【第十三章 忌み子】

4 血路



 赦さねぇよ、もう。これ以上は、見過ごしてらんねぇってんだ!

 クルスムとウィクの目の前に今、ヤムンが立っていた。その顔には何一つ反省の色など無く、また愉しげな笑みさえも浮かべていた。
「なにが悪いってのか? 俺はただ、長老に命じられたからやっただけさ。第一あんな化けモンなんて、うちの山には要らないんだよ」
 クルスムらはイェガンの言葉を聞いたあと、すぐに偽物の隊商のもとへと駆け付けた。けれども、間に合わなかった。偽物の隊商はユインを攫うと、たちまち馬を走らせ、遠くに消えてしまったのだ。
 荷車から延びるユインの手を、クルスムは握ろうとした。でも、間に合わなかった。
 何故ならば、クルスムが進もうとした道を、ヤムンの取り巻きらが妨害したからである。
「アタシにゃァヨォ……」
 殺気の宿った緑色の瞳に、光はない。理性という制御機能は、本能により妨害され、機能していなかった。そんなクルスムの殺気に影響されてなのか、ウィクも興奮を覚え始め、毛並みは完全に逆立っていた。
「ンだよ」
「テメェのほうが化けモンに見えるけどなァ……?」
「笑止、だな」
 構えたブリュンナルカの切っ先。それはヤムンの首筋を捉えていた。
「そりゃあコッチの台詞だよ」
 クルスムが身を乗り出したのと同時に、空を裂くようなバチッという破裂音が山に鳴り響く。白くなる視界。それは音さえも遮った。
 白が元の色を取り戻した時、そこには倒れ血に塗れたヤムンの姿と、誰かの右腕だったものを口に咥えた、血に塗れたウィクの姿があった。その右腕、それはつい先ほどまでヤムンの右肩にくっついていたもの。ウィクはそれを一瞬で、易とも簡単に噛み千切った。
 そこに一瞬の躊躇いはない。聖獣とて獣には変わりはないからだ。
 それが、獣の本能。
 ウィクがヤムンを敵と捉えた。
 だからウィクは、やった。
 それだけのことだ。
 呻き、喚き、叫ぶヤムン。だがそこに居た誰もが、ヤムンを助けることはしなかった。ウィクはヤムンの左腕の付け根のあたりに、前足を置く。恐怖に侵され歪んだ顔に落ちたのは、右腕だったもの。ウィクの牙からは血が滴った。
「どうだ、怖いか」
 ウィクはヤムンの耳元で、唸り声を上げる。先ほどまでの偉そうな振る舞いは何処へやら、ヤムンは唸るウィクに対し酷く怯えていた。シャグライの長男坊はこうもまあ情けないのか。そういった声が、どこからか湧き上がり始める。
「ユンが今まで味わってきた恐怖は、痛みは、こんな一瞬で終わるようなもんじゃなかった。それを分かってんのかテメェは!!」
 唸り声が、怒り狂った咆哮に変わる。ウィクが大きな前足を振り上げた。
「ウィク、もうういい。やめるんだ」
 下ろされた前足は、ヤムンの腰を殴りつけるようにして落下した。突き飛ばされるヤムン。ウィクは不貞腐れたような顔をしたが、黙って主であるクルスムの足元まで下がった。
「連れと失せやがれ、人間の風上にも置けねぇクズが。その代わり、二度と山の上から降りてくるんじゃねぇぞ」
 クルスムはブリュンナルカを収めると、ヤムンを睨みつける。するとヤムンはサッと立ち上がり、脱兎の如く山の奥へ、シャグライの村へと通ずる道へと逃げ込んでいった。自分の右腕を、置き去りにして。そしてヤムンの後を追うようにして、数名のシャグライの青年達もその道へと駆け込んでいった。
「……なぁ、ウィク」
 偽物の隊商が消えていった先に広がる、広大な砂漠《神託ノ地ヴァルチケィア》。その先の、ここからは決して見ることのできぬ涯ての景色を、クルスムは呆然と見つめる。
「ユンは」
「諦めろ」
 ウィクは即答した。
「そんな、まだ望みはあるかもしれねぇだろ」
「……あるにはあるだろうな。限りなく無いに等しいが」




 その日の真夜中、クルスムとウィクは族長の部屋へと呼び出された。
 ダグゼンはそれぞれに短い説教を説いた後に、彼女らが無事であったことを喜んだ。その話の中では敢えてユインのその名を出すことはなかったダグゼンだったが、ダグゼンのその後ろで珍しくただ無言無表情で佇んでいるメズンから、事の重大さはクルスの胸に痛いほど突き刺さった。
「だがな、クルスム。このような危険な真似はもう二度と……」
 と、そのとき。トントン、と木戸を二回叩く音が聞こえてくる。ダグゼンは言いかけた言葉を中断すると、入れ、と短く言った。
「メズン、お前宛てだ」
 木戸を開けて入ってきたガムスンの腕には、一羽の鷹が止まっていた。鷹の足には、小さな書簡が括り付けられた足環が嵌められている。その書簡の外側には、読み取るのもやっとというような小さなシアル文字で「メズン」と書かれていた。
「鷹がさっき山から下りてきたんだ」
 ガムスンが足環から外した書簡を無言で受け取ると、メズンはそれに目を通した。
「何でも良い、書くモンを寄こせ」
 乱暴にそう言うメズンに、ダグゼンが手元にあった筆と細長い紙を渡す。それをふんだくるようにメズンは受け取ると、迷いなくその紙に文字をでかでかと書き殴る。知らねぇよ。ただそれだけを。
「……知らねぇよ、って一体どんな内容だったんだよ……」
 クルスムがメズンの顔をそっと覗きこむ。
「すぐ村に戻り、お前ンとこの獅子様サマが噛み千切りやがったヤムンおぼっちゃまの腕の手当てをしろ、だとよ。俺様の可愛いんだか可愛く無いんだかよぅ分からん弟子をとんでもねぇ目に合わせやがったってのに、どういう了見だ……」
「ヤムンの腕をウィクが噛み千切った?」
 ダグゼンの顔色が曇る。メズンは紙を適当に細く丸めると、それをガムスンに手渡す。ガムスンは慣れた手付きでそれを鷹の足環に通すと、早足で外へと出ていった。
「いや、あの、親父……」
「ウィクが汚れていたのはてっきりあの不届き極まりない烏の黒羽どもの返り血を浴びたからなのかと、だから敢えて黙って見過ごそうかと思っていたが、あれがヤムンのものとなれば話は違ってくるぞクルスム」
「けど親父」
「確かにヤムンの性格は俺だって知っている。それはイェガンの怯えている様子や、ユインの体中に刻まれた傷を見れば一目瞭然だ。だがな、あれでもお前がここの族長となる頃には同じくシャグライ族の長となられる方なんだぞ?!」
「だけど!」
「そもそもお前は〈風雷ノ聖獣使いシラン・サーガ・キウ〉、ウィクを使役する立場にあるんだ。それを分かってるのか」
「分かってるよ、けど今それは関係ねぇだろ?!」
「関係大ありだ!」
 二人の声量が徐々に上がっていく。
「聖獣の暴走の一つや二つも止められぬ〈聖獣使いシラン・サーガ〉など……――」
「まぁまぁダグゼン、それくれぇでよしてやんな」
 メズンの掛けた眼鏡のレンズが、不気味にきらりと光った。
「女神《息吹アニェン》の裁きの雷を、それに仕える聖獣サマが代弁したと思えば、それでいいじゃねぇか」
「メズン、お前が思っているほどこれは簡単な問題では」
「簡単だ。天罰が下った、それだけだ。ヤムンは右腕を失っただけ。命までは取られちゃいねぇンだ。天の女神様のお慈悲でヨ。そうしておいたほうが、お前らにとっても都合がいいだろ?」
 投げ遣りとも取れる言葉だった。
「……正規の隊商との取引が終わり次第、俺ぁ帰るからヨ。そんで適当にウィクの一件について話を長老サマに上手く付けておいてやる、感謝しておけ」
 ニタっと歯を見せ笑うメズン。その笑顔はお得意の虚勢であることを、往年の友人であるダグゼンは見抜いていた。





「レイリィ、待ちなさい!! バカなことは 止よすのよ!」
 外では雪が降っていた。
 窓から覗いて見える世界は、手を伸ばせば届きそうな近くにはない。遥か彼方、下に広がっていた。
 この高さから飛び下りれば、骨は砕け散ることだろう。目を背けたくなる高さ。それに肌を突き刺す寒さが、部屋の中には吹き込んでいた。
「嫌だね、クソアマ! 俺は正気に戻ったのさ、こんなとこになんざ、もう居られねぇ!!」
 そこは繁華街カレッサゴッレンの最奥にあるセティナの遊郭、その最上階。かつてはレイリィと呼ばれていた遊女、本名をユインという彼女は、窓枠の縁に立っていた。客に紛れて遊郭に侵入したラントより渡された、藍羽織に身を包んで。
「レイリィ、あなたにはここ以外に居場所はないのよ! それを分かってるの?!」
 ユインの後ろでは、セティナ・カルヴェが悲鳴によく似た甲高い声を上げている。けれどもユインはその言葉に、耳を貸すことはもう無かった。
「うるせぇ黙れ! 居場所なら〈畏怖アルント〉さまが用意してくれるってさ! もうここに、用はないね! それに俺の名前は、ユインだ! ユイン・シャグリィアイグ・オブリルトレ!! よく覚えておきやがれ!!」
「やめなさい、レイリィ!!」
 ユインは左足を、窓枠の外へと出す。藍羽織の裾の下から吹き込んでくるのは冷たい風。ユインは自然と、身震いをしていた。
 そして。
「ちくしょおあああああああああああッ!」
 窓の外枠を、ユインは両足で強く蹴り上げる。空中に投げ出された体。クソ野郎、とユインは心のうちで怒鳴り散らした。
 ああ、なんで俺ばっかこんな目に逢わなきゃなんねーんだよ!
「あああああああああああああァァァッ!!」
 客のふりをしてユインのもとを訪れたラントは、ありえない計画をユインに持ちかけてきたのだ。遊廓脱走計画。それはとても、杜撰なものだった。

 大雪が降った日に、そこの窓から飛び降りろ。
 そしたら一目散に逃げて、酒場ギャランハルダに駆け込め。
 そこの店主は、絶対にお前を匿ってくれる。
 あとは独眼の水龍さまが、どうにかしてくれるさ。

 計画は、それだけだ。
 やがて、ユインの体は地に落ちた。といっても、体を受け止めたのは積りに積もった白雪だった。豪快に雪を撒き散らしながら、ユインの体は雪の中へと埋もれていく。
「……イッテェ……」
 けれども雪の中に埋もれたユインが、雪の中から自力で這い出てくることはなかった。あまりの雪の冷たさに、身動きが取れなくなったのである。
 やばい、追っ手が来る。
 計画失敗、そう思ったとき。冷え切り青白くなった温度のない腕を、暖かな優しい手が掴んだ。そしてユインは、埋まっていた雪の中から引っ張り出される。
「……あっ……」
 何処かに飛びかけていた意識の中、ユインが最後に見たのは、茶髪クセ毛の頭だった。冷えた体を、ぎゅっと強く抱かれる。そして、意識がぷっつりと途切れた。
「大丈夫ですか、しっかりして下さ……――」
 それがユライン家のバカ息子、ダルラことダルトレイニアンス卿との出逢いだった。





「……」
 次に、“ユイン”が目を覚ましたとき。真っ先に目に映ったのは、綺麗な赤の天蓋だった。
 その時に“ユイン”の体の主導権を握っていたのは、ユンではなくユニだった。体を動かそうとすると、体の節々が痺れを伴い、ズキズキと痛み始める。特に手指は酷かった。凍傷にでも侵されていたのだろうか、普段以上に指先は赤味を帯びている。
「……もう、ユンが馬鹿みたいな無茶をするから」
――仕方ないじゃないか、あんな状況だったんだもん。それにいつも、あれくらい暴れてたさ。
 不貞腐れた口調で、頭の中に居るユンは悪態を吐く。
「そんなこと言われたって、私は長いこと眠ってたんだから。あなたが好き放題暴れてたっていう“ユイン”の頃は知らないわよ」
 “ユイン”の体中には不可解な傷が無数に刻まれていた。草で切ったような細い筋のような切り傷が幾筋も並んだものであったり、転んだ際に擦り剥いたのであろう擦り傷であったり、刃物で突き刺されたような刺し傷が茶色く残っているものであったり、蹴られたり殴られたりされていたのであろう打撲痕でもあったりと、傷痕は非常に多種多様なものだった。
 ユニは思う。一体、この世界に送り込まれてからこの身体は、何をされてきたのだろうか、と。傷痕の大半は古傷に変わっていたのだが、中にはつい最近つけられたのであろう程生々しい傷もあったのだ。
 何があったのよ、ユン。ユニは心の声で、そう訊ねる。けれども訊ねたところで却ってくるのは、適当な返事ばかりだった。
――色んな変わった客が来てたんだよ。あー、もう。思い出したくもない。
「……」
 と、そのとき。どこからか扉をノックをする音が聞こえてきた。続けて、「入っても、宜しいでしょうか」と言う男性の声も聞き取った。
「どうぞ……」
 ユニはそう言う。すると、扉は静かにゆっくりと開けられた。落ち着いた歩みで部屋の中へ入ってきたのはくせ毛が目立つ、優しげな垂れ目の男性だった。そして彼はユニのほうを向くと頭を一度、深く下げる。再び顔を上げると、春の麗らかな日に木漏れ日から射しこんだ日差しのような、そんなにこやかな笑みで微笑んだ。
「お怪我のほうは、如何ですか? 仕えの者が手当てを済ませたと聞きましたので」
 そう言われて初めてユニは、指――特に炎症の酷い関節部分などに――に塗られていた、無色透明の軟膏に気が付いた。
――あらら。確かにこの軟膏は虫さされの炎症にはうってつけだが、凍傷なら効き目はそんなに無いだろうに。なにやってんだ、ここの薬師は。
 そう文句を言いだし始めるユンを押さえつけながら、ユニは作り笑いを浮かべた。
「おかげさまで、痛みも落ち着いてきました」
 そして彼は自身の名前を、ダルラと名乗った。
「本名はもっと長いのですがね。ダルトレイニアンス・ヴィネディガ・ユラインというのですが」
「素晴らしい名前ですね」
 え、とユニは思った。今の言葉は自分の口から発せられた言葉ではあった。けれども、自分の意思じゃない。
「“ヴィネディガ”って、幸運を運ぶ風や、名前そのものが女神《息吹アニェン》という意味のある、由緒正しい名前じゃないですか」
 喋っているのはユンだ。
「……何故、それをあなたが知っているのですか?」
 余り知られていないマイナーな知識なのか、ダルラは困惑の表情を浮かべる。けれども、彼はそこで何かに気が付いたように目を見開いた。
「もしかして、あなたは」
「元はシャグライの一族だった者です。……今は一族を追放された身ではありますが」
 シャグライ。
 ユニにとっては、聞き覚えのないワードだった。でも何かの名の知れた一族であったのだろう。まるで、いつかのエルトル家のように。けれども目の前のダルラは、驚きを隠せないという風に口を半開きにしていた。
「……そういえば、あなたのお名前を伺っていませんでしたね」
「私の名前は」
 ユニ、です。苗字は追放された際に捨てました。
「……」
 またもそう答えた意思はユニではなく、ユンだった。
 何故ユンが、ユニの名を騙ったのか、また、何故その必要があったのか。その時は分からなかった。それは最後まで、分かることはなかった。
「ユニ、ですか。可愛らしい、珍しい名前ですね」
「あ、ありがとうございます……?」
 それから暫くの間、“ユイン”はユライン家に居候することとなった。ラントが先代の〈大神術師アル・シャ・ガ〉と共に、ユライン家に乗り込んでくるまでは。





 障害により生まれた例外は、例外により生まれた弊害によって、全てを元に戻された。
「……」
 もう、動かない。今度こそ、終わったんだね。
 ユンの長く伸びた前髪を除けて、その下の閉じられた左瞼に、ユニは触れた。ユンの顔半分を覆う火傷の痕。折角の綺麗な顔が台無しだ。白い輪郭を滑らかな白い指でなぞりながら、ユニはそう思った。
「ねぇ、ユン」
 ぺちぺちとユンの右頬を、ユニは平手で数回叩く。反応は何もない。何もなかった。呼気も感じなければ白い肌に血の気もなく、幾ら探せど探せど、脈動を感じることはなかった。
 死んだのだ、肉体は。
 けれども今も、あの悲鳴は聞こえていた。ユニの頭の中で、木霊している。きっとこれからも、止むことはないのだろう。
 瞬きをするだけで、彼女の泣き叫ぶ顔が瞼の裏に浮かんでくるのだ。楽しそうに笑う顔も、不満げに口を尖らせて怒る顔も、嬉しそうに微笑む顔も、ベッドに縛り付けられて身動きを封じられた姿も。
「ユン。起きて、起きてよ」
「……誰だか知らねぇが、もう止めてくれないか」
 振り返った先、開いた扉に寄りかかるようにして立っていたのは、筋肉質な体を持った小柄の男性だった。茶色い髪は短く刈り込まれていて、左の米神には獣に引っ掻かれたような傷跡がある。ファルロン、といっただろうか。そんな彼は、ユニを睨んでいた。ユンに触れるなと、そう訴えるように。
「ユインは死んだ。部外者は帰ってくれ」
「私は部外者なんかじゃ……!」
 部外者はあなたたちの方でしょう。
 そう言いかけた言葉を、ユニは飲み込む。

 彼は、彼らは、知らないんだ。
 どうしてこの世界が生まれたのかを。
 そして私達が血を、細胞を分けあった双子の姉妹であったという事実を。

「出ていってくれないか」
 白い肌、白い髪、白い睫毛、青紫になった唇。白い顔には、寂れた翳が落ちている。
「……ごめんなさい」
 後ろ髪をひかれる思いで、ユニはその場を去る。〈神護ノ十剣トウィンガル・ラン・アルダン〉の事務所の外では、ダルラが待っていた。
「大丈夫かい、ユニ」
「……私は、大丈夫よ」

 神がもし、もし居るのであれば。
 何故私たちには平等に接してくれなかったのだろうかと、私は恨もう。
 そして、神が居ないのであれば。
 私達の存在そのものを、消し去ってしまおう。
 いつか、必ず、絶対に。

「……」
 ダルラが悲しそうな表情を浮かべながら、ユニを見ていた。きっと何かに、気が付いたのだろう。
「……帰りましょう、ユニ」
「ええ……」