【第十二章 山犬の咆哮】

2 散る華、炎の如し


 最近、姐さんはよく泣いている。
 それも午前中、決まって店に顔を出すパヴが立ち去った後に、必ず。
 そんなエレイヌの異変に、リュンは勿論気が付いていた。そして脳裏を過るのは、いつか抱いた漠然とした不安。エレイヌが壊れてしまうのではないかという焦燥。
 どう壊れるのか、それは分からない。肉体が壊れる、というのを指しているのか、はたまたユインのように、精神が壊れるというのを指しているのか。そして、姐さんを壊すのは何なのか。寿命なのか、不運な事故なのか、ボクなのか、ラン兄なのか、それともパヴなのか。
 どちらにせよ、リュンはあまり考えたくもなかった。
「姐さんが居なくなっちゃうだなんて、そんなの考えたくもないよぉ〜」
 ケリスは現在外出中で不在であることを良いことに、我が物顔で執務室に居座るディダンに、そんなことを愚痴るのはリュン。既に時刻は、宵ノ三刻サ・サジュテ(午後十一時)を回っていた。従者たちも既に帰り、王宮にはここに寝泊まりする者たちしか居ない時刻である。
「ならば、考えなければいいだけの話じゃないですか」
 普段はケリスがその重い腰を据えている武ノ大臣の椅子に、我が物顔で腰掛けつつ、淹れたばかりの湯気がモクモクと立つ温かい紅茶を啜るディダンは、冷たい眼差しを曇っている片眼鏡越しからリュンに注ぐ。なんて冷たい奴なんだ、とリュンは口を尖らせた。
「今にエレナの姐御が死ぬわけじゃなかろうに。それならユンのほうが、私は心配ですよ。明日にでも死ぬんじゃないだろうかって。アイツに限って、今の今までこんな心配を一度もしたことがなかったと言うのに。……それにリスタも……」
「もうユン姉のことは忘れた、忘れたァッ! 勝手に一人で爆死したようなもんだもの、心配するのも馬鹿らしい!」
「その台詞。ファロンかクル姉さんがもし聞いていたのなら、今頃あなたは締められていたでしょうね。ルドウィルにも失望されるでしょう」
 ティーカップを受け皿に置きながらディダンは、イヒヒと笑う。
「なんだよ、人が締められる様子でも想像して笑ったって言うのか?」
「その通りで御座いますけれども?」
「……ダンなんか大ッ嫌いだ」
「じゃあ早くこの部屋から出ていけばいいじゃないですか」
 ぎろり。ゲジ眉の下の茶色い目が、冷ややかにリュンを睨み据えている。
「というかそもそも、この部屋はダンの所有物じゃないよね。少なくともこの部屋もその椅子も、キャスのものだと思うんだけど」
 リュンも負けじと、武ノ大臣の椅子を指す。
 それは黒革のちょっと固そうな、ただの椅子。だがそれが《光帝シサカ》の玉座と同じように、権力の象徴であることには変わりない。
「将来的には私のものになるんですから、別に構いやしないでしょう」
 ディダンは平然と、そう言ってのける。そして白手袋を嵌めた手で肘置きをポンっと叩き、しまいには脚を組んでさえみせた。
 その椅子に座っている時のキャス以上に、偉そうに威張ってやがる。
 リュンはそう感じ、イラッときた。
「なんだかその思考回路、納得がいかないね。まるでもう〈聖堂カリヴァナ〉確定みたいな。まさかだけど、キャスに対する暗殺とか計画してないよね」
「それはあり得ませんよ。まだあの人には、仕事をしてもらわないと困りますからねぇ。防げなかったシエングランゲラという災いの種を、処分してもらわなくては。私が〈聖堂カリヴァナ〉になるのは、その後ですよ。それにその頃にはもう、ケリスだって寿命も尽きて死んでるでしょう。わざわざ暗殺などという策を敷く必要もありません」
「本当に恐ろしいよね、ダンって。ヤダやだ、怖い怖い」
「人を殺して盗みを働いていたような人に言われたくはありませんね、神速のリュンさん」
「ボクだって、自分の家を燃やして火事にしておきながら、その家の残党を全員残らず斬り殺せってパヴに命令したような人に言われたくないよ。ディドラグリュル・ダナディラン・ドレインスさん?」
 それもそうかもしれませんね、とディダンはリュンの言葉を軽く躱す。その時、執務室の扉を叩く音が聞こえた。
「こんな時間に誰だろ」
「入りなさい」
 入って来たのは、目の下に隈を作ったラントだった。普段であればこの部屋に入る際に一度、扉の前で一礼をするのが作法なのだが、その一礼をする対象、要するに武ノ大臣ケリスが居ないことを良いことに、ラントはズカズカとディダンの静止を無視して執務室に上がり込む。そしてリュンの肩を掴むと、口を開いた。
「おい、リュン」
「なんだよラン兄、いきなりさ」
「エレイヌがなんだ、と言ったんだ」
 首を傾げるリュン。なんでラン兄がエレナ姐さんのことに首突っ込んでくるの、とリュンは言う。「ラン兄は何も関係ないじゃん。これはボクとエレナ姐さんの話だよ」
「関係無くはない。もっと言えば、部外者はお前のほうだ」
 リュンの肩を掴むラントの手。力が次第に強くなっていく。なんだか様子がおかしい。そう感じたのはリュンだけではない、ディダンもまた、そう感じ取っていた。
「どうしたの、ラン兄。なんか、変だよ?」
「俺は別に、おかしくもなんともない」
「でも、ラン兄……」
「いいから吐け、リュン。エレイヌが、どうした」
「だから、別に」
「エレイヌがどうしたって言うんだ!」
 大声を上げ、ラントはリュンの肩を大きく揺さぶる。突然のことに驚いたリュンは、固まって動けなくなっていた。ただ中途半端に開け広げられた口はパクパクと動き、見開かれた緑の目はラントの目を見ている。
「ラント。落ち着きなさい」
 ディダンは椅子から立ち上がり、ラントとリュンの間に割って入る。そしてリュンの肩を掴んでいたラントの手首を、ディダンは握った。お前は黙っていろ。そうラントに突き飛ばされそうになった瞬間、ディダンは即座に、その小柄で細い体を捻った。
「……ダンッ!?」
 床に背中から倒れ込んだラントの腹をディダンは踏みつけると、ベルトから木刀〈道化師ジェイスク〉を抜き、鞘を投げ捨て、木製の偽物の刀身を捻って外すと、その内側に隠されていた冷たい白刃の切っ先を、ラントの首筋に当てた。
「話は、あなたが落ち着いてからしましょう。あのやり方では、リュンがチビるだけです」
「ちょっと!?」
「……ディダン、お前」
「座り仕事ばかりをやっているからと馬鹿にされては困りますね。これでも、かの剣豪から体術の一つや二つくらいは仕込まれているのですから。それも、あなたやファルロンのような力任せの非合理的な術じゃない。相手の力を利用し、そのままお返しして、そこから更に捩じ伏せるという、とても合理的な術を、ね」
 ディダンは〈道化師ジェイスク〉を鞘に納めると、ラントに手を貸し立ち上がらせた。
「さあ。では、その話とやらを始めますか」
 外では雷の音が鳴っている。雨だ。それも、土砂降りの。
「それとも、これからお二人さんでギャランハルダにでも行ってきますか?」
 ディダンが無邪気な笑顔を浮かべる。リュンは一声、えー、と叫んだ。





 ずっと、封じ込めてた。
 ただの夢だと思って、全てに蓋をしてたの。
 今の、今まで、ずっと。

「エレイヌ」

 薄々、気付いてたの。
 どうして私を、あの時助けてくれたのかも。
 なんでこんなにも、私のことを気を掛けてくれるのかも。
 全部、分かってたの。

「落ち着け」

 でも、困らせたくなくて。
 否定されるのが、怖くて。
 今までずっと、口に出せなかったの。
 勝手よね、ほんと。
 もっと早く伝えられてたら、あの子だって、あんな風にならなかったのに。

「落ち着け、エレイヌ」
「その名前で呼ばないでよ! もう演技なんてやめて! 全部、分かってるの。思い出したのよ。だから……!」
 エレイヌが、泣いていた。あの強情なエレイヌが、パヴァルの腕の中で、泣いていた。
「……」
 土砂降りの雨の中、ラントは閉められた店の前に立ち竦んでいた。差していた傘が、ラントの手から滑り落ちる。それを寸でのところで受け止めたリュンは、呆然と佇むラントの代わりにその傘を差してやった。
 リュンもまた、大きな緑色の目でエレイヌとパヴァルをじっと見ていた。あの二人の間に、どんな接点があるのか。そんなことは、ヴィディアから一度伝え聞いたくらいでしかなかった。

 お母さんに捨てられたエレナちゃんを、パヴが代わりに育てたんよ。
 今の今まで、ずっと。
 だから、親子も同然なんや。
 本人たちは、というかパヴが、あんまし話したがらんのやけどね。

「…………パヴは、姐さんの」
 お父さん、だったんだ。
 リュンやラントたちからは、パヴァルの後姿しか見えはしなかった。パヴァルが今、どんな表情を浮かべているのか。エレイヌがどんな顔をしているのか。そんなものなど、見えはしなかった。ただ見えるのは、パヴァルがエレイヌの頭を、あの青い手袋をはめた手で宥めるように撫でているという姿だけ。でもそれで、充分だった。戻ろうよ、ラン兄。そうリュンが言おうとした時だった。
「……父さん、なんでしょ?」
「ああ、確かに俺はお前の父親代わりだったかもしれない。だが俺は」
「違う、もうやめて! どうして、そうやって嘘ばっかり吐くの?! あなたはパヴァルじゃない、独眼の水龍なんかじゃない! 私の父親、ペルモンド・バルロッツィ、そうなんでしょ!」
 パヴァルじゃない。
 その後にエレイヌの口から飛びだした名前は、聞き慣れないものだった。でも、その言葉を聞いた時にパヴァルの肩が一瞬、上がった。
 何が何だか、分からない。
 まるで別の世界の話を聞かされているようだ、とリュンは思った。
「……」
「なんで、なんで黙るのよ。答えてよ、ねぇ!」
 パヴァルは固まったまま、何も答えない。だがその背中には、焦りが見えた。
「ラントだって、違う。ラントじゃなくて、レーニン。そうなんでしょ?」
「……」
「シルス卿だって、シアルなんて名前じゃない。シルスウォッド・エルトル。レーニンの、お父さん。〈 大神術師アル・シャ・ガ〉さまだって、ユン坊ちゃんだって、ユニだって、全部、全部が……!」
「エレイヌ」
「だから私は、私はエレイヌなんかじゃないんでしょ! 私は……」
「エリーヌ。分かった、全部話そう」
 時が、止まったようだった。
 エレイヌは声を上げるのを止め、パヴァルもエレイヌを抱きしめたまま動くことは無く、ラントは目を見開いたまま硬直し、リュンはただラントを見ていた。
「……そんな、まさか……」
「……ラン兄……?」
 ラントが挙動不審な動きを見せ始める。
「……嘘だ、全部夢だ、夢だった、夢なんだ……!」
 俺は、お前の
「もうやめてくれ!」
 大声を上げたラントは、声を上げた事によって力果てたかのように、その場に膝をついた。土砂降りの雨が降る中、水溜りの中に。泥水が撥ね、リュンの顔に飛んだ。ラントの服が徐々に濡れていく。それでも彼は、そんなことを気に留めているようには思えなかった。
「……なにバカげたこと言ってんだよ。夢なんだろ、全部。俺が俺じゃなかったら、一体なんだって言うんだよ……!」
「ラン兄まで、どうしたっていうのさ……?!」
 ラントの虚ろな目が、リュンを見る。その時だった。
「……姐さん?!」
 リュンは見た。裏口が開いたのを。そして裏口から伸びる、紅い篭手。神国軍の、その証。その腕から店の中に投げ込まれた火炎瓶。
 危ない。
 リュンが本能的に動こうとした時には、もう遅かった。飛び込もうとした店の扉から、火の手が吹きあがる。
「姐さん、パヴ! ねぇ!?」
 叫び声を上げるも、それは虚しく土砂降りの雨に遮られ、掻き消された。
「姐さん! パヴ! 生きてるなら返事して、返事してよ!!」
 荒れ野の希望ギャランハルダ
 そう呼ばれた酒場は、業火に包まれていった。





「エレナ」
「全部、聞いてたんでしょ」
 ヴィディアから火傷の手当てを受けたエレイヌは、医務室の外で待っていたラントを睨め付けた。その殺気に慄いたラントは、後ろに半歩後退る。
「答えなさいよ」
「……全部、ではない。けれど聞いていた」
 ラントの左頬を、エレイヌは平手で打った。更に火傷を負った右手首に当てていた氷袋で再びラントを殴りつけると、清々したというような表情でラントを見る。その目はいつか見たユインのように、生気が宿っていなかった。
「アンタ、なんでしょ」
「……」
「パヴァルに火炎瓶、投げつけたのは」
「……それは俺じゃない!」
「嘘言わないでよ」
 いやに、感情の籠っていない覇気の無い声だった。エレイヌだったら、今頃顔を真っ赤にして大声を上げて怒鳴り散らして、怒っているはずなのに。
 それなのに。
「アンタ以外に、誰が居るっていうの?」
 色の違う目には、怒りの炎を燈ってない。疑いを掛ける冷たい視線だけが、ラントに注がれていた。
「だから、俺は違うと」
「あの時あの場所で、パヴに対して殺意を抱いていたのアンタしか居なかったでしょ」
「違うよ、姐さん。落ち着いて」
 慌てて駆け付けたリュンが、ラントとエレイヌの間に割り込む。そしてエレイヌのほうに向くと、リュンは彼女の目を見ながら、宥めるように言った。
「ボクとラン兄が居たのは表口。あの時、火炎瓶が投げ入れられたのは裏口だった。それも神国軍の赤い篭手が見えたから、だからあれは神国軍の仕業。アルダンの情報網、その要である二人をまとめて潰そうとしたんだよ、きっと。それにラン兄は変なとこ弱虫だから、人なんか殺せない。屋内に入り込んだ蠅一匹だって殺さないで外に逃がすような人なのに、いきなりパヴを手に掛けようなんて、できっこないよ。それにパヴなんてあんな人だから、敵も多いじゃん。ラン兄に限るのは無理があるよ」
「……そう、だったわね。疑ったりなんかして、ごめんなさい」
 俯き、肩を竦めるエレイヌは小声で謝る。ラントは黙ったまま、打たれた左頬をさすった。
 痛いというよりも、焼けるように熱い。冷たいもので打たれて熱いと感じるというのもおかしな話だ、とラントは心の中で悪態を吐いた。と、その時。ユインから譲り受けた薬箱を担いだルドウィルが、三人の前に現れる。
「あっ、丁度いいところに姐御じゃないか。火傷は大丈夫だった?」
「私は大丈夫、大したことない。それよりパヴァルはどうなの?」
 不安げなエレイヌをよそにルドウィルは、きょとんと首を傾げる。猫目が驚いたように大きく開いた。
「大丈夫もなにも、ピンピンしてるよ」
「……背中に酷い火傷を負ってたと思うんだけど……」
「いいや。だって、猛毒トラグロテでも死ななかった不死身の独眼の水龍さまだよ? 一応オレも疑ってかかって上を全部脱いでもらったけど、火傷もなにも無かったし。ただ、今は睡眠薬入りの水を無理矢理飲ませたから軽く眠ってる。けど心配はいらないよ、大丈夫さ」
 にこりと笑うルドウィル。嘘偽りなさそうな笑顔の裏には、取り敢えず何もなさそうだった。
「というか、ほら。もう夜も遅いし。姉御も疲れてるんじゃないの? 空き部屋なら事務所にはいっぱいあるんだし、取り敢えず今は寝たほうがいいよ。ランもそうだけど、顔色悪いって」
 ルドウィルはそう言いながら、ラントとエレイヌの背をポンッと押す。リュンもルドウィルの言葉に乗っかった。
「そうだよ、ウィルの言う通りだって。後のことについて考えるのは、今じゃなくても良いじゃん。だから今は、ね?」
「……」
「……そう、ね。今じゃなくても、それは出来るから」
 それにもうあの店は、どんなに嘆いても二度と帰ってこないんですもの。
 そう洩らしたエレイヌの横顔。リュンは何も言わずに、ただじっと見つめていた。