【第十四章 回る天に、慟き哭け】

2 逃避行


「……私たちは重大な勘違いをしていたのかもしれないと、仮定したとき……」
 珍しく真剣そのものという表情を浮かべていたディダンは、ケリスの居ない執務室の窓辺に立ち、遠くに見える離宮を見据えながらそう呟いた。
「勘違い?」
 休憩時間に執務室に訪れたリュンは、微妙に口を窄ませて首を傾げる。その如何にもあざといと例えるべき表情仕草に苛立ちを覚えざるを得なかったディダンは、太く濃い眉を顰めてみせた。
「……一体、何を?」
 リュンと同じく執務室に来ていたベンスも腕を組み、眉を一文字にしていた。
「ボンクラポンコツボケナスのあなたたち二人に私が考えていることを仮に話してやったとして、どうせおバカなあなたたちは何一つとして理解出来やしないでしょう?」
「……まあ、そうだな。確かに」
「ベンはそうだろうけど、ボクは違うさ。これでも、少しは」
「どちらにせよ、あなたたち二人には関係のないことですよ。それに、休憩時間はもう終わってます。さっさと職務に戻りなさい。アルダンとしても、いつまでもレグサ一人にシェリアラさまを任せているわけにはいかないのですよ」
「えー、でも正直嫌なんだよね。なーんでボクとベンがシェリアラ様の警護なんかッ……――――」
「いいから、行きなさい! 給料を半分以下に減らしますよ!?」
「えー、ただでさえ神国軍の一兵卒より時給が低いってのに、それは嫌だなぁ〜」
「ならば早く消え失せろ、ボンクラポンコツボケナスがああああああッ!」
 執務室からリュンとベンスの二人を蹴り出したディダンは、音をたて勢いよく扉を閉めると、再び窓辺に立ち、離宮を睨み据えた。
「……全く。どいつもこいつも、面倒臭い動きをチラホラと……」
 先日、ケリスから突然の人事異動令が下されたのだ。
 そんな突然の人事異動のキッカケを作ったのは、ラントだとされている。今のラントは心身共に窶れきっている上に、なんらかの事故で怪我を負い左目が使い物にならなくなったのだ。突然強いられた片目の生活にラントは慣れているはずもなく。それに伴い引き起こされた頭痛による体調不良、倦怠感や嘔吐などにも阻まれ、何をやるにも人の手を借りねばならないというのがラントの現状である。日常の生活にも支障をきたしているのは当然のことで、そんな状態でありながらも職務をこなせと言うのは些か無理があった。
 そんな理由でシェリアラの護衛からラントは外された。そして空いたシェリアラ警護の枠に、暇をしていたも同然のベンスと、ギャランハルダもなくなり職も無しだったリュンの二人が配属されたのである。
 そして第二分家のイゼルナが隔離されている離宮も、かれこれ四十年も勤め続けたヴィディアが外され、代わりにパヴァルが配置された。ヴィディアには外された理由も知らされておらず、それで彼女は怒り心頭。それにパヴァルはパヴァルで、不思議なことにその異動を断らなかったのだ。
 遊撃隊であることを好み、特定の任務には収まらず好き放題に神国中を闊歩しては様々な情報を掻き集めてくるのが主な役目であったあのパヴァルが、第二分家の護衛を引き受けたのだ。
 〈聖堂カリヴァナ〉からの命令に対して唯一、拒否権を持つ〈聖水カリス〉であるあの男が、何の考えもなしにそれを受け入れたとは、到底考えることができない。当然ディダンはそう考え、一人パヴァルを問い質しに向かったのだが、これといった収穫は無く。だが、なにやら裏でシルス卿が関係しているということだけは、ディダンの鋭い嗅覚で嗅ぎ取れた。
 ならば、考えられるのは。
「……あの離宮に、リストリアンス卿は居るのでしょうかねぇ? イゼルナさまも、よく分からないったらありゃしない……」
 そう言いながらディダンは、ふと下を見やる。眼下に広がる小奇麗な庭園、その隅に立つ金髪の親子。向かい会うのは赤い軍服に身を包み、金色の髪を頭のてっぺんでお団子に束ねたシエングランゲラ師団長と、長い枯草色の髪を後ろで束ね、黒の礼服に切れ味鋭い細剣を携えたシルスウォッド卿だ。なにやら揉めているようにも、もしくはシエングランゲラが一方的に癇癪を起しているようにも見える、その光景。ふーん、と眺めていると、黒装束の侍女たちの悲鳴が上がる。シエングランゲラが剣を引き抜いたのだ。だがそれも、一瞬で沈められる。シルスウォッド卿が素手で剣の平を叩き、そして地面に落としたからだ。
「流石、シルス卿ってところですかね。伊達に武術をやってない。……それにしてもシルス卿といいパヴァルといい、なんであんなにも老けないのか。もう髪の毛も真っ白になっていてもおかしくはない年齢だってのに」
 そんなことを呟きながらもディダンの中で、シルスウォッド卿の横顔がふとリストリアンス卿、ではなくリスタと重なる。はっ、と息を呑んだ。そして飛び出してきた、一つの記憶。
「……やっぱり、私たちはとんでもない勘違いをしていたようだ……!」
 あれは、ギャランハルダだっただろうか。それもユインがアルダンにやってきたばかりの頃。
 そう、あの頃だ。パヴァルですらも手に負えなかったリスタの毒舌が、徐々に和らぎ始めたのは。大人になった、というのも確かにあっただろう。でも、それは一因に過ぎない。そして何よりあの頃のリスタの笑顔は、少なくとも作られた偽物じゃなかった。心の底から、笑っていたような気がする。
 ユインが居るときは、ユインの前では。
 そう、ユインと共に居るときは。
「……謎が、解けた」
 そしてユインも同様だった。
 ファルロンと居る時よりも、リスタと居るときのほうが明らかに楽しげだった。笑顔も、あの気だるそうな笑顔じゃない。もっときらきらとした、そんな純粋な笑顔だった。
 そう、ユインは確かにファルロンが好きだった。それは誰が見ても分かる事実だったし、実際に二人はそういう関係だっただろう。一人の友人として、好きだったのだ。それはクルスムやラズミラに対して向けられている好意と同様のもの。だからユインは別に、ファルロンのことを“愛していた”わけではなかったのだ。あくまで同郷の幼馴染であり腐れ縁であり悪友であり、それ以上ではなかったのだ。
 けれどもファルロンのほうは、真剣だった。だから周りも、そう思い込んでいたのだ。あの二人が、真剣なんだと。
「誰も、見てなかった。誰も気づかれなかった。だからこそ……!」
 だが、リスタとユインの二人には“立場”というものがある。
 シアル王家の血が体に流れる者と、旧オブリルトレ王家の血が体に流れる者。その二人が、仮に手を取り合ったとしよう。そうなれば、王都民はどう思うだろうか。山ノ民は、どう思うのだろうか。少なくとも、良くは思わない者が多いことは確かだろう。そうなれば、この国はどうなる。きっと、それをよく思わない人間たちによる暴動が起こることになるだろう。
 だから彼らは決して近づけなかったのだ、人前では。だからずっと、ずるずると今まで引き摺って来ていたのだろう、誰にも気付かれぬまま。今の、今まで。
「……ふふっ、ははっ! リストリアンス卿もオブリルトレの女王も、結局は偶像だったってワケか! ハハハッ!! オレたちは茶番劇に惑わされていたってのかよ!」
 ここからはあくまで、ディダンの仮説だ。
 そんな二人の秘密裏の恋慕に、気付いた人間が出てきたのだろう。きっとそれが、シエングランゲラだ。そうしてリストリアンズを脅したのだ。脅しの材料は、多分イゼルナなのだろう。そうして言ったのだ。最も障害になり得るであろうパヴァルを消し、そしてユインを手に掛けなければイゼルナを殺すとでも。
 きっとリストリアンスは、パヴァルをやることは出来たのだろう。何故なら、リストリアンスはリストリアンスなりにパヴァルの実力を理解していたからだ。後にパヴァルが言っていた。トラグロテの毒は水でかなり薄められていた上に、アイツは微妙に心ノ臓を外してきた。俺が攻撃を敢えて避けないという選択を取ることを、先に見越していたかのように、と。彼はパヴァルがすぐに回復することくらい、分かっていたのだ。それは一つの芝居。シエングランゲラの目を欺く為の劇でしかなかったのだ。
 だがユインを手に掛けるのには、きっと戸惑ったはずだ。ユインがそう簡単に殺されてくれるはずがないし、それに彼女が不死も同然であることはリストリアンスも知っていることだ。だからリストリアンスは、彼女の心を攻撃した。ユインを脅したのだ。猛獣舎を燃やすとか、親しい誰かを殺すとか、そんなことで。リストリアンスからすれば、苦渋の選択だったことだろう。でも、何の罪もない妹の命には代えられない。
 そして、それを分かっていたユインも、承諾せざるを得なかった。それに彼女としても、死ねることなら本望だったのであろう。死ぬまではいかなくとも、完全に心が壊れてしまえば楽になれるかもしれない、とでも考えていたのかもしれない。
 そうして二人の利害は一致し、茶番劇が開幕したのだ。あの、阿鼻叫喚の《光帝シサカ》継承ノ儀が。
 きっと、パヴァルやシルスウォッド卿、そしてイゼルナの三人は、このことを既に掌握済みなのだろう。だからこそ、リストリアンスを離宮で匿う手はずを整えているのだ。真の敵を、あぶり出すために。目晦ましの偶像を排除しているのだ。
 だが、このことはケリスには伝えられていないだろう。何故なら、彼はあまりにも無能過ぎるからだ。そして、ケリスが駄目であれば当然、それ以下の三下に伝えられるはずもない。ヴィディアもディダンも、ラントもリュンも、ベンスもルドウィルも。下手に情報を流してしまえば、要らぬ混乱を招いてしまうだけだから。
「……畜生ッ! アンタらからすりゃ、オレたちゃァ役立たずってことかよ!!」
 怒りにまかせ、握りしめた拳で窓枠をガツンッと叩く。ドンッという鈍音が鳴ったところで、執務室の扉が開いた。
「どうした。先ほどから何かを叫んでいたようだが」
「関係ないよ、アンタには。そしてオレも関係ないのさ。もう、嫌になるっての」
「関係ない?」
「そうだよ! オレもアンタも、蚊帳の外さ! シルス卿とパヴァルの二人だけで全てが回っている! 俺たちは所詮、虫けらなのさ!!」
「落ち着くんだ、〈道化師ジェイスク〉」
「無能の虫けらゴミクズは黙ってら!! テメェの言葉なんざ大した価値はねぇんだよ、〈聖水カリス〉やシルス卿と違ってな! 文ノ大臣の禿げジジィと同じ、ただの邪魔者、老害、ウジ虫さ!」
「……落ち着け、ディドラグリュル。言いたいことがあるのであれば、それからだ」
 外出から戻ってきたケリスは、取り乱したディダンを不審げに見つめている。ムッとしたディダンはぶっきらぼうに、蔵書館に忘れてきた書類を取りに行ってきます、とだけ言うと、早足で離宮へと向かうのだった。





「兄上さま」
「……イゼルナ」
 離宮の三階、使われていないにも等しいその部屋に、リストリアンスは居た。
 何十年も昔、まだ両親が存命していた頃に彼らが使っていた部屋。あの頃と絨毯や家具の位置、洋服箪笥に掛けられていた服の一つでさえも何も変わりがないその部屋のバルコニーの前に立ち、そこから見えるディア湖を眺める。夜空に浮かべられた月は二つ。三つ月の中でも一番大きな月と、一番小さな月。二つの月は寄り添う番いのように、並んでいた。
「……」
 昔は、恨んでいた。叔父であるシルスウォッド卿のことを。
 十三歳の誕生日、あの夜。彼に全てを奪われたと思っていた。
 父も母も突然の死を遂げ、妹と二人、この世界に取り残されたのだ。ただ怯えることしか出来なかった。だから手を差し伸べられれば、その手を取る以外の選択肢は残されていなかったのだ。そうして手を取ったとき、こう言われた。
 この瞬間、リストリアンスは死んだ。君はこれからリスタとして、〈神護ノ十剣トウィンガル・ラン・アルダン〉として生きなければならない。
 そうして妹は離宮に隔離され、リストリアンスは〈神護ノ十剣トウィンガル・ラン・アルダン〉送りにされたのだ。
 自分たちはお払箱にされたのだと、ずっとそう思っていた。だから、恨んでいた。だがそれは、お角違いも甚だしいことだった。
 あれは、私と兄上さまを護るための処置だったのです。
 イゼルナに、そう諭されたのだ。
 父と母は、第二分家を邪魔に思っていた先王シェリラに暗殺されたのだと、そしてシェリラは第二分家の未来の当主になり得るリストリアンスとイゼルナの兄妹も手に掛けようとしていたのだと。だからその命を取られる前にシルスウォッド卿は、シェリラから第二分家の兄妹を遠ざけたのだ。中でも特に狙われていたリストリアンスは、目晦ましのためにも存在を殺さねばならなかった。
 だから全て、仕方なかったのだと。
 命があってこその、今なのだと。
 叔父は決して蔑ろにしたのではない、逆に命を助けてくれたのだと。
 それを聞かされたとき、全てが吹っ切れてしまった。
 自分は一体、何に惑わされていたのかと。
 彼女を傷つけた意味は、果たしてあったのかと。
「……すまないね。君を、こんな形で巻き込んでしまって……」
 振り返ったリストリアンスは、ゆっくりと部屋の扉を開ける。そこには、ほんのりと赤く温かく光るカンテラを持ったイゼルナと、彼女よりも一歩後ろに下がった位置にそっと立つ〈光ノ聖獣シラン・シ〉サノンの姿があった。サノンの白い鬣は赤い光に染め上げられ、頭に生えた二本の角は、そんな光を鈍く照らし返していた。
「叔父上さまより、お話は伺っております。私こそ、あの時にあのような態度を……」
「いいんだ。私の方が無礼を働いたのだから」
「……全ては、シエングランゲラが仕組んだことなのでしょう?」
「…………」
「兄上さまも、彼女も」
「……それは」
 それは、違う。
 そう言いかけた言葉を、抑え込む。違わない。だから。
 だが、もしこれをシエングランゲラに聞かれていたとしたのなら。それを考えてしまうと警戒心ばかりが先を行き、何も言えなくなってしまう。どう返せばいいのかが分からなくなり、少し俯き黙り込むリストリアンス。するとイゼルナは、ふふっと小さく笑った。
「……これは〈聖水カリス〉さまから教えられたことなのですけれどもね」
「……〈聖水カリス〉!?」
 その時、ハッと感じ取った気配。リストリアンスは下に向けていた視線を上げ、イゼルナとサノンの後ろを見る。暗闇の中、動かないユインを抱えた独眼の水龍が姿を現した。
「……パヴァル……」
 にやりと歪む、パヴァルの口元。そしてパヴァルは部屋に押し入ると、寝台の上にユインを寝かせた。それに続き、イゼルナも上がり込む。イゼルナは寝台の横に設置されていた椅子に座ると、サノンを手招きで呼び寄せた。そんな彼女の額には、肉眼でも見えるほどにハッキリと聖光ノ紋章が刻まれていた。
「目が覚めたか、リスタ。三日もぶっ続けで眠っていたが、どうだ。体の調子は」
「以前よりは、よっぽどマシです。……ですが、どうしてあなたがここに」
「そこのお嬢ちゃんに頼まれたもんでな。離宮に配属されてよ。まっ、それも一時的なもんだ。来週か来月にゃ、すぐにヴィディアに戻るだろう」
「……イゼルナが、どうして」
 寝台に横たわる影に、既に生気はない。だらりと力なく投げだされた四肢と、閉じられた瞼。白い髪の影が落ちる顔は土気色で、赤かった唇は青紫に変色していた。
「サノン、スルカヌムスを」
「……スルカヌムス? 何故、それを」
「彼女を、蘇生させます」
「どうして?」
「……兄上さまの往かれる道を応援してさしあげるのが、妹に出来る唯一の役目ですから」
「……っ!」
 全てを見透かされていたかのような視線が、イゼルナから向けられる。手に汗を握るリストリアンスは一歩、後ろに下がった。
「こうして彼女を間近で見るのは初めてですが、ロディーから聞いていた通り、とてもお綺麗な方ですね。侍女たちからは男性だと伝え聞いていたので、まさか女性だったとは思いもしませんでしたけれども……」
 霊薬スルカヌムス。それは四聖獣が持つ四つの神器がひとつだ。
 万物を断ち穿つ裁きの斧槍う、シュロンダイヌ。万物を慰め活力を与える恵みの竪琴、ヴェレナーシュ。万物を切り裂き往くべき道を照らす導きの短剣、ブリュンナルカ。万物を癒し死の闇から魂を呼び出す生命の雫、霊薬スルカヌムス。その中でも霊薬スルカヌムスは、レイゾルナの名を持つ不死鳥の血だとされ、特別に貴重なものだとされていた。
 それをイゼルナが持っているということは即ち、彼女が〈光ノ聖獣使いシラン・サーガ・シ〉であるということになり、それは彼女こそが《光帝シサカ》に相応しい素養を持ち合わせているということになる。
「それより、イゼルナ。スルカヌムスを扱えるということは、君が」
「……ええ。サノンはシェリアラさまでなく、私を選んだのです。だから今、叔父上さまが頭を抱えていらっしゃるのですよ」
 はにかみながらイゼルナは、いつの間にか寝台の上に置かれていた霊薬スルカヌムスの瓶を手に取り、その蓋を開けた。その様子を見ながら、パヴァルが口を挿む。
「だが残念なことにその事実は、まだ文武資法の四大臣には伝えられてないんだがな」
「……信頼してないのですね、ケリスを」
「当り前だ。誰が信用できるか、あんな奴を」
 そう言い卑屈に歪むパヴァルの顔を見ながら、リストリアンスは呟く。
「意外です」
「なんでだ?」
「てっきり、ケリスを信用しきっているものだと思ってましたので」
「そりゃァお前さん、俺の演技に騙されてただけだろうよ」
「……独眼の水龍はどこまでも手強いのですね」
「ははっ、俺に敵う奴なんざこの世に居ねぇだろうが」
「そうでした」
 イゼルナはユインの少し固くなった頬に触れると、スルカヌムスの瓶の口をユインの口に押し当てる。傾ける瓶。数滴、口内に注ぎこまれた金色の液体。その様子を見届けながら、リストリアンスはふと不安になる。自分は彼女に、恨まれているのではないのかと。
「どうした、リスタ」
「……いえ、その……」
「コイツに恨まれてんじゃないのかとでも心配してんのか?」
 ハハッ、と笑うパヴァルはリストリアンスの背をバシンッと叩く。喝を入れるような、きつい一発だった。
「……そうです。私は恨まれてもおかしくないことを、彼女にした。だから」
「ユンの野郎もお前の事情を理解してたわけだろ? なら心配はない。何よりコイツが一番恨んでんのは、他人じゃなく呪われた自分の命だろうしな」
「……」
「お前さんも、あのジメジメした牢獄の中で十二分に苦しんだ。それで、いいんじゃないのか。それが無理ってンなら、贖罪だとでも思えばいい。束の間の、甘い夢でもアイツに魅せてやれ。……その夢があるだけで、アイツは今後続く長い時間を、少しは耐えられるかもしれないからな」
 あの牢獄の中でお前さんが目ン玉赤くしてたのは、シルスには黙っといてやるよ。パヴァルはそう笑いながら言うと、ユインに視線を移した。
 少しずつ、赤味を取り戻していく唇。血が通い出した肌。霊薬は、体に刻まれていた古傷も消え失せていく。そして左目を覆い尽くしていた火傷の痕さえも綺麗に消え去ったとき、紫色の両目が開き、息を吸う音がした。
 跳ね上がるように起き上がったユインの体。突然の事態に状況が呑み込めていないのか、中途半端に開けられたまま一向に閉じられない口。そして見開かれた目は、イゼルナを、サノンを、パヴァルを、リストリアンスを見る。そしてユインは自分の左目の瞼に、触れた。
「さて。寝起きの気分はどうだ、ユン嬢ちゃん」
 パヴァルは嫌味にヒヒッと笑う。
「……目が、見える。なんで……」
 そう呟くように言うユインは、自分が普通に喋れていることにも驚きを感じているようだった。そしてイゼルナが差し出した手鏡を受け取ると、それで自分の顔をまじまじと見つめていた。垂れ下っている前髪を上に掻き分け、何度も瞬きをしながら、火傷の消えた左目を重点的に観察した。
「……邪眼は、あの黒い石はどうなった?」
「今はラントの左目だ。お前には必要のない余計なお荷物だったが、アイツにはどうしても必要なものだったのさ」
「ランが?!」
「色々と複雑な理由があンだよ。だが、テメェにはもう関係ないが」
 そう言い放ったパヴァルは、ユインとリストリアンスの二人にそれぞれ衣服を投げ付けた。
 ユインに投げられたのは、なんてことのない砂色の丈の長い女性服が上下と下着類、それと肩まですっぽりと覆い隠せるだけの長さのある灰色のエナン帽。そしてリストリアンスに投げられたのは、愛用していたハンチング帽と灰色の首巻、そして普遍的な男性服が上下と紫紺の羽織、それと金貨がざっと五十枚ほど入った薄汚れた巾着袋だった。
「それに着替えて、お前達は一度ユライン邸へ向かえ。そこで物資を調達し、一晩だけ泊めて貰うんだ。そして翌日の日の出前に、王都を出ろ。早馬でサイランに向かえ。二人だけでな。アルヴィヌまでは神国軍というより武ノ大臣が管理管轄をしているが、サイランは自治区であり神国に属しながらも、独立しているひとつの国家にも等しい。だから、ケリスだろうが神国軍であろうが無論〈神護ノ十剣トウィンガル・ラン・アルダン〉であろうが、基本的には手を出せない。正当な手順を踏まなければな。それはサラネムの山も同じだ。要するに、サイランに逃げ込むのが一番安全ってワケだ」
「逃げッ……!?」
 リストリアンスは紫紺を手に持ちながら、パヴァルを凝視する。
「関門は難なく突破できるように、俺からサイランの軍に話は付けてある。だがその際に、これだけは覚えておけ。お前達はリストリアンスとユインではない。リストリアンス、お前がガレン・サグレス。ユン、お前はエルト・サグレス。夫婦だ。戸籍にもその名で手を加えた。王都からサイランに移り住んだということにしてある。だからこそ、その名を忘れるな。生まれ変わったとでも思って、やり直してこい」
 歯を見せニッと笑うパヴァルは、リストリアンスとユインの二人に背を向けると、立ち去ろうとする。
「……パヴァル!」
「どうした?」
「……あの……」
「俺が、というよりもシルスが手を出せるのはここまでだ。俺はあくまでアイツに命令されたから、その通りに動いただけでしかない。それとだ。さっき、離宮の周りを嗅ぎ回っていたディダンとリュンの野郎を 嗾けしかけて、馬を用意させた。下に、一頭だけ用意されている」
 ユインはバルコニーから身を乗り出し、下を覗きこむ。そこにはパヴァルの言葉通り、馬の手綱を握りながら、退屈そうに突っ立っているディダンとリュンの二人が居た。
「ここから先は、お前達次第だ。道中でなにがあろうが、俺は手を出せない。精々、シエングランゲラの動きを封じるぐらいしか今は出来ねぇからな」
「……感謝しても、しきれません」
「礼をする暇があるなら、さっさと着替えろ。悠長に話してる暇はねぇぞ」
 手の掛かる部下だぜ、と悪態を吐きながらパヴァルは去り、そしてその後に続くようにサノンも消えていく。
「ご健闘を、お祈りしています」
 そうイゼルナも微笑むながら言うと、彼女は去って行った。
「……ユイン。君は、これでも構わないのかい?」
 リストリアンスはユインにそう尋ねる。
「ドンと来いって感じだよ。それに全部投げ捨てて、一からやりなおしたいのさ。山にも王都にも、もう未練はないし、しつこいファルロンからもそろそろ離れたい。クルスムやラズミラとかアルダンの奴らに会えなくなるのは、まあ淋しいけど、でも……きっと、この決断に後悔はない。だから……行こう。逃避行さ」
 満面の笑みを浮かべて、ユインは頷く。その笑顔は、天災ユインだった頃の彼女を彷彿とさせた。
「逃避行、ですか……」
 そして手早く着替えると、二人は離宮の外に出た。
「……ったく、もう! リッタもユン姉も酷いよ! リッタについては、もう最低! 最悪!! 悪逆非道!! ボクたち全員騙してさ、もっと頼ってくれてもよかったのに!! そしたら現状だって、こうなってなかったのかもしれなかったじゃん!!」
 リュンはリストリアンスとユインを馬の背に乗せる補助をしながら、そんな不平不満を漏らす。
「本当に、その通りですよ。お陰さまで、私は私でパヴァルに酷い目にあわされますし。なんでこの私が、パシリなんかやらされなくちゃならないんですか」
 ディダンはディダンで愚痴を漏らしながら、手綱を前に乗るリストリアンスに手渡した。
「すまなかったよ、本当に。でも、ああするしか選択肢が残されてなかったんだ」
「そんなこと、分かってますよ! ……まぁ、頑張ってくださいね。命を落とすような真似だけは絶対にしないで下さいよ? 命あっての、その金貨の価値ですから」
 少し視線を逸らしながら、ディダンはそう小さく言う。その顔が少しだけ、赤くなっていた。
「あー、ダンったら照れちゃって。ホントは素直に心配してるんでしょ?」
「うっるさいですねー、本当に給料を半分にしますよ?」
「でもディダン、君も大きくなったね。まだ僕の背中に背負われてた頃と比べれば身長も伸びたし、比べ物にならないくらいに素直になったじゃないか」
「……そ、そんな昔のことを!!」
「えー!? ダンって、リッタにおんぶされてたの?!」
「知りませんよ!!」
「そうですよ。あの頃はまだディダンは三つで、小さかったから。おねしょの後始末も、やらされたものですよ。あの頃はラントも“ぶー垂れ駄目ラント”って呼ばれてたくらい、まともに剣も握れてなかったし、それにパヴァルは彼の特訓に付きっきりで、私も日中は殆ど暇をしてたのでね。気がつけばディダンの世話係でした」
「へぇ。ぶー垂れ駄目ラントだなんて初めて聞いたよ」
「エレイヌに訊いてみるといいですよ。彼女がつけたあだ名ですから」
「へぇ、じゃあ今度聞いてみるかぁ。……というかダンも、おねしょとかしてたんだね」
「あー! もう、大昔のことですよ大昔!! あの頃はチビだったんです!」
「今も十分、おチビさんだけれどもね」
「なんなんですか、リスタまで!! アンタのその偶に出る毒舌、どうにかならないんですか?!」
「さぁね、何のことだか」
「さぁね、ってなんですかそれ!!」
「……ディダンが、おねしょかぁ……」
「ユン、アンタも何笑ってるんですか!!」
 ディダンとリュンとリストリアンスのそんな遣り取りを見ながら、ユインは笑う。出発しようとしたそのとき、最後にリュンが馬上の二人を見ながら言った。
「最後に、ルドウィルくんからリッタに伝言。今度ユン姉ちゃん泣かせたら、容赦しないから、だってさ」
「……それは、怖いですね」
「それとね、少なくともボクやダン、あとベンとかウィルとかラン兄、エレナ姐さんは二人の味方だよ。あとあのパヴも、何気に気に掛けてたから。でね、エレナ姐さんは二人のこと気が付いてたって。でもパヴが敢えて知らんふりしてたから、姐さんも相手をファルロンにすり替えて上手くやってあげてた、だってさ。そうすればファルロンに目晦ましを掛けることもできるし、って」
「……エレナ……」
「姐御には、完全にバレてないと思ってたんだけどなぁ……」
「でしょ? だって姐さんだもん。あっ、でもキャスとかファン、クル姉にはまだ何も言ってないんだ。ラズミラちゃんとクル姉には後で伝えるつもりだけど、キャスとファンに関してはパヴの判断次第かな。なんだかアルダンの頭ってキャスなはずなのに、二番目なはずのパヴが実質牛耳ってるっていうわけの分からない状況になってるけど。あっと、それとね、二人がこれから何処に行くかとかはボクたちも、パヴから一切そういうのは知らされてないからね。気になるけど、気になるんだけどね。でも……ね」
「……」
「ボクたちから仮に情報が漏れちゃったら、二人がどうなっちゃうか分かんないし。それに、ボク達がパヴに絞められるからさ。なんだかもう、キャスよりパヴのほうが怖いよ。キャスの権力って案外、思ってたよりも弱いもんだね」
「そうですよ。あの人はただのお飾りですから。無能虫けらゴミクズです」
「ちょっとそれも言い過ぎじゃないの? ……でもパヴを見てると、そう思っちゃうよねぇ。キャスよりパヴのほうが明らかに仕事も出来るし、判断を下すのも早いし的確だし、考えてみればボク達に直接命令を出すのもパヴだし。もしかして実は武ノ大臣ってパヴなんじゃないの? ねぇダン、どうなの?」
「あながち外れでもないですよ、その仮説は」
「へぇー、やっぱそうなんだ。じゃあキャスにヘコヘコする必要は、そんなにないのかもね。ただパヴは余計に怖くなったけど……」
 元よりお喋りなタチであるリュンが、いつもよりも早口に、そして饒舌になっている。それは、別れが悲しいのをひた隠しにするために、舌をそれだけ回しているということ。これが、今生の別れになるかもしれない。そんなことに、気が付いているから。だからこそ、そんなリュンの話を聞くだけで物悲しさを覚えるのだ。
「なに二人とも、悲しそうな顔をしてるんですか。これからですよ、これから! まあ今後顔を合わせることが出来るかどうかは分かりませんが……精々、気張りなさい」
「……ディダンもリュンも、本当にありがとうございます」
「なんだか継承ノ儀で見たリストリアンス卿とは全く以て別人だねー」
「アンタにはやっぱり、にこやかな笑顔で無邪気に毒を振りまくリスタが一番お似合いですよ」
「今更リストリアンスになどもう戻れないことくらい、分かってますよ」
 ふふっ、と笑うリストリアンス。その時、リュンの顔が少しだけ曇った。
「……あの、あのね、リッタとユン姉。それで最後に一つだけ聞いて良い? 本当に本当に本当に、これが最後の質問だから」
「ええ、構いませんよ」
「なんだか気拙そうな顔だけど、訊きたいことって?」
「継承ノ儀の前。スザンくんはユン姉とリッタの二人が、ユダヌの祠に居たって言ってたんだ。それに一部の侍女さんたちも、ユダヌの祠に向かうユン姉を見たって言ってるの。あのヒェンディグの香りは、ユン姉だって。でも、レグサのおばあさんは、二人は儀が始まる前はずっと、シエングランゲラさまのお部屋で軟禁されてたって言うんだ。……どっちが、正しいの?」
 そういえばそんな話も出てましたね、とディダンは視線をリストリアンスにやる。リストリアンスとユインの二人は、顔を見合わせた。
「ユダヌの祠だなんて、もう何十年も立ち入ったことはないですよ。ましてや儀の前なんて、シエラの部屋から出れませんでしたから」
「レグサの婆さんが言ってることが正しい。それに俺はシエングランゲラに、匂いがキツいし存在がバレたらいけないから髪の香油を落とせって言われて、儀の前は男に監視されながら 湯浴ゆあみしてたくらいだし」
「そうですよ。それで君は途中で気を失ってお湯の中に溺れて、自殺未遂でもしようとしたんじゃないのかって騎士たちが慌てて」
「なんかフラッときて、バッタリと倒れちゃってさ。そこから離宮で眼が覚めたところまでの記憶は、スッポリ抜け落ちてるんだ」
「えー。じゃあ、とある金髪の美男さんに抱っこされてたのは知らないんだ」
 ユン姉もったいなーい、とリュンは言う。
「知らないほうがいいんじゃないですかね」
 ディダンは苦い顔でそう言う。どうやらリュンとは論点が違っているらしい。そしてユインを見たディダンだが、赤くなった彼女の顔を見ると、ブッと噴き出したのだった。
「……ハハッ、なんですかその顔!!」
「だ、だ、だ、抱っこ?!」
「俗に言う、お姫様抱っこってヤツ。リッタって意外と腕力あるよね」
「私だって鍛えてるんですから。伊達にアルダンをやっていたわけでは」
「裏切ってくれましたけどね」
「……それは、それだよ」
 さぁ行った行った、とディダンは馬の尻を鞭で叩く。すると馬は走り出した。真夜中だというのに門番もなしに開門された門を通り抜け、馬はヤンヤヤンヤと騒がしいシャレーイナグラを通り抜けて行く。
 後悔は、今はない。
 後で悔いることは、いつでも出来る。
 だから今は、しなくていい。
 今じゃなくとも、遠い先の未来にすればいいだけ。
 今はただ、前を向いて走ればいい。
 目指すのは、まずユライン邸。
 リストリアンスは強く手綱を握り絞め、拍車を掛ける。その背に強くしがみつくように、ユインは抱きついていた。