎を燈した無数の松明が、二人を取り囲むように近づいてくる。逃げ道は見出せない。馬で突っ切ろうにも、人垣を飛び越えるというのは無理があった。
「袋の鼠、というわけですか」
 下手に抗えば、命を落とすことになるだろう。
 だがそれはリストリアンスだけに当てはまる項目であり、ユインにはない項目でもあった。
「この様子じゃ、見逃してくれそうもないよね」
 きょろきょろと辺りを見渡すユインはそう言いながら、リストリアンスの胴に細く白い腕を絡ませ、強く抱き付く。そして一言、吐き捨てた。「邪眼がないと不便な時ってのも、あったもんだね」
「邪眼が?」
「神術の式がサッパリ思い出せないよ。大気の熱さえ操作できれば、風を巻き起こして砂を舞い上がらせ、目晦まししてる隙に逃げ出せるってのに。……今までは感覚で操ってたし、やっぱりちゃんと術式を勉強しておくべきだった。メズンの言いつけなんか守らないで、パヴァルに指摘された時にやっておけば……」
「てっきり神術というのは、結界しか張れないものだと思ってましたが」
「気温を操作できれば、間接的に気象を操れるんだ。天変地異とまではいかないけどね。〈大神術師アル・シャ・ガ〉さまでも出来ない技さ。まあそれも、武神ノ邪眼っていうものがあって初めて出来ることだし、俺自身一度も試したことはない……――って、そんな話は今いらないよ!」
「あなたが始めたんでしょう」
「そうだった」
 そんな話をしてる間にも、灯りは徐々に近付いてくる。黄ばんだ薄暗闇の中に暗澹と浮かぶ、藍晶石にも似たリストリアンスの瞳。その瞳は冷静に状況を捉え、理性で“最善の選択”を導き出そうとしていた。
「……私は無理でも」
 金髪碧眼。忌々しきシアル王家の象徴を体現したような姿恰好をしているリストリアンスを、ラムレイルグ族が敵視していないわけがない。だが、ユインはどうだ。白髪に紫色の瞳、全体的に色の抜けた体。まさしくシャグライの者であり、何より彼女はかの地にかつて栄えていた旧王家、滅んでもなおラムレイルグが数千年もの間に絶対的な忠誠を揺るがせることのなかったオブリルトレ家の血を継ぐ者である。彼女に対して敵意などあるはずもなく、寧ろその真逆なのだ。
「あなただけなら、逃してくれる可能性がある」
 それにきっと彼らは、彼らが崇拝する“女王”を、敵対するシアル王家の魔の手から救出しようとでも考えていることだろう。
 今や“女王”は女王でないということも知らずに。
「だから、あなたは」
「リスタのバカ!!」
「……!」
 意地でも離れるものか、と抱き付くユインの腕の力が更に強く、リストリアンスを締め付ける。
「ここで別れたら、王都を抜け出してきた意味が無くなるじゃん! じゃあ何のためにパヴァルやシルス卿が手引きをしてくれたの?! ディダンだってリュンだって、ユニもダルラもそう。全部が無駄になる、それでもいいっての?!」
「ですが、ここは」
「それに見逃してくれるはずがないじゃん! ここで別れたところで俺は山に連れ戻されて、リスタはこの場で首を斬られるだけ! どっちにしろ別れたところで良いことなんて何もない、だったら二人で捕まった方がよっぽどマシさ!」
「……」
 既に松明を持つラムレイルグの者たちの顔は、朧(おぼろ)げだが見える距離に近付いて来ている。こうなれば、逃げ場は何処にもない。ユインだけを逃がすことも不可能になった。
「……負けました」
 根負けだ。
 どうやら新たに人生をやり直すことは、叶わぬ夢だったらしい。サイランへの道は閉ざされ、代わりに今開いている道は、サラネムへの道だけだった。だがこの先どう転ぶのか、そればかりは皆目見当もつかない。
 でもそれを選ぶしか、今は選択肢が残されていないのだ。
「あなたの言う通り、ここで離れたら最期、今生の別れになりそうです。それだは御免だ……」
 リストリアンスは手綱を引く。同時に馬腹を圧迫するように自身の両足も少し後ろに下げると、馬はゆっくりと後退した。
「なんとか、この包囲網を突破できない?」
「成功する確率は一割もないでしょうが、やってみるだけなら」
「……」
「捕まってて下さいよ、ユイン」
「分かってるさ」
 更に強く、馬腹を圧迫する。リストリアンスは靴の踵に付けていた拍車を、馬腹にめり込ませるように掛けると、馬は仰け反り、そして勢いよく駆け出した。馬に踏まれるぞ、道を開けろ、退け! どこからか男の図太い声が上がり、道が開けていく。開けていく道の先には、上がっていく一筋の煙弾が見えた。煙は空高く昇ると天空で弾け、青白い光を放つ。
「あれは……」
「ザンだ。ザンの煙玉だよ!」
 あの方角に向って、とユインは声を上げる。リストリアンスは進行方向を、煙弾の方角に定めた。
「ザン?」
「ラムレイルグの現族長、ヌアザン・サジュ。男版クルスムっていう感じのヤツだから、安心して。多分、あの煙弾を目指していけばどうにかなると思う」
「確信は」
「五分五分。もうン十年も会ってないから、変わってるかもしれないし」
「……どうやら、賭けるしかないようですね」
 その『五分』を信じ、突っ走る。すると横から、暗闇に紛れて黒馬が近づいてきた。馬の上には、黒いローブですっぽりと身を覆い隠した男が乗っている。フードで隠れて見えない顔。けれどもユインはその顔を覗き込むと、あっと声を上げた。
「ザン!」
「久しぶりだな、ユン。男連れたぁ驚きだ。それもシアルの美男を連れてきやがって、これ以上ない最高の冗談だぜ。それに随分と女らしい服を着てるもんだ。メズンがこれを見たら、目ン玉ひん剥いて腰抜かしてることだろうさ」
「これには色々と事情が!」
「ああ、メルデスが運んできた手紙を読んだから把握してるよ。だが、ここで悠長に話してる暇はない。それに、あの煙弾は俺の親父が上げた囮だ。追っ手はアッチに行くが、お前らはコッチだ。馬を捨てて、ついて来い!」
 黒馬から降りたヌアザンは、握っていた手綱をリストリアンスの持つ手綱に結びつけ、そして二人に馬から降りるよう身ぶり手ぶりで促した。リストリアンスが降り、ユインが降りる。二人が降りると、ヌアザンは指笛を吹いた。小刻みに震える高く力強い音が、軽快に鳴り響く。すると黒馬は、煙弾の上がった方角に向って駆け出していく。その黒馬と手綱で繋がれた、二人が王都から乗ってきた馬も、同じ方角へと走り出していった。
「砂漠にこの風だ、俺たちの足跡はすぐに消えて証拠は隠滅。さぁ、何があったのかは知らねぇが、なんだか気がおかしくなっちまってるファンの野郎にバレる前に急ぐぞ。走れ!」
 左に曲がるヌアザンは、暗闇の中を明かりも持たずに駆けて行く。その後をユインとリストリアンスの二人は、見失わないようにと必死に追いかけて行ったのだった。




「イェガン、連れてきたぜ! イェガン、おいイェガン! 居るのか、おい!!」
 辿り着いたのは、砂漠の中にひっそりと立てられた小さな天幕だった。天幕の閉じられた入口の前で、イェガンの名を呼ぶヌアザン。だが、内側からの返答はない。おかしいな、とヌアザンは一歩後ろに下がる。ユインは横に立つリストリアンスの手を握り、ちらりと視線をやる。リストリアンスも不審げに、青い瞳で天幕を見つめていた。
「なんだか、嫌な予感がするんだけど」
 ユインは小声で呟き、握っていた手をぎゅっと力を込める。
「……ユンの勘は昔から大抵当たるからな、なんだか俺まで不安になってきたぜ」
 クソぅ、と漏らすヌアザンは天幕の入口に手を掛ける。開けようとするのを、躊躇しているようだ。
「今までのは、勘じゃないよ。予め全ての結果が分かってたから。だから百発百中で全てが当たってただろ?」
「ん……んん? どういうことだ、そりゃ。じゃあ今の嫌な予感ってのは」
「いや、今のは勘だけど。そういうのはもう分かんないから」
「相変わらずお前は、よく分からねぇ奴だな。混乱してくるぜ……」
「よく分からないって、失礼じゃないか」
「シアルの兄ちゃんも変な奴に好かれたもんだな。大変じゃねぇの?」
「そういうところが、彼女の魅力ですから」
「魅力ッ?! ……はぁ、俺には理解出来ないぜ」
 要は変わりもん同士がくっついたってワケか、とヌアザンは笑いながら、指で数を数えていた。三、二、一。そしてヌアザンは天幕を覆う鹿皮を剥ぐようにして入口を開けると、即座に短剣を構える。リストリアンスもユインを抱き寄せ、剣〈不死鳥レイゾルナ〉を引き抜いた。
 何故、武器を構えたのか。それはヌアザンの目の前に、目隠しをされ猿轡をはめられ、麻縄で体を椅子に縛り付けられたイェガンの姿があったからだ。
「クソッ、あの馬鹿犬に読まれてたか! シアルの兄ちゃん、アンタはユンを連れてここから今すぐ逃げろ! ユンを頼んだ!」
「はい!!」
「東に行けばダグゼン氏の小屋がある、そこに行けッ!」
 暗闇に包まれていたはずのあたりにはいつの間にか篝火が燈され、待てや止まれと怒鳴る男の声が辺りに轟いた。待てと言われて止まる馬鹿がどこに居るんだよ! 背後の追っ手に向かい舌を出すユインを抱えながら、リストリアンスは東を目指して走っていった。
 だが、東に行けばいくだけ、光がなく暗くなっていった。暗くなれば暗くなるだけ、敵は見えなくなる。東に向かえと言われ、取り敢えず今は無心で東に逃げている。けれども本音を言うと、逃げきれる自信は無かった。
 闇の中でも目が利くのなら、もう少し自信を持てただろう。訓練は受けていたとはいえ、光が一切射さぬ完全な暗闇の中に紛れ込んでしまえば最後、方角も左右前後も均衡感覚も見失い、抜け出すことは困難になるのだ。
 あの闇の中を抜け出すのは、パヴァルでもやっとのことだと言っていたのに。
 自分になど出来るのだろうか。
 何か、少しでも照らしてくれるものがあれば。リストリアンスの頭にそんな思いが過ったとき、ユインが「貸して」と剣〈不死鳥レイゾルナ〉を奪ったのだ。
「ユイン?!」
「ねぇ、リスタ。シアル王家の聖杯は、まだ残ってたりしてる?」
「既にパヴァルが破壊しています。……ですが、聖杯がどういう関係で今……」
「あの聖杯は、十武神っていう十柱の神を封印していた呪具なんだ。というより、あの杯の中に流れる昔のオブリルトレの女王の血が十武神の力を封じてた。だから聖杯が壊れた時に、きっと血が流れたはず」
「ええ、血が飛び散っていたような気がしますね」
 ベンスが投げた聖杯を、パヴァルが〈聖水カリス〉の刃で真っ二つに切り裂いたとき、割れた聖杯の断面からは酸化し黒ずんだ血液が流れ出していた。あの異様な光景は、リストリアンスの脳裏に未だ焼き付いている。
「なら、封印は解かれてるんだ。いける、多分」
「……?」
神護ノ十剣トウィンガル・ラン・アルダンの剣は元々、オブリルトレ家の家宝、神封じの十剣トウィンガル・ラン・アルダヌスだったんだ。“護るダン”じゃなくて“封じるダヌス”。だから封じられている武神の力を上手く引き出せれば、パヴァルみたく武神を……!」
 追っ手たちの足音が徐々に近付き、乾いた砂が舞い上がっていく。もう無理だ。焦燥感は募り、体力はカラッと乾いた暑さに奪われていく。
 いっそのこと、この場で剣を交えて斬り伏せるというのもありなのではないか。
 リストリアンスの脳内に浮かんだのは、そんな案。けれども、人を斬るというのは気が引ける。だが、そうしなければ自分たちの命が危うい。好ましい選択ではないが、今はそれしかないようにも思えた。ただ走り続けて距離を取るだけでは、何も解決はされない。どちらかが諦めるまで、体力が無くなるまで、走り続けるくらいなら。いっそのこと、これは正当防衛だとして剣を取るべきだ。武神がどんなものなのかも分からぬ今は、それを試すのも……――――
「ユイン、剣を!」
「もう少しで召喚できそうなんだ!」
「そのようなものを試す余裕は今はありません。この場で迎え討つのが」
「……分かった、援護は任せて!」
 ユインを降ろすとリストリアンスは迫りくる敵を見据えながら、剣を構える。ユインもクルスムからの餞別だという弓に矢をつがえ、狙いを定めた。
「弓なんて何十年ぶりだから、腕が鈍ってなけりゃいいけど」
「追っ手を迎える前から、そんな不安になるようなことを言わないでくださッ……――!」
「リスタ!!」
 ユインの目の前を、突然音もなく横切った黒い影。飛ぶように走る黒い山犬のようにも見えたその影は、リストリアンスを押し倒すように体当たりをすると、倒れたリストリアンスの上に乗り、動きを封じた。ユインは影に向かって矢を放とうと照準を合わせたが、その直後、背後から羽交い絞めにされる。ユインの顔に擦り付けるように当てられた鉄の刃。その刃は、〈咆哮ベイグラン〉だった。そしてユインを羽交い絞めにしたのは、ファルロンだった。
「……聞かせてもらったぜ、ユン。武神ってのは便利なもんだな。ディダンやキャスが執務室に居ない隙に、この剣を盗ってきた甲斐があったもんだぜ」
 へへへ、と笑うファルロンの息がユインの耳に吹きかかる。不愉快だった。虫酸が走った。気持ち悪かった。
「今すぐ、離れろ。俺からも、リスタからも!」
「なに言ってんだよ、ユン。俺はお前を、助けに来てやったんだぜ? オブリルトレの女王さまに、シアルの王さまが手を出す前にな」
「余計な御世話だ! 離せ、離せよ!」
 獣の牙に〈不死鳥レイゾルナ〉の刃を噛ませ、上手く獣の影に対応しているリストリアンスだが、腕も体力も限界寸前のようにも見える。歯を食いしばる顔は赤くなり、徐々に圧されてきている。リスタが、危ない。頭では分かっている。だが、ユインも動きを封じられているせいで手出しが出来ない。歯痒かった。だから。
「離せっつってンだろーがァッ!」
 ユインは持っていた矢の矢柄を強く握り、力任せに振り上げた。そしてファルロンの腕を目掛けて振り下ろし、矢尻をファルロンの腕、それも左肘に突き刺す。出来るだけ深く、抉り、捩じり込むように。痛みに悶えるファルロンの力は緩み、その隙にユインは逃げ出す。睨むようにユインを見るファルロンの左腕は、力なくぶらぶらと垂れて揺れていた。
 それもそのはずだ。ユインは今、左腕の腱を切ったのだから。
 それにクルスムの矢は、特殊で難解な加工が施されている。矢尻の先は細く鋭く、少しの力でも深くまで容易く刺さるようになっているし、矢尻の後部についている鉤状の突起のお陰で、そう簡単には抜けやしない構造となっている。それに抜こうとすれば、鍵の突起が引っ掛かり、激しい痛みが伴うのだ。長いこと使われていなかったせいで矢尻は少し錆びていたが、威力はそこまで下がっていないはず。現に矢を引き抜こうとするファルロンは、情けない声を上げていた。
「……あれはきっとベイグラン。ベイグランなら、あの状態でも矢を避けれるだけの素早さがあるから、矢は効かない。だとすれば、どうしたら……」
 口を動かしながら弓に矢を番えようとした直前、ハッとユインは閃いた。
 十武神叙事詩エフィカ・ディースラグには、こんな記述があった。
 獣神ベイグラン。山犬の姿をした武神で、炎を統べる女神《業火シレイヌ》に従順な下僕。
 馬鹿みたいな案だけど、もうやってみるっきゃない。そしてユインは、古代シアル語の言葉を大声で叫んだ。
「ベイグラン、お座りセペス!」
 リストリアンスの上に乗る獣の影は、一瞬だけ硬直した。ギランと玉虫色に光る二つの目が、ユインに向く。しまった、こっちに来るかも。そう感じたユインは、矢を番え構える。その瞬間だった。獣の影はリストリアンスの上からいそいそと降りると、仰向けに倒れたリストリアンスの横に大人しく座った。
 まさかの、作戦成功。即座に立ちあがるリストリアンスは〈不死鳥レイゾルナ〉の切っ先を影に向ける。獣は低い唸り声を上げていた。
「リスタ、もう大丈夫。だから剣を下ろして。この子は安全」
「今のは、一体……」
「昔の言葉で、お座りって命令した。古代シアル語での命令は聞くみたい」
「お座り? まるで犬じゃないですか」
「だって、神さまだけど犬だから」
「犬、ですか」
「うん、犬」
 よく出来たガ・テルポ、と言いながらユインは、獣の影に恐る恐る近付く。その頭を、そおぉ……っと撫でた。甘えたような声を出した獣の影は口から舌を出し、そしてユインの頬をべろんべろんと舐め上げる。その姿は、飼い主に懐く犬だった。
「舐めるのは、勘弁して欲しいんだけどなぁ〜」
「随分と懐いてますね」
「犬だから、じゃない?」
「……犬……」
「それじゃベイグラン、帰れケペネ! それと当分、外に出てくるなデルグ・ダト・ラ・モントス!」
 アォーン、と山犬の遠吠えにも似た鳴き声を上げた獣の影は、ファルロンの足元に落ちている剣〈咆哮ベイグラン〉に駆け寄ると、その中に溶けるように消えていった。
 犬の脅威は去った。だが次に訪れるのは人の脅威。
 ファルロンは腕を負傷し今はリスタどころではない様子だが、追っ手たちはそうではない。野郎共の怒鳴り声や雄叫びが、近付いてきていた。
「何人ぐらいでしょうか」
「はははっ、分かんない。ざっと二十人くらい?」
「……いや、それ以上だ」
「嘘でしょ……!?」
 うっすらと見える水平線より姿を現した影の頭は、多すぎて数えられない。少なく見積もっても、百。人は勿論、その中には獣の影も見える。生身の、獣だ。
「この数を相手にしたことなんて、今まで一度も」
「だってそういうのは、いつもパヴァルがやってくれてたから!」
「なら……この剣の武神とやらは、使えますか?!」
「ムリーッ! 霊神レイゾルナは戦闘では役に立たないよ! 怪我を治してくれるだけだし、要は霊薬スルカヌムスの本体だから! 光で目晦ましくらいしかできなかったはず!」
 想像以上の敵の数に、二人の頭はおかしくなり始めていた。ユインは不必要なほどの大声で叫び、冷静さが取り柄であるはずのリストリアンスすらも取り乱している始末。
 そんな二人の後ろ、存在を忘れ去られていることをいいことに、気配を消したファルロンがゆっくりと、そろりそろりと近付いて来ていた。片手だけでも扱うことが出来る、短剣を右手に携えて。
「……仕方ない、こうなればもうヤケクソで突っ込むしか」
「リスタァッ?! それ、正気なの!?」
「これでも接近戦は、大得意なのでッ……――」
 ぐらりと揺れたリストリアンスの体。低い位置から彼に体当たりを仕掛けたファルロンは有意な位置に立つ。と、短剣を突き上げた。
「やめて!!」
 お前がユンにしたことを、そっくりそのまま返してやろうか。
 聞いたこともない醜い嗤い声が上がり、同時にリストリアンスから光が消える。短剣の切っ先は、リストリアンスの左目に突き刺さろうとしていた。
「何で、何でこんなことするんだよ!!」
 ユインは助けに行こうとした。矢を、弓を握った。そのとき、矢を番えようとした弓を誰かに取り上げられた。矢も全て取り上げられた。気がつけば囲まれていた。大勢の人だかりに。そして押さえつけられた。知らない男たちに。離せ、離せよ。掴まれている腕を振り解こうとしても、振り切れない。そして人だかりの隙間に見えた、リストリアンスの顔。閉じた瞼の隙間から、赤い涙が流れていた。それも、両目から。その顔を卑しく見つめるファルロンの右手には、赤くなった短剣が握られていた。もう何が何だか、ユインには分からなかった。理解が追い付かなかった。理解したくなかった。何も見たくなかった。目の前の現実から逃げたかった。どうしていいか、思いつかなかった。
「どうして、リスタがこんな目に遭わなきゃならないワケ?」
 何してんだよ、いい加減にしろ、やめろ、落ちつけ、やめろっつってんだろ! 興奮しきった男たちの大声の中に、ヌアザンの怒号が混じって聞こえていた。
「……やっぱり、そうなのかな。うん、そうだよね……」
 これは命令です、ユインからもその男からも離れなさい! 女子供も、怯えているのですよ!! イェガンの鋭く尖った声がユインの耳元で聞こえた。離れた腕と、また掴んできた腕。掴んできた白い腕は、イェガンだった。そしてイェガンは突き飛ばすようにユインを人だかりの外へ追いやると、自分は再びその中へ飛び込んでいく。その時にはもう、リストリアンスの影は見ることすらも出来なかった。
「……俺なんかと居るから、みんな不幸になるんだ。俺の所為で……!」
 ユインの見えている世界が、ぐにゃりと歪む。多分それは、涙の所為。だが本当に世界がぐにゃりと歪んだような、そんな気もしていた。
「……始めから俺なんて、生まれてなければ」
 本音が、ずっと抱えてきた本音が、半分まで声になって漏れ出たとき。一際大きい声が上がった。
「いい加減に鎮まらんか、馬鹿どもが! お前たちの族長が、やめろと言っている! 聞こえないのか、その声が!!」
 その時、ぴたりと全ての動きが止まった。皆の視線の先、そこには一際大きな山獅子に跨る、かつてのラムレイルグ族長、ダグゼン・ルグの姿があった。
「お前達は拠点に戻り、頭を冷やせ! ラムレイルグの名を不用意に汚してくれるでない!」
 髪は白くなり、全体的に痩せこけた印象のダグゼンだが、その威厳に衰えはない。誰もが、ひれ伏した。先ほどまでの威勢は何処へやら、遣る瀬無い姿を恥ずかしげもなく晒す男どもは、獣を連れて大人しく拠点へと逃げ帰っていく。それはファルロンも同じ。気がつけばそこにファルロンの姿は無く、乾いた砂の上には横たわるリストリアンスの姿だけが取り残されていた。
「リスタ!!」
 ユインは慌てて駆け寄り、呼気を確かめる。息もある、脈もある。でも意識があるかどうかは分からない。反応は無いし、目は開かない。それがとても、怖かった。そんなユインの後ろでダグゼンは、イェガンとヌアザンの二人に次なる指示を出していた。
「ヌアザン。お前は拠点に戻り、あの阿呆共を諌めて来い。イェガン、お前は俺を手伝え。その男とユインは、俺の小屋で匿う。運ぶぞ」
「了解」
「了解です」
 去って行った男共を追うように、ヌアザンは走っていく。そしてイェガンは、ユインの肩にそっと手を置いた。