【第十二章 山犬の咆哮】

4 弔いの咆哮



 回復の見込みはない、か。けれども、これで十分だ。だから彼女は、解放しよう。

 遠ざかっていくリストリアンスを見送るとルドウィルは、ユインが横たわる寝台の前に置かれた椅子に腰かけた。
 懐かしい部屋だった。昔、まだユインが〈神護ノ十剣トウィンガル・ラン・アルダン〉の隊員だった頃に、“ユン兄ちゃん”とまだ呼んでいたあの頃に、彼女が占領していた部屋。薬草が詰め込まれた箪笥が所狭しと並べられていた、あの部屋だ。
 当時の物こそ既に猛獣舎に引き払われている為にここには存在しないが、まだ薬草の青臭い匂いは壁に染みつき残っている。この部屋で書き物や歴史、薬学について教わっていた幼い頃を思い返しながらルドウィルは、女王の手にそっと触れた。
「……こんなの、酷過ぎるじゃないか」

 私は、君たちに干渉するのは当分控えることにしよう。
 どちらにとってもそれが、現段階では最善の選択だろうからね。

 リストリアンス卿は、そう言った。あの柔らかな笑顔で、そう言ったのだ。
 干渉はしない。
 その言葉は、ただ干渉を控えるというだけでなく、捨て駒を捨てただけだという、余計な荷物を切り捨てただけだということを、そのうちに含んでいることは察しがついていた。
 だから余計に、ルドウィルは悔しかった。
 彼からすれば、始めから捨てるつもりでしかなかったということが。
「アイツが居なければ、こんなことになんて……!」

 脳が委縮していく病を、彼女は患っているんだ。
 それに回復することは、現状ないといえる。
 諦めるんだな。

 〈大神術師アル・シャ・ガ〉は、そう言っていた。どんな薬でも神術でも、治しようのない不治の病だと。それも進行が早く、たった一日で容体が急変する可能性も、十二分に秘めているとも。
 自力で立つことも出来ず、今や呼吸すらも、〈大神術師アル・シャ・ガ〉が何処からか用意した特異な機械のようなものの補助がなければ、まともにすることも出来ないような体。それは人間ではなく、よもや植物に等しい存在にまで、なり果ててしまっている。
 口を覆うように取り付けられた、所々に穴の開いた硝子の容器は、息を吐く度に曇り、息を吸う度に曇りは晴れる。それの、繰り返し。その様を、ルドウィルは無言で見つめていた。
「……どうして息を吐くと、硝子は曇るんだろう」
 頭の中にふと浮かんだ些細な疑問。そんな疑問の一つ一つに、女王となる前のユインは、丁寧に答えてくれた。もしかすると、今にも起き上がって、紙に書いて教えてくれるんじゃないのか。そんな風に、期待さえ心の中でしていた。だからこそ、その言葉が口から零れたのだろう。
 だが、答えてくれるわけなんて、ありはしなかった。
「……分かってたさ。こんなことくらい」

 脳が委縮すれば、歩行に障害が出るようになる。
 そして次に記憶が曖昧になっていき、その他の認識能力も著しく低下するだろう。
 まるで、痴呆の老人のようにな。
 そして精神を病み始め、酷い場合には……幼児化することもある。
 最後には植物状態になり、死ぬ。
 出来る限りの延命措置は施すつもりではいるが、君らにとっては辛くなるだろう。
 覚悟を、しておくんだな。

 そう言っていた〈大神術師アル・シャ・ガ〉の言葉は、その通りになった。
「……」
 《光帝シサカ》継承ノ儀。
 その時に壊れてしまった理性により、感情を抑えることができなくなったユインは、何も見えないという恐怖も相まって、誰かに触れられるのを一切拒み、誰かが近寄るような足音が少しでも聞こえれば怯え、ほんの一瞬でも体に触れられれば震えるようになり、押さえつけようとすれば、声にならない声で抗い、包帯を涙で湿らせていた。
 そして、どんな時でも彼女は常に、何かに怯えていた。
 それまでの根拠はないのに溢れていた自信や無鉄砲さ、周りの見えていない一方通行な性格などは全て仮面だったというのも、同時に露わになった。
 その心の中に巣食っていた深く昏い闇。
 その闇に、こうなる前に気が付いていたら、少しでも状況は、違っていたのかもしれない。
 そんな風に自責の念に駆られていたのはルドウィルだけでなく、またクルスムやファルロン、ウィクといった幼馴染たちや、〈神護ノ十剣トウィンガル・ラン・アルダン〉の同僚であったベンスやリュン、ラントもそうだった。エレイヌもまた、ユインのことをとても気に掛けていた。
 だがどうしても、珍しく苛立ちを見せていたパヴァルが言っていた「これで良かったんだ」という台詞が、ルドウィルの頭から離れずにいた。
「……これで、良いわけがない」
 自力での歩行は困難故に、彼女を移動させる手段は車椅子になり、次第に周囲の音に敏感になり部屋から出ることすらも拒むようになった頃には、寝たきりの状態になっていて、一切動くこともなかった。
 ただ寝たまま、活動をすることのないその姿は、飾られているだけの傀儡のようだった。
「……起きてくれよ、ユン姉ちゃん。いつか一緒に、神国中を旅してまわろうって、前に約束したじゃん。なぁ……」
 そのとき、ぴくりと動いたユインの左手の指先。
「……姉ちゃん?!」
 指先が指した先、見覚えのある古ぼけた紙袋があった。取れ、と言いたいのだろうか。そう思ったルドウィルは紙袋を取り、その中を開ける。そこには懐かしいアルゲン織りの紫の首巻が、綺麗に畳まれ入っていた。最近は身に付けているところを見ていなかったから、捨ててしまったのかと思っていたが、大事にとっておいてくれていたようだ。そして首巻の下に、一枚の長い紙が入っていた。
「これを、読めばいいの?」
 紙をゆっくりと広げ、書かれていた文字にルドウィルは目を通す。
「……」


 私の、この体は直に朽ちる。
 真なる終わりへと進む道を探し求めるのでしょう。
 もし神が存在しているなら
 それが時至れりと 思おぼしめされるのであれば
 この世全ての罪と共に、何もかもを御許へお返しいたしましょう。

 もう私が、過去の幸福を羨むこともありません。
 遥か昔に過ごした一時だけの幸福な日々を
 取り戻したいとはも望みもしません。
 ただ希むも、叶えるも終焉のみ。
 この命を以てして、
 神と言う幻想に囚われた者たちの
 永遠の解放だけをただ望み、
 実現してさしあげましょう。

 深き青の上げ潮と共に齎される黄金の輝きは、
 濁りし茶の猛々しき引き潮と共に奪いゆく白い光へ。
 上げ潮は貴殿に何を齎し、
 引き潮は貴殿の手から何を持ち去るのでしょう。

 栄華は束の間の夢、
 上げ潮のあとに引き潮が来るが故に。
 だから私は
 私は期待をしない。
 引き潮のあとに上げ潮が、
 この世そして貴殿の許へと訪れることを。



「ユン姉ちゃん……!」
 その手紙の意味はよく、ルドウィルには分からなかった。

 上げ潮が齎し、引き潮が奪う。
 何を?
  ……分からない。

 だがなんとなく、それをリストリアンスに渡さなければいけない、という使命を感じた。
「これをリストリアンス卿に渡せばいいの?!」
 こくり、とユインが頷いたようにルドウィルには見えた。そして、やっと手に馴染むようになってきた〈獅子レオナディア〉の柄を握りしめ、ルドウィルは駆け出す。
 だが、ルドウィルは気付けなかった。
 それまで一定の間隔で曇ったり、元に戻ったりというのを繰り返していた、ユインの口を覆うように取り付けられたガラス、酸素マスクが、曇らなくなっていたことに。




「……リストリアンス卿!!」
 王宮の一階広間。傍に、武ノ大臣ケリスと、大臣補佐官であるディダン、そして政ノ大臣シルスウォッド卿と、憲兵団第三中隊副隊長ダルラ卿、そしてその正室であるユニを侍らせたリストリアンスは、ルドウィルをその青い目で睨み据えるように見た。そんなリストリアンスを見て、話が直接通じそうにもないと判断したルドウィルは、ディダンに視線を送り、ユインの手紙をディダンに差し出した。
「ユイン・シャグリィアイグ・オブリルトレ様からのものです」
 まずディダンが、その手紙に目を通す。その表情が一瞬強張りはしたが、特に問題はないと判断をしたのか、ディダンはそれをリストリアンスへと渡した。そして、それを受け取ったリストリアンスは読み終えるや否や、一人突然に高い笑い声を上げた。
「そうですか、あくまでそれを選んだというのですか……」
「どうした、リストリアンス」
 ダルラの垂れ目が、警戒心を帯びたつり目に変わる。だが、リストリアンスはダルラには目もくれず、ケリスのほうへと向いた。
「〈聖堂カリヴァナ〉、通達だ。全騎士団に伝えなさい」
 ケリスの灰紫の目から光が失せた。ディダンも無言で後退る。
「……十日後、《神託ノ地ヴァルチケィア》にてシャグライ、ラムレイルグ連合軍と会戦する。全兵万全に備えよ」
 リストリアンスの端正な顔が、醜く歪む。ダルラの横でユニは、怯えた様子で息を呑んでいた。
 リスタ、否、リストリアンスが今、浮かべている卑しい笑顔。ルドウィルはこの時、初めて見た。ずっと、リスタはいつもニコニコ笑ってて、優しい人だと思っていた。時たま怖いことは言ったりはするけれども。けれど、今のこの顔を見て、それまでの印象は、確かに今、粉々に砕かれ散り、消し飛んだ。
 優しく笑いながら、隠してたんだ。
 こんなに醜い本性を。
 だがその目にうっすらと浮かぶ、涙の理由。ルドウィルには、分からなかった。
「承知した」
 面を下に向けるケリス、ディダンも同時に面を下へと向けた。
「ですが……」
「……」
「〈神護ノ十剣トウィンガル・ラン・アルダン〉には特別に権利を与えましょう」
「権利、とは?」
 ディダンが問いながらまた一歩、後ろに下がった。
「……山の愚者に味方し敢えて負け戦に興じるか、〈神護ノ十剣トウィンガル・ラン・アルダン〉らしく神の名の下に剣を振るうか。それを選ぶ権利を」
 何故、山ノ民サラニンとシアルン神国、特に王都民シアランとの間に深い確執があるのか。
 それが垣間、見えたような気がした。





 ぽたぽたと手に落ちる、生温い水滴。それが目から零れ落ちているものだと気付いた時には、もう動きは止まっていた。白い肌は更に白く、白の中にほんのりと残っていた筈の赤い温もりは何処へ、其処には冷たい青だけが残っていた。
 粗末な白いネグリジェから透けて見える、細く白い体に刻まれた、終に癒えることが無かった無数の傷痕。そして顔の左半分に焼き付いた、醜い火傷の痕。閉じられた瞼、頬に落ちる白い睫毛の影。傷痕さえ隠してしまえば、とても精巧に作られた美しい女性を模した傀儡にしか、もう見えなかった。
「……っ……ン……」
 握っていた手から力を少し抜いた時、その手の隙間から冷たくなった手は滑り出て、そのまま寝台にすとんと落ちる。
 本当に、何も変わって無かった。これはただ寝ているだけで、今にも起き上がって俺のことを睨んでくるんじゃないのかとさえ、思えた。
 二十年前の姿と、何も変わらない。
 皺一つないその顔。
 白い髪の艶。
 風が吹くと、髪からふわりと匂うヒェンディグの甘い香り。
 乳のように白い肌。
 柘榴のように赤い唇。
 何も、変わって無かった。
 悲しいほどに、何も。
「……ユン!!」
 言葉にもならない大声が上がる。それは、山犬の遠吠え。
 弔いと共に、何十年もの間ずっと、胸の内に秘めたままに、最期まで伝えることの無かった思いを乗せて、かつて共に過ごした山へと、轟く。

 所詮山犬の分際で女王を想うなど、してはならなかったのだ。
 初めから結ばれることなどない運命の中に、お互いあったというのに。
 やがて、脆くなった肉体と魂を繋いでいた、命というか細い糸は綻び、切れる。

 そして未来を紡ぐ運命の白い糸もまた、紡ぎ手を喪くしたことにより、綻びを見せ始めていた。