【第十四章 回る天に、慟き哭け】

1 キアノ


 買い出しのためという口実の下、エレナ姐さんを外に連れ出してほしいというリュンの頼みを聞いたフリアは、エレイヌと二人、そして腕の中のリシュを合わせると二人と一匹で、カレッサゴッレンの町を歩いていた。そんなこんなで必要な買い物も終わり、これからまた王宮に戻ろうと来た道を歩きながら、酒場ギャランハルダの跡地を再び通り過ぎようとしたとき。突然、背後から声を掛けられた。
「君が、〈炎ノ聖獣使いシラン・サーガ・レイ〉のフリアくんかい?」
 声を掛けてきたのは、淡い水色の髪色に赤紫色の瞳をした、青年のような姿の男性。だが、見た目の年齢から想像もできないほど声と口調は柔らかく、まるで全てのものを温かく包み込むような包容力も持ち合わせていた。そして男が背中に担いでいた、飛竜の意匠が施された錫杖。それと、男の後ろに待機している大きな黒い烏。フリアはある結論に至った。
「〈大神術師アル・シャ・ガ〉さま、ですか……?」
「ああ、そうだ。私が〈大神術師アル・シャ・ガ〉だ。よく知っているなぁ」
「《光帝シサカ》継承ノ儀の際に、壇上に立たれているのをお見かけしましたので」
「……ああ、そういえば君を含めた〈聖獣使いシラン・サーガ〉たちも全員、儀に出席をさせられていたね。そうだった」
 しきたりがどうのと文ノ大臣が五月蝿くてなぁ、と苦笑をする〈大神術師アル・シャ・ガ〉は、ギャランハルダの跡地を見るとエレイヌに視線を移す。そして、小さな声で呟いた。「君も、災難だったな」
「ええ。本当に、まだ焼け落ちただなんて信じられなくて……」
「それも、仕方あるまい」
 〈大神術師アル・シャ・ガ〉は少しだけ赤紫色の目を伏せる。そこに浮かんだのは、慈愛の光と哀しみの闇が入り混じった、薄暗くぼんやりとした影だった。その姿は、自分のことでもないのに、まるで自分のことのように考え、感じ、傷ついているようでもあった。
「今は無理でも、いずれ全てを受け止められる時が来る。今後も生き続けて行く限りは、必ずな。だが今は、時分に身を任せてみたらどうだ。一時的に記憶をどこかに追いやってしまうことも、またひとつの選択肢だ。時には逃げることも大事だ」
「……頭では、分かってるんですけどね」
 苦し紛れの笑みを浮かべるエレイヌの口角は、どこか緊張して強張っている。
 今はどんな言葉でも、彼女の慰めにはなりはしない。皆、口にこそ出さないが、薄々その事実に気が付き始めていた。
 だからこそ〈神護ノ十剣トウィンガル・ラン・アルダン〉の者たちは誰も彼女を慰めようとはしない。代わりに、まるで何もなかったかのように接している。それは奇妙なくらいに自然であり、だからこそとても不自然だった。
「……まぁ、君も君で酷い目に遭わされたが、今は〈畏怖アルント〉の傍に居てやったらどうだ? 仕方がなかったとはいえ、アレもアレで今はとても苦しい思いをさせられているだろうからな」
「ランが?」
 首を傾げたエレイヌ。そしてギャーギャーと騒ぎ出したのは、〈大神術師アル・シャ・ガ〉の一歩後ろを歩いていたメクだった。
「アイツがあんなことになってやがっから、俺ァ独眼の水龍に羽根を毎日のように抜かれンだってンだ!」
「父……――いえ、パヴァルが羽根を?」
「メク! 余計なことは言うでない!」
「だってヨォ〜、イッテェんだぜ、コレが。見てくれや、赤髪の嬢ちゃんと赤毛の姐ちゃん。俺ちん、可哀想だろ?」
 メクは、見せつけるように尻尾の付け根のあたりをフリアらに向けた。付け根のあたり、そこには羽根が無理矢理抜かれて禿げ、赤くなり毛穴がブツブツと化した鳥肌が、痛々しくも曝け出されていた。
「……うっ、痛そう」
 そう呟くフリア。すると、それまでフリアの腕の中で気持ち良さそうに居眠りをしていたリシュが、突然目を覚ました。リシュはむくりと体を起こすと、短く切られ丸く整えられた爪を指先から出し、伸びをする。そして、爪でメクの禿げた肌を引っ掻いた。イデェツ、とメクは跳びはねる。それを嘲笑うようにリシュは、キャンキャンと態とらしく、遊び回る子犬のように鳴いてみせた。
「何してくれんだ、狐めがァッ! 痛ェじゃねぇかヨ、おい!!」
「ウィクの言ってた通りだ。お前、なんかイヤだ」
「なんかイヤだって、なんだってんだ?!」
「そんなザマだから、シクに嫌われサノンに敬遠されるんだ、鳥」
「トリッ?!」
「……あの水龍に、丸焼きにしてもらうよう頼むか」
「〈大神術師アル・シャ・ガ〉、お前ェサンからもこの不躾な狐になんか言ってやってくれ!」
「メクは食べても美味しくないぞ、きっと。水分もなくパッサパサで、味もなく不味いだろう。コイツを焼くだけ時間の無駄だ」
「〈大神術師アル・シャ・ガ〉ァッ?!」
「そう喚き立てるな、ガーガーと五月蠅いカラスじゃあるまいに」
「カラスゥッ?!」
「五月蠅いと言っているだろう、メク。黙らんか!」
 そう言う〈大神術師アル・シャ・ガ〉はどこからか縄を取り出すと、縄でメクの嘴を動かぬように固く縛りあげる。荒手の神術かしら、と苦笑するエレイヌにフリアは、力技の神術ですね、と返した。「でも、縄は切れないのかしら」
「縄なら大丈夫だ。こいつの嘴は鰐と同じで、閉める力は強いが、開ける力は弱くてな。子供の力で上下から押さえつけても、開かなくなるくらいだ」
「あら、そうなんですか。思ったよりもひ弱なのね」
 ふふふ、と笑うのはエレイヌ。
「……分かったような、よく分からないような」
 困ったように眉を顰めるのはフリア。
「ともかく、五月蠅い鳥が黙った。良い気味だな」
 ふん、と鼻面を上に向けるのはリシュ。
「それでだエレイヌくん。先ほど〈革新リボルヴァルッタ〉が君のことを探していたぞ。渡したいものがあるとか、なんとかと言っていたな。まだあの事務所に居るであろうし、早めに向かったほうがいいんじゃないのか」
「あら、そうなんですの? それじゃあ私はお先に戻ろうかしら」
「そうですね。あまり待たせるといけませんし」
 ごめんねフリアちゃん、と言うとエレイヌは王宮方面の道に行く。彼女の背が王都の雑踏の中に呑まれ消えたところで、〈大神術師アル・シャ・ガ〉はフリアをまじまじと見る。そして「やはり、そうだな」と独り言のように呟くと、少し私に付き合ってくれないかと言った。
「君が三十年近く前に、サイランのガムルで起こった悪魔狩りの際に、野次馬を掻き分け壇上に上がり哀れな少年を救おうとした勇猛果敢な少女だったとしたら、の話だが」
「……あ、〈大神術師アル・シャ・ガ〉さま?」
「違ったのか? なら、すまなかった。今の話は忘れてくれ」
「いえ、その……多分、それは私のことだと思います」
 もうあの事件から三十年も月日が流れていたのか、とフリアは思う。だが三十年も経っているのに、あの時に肌で感じた異様な観衆たちの熱や恐怖の波、阿鼻叫喚の渦は、つい最近の出来事のように、今も鮮明に記憶していた。
 目を閉じればあの十字架が暗闇から浮かび上がり、雑踏に紛れれば通り過ぎる人々の体温に寒気を覚え、雄叫びも喝采も嬌声も怒号も、その全てが入り混じる風俗街シャレーイナグラに足を運べば、あの時の罵詈雑言の全てや言葉にならない雄叫びたち、悲鳴や歓声などが蘇り、耳の中にこびりついて拭い落とせなくなるのだ。
 普段はそれらの記憶を頭の片隅に、光も当たらない隅っこへと追いやっているのだが、ふとした時に突然、前触れもなく浮かび上がってくる。
 以前は思い出すたびに吐き気を覚えたものだが、今はそれにも慣れ、ああ、またかと思いながら溜息を吐くだけになっていた。でも、その記憶が消えることはない。これも一種の古傷なのだろう。
「そうか。やはり、そうだったか! なら、あの少年のことは覚えているな」
「ええ。彼は私の友人だったので」
「……友人、か。なら少しキツい話になるかもしれないな」
 あの少年、きっとそれはキアノのことを指しているのだろう。少しキツい話、とはなんだろうと考えながらもフリアは思う。何故〈大神術師アル・シャ・ガ〉が、キアノのことを知っているのかと。
「まっ、その話は祠に着いてからだ。私たちも王宮に戻るとしよう」
 〈大神術師アル・シャ・ガ〉はメクの嘴に結びつけた縄を引っ張ると、王宮方面の道に足を向ける。リシュを腕に抱きかかえたフリアも、〈大神術師アル・シャ・ガ〉の後を追って王宮を目指し歩いた。




 樹齢数千年と言われる樹木たちに覆われたユダヌの祠はいつになく静まり返り、これから大嵐が来ることを告げているかのようだった。だが、そんなフリアのことなど気にも留めていないのか、リシュは九本ある尾の先にそれぞれ燈る火を輝かせながら、うつらうつらとフリアの腕の中で寝に入っている。そんなリシュの顔を疎ましげに覗き込むメクの嘴には、依然縄が括り付けられたままになっていた。
「普段はここに〈大神術師アル・シャ・ガ〉でない者は立ち入らせないのだがな。君だけは特別だ」
「ここは、一体……」
 普段では滅多に立ち入ることのない祠の奥の奥、鬱蒼とした木々に囲まれた林の中。〈大神術師アル・シャ・ガ〉の案内でフリアが訪れたそこには、石碑のようなものが至るところに置かれていたのだった。
「ここは代々の〈大神術師アル・シャ・ガ〉たちの骨が埋まる、墓場というものよ。普通、墓といえば遺体を焼かずにそのまま棺桶に詰めて埋めるものだが、罪人と〈大神術師アル・シャ・ガ〉だけは違ってな。遺体を焼いて骨だけにして、バムグフと呼ばれる小さな壺に骨を砕いて詰めて呪符で封をして、地中に埋めてしまうのだよ」
「どうして罪人と同じように、〈大神術師アル・シャ・ガ〉さまの御身体は焼かれてしまうのですか?」
「大きな罪を現世で犯した罪人も、過去に〈大神術師アル・シャ・ガ〉を務めた者たちも皆、復活されては困るというものだ。〈大神術師アル・シャ・ガ〉は一つの世に一人で良い、二人も三人も十人も要らぬのだ。その為には、肉体を焼いて滅せねばならない。肉体がそのまま残っていれば、来たるべくして来る時に、復活してしまうやもしれないからな」
「来たるべくして来る時、とは?」
「開国神話の最終節にあるのだよ、馬鹿げた話が。再びこの地に光の女神《光帝シサカ》が降り立つ時に、人々は祝福を受け、死の闇から救われる、と。既に死んでいる人間を、生前の人間と全く同じ人間として蘇らせることなど、どう考えても不可能なのだがな。細胞を培養し、同じ形の人間を作れれば別だが」
「細胞を培養……?」
「この文明とは異なる文明の話だよ。クローンといってな、科学というもので栄華を極め、世界の全てを支配し、果てに傲慢になってしまった愚かな人間たちが築き上げた忌々しい技術だ。だがそれは今は必要のない話。さっ、これを見てくれ」
 そう言う〈大神術師アル・シャ・ガ〉が指差したのは、一つの石碑だった。並んでいる他の物たちと比べればそれは比較的新しい物のようにも見え、そして他のものとは大きな違いが一つあった。他の石碑は文字など何も刻まれていない、自然のままの歪な岩であるのに対し、その石碑は綺麗に整えられ、そして文字が彫られていたのだ。だがその文字といえば、四角く角ばったシアル文字ではなく、くねくねと曲がり、ふにゃふにゃと丸みを帯びた古代シアル文字だった。
 だが、フリアは古代シアル文字を見たことがあるだけで、古代シアル文字を読み解くことは不可能。見ろと言われたところで、読めない。困惑の表情を浮かべざるを得なかった。
「……えっと、〈大神術師アル・シャ・ガ〉さま。これは、なんて書いてあるんですか?」
「君は先ほどから質問が多いね」
「え、あっ、そ、そうですか?! あの、その、すみません。無知なもので……」
「いやいや、責めているわけではない。探求熱心だなと感心していたのだよ。久々だ、人にものを教えるとは。最近は私よりも物を知っている男とばかり話していた所為で、答えを言う前に答えを言われてしまっていたからなぁ。呑み込みの良い生徒を相手に、ものを教えられるというのは、実に楽しいものよ」
「〈大神術師アル・シャ・ガ〉さまよりも?」
「ああ。飄々とした雰囲気を纏い顔は笑いながらも、裏に冷めきった本性を隠している、とある嘘吐きの大天才だ。それで、この墓だったな」
「ええ、この文字なのですが」
 知りたいという欲求が、フリアの中でぶくぶくと音を立てながら湧き上がってくる。早く、早く。そう急かすフリアの心とは対照的に、〈大神術師アル・シャ・ガ〉の表情は曇っていた。
「……この墓に埋められている者だけは、唯一の例外でな。遺体は焼かれることなく、そのままの状態で埋められているのだ」
「それは、どうして」
「彼は〈大神術師アル・シャ・ガ〉になる前に、死んでしまったのだよ。〈大神術師アル・シャ・ガ〉という名を賜り、そして人としての名を捨てる前に、死んでしまった。だからこの墓石にだけは、名前が彫られている」
「……」
「キアノ・コスロム。予定では私の次の〈大神術師アル・シャ・ガ〉になるはずだった少年だ。それが、キアノだ」
「……キアノ……!!」
 キアノ。
 〈大神術師アル・シャ・ガ〉の口から飛び出たその名前にフリアは驚きを通り越して、なにも感じられなかった。いや、何も考えられなかったと言ったほうが正しい。二つの情報が、それも処理しきれないほど大きく複雑な情報が今、同時に脳内に入り込んできたのだ。
 ずっと、まだどこかで生きていると信じていたキアノは、もう死んでいた。
 大昔は当たり前のように一緒になって遊んでいた彼は、〈大神術師アル・シャ・ガ〉になる運命の中に居た。
 何が何だか、理解が追い付かない。素直に飲み込めない。要は混乱している。そういうことだ。
「実を言うと私はあの時、高台に聳えるガムルの磔刑場を見下ろせる、更に高い場所から、一部始終をメクと共に見下ろしていたのだよ。だから、あともう少し早く動いていれば、彼を助けることができたのかもしれなかった。だが、それが出来なかったのだ。大勢で押し寄せた人の波を前に、億劫になってしまってね。精々、豪雨を降らせ雷を落とし、観衆たちに目晦ましを掛けた隙に、君とキアノの二人をあの場から連れ出せただけで、それ以外は何も、出来やしなかった」
「…………」
「そしてそのツケが、今になって回ってきたのだ。全ての事象を記録する役目を担う〈大神術師アル・シャ・ガ〉の輪を、繋げなかったのだから。この世界も、近いうちに」
「……〈大神術師アル・シャ・ガ〉さま……!」
「〈大神術師アル・シャ・ガ〉ァッ!!」
 背後から聞こえた男の怒鳴り声に、〈大神術師アル・シャ・ガ〉とフリアの二人は振り返る。そこには、慌てて走ってきたのだろうか、息を上げた独眼の水龍パヴァルの姿があった。
「何事だ、〈聖水カリス〉」
「どうやらその様子じゃ、まだ知らねぇようだな」
 パヴァルは藍晶の裏から書簡を一つ取り出すと、それを〈大神術師アル・シャ・ガ〉に投げつける。そして〈大神術師アル・シャ・ガ〉は内容を読むなり目を大きくあけ、パヴァルをじっと見た。
「これは、真か?!」
「ああ、今さっき起こった事実だ。シエングランゲラがリストリアンスを追放し、《光帝シサカ》代理になっちまった。元よりシエングランゲラ側についていた法ノ大臣が動いたというのもあるが、更に文ノ大臣までもが金を掴まされて寝返っちまったらしくてな。これで文武資法の四大臣も、真っ二つに分断されちまったってワケだ」
「……クッ、それは大きな痛手だ。となれば他の大臣、ケリス・シャドロフもエディス・ベジェンも危ういということか」
「いや、それは無いだろう。ケリスもベジェンも、シルスに対する忠誠心だけは絶対だ。ケリスは無駄に義理堅く、ベジェンは脅しにゃ屈しないタマだろうし、金に魅力は感じねぇ女だ。それにシアル王政の金庫を支配しているのは、ベジェンだ。ベジェンに金を流したところで、王政の金庫に戻るだけだしよ。何より、ベジェンのシルスに対する忠誠心には情も交じっている。まっ、だからあの二人だけはシルスを裏切るような真似はまずしないだろう。その点にゃ心配は不要ってことだ」
「信用しているのか」
「信用ではない、分析により得られた結論だ。それより、下を読め」
 フリアもそっと、書簡の内容を覗き見る。一番下の末文。短く一言、こう書かれていた。

 三日後の早朝、《神託ノ地ヴァルチケィア》にてサラネム連合軍と会戦することを取り決めた。

「……私の許可すらも得ずに、会戦の日付を変えただと?! 宣戦布告は、もうしたというのか!?」
「残念ながら、そのようだ。無論、お前の次に権力を持つ政ノ大臣シルスウォッドにも一切の連絡はなかったらしい。そのうえ、猛獣舎に居るラムレイルグの鷹使いラズミラが、神国軍からサラネムにある書簡を飛ばすよう、先日頼まれたらしくてな。ラズミラは内容を知らぬまま飛ばしてしまったらしいが、大方それに宣戦布告を意味する内容が書かれていたのだろう」
「もう取り返しがつかぬところまで、来てしまったというのだな……」
 下唇を僅かに噛む〈大神術師アル・シャ・ガ〉は、俯き視線を地面にやる。
「もうとっくに、取り返しのつかない事態に陥っていただろう。それに既に策は敷いてある。機会が想定よりも早く廻ってきただけであり、あとは全ての欠片を上手く誘導すればいいだけの話だ。今更後悔したところで、それこそ取り返しがつかないってもんだ」
「……」
「それとだ。リストリアンスが全て吐いてくれたんだよ。《光帝シサカ》継承ノ儀の台本を誰が書き、誰が役を演じたかをな。予め睨んでいた通り、リストリアンスはシエングランゲラに、従わなければ妹であるイゼルナを殺すと脅されていたらしい。それにユンがあんなザマになっちまったのは、それをユン自身が望んだからだそうだ。シエングランゲラには黙って、二人で勝手に話を進め、大幅に脚色を加えてやったそうだ。困ったもんだぜ、あの二人には」
「そうだったのか。あれは全て、仕組まれたものだったのか……」
 パヴァルと〈大神術師アル・シャ・ガ〉の間で、話はどんどん進んでいく。フリアを置いてけぼりにして。そもそも、フリアなど眼中に入っていないかのように。それにフリアは、完全に思考が追い付いていなかった。キアノのことも、《光帝シサカ》代理というものも、会戦のことも。
「用件は済んだ、そんじゃぁ俺は行く」
「……まっ、待って下さいパヴァルさん!」
 やっとの思いでフリアの喉から飛び出した声は、立ち去ろうとしたパヴァルの背を引きとめた。
「会戦って、どういうことなんですか!」
「“知らぬが仏”って言葉もあるもんだぜ、お嬢ちゃん」
「そんな言葉じゃ、納得なんてできません!」
「納得してもらおうなんざ考えちゃいねぇさ。ただの民は権力者の思惑通りに動けばいい。何も知らずに、ただ目の前の飴で踊らされていればいい。それが、力の無い者の定め、力の無い者の責務、力の無い者の役目だ。それだけのことだ、あまり深入りはしてくれるな」
「そんなの、身勝手過ぎます!」
「ったく、お嬢ちゃんもルドウィルのようにキャンキャンとよく吠えるこったァ」
 振り返り、嫌味にニヤッと笑うパヴァル。そのくすんだ蒼い眼の奥には、見つめ続ければ吸い込まれてしまいそうな虚が続いていた。
「だからこそ力の無い者を正しく導くのが、力を持つ者の定めであり、責務であり、役目だ。どこの世界でも、そういう風に仕組みが出来上がってるんだよ。その中で権力を求める民たちは、哀れ以外のなんでもない。身勝手や、理不尽。それは結局、僻みでしかない。まあそれも、良い支配者に恵まれなかった結果なのだろうがな」
「そんなの、私は絶対に認めませんから!」
「お嬢ちゃんが認めなかろうが、そんなことはどうだっていい。民一人の意思がいかに非力なのかを、思い知り終わるだけだからな」
「そんなことは……!!」
「そういうことだ、お嬢ちゃん。俺は仕事が後に詰まってるんでな。是が非でも行かせてもらう」
 話を無理矢理打ち切ったパヴァルは、ユダヌの祠から走り去っていく。
「仕方ない、それが人という集団の本質なのだから」
 煮え切らないと怒るフリアの横。〈大神術師アル・シャ・ガ〉は小さな声で、諭すようにそう言った。





「エレナちゃん!!」
「ヴィッデ! 〈大神術師アル・シャ・ガ〉さまから、私に用があるって聞いたんだけど」
「そうなんよ、エレナちゃん。これや、これ! これをエレナちゃんに渡せってパヴから頼まれてたんや」
 事務所に戻ったエレイヌは、一階の広間に居たヴィディアに声を掛ける。そしてヴィディアから差し出された薬包紙の束を見るなり、エレイヌは首をかしげたのだった。
「なに、これ」
「ウチが訊きたいくらいや。ともかくエレナちゃんからこれをランちゃんに渡させろって、パヴがしつこく言うねんよ。ウチからランちゃんに渡しても別にええやんかーゆうたら、怒りはってな、エレナちゃんやないと駄目なんやって」
「私が、ランに? どうして。別にヴィッデでもいいじゃない」
「それがなぁ。なんでか知らんのやけど、ランちゃんたらウチが声かけても一切反応してくれんのや。おりゅんちゃんでも、ベンちゃんでも、ダンちゃんでも駄目やったんや。一昨日から食事もまともに摂ってへんし、心配なんよ」
「どうしちゃったんだろ、アイツも……」
 思い返せばギャランハルダが燃えたあの翌日からずっと、ラントの顔を見た覚えがエレイヌにはなかった。またエレイヌの周りに居る人間、リュンやフリア、ベンスも、ラントの話題を滅多に口に出さない。風の噂で聞いた話によれば、王宮に出るたびに顔色が悪いから休めとレグサから門前払いを食らっているということだから、体調は優れていないのだろう。心配は、少しだけしていた。
「なんやランちゃん、左目を怪我したらしくて。パヴが付けてるような眼帯を、左目に付けとったんよ。ダンちゃんから聞いた話やと、もう左目は使い物にならんそうらしいんや。その所為なのかしら、ランちゃんはここ最近、頭痛いって寝込んでばっかりやし、起きてきても足はフラフラで、物を食べればすぐ戻しちゃうし。どうしちゃったのかしらねぇ」
「左目を、怪我した?」
 そのような話をエレイヌは、初めて聞いた。もしかするとリュンたちは、余計な気苦労を増やしたくないと思って敢えて話してくれなかったのかもしれない。だが、それは逆効果だった。エレイヌが今感じているのは、疎外感。自分だけ除け者にされていたのかという思いに、感情を支配されていた。
 だがそれとは別に、エレイヌは違和感を感じていた。それは、何故今この時間帯に、ヴィディアが事務所に居るのかということだ。
「というかさ、ヴィッデ」
「なんや?」
「イゼルナさまは、どうしたの?」
「ン十年ぶりの人事異動で、離宮の護衛から外されたんや。今はパヴが離宮に就いとる。因みにおりゅんちゃんとベンちゃんの二人は今、ランちゃんの代わりにシェリアラさまの護衛に就いとるんやで」
「あのリュンが?! それにベンちゃん、女性恐怖症だけど大丈夫なの!?」
「それが案の定、大丈夫やないらしいんよ。でも、王宮にはダンちゃんが居るからm取り敢えずは大丈夫やと思うで」
 にこにこと笑いながら、朗らかにそう言うヴィディアだが、その声には沸々と煮え滾る鉄のように熱い怒りが隠し切れていない。今回の人事異動に不満があるんだろうな、と即座に察したエレイヌは、ヴィディアから薬包紙の束を受け取ると、二階のラントの部屋に向かおうと階段を上っていく。
「これ、ありがとねヴィッデ。私からランに渡しておくから」
「頼んだでー」
 そうして階段を上りながらエレイヌは、生成り色の薬包紙から透けて見える粉を、怪しむように見つめていた。何故だかその粉は、光を放っているかのように見えているからだ。青白い、燐光。どこかで見たことがあるような気がする。懐かしい感覚と共に蘇るのは、異様な不快感。何故だろう。そんなことを考えながら歩いていると、気がつけばラントの部屋の扉が目の前に存在していた。
「入るわよ」
 扉の前でエレイヌはそう言ってみるものの、ヴィディアの言っていた通り、反応はうんともすんともない。なら、構わないということなのだろう。見た感じ、鍵も掛かってなさそうだし。そんな結論に至ったエレイヌは、がちゃりと取っ手を捻り、扉を開けた。
「パヴから薬みたいなのを受け取ったんだけど、これアンタに渡せって言うから。……というか、ラン。起きてるの? もしかして、寝てる?」
 机の上に置かれているのは、鞘に収められた剣〈畏怖アルント〉だけ。窓布は閉め切られ、昼間だというのに部屋の中は薄暗く、どこか黴臭かった。そして部屋の中に一脚しかない椅子に、ラントは座っていた。肩から白い毛布を掛けて、頭は俯き項垂れている。覇気がない、だなんてものじゃない。生気がない。そんな感じだった。まるで萎びた水仙の花だ。
「ラン。どうしちゃったの? なんだか暗いというか、気味が悪いわよ?」
「……」
「黙ってないで、なんか言ったら? 一人でずっと喋ってると、なんだか私のほうが虚しくなってくるんだけど」
「…………」
「ラン? ねぇアンタ、本当に生きてる?」
「……それ以上、近付くな」
「え?」
「……頼むから、俺から離れてくれ」
 垂れた銀色の前髪から覗く、無彩色の瞳。普段ならその瞳を見ても何も感じないのに、何故か今だけは、エレイヌの心がぐらついたのだ。
 胃の入口から喉元までに何かが込み上げてきて、目は自然と大きく開き、口は半開きになる。脈打つ鼓動の間隔は狭まる。息苦しくて、胸が苦しい。自分のことでもないのに、どうして。そう思ったところで、答えは出ない。感情に答えなど、存在しないのだから。
「どうしたのよ。アンタらしくないじゃない。そんな、そんな馬鹿みたいなことを言うなんて、なんでよ、どうして」
 以前も、似たようなことがあった。もう何十年も前の話。漠然とした何かに怯えながら一人泣いていた少女が、カレッサゴッレンの暗闇に紛れていた。年頃の少女だというのにまともな服も身につけず、レデタッドに侵されていたのか、酷い錯乱を引き起こしていた。
「何が、怖いの。アンタは一体、何に怯えてるの」
 顔を覆うように垂れた白い前髪から覗いていた、紫の瞳。あの瞳は確かに、怯えていた。具体的に何に怯えているのか、何に恐れをなしているのか。それはエレイヌには分からなかった。それでもあの瞳は、怯えていた。それが高嶺の花、レイリィ嬢と呼ばれていた少女の、本当の顔だった。
 あの時、理由もなく突然あの子を“助けたい”と思った。
 あの子の呪縛を解いてあげなきゃと、それが自分の役目だと思ってしまった。
 今度こそ、救わなければと思ったのだ。
 救うことが出来なかったリスタの二の舞だけは、避けたかったから。
 結果からいえば、あの時は助けられなかった。けれども巡り巡って時が経ち、あの子は一時的にだが救われた。
「教えなさい、ラン。言ってくれなきゃ、何も分からないでしょ。アンタはこのままでも良いっての? ワケの分からないものにビクついて、何も出来ないで」
 そして、今分かった。何故パヴァルがヴィディアに、どうしてもエレイヌから渡させろと言った理由が。
 嫌になるくらい、お節介を焼いてやれ。
 きっと、そういうことなんだろう。
「私は嫌よ。そんなの、アンタじゃない。私が好きな、ラントじゃないわ。ヘボでポンコツで、一人じゃまともに仕事をこなせなくて、いつも周りに、というかパヴにばっか迷惑掛けてるけど、そのクセ反省もしないでヘラヘラ笑ってるだけの、ぶー垂れ駄目ラント」
「……」
「完璧ぶって割に合わないことして、全部一人で溜め込んで、こうして腐ってるアンタなんか、ランじゃない。アンタは、誰なのよ?」
「……それが、分からなくなっちまったんだよ。俺自身のことも、お前のことも」
 窓布が風に舞い上がり、その隙に一筋の光がすっと部屋の中に差し込む。その光に照らされ可視化された床にエレイヌは、驚きを隠せなかった。
「……っ!」
 ラントを中心に、床一面に巻き散らかされた白い鳥の羽根。短いものから長いものまで、大きさはまちまち。
「――……俺がラントなのか、レーニンなのか。そもそも人間なのか、人間の皮を被った鳥の化け物なのか。そもそもユンが、シルス卿が、俺にとっての何なのか。何が何だか、理解が追い付かないんだ……!」
「アンタは……!」
「エレイヌ、お前だってそうだ。エレイヌなのか、エリーヌなのか。どっちだっていうんだよ! それにパヴァルは、一体何者なんだ!」
 絞り出すような声でそう言いながら頭を抱えるラントの腕には、羽根がいくつも生えていた。そして肌には、羽根を抜かれたあとの鳥の肌のような、プツプツとした痕が残されている。
 〈大神術師アル・シャ・ガ〉が言っていた通り、ラントは別の苦しみと共に一人置き去りにされていたのだ。それもエレイヌとは全く違う、誰も支えになれない苦しみと共に。
「ラン。アンタは、今のアンタは、少なくともラントだよ。今はラントとしてここに在るの。だからそれを、受け入れるしかない。今は、ラントなの。人間か化け物かなんてどうだっていいの、ラントはラントなんだから。だから、私もエレイヌ。ギャランハルダの店主だった、エレイヌなのよ」
 言い聞かせるように、エレイヌはそう言う。ラントに対しても、自分に対しても。

 ねぇ。なんでこんなにも惨い役目を押し付けてくれたのよ、父さん。
 昔はあんなに優しかったのに、それも全て演技だったって言うの?

 見えない涙をぼろぼろと流しながらエレイヌは少しずつ、猜疑心に苛まれていくのだった。