【第十三章 忌み子】

2 火種


 あの時。たしかに受けた余命の宣告は、二年三ヶ月。
 けれど今はその時から、丸十年が経とうとしていた。
 あの日以来、常に笑顔を絶やす事の無い真夏の太陽のような人であった筈のエリーヌから、笑顔や温もりは消えた。レーニンからも、あの陽気さや時折並べる冗談は、めっきり消えた。
 変わりに増えたのは、口喧嘩。そしていつからかエリーヌは自室に籠るようになり、レーニンも研究所から帰ってくる日が少なくなってきていた。

 誰が悪いわけじゃない。
 運が悪かった。
 ツイてなかった。
 それだけだった。

 ユンの病気は孤発性CJDヤコブ病というものだった。原因は分からない。だから、CJDなのだと、主治医のアルスル・ペヴェロッサム先生は言っていた。
 あの時、急に身体を動かせなくなったユン。だが、その数時間後には元のように動き回れるようにはなっていた。けれど日を重ねる毎に、何も無い所で躓いたかのように倒れたり、突然全身の力が抜けたかのようにその場に座り込んだり、そのまま立てなくなったりという事が増えていった。その度にレーニンとエリーヌは、喧嘩をした。どちらにも非は無いのに。あるとすればそれは、いるかどうかも分からない神様なのに。そしてその度に、私はどうしていいのか分からなくなった。ただ家を飛び出して、手当たり次第、何か物へと当たっていた。そして帰ってみれば、悲しそうな顔をしているユンが、レーニンとエリーヌに対して小声でずっと、ごめんなさい、俺なんかが居るから、ごめんなさい、と謝っていた。
 気がつけば「家族」はバラバラになっていたのだ。別々になった、私とユンの部屋。リビングには誰も居なかった。みんながそれぞれ、自分の「陣地」に籠るようになっていた。
 そうして八年が経った頃、ユンの記憶は、人格は、もう何もかもが曖昧に濁ってしまっていた。私のことを指さしてユンと言い、自分の名前は分からないと言ってみたり、急に嫌いなはずのスカートを可愛いと言ってみたり、レーニンやエリーヌに対して、まるで初対面の他人を相手にするかの様な態度を取ってみたり、酷い時には誰に対しても近寄らないでと泣き叫ぶようになっていた。
 そんなある日の午前二時。「夕飯になったら起こして」とそれだけを私に言ったユンは、自分の部屋で昼寝に入った。最近、ユンは日中寝てることが増えている。それは、誰とも会いたくないから。そんなことには薄々、気が付き始めていた。そしてその日。夕飯の時刻になりユンを起こしに部屋に行ったけれども、ユンはどんなに体を揺すっても、どんなに声を掛けても、起きる事は無かった。そしてまた、病院へと送られた。
 その四日後、ユンは目を覚ました。けれどそれは、ユンじゃなかった。ユンの魂はまるでどこかに置き去りにされたように、そこに残っていたのはただの抜け殻だった。記憶なんて、何も遺ってなかった。話しかけても返ってくるのは「知らない」「だれ?」「あはは」という言葉くらい。まるで知的障害の子供のようだと、私は思った。事実、精神年齢がそれくらいに戻ってしまったようだと、アルスル先生が言っていたのだから。
 食べ物を食べるという行為を拒むし、かと言って無理矢理食べさせれば、体がそれを拒否をしているのか、戻してしまう。だからユンには、点滴が繋がれた。そして点滴の数は、過ぎていく日数に比例しているかのように増えていった。ユンは点滴を取りかえられる度に、痛いと喚いて暴れた。そしてその度に看護師が数人がかりで押さえ込み、鎮静剤を投与し眠らせた。何時の間にかユンのベッドには、ベットに縛り付ける為のベルトまで付けられるようになっていた。そうなった頃にはもう見ていられなくなったのか、エリーヌとレーニンが見舞いにくる回数が減ってきていた。そして気が付いた時には、毎日欠かさず来るようになったのは私だけ。だからなのだろうか。ある時、余りにも暴れるからと眠らされたユンの横でアルスル先生が、君はまだ見舞いに来てくれる人が居るだけ幸せなほうだ、と声を掛けていたのは。そして、レーニンもエリーヌも見舞いになんか来なくなっていた。
 私には、私達には本当のお母さんはもう居ない。既に、死んでいた。ましてやお父さんの存在というのは、お母さんの弟にあたるレーニンですらも知らない。だから代わりに親と呼べる存在は、あの二人しか居なかった。
 でも、そんな二人がこんな有様じゃ、きっとユンも辛いのだろう。
 けれどもう、彼女は喋れない。
 自力で呼吸すら出来ぬほど、身体はもう限界寸前といった状態だった。
 回復は望めない。アルスル先生は前に、ハッキリとそう言っていた。
「ねぇユン。ラニーとエリーのこと、どう思う?」
 きっと答えなんて返って来ない。微塵も期待なんかしてはいなかった。
「……って、そんなこと訊いたところで」
「………………お……」
 焦点すらも合っていない目、その目が潤んでいた。
「……っ……ご……」
 酸素マスクが曇る。その透明なマスクの下、唇が確かに「ごめんなさい」と動いたのを、捉えた。
「なんで、なんでユンが謝んのよ、バカ!」
 ベッドを強く、両の拳で叩いた。それに驚いたのか、ユンの目からは涙が零れた。それから二人して、大声で泣いた。個室だったから、まだ良かったけれど、もしそうじゃなかったら今頃怒られていただろう。
 そして次の日。どういうわけかユンには意識があった。
 喋りに関しては、舌が鈍っているせいか呂律が回っていなかったけれど、会話は成立していた。点滴が痛いから外したいとか、酸素マスクは却って息苦しいからもう外してくれとか、もうベルトは取ってくれたっていいじゃないかとか、この間ラニーが来た時は、ただ花だけ変えていって何も言わずにすぐ帰って行っただとか、エリーヌはずっと泣いてたとか、そんなことを話していた。そして、意識が混濁していたその間の記憶が残っていたことに私も、回診に来たアルスル先生も驚いていた。ただ、声は聞こえてたんだけど、目はよく見えてなかったね、とユンは言ってた。そして今も変わらず、視界には全て白いもやが掛かっていてよく見えない、とも言っていた。もしかすると、分からないぞ。今の今までずっと無表情だったアルスル先生の顔が、その日初めて輝いた。
 奇跡もあるかもしれない。そう期待した。アルスル先生がそう言っていた。
 けれどその直後、また私達はどん底へと突き落とされた。




 真夜中に、突然病院から電話が掛かってきた。それはアルスル先生とユンが失踪したというものだった。
 当然、アルスル先生がユンを連れ出したのだと誰しもが疑った。けれどその疑いは三日後に、良くも悪くも晴れることとなる。
 ユンの失踪から三日が経った日。レーニンに、ユラン・レーゼという科学者が近寄って来た。それはユンの病気を、私なら治せるかもしれない、という内容だったという。そんな僅かな希望を胸に、私とレーニンとエリーヌ、家族は久々に顔を合わせた。三人で、ユラン・レーゼという女性の元へと向かった。
 けれど、と思う。
 今思い返せばどうしてあの時、なんの疑いも持たずにそんな甘い誘いに乗ったのだろうか、と。どう考えても怪しいと、誰が聞いてもすぐに分かるような話だったのに。それほど私達は、追い詰められていたのだろうか。
 待ってました、と出迎えられたのは、レーニンも務めているという研究所のその一室。レーニンも入ったことが無いと言う薄暗い部屋に案内された。
 一体、どうしたら治せると言うのか。レーニンがそう訊ねようとした時、ユラン・レーゼという女の履いていたヒールのつま先が、レーニンの右頬にのめり込んだのだった。
 絶句する私とエリーヌ。何が起きたのかも分からずに、後退る。下がっていくうちに、ひんやりとした何かが背中に触れたと感じ、振り向いた。そこにあったのは、水槽。いつか見た事があるような、アバロセレンの青白い輝きがその水槽には満ちていた。
 その水槽の中。そこで何故か、アルスル先生がもがいていた。腕や頭、足や首、様々な管がその身体に植えつけられている。私もエリーヌも、思わず悲鳴を上げた。
「そう。……今のアルスルのような状態にすれば、少なくとも今よりは長生きできると思ってね……」
 床に倒れていたレーニンの髪を、乱暴に一房掴むユラン・レーゼ。そしてまた、容赦なくその顔に拳をのめり込ませた。
「だから、保護者は邪魔なの。同じ科学者のあなたなら分かるでしょ、レーニン?」
「あんたの実験台になんか、この子たちはさせないんだから!」
 甲高い声で叫ぶエリーヌ。けれどもユラン・レーゼは怯むことなく、続けた。
「貴方だって、その子たちが欲しい余りに、その子達の母親を殺したんでしょう?」
 歪む唇。
 醜い、獣。
「違う、テレーザは……!」
「そうねぇ、貴方達は直接、手を下したわけじゃないわ。でも少なくとも、見殺しにした事は確かでしょう?」
「違う、私は助けようとした。でも……」
 足下で倒れていたレーニンの腹に何度も、何度も繰り返しその鋭いヒールの爪先で蹴りを入れるユラン・レーゼ。
「……や、やめっ…………ろっ!!」
 ユラン・レーゼの背後から聞こえた、怒りに満ち震える声。それはユンの声に、違いなかった。
「……消え……ろ……クソババァ……!」
 ユンのその手に握りしめられた刃物。その刃先は、ユラン・レーゼに向いている。鈍い光に照らされ、ちらつく金属独特の光が、その震える手を際立たせていた。
「折角、あなたを助けてあげようとしてるのに、その態度は無いんじゃない?」
 がくがくと震える脚で、ようやく立っている。人工呼吸器も、点滴も、その体からは外されていた。息が上がっている。激しく上下を繰り返す肩。エリーヌもレーニンも、その姿をただ茫然と見つめていた。
「けれどその様子じゃ、助かるものも助からないのかも……」
 ゆっくりとユンに歩み寄るユラン・レーゼ。震える手から刃物を叩き落とし、その細い両の手首を強引に掴む。
「イヤ! やめて、やめなさいってば!!」
 ユンの襟首を掴んだその手。下からレーニンが体当たりをして、ユラン・レーゼを突き飛ばす。バランスの悪いヒールの影響もあり、その場に倒れ込むユラン・レーゼ。その隙にレーニンは、同時に倒れたユンをエリーヌのほうへと半ば強引に突き飛ばした。よろめくユンをその胸に受け止めるエリーヌ。気付かない間に、こんなに大きくなってたなんて。エリーヌがそう呟くのが聞こえた時、同時に視線の片隅で紅い花弁が舞い、散った。ゆっくりと空中を舞い、散っていく紅緋の花弁。それはレーニンの口から溢れ出ていた。次に飛んできた鈍い光。それはエリーヌの首筋を掠り、紅い無数の閃を描いた。
 もう、何が何だか分からなかった。
 倒れた二つの人影。それはかつて、仲睦まじい夫婦であった筈なのに、いつの間にか壊れてしまったその残滓。
 辺り一面を染め上げた赤い紅い鮮血は、嫌でも目に焼き付き、そして気がつけば視界は、赤と補色の関係にある緑を帯び始めていた。
「エリー、ラニー、死んじゃイヤ。ユンの病気、絶対に治すってあの時言ってたでしょ。ねぇ?」
 初めてユンが倒れた時、二人はその晩、確かに誓っていた。
「このまま壊れてっちゃうユンだなんて、ユンがユンじゃなくなっていくのなんて、もう私は見たくないよ! もう無理だよ。こんなの、耐えられない……ねぇ、起きてよ、ねぇ!?」
 ユンを抱きしめながら上げた、嗚咽混じりの号哭。虫の息、それすらもあるかないかの境目。切れた唇の端から滲む血液。赤い眼の焦点はどこか遠くを見つめ、虚ろになっていた。
 それをあたかも愉しそうに、イタズラで狂気的な笑みを浮かべながら聴き惚れていた獣が居た。
「だから、さっきから言ってるでしょう? 私ならその病気を治せるけど、ってね。……どうするの、お嬢さん?」
 如何にも裏があるという笑顔を浮かべながら、血に染まった赤い手を、片割れであるはずの者の抜け殻を強く強く抱きしめる私へと差し伸べている。
「イヤよ!! 近寄らないで!」
 白い腕を握る赤い手。
「嫌だ、やめて、離してよ……ッ!」
 握ったその腕を更に強く握る。
「やだ、助けて、やめてッ!!」
 私の叫び声を聞いて駆け付けたのか、それまで閉め切られていた部屋の扉が開く。入ってきたのは、二人の白衣の男だった。
「……私の愛しのウェインスと、良き友カイザーじゃない」
 不敵に笑うユラン・レーゼ。
「君は一体何をしているんだ」
 カイザーと呼ばれた男は、呆然と立ち竦んでいる。
「流石、僕のユランだ。邪魔者を排除してくれてたようだね」
 ウェインスと呼ばれた男は、その顔を卑屈に歪ませながら、床に転がる二つの残滓を黒の革靴の爪先で蹴り飛ばした。
「ただの邪魔者じゃないわ、それでも一応は実験台の一つなのよ。そんな乱暴に扱わないで頂戴」
 ウェインス・レーゼを軽く窘めるユラン・レーゼ。
「ウェインス、あなたはγ実験へと先に着手していて頂戴。あと一歩であのシステムが完成しそうなの。こいつの脳味噌を上手く利用できれば……ね」
 背後の水槽のガラスに顔を近づけ、その中で苦しげにもがいているアルスル先生に、嘲笑とも取れる気味の悪い笑顔を向けるユラン・レーゼ。
「さて。それじゃ君たちは僕に付いて来たまえ」
 優しそうな笑顔を浮かべた男の姿をした獣が近付いてくる。その裏側に隠した汚れた本性が、その言葉の節々に滲み出ていた。
「アンタらなんかに、大人しく従う義理なんて無い!!」
「そうかい。あくまで……そういう態度を取るって言うんだね」
 また卑屈な顔に戻ったウェインス・レーゼ。その手に握られていたのは、バチバチという嫌な音を立てるスタンガンだった。
「じゃあ少しの間、眠っててもらえるかな?」
 首根を掴まれ、持ち上げられる。下ろしなさいよ、と腕を振り回そうとするも、羽交い絞めにされていたせいで、敵わなかった。耳元で鳴る、不快な蠅の羽音のような音。次に、一瞬の凄まじい熱と芯から引き裂くような痺れが体を襲った時、頭の中は真っ白になった。