【第十二章 山犬の咆哮】

1 亡霊、漂い彷徨う


 何故。
 どうして。
 こうなってしまったのだろう。
 一体どこで道を間違えたというのだろう。
「……」
 誉れ高き者。
 そんな名前を持っていた、壊れた人形の成れの果ての姿。
 もうそこには、彼女独特の儚く危うい美しさという魅力は、欠片も見つけられなかった。ただ残ったのは、抜け殻だけ。元の、虚の器だけ。
「……ユン」
 目を覆い隠すよう、頭に巻かれた包帯。乱れた白い髪。猿轡を嵌められた口。動きを封じる為に、両手首に、両足首に嵌められた枷。きつく握り締められた掌は皮膚に食い込んだ爪により、血が滲み出ていた。
 クルスムは言った、もう諦めろ、と。ユンは、ユンじゃなかったんだ、と。その言葉の意味をファルロンは、理解することが出来なかった。理解したくもなかったからだ。
 ウィクも言う。ケリスも言った、ディダンも言った、ヴィディアもリュンもベンスでさえも、ファルロンに言ってきた。目を覚ませ、と。目の前の現実を、分かりきった事実を見ろ、と。現実なら、見えている。嫌というほどに。
 そしてラントが言った、エレイヌが言った、ラズミラが言った。全てを受け入れ前に進め、と。前に進もうにも、前が見えなかった。ユンと同じ。何も見えない。きっと、自分にはもう与えられてないんだろう。
「ここに居たのか、馬鹿犬。まーだソイツに未練たらたらなのか?」
 聞こえた独眼の水龍の声。言葉の後に、扉が二回叩かれる。コンコン。普通は逆だろ、と思いながらもファルロンは振り返らなかった。扉が閉まる音がする。だが変わらずファルロンの視線は、血色の悪い白い肌に落とされたまま、代わりに相手の方がファルロンの背後へと歩み寄ってきた。
「……ったく、クルスムの嬢ちゃんやらラズミラの野郎ですらも立ち直ったってのに、お前と来たら女以上に女々しくて気持ちが悪いったらありゃしねぇ」
「だから、どうした。俺はクルスムとは違う」
「そうだろうな。あの嬢ちゃんはお前さんみたく、いつまでもタラタラとだらしなく引き摺るタチじゃぁない。余計なものはさっさと切り捨て、自分なりに前に進もうとしてンだろうよ。とはいえ、それに周りの人間も盛大に振り回され巻き込まれちゃいるがな。台風みたいな奴だよ。動こうともしない、お前とは違ってな」
 パヴァルの嫌味が、豪雨のように降り注がれる。一つ一つが矢のような雨粒。だがファルロンは、特段躱そうともしなかった。ただ、矢をそのまま受け止める。反撃もしない。実際に、その通りなのだから。そう開き直っていたのだ。ただ黙って、何も感じない心を忌々しく思いながら。
「まあ、な。ケリスの野郎はお怒り気味だが、俺は別になんとも思っちゃいねぇよ。お前がこうして職務を放棄し、タラタラと時間潰していてもな」
「そうか」
「ただし、命令が下ればその時はお前を処分する。ディダンは今すぐにでも下したがっているが、ケリスがそれを止めてんのさ。だがそれも、いつまで続くかは、俺も知らん。〈聖堂カリヴァナ〉に愛想を尽かされれば、それが最期だ」
 そう言いながら、パヴァルはファルロンの腰に下げられていた獣剣〈咆哮ベイグラン〉を奪い取った。だがファルロンは、それを止めなかった。取り返すこともしなかった。一瞬、パヴァルの顔を見ただけ。その時に見えたパヴァルの蒼い目は、どこまでも冷めきっていた。
「〈聖堂カリヴァナ〉からの命令だ。コイツは、没収。次に俺がここに来る時にゃ、お前の命はないものだと思え」
「好きにすればいい」
「……」
「用が済んだなら、さっさと去ってくれないか」
 ファルロンは、そう言う。その後に返ってきた言葉。
 お前は、どこまでも馬鹿犬だ。
 その声には先ほどまでの飄々とした調子は無く、単調で抑揚もなければ声量もない、小さくありながらも研がれた刃のように鋭い呟きに変わっていた。
「……幾らお前が待ったところで、ユインに死が訪れることはない。だが、お前はいずれ死ぬ。明日、明後日、一ヶ月後、一年後、ン十年後。いつ訪れるかは俺が知ったことでは無い。だが、そう遠くないうちにな。お前は死ぬ。死ぬことが出来る。だが、ユインはその選択肢を自分で採ることが出来ない。苦しかろうが死にたがろうが何だろうが、逃げることが出来ない。分かるか、その苦しみが」
「…………」
「ユインは、生きていない。地に縛られ、漂い彷徨い続ける亡霊のようなものだ。生きてもいなければ、死んでもいない。死を選べないからこそ、生を選べない。そんな化け物の為に人生を自ら望んで潰すというのは、馬鹿げていると思わないのか?」
「別に。馬鹿でも構わない」
「……そうか、ならいい。折角の一度しか与えられなかった人生を、精々無能に潰すといいだろう」
 パヴァルはファルロンに背を向け、立ち去ろうとする。その腕を、ファルロンは瞬時に掴んだ。
「……お前に、お前にユンの何が分かるって言うんだ。なに知った口を聞いてンだよ!!」
「少なくとも、テメェよりもよく理解出来ているつもりだ」
「ンだと?!」
「俺もユインとさして変わらん、亡霊だからな」
「……ッ?!」
「……それにな、ユインはお前のことなんざ眼中になかっただろうよ。だからこそ、アイツは苦しんでんだ」
 ファルロンの手を振り解き、その場を去っていくパヴァル。藍晶を羽織ったその背中は、光も射さぬほど深い哀しみの翳に蹂躙されていた。