【第十三章 忌み子】

3 転生


 その人影、ユインは目を覚ました。辺りには明かりなどというものは何もなく、ただ暗い闇と静寂だけが満ちていた。じめっとした空気。ベタつく肌と、ぼろぼろになった衣類。それ以外には何もない。そこは蔵の中なのに、物は何も置かれていなかった。
 偶に扉の隙間から光が差し込むことがあった。その度にユインは怯えた。その差し込む一筋の光に。徐々に近寄ってくる、足音に。
 ユインがこの蔵の中に幽閉されてから、幾年が経ったのか。それを数えることなど、とうの昔に止めていた。
 別に何か悪事を働いたわけじゃない。物を盗んだり、無益な殺生を働いたり。そんなことなんか、したこともない。けれど、ユインは確かに悪かった。
 ただ、この世界に生まれてきてしまったこと。それ自体が悪かったのだ。
 時折外からは「忌み子」と罵る声が聞こえてきた。忌み子というものが具体的にどんなものなのか、それはよく分からない。けれどもその「忌み子」とやらは、自分のことを指しているのだろうということは、ユインも薄々感づいていた。
 物心ついたときには、既にこの暗い蔵の中に閉じ込められていた。外から聞こえてきた話によれば、自分は稚児の時に、母親の手によってこの蔵に投げ捨てられたのだという。上には二人の兄がいて、その兄たちは他の子供たち同様に育てられている。けれども自分だけ、忌み子だからという理由で隔離されたらしい。別にそれだけなら仕方がないと、ユインは思っていた。けれどもユインは怖かった。隔離されているというこの状況が。隔離されているだけで誰も来なければ、それで良かった。そうしたら自分はきっと、何も知らないままに、この暗い蔵の中で誰に知られるわけもなく死んでいけたのだろうと。
 けれども、望まぬ来客はまた、すぐそこにまで迫り来ていた。
 暗闇を二つに引き裂くようにして差し込む、仄かに赤味を帯びた光の筋。それは徐々に大きく広がっていく。
「……なんだ、まだ生きてたんだな。お前」
 不気味に笑うその子供。それは自らの兄だという、ヤムンだった。だがそのときばかりは、ヤムンは普段と様子が違かった。連れが居たのだ。それも一人や二人じゃない。五人、六人。白い頭と紫色の目が、幾つも並んでいた。そしてそれらは今、まるで汚いものを蔑んでいるかのような目でユインを見ている。
「……」
「お前らァ、あいつを捕まえろ。そんでいつもの場所で遊んでやろうぜェ?」
「おうっ!!」
 それは蔵に幽閉されてから、五年目の夏。垂れ下がった前髪の下に隠れていた人と異なる異形の黒い眼が、恐怖に歪んだ。
「おい立てよ、化け物」
 無造作に伸ばされた髪を掴まれ、ユインは引っ張り上げられる。けれども、抗う術を当時のユインは知らなかった。故に抗わず、流れに身を任せるのが得策だと信じていた。
「おら、行くぞ!」
 ヤムンの手に掲げられた悪意ある松明の火が、ユインの薄汚れた体を、わざと他の人間にも見えやすいように照らしていた。




 連れてこられたのは、村から離れた山の奥。そこでユインは蹴られた。殴られた。血を吐けば更に顔を殴られ、腹を蹴られた。下手に逆らえば、抗えば、力はどんどん強くなる。だから、何もしなかった。そうすれば彼らが飽きた頃には、またあそこへ連れ戻される。その繰り返しだった。一体何度目なのか。そんなことを数えるのも止めていた。
 ユインの存在は、村の人間にはあまり知られていない。それは村に住まう者全員に知れ渡るその前に、長老が、即ちユインの祖父が、ユインの何もかもを全て始末したからだった。
 この村には、忌み子と呼ばれるものが数百年に一度、生まれるのだという。それには武神ノ邪眼と呼ばれるものが影響していた。
 本来あれば武神ノ邪眼は、サラネムの遥か山奥に住まう生あるもの、主に雌の獣たちに寄生するものだ。山獅子や山犬、鹿、山羊、猪。そして、寄生されたものにはある特徴が現れる。左目がこの世のものでないかのように、黒く、塗りつぶされるのだ。それこそが武神ノ邪眼の姿であった。
 そして邪眼には、それ自体に生命が宿っていた。故に、宿主が死ねば次の宿主を求める。邪眼に寄生され、邪眼に生命を吸い尽くされ死んでいった獣の骸に、雌の赤子を胎に宿した母体が何らかの形で触れれば、邪眼は赤子に寄生するのだ。そうやって邪眼は骸から、今にも生まれようとしている新しい命に乗り移り、生命を繋いでいった。それは獣だけではなく、時には人へ、山奥に唯一潜る一族シャグライの者へと移った。そうして生まれるのは忌み子。黒い眼を持った、魔が差した子だ。
 顔の左半分を隠すようにして垂れていたユインの前髪を、無理矢理引き剥がす少年たち。頑なに閉じられたユインの左瞼を、少年たちはじっと睨みつけていた。
「……なぁ、お前って喋れんのか?」
 細く白い首を締め付ける、少年の白い手。
「…………」
 言葉を聞いて、理解することはユインにも出来た。けれどもユインは喋れなかった。「声」というものの出し方を知らなかったからだ。
 殴られようが蹴られようが、その喉から助けを呼ぶ声も、叫び声も上がることはない。そして彼女には、感情もない。楽しいということも分からないから、笑わない。悲しいというのも、寂しいというのも分からないから、泣かない。苦しいというのも分からないから、逃げようともせず、慈悲を乞うこともない。本来そういったものを培うべき年頃の時には既に、周りには何もなく、誰も居なく、ただ何もない暗闇だけが広がっていたからだ。
 そこにあるのは虚の器。
 器を満たしているのは、生命を維持するために本能から送られてくる、出口もなく底もない、恐怖だけ。
 出口も底も無いのだから、同時に逃げ場もない。
 ただ、恐怖という闇は深まっていくだけ。
 ただその闇に、堕ちていくだけ。
「そっか、喋れないのか」
 ヤムンの手に握られていた松明の明かりが、地に伏したユインの顔にゆっくりと近づく。突然明るく、白くなった視界。それが元の暗闇に戻ったときに、ユインは内臓が焼けつくような痛みを感じた。それが上へ、上へと上がってくる。ついに顔が、顔の左半分が熱いのだと気づいたときには、右目も開けていられなくなった。うつ伏せになる。地面に突き立てた右手の爪は、土を抉った。左手は己の顔を、左目を押さえ付ける。けれども、どうやったって逃げられないことは悟っていた。この焼けつくような痛みも、魔の手も。逃げる術を、知らぬが故に。
「きったねぇな」
 一人がそう言い、背中を踏みつけた。
「確かに。気持ち悪ぃんだよ」
 右の脇腹を蹴られる。
「化け物」
 次は左の脇腹を。
「やーい、化け物ー」
 頭を踏まれ、体を次々に蹴られた。
「……コイツ、谷底にでも落としてみねぇか?」
 そしたら流石の忌み子でも死ぬんじゃねぇのか、と笑うヤムンの声がユインの耳元で聞こえた。土に塗れ汚れた両腕を掴まれ、引っ張られる。そして背中を蹴り飛ばされたとき、体はふわりと浮いた。それでも閉じた目は、開けられなかった。





「クルスム! おっちゃんたち連れてきたぞ!!」
 声が、聞こえた。
「クルスム、どこに居るんだ?!」
「ここだ、ここ! 早く降りてきてくれよ!」
 閉じた瞼の向こう側から射している光は、見たこともないほど明るく、そして暖かかった。そして右の頬をしきりに叩いている力は、今までの受けてきた暴力とは比べ物にならないくらいに、とても優しくて弱かった。そうして漸く開けられた瞼の下。紫色の右目は、初めて日の光を見た。 眇すがめた右目。高くに広がる空はどこまでも青かった。そして横から、朧げな視界に割り込んできた一つの影。それはユインをじっと見つめていた。その髪は白ではなく茶色で、目も紫色ではなく茶色だった。
「しっかりしろよ。まだ死ぬような歳じゃねぇだろうが」
 口調こそ荒いが、子供を叱る母親のような表情を浮かべる彼女は、ユインと対して歳も変わらぬような少女だった。肩に掛かるか掛からないかというような長さの髪と、三白眼の鋭い目つき。彼女はラムレイルグ族の長であるダグゼン・ルグの一人娘、〈風雷ノ聖獣使いシラン・サーガ・キウ〉となる前のクルスムだった。
「アンタ、名前は?」
「…………」
「なんでまたこんなトコに落ちたりしたんだ。足でも滑らせたのか、それとも死のうとでも馬鹿なことを思ったのか?」
「…………」
 それは自分への問いかけなのかすらも、ユインにはよく分からなかった。ただぼうっとした虚ろな瞳で、焦点の合わぬ目で、自分でも何だか分からぬような何かを見つめていた。
「……ウンともスンとも言わねぇのな」
 なんだか人形相手に喋りかけてる気分だ、とクルスムは言う。そうこうしている内に無数の足音が近づいてきた。
「クルスム、名前だけでも聞き出せたか?」
 大人の男の一人が、クルスムに訊く。
「いいや。何も喋んねぇんだ、コイツ。まるで魂が抜け落ちてるみたいだよ。あと、顔の左半分に見てられねぇくらいの火傷の痕があった。そこら辺の水で濡らした布を当てて冷やしてやってるけどさ」
 すると、もう一人の男が何かに気づいたような、困惑したような表情を一瞬浮かべた。
「どうしたんだよ、親父」
「気にするな、クルスム。……ジェンガン、ガムスン。お前たちは先にその子を担架に乗せて、里へ運べ。左足が折れている。その様子じゃ、まともに山中を歩けんだろうからな。ファルロンも二人に付いていくんだ。そして里に戻り次第、ディグスンの元へ連れていけ。そうすればメズンほどの腕はないが、アイツがどうにかしてくれるだろう。それに噂を聴き付ければ、メズンのほうから顔を出してくれるはずだ。俺はクルスムと後からお前達の後を付いていく」
「だけどよ、ダグゼン。ラムレイルグの里よりも、メズンの水車小屋のほうが近いんじゃねぇのか? そしたらメズンが手当てなりなんなりしてくれんだろ」
 ガムスン。そう呼ばれた屈強な男は、ジェンガンと呼ばれた男と運んできた担架を地面にゆっくりと降ろしながら、ダグゼンと呼んだ男、クルスムの父親でありラムレイルグの長であるその人に異を呈した。
「いいから、俺たちの里へと連れて行け。今、シャグライにこの子を返したところであの村に下らん混乱を招くだけだ。特に長老にな」
「親父……?」
「お前達はまだ知らなくていいことだ。今は急ぎその子を連れて里へ戻れ。いいな」
 ダグゼンの鋭い目が、まだ背丈の低いクルスムを見降ろしている。そしてユインは、担架に乗せられた。




「親父」
 山道を歩きながらクルスムは、それを先導する彼女の父親、ダグゼンの背を追っていた。大人の男の大きな歩幅に合わせようと、クルスムは早足で歩く。不機嫌そうに、短い眉を顰めさせながら。
「親父!」
「クルスム」
 ふと、歩みを止めたダグゼン。クルスムはその広く大きな背中に、顔を思わずぶつけた。「いきなり止まんなよ……」
「長い間、お前は暗闇の中に閉じ込められたら、どう思う」
 唐突な質問。それをされた当の本人は、口をぽっかりと開け、三白眼の目を大きく見開いていた。
「どうって、どうにもならねぇ……けど?」
「二日や三日じゃない。何ヶ月も、何年も、いつ終わるのかも分からない暗闇に閉じ込められたら、だぞ」
 クルスムのほうに向き、視線が同じ高さになるようにその場にしゃがむダグゼン。クルスムと同じ三白眼の目には、その時はまだ子供だったクルスムには到底計り知れないであろう昏く深い、翳の世界を見ていた。
 長きに続く文明と醜悪な人の業が折り重なり紡いできた、光の射すことはない背徳に塗れた罪の歴史。それは時に甘美な愉悦の果実となり、時に身を滅ぼす苦い毒酒となる。
 それは愚かで尊い、人間そのものの映し鏡。
 そこにあるのは、強き者と弱き者。
「そこには、誰も居ない。何もない。ただ暗闇が続くだけだ」
 守られるべき尊い者と、排除すべき異端の異分子。
「だったら、抜け出せばいいだけだろ」
 笑う者、笑われる者。
「抜け道がなければ」
 捧げる者、贄となる者。
「意地でも拓く」
 屠る者、屠られる者。
「拓けど拓けど道が拓かなければ」
 見降ろす者、見上げる者。
「諦める、かもな」
 虐げられる者、傍観する者。
「諦めた先に、何がある」
「何って……ああもう、わけ分かんねぇよ!!」
「何も無いんだよ」
 自分の両肩に置かれた大きくてごつごつとした手に力が籠るのを、クルスムは感じていた。
「……何も、ない?」
「そうだ。お前とファルロンが見つけたあの子は、長い間そんなところに一人だけ閉じ込められていたんだ。だからお前は、魂が抜け落ちているみたいに何も喋らないと言っただろう」
「そうだけど」
「本当の独りぼっちになるとな、何も育たなくなるんだ。何も教わらないからな」
「なんでだよ。なんで独りになると何も育たないんだよ」
「お前のように、怒ったり、しょげたり、喜んだり、笑ったりできないんだ。それを見たことが無ければ、そんなものがあると知りもしないからな。だからお前の問い掛けに対して、どう返せばいいのか分からなかった。答え方を知らないからな」
「けど」
「昔は、あの子も笑ってたんだ。もうお前は覚えてないかもしれないが、お前はあの子のことを、まるで妹分のように随分と可愛がってた」
「なんでアタシが」
「ヤムン、イェガン。その下に居るはずの子だ。お前より二つ下の、女の子だった」
「居るはずって、どういうことだよ」
「居ないものだとされたからだ。これ以上は、もう少しお前が大きくならない限りは理解出来ないだろう。その時が来れば、また話そう」
「わけ分かんねぇよ親父」
「あの子の名前は、ユインだ。昔みたく可愛がってやれ。あの心の傷から目を背けられるようになるには、クルスム、お前みたいな厚かましいのが傍に居たほうが早いだろうからな。ヌアザンやファルロンにも、そう伝えておけ」
「……」
「クルスム、行くぞ」
 ゆっくりと立ち上がり、山道をかき分けていくダグゼン。その後を、クルスムは追った。





 厚かましいクルスムとヌアザン、泣き虫のファルロン、天然のラズミラに揉みくちゃにされたからなのだろうか。始めはあんなにまで無反応だったユインにも、少しずつ表情が戻っていた。
 少しずつ、ユインは自分が思っていることを口に出すようになり、徐々にそれらに抑揚が付いていき、嬉しいことや楽しいことがあったら笑って、悲しいことや辛いことがあれば泣いて、気に入らないことがあれば拗ねた。それは少しずつの僅かな変化の積み重ねでしかなかったけれども、次第に積り積もって大きくなっていき、二ヶ月もした頃には、普通の子供と何も変わらないくらいに会話が成立するようになっていた。
 そうして暫くしてからラムレイルグの里に、噂を聞きつけたメズンが降りて来た。そして弟子入りという面目でユインと、奉公という名の下にクルスムが、メズンのもとに預けられた。その際にユインは、伸びきっていた髪を、毛先が肩にかかるくらいになるまでバッサリと切り、同時にオブリルトレ王家についてのことをメズンから聞かされた。
 オブリルトレ王家。
 昔、サラネム一帯を治めていた家であり、ユインがその家の子孫であるとも。
 そして新しい当主は、しきたり通りにいけばユインになるということも。
 だから、それが気に食わない両親がお前を家から追い出したのだということも知った。
 この時の話は、メズンとユインの二人だけの話。
 クルスムや他の者たちには、一切知らされていなかった。
 そしてこの頃、クルスムは父親との大喧嘩がキッカケで一度家出をし、その先で出会った聖獣ウィクとのゴタゴタで、髪は金髪に、瞳は緑色へと変わっていた。
 メズンの住む水車小屋は、シャグライの村とラムレイルグの里の間、ちょうど中間点の位置に存在していた。そんな水車小屋で始まった修行。手始めは、弓矢を用いた狩猟からだった。
 メズン曰く「薬師たる者、鹿や熊の一匹や二匹、一人で狩れずしてどうする!」ということらしい。だが、ラムレイルグの大人たちから、いきなりそれは厳しすぎるのではないのか、という声もちらりほらりと上がっていた。けれども、メズンはそんな言葉を気に留めるような男ではない。逆に、ユインとクルスムの二人の闘争心を焚き付けた始末だった。一人で鹿、熊それぞれ一体ずつ狩れたほうから先に、滋養の薬の作り方を伝授してやろう、と。
 ユインとクルスムの二人に渡されたのは木製の弓と、矢が一人一日につき五本ほど。そうしてユインとクルスムの二人は、競争を始めたのだ。どちらが先に、あの変人メズンに教授してもらえるようになるのか、と。だが結果は同着。それもまた、メズンは見越していたことだとかなんとか、後にダグゼンは言っていた。
 そうして、水車小屋で四年ほどクルスムは奉公し、里へ帰っていった。次は獣医師に弟子入りしたという話も、風の噂で伝え聞く。
「お前ぇサンは、ラムレイルグの里に付いて行かなくていいのかェ?」
 丸眼鏡の下、紫色の目を下品にギラつかせながらメズンは、横で弓の弦を張り替えているユインを見る。
「いいよ、俺は。もっと調べたいこともあるし、ここ居心地いいし」
「だからって、あんま長居はすンじゃねぇぞ。 俺ァ今すぐにでもお前ぇサンを本家送りにしてやってもいいんだからな。まっ、お前ぇサンの弓の腕前は認めてるから、手放したかァねぇんだがヨ」
 本家の長様はダグゼンに怒り心頭で、オマケにお前ぇサンにはあのロディーのお嬢サマとの縁談も来てるらしいからなァ、とメズンは嫌味に笑う。
「縁談の相手が、あのロンディン・ウェルザポ? 俺の親たちは、俺の性別を覚えてんのか」
 ロンディンといえばシャグライの中でも、麓のラムレイルグでも言わずと知れた有名人だった。制御すると言うことを知らない怪力を持て余し、事あるごとに物を、時には家屋すらも破壊するという、ユインともさほど年も変わらぬ女だ。
 そんなロンディンの一番危なっかしい点は、とんでもない妄想癖である。ユイン自身は一度しか彼女とは対面したことがないし、それも彼女が怪我をさせた男の手当ての際だったのだが、その一件以降、彼女はユインにゾッコンらしく。メズンが言うには、事あるごとに「ユインは私と付き合ってる」「子供だって私のお胎に居る」と言い張るらしい。現実にあり得るはずがないというのは、さて置き。第一、女と女の間に子供ができるなど、現時点の文明の進歩具合では到底不可能であろう。
「さァな。お前ぇサンの場合は、晒しを胸に巻き付けてッからなァ。男に見間違われてもしゃぁねぇだろ」
「弓を使うときに邪魔なんだよ、胸が。それに、アンタに言われずとも、既にその道は諦めておりますとも」
「そうかェ? そんな風にゃぁ見えんがなァ。ラムレイルグんとこで今、期待の超新星とかなんたら言われちょる、あの調教師の卵とかを見てる目はァ……」
「うるせぇ、黙れクソジジィ」
 その後一年間は特に何もなく、可もなく不可もなくという生活をユインは送っていた。メズンに頼まれれば山に入って鹿、山羊、熊、猪を必要最低限狩ってきたし、治療の手伝いもユインは行った。
「否定はしねぇンだな。……ガムスンに伝えておくかェ。ウチのアホゥが、お宅の息子に」
「やめろ! マジで、やめろ!!」
 そして時は経ち、山にも春が来る。年に一度、春先にラムレイルグの里には隊商が訪れるのだった。
 隊商が山に訪れる日の朝、ユインは薬箱を担ぎ、荷物を載せた雄馬を二頭ほど連れて、麓の里へと降りた。早足で山を下る分には一チグム程度だが、荷物を載せた所為でゆっくりと歩くようになる馬を連れるとなると半日、もしくはそれ以上掛かる場合がある。だから余裕をもって村を出るのだ。
「行ってくるぜ、ジイさん」
「おい待てユイン、貴様まさかこの俺を置いて行くつもりか」
 二頭の雄馬、ゲッラの手綱はユインが持ち、ゴッレの手綱はメズンが持った。日の射す山の中、緑の中に溶けるように消えていく二つの影。それらが麓のラムレイルグの里に着いたのは予定よりも早く、その日の夕暮時だった。
「ユンとメズンのオッサンがご到着だぜー」
 真っ先にユインとメズンを出迎えたのは、クルスムとウィクだった。クルスムの金色の髪は、夕暮時の西日に照らされてきらきらと輝きを放つ。そして横に並んでいるウィクは、白い鬣を微風に 玩もてあそばせながら、煙たそうな視線をゴッレの上に跨るメズンへと送り付けていた。
「うっげ、今年はメズンのジジィも御同行かよ……」
「悪かったなァ、俺も御同行でヨ」
「とっととくたばりやがれ、クソジジィ」
「おいウィク、一応これでもアタシの恩師なんだよ!?」
「一応って、なんだその一応っていうのはボケナス二番弟子!!」
「おいおい、ジイさんよ……」
 クルスムが言うには隊商はその日の夜には来るのだという。その間にゲッラ、ゴッレの面倒はファルロンに押しつけ、ユインとメズンはラムレイルグの医術師や薬草師と取引や物々交換などを行っていた。そしてそれもまた一通り終わると、メズンはダグゼンの元へ打ち合わせをしに、ユインはクルスムとファルロンの居るところへとそれぞれ行った。頼まれれば軽い傷の手当てや、弓やグロウィンの弦の張り替え、修繕なども日が暮れるまでやった。
「それにしても不思議なもんだな。あの小屋に居るより、コッチに居るほうが落ち着くってのは」
 メズンの住処に移り住んでから一度だけ、ユインは兄たちに会ったことがあった。
 ヤムン、イェガン。その二人はどこまでも、対照的だった。ヤムンがお山の大将のような存在なのであれば、イェガンはそれに虐げられている臆病な取り巻きといったところであろう。
「ラムレイルグは俺の第二の故郷、っていうのかな」
「てことはお前ェサンにとっての第一の故郷って、メズンのジジィの住処だっていうのか?!」
 悪趣味だな、などと吐くウィク。
「いや、あれはまた違う。けど居心地は良い」
「やめてくれよ、ユン。メズン二世が誕生だなんてそんな展開、俺は望んじゃいねぇからな!」
「でも楽しそうじゃないか、それもまた」
「ユン!! ちぃと会わなかった間に、あのジジィに随分と毒されちまったか?!」
 メズン二世とか、それだけは勘弁してくれよな!などと、ファルロンは喚き散らし始める。あーだこーだと言い合いを始めたユインとファルロンの二人を横目に、クルスムは何かの視線を感じていた。
「……」
 とても殺気を帯びているような、その視線。だがそれが何処から注がれているのかまでは、察知できずにいた。故に確証はない。アタシの気のせいだといいんだけど。そう思いながら、クルスムはあたりを見渡す。と、ある家の裏手、動いた一つの影。その頭が白く、目が紫色なのをクルスムは確かに見た。そして一瞬、ハッキリと見えたその顔。恐怖に歪んだ、今にも泣き出しそうな青年の顔が見えた。
「……なんでアイツがここに……?」
 動いているその影が、クルスムにこちらへ来るようにと手招きしている。
「どこ行くんだ、クルスム」
 ユインの首に腕を回したファルロンは、クルスムとウィクを見ていた。ユインもまた、なんとも言えない表情を浮かべている。ファルロンの鬱陶しさに対する苛立ちと、様子がおかしなクルスムに対する不信感が、その顔には見えていた。
「ああ、ちょっと……ヤボ用、さ。気にすンな」
 見えていた影は家の裏に既に隠れていて、クルスムからは見えなくなっていた。クルスムとウィクが影の消えたほうへ小走りで駆けていくと、物陰にはイェガンの姿があった。
「イェガン。引き籠りのアンタが一人でここまで降りてくるたぁ相当な用件なんだろう? 一体何だってんだい」
「一人じゃ……ないんだ」
「他にも来てるのかい?」
 無言で頷くイェガン。そして彼は、小声で続けた。
「ヤムンとその取り巻きが、ユインを捜してる。長老からの言い付けで」
「何でまた今更ッ……」
 大声を上げようとしたクルスムを、その直前で止めるイェガンはか細い声で言う。
「……出来るだけ小声でお願いします。他の人たちに聞こえたらいけないので……」
「……すまねぇな、取り乱した。それで、シャグライの長老はユンを捕まえてどうするつもりなんだ」
 イェガンの目が、クルスムの視線から大幅に逸れた。下に、地面へと向く。クルスムの足元、身構えるのはそれまで静かに二人を見ていたウィク。ウィクの体毛は少しずつ、逆立っていく。
「……」
「言えよ、イェガン」
「……長老は……」
「長老が?」
「……どんな手を使ってでもいいから、山からユインを追い出せ、って。出来るだけ酷く、追い詰めて、壊して」
「どういうことだよ、そりゃ」
 イェガンは途端に黙り込む。それ以上は言えない、という意思表示なのだろう。
「もういい」
 クルスムは、黙りこむイェガンを睨んだ。
「そんなに、アンタはヤムンが、あのクソ野郎が怖いのか」
「……」
「なんでそんなに、他人に怯える必要が」
「……ユインが、危ない」
「なんだって……?」
 怯えたままの紫の瞳の奥、今にも消えてしまいそうなか細い意思の焔は、更に激しく揺らぎ始める。
「次に来る隊商は、貿易のための隊商じゃない。ヤムンが手配した偽の」
「烏の黒羽か?」
 ウィクの低く嗄れた声が重たく、地に落ちる。無言で頷くイェガン。それは見たくもない、最悪の結末だった。
「一応は総本家の出にして純血のシャグライ族、それも若くて比較的整った女。多少の火傷のある傷モノにして大層な曰くつきではあるが、そりゃあ欲しい奴は欲しいだろうし、俺たちにゃ想像も出来やしねぇ額で売れンだろう。こんなタチの悪ぃ仕打ち、アリなのかよ」
「なんともヤムンらしい、卑怯で卑屈極まりないやり方だよ」
 クルスムが零したのは、いつもの嫌味。いつもと違うのはその目が笑っていないところだけ。その一つの違い、それが意味するのはとても大きな違いだった。それでも里の下の方では既に、男たちが偽物の隊商を取り囲んでヤンヤヤンヤと歓声を上げている。
「あれに詰め込まれてるのは、アルヴィヌの農家たちから盗んできた食材が少しと、模造のブルサヌ紙幣だって聞いた」
 イェガンの目はもう生気をなくしたような、死んだ魚を思わせる目をしていた。
「なあ、アンタ」
「……」
「アンタはユンのこと、どう思ってるんだい」
 イェガンの虚ろな視線がクルスムに向く。
「……ヤムンがどんな惨いことをやってるのかは知ってた。けどそれに首を突っ込めば、その対象が僕に替わることが」
「怖かったのか」
 クルスムの目もまた、絶望の淵を見ているようだった。
「……申し訳なく、思ってるよ」
「今更悔やんだって、ユンの失った時間は戻ってこないんだよ」
 それだけを最後に吐き捨てると、クルスムはウィクの上に跨り、偽物の隊商、烏の黒羽という極悪非道にして最低最悪の人売り共と、卑劣なヤムンの元へ向かう。ウィクの鬣は、バチバチと音を立てながら電気を放っていた。