【第十章 湖の白烏】

4 レーニン


 《光帝シサカ》継承ノ儀。その際にユインが暴走し、意識不明の昏睡状態に陥ってから、早くも一月が過ぎようとしていた。
「……エレイヌ?」
 継承ノ儀の混乱を巻き起こした張本人、リストリアンスは今や自由の身となっていた。元来、武ノ大臣であるケリス・シャドロフを快く思っていなかった法ノ大臣ヤンダル・ガルト・ヴァルダスにより、解放されたのである。
 そうして晴れて自由の身となったリスタ改めリストリアンスは、今や《光帝シサカ》代理という肩書を騙っていた。
「エレナ。どうして、お前がここに」
 昏睡状態のユインが収容されている、政務室横の一室。その前をラントが通り過ぎようとした際に、半開きになっていた扉から見えたのはエレイヌの背中。それがラントには気になり、気がつけば無意識のうちに部屋の中に入っていた。
 ラントの声に気がついたエレイヌは、握りしめていたユインの白く傷だらけの手を離し、振り返る。その眼が血走っているのを、ラントは捉えた。
「居たら、なにか悪いことでもあるっていうの?」
 目から零れた一筋の涙を手で拭いながらエレイヌは、ラントを睨んだ。普段の調子を、無理して繕っている。そんなことくらい、愚鈍なラントにも分かっていた。
「いや、王宮にお前が来るというのが珍しいから、つい……」
「ユン坊ちゃんの顔、見に来ただけよ」
 再びエレイヌは、寝台に目を閉じ横たわったまま、目覚めることのないユインに視線を戻した。
「私がもしあの場に居たのなら、何か出来たことがあったのかなって思うとね。なんだか、辛くなるのよ。ユン坊ちゃんのほうが私の数十倍、数百倍も辛かったなんてことぐらい、勿論分かってるのよ。でも」
「あの場に居たとしても、きっと誰にも何も出来やしなかっただろう」
「どこかで聞いたことある台詞ね」
「……エレナ」
「リッちゃんのときも、アンタは同じことを言ってた。アンタはそう言って、また見殺しに」
「落ち着け、エレナ」
「……」
 ラント自身、あの時は現場に居合わせていなかった。ディダンから、シェリアラを連れて部屋に戻れという身ぶり手ぶりの指示が出て、事件が起きる前にシェリアラを連れて会場を去っていたからだ。
 けれども人混みに紛れながらシェリアラを部屋に送り届けるその途中で、耳を塞ぎたくなるような汚らしい悲鳴は聞いていた。苦しがっているのか、怯えているのか、泣いているのか、怒っているのか、笑っているのか。複数の歪んだ感情が入り乱れた、薄気味悪い悲鳴だった。後にベンスから、その悲鳴の主はユインだったと聞かされた時、リストリアンスが行った非道な行いを聞かされた時、ラントは吐き気を覚えたのだ。
『リストリアンスはユインの目の前で育ての親を殺した上に、ユインの両目を抉り取った』
 ラントも、ユインを見ていたから分かる。クソジジィ、と口先では言いながらも、どれだけユインがメズンを尊敬していたか、拠り所としていたか、愛し愛されていたか。声を失くしたあと、切れかかっていたユインの理性を首の皮一枚で辛うじて繋ぎ止めていたのも、メズンがそこに居たからだ。そうでもなければあの暗闇の中で独り、とっくに壊れていただろう。
 だからこそ、ただでさえ複雑な過去を背負った脆い心を、リストリアンスは壊すことを目的としていた。
 許せなかった。
 あんな醜いやつを一度でも身内だと思った自分が、許せなかった。
 だが同時に、あれは本当に“リスタ”がやったことなのだろうかと疑問に思う自分も居た。
 あんな心優しいやつが、自分の野望を果たす為だけに人を傷つけることができるのだろうかと。
 そもそもあれは、“リスタ”が企てたものだったのかと。
 もしかしてアイツは、何者かに脅されていたのではないのかと。
 そう、思いたかった。そう、信じたかった。
「……でも。その台詞をさ、その場に居た人たちに言えるの、アンタは」
 エレイヌの指が、ユインの頬を撫でる。血色の悪い、白い肌。エレイヌの顔からも、血の気が失せていくようにラントは感じた。
「人が引いた後にね。私、あの会場に戻ったのよ。その時丁度、出て行くシルス卿とベンちゃんとすれ違った」
「そう、だったのか」
「メズンさんは倒れてて、ユニちゃんはダルラ卿の胸を借りて泣いてて、フリアちゃんもルー坊もスザンくんもファロンちゃんもおりゅんちゃんも、ただ茫然としてて」
「……」
「……クルちゃんは、泣いてたかな。ウィクっぺそんの鬣に顔を突っ込んで、泣いてた。彼女らしくなかった、本当に」
 あの場において、秩序なんてものは存在しなかった。道徳も倫理も同じく、天秤にかけられることすらもなかった。混沌としていた。阿鼻叫喚だけが入り乱れていた。予定外の血が流れてしまった。だがそれを引き起こした本人は罰を受けないどころか、自由の身となっている。
「……」
 シルスウォッド卿もリストリアンスなど生かしてなどおかずに、災禍の種が芽吹くその前に握り潰しておけば良かった。
 まだ子供の頃のうちに、“リスタ”など葬ってしまえば良かっただけなのではないのか。
 そうすれば、こんな事件は起きずに済んだというのに。
 でも、納得がいかない。
 どうして“リスタ”は、あんなことをしたのだ。
「ラン?」
 振り向いていたエレイヌが、ラントの顔をまじまじと見つめていた。そしてエレイヌは、ラントの左頬を指差す。
「白い羽みたいなのが、顔についてるけど」
「……ん?」
 ラントは頬に付いていた小さな羽根を引き抜く。痛ッ、と小声で呟いた。





 妃は私が見ておきますと、レグサがそう言っていた。
「そこまで顔色が悪いか?」

 顔色が悪すぎます。
 あなた様は、どうか今日一日お休みくださいませ。
 あとで私めから、〈聖堂カリヴァナ〉さまにお伝えしておきますので。

「……髭は剃るか」
 レグサにそう諭され朝一に早退きをさせられたラントであったが、事務所に戻り、洗面所に設置されている鏡を見ても、特段顔色が悪いとは思えなかった。それに、体調が悪いというわけでもなく、普段と大して変わらないつもりだった。
「……」
 とはいえ、目の下に隈が出来ているのは分かっていた。何故ならここ数日、あまり眠れた気がしていないのだ。
 横になり、目を閉じる。眠りにもついていないというのに、瞼を閉じるだけで夢のようなものを見るのだ。瞬きをするだけでも、視界を過る。それも、とても不快な夢。出来れば見たくもない夢だった。だから自然と、眠れなくなった。目を閉じるのが、嫌になってきていたのだ。
「……剃刀、剃刀がないぞ……」
 本当に、あれは嫌な夢だ。
 あの夢の中で自分は、レーニンと呼ばれていた。子供だった。二、三歳ほどの子供。そして何処かすらも知らないような、無機質な冷たい鉄の壁に覆われた屋内の中を、走る白い服を着た男の腕に抱えられながら、後方に向かって泣き叫んでいた。

 お父さん、一緒に来てよ、お父さん!

 自分を担ぐ男のもう片腕には、別の少女が担がれている。そして男の背中には、また別の少女が男の首にしがみつくように背負われていた。でも、顔が見えない。まるで靄が掛かっているかのように、顔だけが不鮮明なのだ。担がれている少女も、背負われている少女も、男の顔も。
「あった。……全く。誰だ、こんな所に置いた奴は」

 嫌だ、下ろして! 行きたくない!

 そんなことも、言っていた気がする。それでも男はその声を無視し、走る。まるで、何かから逃げているかのように。男は焦っていた。それだけは、伝わってきていた。

 お父さん、お父さん!!

 そう叫びながら、遥か後ろの手の届かないところに向かって、手を伸ばす。そこでいつも、夢は終わった。いや、続きが見たくなくて、毎回飛び起きていたのだ。何故だろう。見てはいけないような気がしていたのだ。見てしまったのなら最後、今までの全てが崩れ去ってしまうのではないのかという危機感を、感じ取っていたからだ。
「ラン兄じゃん。こんなとこで何してんの」
「……っ?!」
 突然聞こえたリュンの声。驚いたラントの手から、握っていた剃刀が滑り落ちる。そして滑り落ちる際に剃刀の鋭い刃は、掴もうとしたラントの右手中指の腹を切っていった。焼けるような痛みが指先から脊髄へと走り、驚いた拍子に全身の筋肉から力が抜け、思わず膝を床に打ち付けた。その拍子に額を洗面器の淵にぶつけた。ガンッ、と鈍くも痛々しい音が鳴る。ラントはぶつけた額を左手で押さえた。
「うっわ、痛そう」
「リュン、驚かしてくれるな! こっちは今、刃物を……」
「あー、ハイハイ。ごめんってば。剃刀持ってるだなんて思わなかったんだもん」
 それにしても顔色悪いね、とリュンは言う。レグサにも言われたが、そんなにも俺の顔色が悪いのか、とラントは訊ね返した。
「物凄く悪いよ。ユン姉みたいに、顔が真っ白」
「白いのは元からだろ」
「違う違う、いつも以上。でもさ、よく色が白い女の人を美白美人だなんていうけど、白すぎるのは白すぎるで気味悪いよね。まるで血の気が通ってないみたいで。ユン姉だって、めっちゃ不健康にしか見えなかったし」
 そう言いながらラントに近づいてきたリュンは、立ち上がったラントの頭を鏡に向けさせる。
「ね、酷い顔してるでしょ」
「……確かに、そうだな」
 横に並んでいるリュンと比べれば、たしかにラントの顔色は悪い。リュンの言うとおり、改めてよく見てみると普段以上に顔が白くなっているのが分かった。
「髭の処理なんて後ででもできるんだから、今は先に寝ちゃったら?」
「いや、別にこれくらい」
「いやいやいや、逆にお願い。今すぐ寝てよ。なんだか今にも倒れちゃいそうな顔してるからさ。それに剃刀持ちながら気絶して、それで手首をザシュッ、なーんてなったら大変だし」
 だからレグサのお婆さんが王宮からラン兄を追い出したんだよ、とリュンは言い、ラントの手から剃刀を取り上げる。分かったよ、とラントは自室に向かおうと足を一歩前へと進めた時、体から力が抜け落ちた。




 目が覚めた時、ラントは自分の部屋に居た。それも敷かれていた寝具の上で、仰向けになっていた。
「……」
 全開になっていた窓から差し込む光は、陽の光ではなく月の光。もう夜になっていたのだ。
 どれくらい寝ていたのか。きっと今は、深夜なのだろう。リュンとベンス、フリアのどんちゃん騒ぎが下の階から聞こえてくる。おおよそ、ベンスがまた何か重要なものを失くしたのだろう。ベンスの物をすぐに失くす性格はいつになったら治るのだろうか、と呆れたように笑みを浮かべながらラントは、嫌な汗に濡れた体に違和感を覚えた。
「……なんだ、これは」
 また、あの夢だった。
 泣き叫んでいた。後ろに向かって。もう見飽きた夢。手を伸ばして、でも届かなくて。けれど今回は、その続きも見ていた。

 お前は行け、行くんだ!

 子供を抱えている男とはまた別の、違う男の怒号が聞こえる。長く続く廊下のずっと先、開いていた扉から男の顔が見えていた。

 私のことなど、構わなくていい!!
 走れ、ペルモンド!

 走る男の歩幅が大きくなる。そして遥か彼方に見えた、男の影。枯草色の髪だった。強張った目元に光っているのは、青い目。
 その男は、とてもあの人に似ていた。
「……羽根……」
 ラントは、それまで頭を預けていた枕を見た。白い枕の上に散らばっているのは、短く白い羽根たち。それは枕だけでなく、床にも広がっていた。寝ている間に鳥でも入ってきたのだろうか。そんなことを思いながらラントは、ふと自分の腕を見る。
「…………?!」
 腕に、生えていたのだ。白い羽根が、何本も。
 それも腕だけではない。足にも、胴にも、首にも、顔にも。
 ラントは掻き毟るように羽根を全て引き抜く。赤くなった肌。そこには鳥肌のように、プツプツとした痕が残されていた。